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龍馬伝最終回の、配慮に欠けた速報テロップの風刺漫画に笑う。

 旬ネタをすぎた観はありますが・・・。先日、全話が終了した大河ドラマ「龍馬伝」ですが、その最終回の坂本龍馬中岡慎太郎が刺客に襲われ暗殺されるという最も重要なシーンに、ニュース速報のテロップが出てNHKに抗議の電話が殺到したという話題がありましたね。たしかに、あれには私も少々興ざめしてしまいました。いってみれば、11ヶ月の物語の集大成のようなシーンでしたからね。しかも、一刻を争う災害の速報などならともかく、愛媛県知事選の当確速報という、言っちゃあ悪いですが、他府県民にしてみればどうでもいい報道なわけで・・・。愛媛県民の人であっても、それを知るのが10分遅れたからといって、文句をいう人はいないんじゃないですか? 私なんて全話保存版のつもりで録画してましたから、抗議の電話こそしませんでしたが、ちょっとムカつきました。見ている側もそうですが、熱演してる福山雅治さんや上川隆也さんにも失礼ですよね。この件について、NHKは「不幸な偶然」といっていたそうですが、配慮が欠けていたといわれても仕方ないでしょうね。

 で、なぜ今頃になってそんな旬をすぎた話をするかというと、この速報テロップを流したNHKを皮肉った4コマ漫画が高知新聞に掲載されていたらしく、その漫画が面白いということで、「2ちゃんねる」などで話題になっているそうです。それが、これ。↓↓↓

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 ねっ・・・面白いでしょう? 私も久々に4コマ漫画で爆笑してしまいました(笑)。時事風刺の4コマ漫画はめずらしくありませんが、なるほどこれは話題になるはずですね。NHKさんは見たでしょうか(笑)。

 この件に関して、NHKは配慮に欠けていると批難されていましたが、私が思うに、そんなことわからなかったはずはないと思うんですけどね。放送局内部では、報道部が他のどの制作部よりも力を持ってる、などという話を聞いたことがあります。ましてや天下の国営放送の報道部ですからね。「なに?大河ドラマだ~?そんな娯楽番組より速報の方が優先だろ!」ってな具合でスゴまれたら、他の部所の人間は何もいえなかったりするんじゃないでしょうか・・・。あくまで想像ですが・・・。だって、ちょっと考えたらわかりそうなもんでしょ?抗議の電話が殺到しそうなことも・・・。

 もしそうだとしたら、NHKの報道部の皆さん、この漫画をもう一度読んでみてください。ニュース速報は大切ですが、入れる場面を間違えると、邪魔でしかないってことがわかるでしょう?


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by sakanoueno-kumo | 2010-12-17 22:34 | 龍馬伝 | Comments(6)  

龍馬伝 総評

 「薩長連合、大政奉還、あれァ、ぜんぶ龍馬ひとりがやったことさ。」と、後年の勝海舟がいったそうです。もちろん、歴史とはそんな簡単なものではなく、龍馬ひとりで出来るはずはないのですが、何の後ろ盾もない下級武士の彼が、薩摩、長州という大藩の間を渡り歩き、もし龍馬がいなければ、歴史はまた違ったものになっていたかもしれないと思えるような大仕事をやってのけた彼に、後世の私たちは痛快さをおぼえ、魅了されてしまうのです。そんな坂本龍馬の物語が、2010年の大河ドラマ「龍馬伝」でした。

 全48話が終わりました。毎週ドラマの進行に沿いながら、史実・通説との対比や私見、感想を綴ってきましたが、ようやく最後を向えました。一昨年、「龍馬伝」の制作発表があって以降、ずっと私のテンションは上がりっぱなしでした。坂本龍馬は私にとって幕末史の入口。大河ドラマは毎年観ていますが、1968年に放送された「竜馬がゆく」を知らない世代の私としては、坂本龍馬を主役とする初めての大河作品だったわけで、期待するなといわれても無理な話。2008年11月に始めた当ブログの第1稿目が、龍馬役が福山雅治さんと発表された記事で、考えてみれば、当ブログは「龍馬伝」と共に歩んできたといってもいいようです。最終回の稿を終えたものの、まだまだ言いたかったことやドラマではなかったエピソードなどが尽きないのですが、ひとまず区切りとして「総評」をここに記したいと思います。

 まずは映像としての「龍馬伝」。これは素晴らしい仕上がりだったと思います。年末の特別大河ドラマ「坂の上の雲」と同様フィルム撮影のような質感で作られた深みのある画面は、まるで歴史ドキュメントを見ているようで、そこにスタッフの存在を匂わせない臨場感あふれる映像世界を作り出していました。わざと手ぶれさせているのか、躍動感のあるカメラワークも見ている私を映像の世界へ引きずり込みまたし、照明も自然でリアリティーがありました。夜は暗く、昼間でも決して俳優の正面から光を当てず、光源は常に斜め上か真後ろ。だから、ときには逆光となって、役者の顔がまったく見えなくなったりもします。時代劇といえば、俳優さんはドウランをテカテカに塗って、照明は常に俳優さんの顔に当たるというのが当たり前でしたが、「龍馬伝」はその常識を覆しました。たとえば室内のシーンで、縁側の向こうにある庭に強力な光を当てて、逆に室内は暗くし、その庭を背景に座った人物たちはシルエットだけが浮かび上がる・・・このような手法が用いられたシーンがたくさんあり、この照明効果も、「龍馬伝」を深みのある映像に仕上げた大きな理由だったと思います。

 そしてリアリティーといえば、なんといってもセットの演出でしょう。庶民に近い下士階級の武士たちが中心の「龍馬伝」。物語前半の土佐の町のホコリっぽさや、男ばかりが集った武市道場の汗臭さ。同じ道場でも江戸の千葉道場は垢抜けていて清潔感がありました。女性の登場人物も、江戸の佐那さんと南国である土佐の阪本家の女性たちとでは、肌の色も差をつけていました。弥太郎は汚すぎるという声も多かったようですが(笑)。セット、服装、メイクともに、極め細やかなこだわりが感じられました。

 次に、配役で見た「龍馬伝」。一昨年、坂本龍馬役の福山雅治さんが発表になったときは、ガッカリしたというのが正直なところでした。福山さんの持つクールで清潔感のあるイメージと、私の持つ龍馬のイメージとはかけ離れていたというのがその理由でした。福山さんが、時代劇は初めてというのも不安材料のひとつでした。で、全48話を観終わってみて思うのは、素人が生意気なことをいうようですが、役が役者を育てるんだなぁ・・・というのが今の率直な感想です。第3部あたりからは本当に龍馬に見えてきました。私の持つ龍馬像は後述しますが、ともあれ「龍馬伝」における龍馬像を見事に演じておられたと思います。大河ドラマの主役を1年間演じきって、福山さんの役者としての幅が広がったんじゃないでしょうか。

 脇を固める俳優さんは一流の方々ばかりだったので、どの方も文句のつけようがなかったのですが、とりわけ岩崎弥太郎役の香川照之さんは見事でしたね。「坂の上の雲」では少年のように純粋で無邪気な正岡子規役で、こちらでは、傲慢でひねくれ者の岩崎弥太郎役という、まったく違うタイプの人物をほぼ同時期に演じた香川さんは、今の日本の同世代の俳優さんの中では群を抜いているように思います。あと、武市半平太役の大森南朋さんも物語前半を引っ張ってくれましたし、勝海舟役の武田鉄也さんもさすがは、といった感想、桂小五郎(木戸孝允)役の谷原章介さんもイメージぴったりでした。西郷隆盛役の高橋克実さんがちょっとね・・・。でもこれは高橋さんが悪いわけではなく、西郷どんは固定イメージが強すぎて、適した俳優さんがいないというのが理由だと思います。女優さんでは、千葉佐那役の貫地谷しほりさんが良かったですね。お龍さん役の真木よう子さんも良かったのですが、気の強いキャラだけが誇張されすぎていて、もうちょっとなんとかならなかったかなぁ・・・とは思います。これも真木さんのせいではないですけど。

 最後に脚本としての「龍馬伝」。こちらは少々辛口な評価にならざるを得ません。一言でいえば、「残念」という言葉が当てはまる作品となりました。何度か当ブログでも述べましたが、私は史実云々という揚げ足取りのような批判はあまりしたくないと思っています。過去、名作といわれる作品の中にも、フィクション性の強い作品は見られました。物語である以上、フィクションありきで構成されるのは当然で、どこまで作り話が許されてどこからが許されないかの規制などないわけですから、史実と違うという批判自体ナンセンスだと思うんですね。ただ、フィクションにする以上、面白くなければ意味がないとは思います。これだったら、史実・通説どおりに描いた方が良かったのに・・・では、フィクションにする意味がないですよね。そこが歴史物の難しいところでしょう。よほどのストーリーを作らなければ、「事実は小説より奇なり」ですから。

 まずは主人公である坂本龍馬の人物像です。すでに多くの人が感じていると思いますが、必要以上に「良い人」すぎるんですよね。これは「龍馬伝」に限らず、近年の大河作品すべてに共通していえることだと思います。人の気持ちがよくわかる心優しい好人物。歴史上の偉人の魅力というのは、そんなところではないですよね。良くも悪しくも常識を逸脱しているからこそ偉人になり得たわけで、「良い人」だけでは偉人にはなり得ません。信長、秀吉然りですよね。偉人の偉人たるべきあくの強さはあまり描かれず、偉人たるもの万人から尊敬される人物でなければならないという描き方が、かえってその人物の偉人としての魅力を下げていると思えてならないのです。「龍馬伝」の坂本龍馬も、本来持つ彼の魅力を結局は描けていなかったと思います。岩崎弥太郎のあくの強いキャラが好評だったのは、そういった点からではないでしょうか。

 次に、主人公を必要以上に「活躍」させすぎるというところです。これも「龍馬伝」のみならずですね。本作でいえば、池田屋事件武市半平太の死に際などがそうでした。本来龍馬が関わっていない事件ですし、無理やり絡める必要はなかったように思います。主役が登場しない話が多く続くと、制作サイドとしては不安なのでしょうか。私は主役が出ない回があってもいいのではないかと思うのですが・・・。すべてのエピソードに主役を絡めて活躍させることで、これもまた、かえって本来の活躍の場が薄れてしまっているように思えてなりません。

 主役である龍馬以外の登場人物が、あまりにも「小者」に描かれていたところも残念でした。本作では、西郷隆盛後藤象二郎徳川慶喜も皆、小者でしたね。そう描かないと、龍馬の魅力が伝わらないと思っているのでしょうか。主人公は「良い人」で、脇役は「小者」という極端な描き方は、かえってウソくささを感じてしまいます。

 あと、説明的な台詞が多かったのも残念でした。観る側に考える余地を与えてくれず、登場人物に全部語らせてしまうことが多かったように思います。たとえば最終回の、刺客の今井信郎に弥太郎が詰め寄る場面で、「坂本龍馬は徳川に忠義を尽くす我ら侍を愚弄した。我らの全てを無にしたんだ!」という台詞を今井に言わせてましたが、あの台詞って必要だったでしょうか。あのような台詞がなくとも、大政奉還後の幕府側の侍たちの胸中は理解できますし、あの台詞を吐いたことによって、刺客たちの迫力や不気味さが削がれてしまったように思えてなりません。言葉にしないからこそ伝わるものもあると思うんです。そういうシーンが全話にわたって多く見られました。もっと、視聴者を信頼してほしかったですね。

 ドラマでの龍馬は、とにかく「友」を大切にし、「命」を重んじる人物でした。現代のドラマでは、どうしてもあのように描かなければならないのかもしれませんが、残念ながらこの時代はそんな時代ではありませんでした。「命」が簡単に捨てられた時代です。無理やり現代の価値観に当てはめて描くと、どうしても違和感が生じます。それでも、どうしても「友情」を描きたいのであれば、軽々しく「友」という言葉を龍馬に言わせるのは、かえって安っぽく思えるだけでしたし、「命の大切さ」を伝えたいのであれば、龍馬にそれを台詞として言わせるのではなく、いとも簡単に人が死んでいった事実と、その時代に生きた人々の死に対する考え方を忠実に描く方が、結果的に「命の大切さ」を伝えることができたのではないでしょうか。

 ここまで私は文中で「残念」という言葉を多用しました。心の底から「残念」だと思うのです。映像や演出、音楽などは素晴らしく、俳優陣も一流の方々ばかりで、上手く作れば「名作」となり得た作品だったと思うからです。制作サイドは本作品で「新しい龍馬像」を謳っていました。作り手というのはいつもオリジナリティを求めたがります。しかし残念ながら歴史物というのは、オリジナリティは必要ないのです。少なくとも観る側はそれを求めてはいません。定番は定番であってほしいのです。定番を知らない人は、それ自体が新鮮なものとなりますし、定番を知っている人も、新しい映像技術と、新しい役者さんで定番ストーリーを観ることが、実はとても新しいのです。歴史上の偉人そのものが魅力を持っているのですから、新しい人物像を作ることは、結局その人物の魅力をなくしてしまうことになるということに気づいてほしいと思います。「龍馬伝」は、「名作となる可能性を脚本で潰してしまった惜しまれる作品」というのが私の素直な感想です。

 これまで酷評はしてこなかった私でしたが、最後の最後できわめて辛口な発言になってしまいました。読まれて気分を害された方がおられましたら、深くお詫び申し上げます。私にとって「龍馬伝」は、それだけ思い入れの強い作品だったということでご容赦ください。毎週読んでいただいた方、ときどきご訪問いただいた方、コメントをいただいた方、TBをいただいた方、アクセスカウントの足跡のみ残していただいた方、皆様のおかげで最後まで完走できました。「龍馬伝」という括りでの稿はこれで区切りとさせていただきますが、なにぶんにも龍馬オタク、幕末オタクの私としてはまだまだ飽きたらず、折を見てまた、紹介しきれなかったエピソードや登場人物のその後など起稿できればと思っております。11ヶ月間、本当にありがとうございました。


■11ヶ月間の参考書籍
歴史書

『龍馬のすべて』平尾道雄(1966年)
『坂本龍馬 海援隊始末記』平尾道雄(1968年)
『中岡慎太郎 陸援隊始末記』平尾道雄(1977年)
『坂本龍馬読本』平尾道雄(1985年)
『坂本龍馬』飛鳥井雅道(1975年)
『龍馬暗殺完結篇』菊地明(2000年)
『龍馬暗殺 最後の謎』菊地明(2009年)
『坂本龍馬101の謎』菊地明、伊東成郎、山村竜也(2009年)
『日本の歴史 開国と攘夷』小西四郎(2006年)

小説
『竜馬がゆく』司馬遼太郎
『真龍馬伝 現代語訳 汗血千里駒』 金谷 俊一郎 (訳)・ 坂崎 紫瀾 (著)
『岩崎弥太郎』村上元三
『勝海舟』村上元三


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by sakanoueno-kumo | 2010-12-02 01:09 | 龍馬伝 | Comments(43)  

龍馬伝 第48話(最終回)「龍の魂」

 「龍馬、人がみんなぁ自分のように、新しい世の中を望んじゅう思うたら大間違いぜよ。口ではどう言うとったちいざ扉が開いたら、戸惑い、怖気づく者は山のようにおるがじゃき。」
 「龍馬、人の気持ちは、それほど割り切れるもんではないがぜよ。」

 弥太郎と慎太郎の言葉どおり、龍馬が選んだ革命の道は、必ずしも皆が望んだ道ではなかった。
 「世の人は 我を何とも言わば言え 我が成す事は 我のみぞ知る」
 龍馬が16歳のときに詠んだといわれるこの句のとおり、慶応3年のこの時期の彼の理解者は龍馬自身だけだったのかもしれない。

 大政奉還の偉業を成し遂げた坂本龍馬は、来たるべき新時代の政府の組織作りにとりかかった。三条家家士の戸田雅楽(尾崎三良)の協力を得て、「新官制議定書」と称する新政府組織案が出来たのは慶応3年(1867年)10月16日のことだった。その内容は、関白、内大臣、議奏、参議などの職制からなり、公卿、大名、諸藩士の名が適所に配置された見事な草案だった。ところが、新政府樹立の功労者が列挙されたその名簿の中に、肝心の龍馬自身の名がなかったという。それを見た西郷隆盛が龍馬の名がないことに気づき理由を尋ねたところ、「自分は役人にはなりたくないので新政府に入閣するつもりはない。」と答えたという。龍馬の魅力を語る上で、欠かせないエピソードである。龍馬の懐の大きさが感じられるエピソードだが、これひとつみてもまさに、「我が成す事は我のみぞ知る」の言葉どおりだった。

 そして11月、その仕上げともいえる「新政府網領八策」を作成する。その内容は同年6月に作成した「船中八策」と大きな違いはなかったが、この策をどのように実現させるかを記した結びの文が違っていた。
 「右、預メ二三明眼士ト議定シ、諸侯会盟ノ日ヲ待ツテ云々。○○○自ラ盟主ト為リ、此ヲ以テ朝廷ニ奉リ、始テ天下万民ニ公布云々。強抗非礼、公儀ニ違フ者ハ断然征伐ス。権門貴族モ貸借スル事ナシ。」
 ここで問題となるのが、「○○○」と伏せ字にされた盟主の名前だ。ドラマの龍馬は、ここに入るのは「皆」だと言っていたが、そんな民主的な発想がこの頃の龍馬にあったとはさすがに思えず、やはりここには、実名を表しては差し障りがある人物の名が入ると考えたほうが正しいだろう。となれば、やはり思い浮かぶのは、徳川慶喜だろう。龍馬は、上記の「新官制議定書」に見る関白の次の内大臣の職に、大政奉還を断行した慶喜こそふさわしいと考えていたといわれている。龍馬は、朝廷を中心に薩摩、長州、土佐などの雄藩に加え、徳川家も入れた新政府の樹立を考えていた。大政奉還の成立で肩すかしをくらった武力討幕派の薩長は、この「○○○」の伏せ字で、さらに龍馬への不信感を覚えたであろうことは容易に想像がつく。もはや龍馬は、誰からも理解されない人物になっていた。まさに、「我が成す事は我のみぞ知る」だった。

 慶応3年11月15日、その日は朝から雨だった。前日から龍馬は風邪気味だったため、それまで潜んでいた近江屋のはなれの土蔵から、母屋の2階に移っていた。寒さが厳しいので、龍馬は真綿の胴着に舶来絹の綿入れをかさね、その上に黒羽二重の羽織をひっかけていたという。夕刻、中岡慎太郎が訪ねてきた。用件はわからない。このとき近江屋2階には、龍馬の下僕・藤吉と、書店菊屋の息子・峯吉がいた。やがて土佐藩下横目の岡本健三郎も訪れ、しばらく雑談を交わしていると、龍馬が峯吉に「腹がすいたから軍鶏を買ってこい」と命じた。峯吉が使いに出るとき、岡本も一緒に部屋をでた。峯吉が軍鶏を買い戻ってくるまでの時間がおよそ二、三十分。その間に事件は起きた。

 近江屋入口を叩く音に藤吉が応対に出ると、「拙者は十津川の者、坂本先生ご在宿ならば、御意を得たい。」と名刺を差し出す。十津川郷士には龍馬も慎太郎も知己が多いので、藤吉は別に怪しまず龍馬に名刺を渡し、部屋から戻ってきたところを尾行していた3人の男のうちのひとりが斬りつけた。その物音を聞いた龍馬は奥から「ほたえな!」と大喝した。藤吉が客人とふざけていると思ったのだろう。そして藤吉の持ってきた名刺を眺めていた龍馬と慎太郎のところへ、電光石火の如く飛び込んできた刺客2名は、あっという間もなく龍馬たちに斬りかかった。そのひとりが「こなくそ!」と叫んで慎太郎の後頭部を斬り、もうひとりは龍馬の前額部を横にはらった。龍馬は床の間に置いてあった刀を取ろうと身をひねったところを、右肩先から左背骨への二の太刀を受けた。続いての三の太刀は立ち上がりざま鞘で受け止めたが、鞘を割られ、刀身を削り、その勢いでまたも龍馬の前額はなぎはらわれた。脳漿が吹き出すほどの重傷をうけた龍馬は、そのまま倒れた。慎太郎も刀を屏風の後ろに置いてあったため、短刀を抜き応戦したものの、龍馬以上に数創の太刀を受け倒れた。刺客たちは止めの太刀を入れることなく、「もうよい、もうよい」との言葉を残して立ち去った。この刺客たちの、ほとんど間髪を入れないわざに、腕には覚えのあった龍馬も慎太郎も完全に立ち向かうすきがなかった。

 龍馬は間もなく正気を取り戻し、刀を抜いて行灯に照らしながら無念げに慎太郎に向かって「石川(慎太郎の変名)、手はきくか。」とたずねた。慎太郎が「手はきく」と答えるのを聞きながし、行灯をさげて隣の六畳間へにじり寄り、階段上から家人を呼び医者を求めたが、そのときは既に精根が尽きていた。 「俺は脳をやられた。もういかん。」とかすかに言って、うつぶしたまま龍馬は絶命した。その血は欄干から下の座敷までしたたり落ちていたという。

 坂本龍馬、享年33歳。奇しくもこの日、彼の33回目の誕生日であった。

 慎太郎は蘇生し、2日間生き延び、一時は焼き飯を食べるほどの元気を取り戻していたというが、その後容態は悪化、17日に死去した。中岡慎太郎、享年30歳。現在に伝わる襲撃時の様子は、蘇生した慎太郎が語ったものだといわれている。

 龍馬は大政奉還後ほとんど何も出来ぬままにこの世を去った。龍馬が明治の世まで生きていれば・・・後世の私たちは、幕末の英雄となった坂本龍馬についついそんなことを思う。しかし、同時代に生きる者たちにとっては、龍馬はむしろ疎ましい存在になっていた。繰り返し言うが、龍馬の最期は、誰からも理解されない境地に身を置いていた。彼の持つ、明るく、楽天的で、濶達な、愛すべき人物像とは裏腹に、土佐からも、薩摩からも、長州からも、幕府からも理解されることのない、孤立した存在となっていた龍馬。小説やドラマで颯爽としている龍馬からは想像もつかない、本当はどうしようもなく孤独な面をたえず持ち歩かねばならなかった、龍馬の晩年だったのではないかと私は思う。

 しかし、そんな孤独の中でも、きっと彼はこう言って笑っていたに違いない。
 「世の人は 我を何とも言わば言え 我が成す事は 我のみぞ知る」・・・と。



 「龍馬伝」全48話が終わりました。毎週読んでいただいた方、ときどきご訪問いただいた方、どなた様もこのような素人のとりとめのない稚文にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。今週中に「龍馬伝」総括を起稿したいと思いますので、よろしければまた、そちらにもお越しいただければ嬉しく思います。


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by sakanoueno-kumo | 2010-11-29 03:40 | 龍馬伝 | Comments(8)  

龍馬伝 第47話「大政奉還」

 慶応3年(1867年)10月3日、土佐藩参政・後藤象二郎は、「大政奉還建白書」を二条城ににいる15代将軍・徳川慶喜のもとに提出した。土佐に帰国していた坂本龍馬が京都入りしたのは、その直後である。幕府ではこれを採用するか否か、議論百出のおりだった。もしこれを拒否すれば、薩摩、長州、芸州の連合軍の砲門が直ちに開かれるだろう。もしこれを受け入れれば、260年続いた徳川政権の終焉を意味する。慶喜は迷っていた。

 そんな時期、龍馬は土佐藩参政・福岡藤次の紹介で、在京中の幕府大目付・永井玄蕃頭尚志のもとを頻繁に訪ね、しきりに建白書の採用をすすめていたという。龍馬も必死だった。あるとき龍馬は永井に対して、「甚だ露骨な質問であるが、貴下は幕府の兵力をはかって能く、薩長連合軍を制しうると思われるか。」と問いかけたところ、永井は少し考え込んで「遺憾ながら勝利を保し難い」と答え、すかさず龍馬は「しからば今日、建白を採用なされるよりほかにとるべき道がないではないか。」とせまり、永井を沈黙させたという。永井尚志はのちに人に向かって、「福岡は真面目な人物」と評し、「後藤は確実正直」と語り、そして龍馬を評して、「後藤よりもいっそう高大にて、説くところもおもしろし」と言ったという。京での建白運動の表面に立っていたのは後藤象二郎だったが、その黒幕として龍馬がいかに重きをなしていたかが、永井の評からうかがい知ることができる。

 徳川慶喜は、10月13日に二条城に在京諸藩の重臣を招集して会議を開くと発表した。龍馬はこの時期、後藤に向けて二度手紙を送っている。一度目の手紙は、10月10日頃に送られたと思われるもの。
 「幕中の人情に行はれざるもの一ヶ条これあり候。其義は江戸の銀座を京師に移し候事なり。此一ヶ条さへ行はれ候へバ、かへりて将軍職は其まゝにても、名ありて実なれば、恐るゝにたらず奉存候。」
 大政奉還を将軍が受け入れようが受け入れまいが、江戸にある造幣局をすぐに京都に移せという。逆に造幣局さえ移してしまえば、将軍職などそのままにしていてもかまわない・・・と。つまり、徳川家から日本の経済権を一気に奪い取れというのだった。造幣権さえ奪ってしまえば、幕府は貨幣を作ることが出来ず、すぐに財政は破綻してしまう。幕府財政の破綻はそのまま幕府の崩壊に繋がり、有名無実のものとなる。そうなれば、大政奉還など成されなくとも、幕府は実体を失う・・・というものである。血で血を争う武力討幕よりも、はるかに先見性がある龍馬の経済眼。このあたりにも、龍馬の政治センスがうかがえる。

 二通目の手紙は、二条城登城の当日に送った手紙。その内容は、後藤象二郎の覚悟を促すための激励状とも脅迫状ともいえるものだった。
 「御相談被遣候建白之儀、万一行ハれざれば固(もと)より必死の御覚悟故、御下城無之時は、海援隊一手を以て大樹参内の道路ニ待受、社稷(しゃしょく)の為、不戴天の讐(あだ)を報じ、事の成否ニ論なく、先生ニ地下ニ御面会仕候。○草案中ニ一切政刑を挙て朝廷ニ帰還し云々、此一句他日幕府よりの謝表中ニ万一遺漏有之歟(か)、或ハ此一句之前後を交錯し、政刑を帰還するの実行を阻障せしむるか、従来上件ハ鎌倉已来武門ニ帰せる大権を解かしむる之重事なれバ、幕府に於てハいかにも難断(だんじがたき)の儀なり。是故に営中の儀論の目的唯此一欸已耳(のみに)あり。万一先生(後藤象二郎)一身失策の為に天下の大機会を失せバ、其罪天地ニ容るべからず。果して然らバ小弟亦、薩長二藩の督責を免れず。豈(あに)徒(いたずら)ニ天地の間に立べけんや。  誠恐誠懼
十月十三日  龍馬
後藤先生」

 もし、大政奉還が成らなかったときは、下城する慶喜公の列に海援隊を率いて斬り込み、慶喜を殺して自分も死ぬ、というのだ。龍馬は決死の覚悟だった。この10ヵ月前、姉・乙女に宛てた手紙の中で、「人と言ものハ、短気してめつたニ死ぬものでなく、又人おころすものでなし」といっていた龍馬とは別人のようだ。それだけ、龍馬にとってこの日は、自身が推し進めてきた仕事の最大のヤマ場だったのである。

 この日、海援隊士および在京の同志たちは、皆、龍馬の下宿に集まっていた。後藤からの連絡はなかなか届かない。龍馬はイライラしながら待った。そしてその夜、ようやく後藤からの一報が入る。
 「大樹公、政権を朝廷ニ帰スの号令を示せり。」 龍馬は慶喜の英断に感動した。このときの龍馬の言動を最初に筆したのは、坂崎紫欄が明治27年に著した容堂伝『鯨海酔候 』で、 「坂本は何に思ひけん、傍なる中島作太郎に向ひて、慶喜公が今日の心中左こそと察し申す、龍馬は誓て此人の為めに、一命を捨つべきぞと、覚えず大息したり。」と記されており、また、渋沢栄一が編纂し大正7年に刊行された『徳川慶喜公伝』では、「将軍家今日の御心中さこそと察し奉る、よくも断じ給へるものかな、よくも断じ給へるものかな、余は誓つて此公の為に一命を捨てんと、覚えず大息したり。」という。時代が進むにつれ、多少オーバーになってきているようだが、少なからずこれに似た言葉を龍馬は言ったようだ。

 徳川慶喜が大政奉還にふみ切った理由については、様々な見方がある。内乱を避けるために一旦は政権を返上するも、朝廷はこれをもてあまし、結局は徳川家の手に戻ってくるという計算だったという説もある。そうだったかもしれない。しかし、少なくとも龍馬はそうは思っていなかったことが、上記の言動でもわかる。このときの龍馬の感情を、司馬遼太郎氏は小説『竜馬がゆく』の中でこう記す。
 「この男のこのときの感動ほど複雑で、しかも単純なものはなかったといっていい。日本は慶喜の自己犠牲によって救われた、と竜馬は思ったのであろう。この自己犠牲をやってのけた慶喜に、竜馬はほとんど奇蹟を感じた。その慶喜の心中の激痛は、この案の企画者である竜馬以外に理解者はいない。いまや、慶喜と竜馬は、日本史のこの時点でたった二人の同志であった。」
 
 大政奉還は、坂本龍馬と徳川慶喜の合作だったといっていいだろう。


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by sakanoueno-kumo | 2010-11-22 02:38 | 龍馬伝 | Comments(0)  

龍馬伝 第46話「土佐の大勝負」

 下関でお龍と別れた坂本龍馬は、慶応3年(1867年)9月24日、土佐・浦戸に入港した。2ヵ月前に「英艦イカルス号事件」の談判のため帰国した際は、藩内佐幕派をはばかり上陸することはなかった龍馬だったが、この度は上陸して浦戸沿岸の種崎の民家に潜んだ。ドラマでは、龍馬と後藤象二郎が直々に山内容堂に会い、大政奉還建白書を書くよう説得する内容だったが、通説では既に容堂は大政奉還を土佐藩の藩論とする意向を固めており、9月上旬には建白書を書いて後藤を上京させている。龍馬が土佐入りしたこの時期は既に後藤は京にいて、大政奉還の周旋活動をしていた。

 龍馬が容堂に会ったという事実はもちろんない。龍馬は帰国後すぐに藩参政・渡辺弥久馬、大目付・本山只一郎、同じく大目付・森権利次らと会合し、武力討幕に向け薩長の活動が活発化している緊迫した情勢を伝えた。龍馬の談ずるところを聞いた3人はことごとく感服して引き上げ、彼らの周旋によって事態を悟った土佐藩は、龍馬が持参したライフル銃1000挺を全て買い入れることに合意した。つまり、このとき龍馬が帰国した理由は、大政奉還を藩論として幕府に訴えながらも、それが受け容れっられないときには薩長の推し進める武力討幕に参戦せよ、と説得しにきたのだ。

 私は、しばしば龍馬が“平和主義の象徴”のように描かれることに不満を覚える。先日の拙稿でも述べたが<参照:坂本龍馬の「大政奉還論」と、中岡慎太郎の「武力倒幕論」(前編)(後編)>、龍馬は決して平和主義の非戦論者ではなかった。この一月ほど前に長府にいる三吉慎蔵に宛てた手紙の中で、「幕府との開戦のあかつきには、薩、長、土三藩の連合艦隊を編成し、強大な幕府海軍に対抗したい。」と述べており、また、土佐に向かう直前に木戸孝允(桂小五郎)に宛てた手紙でも、「後藤が用兵を躊躇するならば、むしろ後藤を見限って乾退助を動かす。」という旨を述べている。平成の現代の価値観で、「歴史の英雄・坂本龍馬は、常に平和的解決を望む素晴らしい人物だった」といった虚像を描き、視聴者に植え付けるのはいかがなものだろうか。

 思惑どおりに事が運んだ龍馬は、藩役人らのはからいもあって、家族の住む実家を訪ねた。文久2年(1862年)3月に脱藩して以来、約5年半ぶりの帰省だった。そのときの様子を、「維新土佐勤王史」では次のように伝えている。
 「今度こそは我家をも訪ふて、兄姉と一宵の歓を尽さやばと、そのまさに発せんとする前一夕、京侍の戸田雅楽を伴ひて、己が生長せる本丁兄権平の宅を叩きて、姉の乙女とも、絶えて久しき対面に及び、神祭に醸せし土佐の白酒に、うましうましと下打ち鳴らし、主客ともに談笑のうちに語り明かしぬ。」
 龍馬に同行して土佐を訪れていた同志・戸田雅楽を引き連れて、坂本家に帰ったらしい。家族がいかに龍馬の突然の帰省を歓迎していたかが手に取るように伝わってくる。このときの様子を伝える史料として、もうひとつ、龍馬に同行して土佐に入った海援隊士・岡内俊太郎が、佐々木高行に宛てた手紙の中では、
 「さて龍馬、高知へ旅人となりて滞留中、夜中密かに上町の自宅に参り、実兄権平、姉乙女、姪春猪たちと五年ぶりにて面会、旧を語り、戸田雅楽も参り、権平より鍔を貰ひ大いに喜び申候。」
 と記されている。兄・権平から刀の鍔を貰い受けたようで、大そう喜んでいた龍馬の様子を伝えている。黙って家出していった薄情な弟に対するこの歓迎ぶりはどうだろう。末っ子の龍馬が、いかに兄・姉から愛されていたかがうかがえる史料だ。このとき坂本家の人々は、これが龍馬と今生の別れになるとは知る由もなく・・・。

 「答えや!坂本。武士も大名ものうなってしもうた世の中に何が残る。何が残るがじゃ!」
 ドラマ中、大政奉還建白書を書くよう説得する龍馬に対して容堂が言った台詞。
 そして龍馬が答える。
 「日本人です。異国と堂々と渡り合える日本人が、残るがです。」

 この時期の龍馬は、まぎれもなく「日本人」だった。土佐藩士ではなく、「日本人」だったのだ。この時代に生きる人々のいう国は、「藩」だった。あの西郷隆盛ですら、最期まで「薩摩人」から脱却できなかった。木戸孝允もまた然り。そんな志士たちの中で、龍馬ただ独り「日本人」たり得たことが、後世に英雄視される所以だが、それはかなり危険な思想でもあった。平成の現代において、「世界平和のためなら日本一国など無くなってもいい」などと言ったら、これはよほど危険な考えだということがわかるだろう。龍馬のいう「大政奉還」「船中八策」とは、つまりはそういうことなのである。土佐も薩摩も長州も幕府もない、日本という国を作る・・・山内容堂や後藤象二郎が、それをどこまで理解していたかはわからないが、龍馬が「日本人」たり得たことが、彼の寿命を短くした所以だといっても、言いすぎではないだろう。


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by sakanoueno-kumo | 2010-11-19 01:46 | 龍馬伝 | Comments(6)  

龍馬伝 第45話「龍馬の休日」

 前話の「英艦イカルス号事件」に一応の決着を見た坂本龍馬は、慶応3年(1867年)9月18日、芸州藩汽船・震天丸を借用して長崎を出航した。今話で登場した佐々木高行(三四郎)と相談して購入したライフル銃1000挺を土佐に届けるためだった。同月20日、震天丸は下関に寄港する。滞在は2日間、22日には下関を出帆して土佐へ向う。これが、お龍との永訣となった。

 このときより7ヵ月ほど遡った慶応3年(1867年)2月10日、龍馬はお龍を連れて下関を訪れ、豪商・伊藤助太夫の家の一室を借り受け、そこを「自然堂(じねんどう)」と名付け、夫婦の生活の場とした。「自然堂」とは龍馬の号。号とは文人などの雅名のことで、今風に言うとペンネーム。慶応元年(1865年)以来親交があったとされる伊藤助太夫は、このときしばしば龍馬夫妻を歌会へ誘ったと伝えられており、「自然堂」の号はその際に使用していたものと思われるが、現存する龍馬の書簡では、龍馬暗殺の1ヵ月前に陸奥宗光に宛てた手紙で使用されているだけである。
自然堂・・・いかにも自然体なイメージの龍馬らしい号だ。

 龍馬は2月27日から病気になり、「いろは丸事件」が起こる少し前の3月下旬まで自然堂でお龍と2人の時間を過ごした。前年の幕長戦争以降、休む間もなく働き通しだった龍馬にとっては、夫婦水入らずの、ひとときの安らぎの期間だった。

 伊藤家で催された春の歌会で、龍馬が詠んで第2位となった歌。
 「こころから のどけくもあるか 野辺ハ猶 雪げながらの 春風ぞ吹く」
 そして、お龍の歌。
 「薄墨の 雲と見る間に 筆の山 門司の浦はに そそぐ夕立」
 楽しい時間だったことが感じられる。この歌会には三吉慎蔵も参加していたらしい。龍馬、お龍、三吉・・・このときより約1年前、寺田屋の修羅場で生死を共にしたこの3人が、1年後にこうしてのどかに歌会に参加している姿など、事件当夜にはまさか想像だにしなかっただろう。

 ドラマにあった、龍馬の朝帰りのエピソードもこのときである。ある日、龍馬は稲荷町の遊郭で遊び朝帰りをした。お龍は怒って責め立てた。ピストルを突き付けたかどうかはわからないが・・・。その現場をたまたま訪ねてきた長府藩士・梶山鼎介に目撃されてしまう。よほどバツが悪かったのか、龍馬は三味線を爪弾きながら即興で俚謡を歌った。
 「こい(恋)わ 志はん(思案)の ほかとやら あなと(穴戸・長門)のせとの いなりまち(稲荷町)ねこ(猫)も しゃくし(杓子)も おもしろふ あそぶ くるわ(廓)の はるげしき こゝに ひとりの さるまハし たぬきいっぴき ふりすてゝ ぎ利(義理)も なさけも なきなみだ(涙)ほかにこゝろハ あるまいと かけてちかいし山の神 うちにいるのに こゝろのやみぢ(闇路)さぐりさぐりて いでゝ行」
 歌詞に出てくる「猿回し」とは龍馬自身のこと。「たぬき」はお龍。自分の心はいつもお龍にある・・・としながらも、でもたまには遊びたい・・・といった意味の歌で、この歌を聞いてさすがのお龍も破顔して許してくれたという。龍馬自筆の俚謡は梶山鼎介がその場で貰い、現在は長府博物館にあるそうだ。私も朝帰りした際、ギターを弾いて歌ってみたら、妻は許してくれるだろうか・・・。おそらく逆効果になるに違いない(笑)。この対処法は、薩長同盟と同じく龍馬にしかできない芸当だ(笑)。

 思えば二人が夫婦として一緒に時を過ごしたのは、「寺田屋事件」後の闘病生活から薩摩旅行のときと、この自然堂での1ヵ月半ほどの間だけだった。伊藤家での生活は、龍馬の死後40年も生きたお龍にとって、忘れ難い思い出の地となったことだろう。


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by sakanoueno-kumo | 2010-11-09 01:37 | 龍馬伝 | Comments(0)  

龍馬伝 第44話「雨の逃亡者」

 慶応3年(1867年)7月6日夜(7月7日未明ともいわれる)、長崎に逗留中だった英国軍艦イカルス号の乗り組み水夫・ロバート・フィードと、ジョン・ホッチングスの両名が、長崎の花街・丸山で何者かに惨殺された。いわゆる「英艦イカルス号事件」である。この下手人が海援隊士ではないかという嫌疑がかかり、このためこの時期大政奉還を実現するために奔走していた坂本龍馬は、「いろは丸沈没事件」に続き、また足止めをくうことになる。ドラマでは、長崎奉行所対海援隊といった、えらく小さな話になっていたが、実際にはこの事件は、土佐藩、幕府を巻き込んだ国際問題となった。

 事件当時、長崎では外国人殺傷事件が相次いで発生しており、いずれも加害者が不明で、長崎における在留外国人たちの恐怖は非常なものがあった。事件発生後、英国領事官フローエルスはただちに長崎奉行所に犯人捕縛を急き立てたが、容易に調べがつかない。おりから長崎に来航したハリー・パークス公使は自ら手を回して調査し、犯人は海援隊士と同じ白筒袖の服装だったという証言を得た。そのことから犯人は海援隊士に間違いないと見たパークスは、長崎奉行所に取調べを求めたが、それだけでは根拠が薄いとの理由で受け付けられなかった。これに憤慨したパークスは、この上は幕府に訴え出て直接土佐藩にかけあうほかなしと、同月24日大阪へ入り、幕府老中・板倉勝静に厳しく談判をもちこんだのである。龍馬がこの事件を知ったのはこの時だと思われる。

 怒鳴りこまれた幕府は、責任上無視することも出来ず、担当者三十余人を土佐へ出張させることに決し、土佐藩も後藤象二郎佐々木高行をはじめ在京の藩重役を急遽帰国させることとし、薩摩藩から借用した汽船三邦丸に乗船する。出航まぎわに龍馬は小舟に乗って同船にこぎ着け、事件の善後策を後藤と協議しているうちに、船は錨をあげ出航してしまった。やむなく龍馬はそのまま同船して土佐に向かうこととなった。脱藩以来、約5年ぶりの帰国だった。しかし、藩内佐幕派をはばかり、龍馬は土佐藩船・夕顔丸に潜伏したまま上陸することはなかった。

 龍馬たちが土佐・須崎に入港した翌日には幕府重役を乗せた船が入港、その2日後にはパークスが搭乗した英国艦が入港、その物々しい状況に高知城下は混乱をきわめたという。攘夷派の暴発を恐れた藩当局は陸上での談判を諦め、夕顔丸船内で行うこととなった。土佐藩代表として談判に臨んだのは後藤象二郎。席上、パークスはいきなり怒気をあらわし、机を叩き、床を踏み鳴らすなど、威圧的な態度を見せたという。しかし後藤は怯むことなく冷然と、「公使は交渉のために当地へ来られたのか、それとも挑戦のために来られたのか、甚だ理解に苦しむ。いやしくも使臣の前において、かような凶暴な態度を示されるのなら、小官はむしろ談判の中止を希望する。」と厳しく抗議した。通訳・アーネスト・サトウを介してこの抗議を聞いたパークスはにわかに態度をあらため、「本官はこれまで中国人との交渉には、常に威圧的な態度をもって効をおさめた経験から、はからずも貴官に対し無礼をはたらいた。厚く諒恕を請う。」と謝意を示したという。このときの後藤についてアーネスト・サトウは後年の著書「維新外交秘録」の中で、「後藤はこれまで我々があったうち、もっとも才智の優れた日本人であったから、ハリー卿の気に入った。」と評している。そんな後藤の手腕もあって英国側は態度を軟化させ、海援隊士犯人説は風説にもとづくところがあるため、再び長崎で調査を行うことで合意した。

 長崎に着いた龍馬は、早速佐々木高行や岩崎弥太郎たちと協議し、金一千両の懸賞金を付けて真犯人の捜索を行ったが、手掛かりを得ることは出来なかった。8月18日、長崎奉行による正式の取り調べが始まり、事件当夜、海援隊士・菅野覚兵衛佐々木栄が現場近くの料亭にいたことが判明、二人は事件直後に長崎を出航して鹿児島に向かっており、逃げたのではないかといった疑いが持たれた。早速二人を呼び戻し取り調べを試みたものの、証拠不十分。結局、確証を得ることが出来ないまま、9月7日、別件逮捕のようなかたちで菅野覚兵衛、佐々木栄、渡辺剛八の三人について申口不束(ふつつか)、岩崎弥太郎には管理不行届の理由で恐れ入れとの口上が渡された。弥太郎と佐々木は素直に応じたが、菅野と渡辺はその理由なしと頭を下げず、9月10日までねばり、結局奉行側が譲歩、お構いなしということで意気揚々と引き上げた。これついて龍馬は佐々木高行に宛てた手紙の中で、「只今戦争相すみ候処、然るに岩弥、佐栄兼て御案内の通りに、兵機も無之候へば無余儀敗走に及び候。独り菅、渡辺の陣、敵軍あへて近寄り能はず」と2人の剛情を評している。

 これでこの事件は一応の決着がついたものの、真犯人が見つかっていないため本当の意味での一件落着ではなかった。真犯人が判明したのは龍馬の死後、明治元年(1868年)になってからである。犯人は筑前福岡藩士の金子才吉という人物で、しかも当人は犯行直後すでに自決していた。この金子は福岡藩でも嘱望された人物だったが、事件当夜、外国水夫が路上で泥酔して寝ているのを見て、嫌悪のあまり斬り捨て、翌日藩庁へ自首した後、国際関係の紛糾を恐れ切腹したという。福岡藩は嫌疑を受けた土佐藩が苦境に立たされたのを見過ごし、事件を秘匿し続けていたが、ついにそれが暴露されたため土佐藩に重役を派遣し謝意をあらわした。しかし、そのとき既に龍馬はこの世にはいなかった。

 というのが、「英艦イカルス号事件」の全容である。長文になってしまったが、ドラマの設定があまりにも通説と異なっていたため、ことのあらましを順を追って紹介させてもらった。この「英艦イカルス号事件」と、前々話の「いろは丸沈没事件」のエピソードは、龍馬の物語では省略されることが多い。というのも、時勢は倒幕か大政奉還かと緊迫したなか、この二つのエピソードはどうしても横道にそれてしまうエピソードだからだろう。しかし今回のドラマでは二つとも採用された。それはまあいい。「いろは丸沈没事件」は、龍馬暗殺の一説の伏線として重要な事件ともいえるし、ドラマのつくりも面白くできていた(あくまで私の感想だが)。しかし今話はどうだろう。こうも史実を変えてまで、紹介しなければならないエピソードだっただろうか。この作り話に1話を費やすぐらいなら、過去にもっと採用すべき事柄があったのではと思ってしまったのは私だけだろうか。

 龍馬の人生最後の年となった慶応3年(1867年)は、「いろは丸沈没事件」で約3ヶ月、この「英艦イカルス号事件」で約2ヶ月の計5ヶ月もの間、時勢とは無関係な仕事に時間を費やさねばならなかった。このため大政奉還が数ヵ月遅れたといっても過言ではないかもしれない。おそらく龍馬は苛立っていたことだろう。この間、薩長は武力倒幕の準備を着々と進めていたはずだから。


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by sakanoueno-kumo | 2010-11-02 22:36 | 龍馬伝 | Comments(2)  

龍馬伝 第43話「船中八策」

 「いろは丸事件」の談判のため、坂本龍馬が長崎で足どめされている間に、京では四侯会議が開かれていた。四侯とは、薩摩藩・島津久光、土佐藩・山内容堂、越前藩・松平春嶽、宇和島藩・伊達宗城の賢侯4人である。これは、前年の慶応2年(1866年)に正式に将軍となった徳川慶喜の独裁を許さず、政治のイニシアティブを幕府から雄藩連合に移そうと、西郷隆盛が周旋したものだった。西郷は自分の主君である久光を本心では軽蔑しきっていたし、容堂のことも宗城のことも信用はしていなかったが、それでも彼は、高知へ足をはこび、宇和島へまわり、彼らをおだてて上京を約束させた。それも、「家康の再来」などと言われた慶喜の足をひっぱり、幕権の巻き返しを許さないためだった。容堂を説得するにいたって西郷は、今度こそは中途半端で帰ってもらっては困ると念を押した。「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄された容堂。事の成り行き次第では、容堂は途中で逃げ出してしまうのではないかという懸念が西郷には拭いきれなかった。容堂は答えた。「このたびは、東山の土となるつもりぞ。」と。

 しかし結局は、慶喜の巧みな政局操作の前に、4人束になっても敵わなかった。四侯会議の議題は兵庫開港勅許長州処分案。彼ら4人には開港を止められるはずはなかった。そもそも、4人とも開港派だったのだから。それを幕府が行うのことがいけないとは、この時点ではまだ政権を保持していた幕府に対して、筋の通る論ではなかった。しかもまずいことに、四藩とも安政以来、慶喜の「英明さ」をもって将軍にしようと尽力してきた藩だった。4人は慶喜に圧倒された。そして4人の足並みがそろわないうちに、慶喜は兵庫開港勅許を朝廷から取り付けたのである。勅が出てしまえば慶喜の行動は正当化される。四賢侯といわれた4人は、慶喜の政治力の前に完敗した。

 容堂は帰国した。つまり、逃げたのだ。「東山の土となる」とまで言った容堂だったが、彼が京にいたのは半月余りだった。帰国した理由は、虫歯だった。歯茎が膿んで口もきけないという。これは事実だったようだが、しかし実に子供じみた理由だ。容堂が逃げ去った京で、人々はこのうように歌ったという。
 「ゆんべ見たみた四条の橋で 丸に柏の尾が見えた」
 丸に柏の三ツ葉は、山内家の紋だった。

 容堂と入れ違いに、「いろは丸事件」の決着をつけた坂本龍馬後藤象二郎が京に入った。二人を乗せた夕顔丸が長崎を出港したのは慶応3年(1867年)6月9日、兵庫に入港したのが12日、大坂を経て京に入ったのが15日、この船中で龍馬が考案し、後藤に説き聞かせたといわれているのが、大政奉還とその後の政策を示した八カ条の条文、有名な「船中八策」と呼ばれるものである。

 船中八策
一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事。
一、上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事。
一、有材の公卿・諸侯及天下の人材を顧問に備へ、官爵を賜ひ、宜しく従来有名無実の官を除くべき事。
一、外国の交際広く公議を採り、新に至当の規約を立つべき事。
一、古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を撰定すべき事。
一、海軍宜しく拡張すべき事。
一、御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事。
一、金銀物貨宜しく外国と平均の法を設くべき事。
 以上八策は、方今天下の形勢を察し、之を宇内(うだい)万国に徴するに、之を捨てて他に済時の急務あるべし。苟(いやしく)も此数策を断行せば、皇運を挽回し、国勢を拡張し、万国と並立するも亦敢て難しとせず。伏て願くは公明正大の道理に基き、一大英断を以て天下と更始一新せん。


 この「船中八策」は、その後の「薩土両藩盟約」の主要条項となり、ひいては土佐藩が建白した「大政奉還建白」の基案となり、大政奉還後に龍馬の手で「新政府綱領八策」と更に具体化され、やがては龍馬の死後、明治元年の「五箇条の御誓文」にも引き継がれる、幕末維新史上、もっとも注目すべき文書とされている。

 第一条は朝廷への政権の奉還、第二条は二院制議会の設置、第三条は人材登用と朝廷の内部刷新。「船中八策」とは、実はこの三条項がすべてだといってもいい。第四条から八条までは、開国に向けての規約の立法、法制度の確立、海軍の拡充、親兵の設立、諸外国との不平等条約の改定など、いわば日本国の近代化案で、これらは現徳川政権のままでも可能なことである。第一条から第三条までの三条項が、現政権と現秩序を否定する、いわば龍馬の倒幕論だった。

 ドラマでは、八カ条のひとつひとつが、これまで出会ってきた人たちから学び得てきたものとされていた。私もそうだっただろうと思う。勝海舟松平春嶽横井小楠河田小龍、ドラマには出ていないが、幕臣・大久保一翁から得たものも影響していたに違いない。グラバーからの入れ知恵もあったかもしれない。幕臣、学者、商人と相手を選ばずに学んだ、固定観念にとらわれない龍馬の「やわらか頭」が、この奇跡の条文を作り出したのだろう。私は、一般にイメージされているような、龍馬が平和主義の非戦論者だったとは思っていない。幕府が大政奉還を受け入れないときは、武力討幕も辞さない考えを龍馬も持っていたと私は思っている。ただ、誰もが不可能だと思った「薩長同盟」を成立させたように、ものごとをひとつの角度から見ずに、あらゆる可能性を模索する、つまりは既成の概念に執着しない龍馬の「やわらか頭」が、大政奉還という一見現実味がなさそうな道に向かわせたのだろう。そこが、坂本龍馬の最大の魅力だと私は思う。

 後世の私たちには魅力的に思えるその龍馬の行動は、同時代に生きる者にとっては必ずしも魅力的ではなかった。そのことによって龍馬は多くの敵を作り、孤立していったことは間違いない。


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by sakanoueno-kumo | 2010-10-25 01:29 | 龍馬伝 | Comments(8)  

龍馬伝 第42話「いろは丸事件」

 慶応3年(1867年)4月19日、坂本龍馬率いる海援隊は、伊予大州藩の出資によって購入した「いろは丸」に乗って、土佐藩の帰属として初めての航海に出発した。
 「今日をはじめと乗り出す船は 稽古始めのいろは丸」
 こんな舟歌を水夫たちに歌わせながら、いろは丸は積荷を満載にして瀬戸内海を大坂に向かっていた。約1年前に持船・ワイルウェフ号が沈没し、さらにその2ヵ月後にユニオン号を長州藩に返して以来船がなかった彼らにとって、この航海はまさに「水を得た魚」のように心が昂っていたことだろう。しかし、瀬戸内海を東へ進むいろは丸は、同月23日午後11時頃、讃岐沖で紀州藩汽船・明光丸と衝突する。いろは丸は160トン、明光丸は880トン、軽自動車と大型トラックの衝突のようなものだった。

 いろは丸の当夜の当番士官・佐柳高次は明光丸の幻灯に気付き、すぐに左転してこれを避けようとしたが、なおも明光丸は右旋しながら猛進を続け、いろは丸の右舷にふれ機関室を破壊したという。佐柳は船中に事故を伝え、さらに明光丸に向かって救助を求めるも返答がなく、やむなく機関士・腰越次郎が救命船の錨をとって明光丸に投げかけ、素早くよじのぼって明光丸の甲板に上がり、そこで同船の乗組員を詰責したが、お互いにあわてて要領を得ない。そうしているうちに明光丸は一旦、五十間(約90メートル)ほど後退した後、また前進して今度はいろは丸の船腹を完全に衝いてしまったため、いろは丸は大破、沈没した。

 龍馬と明光丸船長・高柳楠之助との合議によって、事故の善後策を決するため同夜のうちに明光丸を備後の鞆の浦に入港させた。翌24日から龍馬は明光丸側と交渉に入り、まずは「事件解決まで明光丸の出港をひかえられたい。」と要求したが、高柳は首を縦にふらない。業を煮やした龍馬は、「もし主用やむを得なければ、われわれの応急の難を救うために1万両貸せ」と持ちかけ、「お申し出のとおり1万両は出すが、返済期限を立てられたい。」という紀州側に対し龍馬は、「弁償金の一部として受け取るので、返済期限を立つべき性質のものではない。」と、はね返したという。結局談判は思うように進まず、龍馬は「この上は長崎において正式の談判にかけ、公論によって正否を決する」ということで物別れに終わった。このとき龍馬の憤激は頂点に達していたようだ。

 龍馬は大藩・紀州藩を相手に、なにがなんでも泣き寝入りするつもりはなかったようだ。ようやく手に入れた船を明らかに相手の過失で失うこととなり、その悔しさは想像するに余りあるものだっただろう。万国公法の引用を考えたのもこのときだった。しかし、そのことによって自身の身の危険も覚悟した龍馬は、万一の場合、自分の死後は妻・お龍を故郷の土佐に送り届けるよう、寺田屋事件で生死を共にした三吉慎蔵に手紙を送っている。
 
 5月15日、長崎での談判が開始された。出席者は海援隊から龍馬をはじめ、長岡謙吉、小谷耕蔵、渡辺剛八、佐柳高次、腰越次郎、土佐藩から森田晋三、橋本麒之助の8名。岩崎弥太郎はいない。ついでにいうと、前話でいろは丸購入に際しても弥太郎の尽力となっていたが、実際にはこの件にも弥太郎は関わっていない。金の工面には協力したかもしれないが・・・。どうしてもドラマでは弥太郎を絡めたいようだ。

 談判の席上、互いに航海日誌を交換し、双方の言い分を検証した結果、ついに紀州側が次の事実を容認した。
 「衝突之際或士官等、彼甲板上に上りし時一人の士官あるを見ず、是一ヶ条。」
 「衝突之後彼自ら船を退事凡五十間計、再前進来つて我船の右艫を衝く。是二ヶ条。」

 ドラマ中、弥太郎が言っていた二ヶ条、すなわち、衝突時に明光丸には見張り役がいなかったこと、一度ならず二度に渡っていろは丸に衝突したことを認めたのである。この証文によって事故の理非曲直がほぼ明確になったわけだが、しかしそれでも紀州側は完全に負けを認めず、幕府御三家の立場をかさに、長崎奉行所を味方につけ海援隊側を威圧する策に出た。しかし龍馬も負けてはいなかった。奇策を用い、巧みに世論操作をしたのだ。
 「♪ 船を沈めてその償いに 金を取らずに国を取る 国を取ったらミカン食う ♪」
 このような歌を作り、長崎丸山の妓楼で歌わせた。これは交渉の結果を歌ったもので、当然その前に、事故の事情も歌同様に広められていたに違いない。この歌はたちまち巷間に流行し、長崎市民の同情はいずれも海援隊に集まった。さすがの紀州藩もこの龍馬の策には閉口しただろう。

 そしてもうひとつの龍馬の策は、交渉の席に後藤象二郎を引っ張り出し、一海運業者対紀州藩の事件を、土佐藩対紀州藩という、同等の立場での、いわば政治的な談判としたことだ。藩同志の談判となれば、紀州側はもはや脅しのような交渉は出来ない。後藤は、「汽船衝突の件は、我が国では準拠すべき判例がないので、現在来航中の英国水師提督に万国の比例を尋ね、然るべき裁定を請う。」と提案し、さらには「貴藩のこれまでの仕打ちは甚だ冷酷だ。向後の出様によってはどのような結果となるかも知れぬ。よく心得ておいてもらいたい。」とまで述べた。もはや勝算なしと見た紀州藩は、薩摩藩士・五代才助に調停を頼み、その裁定で紀州藩は賠償金8万3千両を海援隊に支払うという条件で、ようやくこの「いろは丸沈没事件」は決着がついたのであった。

 龍馬の巧みな世論操作、そして後藤を使って政治問題にすり替えた強かさ、さらには大藩相手に怯まない龍馬の腹の据わったリーダーシップ。どれをとっても、一級品の外交手腕がうかがえる。尖閣諸島沖衝突事件で右往左往している現代の政治家さんたちに見習ってほしいものだ。

 世情は刻々と討幕への道を進めていたこの時期、龍馬にとっては1ヵ月以上もの間、足止めをくうこととなったこの「いろは丸事件」だった。しかし、そんな中でも利益だったのは、長崎で後藤象二郎と語り合う時間が持て、後藤を政治的に教育することが不十分ながらもできたことだった。


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by sakanoueno-kumo | 2010-10-18 01:32 | 龍馬伝 | Comments(10)  

龍馬伝にみる、幕末ドラマのキャスティングの難しさ。

 NHK大河ドラマ「龍馬伝」もいよいよ佳境に入りましたね。主要な人物も概ね登場し終わったんじゃないでしょうか。ここまで見終えて、この度のドラマのキャスティングは、皆さんはどうだったでしょうか?幕末物といえば、戦国物などと違い写真などが残っている人物が多いですから、見る側にとっても確固たるイメージがあって、演じる役者さんも難しいでしょうね。それ以前に、キャスティングする際の役者さん選びも、あまりにもイメージと違う人は選べないわけで、ただ単に演技力や人気度だけではキャスティング出来ない難しさがあるでしょう。イメージが強ければ強いほど、悩まされるんじゃないでしょうか。

 ドラマはもうすぐ終わろうとしてるわけですが、ここでちょっと過去の作品なども顧みながら、私好みの手前勝手なキャスティングをしてみたいと思います。

e0158128_2332086.jpg まず初めは坂本龍馬。決して二枚目とはいえない龍馬のイメージですから、今回の福山雅治さんは、最初に発表を聞いたときは少し違和感がありました。で、実際にドラマを見始めてからは、思ったよりも良かったという印象ですが、でもやっぱり福山さんの龍馬はカッコよすぎですね。もっとワイルドな汗臭いイメージが私にはあって、福山龍馬は外見も内面も清潔すぎるような・・・。1968年の大河ドラマ「竜馬がゆく」では北大路欣也さんが演じたそうですが、当時2歳の私が覚えているはずもなく、私が見た中では、1997年にTBSで制作された「竜馬がゆく」での上川隆也さんが一番イメージに近い龍馬でした。でも、私の中で最もイメージしていた役者さんは、江口洋介さんです。おそらく同じように思っている人、多いんじゃないでしょうか。彼が役者として世に出てきたとき、将来大河ドラマで龍馬を演じるのはこの人しかいない・・・と思ったんですけどね。2004年の大河ドラマ「新選組!」で、江口さんが龍馬を演じてましたが、脇役の龍馬ではなく、主役としての江口龍馬を見てみたかったんですけど・・・もう、ちょっと年齢的に無理でしょうね。残念です。

e0158128_06107.jpg 次に、龍馬の盟友・武市半平太。この度の大森南朋さん、結構ハマってましたよね。龍馬とは正反対の、二枚目で聡明で清潔感のあるイメージの半平太なので、福山さんとは逆に美形とはいえない大森さん(ファンの方スミマセン)と半平太のイメージが最初は結びつきませんでしたが、謹厳実直な半平太像を見事に演じておられたと思います。途中から二枚目に見えてきました(笑)。でも、私の中の半平太像は、1989年にTBSで制作された「坂本龍馬」(龍馬役:真田広之)での、三浦友和さんです。このときの武市半平太は私の思っていたとおりの半平太でした。外見も、演じるところの人物像も申し分なかった・・・。以後私は、小説など読んで半平太が登場するといつも三浦さんを思い浮かべ、テレビで三浦さんを見るといつも半平太を思い出します。それぐらい、私の中ではハマり役でした。

e0158128_0312051.jpg 続いて、もう一人の土佐藩を代表する志士・中岡慎太郎。今回、上川隆也さんが演じておられますが、演技は上手な上川さんですが、外見から受けるイメージはちょっと違いますよね。武市半平太と同じくインテリ志士の慎太郎ですが、半平太とは違って武骨な侍のイメージがあります。その点で考えれば、体育会系の爽やかな役者さんが良いと思うのですが、過去、慎太郎を演じた役者さんを思い出しても、この人という方がいません。で、体育会系という観点から私なりに考えたんですが、山本太郎さんなんてどうでしょう? 結構似てると思うんですけどね。ちょっと知的なイメージに欠けるかな?・・・しっ、失礼!

e0158128_0504318.jpg 長州藩に目を移して桂小五郎(木戸孝允)。この度のドラマの谷原章介さん、結構ハマってると思いませんか? 美形で聡明で、しかしどこか陰のイメージがある桂に谷原さんはピッタリだと思います。剣の達人として知られる桂は、すばしっこく小柄で女性的なイメージがあるのですが、実は身長175cmほどの大柄だったようで、その面からも谷原さんはバッチリですね。今後、私の中での桂小五郎は谷原さんになりそうです。過去、あり得ないキャスティングでは、1986年に武田鉄也さんが龍馬を演じた映画「Ronin」の中での桂役・川谷拓三さん。左の写真のどこを見ても、川谷さんと重なるところが見当たりません(笑)。あの配役はヒドかった・・・。

e0158128_1182583.jpg 長州藩のもう一人の英雄・高杉晋作。今回の伊勢谷友介さんは、あまりにもカッコよすぎでしょ。生き方はカッコイイ高杉ですが、外見は右の写真のとおりお世辞にも二枚目とはいえません。過去、私が見た中では、2000年にNHKで制作された「蒼天の夢 松陰と晋作・新世紀への挑戦」での野村萬斎さんが結構良かったですね。高杉の持つ“天才か奇才か”というイメージにも、同じく奇才型と思える野村さんがピッタリでした。でも、右の写真だけで考えると、お笑い芸人のモンキッキー(旧名:おさる)がピッタリだと思うのは私だけでしょうか・・・(笑)。伊勢谷さんとモンキッキーではあまりにも違いすぎますね。

e0158128_1394161.jpg 幕府側に目を転じて、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜。この度のドラマの田中哲司さん、あれはちょっとヒドすぎやしませんか? 英邁で聞こえた慶喜ですが、田中さん演じるところの慶喜は知性の欠片も感じられないばかりか、外見もヒドイものです。左の写真でもわかるように、結構色男ですよね。その点でいえば、1998年の大河ドラマ「徳川慶喜」での本木雅弘さんは良かったんじゃないでしょうか。私が見た中では、上記、三浦友和さんが武市半平太役を演じていたドラマ「坂本龍馬」のときの中条きよしさんがあまりにもソックリで笑っちゃいました。だって、左の写真そのまんまだったんですから・・・(笑)。

e0158128_158131.jpg 次に、幕臣であり龍馬の師匠でもあった勝海舟。小柄な人物だったようで、この度の武田鉄也さんはありなんでしょうけど、ちょっと歳食いすぎてましたね。この時期の海舟は、40歳前だったわけですから・・・。まあ、龍馬の福山さんが41歳ですから、仕方がないといったところでしょうか。1974年の大河ドラマ「勝海舟」では渡哲也さんが演じたそうですけど、私は幼くて覚えていませんが、べらんめぇ口調の渡さんなんてちょっと想像つかないですね。で、いろいろ思い浮かべてみたんですが、橋爪功さんなんてどうでしょう? えっ?・・・橋爪さんも歳食ってるって?じゃあ、堺正章さんでは?・・・やっぱり歳食ってる?・・・結局、海舟の貫録を出そうと思ったら、ある程度年齢を重ねた役者さんでないと無理ということですね。納得。

e0158128_352333.jpg 次に、新選組局長の近藤勇。この度はネプチューンの原田泰造さんですが、初登場のときの無言の近藤はなかなか迫力があって良かったのですが、しゃべるとやっぱ、原田泰造さんでした(笑)。えらの張った顔立ちは似てるんですけどね。でも、2004年の大河ドラマ「新選組!」での香取慎吾さんよりはマシだと思いますよ。あんなソフトでナイーブな近藤はないですよね。えらの張った四角い顔という点では、香取さんもそうなんですけど・・・。近藤といえば、武骨な武闘派のイメージ。そのイメージで選ぶと的場浩二さんなんてどうでしょうか? 迫力ある近藤になると思いません? でも、もっと近藤にそっくりな方を最近見つけました。先のサッカーワールドカップの日本代表のゴールキーパー、川島永嗣選手です。左の写真に似てると思いませんか?・・・(笑)。

e0158128_3275623.jpg 同じく新選組の副長、土方歳三。この度のドラマでは影が薄く、誰が演じているのか知りません。同じく2004年の大河ドラマ「新選組!」では山本耕史さんが演じておられましたね。あの土方は私の中ではお気に入りです。最後の方には土方にしか見えなかったですよ。乗り移ってるって気がしましたね。過去の作品では、1990年にテレビ東京で制作された「燃えよ剣」での役所広司さんが良かったですね。女たらしなところがまたハマり役でした。でも、演じたことがあるかどうか知りませんが、私の中での土方像は、ズバリ、佐藤浩市さんです。クールな色男のイメージが、佐藤さんにピッタリだと思いませんか?

e0158128_342414.jpg そして最後に、幕末の象徴、ミスター幕末維新こと西郷隆盛。おそらくこの人の配役が一番難しいのではないでしょうか。巨漢で雄大な存在感のあるこの人物に見合った役者さんはそうそういるものではありません。この度の高橋克実さんは、存在感ある演技力は認めますが、どうしても外見が見劣りしますよね。2008年の大河ドラマ「篤姫」での小澤征悦さんも良かったですが、迫力には欠けました。1990年の大河ドラマ「翔ぶが如く」での西田敏行さんは素晴らしい演技で、顔だけ見てると西郷どんにしか見えなかったのですが、残念ながら背が低いというのが辛かったですね。他にも、1987年の日本テレビ制作「田原坂」での里見浩太朗さんや、1989年のTBS制作「坂本龍馬」での松方弘樹さんなどもそれなりに良かったのですが、ピッタリのイメージというには至りません。で、私が見た中で一番イメージに近い西郷どんは、2004年の大河ドラマ「新選組!」での宇梶剛士さんでしたね。背が高く、顔の作りも大きく、目が大きく眼光が鋭く迫力もありました。西郷どんといえば肥満体の印象がありますが、肥満したのは明治になってからのことで、この時期島流しから戻ってきたばかりの西郷どんですから、案外、宇梶さんのような体型だったかもしれません。ただ、宇梶さんの西郷どんは、あくまで脇役だったのが残念ですけどね。そしてもう一人、外見だけでいうと西郷どんにピッタリの人物がいます。大相撲元横綱の武蔵丸関です(笑)。ただ、アメリカ人の武蔵丸と幕末の象徴である西郷隆盛が似てるというのは、なんとも複雑な気分ではありますが・・・。だいたい、演じられるわけないか(笑)。

 とまあ、手前勝手な意見を長々と述べさせてもらいましたが、皆さんの思う配役はどんな方々でしょうか? 一度アンケートをとってキャスティングしてみたら、きっと素晴らしいドラマが出来るんじゃないでしょうかね。夢の豪華キャストの幕末ドラマを見てみたいものです。素人が勝手なことを述べましたが、それだけ見る側に確固たるイメージがある幕末の偉人たち・・・キャスティングする制作者も、演じる役者さんも大変なプレッシャーでしょうね。今年の大河ドラマも残すところあと7話。撮影も先日クランクアップしたようです。なんだかんだいっても、毎週、福山龍馬を楽しみにしています。


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by sakanoueno-kumo | 2010-10-16 04:28 | 龍馬伝 | Comments(7)