2017年 09月 08日 ( 1 )

 

太平記を歩く。 その119 「燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地」 福井県福井市

福井市にある新田義貞戦没地と伝わる地を訪れました。

このあたりはかつて燈明寺畷といい、「燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地」として大正13年(1924年)に国の史跡に指定されています。


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敷地は公園整備されていて誰でも入れますが、一応、入口には門扉があり、厳かな雰囲気が漂います。


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門扉には、新田氏家紋の「一つ引」が。


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前稿、前々稿でもふれましたが、延元3年/建武5年(1338年)7月2日、足利方の大将・斯波高経が籠っていた小黒丸城を包囲していた新田義貞は、別動隊が攻めていた藤島城がいつまでも落城しないため、わずか50騎を従えて偵察に向かいます。


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ところが、同じく藤島城に加勢するため小黒丸城からも高経の重臣・細川出羽上鹿草彦太率いる300騎が出動しており、義貞率いる50騎とこの地で遭遇します。

事態はたちまち遭遇戦となりますが、、斯波方は援軍目的の出撃だったため弓矢の備えも十分であったのに対し、義貞方は偵察目的だったため武具の備えも不十分で、加えて兵力差も歴然としており、義貞方の兵は次々に敵の矢に倒れます。

やがて義貞も流れ矢眉間に刺さり、あっけなく討死します。


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『太平記』巻20「義貞自害事」は、このときの様子をこう伝えます。


「白羽の矢一筋、真向のはづれ、眉間の真中にぞ立たりける。急所の痛手なれば、一矢に目くれ心迷ひければ、義貞今は叶はじとや思けん、抜たる太刀を左の手に取渡し、自ら頚をかき切て、深泥の中に蔵して、其上に横てぞ伏給ひける。」


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致命傷を負った義貞は観念し、自らを太刀で掻き切り、その首を深い泥の中に隠してその上に倒れたというのですが、眉間に矢が刺さったら、ほぼ即死だと思いますし、自分の首を自分で掻き切って隠すなんて、あり得ないというか・・・。


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また、『太平記』によると、敵兵に遭遇した際、義貞の家臣・中野藤内左衛門宗昌が、「千の弩は為廿日鼠不発機(千鈞もある石弓は、ハツカネズミ(けい鼠)を捕るために使用しない)」と言って義貞に落ち延びるよう誓願したといいます。

つまり、「総大将はこの程度の戦いに参戦してはいけない」という意味ですね。

しかし義貞は、「失士独免るゝは非我意。(部下を見殺しにして自分一人生き残るのは不本意)」と言って宗昌の願いを聞き入れなかったといいます。

一見、義貞の行動は義に篤い武士道ともとれますが、『太平記』は、義貞の行動は軽率で、「身を慎んで行動すべきであったのに自ら取るに足らない戦場に赴いて、名もない兵士の矢で命を落とした」と、その死を「犬死」と評しています。

かなりの酷評ですね。


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時代は下って明暦2年(1656年)、この地を耕作していた百姓の嘉兵衛が偶然にを掘り出し、芋桶に使っていたところ、福井藩の軍学者・井原番右衛門がこれを目にし、象嵌「元応元年八月相模国」の銘文から新田義貞着用のものと鑑定。

その4年後には「暦応元年閏七月二日 新田義貞戦死此所」と刻んだ石碑を建て、以後、この地は「新田塚」と呼ばれるようになりました。

現在のこのあたりの住所も、福井県福井市新田塚町といいます。


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ただ、その出土した冑は、現在の研究では戦国時代のものと鑑定されているそうです。

現在は新田一族を祀る藤島神社が所蔵しています。


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大将を失った新田軍3万は一夜にして雲散霧消し、残った兵は僅か2000

弟の脇屋義助は府中(武生)へと兵を退かざるを得ませんでした。

この顛末をみると、やはり義貞の行動は軽率だったかもしれません。



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by sakanoueno-kumo | 2017-09-08 00:48 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)