2018年 01月 08日 ( 1 )

 

西郷どん 第1話「薩摩のやっせんぼ」 ~郷中教育~

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 明治31年(1898年)、東京・上野公園に建てられた西郷隆盛銅像除幕式から物語はスタートです。このとき、その銅像を初めて見た西郷の三番目の妻・糸子が、「わたしの夫はこんな人ではなかった・・・」と薩摩弁でつぶやいたという話は有名で、その逸話から、銅像は生前の西郷には似てないというのが定説となっていますが、「こんな人ではなかった」という言葉の意味は、こんな顔ではなかったという意味だったかどうかはわかりません。あるいは、このような格好(着流し)で出歩くような人ではなかった、という意味かもしれず、また、あるいは、このような表情をする人ではなかた、という意味かもしれません。その真意は定かではありませんが、オープニングに没後21年の場面を持ってきたのは、この糸子の台詞に、この物語の何らかの意味が込められているのかもしれませんね。

これより遡ること21年前の明治10年(1877年)、反政府軍の首領として戦場に散った西郷ですが、賊軍の将の銅像が、死後わずか21年で敵対した政府によって建てられたなんて例は、世界中探しても見当たらないそうです。そんな稀代の英雄・西郷隆盛の物語が始まりました。


 西郷隆盛の生家は鹿児島城下の下加治屋町という貧乏士族が多く住む地域で、父の西郷吉兵衛は、御小姓与勘定方小頭でした。薩摩藩の士分の家格は、大きく城下士(上士)外城士(郷士)に分けられますが、西郷家は、一応、城下士に属しました。城の近くに住めない外城士に比べて格上でしたが、城下士の中では与力についで下から二番目の低い家格でした。薩摩藩は他藩に比べて人口に対する武士の比率が際立って高く、そのため、下級武士たちの生活は貧窮を極めました。当然、西郷家もその例外ではなく、さらに、父・吉兵衛とその妻・マサ夫妻は四男三女の子宝に恵まれており、西郷家は使用人も含めて二十人近い大所帯だったといいますから、その貧窮ぶりは想像に絶するものだったに違いありません。そんな環境で西郷は育ちました。


 西郷をはじめ、薩摩人を語るに知っておかねばならないのが、薩摩藩独特の子弟教育制度である郷中教育でしょう。このシステムは16世紀末期から始まったとされ、城下士の住む地区を6つに分け、その地区ごとに「郷中(ごちゅう)」という組織を形成し、武家の男子は6、7歳になると皆、この組織に入ります。そして、6、7歳から12、3歳までを「稚児(ちご)」と称し、14、5歳から23、4歳で妻帯するまでを「二才(にせ)」と称します。郷中に入った子供たちは毎日そこに通い、互いに競うように文武の修行をしました。稚児は二才に従い、二才は稚児の世話をする。そんな生活を毎日朝から日が暮れるまで続けていたわけですから、同じ郷中の者はほとんど兄弟同様で、必然的にその団結力は強固なものとなります。この教育システムが、後年の薩摩士族の団結力に繋がっていると言われます。


 少年時代の西郷の逸話で、必ずふれなければならないのが、ドラマで描かれていた右腕の負傷です。その伝承によると、天保10年(1839年)、妙円寺参りの帰りに友人がある人物から難癖をつけられ(西郷自身という説も)、はじめ西郷はそれを制止しようとしますが、相手は鞘に差したままの刀で西郷を叩き始め、やがて、はずみで鞘が割れ、刃が西郷の右腕内側の筋を切ってしまいます。この傷は相当深かったらしく、西郷は数日間痛みと高熱に苛まれ、なんとか一命はとりとめたものの、その右腕は十分に動かすことが出来なくなってしまいました。ずっと後年、西郷とはじめて会ったイギリス公使館付通訳のアーネスト・サトウが、西郷の片腕に刀傷があることにすぐ気がついたというエピソードが残るくらいですから、よほどの深傷を負ったのでしょうね。この怪我によって西郷は剣術の修行を断念し、学問で身を立てるべく勉学に没頭するようになったと伝えられます。


この事件が、その後の西郷の人格形成進路に大きな影響を及ぼしたといっても過言ではないでしょう。少年・西郷にとっては不幸な出来事でしたが、日本の歴史にとっては、必要な出来事だったといえるかもしれません。



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by sakanoueno-kumo | 2018-01-08 01:57 | 西郷どん | Trackback(2) | Comments(2)