久安2年(1146年)、
平清盛は正四位下という異例の官位に昇進した。
飛ぶ鳥を落とす勢いで出世を重ね、
順風満帆に見えた清盛の人生だったが、
「吉凶は糾える縄の如し」の言葉どおり、翌年の久安3年(1147年)、人生初の試練を味わうことになる。
6月15日、清盛は恒例の
祇園臨時祭に際して、
祇園社(現在の八坂神社)に
田楽舞を奉納するため、田楽を奏する楽人と護衛の家臣を派遣した。当日、清盛の郎等は弓矢、刀剣などの武具を携えたまま境内に入ろうとしたところ、祇園社の神人は
武装解除を求めて参詣を制したという。やがて郎等と神人はお互いに興奮し、ついには郎等の放った矢が神官や
宝殿に命中し、けが人まで出る深刻な事態に発展してしまったのである。ドラマでは、清盛自身がわざと
神輿を狙って矢を射たことになっていたが、これは
吉川英治著の
『新・平家物語』で描かれたフィクションで、オリジナルの
『平家物語』によれば、郎等が威嚇のために放った矢が神輿に当たってしまったもので、あくまで
過失だったようである。
祇園社の神人はことの顛末を関わりが深い
比叡山延暦寺の
衆徒(僧兵)に告げた。日頃から平氏の存在を快く思っていなかった延暦寺は、同月24日、延暦寺の所司(幹部)が
鳥羽法皇(第74代天皇)の御所へ参内し、
平忠盛・清盛父子の官位、官職の剥奪と配流を求めたとされる。一方、延暦寺の動きを察知した忠盛は、事件に関与した
郎等7人を検非違使に引渡して
事件の幕引きを図ろうとした。しかし、それでも延暦寺の怒りは収まらず、26日には祇園社、鎮守日吉社の神輿を担ぎだして
強訴を引き起こした。
衆徒が神輿などのご神体を担ぎ出すのは、
宗教的権威によって強訴を正当化するためである。このときより半世紀ほど前の嘉保2年(1095年)、神輿の入洛を
武力で鎮圧した関白・
藤原師通が、その4年後に38歳の若さで
急逝したため、延暦寺は
天罰が下ったと喧伝し、貴族たちは
神威に恐れをなして為す術をなくしていた。あの、専制君主だった
白河法皇(第72代天皇)でさえ、自分の思いどおりにならない
「天下三不如意」として、
「鴨川の水、双六の賽」とともに
「山法師(僧兵の強訴)」をあげているほどである。法皇や摂関家でさえもてあましていた強訴の矛先が清盛に向けられたのだ。清盛にとっては、まさしく人生初の
政治的危機であった。
鳥羽院は検非違使の
源光安や、源氏の棟梁・
源為義らに強訴の入洛阻止を命じた。といっても、武力で鎮圧しようというものではない。強訴といってもあくまで神威をかさに着ての
デモ行為であり、基本的に衆徒らが朝廷に対して武力に訴えることはなかった。しかしこのとき、衆徒の叫び声、
シュプレヒコールが洛中まで響いていたと伝えられるほどで、このときの強訴がいかに激しいものであったかが窺える。こういった状況下で、鳥羽院は延暦寺側に使者を送り、公平に裁断する旨を伝えて一旦衆徒を比叡山に引き返させ、同月30日、摂政・
藤原忠通、内大臣・
藤原頼長以下16人の公卿を院御所の招集して
対策会議を開き、善後策を協議させた。公卿の多くは、忠盛と清盛は事件の発端には関わっていないのだから、下手人だけを罰すればいいとの意見だったという。しかし、
「悪左府」の異名をとった切れ者・藤原頼長だけは違っていた。
頼長のいうところでは、たとえその場に居あわせなくとも、下手人たちの雇い主としての責任は免れないとして、清盛たちの
有罪を主張した。部下の失敗は上司の責任、秘書官の犯した罪は政治家の責任、
大久保隆規氏の犯した罪は
小沢一郎氏の罪である・・・と。一方で頼長は、清盛側の郎等も負傷したのだから、祇園社側の下手人も捕えて罰すべきであるとも述べている。もっともといえばもっともな意見で、さすがは
曲がったことが嫌いな頼長である。しかし、
正論ばかりでは世の中は立ち回らない。鳥羽院はあくまで忠盛たちを守りぬく考えであった。
その後も容易に結論が出ず、業を煮やした衆徒は再び入洛する構えを見せたが、このときも鳥羽院は武士たちを比叡山の降り口に派遣して
防御態勢をしいた。行軍に際しては鳥羽院自ら
閲兵にあたり、武士たちは家伝の
綺羅びやかな武具をまとって晴れやかに出陣していったと伝えられる。この出陣は半月に及んだ。
結局、裁断が下ったのは7月27日、忠盛、清盛父子は
贖銅三十斤という罰金刑を科せられた。さすがに
無罪放免とはいかなかったものの、衆徒たちが求める流罪をはねのけるかたちの
極めて軽い処分であった。この予想外の軽い処分は、鳥羽院の意向によるものだと考えられている。鳥羽院は、
軍事的にも
経済的にも強大な力を有する忠盛、清盛父子を、今後も重用したいと考えていたためだった。この裁断に対して延暦寺側は、
天台座主(延暦寺の最高位の役職)をはじめ延暦寺の首脳たちは納得したが、おさまらないの衆徒たちだった。やがて衆徒の怒りの矛先は首脳陣に向けられ、延暦寺
内部の抗争に発展したため、清盛たちはそれ以上追求を受けずにすみ、いつしか事態は
有耶無耶のまま収束に向かった。さすがの清盛もホッと胸を撫で下ろしたことだろう。
この出来事によって、清盛は
延暦寺の脅威を痛感したはずだ。後年、清盛は奈良の
興福寺や延暦寺と対立関係にある
園城寺に対しては
強圧的に臨んだが、延暦寺に対しては出来る限り
協調を保とうとした。それは、このときの
苦い経験からくるものだったのかもしれない。
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