カテゴリ:坂の上の雲( 23 )

 

坂の上の雲 総括

 3年に渡って放送されたNHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』の全話が終了した。先日第3部のまとめを起稿したが、最後に改めてこの作品全体を通した総括をしてみたいと思う。

 司馬遼太郎氏の作品といえば、『竜馬がゆく』『功名が辻』『国盗り物語』『新選組血風録』『燃えよ剣』など、映画やテレビドラマになった作品は数多く、映画は11作、ドラマは13作もある。このうち、『竜馬』はドラマ4回、『功名』はドラマ3回、『国盗り』はドラマ2回、『新選組』はドラマ2回と映画1回。そんな中、単行本・文庫本の発行部数でいえば『竜馬』の次に多い『坂の上の雲』は、連載終了から三十数年間、映画にもドラマにもなっていなかった。それは、作者自身が終生映像化を拒み続けていたからである。その理由は「ミリタリズム(軍国主義)を鼓吹しているように誤解される」というものであった。

 それが、司馬氏逝去から13年経った2009年、NHKスペシャルドラマとして放送されることになった。しかも、3年間に渡る全13話のロングランで、制作費も通常の大河ドラマと比べても桁違いの規模だとか。破格の扱いである。ドラマ化が実現した経緯は、NHKの「総力を挙げて取り組みたい」との熱意と映像技術の発展により、作品のニュアンスを正しく理解できる映像化が可能となったとして1999年に司馬遼太郎記念財団が映像化を許諾。その後、著作権を相続した福田みどり夫人の許諾を得てドラマ化に至ったとのこと。司馬氏が映像化を拒んでいたもう一つの理由に、「作品のスケールを描き切れない」というものがあり、それは現在の映像技術なら、破格の制作費さえかければクリアできる。そんな理由もあって、通常の大河ドラマの枠ではなく、スペシャルドラマという設定になったのだろう。司馬氏の意向に逆らったかたちではあるが、『坂の上の雲』を映像で観ることができるというのは、司馬遼太郎ファンの私としては嬉しい限りであった。

 ただ、今なぜ『坂の上の雲』なのか、という疑問はあった。この作品が執筆、連載されたのは昭和43年(1968年)から47年(1972年)にかけての約4年間で、それまでの約5年間を準備にかけたという。その時代、日本は高度経済成長期の後期で、最長好況を誇った「いざなぎ景気」とぴったり重なり、そんな中、坂をひたすら上り続けた明治人の物語は、太平洋戦争後の高度経済成長を担った「企業戦士」たちの姿と重なり、とくにサラリーマンを中心にこの作品は支持された。

 しかし、それから40年近く経ち時代背景は変わった。高度経済成長期から約20年後にバブル経済が崩壊し、平成の世は長い不況との戦いである。失業率は下がらず、毎年3万人もの自殺者があとを絶たず、少子高齢化が進み、年金問題など昭和の時代に見て見ぬふりをしてきたツケが今、国民に重くのしかかってきている。昭和のサラリーマンたちが、『坂の上の雲』』に出てくる明治人たちの姿を自分たちに置き換えて希望を持った時代とは、ずいぶんと観る側の立場が違ってしまっている。

 世界の戦争に対する価値観も変わった。『坂の上の雲』が執筆されたのは東西冷戦の時代。その後、旧ソ連の崩壊と「冷戦」の終結という激動を経て、「一国覇権主義」となったアメリカがイラク戦争をめぐってヨーロッパの同盟国からさえ孤立し、北朝鮮問題での「六カ国協議」など、国際秩序の考え方も変わってきつつある。そんな中で、100年以上前の戦争での日本人の「優れた能力」を誇りのように肯定的に描いた作品を、今になって映像化するのは、時代錯誤といえるような気がして、1年前の第2部のまとめの稿でもそのように述べた(参照:第2部まとめ)。

 しかし、今年最後まで観終えて、また思いが変わった。やはりこのドラマは、今必要な作品だと思った。今年、我が国では未曾有の大災害が起きた。菅直人前総理の言葉を借りれば、戦後最大の国難だという。これ以上の国難といえば、歴史の上でみれば戦争しかないだろう。まさしく、日露戦争は維新後、近代国家となった日本にとって最大の国難だった。その国難を乗り越えるため、この物語に出てくる明治人たちは心血を注ぐ。戦争を回避するためロシアと手を結ぼうとした伊藤博文、日露戦争はいずれ避けられないと考えて日英同盟を締結させた小村寿太郎、考え方は違えど、いずれも日本を守りたいという思いに違いはなく、そこに私利私欲など微塵も感じられない。ロシアで諜報活動を行った明石元二郎、アメリカで広報外交を行った金子堅太郎、資金集めに尽力した高橋是清もまた然りである。軍人でいえば、現職の国務大臣の地位にありながら、自ら参謀本部次長に異例の職階降下をしたという児玉源太郎などは、その最たる人物である。政治家官僚軍人も皆、日本が潰れるかもしれないという危機感と、日本を守らなければならないという使命感のみで働いた。

 平成の現代はどうだろう。これほどの災害に見舞われながら、なおも政局ありきでしか物事を考えられない低レベルの政治家や、自分たちの都合でしか動こうとしない官僚、いずれも、一国の指導者という立場として、明治の彼らとは雲泥の差である。そういう私たち国民も、日本が潰れるかもしれないという危機感を持って生きているかといえば、そこまで深刻に考えてはいない。「税金払ってるんだから、国が何とかしてくれよ」的な無責任さがある。旅順要塞の前に屍となっていった明治の国民とは大違いである。

 明治の日本は「まことに小さな国」だった。その小さな国の指導者たちは、自分たちが日本を動かしているという実感が強かっただろう。いってみれば、創業間もない中小企業のようなものである。彼らは、この中小企業を潰さないため、大企業たちと肩を並べるため、血眼になって働いた。平成の日本は・・・まさしく上場した大企業。安定と安心の中にいる。だから、自分ひとりの働きがこの国を支えているという実感に乏しく、ひとたび経営が悪化しても、国難という自覚がない。いってみれば、潰れかけて税金で援助してもらっているにも関わらず、ボーナスカットを受けて見当違いなストライキをやるJALの社員や、あれだけの事故を起こしておきながら経営体質の改善をはかろうとしない東京電力のようなものである。現代の日本に生きる私たちは、徴兵されることもなければ、戦争に巻き込まれることもまずない。それは本当に幸せなことだ。しかし一方で、日本のために何かをするといった機会もなく、自分たちが「国家」に参加した「国民」であるという意識も薄い。はたして、どちらが幸せなのだろうと思ったりする。

 とはいえ、戦争を容認する気は毛頭ないし、徴兵なんて、まっぴら御免だ。ただ、戦後最大の国難という大災害が起きた今年、この日露戦争という明治の国難に毅然と立ち向かった当時の人たちの物語を見て、今私たちは何かを感じ取らなければならないような気はした。日本は日露戦争に勝った。勝ったことで、日本はロシアの植民地にならずにすんだ。彼らはまぎれもなく日本を守った。しかし、この戦争に勝ったことで、のちに日本は間違った方向へ進み始めた。これもまた、歴史の示すとおりである。そのあたりについて、司馬氏はあとがきの中でこう述べている。
 「要するにロシアはみずからに敗けたところが多く、日本はそのすぐれた計画性と敵軍のそのような事情(指揮系統の混乱、高級指揮官同士の相剋、ロシア革命の進行など)のためにきわどい勝利をひろいつづけたというのが、日露戦争であろう。
 戦後の日本は、この冷厳な相対関係を国民に教えようとせず、国民もそれを知ろうとはしなかった。むしろ勝利を絶対化し、日本軍の神秘的強さを信仰するようになり、その部分において民族的に痴呆化した。日露戦争を境として日本人の国民的理性が大きく後退して狂躁の昭和期に入る。やがて国家と国民が狂いだして太平洋戦争をやってのけて敗北するのは、日露戦争後わずか四十年のちのことである。敗戦が国民に理性をあたえ、勝利が国民を狂気にするとすれば、長い民族の歴史からみれば、戦争の勝敗などというものはまことに不可思議なものである。」


 『坂の上の雲』は決して戦勝に酔いしれる物語でも、戦争賛美の物語でもなく、まだ工業も十分に発達していない貧乏な「百姓国家」が、西欧の大国と対等に渡り歩くため、懸命に背伸びをして生きていた、そんな明治の日本と日本人の物語である。司馬氏はそれを「日本史上類のない幸福な楽天家たちの物語」だという。最後に、単行本1巻のあとがきの文章で、最終回の終盤にもナレーションで語られていた司馬氏の言葉で締めくくりたい。この言葉こそが、この物語全てを集約していると思えるからである。

 「維新後、日露戦争までという三十年あまりは、文化史的にも精神史の上からでも、ながい日本歴史のなかでじつに特異である。これほど楽天的な時代はない。むろん、見方によってはそうではない。庶民は重税にあえぎ、国権はあくまで重く民権はあくまで軽く、足尾の鉱毒事件があり女工哀史があり小作争議がありで、そのような被害意識のなかからみればこれほど暗い時代はないであろう。しかし、被害意識でのみみることが庶民の歴史ではない。明治はよかったという。その時代に世を送った職人や農夫や教師などの多くが、そういっていたのを、私どもは少年のころにきいている。『降る雪や明治は遠くなりにけり』という中村草田男の澄みきった色彩世界がもつ明治が、一方にはある。この物語は、その日本史上類のない幸福な楽天家たちの物語である。楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。」

 3年間、良いものを観せていただきありがとうございました。

●全レビューの主要参考書籍
『坂の上の雲』 司馬遼太郎
『司馬遼太郎『坂の上の雲』なぜ映像化を拒んだか』 牧俊太郎
『坂の上の雲と司馬史観』 中村政則
『日本の歴史21~近代国家の出発 』 色川大吉



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by sakanoueno-kumo | 2011-12-31 04:59 | 坂の上の雲 | Trackback(1) | Comments(2)  

坂の上の雲 第3部まとめ

 第3部の舞台は旅順攻囲戦から日本海海戦までで、ほとんど日露戦争そのものが舞台である。第2部のまとめの稿でも述べたが、原作は文庫本にして全8巻という長編のこの物語で、第1部から2部にかけての全9話では文庫本の第3巻の途中までしか描かれておらず、この第3部の4話で、残りの5巻分を描かねばならず、果たしてどのような仕上がりになるのか大変興味深かった。たった4話ですべて描ききれるのだろうか・・・と。しかも、その5巻分というのが、ほぼ日露戦争における陸・海軍の作戦、戦術、攻防の叙述、そして作者の主観をまじえた語りが主要な柱で展開されており、もしそのまま原作どおりに描くとなると、ナレーションだらけになってしまうような内容。そこをどう上手く描くかが、この第3部のポイントで、どこをどう割愛するかも興味深かった。

 で、第3部の全4話を観終えての感想をいえば、お見事!の一言である。全4話360分という限られた時間の中で、あれだけ盛りだくさんの内容を描きながら、全く詰め込み過ぎ感はなく、このドラマを制作したスタッフのクオリティの高さに感服した。第10話、11話では、日露戦争の核といってもいい旅順要塞総攻撃から二百三高地の攻略までを、余すことなくきめ細やかに描き込んでいた。公式HPによれば、旅順要塞に向けて「肉弾」となった兵隊たちを演じていた方々は、ただのエキストラではなく、しっかりとオーディションを受け、自衛隊に体験入隊し、当時の軍事についても勉強した人たちだとか。名もなき兵隊たちとはいえ、旅順総攻撃の本来の主役は屍となっていった兵隊たち。それをしっかりふまえた制作サイドの意気込み。だからこそ、
 「旅順攻撃は、維新後近代化をいそいだ日本人にとって、初めて『近代』というもののおそろしさに接した最初の体験であったかもしれない。要塞そのものが『近代』を象徴していた。それを知ることを、日本人は血であがなった。」
 という渡辺謙さんのナレーションが胸に響く。たった数分間のシーンで、しかも主役たちが出てこないシーンに、それだけこだわりをもって臨んでいる姿勢にただただ脱帽である。原作では、乃木希典伊地知幸介の無能ぶりを執拗に語っているが、ドラマでは、そこまで極端な描き方ではなかった。これについては、司馬遼太郎氏の見方に否定的な声も少なくなく、ドラマではできるだけ客観的に描こうという趣旨だったのだろう。私もそれでよかったと思う。

 圧巻だったのは第12話。旅順攻囲戦で2話分も使ってしまい、残り2話しかない。しかも、第12話のタイトルは「敵艦見ゆ」で、最終回のタイトルが「日本海海戦」となっている。私の予想では、おそらく陸戦は旅順攻囲戦のみをクローズアップして、あとはナレーションのみで大幅に割愛されるのだろうと思っていた。ところが、この1話で沙河会戦から黒溝台会戦、そして奉天会戦まですべて描き、更に海戦の「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」まで描き切ってしまった。文庫本でいえば、第5巻の途中から第8巻の途中までである。しかも、決して適当な描写ではなく、ちゃんと原作に則った構成でしっかりとまとまっていた。もちろん、原作小説ではきめ細やかすぎるほどに説明、描写しており、それと比べれば物足りなさを感じざるを得ないが、しかし、映像で観る場合、戦闘シーンが必要以上に長くなるとダレてくる。日露戦争を舞台にしているが、この物語は戦争ドラマではなく、あくまで明治の日本人たちを描いた物語である。そんな作者の意図をしっかりと制作者が理解した上で、どこをどう割愛していけばよいかが充分に考えぬかれたストーリー展開は、お見事!としかいいようがない。

 強いて不満をあげるならば、戦場シーンに重点をおいたため、その舞台裏にスポットが当たらなかったところ。例えば、ロシア帝政を内部から崩壊させるための大諜報活動を行った明石元二郎や、アメリカで日本の広報活動をして世論を動かし、ルーズベルト大統領に常に接触して戦争遂行を有利に進めるべく日本の広報外交を展開した金子堅太郎などの活躍である。金子が表世界の広報担当とすれば、明石は裏世界の広報担当だった。戦争は戦場だけで行われているのではない。原作小説では、この二人の働きにかなりの頁数を使っており、ドラマではナレーションだけで片付けられていたのが少々残念だった。

 あと、ロシア軍とその司令官たちの描写も少なかった。原作小説では、陸戦ではステッセルクロパトキン、海戦ではロジェストヴェンスキーネボガトフの性格や心理状態を詳しく分析し、それによって、ロシア軍の行動の理由や敗因などをわかりやすく見ることができたが、ドラマでは、ほぼ日本軍の苦悩のみにスポットを当てた。この辺りも少し残念である。しかし、それら全てを満足させるものを作ろうと思ったら、あと数話必要になってくるのだろう。この限られた時間内の構成でいえば、充分すぎる仕上がりだと思う。

 そして最終回。この日本海海戦のシーンは、日本軍が圧勝の戦いであるにもかかわらず、それを感じさせない描かれ方だったように思う。これはおそらく、「戦争賛美」的な批判の声に配慮したものだろう。司馬氏がこの作品の映像化を拒み続けていた、「ミリタリズム(軍国主義)を鼓吹しているように誤解される。」という理由を考え、できるだけ勝ち負けを感じないように配慮したのではないだろうか。これも、私もそれでよかったと思う。日本が勝ったということは、この場合さほど重要なことではない。なぜ戦わなければならなかったのか・・・が、重要なのである。その意味で印象的だったのが、エピローグのシーン。ここで、原作小説にはないドラマオリジナルのシーンが挿入されていた。正岡家に高浜虚子夏目漱石が集う場面である。この会話の中で漱石は「大和魂」を茶化し、しかし現実はその「大和魂」に頼らなければならない自分を嘆く。そしてこういう。
 「もし、バルチック艦隊に負けたら、日本はロシアの植民地になる。『吾輩は猫である』も正岡の『一昨日のへちまの水も取らざりき』も、日本語で読めなくなる。落語も歌舞伎も能も狂言もおしまいだ。吾輩はかつて、文学を捨てて軍人になった秋山真之を軽蔑した。しかし、今、頼れるのはその秋山だ。それが悔しいんだ。」
 このシーンを観て、このドラマは原作を超えたと思った。この台詞で、全てを語ってしまったからである。なぜ、ロシアという大国を相手に途方もない戦争をしなければならなかったか・・・。司馬氏はいう。
 「日本史をどのように解釈したり論じたりすることもできるが、ただ日本海を守ろうとするこの海戦において日本側がやぶれた場合の結果の想像ばかりは一種類しかないということだけはたしかであった。日本のその後も、こんにちもこのようには存在しなかったであろうということである。そのまぎれもない蓋然性は、まず満州において善戦しつつもしかし結果においては戦力を衰耗させつつある日本陸軍が、一挙に孤軍の運命におちいり、半年を経ずして全滅するであろうということである。
当然、日本国は降伏する。この当時、日本政府は日本の歴史のなかでもっとも外交能力に富んだ政府であったために、おそらく列強の均衡力学を利用してかならずしも全土がロシア領にならないにしても、最小限に考えて対馬島と艦隊基地の佐世保はロシアの租借地になり、そして北海道全土と千島列島はロシア領になるであろうことは、この当時の国際政治の慣例からみてもきわめて高い確率をもっていた。」


 司馬氏のこの言葉を、漱石の台詞で全て語ってしまった。ナレーションで語るのではなく、登場人物の台詞で、しかも軍人ではなく夏目漱石の台詞として語らせたところがいい。日露戦争は侵略戦争ではなく祖国防衛戦争であったというのが、この物語の立場であり、司馬史観である。異論はあろうが、それが「坂の上の雲」なのである。安っぽい「反戦史観」を押し込まず、あくまで原作の立場を守りきった制作者の姿勢を高く評価すると共に、これほどまでにクオリティの高いドラマを提供してくれたことを感謝したい。
 全てを観終えて、まぎれもなくこのドラマは、私が好きな「坂の上の雲」だった。

近日中に、総括したいと思います。


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by sakanoueno-kumo | 2011-12-29 23:50 | 坂の上の雲 | Trackback(1) | Comments(4)  

坂の上の雲 第13話「日本海海戦」 その2 ~エピローグ~

 戦後、東郷平八郎は日本海海戦の完璧な勝利によって、アドミラル・トーゴー(東郷提督)として世界中の注目を集め、日本だけではなく世界の歴史に名を刻んだ。たとえば、長年ロシアの圧力に苦しめられていたトルコなどは、自分の国の勝利のように歓喜し、東郷は国民的英雄になったそうである。その年にトルコで生まれた子供に「トーゴー」と命名する者もおり、「トーゴー通り」と名付けられた通りまであったとか。東郷平八郎は、トラファルガー海戦でフランススペイン連合艦隊を打ち破ったイギリス軍のネルソン、アメリカ独立戦争でイギリス艦隊を打ち破ったアメリカ人ジョン・ポール・ジョーンズと並んで「世界三大提督」と称された。

 日本でも東郷は当然、英雄視され、生きながらにして軍神に祭り上げられた。海軍内においては、軍令部長、軍事参議官を経て大正2年(1913年)に元帥府に列せられ、終身現役となる。大正3年(1914年)から大正10年(1921年)には、東宮御学問所総裁として昭和天皇の教育にもあたった。ただ、その権威はあまりにも大きくなりすぎ、現役の海軍重役が、重要事項を決定の際に必ず東郷の意見を聞くことが習慣化した。その結果、日本は主力が航空機に移り変わる時勢に乗り遅れ、昭和に入った後も大艦巨砲主義の呪縛にとらわれ続けることとなった、という意見もある。人間が神様になって良い結果をもたらしたことはない。東郷の場合も例外ではなかったようである。

 昭和9年(1934年)、満86歳で逝去。侯爵に昇叙され国葬が行われた。その葬儀の日には、世界各国の海軍関係者が彼の死を惜しんだという。その後、東京都渋谷区、福岡県宗像郡津屋崎町に「東郷神社」が建立され、“神”として祭られた。

 “神”といえばもう一人、乃木希典陸軍大将も軍神となった。戦後「陸の乃木、海の東郷」と英雄視された乃木だったが、彼の場合、日露戦争の武功というよりも、多分に人格的、精神的要素が理由だった。たとえば、降伏したロシア兵に対する寛大な処置や、旅順攻囲戦後の水師営の会見における、敵将ステッセルに対する紳士的な態度などが、世界中から賞賛された。乃木にはどこか神秘的で人を魅了するところがあったのは確かなようで、敵兵のみならず、従軍していた外国人記者からも尊敬された。こちらも東郷の場合と同じく、子供の名前に乃木の名をもらうという例が、世界的に頻発したという。加えて乃木に対しては、ドイツ帝国、フランス、チリ、ルーマニア及びイギリスの各国王室または政府から各種勲章が授与された。

 日露戦争の結果報告のため明治天皇に拝謁した乃木は、自らの不覚を天皇に詫び、涙声になりながら、自刃して明治天皇の将兵に多数の死傷者を生じた罪を償いたいと奏上した。しかし天皇は、乃木の苦しい心境は理解したが、「今は死ぬべきときではない、どうしても死ぬというのであれば朕が世を去ったのちにせよ」という趣旨のことを述べたとされる。その後、明治天皇のはからいで学習院院長を勤め、皇族の教育を尽力する。

 明治45年(1912年)、明治天皇が崩御すると、それを待っていたかのように、乃木はその大喪の当日に妻と二人で自刃して果てる。その報道に日本国民は悲しみ、号外を手にして道端で涙にむせぶ者もあった。乃木の訃報は、日本国内にとどまらず、欧米の新聞においても多数報道された。その殉死は一部で批判的な声もあったものの、多くの庶民に賞賛され、日本各地で乃木を祀った乃木神社が創建されることになった。だが、その明治天皇への忠誠心と敬愛による乃木の殉死は、やがて政治的・軍事的に徹底利用されることとなる。

 乃木の相棒、児玉源太郎は日露戦争終結8ヶ月後、参謀総長在任のまま 、就寝中に脳溢血で急逝した。享年55歳。日露戦争後の児玉は急速に覇気が衰えた観があり、ボーッと遠くを眺めているようなことがしばしばあったと言われる。作戦家として、軍事行政家として、日露戦争勝利のために日夜心血を注ぎ込んできた彼は、戦後はもはやすべてをやり尽くした感があり、生ける屍となっていたのかもしれない。小説「坂の上の雲」では、人事を尽くした児玉の最後の行動として「祈りに託す」という場面が幾度となく描かれているが、天性の機敏と胆力、的確ですばやい判断力と指導力を持った知将として名高い児玉でも、全身全霊を傾けて思考の限りを尽くし、最後の最後に行き着く先は「神頼み」なのかと、深く考えさせられたシーンである。その意味では、同じく「天才」と称された秋山真之もまた同じであった。

 「作戦上の心労のあまり寿命をちぢめてしまったのが陸戦の児玉源太郎であり、気を狂わせてしまったのが海戦の秋山真之である」
 と戦後いわれたそうだが、真之は発狂したわけではなかった。しかし脳漿をしぼりきったあと、戦後の真之はそれ以前の真之とは別人の観があったことだけはたしかである。戦後、真之の言うことにはしばしば飛躍があり、日常的に神霊を信ずる人になった。真之はロシア人があの海戦であまりにも多く死んだことについて生涯の心の負担になっていたが、それにひきかえ日本側の死者が予想外に少なかったことを僅かに慰めとしていた。あの海戦は天佑に恵まれすぎた。真之の精神は海戦の幕が閉じてから少しずつ変化しはじめ、あの無数の幸運を神意としか考えられなくなっていた。というよりも一種の畏怖が勝利のあとの彼の精神に尋常でない緊張を与えていたのかもしれなかった。

 日露戦争時に中佐だった真之は、のちに日本海海戦の功により若くして海軍中将まで昇進するが、日露戦争後は僧侶になって戦争の呪縛から逃れたいと思う日々を送った。結局それは叶わなかったが、真之は自分の長男の大(ひろし)に僧になることを頼み、その長男は無宗派の僧になることによって父親のその希望に応えたという。真之の生涯は長くなく、大正7年(1918年)、49歳の若さで没した。晩年の真之は、宗教研究など精神世界に深くのめり込んでいき、人類や国家の本質を考えたり、生死についての宗教的命題を考えつづけたりした。すべて官僚には不必要なことばかりであった。

 その兄・秋山好古は、陸軍大将で退役したのち爵位をもらわず、故郷の松山に戻って私立の北予中学という無名の中学の校長を6年間務めた。従二位勲一等功二級陸軍大将という人間が田舎の私立中学の校長を務めるというのは、当時としては考えられないことであった。彼はその生涯において、
「男子は生涯一事をなせば足る。そのためには身辺は単純明快にしておく。」
 というのが信条で、常に無駄を省き、贅沢を嫌い、己の鍛錬に身をささげた。おそらく、爵位などには興味がなかったのだろう。第一、家屋敷ですら東京の家も小さな借家であったし、松山の家は彼の生家の徒士屋敷のままで、終生福沢諭吉を尊敬し、その平等思想を愛した。退役後は自らの功績を努めて隠し、校長就任時に生徒や親から「日露戦争の話を聞かせてほしい」「陸軍大将の軍服を見せてほしい」と頼まれても一切断り、自分の武勲を自慢することはなかった。好古は死ぬその年まで校長を務め、その年の4月、老後を養うため東京の借家に帰ってきたが、ほどなく発病した。見舞いに来た友人に、「もうあしはすることはした。逝ってもええのじゃ」と言ったりした。やがて、陸軍軍医学校に入院し、初めて酒のない生活をした。糖尿病と脱疽のため、左足を切断した。しかし、術後の経過は芳しくなく、昭和5年(1930年)11月4日、満71歳で病没した。好古が死んだとき、その知己たちは、こういったそうである。
「最後の武士が死んだ」と。

  司馬遼太郎氏は、原作第一巻のあとがきで、「坂の上の雲」という長い作品を書くあたり、
「たえずあたまにおいているばく然とした主題は日本人とはなにかということであり、それも、この作品の登場人物たちがおかれている条件下で考えてみたかったのである。」
と述べている。明治維新によって初めて近代的な「国家」というものを持った日本人が、「まことに小さな国」の国民としてどのように物事を考え、どのように生きたか。
司馬氏はいう。
彼らは明治という時代人の体質で、前をのみを見つめながら歩く。
上って行く坂の上の青い天に、もし一朶(いちだ)の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて、坂を上っていくであろう。



近日中に、「まとめ」を起稿します。


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by sakanoueno-kumo | 2011-12-28 17:27 | 坂の上の雲 | Trackback | Comments(0)  

坂の上の雲 第13話「日本海海戦」 その1

 玄界灘に沖ノ島という孤島がある。この沖ノ島付近が決戦場となることを日露両軍は予測した。沖ノ島の西方というのが、日本海軍連合艦隊の司令部が算出した会敵地点だった。日本軍は旗艦「三笠」を先頭とした単縦陣であった。敵のバルチック艦隊は二列縦陣でやってきている。午後1時39分、旗艦「三笠」がバルチック艦隊を発見した。視界がよくなかったため、発見時にはすでに距離は近くなっていた。バルチック艦隊が日本軍の前にその全容を現したのが、午後1時45分ごろ。距離はざっと1万2千メートル。戦闘は7千メートルに入ってからでないと砲火の効果があがらないという東郷の方針は幕僚たちの覚悟となっている。

 秋山真之は信号文を発した。
「皇国の興廃、此の一戦に在り。各員一層奮励努力せよ」
 この信号文がすぐさま肉声にかわり、伝声管を通して各艦隊の全乗組員に伝わった。この海戦に負ければ日本は滅びるのだと解釈し、わけもなく涙を流す者もいた。連合艦隊司令長官・東郷平八郎は、戦闘の合図が出てもなお、旗艦「三笠」の艦橋に立ったまま司令塔に入ろうとしない。仕方なく真之は加藤友三郎と共に、東郷の側に付き添うことにした。

 バルチック艦隊は北進、日本艦隊は南下していた。双方の距離が約8千メートルになったとき、東郷は世界の海戦戦術の常識を打ち破った異様な陣形を指示した。敵前でUターンをしたのである。敵の射程内に入っているのに、敵に横腹をみせ左転するという、危険極まりない陣形だった。有名な敵前回頭である。敵艦隊の前で横一列になって、敵の頭を押さえようとしたのである。真之が考案した「丁字戦法」であった。敵艦退が猛烈に撃ってきたが、日本艦隊は回頭運動を行うのみで応射しない。この運動が完了するまでの15分間は一方的に敵の集中砲火を浴びた。だが、致命傷ではなかった。

 旗艦「三笠」の旋回運動が終わったとき、バルチック艦隊は右舷の海に広がっていた。距離はわずかに6千400メートル。右舷の大小の砲がいっせいに火を吐いた。目標は敵の旗艦「スワロフ」である。敵の将船を破り、全力をもって敵の分力を撃つ。距離はほどなく5千メートル台になった。兵員の姿がお互いに見える距離である。5千メートル以内に近づくと、日本軍の命中率は更に良くなった。東郷は敵に打撃を与えながら、艦隊の進路を変えた。常に敵の進路を押さえるためである。ロジェストウェンスキーの旗艦「スワロフ」は集中攻撃を浴び、炎上している。東郷はかねて、「海戦というものは敵にあたえている被害がわからない。味方の被害ばかりわかるからいつも自分のほうが負けているような感じをうける。敵は味方以上に辛がっているのだ」というかれの経験からきた教訓を兵員にいたるまで徹底させていたから、この戦闘中、兵員たちのたれもがこの言葉を思い出しては自分の気を引き締めていた。
 司馬氏はいう。
 「古今東西の将師で東郷ほどこの修羅場のなかでくそ落ち着きに落ち着いていた男もなかったであろう」

 この日本海海戦は明治38年(1905年)5月27日から28日まで2日間続いたが、秋山真之が終生、最初の三十分間で大局が決まったと語ったそうである。さらに真之は、こうも語っている。
 「ペリー来航後五十余年、国費を海軍建設に投じ、営々として兵を養ってきたのはこの三十分間のためにあった」と。

 ロシアの戦艦「オスラービア」が沈み、旗艦「スワロフ」も自由を失った。そのなかでロジェストウェンスキー自身も傷つき、戦線の離脱をよぎなくされる。バルチック艦隊の一部はなすすべもなく、連合艦隊を突破して一気にウラジオストックへ逃げ込もうとしたが、これも発見されてしまう。負傷したロジェストウェンスキーは駆逐艦「ベドーウィ」に移ったものの、結局、夜襲とその翌日にかけ、ロジェストウェンスキーとその幕僚たちがすべて捕虜となった。海戦史上、類のないことであった。この前に、バルチック艦隊の指揮権はネボガトフに移されていたが、そのネボガトフも数多くの日本の艦隊に包囲されてやむなく降伏。5月29日未明、ロシア側で戦っていた最後の装甲巡洋艦ドンスコイが自沈。770人余りが捕虜となり、日本海海戦は終わった。ロシア艦隊の主力艦はすべて撃沈、自沈、捕獲され、バルチック艦隊は消滅した。日本海軍の被害はわずかに水雷艇三隻、信じがたいほどの完璧な勝利であった。人類が戦争というものを体験して以来、この戦いほど完璧な勝利を完璧なかたちで生みあげたものはなく、その後にもなかった。

 日本海海戦の勝敗は、各艦の性能や兵員の能力で決まったのではなかった。日本側の頭脳考え方が敵を圧倒した勝利といえた。
 一つ目は、南朝鮮の鎮海湾でバルチック艦隊の到来を待っていたとき、東郷は射撃訓練を徹底的に行ったことである。これは東郷自身の苦い経験からきたものだった。砲弾は容易にあたるものじゃない、準備と鍛錬が必要であるということを、東郷は知っていた。
 二つ目は、東郷とその部下が開発した射撃指揮法であった。砲火指揮は艦橋で行い、それに基づき、各砲台は統一した射距離で撃つのである。多くの戦艦が一斉に同じ角度で射撃するといった工夫であった。
 三つ目は、敵との距離に応じて、東郷が弾の種類を変えたことであった。遠距離のときには、炸裂して兵員を殺傷する砲弾を使い、距離が三千メートル以下になると、艦隊の装甲部を貫き、大穴をあける砲弾を使った。さらには、敵前での艦隊運動の見事さ。また、東郷が自らの艦隊を風上へ風上へと持っていったことも命中率のアップに役立った。「天佑の連続だった」と、戦後、秋山真之は語ったが、その「天佑」の裏付けには、考えぬかれた知恵とぬかりない準備が存在した。司馬遼太郎氏はいう。
 「弱者の側に立った日本側が強者に勝つために、弱者の特権である考えぬくことを行い、さらに、その考えを思いつきにせず、それをもって全艦隊を機能化した、ということである。」

 日本海海戦の惨敗によってロシアは戦争を継続する意志を失い、米国のセオドア・ルーズベルト大統領の仲介で講和が進められていく。この仲介でアメリカは国際的な外交関係に初めて登場した。8月10日より日露両国は正式交渉に入り、9月5日、アメリカのポーツマスで講和条約は調印された。

 連合艦隊が解散したのは12月20日、その解散式において、東郷平八郎は「連合艦隊解散ノ辞」を読んだ。この草稿もまた、真之が起草したものとされている。長文であるため一部抜粋してあげると、
 「百発百中の一砲能(よ)く百発一中の敵砲百門に対抗し得るを覚(さと)らば我等軍人は主として武力を形而上に求めざるべからず。」
 「惟(おも)ふに武人の一生は連綿不断の戦争にして時の平戦に依り其責務に軽重あるの理無し。事有らば武力を発揮し、事無かれば之を修養し、終始一貫其本分を尽さんのみ。過去一年有余半彼の波濤と戦い、寒暑に抗し、屡(しばしば)頑敵と対して生死の間に出入せし事、固(もと)より容易の業ならざりし、観ずれば是亦(これまた)長期の一大演習にして之に参加し幾多啓発するを得たる武人の幸福比するに物無く豈(あに)之を征戦の労苦とするに足らんや。」

 以下、東西の戦史の例をひき、最後は以下の一句で結んでいる。
 「神明は唯平素の鍛練に力(つと)め、戦はずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に一勝に満足して治平に安ずる者より直に之を奪ふ。
 古人曰く勝て兜の緒を締めよ、と。」


 この文章はさまざまな形式で各国語に翻訳されたが、とくに米国大統領のセオドア・ルーズベルトはこれに感動し、全文英訳させて、米国海軍に頒布したという。これにより名文家・文章家として知られるところとなった真之は、のちに「秋山文学」と高く評価されるようになる。

 こうして、約1年半続いた日露戦争は終止符を打った。開戦当初、諸外国の誰もがロシアの勝利を予想した戦争に、日本はかろうじて勝利した。ロシアが自ら敗けたといった方が正しいかもしれない。ここで、シリーズ第1部5話のエンディングのナレーションが思い出される。
「やがて日本は日露戦争という途方もない大仕事に、無我夢中で首を突っ込んでいく。その対決にかろうじて勝った。その勝った収穫を、後世の日本人は食い散らかしたことになる。」

「古人曰く勝て兜の緒を締めよ」
という真之の訓示は残念ながら後世に伝わらず、“勝利のおごり”によって、やがて無謀な戦争に突き進んでいったことは、歴史の知るところである。



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by sakanoueno-kumo | 2011-12-27 03:03 | 坂の上の雲 | Trackback | Comments(0)  

坂の上の雲 第12話「敵艦見ゆ」 その3 ~天気晴朗ナレドモ浪高シ~

 バルチック艦隊は明治38年(1905年)1月9日にマダガスカル島ノシベに入港して以来、2ヵ月ほど放置されることになる。本国からの指令が来ないので、身動きがとれないでいた。バルチック艦隊には、旅順の陥落が伝わっている。この艦隊のもともとの戦略的価値は旅順艦隊と合流して日本艦隊を撃滅するということにあり、その旅順艦隊が全滅して原理の基盤が崩れてしまった以上、本国へ帰るべきであったかもしれなかった。だが、本国からの指令が来ない。バルチック艦隊司令長官・ロジェストウェンスキーは引き返したかった。2ヶ月も猛暑と湿気の不健康な地に留まり、艦員の誰もがこれからの行き先すらわからず、次第に士気も衰えていった。

 結局、ロシア政府はもう一艦隊を増派することにした。ネボガトフ少将率いる第三艦隊である(第一艦隊は旅順艦隊、第二艦隊はバルチック艦隊)。ただ、この艦隊は老朽艦をかき集めて構成されたもので、ロジェストウェンスキーにしてみれば、むしろ足手まといになる懸念があった。「ネボガトフ艦隊が待つに価いする艦隊なのかどうか」は、世界中の専門家は否定的であった。とはいえ、ロジェストウェンスキーが自ら第三艦隊との合流を望んだわけではなく、彼にそれをやらせているのは皇帝ニコライ二世とその皇后アレクサンドラであった。さらにいえば、皇帝に絶対的専決権をもたせてしまっているロシアの体制そのものがそれをやらせているわけであり、もしこの国の国民と将兵がこの一大愚行から抜け出そうとするなら、革命をおこすしかなかった。

 マダガスカル島にいた2ヵ月間のバルチック艦隊の心境は、まさしく秋山真之が新聞記者の取材に対して応じた答えのとおりであったかもしれない。
 「行こかウラジオ、帰ろかロシア、ここが思案のインド洋」

 その頃、連合艦隊はバルチック艦隊迎撃に向かってすべての機能が作動しつつあった。2月6日、連合艦隊司令長官・東郷平八郎は真之らを率い、列車で東京を去った。2月14日、東郷、真之らが座乗する戦艦「三笠」は呉軍港を出港、2月20日には佐世保港を出港した。目指すは、南朝鮮の鎮海湾である。ここをバルチック艦隊が現れるまでの隠れ場としたのである。真之は、バルチック艦隊は見晴らしの利きやすい5月に来てほしいと願っていた(そして、その願いは実現するのだが)。それまでの3ヶ月間、ここでひたすら射撃訓練をおこなった。

 バルチック艦隊は、3月16日になってようやくマダガスカルのノシベを出航、インド洋を東へ進んだ。20日間のインド洋航海ののち、マラッカ海峡を通過するコースをとった。マレー半島の先端にはシンガポールがある。このコースの選択は進路の秘匿といった戦略的配慮は皆無であり、英国人に艦隊の全てをさらけ出しての航海をとなった。一方のネボガトフ艦隊は2月15日にリバウを出港、喜望峰沖を通らずに地中海スエズ運河経由でやってきた。中型艦のみであるためスエズ運河を通行出来たのである。5月9日、ロジェストウェンスキー艦隊とネボガトフ艦隊はカムラン湾の少し北方のヴァン・フォン湾沖で合流。これによりロシア艦隊は、総数50隻16万余トンという巨大艦隊となった。勝敗を決する戦艦は日本側が「三笠」以下4隻しかないのに対して、ロシアは8隻であるなど、総じて数の上ではロシア側が優位にたっていた。5月14日、その巨大艦隊が最後の停泊地であったのヴァン・フォン湾を出港した。

 この後の進路ほど日本側を悩ましたものはなかった。バルチック艦隊がどこを通るのか。日本側にとっては対馬海峡ルートを通ってくれるのがもっともよいし、定石ではそうであった。だが太平洋に出て迂回するかたちでウラジオストックに向かうことも考えられた。日本に艦隊が2セットあれば両方に手当てできたであろうが、連合艦隊1セットしかない。秋山真之も当初は対馬海峡を通るとの公算をもっていたが、直前になって迷いが生じた。この悩みを増幅させたのは、いつまでたってもバルチック艦隊が現われないことであった。知らぬ間に太平洋迂回コースをたどりつつあるのではないか・・・と。それはまさに、巌流島の決闘における佐々木小次郎の心理状態であったかもしれない。そんな中、東郷平八郎だけは言い切った。「対馬海峡を通る」と。司馬遼太郎氏はいう。
 「東郷が、世界の戦史に不動の位置を占めるにいたるのはこの一言によってであるかもしれない。」

 連合艦隊は三つの艦隊に区分され、主力の第一艦隊は東郷が指揮し、第二艦隊は上村彦之丞、第三艦隊は片岡七郎が指揮をしていた。そのうちの一隻「信濃丸」が5月27日午前2時45分、バルチック艦隊のものと思われる燈火を発見した。はっきり確認した後、午前4時45分「敵艦見ゆ」と無線連絡した。実はこの時、信濃丸はバルチック艦隊のど真ん中に迷い込んでいたのである。しかし、濃霧のためかバルチック艦隊から発見されることはなかった。信濃丸の一番近くにいたのが巡洋艦「和泉」で、この和泉が敵艦隊の位置を陣形、進路などを綿密に報告した。和泉はバルチック艦隊に発見されたが、攻撃されることもなく、無線妨害もされなかった。当時世界一の無線を積んでいた仮装巡洋艦ウラルが無線妨害をしようかとロジェストウェンスキーに伺ったところ、「無線を妨害するなかれ」という答えだった。なんとも不可解な命令だった。

 信濃丸が発した「敵艦見ゆ」の無電は午前5時5分、旗艦「三笠」に届いた。このとき甲板で体操をしていてこの知らせを聞いた秋山真之は、ドラマにもあったように、動作が急に変化して片足で立ち、両手を阿波踊りのように振って「シメタ、シメタ」と踊りだしたというのである。「秋山さんは雀踊りしておられた」と、このとき三笠の砲術長で、後年、海軍大臣にまでなる安保清種が、のちのちまで人に語った。

 東郷艦隊は決戦に向かうにあたっての決意を大本営に伝えなければならない。電文は秋山真之が起草したものではなく、飯田久恒少佐や清河純一大尉らが起草したもので、「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃滅セントス」とあった。これを読んだ真之は「よろしい」とうなずき、もう一筆くわえた。有名な、「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」である。

 後年、飯田久恒は真之の回顧談だ出るたびに、「あの一句を挟んだ一点だけでも、われわれは秋山さんの頭脳に遠く及ばない」と語った。たしかにこれによって文章が完璧になるというだけでなく、単なる作戦用の文章が文学になってしまった観があった。この「天気晴朗ナレドモ浪高シ」は、戦後、一部の者に批判された。「美文すぎる」というのである。これについて海軍大臣の山本権兵衛も、「秋山の美文はよろしからず、公報の文章の眼目は、実情をありのままに叙述するにあり、美文はややもすれば事実を粉飾して真相を逸し、後世を惑わすことがある」といった。たしかに山本のいうとおりであった。これより数十年後の太平洋戦争の際には、現実認識を無視して膨張された国士きどりの美文(?)が軍隊のなかに蔓延し、それによって真相を隠蔽したりもした。

 しかし、この場合、真之は美文を作るためにこの一節を付け加えたわけではなかった。真之のこの一節は、「本日天気晴朗のため、我が連合艦隊は敵艦隊撃滅に向け出撃可能。なれども浪高く旧式小型艦艇及を水雷艇は出撃不可の為、主力艦のみで出撃する」という意味を、漢字を含めて13文字、ひらがなのみでもわずか20文字という驚異的な短さで説明しているため、短い文章で多くのことを的確に伝えた名文として後年まで高く評価された(モールス信号による電信では、わずかな途切れでも全く意味の異なる文章になるため、とにかく文章は短ければ短いほど良いとされている)。また、Z旗の信号文「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」も、真之の作だといわれている。

 「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」
 世界中が注目した日本海海戦の幕が切って落とされた。

坂の上の雲 第12話「敵艦見ゆ」 その1 ~黒溝台会戦~
坂の上の雲 第12話「敵艦見ゆ」 その2 ~奉天会戦~


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by sakanoueno-kumo | 2011-12-23 17:14 | 坂の上の雲 | Trackback(2) | Comments(0)  

坂の上の雲 第12話「敵艦見ゆ」 その2 ~奉天会戦~

 旅順を陥落させた乃木希典率いる第3軍は、休むまもなく北進しなければならない。満州軍総参謀長・児玉源太郎は乃木軍を必要としていた。児玉は全軍をあげての奉天会戦を計画していたのである。そもそも児玉はこの戦争で、ロシアを相手に完全勝利などできるとは思っておらず、普通にやって四分六分、よくやって五分五分と見ていた。それを何とか作戦で六分四分にまで持ち込み、そこで第三者の力を借りて早期講和をすすめ、外交で終戦にこぎつける、というのがこの戦争の主題で、この主題を外して日本の勝利はないと思っていた。つまり、最初から“KO勝ち”など望んでおらず、いかにして“判定勝ち”に持ち込むか、であった。そのため、これまでもギリギリのところでわずかな勝ち星を積み重ねてきたが、開戦から1年あまりが過ぎ、日本の兵力・財力ともに底が見え始めてきた。それだけに、児玉はこの奉天会戦に賭けていた。この奉天会戦に勝って、その勝利を判定材料に戦いを外交の場に移したかったのである。

 明治38年(1905年)1月11日、旅順要塞司令官のステッセルが旅順を去った。13日、乃木軍は旅順で入城式を行い、14日には水師営南方の丘で招魂祭を行った。そして15日、乃木軍の人事が発表され、乃木以外のほとんどの参謀が交替させられた。旅順攻撃の作戦の責任を問われたものであった。26日、乃木ら第三軍司令部は満州軍総司令部のある煙台に到着した。乃木軍は遼陽に司令部を置いたが、部隊の多くは徒歩行軍のため、まだ到着していない。そのころ、黒溝台へのロシア軍の進出が始まろうとしていた時である。残念ながら、乃木軍は黒溝台の会戦には間に合わなかったが、この後10日ばかりで乃木軍は遼陽に集結できた。満州が凍っていたことが幸いした。川も凍っていて橋も船も不要で、氷の上を通っていけたのである。

 クロパトキン率いる32万人のロシア軍は奉天にいる。対する日本軍は総勢25万人。この両者が戦えば、今日までの世界史上最大の会戦であった1813年のライプチヒの戦いを上回る戦いとなる。2月20日、煙台の総司令部に各軍司令官が招集された。第1軍司令官、黒木為禎。第2軍司令官、奥保鞏。第3軍司令官、乃木希典。第4軍司令官、野津道貫。この会議で作戦が決定され、乃木軍の役割は日本軍の最左翼で敵をできるだけ引きつけおくというものだった。乃木軍のさらに左翼を守るために秋山好古の騎兵隊を配置する。日本軍の最右翼には新設「鴨緑江軍」が配置される予定である。日本軍の攻撃により、敵が文字通り、右往左往しているすきに、奥軍と野津軍が敵の中央突破をやるという、大胆な計画だった。

 奉天のロシア軍総司令部においても一大攻勢が計画されていた。ロシア軍総参謀長・サハロフエウエルト作戦部長は黒溝台の戦いでは、もう一押しで日本軍を大崩壊させていたと残念がり、そのサハロフから今度は正統的な作戦計画が示されたが、クロパトキンはもう一度沈旦堡を押そうといいだした。ところがまたもや、クロパトキンは気が変わった。乃木軍10万人(実際は3万4千人)の動向が気になり始めたのである。そこに、北京の武官から乃木軍がウラジオストックを衝くという情報を得た。これによって、クロパトキンは乃木軍が日本軍のはるか右の方角へ展開し、左回りでクロパトキンの背後に出てくると思った。これは全くの見当違いであった。この情報は新設された「鴨緑江軍」の機能についての情報と混同してしまったものだった。戦後にロシア領の一部でも得たいとの政略でできた「鴨緑江軍」が、思わぬ効果を発揮したといえる。

 クロパトキンは日本軍の力を過大評価する傾向にあった。特に、旅順から北進してくる乃木軍と神出鬼没の秋山好古の騎兵旅団を必要以上に怖れ、その備えのためにミシチェンコ騎兵軍団をはるか後方の松花江付近にへ動かしてしまい、そのため、ロシア最強のミシチェンコ騎兵軍団は奉天会戦に参加出来なかったのである。クロパトキンは作戦に関して迷いに迷った。彼はためらい、軍司令官に作戦延期の手紙を書いている。この数日の遅れが致命傷となった。2月23日、鴨緑江軍がロシア軍左翼の陣地を攻撃することで、史上最大の会戦である奉天会戦は事実上始まった。これ以降、戦いは常に日本軍主導によってすすみ、ロシア軍は常に受け身となった。クロパトキンは常に敵によって動こうとし、敵の出方をいつも見ていた。あたまから防御心理ができており、これは恐怖が思考の軸となっていたと考えられる。

 3月1日、日本軍の正面攻撃が始まった。クロパトキンは日本軍を必要以上に恐れ、陽動作戦にもまんまとひっかかる。そして3月7日、突如として、またも余力を残して退却を始めたのである。あと一押しで日本軍は壊滅といった場面があったにもかかわらず、である。ロシア軍は兵力、火力、兵員の質、どれをとっても日本には負けていなかった。戦況についての不利な要素は少しも発生していないにもかかわらず、クロパトキンは鉄嶺まで総退却するとした。要するに奉天をすてて逃げるということである。

 奉天会戦の勝敗は10日夜に決定した。ロシア軍にとってはロシア史上類を見ない敗戦を喫し、この夜の戦闘だけでロシア兵の投降者は2万人を超えた。この会戦における日本軍の死傷は大きく5万人以上にのぼったが、ロシア軍の損害は退却時にはなはだしく、捕虜3万余を含めて損害は16~7万人にものぼった。満州軍総司令官・大山巌にして「日露戦争の関ヶ原」まで言わしめたこの奉天会戦で、クロパトキンの日本軍に対する過大評価と恐れが、ロシアにとって勝つべき戦いを敗北に導いたのである。世界中の新聞が日本の勝利をいっせいに伝え、国際世論が日本に軍配を上げた。奉天会戦のあと、ロシアの陸軍大臣サハロフはクロパトキンを解任し、第1軍司令官の位置に降ろした。かわりに、第1軍司令官のリネウィッチを総司令官に昇格させた。この人事は、ロシア軍も敗北を認めたということであった。

 この奉天会戦におけるロシア軍の敗北ついて、司馬遼太郎氏はいう。
 「ロシア軍の敗因は、ただ一人の人間に起因している。クロパトキンの個性と能力である。こういう現象は、古今にまれといっていい。国家であれ、大軍団であれ、また他の集団であれ、それらが大躓きに躓くときは、その遠因近因ともに複雑で、一人や二人の高級責任者の能力や失策に帰納されてしまうような単純なものではなく、無数の原因の足し算なり掛け算からその結果がうまれている。が、奉天会戦にかぎってはただひとりのクロパトキンに理由が求められる。その意味ではこの満州の曠野で戦われた世界戦史上最大の会戦は、古今の珍例といってよかった。」

 一方、日本では新聞が連戦連勝をたたえ、国民が奉天の大勝に酔い、国力がすでに尽きようとしていることを忘れ、「もっともっと!」といった空気が広がろうとしていた。それがよくわかっている児玉源太郎は急遽日本に引き返し、講和を急ぐべきだと日本政府に訴えた。しかし、その講和工作が本格的に動き始めたとき、その実務を担っていた駐米公使の高平小五郎が重大なミスを犯した。早期に講和をという本国からの訓令を誤解し、日本はロシアとの海戦を避けたい、海戦では負けると勝手に憶測してしまった。そして、このことを米国のルーズヴェルト大統領にも言ってしまったのである。さらには、それがロシア側にも知れることとなり、このことがロシアをして講和に向かうことを遠ざけてしまった。こうして、日本海海戦の舞台が整えられていったのである。

 司馬氏はいう。
 「戦争というものが劇的構成をもっていた時代における最後の、そして最大の例としてこの戦争は歴史的位置を占めるが、そのなかでも最も大きな劇的展開へ事態は向かいつつあるようであった。」

坂の上の雲 第12話「敵艦見ゆ」 その1 ~黒溝台会戦~
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by sakanoueno-kumo | 2011-12-22 13:58 | 坂の上の雲 | Trackback | Comments(0)  

坂の上の雲 第12話「敵艦見ゆ」 その1 ~黒溝台会戦~

 沙河の線で戦線が凍結している。沙河とは、奉天の南およそ十キロを蛇行する河である。冬の満州平野の気温は平均して零下20度以下であり、体感温度は零下30度以下に下がることもあった。そんな中、日露両軍は長大な塹壕を掘り、柱を立て、その上に屋根をかぶせて掩堆(えんたい)にし、風雪と砲弾に堪えるようにしていた。「冬営」という軍事用語がこのとき初めてできた。

 日本軍の兵力は12個師団相当しかない。一方のロシアは17個師団を持ち、さらに大動員することで28個師団まで増やそうとしていた。この極寒の中、ロシア軍の総帥クロパトキンは、第二軍司令官グリッペンベルグ大将に押し切られるかたちで、攻勢に出ようとしていた。だが、日本の満州軍総司令部は、「ロシア軍が攻撃に出るなど、そんなばかなことがあるか。」という態度で終始した。理由は、「この厳寒期に大兵力の運動はとてもできるものでじはない。」というものであった。この考えは、満州軍総参謀長・児玉源太郎の懐刀ともいうべき参謀・松川敏胤大佐から出たものであり、児玉もそう信じた。だが、かつてロシア軍がナポレオンを撃破したのは冬季であり、かれらの運動は冬季において得意であるという伝統と習性に、二人は気づいていなかった。

 このとき日本軍の最左翼を受け持っていた秋山好古は、騎兵の本務である敵情捜索をさかんに行っており、ロシア軍の不穏な動きを察知していた。好古はそのことごとくを総司令部に再三報告していたが、松川敏胤は、また例によって騎兵の報告か、と、ほとんど一笑に付し、一度といえども顧慮を払わなかった。「ロシア軍が冬季に大作戦を起こさない」という、根拠皆無の固定観念にとらわれつづけていたのである。このときの松川、児玉の思考について、作者・司馬遼太郎氏はこう述べている。
 「戦術家が、自由であるべき想像力を一個の固定観念でみずからしばりつけるということはもっとも警戒すべきことであったが、長期にわたった作戦指導の疲労からか、それとも情報軽視という日本陸軍のその後の遺伝的欠陥がこのころすでに芽ばえはじめていたのか、あとから考えても彼ら一団が共有したこの固定概念の存在は不思議である。」
 さらには、こうも述べている。
 「その理由のひとつは松川たちの疲労にもよるであろうが、ひとつには常勝軍のおごりが生じはじめたためであろう。かつてはかれらは強大なロシア軍に対し、勝利を得ないまでも大敗だけはすまいと小心に緊張しつづけたころは、針の落ちる音でも耳を澄ますところがあったが、連戦連勝をかさねたために傲りが生じ、心が粗大になり、自然、自分がつくりあげた「敵」についての概念に適わない情報には耳を傾けなくなっていたのである。日本軍の最大の危機はむしろこのときにあったであろう。」

 「勝って兜の緒を締めよ」とはよくいったもので、その“常勝軍のおごり”が、このときより数十年後に、取り返しのつかない判断ミスを犯して無謀な戦争を引き起こし、日本本土を焼け野原にしてしまうのだが、それはこの物語よりずっと後年の話である。

 明治38年(1905年)1月、ロシア第二軍司令官グリッペンベルグは約10万人の大軍で日本軍最左翼への総攻撃を決行した。その再左翼を受け持っていた秋山好古率いる秋山支隊は、わずか8000人の兵で約30kmの戦線を守っていた。総司令部もこの攻勢に初めて反応を示し、一個師団を救援に向かわせることにした。わずか一万数千の援軍である。ロシア軍の作戦は沈旦堡黒溝台を撃砕して日本軍左翼に南下し、包囲作戦に出ようとするものであった。これが成功すれば、日本側は全軍が崩壊する。この時期、総司令部が握る総予備軍は弘前の第8師団だけだった。立見尚文中将率いる通称立見師団で、熊本の第6師団と並んで日本最強との呼び声高い師団である。この立見師団は戦略予備軍であり、満州における戦局の激しさの中で常に兵力不足に悩まされていた日本軍は、この戦略予備軍まで使わざるを得なかった。

 秋山好古は敵の怒涛の攻撃に耐えていた。その防戦に最も力となったのは、各拠点に数挺ずつ配置した機関銃であった。好古は懸命に防戦した。もはや戦術も何もなく、逃げないという単純な意志だけが戦闘指揮の原理となっている。その頃、秋山支隊の援軍として派遣された第8師団がロシアの猛攻に立ち往生しており、このことを知った総司令部の狼狽は極みに達した。この頃になってようやく総司令部もロシア軍が左翼を突破し包囲攻勢をかけようとしているということに気づき、さらに第2師団、第3師団の派遣を決定した。

 しかし、黒溝台に密集しているロシア軍は依然として活発であり、日本の諸隊がこれに接近すればそのつど猛烈な銃砲火で撃退された。この状況を打破したのは、立見師団の夜襲であった。師団の夜襲とは極めて難しいもので、通常行われないものだが、しかし、立見は夜襲の名人であった。立見師団は、おびただしい犠牲を払いながらも怯むことなく躍進し、黒溝台の奪還に成功した。このとき立見師団の受けた損害は死傷6248人(うち戦死1555人)というもので、一戦場で一師団が受けた損害としては、この時期までの世界戦史に類がないといわれる。それだけの犠牲を払いながら負けなかったのは、ロシア軍の退却によってである。

 この会戦をロシア側の戦史では「沈旦堡の会戦」といい、日本側では「黒溝台の会戦」という。この会戦に参加した日本軍の兵力は5万3800人であり、死傷9324人、ロシア軍は兵力10万5100人、損害は1万1743人であった。ロシアにしてみれば最大の勝機を逸したというべきであり、九割の兵力を残しながら退却したのは奇妙というほかない。この奇妙さはクロパトキンの命令によるものであった。司馬氏はいう。
 「この会戦は日本軍にとって決して勝利とはいえない。総司令部の作戦上の甘さと錯誤を、秋山好古や立見尚文の士卒が、死力をふるって戦うことによってようやく常態にもどすことができたというのが正確な表現であり、いわば防戦の成功であった。」と。

坂の上の雲 第12話「敵艦見ゆ」 その2 ~奉天会戦~
坂の上の雲 第12話「敵艦見ゆ」 その3 ~天気晴朗ナレドモ浪高シ~

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by sakanoueno-kumo | 2011-12-21 02:00 | 坂の上の雲 | Trackback | Comments(2)  

坂の上の雲 第11話「二〇三高地」 その2

 旅順の乃木軍司令部からの度重なる敗報を受けて、満州軍総参謀長・児玉源太郎は旅順に行くことにした。乃木希典のかわりに第三軍を指揮するためである。これは軍隊の生命とでもいうべき命令系統の破壊を意味する。しかし、秩序を守って日本を滅ぼしてしまっては何にもならない。このままでは旅順のせいで日本は潰れてしまう。児玉は軍法会議にでもなんでもかけられていいという肚があった。この局面で乃木から指揮権を奪うという越権行為が出来るのは、児玉しかいないという理由もあった。ひとつには、政治的な理由である。乃木も児玉も長州人で、もしどちらかが薩摩閥か、非薩長閥に属していたとすれば、実行不可能なことであった。加えて二人には維新以来の長い親交の歴史があり、お互い知り抜いた友人関係で、少々のことではあとに人間関係のシコリを残すことはない、と児玉は思っていた。それゆえ、他に変わりの人間は存在せず、乃木のもとに行けるのは自分以外にはいないと児玉は思っていた。ただ、もし乃木が自分を拒んだ場合のため、児玉は満州軍総司令官・大山巌の命令書を得て旅順に向かうことにした。しかし、できれば乃木の名誉のためにも、この命令書は使用したくはなかった。

 同じ頃、乃木希典は作戦思想を自ら修正し、攻撃の力点を二〇三高地へと向けようと決心した。これは乃木自身の判断であり、参謀長の伊地知幸介の発議によるものではなかった。乃木は開戦以来はじめて参謀長の意向を無視したのである。しかし、この数カ月の間にロシア軍はこの二〇三高地の重要性に気づき、そこにあらゆる砲塁のなかで最強のものを築きあげていた。乃木軍は、またも無数の屍を積み上げていくこととなった。そしてこの戦いで、乃木の次男・保典が戦死する。乃木はこの約半年前にも長男の勝典を南山の戦いで失っていた。子どもはこの2人だけである。乃木は、部下から保典の死を知らされたとき、「よく戦死してくれた。これで世間に申訳が立つ。よく死んでくれた」といったという。

 ロシア軍の銃砲火の中、乃木軍の死の突撃の反復の末、一時的に二〇三高地を占領することができた。が、ほんの束の間であった。乃木軍は二〇三高地の頂上にある二つの堡塁を占拠したものの、一つは生存者は100人ほどであり、もうひとつはたった40人前後であった。乃木軍はそれに対する兵員、弾薬、食料の補給をせず、軍司令部ははるか後方にいて前線の状況を把握するまもなく奪還されてしまった。児玉は旅順に向かう汽車の中でこの報告を受け、激怒した。

 旅順に着いた児玉は早速伊地知に会い、乃木軍司令部のこれまでの作戦について痛烈に批判した。その後児玉は乃木と二人きりで会見、乃木は第三軍の指揮権を一時的に児玉に委譲する。この辺り、原作小説では児玉が乃木の自尊心を傷つけないために、良い意味でペテンにかけるようなかたちで乃木から指揮権を奪い取るのだが、ドラマでは、乃木が児玉にあくまで二人の友情によって指揮権を委譲するといった描かれ方だった。これもおそらく、乃木=無能児玉=有能といった司馬氏的主観を、なるべく和らげようという制作者の意図によるものだろう。

 指揮権を委譲された児玉は作戦の大転換をはかった。もともとそのために旅順にきたのである。彼は幕僚を集め、「以下は命令である」と告げた。一座は動揺した。児玉は本来、大山の幕僚に過ぎず、乃木軍の幕僚に対する命令権は持っていない。それが命令をするのは統帥権の無視であったが、児玉は無視した。そして、つづけて「攻撃計画の修正を要求する」といってしまった。本来なら乃木がいうべき言葉である。児玉は二〇三高地の占領確保のため、重砲隊を移動して高崎山に陣地変換し、椅子山の制圧に乗り出すといった。そして、二〇三高地の占領を確実にするために、二十八サンチ砲での援護射撃を加えるという。この援護射撃は難しく、味方もろともに粉砕してしまう恐れがある。これを聞いた佐藤鋼次郎砲兵中佐は、「陛下の赤子を、陛下の砲をもって射つことはできません」と抗議した。ここからは、原作小説の文章をそのまま引用する。
 児玉は突如、両目に涙をあふれさせた。この光景を、児玉付の田中国重少佐は、生涯忘れなかった。児玉は、かれなりにおさえていた感情を、一時に噴き出させたのである。
「陛下の赤子を、無為無能の作戦によっていたずらに死なせてきたのはたれか。これ以上、兵の命を無益にうしなわせぬよう、わしは作戦転換を望んでいるのだ。援護射撃は、なるほど玉石ともに砕くだろう。が、その場合の人命の損失は、これ以上この作戦をつづけてゆことによる地獄にくらべれば、はるかに軽微だ。いままでも何度か、歩兵は突撃して山上にとりついた。そのつど逆襲されて殺された。その逆襲をふせぐのだ。ふせぐ方法は、一大巨砲をもってする援護射撃以外にない。援護射撃は危険だからやめるという、その手の杓子定規の考え方のためにいままでどれだけの兵が死んできたか」

 私がこの小説の中で、もっとも好きな場面である。

 児玉が旅順を訪れてから4日目の明治37年(1904年)12月5日、陣地移動を完了した攻城砲は早暁から砲撃を開始。児玉の重砲陣地の大転換はみごとな功を奏しつつあった。攻撃開始から占領までに要した時間はわずかであり、まるで魔術を使ったような、嘘のような成功であった。午後2時、二〇三高地占領はほぼ確定した。児玉は山頂の将校に向かって電話した。
「そこから旅順港は、見おろせるか」
「見えます。各艦一望のうちにおさめることができます」

 児玉の作戦は奏功した。あとは、二十八サンチ榴弾砲で二〇三高地越えに旅順港の軍艦を射つことである。命中精度は、百発百中に近かった。

 児玉は乃木から指揮権を奪った。このことは部外に洩らしてはならない秘事であり、すべての功績は乃木希典に帰すべきであった。でなければ、児玉のやったことは、今後陸軍の統帥権の問題において、すさまじい悪例として残ることになる。旅順における児玉の役割は終わった。

 この旅順攻囲戦における児玉源太郎の指揮権介入のエピソードは、この小説の発表以降に世間一般に知られるようになったもので、児玉が旅順陥落直前に督戦に訪れたことは事実であるが、第3軍の指揮権に介入したという一次資料や記録は『坂の上の雲』以外には見られず(児玉の同行者だった田中国重の回想録にあるそうだが)、最近ではこのエピソードは司馬氏の創作である可能性が高いという意見が多いようである。しかし、司馬氏はこの小説を書くにあたって『フィクションを禁じたので、描いたことはすべて事実であり、事実であると確認できないことは描かなかった』と語っており、真実はどうだったのか興味深いところである。いずれにせよ、児玉が旅順に訪れた直後に二〇三高地を占領したのは事実であり、旅順港攻撃後間もなく立ち去ったのも事実である。まさしく、この作戦を敢行するために訪れたといっても不自然ではなく、むしろ、それを偶然だと否定する方が穿ちすぎな気がしないでもない。司馬説を100%否定することはできないように思う。

 二〇三高地が陥ちたことが旅順要塞にとって致命傷となり、この約1ヵ月後に旅順要塞のロシア軍は降伏、旅順攻囲戦は終了した。日本軍の投入兵力は延べ13万人、死傷者は約6万人に達した。原作小説ではこの二〇三高地の稿の中で、名もなき日本兵たちの死をも恐れない勇猛さについて司馬氏はこう述べている。
 日本の歴史は、明治になるまでのあいだ、ほかの歴史にくらべて庶民に対する国家の権力が重すぎたことは一度もない。後世のある種の歴史家たちは、一種の幻想をもって庶民史を権力からの被害史として書くことを好む傾向があるが、例えば徳川幕府が自己の領地である天領に対してほどこした政治は、ほかの文明圏の諸国家にくらべて嗜虐的であったという証拠はなく、概括的にいえばむしろ良質な治者の態度を維持したといっていいだろう。
庶民が、
「国家」
というものに参加したのは、明治政府の成立からである。
近代国家になったということが庶民の生活にじかに突きささってきたのは、徴兵ということであった。国民皆兵の憲法のもとに、明治以前には戦争に駆り出されることのなかった庶民が、兵士になった。近代国家というものは「近代」という言葉の幻覚によって国民にかならずしも福祉をのみ与えるものではなく、戦場での死をも強制するものであった。
 これを譬えていえば、日本の戦国期の戦争といえば、足軽にいたるまで軍人は職業であった。その職業からのがれる自由ももっていたし、もっと巨大な自由は、自分たちの大将が無能である場合、その支配下からのがれる自由さえもっていた。このため戦国の無能な武将たちは、敵に負けるよりもさきに、その配下の将士たちがかれらの主人を見限って散ってしまうことによって自滅した。
ところが、明治維新によって誕生した近代国家はそうではない。憲法によって国民を兵士にし、そこからのがれる自由を認めず、戦場にあっては、いかに無能な指揮官が無謀な命令をくだそうとも、服従以外になかった。もし命令に反すれば抗命罪という死刑をふくむ陸軍刑法が用意されていた。国家というものが庶民に対してこれほど重くのしかかった歴史は、それ以前にはない。
 が、明治の庶民にとってこのことがさほどの苦痛ではなく、ときにはその重圧が甘美でさえあったのは、明治国家は日本の庶民が国家というものにはじめて参加しえた集団的感動の時代であり、いわば国家そのものが強烈な宗教的対象であったからであった。二〇三高地における日本軍兵士の驚嘆すべき勇敢さの基調には、そういう歴史的精神と事情が波打っている。


 上記、青字の文章の中で、太字の部分がドラマのナレーションになっていた言葉。ナレーションで省かれていた部分(細字の部分)があるのとないのとで、意味合いが随分と変わってくる。この省かれていた部分が、いわゆる司馬史観といわれる部分で、この小説を批判する立場にいる人にとって、もっとも標的になる部分である。ナレーションで省かれていたのは尺の問題ではなく、おそらくそういった声に配慮した理由からだろう。しかし、ここではあえて前後の文章も加えて記載した。なぜなら、この文章はこの物語の核ともいえる部分だと思えるからである。その是非は別にして、現代の私たちがどれほど「国家」というものの参加者であるという意識を持ちえているかといえば、哀しいかな、ほとんど自覚のないまま生きているように思う。戦後最大の国難といわれた今年でさえ、である。そんなことを感じずにいられない、司馬氏の言葉である。

坂の上の雲 第11話「二〇三高地」 その1

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by sakanoueno-kumo | 2011-12-13 23:26 | 坂の上の雲 | Trackback(2) | Comments(0)  

坂の上の雲 第11話「二〇三高地」 その1

 旅順要塞への攻撃はなおも続いていた。東京の大本営と海軍は攻撃の主目標を二〇三高地に限定するよう再三要請するも、乃木希典を司令官とする第三軍(第一師団・東京、第九師団・金沢、第十一師団・善通寺から編成)は参謀長である伊地知幸介中将の指揮により旅順要塞正面突破に固執し、それを繰り返しては多大な損害を受けていた。作戦当初からの死傷者の数はすでに2万数千人という驚異的な数字に上っており、もはや戦争というより災害といえた。これを司馬遼太郎氏にいわせれば、「無能者が権力の座についていることの弊害が、古来これほど大きかったことはないであろう。」となる。

 乃木軍の無能さの例をあげると、たとえば乃木軍は要塞への総攻撃を毎月決まって26日に行った。ロシア軍はそのことに気付いており、常に26日を想定して部署を整え、満を持して待っていればよかった。わざわざ敵に準備をさせ、無用に兵を殺すだけのことで、それでも乃木軍は毎月26日に総攻撃を実行し、そのたび、甚大な被害を受けた。その理由を伊地知にいわせれば3つあるという。一つは火薬の準備であり、「導火索は一月保つので、前回の攻撃から一ヶ月目になる」という、科学性に乏しく、戦術配慮が皆無の理由がひとつ。二つ目は、「南山を攻撃して突破した日が、二十六日で縁起がいい」という。三つ目は、「26という数字は割り切れる。つまり要塞を割ることができる」と。乃木も横で大いにうなずいていたという。司馬氏はいう。
 「この程度の頭脳が、旅順の近代要塞を攻めているのである。兵も死ぬであろう。」

 伊地知はそのたびかさなる作戦の失敗を、自分の方針の失敗だとは思っておらず、「罪は大本営にある」と公言していた。伊地知は、作戦家としての能力に欠けていただけでなく、常に自分の失敗を他人のせいにするような、一種女性的な性格の持ち主であるようだった。そんな伊地知を乃木はかばった。乃木希典という人物は、自らに対しては厳格な精神家であったが、自分の部下に対しては大声で叱責するようなことはなく、この場合も伊地知を信じようとした。人の上に立つものの理想的な人格像ともいえるが、戦争を指揮するものとしての資質として、理想的とはいえなかった。司馬氏はいう。
 「ともあれ、旅順の日本軍は、『老朽変則の人物』とひそかにののしられている参謀長を作戦頭脳として悪戦苦闘のかぎりをつくしていた。一人の人間の頭脳と性格が、これほど長期にわたって災害をもたらしつづけるという例は、史上に類がない。」

 原作小説では、とにかく一貫して乃木希典と伊地知幸介の無能論を説く。特に伊地知に対する批判というのは凄まじく、司馬氏の“怒り”とも“嘆き”ともいえる罵倒の数々である。その批判は軍人としての能力を超えて、人格まで否定しているといっていい。司馬氏は伊地知を語る際に、軍人についてこうもいっている。
 「軍人という職業は、敵兵を殺すよりもむしろ自分の部下を殺すことが正当化されている職業で、その職業に長くいると、この点での良心がいよいよ麻痺し、人格上の欠陥者ができあがりやすい。」
 この旅順要塞攻略で失った兵の命は1万6千人を超えていた。司馬氏にいわせれば、これはもはや戦争ではなく災害であった、となる。その災害を起こした司令官と参謀長を罵倒するのも、当然かもしれなかった。しかし、ドラマではそこまで二人に批判的な描き方ではなかった。これは、できるだけ司馬氏の主観的な描写は避け、あくまで視聴者に判断を委ねる、といった製作者の意図からのものだろうか。

 司馬氏の有能無能論について原作から抜粋。
 「あたりまえのことをいうようだが、有能とか、あるいは無能とかということで人間の全人的な評価をきめるというのは、神をおそれぬしわざだろう。ことに人間が風景として存在するとき、無能でひとつの境地に達した人物のほうが、山や岩石やキャベツや陽ざしを溜める水たまりのように、いかにも造物主がこの地上のものをつくった意思にひたひたと適ったようなうつくしさをみせることが多い。
 日本の近代社会は、それ以前の農業社会から転化した。農の世界には有能無能のせちがらい価値規準はなく、ただ自然の摂理にさからわず、暗がりに起き、日暮れに憩い、真夏には日照りのなかを除草するという、きまじめさと精励さだけが美徳であった。
 しかし、人間の集団には、狩猟社会というものもある。百人なら百人というものが、獲物の偵察、射手、勢子といったぐあいにそれぞれの部署ではたらき、それぞれが全体の一目標のために機能化し、そうしてその組織をもっとも有効にうごかす者として指揮者があり、指揮者の参謀がいる。こういう社会では、人間の有能無能が問われた。
<中略>
有能無能は人間の全人的な価値評価の基準にならないにせよ、高級軍人のばあいは有能であることが絶対の条件であるべきであった。かれらはその作戦能力において国家と民族の安危を背負っており、現実の戦闘においては無能であるがためにその麾下の兵士たちをすさまじい惨禍へ追いこむことになるのである。」

 まさしく、有能無能で人間の価値ははかれないが、無能な指揮官の下で命を落としていく兵の身になってみれば、指揮官の無能は大罪であった。日本は旅順で滅びようとしていた。そこに、有能な指揮官が秩序を犯して日本を救うこととなる。

やはり1稿では書ききれません。『その2』に続きます。


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by sakanoueno-kumo | 2011-12-12 23:59 | 坂の上の雲 | Trackback(1) | Comments(2)  

坂の上の雲 第10話「旅順総攻撃」 その2

 日本には金がない。日露戦争が始まる直前に日本銀行が持っていた金貨はわずか1億1700万円にすぎず、これでは戦争ができない。日本の手持ちの金の7、8倍は公債のかたちで外国から借りねばららず、その公債募集のため日本銀行副総裁の高橋是清が各国を飛び回っていた。高橋は最初ニューヨーク飛び、そこで2・3の銀行に接触したが上手くはいかず、その後ヨーロッパに渡った。この当時、フランスは大きな金融能力を持つ国であったが、仏露条約の手前もあってロシアに金を貸していた。高橋はイギリスへ行った。イギリスとの間には日英同盟があるとはいうものの、日本に戦費を貸してくれるような性質の同盟ではなかった。高橋は、ロンドンにおけるあらゆる主要銀行や大資本家を歴訪したが、結果は絶望的だった。彼らは日本の立場には同情をしたが、しかし金を貸す相手ではないとみていた。

 そんな苦しい状況下で動き回っていた高橋のもとに、あり得べからざる幸運が転がり込んできた。たまたまロンドンに来ていたアメリカ国籍のユダヤ人金融家・ヤコブ・シフという人物が積極的に高橋に近づいてきて、「あなたの苦心はかねて聞いています。私にできる範囲で、多少の力になってあげましょう。」と申し出てくれたのである。その額は、日本政府が必要とする公債発行額の半分、5000万円だった。日本にしてみれば、まさに天からの救いのようなものであった。ヤコブ・シフはその後、高橋と外積の消化に大いに働いてくれるのだが、高橋はなぜこのユダヤ人が日本のためにそれほど力を入れてくれるのかが当初よくわからなかった。

 ヤコブ・シフは、フランクフルト生まれのドイツ系のユダヤ人で、若い頃にアメリカに渡り、古着屋からたたき上げた人物で、このときには米国クーン・ロエブ商会の持ち主であり、全米ユダヤ人協会の会長であった。シフは、日本に力を貸す理由を高橋にこう語ったという。
 「ロシアは、ユダヤ人を迫害している。われわれユダヤ人は、ロシアの帝政がなくなることを常に祈っている。そんなとき、極東の日本国がロシアに対して戦いをはじめた。もしこの戦争で日本がロシアに勝ってくれれば、ロシアにきっと革命が起こるに違いない。それゆえに、あるいは利に合わないかもしれない日本への援助を行うのである。」
 ロシア国内にはユダヤ人が600万人移住し、シフにいわせればロシア帝政の歴史はそのままユダヤ人虐殺史であるという。そう説明されたとき、高橋の秘書役の深井英五にはよくわからなかった。
 「人種問題というのは、それほど深刻なものでしょうか。」と、深井はあとで高橋にいった。日本人の概念ではユダヤ人は拝金主義者で、何よりも大切なはずの金を、勝つか負けるかわからない日本のために投ずるというのは理解しづらい。単一民族である日本人にとって、人種問題ほど実感の起こりにくい課題はなかった。

 ロシアにおけるユダヤ人迫害の歴史は古い。モスクワの南から黒海カスピ海の間にかけグルジアに至るロシア南部には、かつてユダヤ教を国教とするハザール王国という遊牧国家があった(ユダヤ教を国教とするものの、パレスチナに起源を持つヘブライ人の末裔ではない)。ロシア帝国が台頭してこの地を治めるようになってからは、反ユダヤ政策が繰り返し行われ、16世紀に雷帝の異名をとったイワン4世の頃には顕著にあらわれはじめた。イワン4世はユダヤ人を “毒薬商人”と見なし弾圧、キリスト教徒にしようとした。それを拒絶した者はことごとく川に投ぜよという勅命がくだり、役人たちはそれを実行した。その後も時の皇帝によりユダヤ人追放令は何度も出されたが、1772年からのポーランド分割によってさらに多くのユダヤ人を抱えることとなり、ロシアは世界でもっともユダヤ人の多い国家となった。

 19世紀の後半になると迫害はさらにひどくなり、残忍を極めた。ヤコブ・シフは全米ユダヤ人協会会長としてこの事態に対してできる限りの手を尽くし、英国をはじめ各国政府に嘆願したが、内政干渉になるためどの国の政府も消極的だった。シフは、個人としてロシアに金も貸した。
 「金を貸すから、どうかユダヤ人をユダヤ人であるという理由だけで虐殺することはやめてくれ。」
 と、頼んだ。ロシア政府は借りた直後はその迫害の手を緩めたが、1年も経つともとに戻った。シフは何度も金を貸したが、ついに彼は帝政ロシアの体質に絶望した。
 「革命が起こらねばだめだ。」
 という信念を持つようになった。そんなとき、ロシア内部のどういう革命党反政府組織よりも強力な力がロシアに楯突いた。それが、日本の陸海軍である。どういう革命党よりも命知らずであり、組織的であり、強力であった。
 「日本が、ロシアの帝政を倒すに違いない。」
 ヤコブ・シフは日本に賭けた。たとえ日本が負けたとしても、この戦争で帝政ロシアは衰弱する。それが、ヤコブ・シフの日本援助の理由だった。

 日本人がまったく知らない地域で起こっていた人種問題によって、日本が救われようとしていた。
 「世界は複雑だ・・・。」
 まさしく、高橋是清がいったこの台詞のとおりだった。

 坂の上の雲 第10話「旅順総攻撃」 その1

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by sakanoueno-kumo | 2011-12-09 01:15 | 坂の上の雲 | Trackback(3) | Comments(0)