カテゴリ:天地人( 48 )

 

天地人 あとがき

 2009年NHK大河ドラマ「天地人」の全47話が終わりました。最終回の視聴率は22.7%だったそうです。全話の平均視聴率は21.2%で、いずれも昨年大ヒットした「篤姫」には及ばなかったものの、近年の大河作品の中ではまずまずの数字となったようです。

 昨今の戦国ブームが追い風になって、それなりの人気を得ていたようですが、一方で古くからの大河ドラマファンからは酷評が多かったこの「天地人」。長年大河を見続けてきた私にとっても、評価の低い作品となってしまいました。私はこのブログで全47話を毎週追っかけてきましたが、なるべく酷評はしないという趣旨を貫いてきたのですが、途中から辛くなってきたというのが正直なところです。印象に残ったシーンや心に響いた言葉などを記してきたのですが、何も感想が浮かばない回もあって、苦しみました。

 何が評価を下げたかといえば、諸所いろいろだとは思いますが、よく耳にする「史実と違う。」という意見に関しては、私はあまり言いたくない部分です。登場人物が実在の人とはいっても、基本的にドラマである以上フィクション。そのフィクションの物語に史実を盛り込んで楽しく見せるというのが、歴史ドラマのポイントだと思うからです。史実ありきで構成すれば、それはドキュメンタリーであってドラマではないと私は思います。過去、名作といわれる作品の中にも、フィクション性の強い作品も見られます。それをもってして面白くないと評するのは私は賛成できません。文書などで残っている史実は、歴史の断片に過ぎません。本当かどうかわからないところにこそ、歴史ドラマの面白さがあると私は思っています。

 次に直江兼続という人物についてですが、戦国武将の中で人気の高い人物ではあるものの、脇役の感が強く、主役として1年間物語を作るには難しい人物ではあったでしょう。しかし、昨年の「篤姫」、一昨年の「山本勘助」も本来脇役の人物で、この二つの作品は私の中で評価が高く、人物の所為とは言えないところがあります。ただ、秀吉などにも勝るとも劣らないと言われた「策士、直江兼続」の姿はあまり見ることが出来ず、最後まで優等生だった姿がイメージと違い、兼続ファンをがっかりさせたところだと思います。妻夫木聡さんの爽やかなイメージから脱却できず、本来の直江兼続の魅力を作り出せなかった感は否めません。

 私がこの作品の中でもっとも感じたのは、テーマの曖昧さです。「愛と義」という、あまりにも広いテーマだった故、その本質が伝わってきませんでした。「利」のみを求める戦国時代において「愛と義」を貫いた直江兼続の人生を通して、弱者を切り捨て、利益追求に邁進する現代人にメッセージを送る・・・という壮大なテーマをうたっていた制作サイドでしたが、結局は何が「義」なのか、何を伝えようとしているのかが見えてきませんでした。第9話の上杉謙信の言葉に「義とは、人が人であることの美しさよ。」というものがありましたが、あまりにも抽象的すぎて理解に苦しいものでした。昨年の「篤姫」では、「役割」という非常に解りやすいテーマがあり、物語を通してその主題がぶれなかった・・・という点に、多くの視聴者の共感が得られたのではないかと思います。この天地人においては、そのテーマである「義と愛」に一貫性がなく、兼続の行動にも矛盾点が多く、共感を得ることが出来なかったことが、この作品の評価を下げた一番の要因と私は思います。

 以上は私の個人的な勝手極まりない感想です。全話を通して酷評は避けていただけに、そのままの姿勢を最後まで貫こうかとも思いましたが、「あとがき」ということで正直な感想を述べさせてもらいました。長年大河は見続けてきましたが、ブログという場で全話感想を述べさせてもらったのはこの作品が初めてです。そいうった意味では、心に残る作品になりそうです。ブログを毎週読んでくださった方がいるかどうかはわかりませんが、毎週感想をエントリーした翌日のアクセス数がもっとも多く、そのことを励みに臨んできました。11か月間ありがとうございました。

 次週からの「坂の上の雲」、来年の「龍馬伝」でも、ブログエントリーは続けていきたいと思います。



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by sakanoueno-kumo | 2009-11-25 02:04 | 天地人 | Trackback(1) | Comments(4)  

天地人 第47話(最終回)「愛を掲げよ」

 大坂の陣が終わり、太平の世を向かえようとしていた。主人公・直江兼続の晩年を描きながら、物語の回想に重きを置いた最終回。大河ドラマの最終回は、どの作品でもおおむねこういうもの。クライマックスは最終回の前話に置き、最終回では起承転結の後の「静」を描く。そういう意味では、最終回らしい最終回だったと私は思う。

 75歳という天寿を全うした徳川家康。彼の死は戦国時代の終焉を意味する。以後260年に及ぶ徳川安定政権時代が到来する。織田信長、豊臣秀吉と比べて、後世に不人気な家康だが、彼を主役とした物語がもっとも人気が高い。それは家康の人生全てが戦国時代そのもので、信長、秀吉の時代から通して戦国の終結まで、全て描き切ることが出来る所以だろう。

 その信長、秀吉、家康の時代に全て関わってきた、数少ない武将に数えられる兼続。後世の私たちでさえ、小説やドラマなどで何度見聞しても飽き足らないこの時代を、実体験として語ることのできる兼続のような人物の話は、この当時、関ヶ原の戦後生まれの若者たちには「生きた教科書」のような存在だったかもしれない。信長を語り、秀吉を回顧する。もはや彼らは歴史上の人物である。そして話題は関ヶ原へ。
 「関ヶ原随一の名将は、なんと言っても石田三成よ。あの男ほどこの国を思い案じておったものを知らぬ。」
 徳川時代の260年間、歴史上の大奸物として伝えられてきた石田三成。しかしこの時代にはまだ三成を知っている人物が生き残っていたわけで、三成の評し方も様々であっただろう。(江戸城内でこのような発言は出来ないだろうけど・・・。)
 「生きて後世に我らの義を伝えると約束したのじゃ。」
 真実を知っている人物の語りは、後世の私たちにどれだけ伝承されているだろうか・・・。

 直江兼続は1620年(元和5年)、江戸鱗屋敷でその生涯を閉じた。享年60歳。嫡男が早世し、跡取りのいなかった直江家は、兼続の死をもって断絶する。晩年は上杉家の減移封を招いた責任を深く思い、高禄の直江家の知行を返上することで、少しでも上杉家の財政を助けるため、兼続が意図的に断絶したとも言われている。最後まで「忠義」に厚い兼続らしさがうかがえるエピソードである。

 「天地人」全47話全て感想ともいえぬ感想を書き終えました。総括は近日中にエントリーしたいと思います。


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by sakanoueno-kumo | 2009-11-23 00:58 | 天地人 | Trackback | Comments(0)  

天地人 第46話「大坂城炎上」

 豊臣秀頼の正室で徳川家康の孫でもある千姫。織田信長の妹・市と浅井長政の孫でもあり、再来年の大河ドラマの主役・江の娘でもあり、淀殿から見れば姪にあたり、秀頼にとっては従兄妹でもある。つまり彼女の身体には織田・浅井・徳川の血が流れているわけで、彼女自身が戦国ドラマの結末といってもいいかもしれない。そんな血を引く千姫自身もまた、数奇な人生を歩むことになる。

 関ヶ原の合戦の後、7歳で秀頼に嫁いだ千姫。徳川と豊臣をかろうじて結ぶ唯一細い糸の存在だったわけだが、秀頼との仲は決して細いものではなく、非常に仲睦まじい夫婦だったという。同じく幼かった秀頼との関係は、夫婦というより兄妹のような信頼関係にあったとか。しかし、無情にも歴史はその細い糸を引き裂く道を選ぶ。大坂夏の陣において大坂城落城。秀頼と淀殿は自刃し、豊臣家は滅亡する。このとき千姫は19歳。ドラマ中では真田幸村が救い出し、兼続が家康の陣に送り届けていたが、実際には津和野藩主・坂崎直盛が救出したとの説が有名(この説も確証はないようだが・・・)。家康はこのとき「千姫を救出した者と千姫を結婚させる。」との言葉があったとか。若き日の家康は自身の正室と嫡男をも信長に対する忠義で殺した男だが、年老いたとはいえ、孫娘に対する愛情は深かったようである。

 その翌年20歳になった千姫は、桑名藩主本多忠政の嫡男・本多忠刻と再婚。ほどなく姫路城に移り住み、一男一女をもうける。新しい夫・忠刻とも夫婦仲睦まじく、これで幸せな日々を送れるかと思ったのもつかの間、長男・幸千代がわずか3歳で没し、その後流産を繰り返し子宝に恵まれず、やがて夫・忠刻も没し、30歳で再び未亡人に。その後は再婚することもなく70歳まで生きる。祖母であるお市の方や、叔母である淀殿の波乱に満ちた生涯に勝るとも劣らない数奇な人生。その血を引いた彼女の宿命だったのかもしれない。

 大阪城落城を目前に、淀殿は千姫に対して逃げることを命じる。
 「千・・・家康めに申し伝えよ。豊臣は慈悲の心を持って、真の天下人となるとな。」
 千姫と淀殿・秀頼の別れの際にどのような会話があったかなど、後世の私たちには知る由もないが、その後、秀頼と側室の間の娘が処刑されそうになった時に、千姫は身体をはって必死の助命嘆願を行い、彼女を自らの養女にして命を助けたという逸話を思えば、豊臣の慈悲の心は千姫に受け継がれており、後世の私たちのうかがい知れるところである。

 それにしても家康の最後の涙はいかがなもんだろう。ここまできたら最後まで悪役を徹底してほしかったと思ったのは私だけだろうか。あの程度の説教で反省する家康など、本ドラマではあって欲しくなかった!

 そんなこんなで次週、最終回。


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by sakanoueno-kumo | 2009-11-17 01:01 | 天地人 | Trackback | Comments(0)  

天地人 第45話「大坂の陣へ」

 関ヶ原の戦いが終わってから大坂冬の陣・夏の陣までの十数年間、勝者の側も敗者の側も、様々な思いが交錯したことだろう。後悔の念。先行きの不安。良心の呵責。あのときもしこうしていたならば・・・。己の選んだ道は間違いっていたのではないだろうか・・・。400年後に生きる私たちが思うまでもなく、この時代、それぞれの立場で「迷い」の時代であったのかもしれない。

 兼続のもとを訪れた毛利輝元は、関ヶ原の戦いにおいて西軍の総大将という立場でありながら煮え切らぬ姿勢だった行いに、後悔の念を打ち明ける。あのとき敢然と動いておれば・・・あのとき大坂城を明け渡さなんだら・・・いまだ天下は豊臣にあり、毛利も安泰だったのではと・・・。
 そして兼続に問う。
 「そちとて、そう思わぬことはなかろう?」
徳川が背を向けたとき追撃しておればと・・・。さすれば、家臣や民、百姓にいらぬ苦労を負わせることはなかったのではと・・・。
 兼続は答える。
 「我らは負けました。今更それを悔いたとて何も始まりませぬ。」
 「生きていれば、辛いことも、ままならぬこともございます。されどそれらすべてに、慈愛の一念を持って対することこそが、人としてのあるべき姿と存じまする。」

 過ぎたことを悔いていても前には進めない。これまで歩んできた道を否定するのではなく、その全てが今の自分を作っており、歩むべき道だったと思うことこそが大切ということなのだろう。難しいことだが、そうありたいと私も思う。

 そんな兼続にも「迷い」はある。この先起こるであろう、徳川と豊臣の決着についてである。歩んできた道は心の持ちようで消化できても、これから進むべき道への迷いは拭いきれない。

 そしてもう一人、上杉景勝もまた「迷い」の境地にいる。
 「徳川の世にあって、生き続ける道を我らは選びました。されど、その道で良かったのでありましょうか。」
 養父である上杉謙信の掲げた「義」に、自分の行いは反しているのではないだろうか。多くの家臣を養う主としての「義」と、一人の武士(もののふ)としての「義」の狭間で迷い苦しむ景勝。そんな彼に、死を目前にした景勝の母・仙桃院はこう告げる。
 「引け目に思うことなど何もない。そなたはそなたの義を、貫き通せばそれでよい。」
 自分を信じて、自分の出来る精いっぱいの仕事をする。「迷い」は誰にでもあるけれど、精いっぱい生きることが後悔しないたったひとつの道だと私も思う。

 大坂では淀殿が・・・高台院が・・・徳川方では二代将軍・秀忠が・・・全国諸所では、豊臣恩顧の大名が・・・徳川譜代の大名が・・・それぞれの立場、思惑で「迷い」の境地にあったであろうこの時代。歴史はこのあと、乱世に終止符を打つべく、大坂冬の陣、夏の陣に向かっていく。



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by sakanoueno-kumo | 2009-11-10 01:10 | 天地人 | Trackback(1) | Comments(2)  

天地人 第44話「哀しみの花嫁」

 本多正信の次男・政重。1604年(慶長9年)、直江兼続の娘・於松の婿養子となり、直江大和守勝吉と名を改める。この勝吉こと本多政重は、これ以前も波乱万丈の道を歩んでおり、徳川家重臣の家に生まれながらも刃傷沙汰を起こして出奔し、大谷吉継や宇喜多秀家などのいわゆる関ヶ原の戦いにおいて徳川方から見た敵方に仕えていた。言ってみれば、この4年前の関ヶ原の戦いまでは、兼続たちと「同志」に位置していたわけである。その後、正信の子ということもあって罪には問われず、兼続が本多家に近づいたことから、この縁談が成立した。
 しかしほどなく妻・於松が病死。それでも養子縁組は解消されず兼続の弟・実頼の娘を後妻として迎え、直江家との関係を保つことになる。その後結局は直江家を去ることになるのだが、その後も本多家と直江家は親しい交流があったとされることから、深い信頼関係が築かれたのであろうことが想像される。

 養子といっても政略結婚。ましてや上杉家は監視される立場にあり、敵方のスパイを黙認して雇い入れたようなものである。しかし兼続は養子となった勝吉に上杉家の内情を次々と見せてまわる。包み隠さないことで、逆に身の潔白を証明しようという意図が窺えるが、鉄砲の鍛冶場まで明かされた勝吉は兼続の心が理解できない。
 「上杉に謀反の疑いありと、私が告げればどうなりましょう?」
 「それも見越した上で、そなたをここに連れてきた。」
 「何故に?」
 「そなたが我が身内であるからじゃ。」
 人の信用を得るには、まずは人を信用する。政略結婚とはいえ縁あって身内になったのだから、まずは信頼関係から構築せねば何も発展しない・・・といったところだろうか。もっともではあるが、弱い立場で人を信用することはとても難しいこと。身を守ろうとすれば人を疑ってしまうのが凡人の常である。数々の修羅場を経験し、人間関係にとってもっとも大切なのはその「真心」だということを知っている兼続ならではの外交である。

 一方で、勝吉・於松の夫婦関係はそう簡単にはいかない。父・兼続の心を受け継いだ於松は、縁あって夫婦になった勝吉との絆を深めようと悩み苦しむ。
 「絆とは、相手に何をしてあげられるかを思い続けること。」
 母・お船に教えられて、妻として夫にしてあげられることを尽くす於松だったが、その思いが勝吉の心に響いたのは、哀れにも彼女の死後のことだった。
 相手に何をしてあげられるか・・・。夫婦の間でそれを思い続けることもまた難しいこと。親子関係ならば、親が子にそう思い続けることは常。しかし夫婦の間において、果たしてそれが出来ているだろうか。自分にして欲しいことを求める心の方が多いのではないだろうか。そんなことを感じさせられた言葉だった。

 この物語も残すところ3話。今話で兼続は、己の目指すべき道、政に対する考えが固まったようである。
 「天下は誰のものでもない。守るべきは天下という形ではなく、ここに生きる民の暮らし。」
 こののちも、大阪冬の陣・夏の陣などまだまだ政局は激しく動きを見せるが、ここからの様々な局面での兼続のは、常にこの考えをベースに道を選択していくことになるのだろう。


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by sakanoueno-kumo | 2009-11-02 01:22 | 天地人 | Trackback | Comments(0)  

天地人 第43話「実頼追放」

 直江兼続の実弟、大国実頼。兼続の2歳下の1562年(永禄5年)生まれ。私には男兄弟がいないのでわからないが、年近い兄弟は終生ライバル意識があるという。そしてその意識は弟のほうがより強いとか。ましてや兄が偉大な人物であればなおのことだろう。兄であるが故、認められない、譲れない思い・・・。そんな心が実頼にもあったのではないだろうか。

 ドラマでは、本多正信・正純父子を前に縁組の中止を発言した実頼だったが、史実では本多の使者を殺してしまい、出奔し高野山に逃れるとある。ドラマ以上にヘビーなぶち壊し行為で、その後の兼続の尻拭いは並々ならぬものだっただろう。ドラマ中にあったような正信父子とのやり取りが実際にあったかどうかはわからないが、その後縁談を取りまとめ、政重の養子縁組解消後も本多家とは深い交流があったことから考えれば、本多氏がよほど兼続を信頼していたことが窺える。弟の失態を帳消しにするほどの兼続の誠意。兼続・実頼兄弟では完全に弟の負け。高野山にて実頼はそう悟っただろうか。

 「如何なる苦境に立たされようとも、上杉の誇りを傷つけることだけは許せない。」
実頼には自分なりの正義があっての行い。責めは受けるも考えを改めるつもりはない。曲がったことは許さず、万人が正しいと思える道こそ上杉の掲げる「義」であると説く。

 「義だ、誇りだと声高に叫ぶ者の心中にあるのは、ただ己が体面のみ。我らが奉ずる義とはもっと大きなもの。」
兼続から見れば、実頼のいう「義」は個人の意地に過ぎない。「義」とは己の為に守るものではないとする。万人の幸せの為には己の意地も捨てる・・・これこそ「大義」であるという考え。上杉家執政の立場での「義」と、一人の侍としての「義」。そこに深い溝が生じたとも言えるかもしれない。本当の「義」とは何か・・・。不詳、私ごときでは答えは見つからない。

 余談ですが、大国実頼役の小泉孝太郎さん。
「兄上の進まれている道は、誠に上杉の進むべき道なのでございますか?」
と、力強く兼続に進言していましたが、小泉政権の進めた道は日本の進むべき道だったのか、是非父上に訪ねてみてください。当時の上杉家と同じくらい、今の日本は病んでます。



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by sakanoueno-kumo | 2009-10-29 04:00 | 天地人 | Trackback | Comments(0)  

天地人 第42話「将軍誕生」

 1563年(永禄6年)、武田信玄の六女として生まれた菊姫は、1604年(慶長8年)、上杉家伏見邸にて42年の生涯を閉じる。武田家と上杉家の同盟の証として景勝に嫁いだ菊姫だったが、両家の血を引く世継ぎ産むことは出来なかった。英雄、武田信玄と上杉謙信の血筋を託された菊姫。重圧は大変なものだっただろう。

 お家の存続が第一だったこの時代。ドラマでは自ら子を宿すことを諦めた菊姫は、夫・景勝に側室を薦める。側室が当たり前だった時代。自分が世継ぎを産めなければ側室を薦めるのが正室の務め。現代の私たちには想像できない感覚だが、しかし生涯側室を持たなかった武将も数多くいることを思えば、男女の心のあり様は今も昔も変わらないのではないかとも思える。

 景勝が側室を迎え、懐妊の事実を知ってか知らずか、世継ぎ定勝が生まれる3か月前、己の役目を終えたかのようにこの世を去った菊姫。さぞかし無念だっただろう。1595年に豊臣家への人質のため京都伏見邸に移ってから9年。上杉家が移封された米沢で暮らすことや滞在する事はもとより、京都を出ることすら一度もなかった。

 征夷大将軍を任じられた徳川家康に、祝いの謁見をするため江戸入りした景勝と兼続。しかし、菊姫の病の知らせを受けた景勝は、兼続の後押しもあって伏見に向かう。景勝不在で家康に謁見した兼続は、当然の如くあらぬ言い掛かりをつけられ、理由を問われる。
 「病の奥方を案じ、そのお心を支えんがためでございます。」
 しかし家康は信用しない。信長への忠義のために己の正室と嫡男を殺した家康である。理解出来るはずがない。しかし、兼続は言ってのける。
 「それが上杉でございまする。」
 「君臣親しく、夫婦睦まじく、親子の絆強くあることこそ、国の礎と信ずる家風でございまする。」
 「はばかりながら申し上げまする。天下を取るばかりではなく、天下を治めるつもりがあるならば、何卒この心をお分かりいただきとう存じまする。」

 政治は心である。人を案ずる心がなければ、天下を案ずることは出来ない。政権をとるのは手段であって目的ではない。政権を司るには、マニフェストよりもまずは心である。

 「友愛」を掲げる今の政権。本当にその心が本物ならば、国民は支持を続けるだろう。


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by sakanoueno-kumo | 2009-10-20 01:47 | 天地人 | Trackback | Comments(1)  

天地人 第41話「上杉の生きる道」

 1601年(慶長6年)10月、徳川家康の命により米沢へと移り住んだ兼続たち。石高4分の1という大幅減封にも関わらず6000人の家臣を誰一人リストラしなかったのだから、経営はたちまち大変なわけである。国づくりを進めようとする兼続に対して、自分たちの生活を心配する家臣たち。もっともな話である。

 「皆の不安はもっともじゃ。だが、ただ座して何を待てというのか。今、新しいことを始め希望を持つことで、道を切り拓こうではないか。」
ピンチをチャンスに。弱っている時こそ攻める姿勢を。100年に1度と言われる平成不況に生きる私たちだが、ただ座して待つだけでは何も生まれない。今、もっとも必要な心かもしれない。
 「恐れながら、その希望とやらは腹の足しになりますかのぉ。」
しかし、末端に生きる者たちの思いも切実。心の温度差は否めない。
 「石堤に掛かる元手は、わが家禄から都合する故、心配無用。」
まずは取締役から身を削る。これが出来てない経営者が現代では多いのでは?最も厳しい立場に自らを置いてから、部下に痛み分けを要請する。これが出来なければ経営者としての資格はない。兼続の行おうとしていることは経営者としては当たり前のことなのだが、これを美談として描かなければならない現代の世の中は、やはり病んでいるということだろうか・・・。

 上記とは別に今話の主題は、タイトル「上杉の生きる道」とはあまり関連なく、「父」と「息子」の絆の話。こちらについては昔も今も大きくは変わらない。いつの時代でも父親にとって息子は己の写し絵で、故に厳しく接するものであり、しかし最も愛しくもあり、ひいき目でもある。息子にとって父親は、幼き頃は師であり、憧れであり、しかしある程度の年齢になれば、目の上のたんこぶであり、壁であり、反面教師でもある。願わくば晩年もしくは死後、再び幼き頃のように父親を師と敬うときが来れば最も理想的な父子だが、これは父親次第というところだろう。
 
 兼続は父の死の直前にその心に達した。父、惣右衛門にとって最も嬉しい冥土の土産だっただろう。不詳、私にも15歳の息子がいる。説教の多い親父で、最近私の顔を見ると自分の部屋に逃げていく。(苦笑) いつか、兼続、惣右衛門父子のような関係になれる日がくるだろうか・・・。 


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by sakanoueno-kumo | 2009-10-12 01:43 | 天地人 | Trackback | Comments(0)  

天地人 第40話「上杉転落」

 「謝罪は無用と存じます。」
関ヶ原の戦いから1年後の1601年(慶長6年)、景勝と兼続は上洛して家康と対面する。戦の責めを問われた景勝だったが、家康の処分には従うものの謝罪はしないと公言する。
 直江状が戦の発端だったと責められた兼続だったが、
 「云われ無き讒言によって敵が攻め来たるならば、正々堂々と迎え撃たんとの覚悟を示したまで。邪(よこしま)なものに天下が奪われようとしているときこそ、正義とは何かを世に示さんがため。」と、言い放つ。
 家康の言うとおり、兼続の書状はまさしく家康に喧嘩を売った果たし状。その喧嘩に負けたのだから潔く傘下に下るものの、喧嘩を売った理由は「義」にあり、謝罪する必要はないという強い意思表示。社民党議員が聞けばすっ飛んで怒ってきそうな話だが、戦とは勝者にも敗者にも「正義」があり「悪」があるもの。上杉にとっての「義」は、上杉にとっての「国体」なのである。謝ってしまっては死に体、譲ることの出来ないものである。

 とは言うものの、お家取りつぶしになってしまっては結局上杉の義は滅びてしまう。兼続は本田正信に近づき上杉家存続のための裏工作に奔走。福島正則や小早川秀秋の力添えもあって、なんとか会津120万石から米沢30万石へ減封に落着。(これについては史実と照らし合わせて異論も多いと思われるが、それはひとまずおいといて。) お家取りつぶしは免れたものの、直江状のダメージは大きかった。

 会津へ戻った兼続は、身の振り方を案じる家臣たちを前に決意を語る。
 「上杉はもう財は残っておらぬ。あるのは、皆の心の中にある義と愛の志のみじゃ。されど残念ながら義と愛だけでは食うては行けぬな。」
 「進むも引くも地獄となろう。殿を信じついてきてくれるのであれば、誰一人召し放ちなどせぬ。楽をさせることは出来ぬが、共に戦ったそなた達の暮らしは、わしが精一杯守る。」

 リストラはしないが、ワークシェアリングでの痛み分けは避けられないといったところ。苦渋の選択だっただろう。石高は4分の1になったわけで、それでも従業員を減らさずに経営していける企業など、平成の現代では考えられないことである。取締役の大幅減俸はもとより、末端社員の隅々まで大きな理解と覚悟がなければ出来ることではない。
 「禄高など二の次、三の次。上杉の家臣であることこそ、宝でござる。」
こんな強い愛社精神の従業員を持った上杉家は、戦国屈指の優良企業だったのだろう。


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by sakanoueno-kumo | 2009-10-05 10:17 | 天地人 | Trackback | Comments(2)  

天地人 第39話「三成の遺言」

 大河ドラマにおいて、初めて関ヶ原の敗者側が主役となった今年の「天地人」。直江兼続と石田三成の友情物語でもあったこの物語では、当然その最期も三成側の視点から描かれている。

 関ヶ原の敗軍の将として無念の最期を遂げた石田三成。優れた行政能力を持った官僚型の人物で、同じ豊臣恩顧の福島正則や加藤清正などの武断派たちとの間に確執があったとされ、その確執が結果的に関ヶ原での敗走を招いたともされる。しかし自らの領地・近江では、善政を敷いていたため領民から慕われ、三成の死後も領民たちは佐和山城付近に地蔵を築き、彼の遺徳を偲んだという。ドラマでは省かれていたが、関ヶ原を敗走した三成が自身の領地・近江の岩窟に身を潜めていたとき、領民の与次郎という人物が死罪を覚悟で三成の献身的な介抱をする。三成はこの与次郎の義侠心に感銘し、彼に罪が及ばないように自ら役人に身を晒したという有名な話がある。彼の人間性がうかがえるエピソードである。

 「大義は尚、我にあり。」「不義の輩が長く栄えるは無しと思われよ。」
 囚われの身となった三成が家康に言った最期の言葉だが、皮肉にも歴史はその言葉とは全く反対の意志を示し、以後250年に及ぶ日本歴史上最も安定した政権、徳川時代に繋がるのである。ならば三成の言う「正義」は間違っていたのか・・・。そうは思えない。それではもしも関ヶ原の戦いで三成が勝利していたら・・・その後の日本がどのような歴史をたどったかは、誰にもわからない。やはり歴史の「もしも」はタブーで、歴史に起こった出来事はすべて現代の私たちに繋がっており、それは歴史の必然であって、「正義」と言えるのかもしれない。

 処刑を待つ三成と福島正則が酒を酌み交わすシーンはいいシーンだった。もちろんこのようなエピソードは存在せずフィクションなのだが、石田三成と福島正則という二人が、道は違えても豊臣家の為に命を賭した武将であったことは十分に伝わるシーンであり、その心は決してフィクションではないだろう。

 石田三成 辞世の句
 「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」


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by sakanoueno-kumo | 2009-09-28 01:00 | 天地人 | Trackback | Comments(0)