2017年 08月 28日 ( 1 )

 

おんな城主 直虎 第34話「隠し港の龍雲丸」 ~堀川城の戦い~

 前回、あまりにも衝撃的な結末に、歴史の話をまったくしなかった(する気にならなかった)ので、今回は史実解説を中心にいきます。


 永禄11年(1568年)12月、井伊谷城を攻略した徳川家康は、駿河国今川領を侵攻する武田信玄に加勢すべく遠江国の今川領へ侵攻し、年内に引間城を攻略。その後も家康は今川氏真の籠る掛川城を包囲すべく、侵攻を続けます。しかし、今川方も粘りを見せ、久野城久野宗能高天神城小笠原氏助らは徳川方に帰順しましたが、堀江城大沢基胤と同一族の中安種豊は、反徳川を鮮明にしていました。家康は思った以上に苦戦を強いられることとなります。


 そんな状況下、永禄12年(1569年)3月、気賀の地侍や農民が一揆を起こし、湖岸にある堀川城に女も含めた2,000人が立て籠もるという事態が起きます。この一揆は、竹田高正、山村修理、尾藤主膳らをはじめとする武装蜂起した民たちが中心で、徳川氏の遠江国支配を嫌う親今川氏の最大級の反乱でした。3月27日、家康は3,000の兵をもって堀川城攻めを開始。ドラマでもありましたが、堀川城は干潮時陸続きですが、満潮時には城に行くのに船が必要だったといいます。徳川軍は最初の攻撃は満潮時だったため上手く攻められずに兵を引きますが、2回目の攻撃は干潮時だったため、凄まじい攻撃でたちまち城を落としました。


 『改正三河後風土記』によると、堀川城に籠っていた兵108人が首を討たれたが、烏合の一揆衆寛仁の沙汰によって赦された、とあります。しかし、徳川家家臣の大久保彦左衛門忠教が記した『三河物語』では、約1,000人なで斬りにされたと伝えています。徳川びいきの記述が目立つ『三河物語』が伝えることですから、ほぼ事実と見ていいのでしょう。同じく『三河物語』によると、700人の村人が捕虜となり、9月9日に首をはねられたとあります。そしてその首を小川に沿った道に晒したといわれ、その場所は「獄門畷」と呼ばれるようになり、現在に至るそうです。


ドラマでは、家康は直接関わっておらず、すべて重臣の酒井忠次が計画したことになっていましたが、皆殺しにするか情けをかけて恩を売るか、といった重要な政治的判断を家臣に任せるなどは考えづらく、たぶん、家康の命令で行われたと考えられます。家康はよほど虫の居所が悪かったのか、それとも、見せしめを必要とするほど何かを恐れていたのか、いずれにせよ、当時の気賀の住民の半数以上が犠牲となったといいますから、まさに「大虐殺」といっていいでしょう。家康の黒歴史です。


 さて、少しだけドラマに戻って、巷では「政次ロス」という言葉が飛び交っていますが、もっとも「政次ロス」に罹っていたのは、どうやら井伊直虎本人だったようです。あの状態を記憶喪失というのか現実逃避というべきか、いずれにせよ、政次の死をなかったことにしたいという強烈な思いが、直虎の心を支配している状態なんでしょう。最も大切な人を自分の手で殺した経験がないので、どうにもわかりかねますが・・・。印象的なのは、前話の政次処刑の前も後も、直虎は一度も涙を流してないんですよね。それが、辞世の句を読んで、はじめて涙がこぼれた。やはり、直虎は何かに取り憑かれていたというか、自分の心とは真逆の行動を自らに強いたとき、人は心を失ってしまうのかもしれません。それが、辞世を読んで心を取り戻し、自然、涙が出た。細かい心理描写ですね。あの壮絶な処刑シーンで涙を流さない柴咲コウさんの迫真の演技感服です。


 あれっ? また前回の話になっちゃいました。やっぱ、わたしも「政次ロス」のようです。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓

にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ


[PR]

by sakanoueno-kumo | 2017-08-28 19:42 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)