2017年 09月 15日 ( 1 )

 

太平記を歩く。 その123 「尊良親王墓所」 京都市左京区

金ヶ崎城の戦いで自害した尊良親王が、紅葉の名所として知られる京都の禅林寺(永観堂)の近くにあると知り、訪れました。


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尊良親王は後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の皇子で、『太平記』『梅松論』などには「一宮」と記されていることから、後醍醐天皇の数多い皇子のなかで最初に生まれた皇子と考えられています(大塔宮護良親王の方が先という説もあり)。

母は権大納言二条為世の娘・為子で、宗良親王が同母弟と伝わります。

幼いころに母を亡くしたこともあってか、幼少期は後醍醐天皇の側近・吉田定房に養育されました。


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元弘の乱では父帝とともに笠置山に赴くも、敗れて父と共に幕府軍に捕らえられ、土佐国に流されました。

鎌倉幕府滅亡後に京に戻った尊良親王でしたが、足利尊氏が鎌倉で反旗を翻すと、新田義貞・脇屋義助兄弟と共に討伐軍を率いますが、箱根・竹ノ下の戦いで敗北し、京へ撤退。

その後、足利尊氏が京を占領すると、幼い恒良親王とともに新田義貞に奉じられて越前国に落ち、約半年間におよぶ金ヶ崎城での籠城戦のすえ、義貞の息子・新田義顕や他の将兵らとともに自害して果てます。

享年27

尊良親王の最期については、「その110」「その111」で詳しく紹介しています。


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金ヶ崎城にて自害した尊良親王のは、京都禅林寺(永観堂)の住職・夢窓国師のもとへ送られ、葬礼のあと、この地に埋葬されたと伝わります。

つまり、ここは首塚ということですね。


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『太平記』には、尊良親王の死を知ったその后・御匣殿(みくしげどの)の深い悲しみが描かれています。

その信憑性については定かではありませんが、『太平記』によると、御匣殿には別の婚約者がいたにもかかわらず、彼女に一目惚れした尊良親王は1000通におよぶ熱烈ラブレターを送り続け、やがて自分の后にしてしまったという馴れ初めが描かれています。

今流行のゲス不倫ですね(婚約だけだから不倫にはならないかな)。

しかし、二人の幸せな結婚生活は元弘の乱以降の戦乱によって終わりを告げます。

そのときの逸話は「その9」で紹介しています。


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尊良親王の死を知って深い悲しみに打ちひしがれた御匣殿は、嘆き苦しんだ末にになり、親王の四十九日も済まない間に、その後を追うように亡くなってしまったと『太平記』は伝えます。

この話は「金ヶ崎恋物語」として後世に広く知られるようになりますが、一方で、『太平記』と同じ時代に成立した『増鏡』によると、御匣殿は元弘の乱時には既に亡くなっていたと伝えます。

どちらが事実はわかりませんが、『太平記』の伝承のほうが、ドラマチックでいいですよね。


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そんな劇的な生涯を歴史に刻んだ尊良親王の墓所の前の道が、あろうことか附近のゴミステーションになっていました。

これ、なんとかならないのかなぁ・・・。




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by sakanoueno-kumo | 2017-09-15 01:40 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)