カテゴリ:その他ドラマ( 26 )

 

朝ドラ『あさが来た』で知ったびっくりポンな女傑、広岡浅子。 その4

e0158128_15522365.jpgさて、話をドラマに移して、主人公・あさの姉・はつについてですが、そのモデルとなった浅子の実の姉・は、浅子が嫁いだ6日後に両替商の天王寺屋五兵衛に嫁ぎますが、25歳で早逝したそうです。

また、春は浅子にとって異母姉で、しかもその母は三井の女中だったそうで、父親は本妻の子である浅子を可愛がったといいます。

ドラマとはずいぶん違いますね。
天王寺屋廃業後に和歌山でみかん農園を作ったというのもフィクションで、実際には、関東に居を移したと言われているそうです。
ただ、明治10年(1877年)頃まで天王寺屋は存在したようで、でも、そのころ春はもうこの世にいませんから、天王寺屋の没落は知らなかったと思われます。

これが大河ドラマだったら、「史実と違う!」といった批判が集まっていたでしょうが、今回のドラマでは、「はつを死なせないで」という要望がNHKに殺到したとか。

大河ファンと違って朝ドラファンは鷹揚ですね(笑)。

まあ、名前も「浅子」と「春」ではなく、「あさ」と「はつ」。

あくまでモデルですからね。

ありなんじゃないかと。

実際、太陽のようなふたりの対比が、物語の核でもありましたしね。

加島屋の成長を照らす太陽あさなら、闇に落ちた山王寺屋を照らす月明かりはつ

太陽も月も、生きていくには大切な光です。

e0158128_15524302.jpgあさの夫・新次郎は、仕事嫌いの遊び人でありながらも、妻のいちばんの理解者として描かれていますが、実在の夫・信五郎、毎日のように謡曲茶の湯といった道楽三昧で、店の経営にはあまり無関心だったようです。

明治新政府の銀目廃止によって店先に客が殺到したとき、病床の父に変わってあさを表に立たせていましたが、これも実話どおり。

経営者としての浅子の能力を見込んでいたともとれますが、単に無責任な人だったのかもしれません(笑)。

でも、もし新五郎さんがやり手の敏腕経営者だったら、経営者・広岡浅子は生まれていなかったでしょう。

その意味では、やはり広岡浅子を生み出したのは、夫の広岡信五郎といえるでしょうか?

新次郎に恋心を抱きながら番頭の亀助と結婚したおふゆのモデルは、浅子の付き人として長年身の回りの世話をした小藤という女性がモデルだそうですが、この小藤という女性、実際には浅子の夫・信五郎となって4人の子供を生んだそうです。

事業に忙しく家を空けることが多く、嫁として家の仕事を充分にできなかった浅子にかわって、小藤がその役割を担っていたそうで、浅子は小藤のこともその4人の子供のことも、終生かわいがったとか。

時代が違うと言ってしまえばそれまでですが、現代人には理解しがたい関係ですね。

当然、朝ドラ向きの話ではないので描かれません(笑)。

先日の稿でお話した五代友厚の女性関係についてもそうですが、こういう話を朝ドラでやると、視聴者がドン引きしちゃうのでしょう。

登校前の子どもも観てますしね。

やっぱ、朝は爽やか話でないと(笑)。

爽やかといえば、今回のAKB48の主題歌『365日の紙飛行機』は、爽やかないい曲ですね。

物語にぴったりな曲で、仕事中にも思わず口ずさんでしまっていました。

この曲、オジサン・オバサン世代にはどこか懐かしい歌なんですよね。

というのも、

♪あさ~の空を見あ~げて 今日という一日が~

♪いの~ち懸けてと~ ちか~った日から~

似てませんか(笑)? 

♪人生は紙飛行機 願い乗せて飛んで行くよ

風の中を力の限り ただ進むだけ

その距離を競うより どう飛んだか どこを飛んだのか

それが一番大切なんだ さあ 心のままに 365日♪

いい歌詞ですね。



さて、ドラマはもうすぐクライマックスを迎えます。

最後までどんなびっくりポンな物語を見せてくれるか、楽しみに観ましょう。

朝ドラ『あさが来た』で異彩を放つ五代友厚 その1
朝ドラ『あさが来た』で異彩を放つ五代友厚 その2
朝ドラ『あさが来た』で異彩を放つ五代友厚 その3
朝ドラ『あさが来た』で知ったびっくりポンな女傑、広岡浅子。 その1
朝ドラ『あさが来た』で知ったびっくりポンな女傑、広岡浅子。 その2
朝ドラ『あさが来た』で知ったびっくりポンな女傑、広岡浅子。 その3



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by sakanoueno-kumo | 2016-03-18 13:23 | その他ドラマ | Trackback | Comments(4)  

朝ドラ『あさが来た』で知ったびっくりポンな女傑、広岡浅子。 その3

e0158128_10215758.png広岡浅子は、その生涯でひとりだけ子どもを生みました。

ドラマでは千代という名ですが、実在の娘の名は亀子といいます。

ドラマように母に反抗的な少女時代だったかどうかはわかりませんが、母のようなキャリアウーマン気質の女性ではなかったようで、いわゆるお金持ちのお嬢様的女性だったようです。

幼少期は、多忙な浅子よりも、身の回りの世話をしていた付き人の小藤によくなついていたとか。

小藤という女性は、ドラマのおふゆのモデルになった女性です。

浅子は銀行炭鉱に飛び回っていましたから、当然だったでしょうね。

それでも、浅子の聡明さは受け継いだようで、京都府高等女学校を卒業。

その後、一柳子爵家の次男・恵三を婿養子に迎え、一男四女に恵まれました。

亀子の夫となった一柳恵三(広岡恵三)という人がスゴイ人で、実家は旧播磨国小野藩主・一柳末徳の次男。

世が世なら、お殿様になっていたかもしれない人物でした。

ふたりが結婚したのは明治34年(1901年)だったそうですが、明治維新から30年以上経ったこの頃には、大名家の息子が商家の婿養子になるほど、世の中は変わってきていたんですね。

一昔前なら、浅子たちは地べたに平伏して目を合わせることも叶わなかった相手ですから。


e0158128_10243292.pngこの広岡恵三が、実質、浅子の後継者になります。

ただ単に家柄が素晴らしいだけでなく、東京帝国大学卒の明敏さをもって経営に参加し、明治42年(1909年)には加島銀行頭取に、そして大同生命二代目社長として辣腕を振るいました。

その後、加島銀行は昭和恐慌の煽りを受けて廃業してしまいますが、大同生命は平成の現在もなお引き継がれていますね。

大同生命の基礎を作ったのは浅子でしたが、恵三は同社の社長を33年も続け、発展させました。

浅子がを撒いて、恵三がをやって育てたといったところでしょうか。

娘の亀子は浅子のように経営には参加しませんでしたが、その婿に凄腕経営者を連れてくるあたり、さすがは浅子です。

ちなみに、亀子は母のような女傑ではなかったものの、その生命力だけは母をはるかに凌いでいたようで、彼女が亡くなったのは昭和48年(1973年)、97歳だったそうです。

昭和48年といえば万博の3年後で、オイルショックの年です。

つい最近のことですよね。

幕末に結婚した女性の娘が万博まで生きていたなんて、そう考えれば、浅子の生きた時代というのは、それほど昔ではないんですね。

びっくりポンです。

あと1回だけ続きます。

朝ドラ『あさが来た』で異彩を放つ五代友厚 その1
朝ドラ『あさが来た』で異彩を放つ五代友厚 その2
朝ドラ『あさが来た』で異彩を放つ五代友厚 その3
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by sakanoueno-kumo | 2016-03-17 11:40 | その他ドラマ | Trackback | Comments(0)  

朝ドラ『あさが来た』で知ったびっくりポンな女傑、広岡浅子。 その2

幕末から維新にかけての動乱のなか、一時は傾きかけた加島屋でしたが、なんとか持ちこたえました。

そこには、広岡浅子の力が大いに関係していたと言われます。

ドラマでは、嫁入りして間もない浅子が借金返済を求めて藩の蔵屋敷に何度も押しかけるシーンがありましたね。

何度足を運んでも相手にされず、加子部屋(足軽部屋)で荒くれ男に囲まれながら一夜を明かし、結局借金を返済させることに成功しますが、このエピソードは明治37年(1904年)に雑誌『実業之日本』に載った浅子についての記事「本邦実業界の女傑」によるものだそうです。

まあ、雑誌の記事というのは、今も昔も、どこまで信用していいかは微妙ですが、ただ、浅子自身もこのときのことについて述懐しているそうで、それに近い出来事があったことは嘘じゃないでしょうね。

また、明治14年(1881年)に加島屋から高松藩松平家に宛てて出された借金の赦免願とそれに対する回答が朱筆された書状が現存しており、それによると、高松松平家に対する12万2600円(現在の貨幣価値に換算すると約6億3000万円)の借金の返済を、その四割を即納することにより、残り六割を免除することを認めさせているそうで、この書状は差出人が「広岡久右衛門」とあるとともに、「同信五郎 代アサ」と、本来名義人になれないはずの浅子の署名と押印があるそうです。

浅子が交渉に関係していたことは間違いないでしょうね。

『実業之日本』では、当時の加島屋での浅子について、こう記されています。

「而して浅子は加島屋唯一の君主として、上は店長より下は小僧に至るまで、任免黜陟(功績に応じて役職を上げ下げすること)に大権を掌握し、総会等には必ず自身に出席しつつ満場の視線を己れに集めるのみか、本支店とも時々巡視して業務の成績を検閲するなぞ、其の手腕の凄じさ、人をしてアッと謂はしむることが多い・・・」

当時の法律では、「夫と死別した場合」など一部の例外を除き、女性が戸主にはなれませんでしたが、実質の経営者は、ドラマのとおり浅子だったようです。

その後、ドラマのとおり浅子は鉱山経営に乗り出してその名を轟かせ、そして明治21年(1888年)には夫・信五郎や義弟・正秋とともに加島銀行を発足させ、明治35年(1902年)には大同生命を設立。

ドラマにもあったように、女性の銀行員をはじめて採用したのも浅子でした。

女性経営者だからこその人材登用だったといえますが、それは、同じく女性であった浅子を経営に参加させた、先代からの加島屋の家風が生んだものだったかもしれません。

そしてその人材育成の情熱は女子教育へと注がれていくんですね。

e0158128_15315700.jpg炭鉱、銀行と忙しい日々を送っていた浅子は、明治29年(1896年)、加島銀行のすぐ近くにあった梅花女学校の校長を務めていた成瀬仁蔵に出会います。

成瀬は女子大学設立の構想を抱いており、援助してくれる人物を求めていました。

そんななか、浅子というスーパーウーマンを知ります。

ドラマでもありましたが、浅子は成瀬の『女子教育論』を読んで、「感涙やまなかった」と語っています。

成瀬の理想に感銘を受けた浅子は、強力な後援者となり、明治34年(1901年)、東京に日本女子大学を設立するに至りました。

津田梅子新島八重大山捨松など、同時代の女子教育に尽力した女性は他にもいますが、浅子以外はすべて武家出身者

商家に生まれた女性としては、浅子だけだったんじゃないでしょうか?

男尊女卑が当たり前の時代、内助の功的な働きをした女性はたくさんいたでしょうが、表舞台で男顔負けの活躍した浅子は、たいへん稀有な存在だったでしょう。

ホント、びっくりポンな女性ですね。

ただ、そんな浅子を生んだのは、夫の理解、協力があったからといえます。

男女の区別なく、才能ある者を認め育てるという気風が、浅子の周りにあったということですね。

次回に続きます。

朝ドラ『あさが来た』で異彩を放つ五代友厚 その1
朝ドラ『あさが来た』で異彩を放つ五代友厚 その2
朝ドラ『あさが来た』で異彩を放つ五代友厚 その3
朝ドラ『あさが来た』で知ったびっくりポンな女傑、広岡浅子。 その1
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朝ドラ『あさが来た』で知ったびっくりポンな女傑、広岡浅子。 その4


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by sakanoueno-kumo | 2016-03-16 12:36 | その他ドラマ | Trackback | Comments(0)  

朝ドラ『あさが来た』で知ったびっくりポンな女傑、広岡浅子。 その1

NHK朝の連続ドラマ『あさが来た』が、いよいよクライマックスを迎えますね。

わたしにとって朝ドラは、観たり観なかったりしながら後半だけハマるといったパターンがほとんどでしたが、今回はいつになく最初からハマってしまい、観れない回は録画してまで観ています。

自称歴史オタクのわたしですが、恥ずかしながら主人公・あさのモデルである広岡浅子という女性のことを、ドラマを観るまでまったく知りませんでした。

で、せっかくなので、大同生命のHPなどを参考にしながら、この大阪が生んだ女傑について書き残しておこうと思います。

e0158128_15245922.jpg嘉永2年(1849年)といえば黒船来航の4年前、京都の豪商・三井家の三女として浅子は生まれました。

ドラマにもあったように、浅子は2歳にして既に将来の結婚相手が決まっていたそうです。

その相手が、当時鴻池と並ぶ豪商だった大阪の両替商・加島屋の次男・広岡信五郎でした。

浅子は17歳で加島屋に嫁ぎます。

加島屋は、幕末266あった諸藩のうち、およそ100藩に「大名貸」をしていたというほどの豪商で、その融資額の総額は約900万両(現在の貨幣価値で約4500億円)もあったとか。

現代でいうところのメガバンクですね。

浅子が嫁いだのは慶応元年(1865年)、前年には京都で「禁門の変」があり、世情はいよいよ緊迫した血なまぐさい時代に突入したころでした。

ドラマで、新選組副長・土方歳三と絡むシーンがありましたが、実際に、借用人・土方歳三、保証人・近藤勇と署名捺印された金400両(現在の貨幣価値で約2000万円)の借用書が現存しているそうです。

ふつう借用書は、返却されれば破棄、もしくは裏書して借用人に渡すものだったそうですから、この証文が残っているということは、おそらく返却されなかったものとされているそうです。

加島屋にとっては大きな損害だったでしょうね。

また、加島屋が長州藩のメインバンクであったことから、「禁門の変」のあと、長州藩との関わりについて新撰組から厳しい取調べを受けたという話も残っているそうです。

その後、慶応4年(1868年)に「鳥羽伏見の戦い」で敗れた幕府軍が京・大坂からこぞって退去し、新政府が立ち上がりました。

すると今度は、新政府から大阪の豪商たちに呼び出しがかかり、「ご一新のため」として総額300万両もの献金を求められます。

それ以降も、「戦費のため」「明治天皇の行幸のため」と、ことあるごとに新政府から献金の要請がありました。

政治は徳川幕府から明治新政府に変わりましたが、加島屋など商人たちにしてみれば、新選組も新政府も同じだったでしょうね。

次回につづきます。

朝ドラ『あさが来た』で異彩を放つ五代友厚 その1
朝ドラ『あさが来た』で異彩を放つ五代友厚 その2
朝ドラ『あさが来た』で異彩を放つ五代友厚 その3
朝ドラ『あさが来た』で知ったびっくりポンな女傑、広岡浅子。 その2
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by sakanoueno-kumo | 2016-03-11 17:30 | その他ドラマ | Trackback | Comments(0)  

朝ドラ『あさが来た』で異彩を放つ五代友厚 その3

朝ドラ『あさが来た』では1月に死んでしまった五代友厚ですが、1ヶ月以上前に起稿した五代の稿(その1その2)に、いまだに多くのアクセスをいただいているようで、だったら、せっかくなので前回割愛したお話をしようと思い、続編を起稿しました。

今回の写真は、北浜の光世証券エントランスにある五代友厚像です。

こちらもまた、なかなかのイケメンですね。

e0158128_16372738.jpg


今回お話するのは、そんなイケメン五代の女性関係

ドラマでは独身者のように描かれていましたが、実際には、五代にはちゃんともいて、さらに、他の同時代の政治家、財界人と同じく、妻以外の愛人数多くいました。

五代は生涯に、複数の女性との間に10人の子供を儲けたそうです。

最初の子供(女子)は、幕末に薩摩藩士として赴任していた長崎で知り合った女性との間に生まれました。

しかし、この子は五代家の籍には入っていません。

明治に入り、外交官・森山茂の妹・菅野豊子と結婚しますが、彼女との間には子供はできず、戸籍上の三人の娘も、他の女性に生ませた子供を引き取った子だそうです。

五代が愛人に生ませた男子はすべて、認知はしても籍には入れず、庶子となったそうです。

こうして見ても、相当な遊び人だったようですね。

まあ、残っている肖像を見る限り、結構なイケメンだったようですから、確かにモテたでしょうね。

ドラマでのキャラとは随分とかけ離れたプレイボーイだったようです。

びっくりポンですね。

ドラマでは、福沢諭吉大隈重信が登場し、五代と同じく主人公・あさに大きな影響を与えていますが、この福沢、大隈らと五代のあいだには、深い因縁がありました。

というのも、ドラマでも描かれた開拓使官有物払下げ事件で、福沢と大隈は五代を批判する急先鋒だったからでした。

明治14年(1881年)に起きたこの事件は、北海道開拓使長官の黒田清隆が、開拓使官有物を五代らの関西貿易商会に安値・無利子で払下げようという計画が、新聞にすっぱ抜かれて大騒動になった事件です。

約1400万円もの国費を注ぎこんだという開拓使が、わずか38万円余りで、しかも黒田の同郷の五代に払い下げられる。

そら、批判されますよね。

結局、開拓使払下げは伊藤博文らによって中止されますが、払下げの情報を新聞にリークした張本人とされた大隈は、政府から追放されました。

いわゆる「明治14年の政変」です。

野に下った大隈は、翌明治15年(1882年)に東京専門学校(現在の早稲田大学)を開き、そしてそれから十数年後、日本女子大学校創立のために奔走していた広岡浅子に出会い、深く関わることになります。

もし、「明治14年の政変」がなければ、この出会いはなかったかもしれません。

五代友厚と広岡浅子のあいだには関わりはなかったようですが、こんなところで繋がっていたんですね。

ちなみに、ドラマではディーンフジオカさんが演じていた五代友厚に対して、福沢諭吉役が武田鉄矢さん、大隈重信役が高橋英樹さん、あと、渋沢栄一役が三宅裕司さんでしたが、実年齢でいえば、福沢が五代より1歳上、大隈は2歳下、渋沢は4歳下、いずれも五代と同世代でした。

びっくりポンですね(笑)。

さて、ドラマはいよいよクライマックスを迎えます。

せっかくなので、広岡浅子についても次稿でふれてみたいと思います。

朝ドラ『あさが来た』で異彩を放つ五代友厚 その1
朝ドラ『あさが来た』で異彩を放つ五代友厚 その2
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by sakanoueno-kumo | 2016-03-10 00:44 | その他ドラマ | Trackback | Comments(0)  

朝ドラ『あさが来た』で異彩を放つ五代友厚 その2

昨日の続きです。

明治2年(1869年)、政府から横浜へ転勤を命じられると、五代友厚は愛着のある大阪に残るために官を辞します。

その後は、金銀分析所、鉱山、活版印刷所などの事業を興したほか、関西商人らと阪堺鉄道(現・南海電気鉄道)、大阪商船(現・商船三井)を起業。

そして明治11年(1878年)開業の大阪株式取引所(現・大阪取引所)の創設にも関わります。

さらに信用取引や手形取引の商慣習が乱れていた状況を見かね、仲間組合として同年に大阪商法会議所を設立。初代会頭に選ばれた五代は大阪の商秩序を正常化し、今の大阪商工会議所の礎を築きます。

教育面でも、大阪の商家の子弟を新しい経済環境に適応させようと大阪商業講習所を作り、それが今の大阪市立大学につながります。

もともと縁もゆかりもなかった大坂のまちに、ここまで尽力した友厚。

まさに「大阪の恩人」と言われる所以です。

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こちらの写真は、大阪商工会議所前にある友厚のです。

前稿で紹介した大阪証券取引所前の像同様、なかなかのイケメンですね。

昨日今日のどちらの写真も数年前に撮影したもので、そのときはわたし以外に立ち止まる人などいませんでしたが、先日、大阪証券取引所の前を通ったら、数人のおばちゃんたちが像を撮影していました。

朝ドラの力は絶大です(笑)。

でも、無粋なことをいえば、広岡浅子と五代友厚が懇意の仲だったというエピソードは、残念ながら残ってないそうですけどね。

まあ、お互い名前くらいは知ってたでしょうが。

ちなみに、「平成の五代友厚」なんて言われたりもした橋下徹氏が、昨年いっぱいで市長を退き、同時に政治家も引退されましたね。

「どこが五代友厚やねん!」とお叱りの声も聞こえてきそうですが、「大阪を変えよう、大阪から日本を変えよう」という情熱を持ってのぞんだという部分では、共通しているといってもいいでしょう。

でも、五代だったら、何が何でも信念を貫き通して、途中でケツを割ったりしなかったと思うんですけどね。

「日本のために、この大阪を育てるとじゃないのか!これ以上、東京に何もかも集めてはならん!日本のためには、もうひとつもふたつも大きなまちが入用じゃ!その企てが、やっとこさ進み始めたとこじゃっちゅうとに!話にならん!」

ドラマで横浜転勤を命じられたときの五代の台詞です。

これって、まさに橋下氏がずっと主張し続けてきたことですよね。

五代友厚だったら、大阪都構想をどう実現したか・・・そう考えたら、まだまだ橋下さんは引退してる場合じゃない気もしますね。

そんな五代友厚ですが、残念ながらその生涯は長くはなく、明治18年(1885年)9月25日に49歳の若さで病死します。

糖尿病だったといいますから、大阪のために働きながら病気とも戦っていたのでしょうね。

死の少し前には、を鹿児島から大阪に移しています。

最期は大阪市民として死にたかったのかもしれませんね。

経済人として敏腕を振るった五代でしたが、死後、遺産はほとんどなく、多額の借金だけが残っていたとか。

この点は、親交が深かった大久保利通と共通します。
西郷隆盛もそうですが、没我奉仕の精神で、私利私欲に頓着せず、不正を徹底的に忌み嫌う薩摩人気質だったのでしょうね。

さて、朝ドラ『あさが来た』は、ちょうど折り返し点を過ぎたあたりですが、五代友厚の出番は今週で終わりだそうですね。

どんな最期を迎えるのか、楽しみにしましょう。


朝ドラ『あさが来た』で異彩を放つ五代友厚 その1
朝ドラ『あさが来た』で異彩を放つ五代友厚 その3
朝ドラ『あさが来た』で知ったびっくりポンな女傑、広岡浅子。 その1
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by sakanoueno-kumo | 2016-01-21 18:01 | その他ドラマ | Trackback | Comments(0)  

朝ドラ『あさが来た』で異彩を放つ五代友厚 その1

NHKの朝の連続テレビ小説『あさが来た』が好評のようですね。

わたしも、いつもは妻が観ている横で見るともなしに観ていてハマっていくというパターンなんですが、今回は、朝ドラには珍しく幕末からの物語ということで、けっこう最初から真剣に観ています。

そこで、今日は主人公・白岡あさのモデルである広岡浅子のこと・・・ではなく、ドラマ内の主要登場人物で唯一、実在の人物名そのままで登場している五代友厚についてお話しましょう。

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写真は大阪証券取引所前に立つ五代友厚の像です。

五代は、大阪商工会議所の初代会頭を務めるなど大阪経済の発展に貢献した人物として知られ、同じく明治維新後に東京の経済の基礎を作った渋沢栄一と並び、「東の渋沢、西の五代」と称されるほどの大阪の顔的存在ですが、実はこの人、元は大阪には何のゆかりもない鹿児島県の人です。

薩摩藩の上級武士の家に生まれた五代は、幼少の頃から英才として知られ、通称「才助」は藩主から贈られた名前だといいます。

安政4年(1857年)、藩から選抜されて長崎に留学し、幕府の海軍伝習所で学びました。

そのとき、勝海舟榎本武揚、坂本龍馬、木戸孝允、そしてイギリス貿易商のトーマス・グラバーなど、幕府諸藩を超えてさまざまな人物と親交を持ちます。

文久2年(1862年)、幕府船・千歳丸水夫に化けて潜り込み、上海に渡航しました。

そのとき、長州藩の高杉晋作や、佐賀藩の中牟田倉之助らと知り合います。

いずれも、藩きっての秀才たちで、五代同様、藩の将来を担う人物として派遣されていました。

五代はこのときから、既に経済に主眼をおいて上海を歩きまわったといいます。

この渡航の際、五代は藩のために汽船購入の契約をしたという説もありますが、これについては、信憑性に乏しいようです。

いずれにせよ、経済が後の世を動かすという考えは、既に持っていたのでしょうね。

その3年後の慶応元年(1865年)には薩摩藩遣英使節団としてヨーロッパに渡り、大いに見聞を広めました。

その知識は明治維新後に新政府から必要とされ、外国事務局判事に起用されます。

大阪府権判事兼任として大阪に赴任し、堺で起こったフランス水兵と土佐藩士との衝突事件や、イギリス公使パークス襲撃事件などの処理に手腕を発揮したことから、大阪港の開港貿易事務も管轄し、大阪との深い関わりが生まれました。

また、大阪に造幣寮(現・造幣局)を誘致したのも五代で、初代大阪税関長も務めました。

さらに、新政府の肝いりで大阪に通商会社、為替会社を設立。

この頃には、はじめは協力に消極的だった大阪の有力両替商らからも、信望を高めます。
ドラマの加野屋のモデルである加島屋も、そのひとつですね。

その後、五代に横浜転勤の辞令が出たときには、五代留任を求める声が大阪経済界から起こったといいます。

このことからも、わずか1年ほどで、五代は大きな信頼を得ていたことがわかります。

長くなっちゃったので、明日に続きます。

朝ドラ『あさが来た』で異彩を放つ五代友厚 その2
朝ドラ『あさが来た』で異彩を放つ五代友厚 その3
朝ドラ『あさが来た』で知ったびっくりポンな女傑、広岡浅子。 その1
朝ドラ『あさが来た』で知ったびっくりポンな女傑、広岡浅子。 その2
朝ドラ『あさが来た』で知ったびっくりポンな女傑、広岡浅子。 その3
朝ドラ『あさが来た』で知ったびっくりポンな女傑、広岡浅子。 その4



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by sakanoueno-kumo | 2016-01-20 10:43 | その他ドラマ | Trackback | Comments(0)  

新春時代劇『信長燃ゆ』 鑑賞記

今年のテレビ東京新春時代劇『信長燃ゆ』を今頃ようやく観ました。

天正9年(1581年)2月の京都馬揃えから翌年6月の本能寺の変までの1年余りが舞台で、「本能寺の変朝廷黒幕説」をベースに描かれた物語です。

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本能寺の変に至る要因については、様々な解釈のもとに諸説ありますが(ありすぎるくらいですが)、この朝廷黒幕説については、平成に入ってからにわかに脚光を浴びるようになった推論です。

わたしは、歴史の経緯というのは意外にシンプルなものだと思っているので、単純に怨恨説を支持したいところですが、もし黒幕が存在するとすれば、朝廷説がもっとも説得力があるとは思いますね。

その他の説(羽柴秀吉説とか足利義昭説、その他多数)は、あまりにも穿ち過ぎで、俗説の域を出ないかな・・・と。

朝廷黒幕説の推論によると、「天下布武」をスローガンに破竹の勢いで権力を手にした織田信長は、朝廷の権威を軽んじ、朝廷に圧力をかけていたといわれ、その軋轢が変を引き起こしたといいます。

具体的には、ドラマ冒頭で描かれた京都馬揃えは、信長が朝廷を威圧するために行った軍事パレードだったといいわれ、当初、信長は天皇に左義長(さぎちょう)(どんど焼き)申し入させたのに、信長が馬揃えにすり替えたという説です。

また、ドラマにあったように、信長の意に従わない正親町天皇(第106代天皇)に譲位を迫ったという話や、公家衆に信長への戦勝祈願出迎えなどを強要したりと、信長の大義づくりに朝廷が利用されていたというんですね。

たしかに、信長は朝廷の権威というものを軽んじていたと思える行動が多く見られます。

たとえば、信長は朝廷から与えられる官位には興味がなく、天正6年(1578年)に右大臣の職を辞したあとは、官職に就きませんでした。

その後、本能寺の変が起きる直前の5月に朝廷は信長に対して、征夷大将軍、関白、太政大臣の三職のいずれかに就任してはどうかと持ちかけていますが、信長がその返答をする前に変が起こってしまったため、信長自身がどのような構想を持っていたのかは永遠の謎となりました。

でも、これまでの行動からいって、たぶん、どの職にも就かなかったんじゃないかと・・・。

というのも、信長の行動や思想を振り返るに、有名な比叡山焼き討ちを始め、恵林寺焼き討ち石山本願寺との闘いなど、古い権威というものを毛嫌いする行動が多々見られます。

その意味では、朝廷及び天皇家というのは、古い権威の最高峰ともいえる組織であり、信長の性格からいえば、最も忌み嫌う存在だったかもしれません。

一説には、信長は、「皇位簒奪」を目論んでいたのではないかとも言われます(皇位簒奪とは、天皇を廃して自らが日本の王になろうとすること)。

これを恐れた朝廷は、明智光秀信長追討を促し、決起に至った・・・と。

たしかに、信長ならあり得る目論見だったかもしれません。

ただ、もし本当に信長が皇位簒奪を目指していたならば、光秀の謀反は天皇に対する逆賊の成敗として大いに正当化され、もっと味方を得られたんじゃないかとも思います。

ところが、結果は歴史の示すとおり。

となれば、この皇位簒奪説は考えられなくはないものの、少し深読みし過ぎのような気もします。

朝廷黒幕説の首謀者としては、正親町天皇、誠仁親王をはじめ、近衛前久、勧修寺晴豊、吉田兼見ら公家衆など、様々な見方がありますが、物語では近衛前久説を採っていましたね。

この近衛前久という人は、実際に信長と親交の深かった公家で、石山合戦の調停役として尽力したり、織田軍の武田攻めに従軍するなど、公家としては珍しい豪胆な人物でした。

ドラマでも描かれていましたが、信長とは鷹狩という共通の趣味を通して付き合いがあったようです。

信長の前久に対する信頼は厚かったようで、前久が息子・信基にあてた手紙によれば、信長から「天下平定の暁には近衞家に一国を献上する」という約束を得たといいます。

朝廷を軽んじていたといわれる信長ですが、前久だけは別格だったようですね。

そんな前久が、なぜ黒幕と疑われるのか・・・。

その理由として、前久は変後すぐに嵯峨に隠れた上に、 山崎の戦い後も、信長の三男・神戸信孝追討令を出して執拗に行方を捜していたことがあげられます。

追討令が出されたということは、当時も、疑いの目を向けられていたということですよね。

また、同じく公家の吉田兼見(ドラマでは笹野高史さんが演じておられた人物)は、彼が記した日記によって、信長と朝廷の関係を後世の私たちが知ることができているのですが、本能寺の変の前後1ヶ月分の日記が、後に書き換えられた形跡があるそうです。

何か、都合が悪いことがあったのではないかと・・・。

この吉田兼見も、変後に事情聴取を受けています。

しかし、どちらも疑わしくはありますが、決定的証拠とは言えません。

結局は、どれも推論の域をでることはないですね。

ただ、物語として見るには、単なる怨恨説よりは遥かに面白いですけどね。

ちなみに、ドラマでは、誠仁親王の后・勧修寺晴子と信長の禁断の恋が描かれていましたが、いうまでもなく、あれはドラマのオリジナルです。

いまで言えば、皇太子妃総理大臣不倫関係になるようなものですから、ありえないでしょう(笑)。

ちなみにちなみに、物語の語り部となっていた森坊丸は、実際には兄・森蘭丸と共に、本能寺で落命したとされています。

最後に、毎年楽しみにしているテレビ東京新春時代劇ですが、かつては元旦に12時間ほどあった長編ドラマでしたが、近年、だんだん短くなっていって、今年はとうとう3時間ドラマになっちゃいましたね。

時代劇というのはかなりお金が掛かると聞きますから、いまのご時世、そういう大人の事情がるのでしょうが、ただでさえ民放の時代劇がなくなっていくなか、正月恒例のこのドラマまでなくなってしまうと、時代劇はNHKにか作れないものになってしまいます。

なんとか続けてほしいですね。



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by sakanoueno-kumo | 2016-01-14 13:54 | その他ドラマ | Trackback | Comments(0)  

ドラマ『影武者徳川家康』にみる、徳川家康影武者説。

今年の元旦に録画していたドラマ『影武者徳川家康』を、半年遅れて観ました。
なぜ半年も観ていなかったかというと、なんといっても5時間スペシャルですからね。
そんな時間が簡単にとれるはずもなく、時間が出来ても、なかなか観ようという意欲がわかず、気が付けば半年も経っていました。
わが家のHDDレコーダーには、そんなドラマや映画がいくつも録ったままになっています(苦笑)。

で、その『影武者徳川家康』ですが、通説では元和2年(1616年)に75年の天寿を全うして病死したとされる徳川家康ですが、実は慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦において討死しており、その後の家康は、徳川家の安泰のために影武者だった世良田二郎三郎が入れ替わった、という仮説をもとに作られた物語で、原作は作家・隆慶一郎の小説です。
この小説をもとにした漫画もあるそうですね。

ただ、この仮説は隆氏の独創ではなく、明治35年(1902年)に村岡素一郎という人が出版した『史疑・徳川家康事蹟』で唱えられた、家康の影武者説がベースとなっています。
それによれば、本物の徳川家康は桶狭間の戦いの数年後に不慮の死を遂げており(当時は松平元康)、このとき嫡男の信康がまだ幼かったため、元康の死を秘匿して、信康が成長するまでその身代りとして世良田二郎三郎元信という人物をたてた、といいます。
この影武者元信が元康になりすまし、清州同盟にて織田信長と同盟関係を結び、その後、名を家康と改名、そこから代行ではなく、実質的に徳川家の棟梁となった・・・と。
後年、信長の命で信康を殺害したのも、その後生まれた実の子に家督を継がせるためだった・・・と説いています。

この村岡説の本は、出版後すぐに絶版となったそうです。
その理由は、徳川氏一族や旧幕臣たちからの圧力だったといいますが、まあ、当時では当然のことだったでしょうね。
その後忘れ去られていた村岡説ですが、戦後の昭和30年代になって、この説を下敷きにした小説がいくつか出版され、再び着目されるようになったそうです。
隆慶一郎氏の小説は、村岡説を基にしているものの、家康が入れ替わった時期が早すぎるとして、家康の人格が変わった1600年頃としたほうが無理がないとし、その起点を関ヶ原の合戦にしたそうです。
たしかに、このほうが信憑性がありますよね。

といっても、家康が入れ替わったなどと裏付ける史料などは存在せず、いずれも俗説邪説に過ぎません。
しかし、まったくもって荒唐無稽な話かといえば、必ずしもそうとも言えないんですよね。
というのも、戦国時代の名だたる武将たちの多くが、戦場で身を守るために影武者を仕立てたといわれ、家康もまた、影武者を多用したといわれています。
徳川家康という名を知らない武士はいなかったでしょうが、テレビも新聞も週刊誌もないこの時代、家康の顔を見知っている者は、それほど多くはなかったでしょう。
一部の側近のみの秘密として他人が入れ替わることも、出来なくはなかったでしょうね。
それに、将軍職を徳川秀忠に譲ったあとの家康は、駿府に政庁を開き、幕府とは別の政権、いわゆる二元政治が行われます。
これを、替え玉家康と秀忠の対立と考えることも出来なくはないですね。
まあ、かなり無理がある解釈ではありますが・・・。

ほかにも、家康の影武者説はいくつかあるようですが、その真偽は別にして、それだけ複数の俗説が生まれるということは、家康が当時としてはかなり長寿だったことと、晩年の家康がそれまでの家康と別人のような人格になったこと、秀忠との不仲説などなど、そう考えたくなるような要素がたくさんあるからでしょうね。
村岡説は明治時代のもので、江戸時代には神君である家康の出自をあからさまに疑うなどあり得なかったことでしょうが、あるいは、俗世間では囁かれていた話だったかもしれません。

あと、通説では関ヶ原の合戦で討死したはずの島左近が、その後も生き延びて活躍していましたが、これも、そういう俗説があるようですね。
この説の根拠は、左近の遺体は合戦後も見つかっておらず、その後も京のまちで左近を目撃したという情報が相次いだといいます。
まあ、この種の生存説は、左近のみならず、多くの武将にある話ですけどね。
つまるところ、生きていてほしいと願う者たちが生み出したデマと考えるのが正しいんじゃないでしょうか。

こういった俗説ばかりを集めて物語にしたら、それはそれで別の史伝として面白いものができるかもしれませんね。
とにもかくにも、半年遅れのレビューでした。


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by sakanoueno-kumo | 2014-06-14 23:59 | その他ドラマ | Trackback | Comments(2)  

キムタク版 『宮本武蔵』 鑑賞記

先週末、木村拓哉さん主演の『宮本武蔵』が2夜連続で放送されていましたよね。
宮本武蔵といえば、言わずと知れた江戸時代初期の剣豪兵法家で、これまで何度も映画化やドラマ化されてきた時代劇の定番中の定番ですよね。
古くは片岡千恵蔵さんや嵐寛寿郎さんなどの伝説の名優に始まり、戦後は三船敏郎さん、萬屋(中村)錦之介さん、北大路欣也さんらビッグネームの俳優さんが演じ、今世紀に入ってからは、上川隆也さんや本木雅弘さん、そして2003年の大河ドラマでは市川海老蔵(新之助)さんが抜擢されて話題を呼びました。
武蔵を演じるということは、ある意味、一流の俳優としての箔がつくといっても過言ではないかもしれません。

で、名前の大きさでいえば、過去の俳優さんたちに決して引けをとらない平成のトップスター木村拓哉さんの武蔵ですが、わたし個人的には、なかなか良かったと思います。
やはり彼は、何を演ってもサマになりますね。
キムタクは何を演じてもキムタク・・・なんて批判する人もいますが、それを言うなら高倉健さんだってそうですからね。
何を演ってもカッコいい役者さんというのは、そうはいないと思います。
いろいろ言われるのは、それだけ彼がスターだということですね。

そもそも、宮本武蔵という人物については、実はほとんど謎の人物といっていいほど、詳しいことは何もわかっていません。
わたしたちが知る宮本武蔵は、吉川英治著の不朽の名作小説『宮本武蔵』で描かれた武蔵像で、ほとんどの映画やドラマが、この作品を下敷きにしています(今回のドラマもそうでしたよね)。
関が原の合戦後に始まって、巌流島の戦いをクライマックスに描くこの小説は、吉川英治氏自身も語っているように、史実をベースにした伝記小説ではなく、剣の道を通して自己を研鑽していくひとりの男を描いた娯楽小説であり、そのほとんどがフィクションです。
わたしたちの知る宮本武蔵は、吉川英治氏が作った虚像なんですね。

では、その吉川武蔵像のベースはどこから来ているかといえば、江戸時代中期から歌舞伎浄瑠璃講談などの題材として脚色されてきたもので、これもまた、明らかなフィクションといっていいでしょう。
武蔵の本来の人物像を見るうえで唯一の史料として重視されるのが、武蔵自身が著した兵法書『五輪書』ですが、これとて、現存するものは武蔵が晩年を頼った細川家の家臣が書いた写しで、武蔵直筆のものは存在しません。
しかも、その内容は明らかに武蔵の武勇伝を誇張して書いているとしか思えない部分が多く見られ、ほんとうに武蔵自身が書いたものかどうかも疑わしいとする歴史家の方もたくさんいます。
なかには、宮本武蔵という人物の実在性すら疑問視する歴史家さんもいるほどで・・・。
結局のところ、宮本武蔵という人物は、歴史上ほぼ謎の人物といってよく、日本史のなかよりも、物語のなかで輝いてきた人物といえるでしょう。
ですから、いろんな武蔵像があっていいと思うんですね。
キムタク武蔵、わたしは良かったと思います。

他のキャスティングも実に良かったですね。
セクスィー部長・沢村一樹さんの佐々木小次郎もハマってましたし、真木よう子さんのお通も、予想に反して合ってたと思います。
ユースケ・サンタマリアさんの又八は、いちばんのはまり役だったんじゃないでしょうか(彼のためにあるような役かと・・・笑)。
松田翔太さんの吉岡清十郎は、吉川英治作品よりも、漫画『バカボンド』のイメージに近かったでしょうか?
ただ、これらの登場人物たちも、ほとんどが吉川氏の作った架空の人物か、実在性が定かでない人物ばかりですから、正解の人物像はないんですけどね(明らかに実在した人物といえば、香川照之さんの沢庵和尚と、鈴木福くんの宮本伊織くらいでしょうか?)。

とにもかくにも、民放テレビでの時代劇がめっきり減ってしまった昨今、こうして人気俳優さんを主役に王道の時代劇を作ってくれるのは嬉しい限りです。
定期的に続けてほしいものですね。
とりあえず、保存版で録画しました。


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by sakanoueno-kumo | 2014-03-19 21:08 | その他ドラマ | Trackback | Comments(0)