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カテゴリ:平清盛

  • 平清盛 第19話「鳥羽院の遺言」
    [ 2012-05-15 22:43 ]
  • 平清盛 第18話「誕生、後白河帝」
    [ 2012-05-07 01:46 ]
  • 平清盛 第17話「平氏の棟梁」
    [ 2012-05-01 00:26 ]
  • 平清盛 第16話「さらば父上」
    [ 2012-04-24 16:37 ]
  • 平清盛 第15話「嵐の中の一門」
    [ 2012-04-16 19:48 ]
  • 平清盛 第14話「家盛決起」
    [ 2012-04-09 17:30 ]
  • 平清盛  第13話「祇園闘乱事件」
    [ 2012-04-02 16:52 ]
  • 平清盛 第12話「宿命の再会」
    [ 2012-03-27 22:07 ]
  • 平清盛 第11話「もののけの涙」
    [ 2012-03-21 00:32 ]
  • 平清盛 第10話「義清散る」
    [ 2012-03-13 15:26 ]

 

平清盛 第19話「鳥羽院の遺言」

 久寿2年(1155年)の近衛天皇(第76代天皇)の崩御後、誰も予想していなかった後白河天皇(第77代天皇)が誕生すると、藤原忠通が関白に任ぜられ、後白河帝の乳父である信西が重用され、事実上この二人が国政を掌握する。一方で、崇徳上皇(第75代天皇)の皇子・重仁親王の即位を望んでいた藤原頼長は、後白河帝の即位によって内覧を解任され、朝廷内での存在感を失いつつあった。当然のごとく、頼長は後白河帝や信西に対して強い不満を抱くようになる。

 もともと摂関家の藤原氏では、官位官職などの就任をめぐり、深刻で拭いがたい対立があった。兄・忠通と弟・頼長との主導権争いである。「日本第一の大学生」といわれた頼長は、摂関となって自ら政治を執り行うことを願っていた。そんな頼長を父である藤原忠実も偏愛し、摂関の地位を弟に譲るよう忠通にたびたび圧力をかけたが、実子の藤原基実に継がせたいと考えていた忠通はこれを拒み続けた。怒った忠実は、忠通の東三条殿の邸に家人の源為義を派遣し、摂関家累代の宝物を接収して忠通を義絶、頼長を氏長者にしてしまう。そして翌年、鳥羽法皇(第74代天皇)に懇請して頼長を「内覧」に就かせた。内覧とは天皇の決定を補佐する役で、通常は摂政関白がこの任にあたる。関白の忠通と内覧の頼長という二人の執政が並び立つ異常事態が生まれたのだった。

 しかし、そんな頼長の権力の時代は長くは続かなかった。厳しい処罰を伴う頼長の厳格な政治姿勢は多くの貴族の反感を買い、鳥羽院の寵臣・藤原家成邸の襲撃したことで鳥羽院の信任まで失うこととなる。さらには、近衛帝が眼病で早世したのは、「何者かが愛宕山の天公像(天狗像)の目に釘を打ち込み呪詛したせいだ」という風聞が飛び交い、その呪詛を行ったのが頼長だという噂を立てられる。おそらくは兄・忠通による策謀だと思われるが、この噂によってさらに頼長は鳥羽院の恨みを買い、そして後白河帝の即位に伴い、兄の忠通は関白に任じられ、頼長は内覧を解任させられた。

 「お前は、やりすぎたのだ!」
 ドラマ中、父・忠通が頼長に言った台詞だが、まさしく頼長はやりすぎた。やりすぎたことにより多くの敵を作り、そして遂には完全に失脚したのである。この失脚を操っていたのが、後白河帝の乳父・信西だった。

 信西入道こと藤原通憲は、頼長に勝るとも劣らないほど学才豊かな人物だったが、家柄が低かったため官職は少納言止まりだった。朝廷での官位官職の出世をあきらめた通憲は、出家して信西と名を改め、その学才を生かして鳥羽法皇の政治顧問となり徐々に頭角をあらわす。さらに信西は、妻が後白河帝の乳母を勤めていたことから、後白河帝を即位させ、天皇の乳父としての立場で政治の実権を握ろうと目論んだ。そしてその計画を実現した信西は、政敵となった頼長を徹底的に排除しようと画策するのである。

 同じ頃、清和源氏では源義朝の弟・源為朝(鎮西八郎)が鎮西(九州)で乱暴狼藉を繰り返し、そのせいで父の源為義は官位を剥奪されてしまう。また同じ頃、義朝の長男でわずか15歳の源義平が、同じく義朝の弟で義平からみれば叔父にあたる源義賢を攻め滅ぼし、一族を制圧してしまった。その恐るべき所業から、義平は「悪源太」と呼ばれるようになる。このとき、義賢の子でまだ2歳の幼児だった駒王丸はかろうじて逃げ延び、信濃の豪族に養育された。この駒王丸がのちに木曽義仲と名乗り、信濃の武士団を率いて立ち上がることになるのだが、それはずっと後年の話。この頃、これまた義朝の弟で源氏の総領を継ぐ存在となっていた源頼賢が、義賢討死の報復のため東国に下る途中、鳥羽院の荘園といざこざを起こしてしまい、この報を受けた鳥羽院は頼賢追討を兄の義朝に命じた。義朝がこれを受けなかったため、兄弟での争いはとりあえずは回避できたものの、もともと摂関家に仕える父・為義と、鳥羽院に接近して下野守となっていた義朝とは、一線を画す関係にあった。一族の分裂は時間の問題だったのである。

 そんな中、保元元年(1156年)7月2日、治天の君として28年間君臨した鳥羽院が崩御した。これを機に、天皇家では兄・崇徳上皇と弟・後白河天皇、藤原摂関家では兄・忠通と弟・頼長、そして源氏では父・為義と嫡男・義朝と、まさに「骨肉相食む」戦いが始まろうとしていた。


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by sakanoueno-kumo | 2012-05-15 22:43 | 平清盛 | Trackback(3) | Comments(2) 

平清盛 第18話「誕生、後白河帝」

 久寿2年(1155年)7月23日、近衛天皇(第76代天皇)が17歳の若さで崩御した。近衛帝は鳥羽法皇(第74代天皇)の第9皇子で、生母は皇后の美福門院得子。これまで何度も紹介してきたとおり、近衛帝の兄である崇徳上皇(第75代天皇)は、鳥羽院と中宮・待賢門院璋子との間に長男として生まれながら、鳥羽院は祖父の白河法皇(第72代天皇)と璋子が密通して出来たのが崇徳院だと信じて疑わず、鳥羽院は終生、崇徳院のことを「叔父子」と呼んで忌み嫌ったと伝えられる。そのことが理由だったかどうかはわからないが、鳥羽院政下で崇徳院は23歳の若さで天皇位を無理やり退位させられ、わずか3歳の近衛帝が誕生した。崇徳院にしてみれば、天皇が弟では将来の院政は不可能であり、崇徳院にとってこの譲位は大きな遺恨となった。

 その近衛帝が崩御した。近衛帝は病気がちで、藤原頼長の日記『台記』によれば、15歳の時には一時失明の危機に陥り、退位の意思を関白・藤原忠道に告げたという。17歳での早世で、しかも病気がちだったため皇子はおらず、近衛帝の崩御は、天皇家の内紛の序章となるには想像に難しくなかった。

 当然ながら、崇徳院はわが子の重仁親王を即位させ、自身が治天の君となって院政を行うことを期待した。嫡流という点でいえば、重仁親王の即位が最も相応しいといえた。一方で、鳥羽院亡き後も権勢を保ちたいと考えていた美福門院得子は、関白・藤原忠通と組んで、鳥羽院の第4皇子・雅仁親王の第1皇子・守仁親王(のちの第78代・二条天皇)を皇位につけようと画策し、鳥羽院もそれを支持していた。しかし、それには問題があった。存命中の父が天皇を経験していないにもかかわらず、その息子が皇位についた前例がなかったのである。そこで、にわかに浮上してきたのが雅仁親王だった。

 この頃の雅仁親王は政治的な問題には一切感心を示さず、当時流行していた歌謡・今様に耽溺する日々を送っていたという。兄である崇徳院は雅仁親王のことを「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と酷評しており、また、雅仁親王の乳父だった信西(藤原通憲)でさえ、「和漢の間 比類少なき暗主なり」と、こき下ろしている。当時の朝廷内では、誰もが雅仁親王のことを「帝の器にあらず」と考えていた。そんな雅仁親王に白羽の矢が立ったのは、何としても重仁親王の即位を回避したい者たちの政治的な思惑から、いったん雅仁親王に即位させ、そのうえで守仁親王に譲位させるという、いわば中継ぎ投手的な役割での即位だった。こうして、本人さえなるはずがないと思っていた天皇、第77代・後白河天皇が誕生したのである。この皇位継承により、崇徳院が院政を行う望みは完全に絶たれたに等しかった。

 この重要な時期に、内大臣・藤原頼長が妻の服喪のため朝廷に出仕していなかったのはドラマのとおりで、皇位継承を決める王者議定にも参加していなかった。常に正論をもって臨んだ頼長は重仁親王を推していた。守仁親王を推していた兄・忠道とは対立関係にあり、一説には、近衛帝の死は頼長が呪詛したためだという噂を立てられ、職務を停止されて事実上の失脚状態となっていたともいわれる。厳しい処罰を伴う頼長の厳格な政治姿勢は、多くの敵を作り、反頼長組織を生んでいた。政治とは、正論ばかりでは行えないというのは、今も昔も変わらないようだ。

 政権から締め出された崇徳院と頼長が接近するのは時間の問題だった。


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by sakanoueno-kumo | 2012-05-07 01:46 | 平清盛 | Trackback(4) | Comments(2) 

平清盛 第17話「平氏の棟梁」

 仁平3年(1153年)1月15日、父・平忠盛の死によって平清盛は伊勢平氏の棟梁となった。ときに清盛36歳。いよいよ歴史の表舞台へ飛び出していく。

 「平氏」「平家」という呼び方がある。「平氏」が平姓をもつ者全体を指しているのに対し、「平家」は、平清盛の一族をさすのが一般的だ。たしかにあの『平家物語』も清盛とその子孫たちの物語で、広く平氏全体を対象としていないことを思えば、この呼び方は正しいといえるだろう。ただし、厳密にいえば、清盛が三位以上の公卿になった時点で、「平家」と呼ぶべきであるという意見もある。三位以上の上流貴族の家では、政所(まんどころ)と呼ばれる家政機関を設置し、朝廷から職員が派遣され、個人の家でありながら公的なものになるのである。その論でいえば、清盛一家の場合も、本来なら永暦元年(1160年)に清盛が三位になった時点で「平家」と呼ぶべきで、それまではこれまでどおり伊勢平氏と呼ぶのが正しいのかもしれない。

 清盛を棟梁とした平家一門には、次のような顔ぶれがいた。まず、清盛は高階基章の娘(本ドラマでは明子という名)との間に、嫡男・重盛、次男・基盛の二男をもうけている。『平家物語』によれば、重盛と基盛は有能な人物で将来を嘱望されていたが、惜しいことに父に先立って早世してしまうことになる。わけても、重盛は平家一門の中で唯一、清盛を諌めることができる人物であったとされただけに、その死は惜しまれた。もし重盛が天寿を全うしていれば、文治元年(1185年)の平家滅亡を回避できたであろうという声が後世に少なくない。

 最初の妻の死後、清盛は継室(正室)・時子との間に、宗盛知盛重衡建礼門院徳子という三男一女をもうけた。宗盛とは、今話に出てきた清三郎のこと。先に触れたとおり、重盛と基盛が早世したため、三男である宗盛が清盛の死後に平家の棟梁、平氏一門の総帥となる。だが、残念なことに宗盛は、二人の兄ほどの人物ではなかった、と『平家物語』では伝えられている。

 また、清盛は正室、継室以外の女性との間に、知度清房の二人の息子と、少なくとも7人の娘をもうけたとされている。娘のうち、後白河法皇(第77代天皇)の女房(女官)となった女性の生母は、厳島内侍なる側室だったという記録が残っているが、他の6人の娘に関しては生母が不詳である。この6人の娘の中では、白河殿(平盛子)藤原基実の継室となり、他の娘も清盛の意向に従い、藤原兼雅藤原隆房藤原基通藤原信隆らの正室となっている。この娘たちの中には、清盛が自分の実の娘と称して嫁がせた養女も含むのかもしれない。さらに清盛は、平治の乱の後に源義朝の側室だった常盤御前源義経らの生母)と関係し、廊御方(三条殿)なる娘をもうけたという説もある。

 次に、清盛の孫たちをあげると、重盛は維盛資盛清経有盛師盛忠房、基盛は行盛、宗盛は清宗能宗、知盛は知章知忠知宗という子をもうけた。また、建礼門院徳子は高倉天皇(第80代天皇)の女御(のち中宮)となり、安徳天皇(第81代天皇)を産んだ。だが、その多くは清盛の没後、非業の最期を遂げることとなる。

 「重盛に 基盛それに清三郎 清四郎みな われらの子なり」

 このような歌を清盛が詠んだというのは当然ドラマのフィクションだが、清盛を棟梁とした平家一門の特徴は、一族が手を取り合って結束を守りぬいたところにある。それはおそらく、一門の大黒柱であった清盛の精神からきたもので、まさしく、「みな、われらの子なり、孫なり」といった思いだったのだろう。清盛の死後、都落ちに加わらなかった清盛の弟・頼盛や、途中で一門を離脱した重盛の子・維盛などもいて、必ずしも平家は一枚岩ではなかったことがよく指摘されるところだが、しかし、親子兄弟が殺し合い、一族が血で血を争う抗争を繰り広げて滅亡した源氏に比べれば、はるかに結束力があったことは確かであり、そうした一門の“絆”が平家の魅力でもあり、本ドラマのひとつのテーマでもあるようだ。


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by sakanoueno-kumo | 2012-05-01 00:26 | 平清盛 | Trackback(3) | Comments(0) 

平清盛 第16話「さらば父上」

 仁平3年(1153年)1月15日、平清盛の父・平忠盛がこの世を去った。享年58歳。当時の日記などによると、忠盛は死の2年前に就任していた刑部卿に職を、死の2日前の1月13日に辞任したという記録があるそうで、そのことから考えれば、忠盛の死は急死ではなく、おそらく病没だったのだろう。位は正四位上という四位の最上位に達していた。その上は三位、すなわち公卿である。国政に携わる一歩手前まできていただけに、まことに惜しい死であった。

 若き日の忠盛は白河法皇(第72代天皇)に重用され、検非違使などの官職、越前守などの受領を歴任し、山陽道、南海道の海賊討伐で活躍、治安維持に務め実績をあげた。白河院の没後は鳥羽法皇(第74代天皇)に忠節を尽くし、院庁の判官代別当(長官)などの要職を歴任した。後半生の忠盛はさらに、中務大輔尾張守播磨守内蔵頭などの要職を歴任する一方、鳥羽院の御厩の別当、美福門院得子年預(執事別当)なども兼ねた。そして長承元年(1132年)には清涼殿南廂の殿上の間への昇殿を許された。武家出身者が昇殿人となるのは異例のことで、これは、千体の観音像をおさめた得長寿院の造営の功により許されたものだといわれている。その後も忠盛は、保延元年(1135年)にも海賊討伐で実績をあげ、さらに保延5年(1139年)には興福寺宗徒が起こした強訴を洛外で阻止した。このように忠盛は、人並み外れた手腕、軍事力を有する時代を代表する武将だった。

 もっとも忠盛は武力財力だけで出世したわけではなかった。宮廷貴族として認められるには、それに相応しい教養を身に着けていなければならない。忠盛は武家の棟梁としてのみならず、和歌音楽にも造詣が深い人物として知られていた。特に和歌は『金葉和歌集』(白河院の命により編纂された勅撰和歌集)に載るほどの名手だったようだ。『平家物語』にも、備前から帰ってきた忠盛が鳥羽院に「明石浦はどうであった」と聞かれて、即座に「有明の月も明石のうら風に浪ばかりこそよるとみえしか」(残月の明るい明石浦に、風が吹かれて波ばかり寄ると見えた)と詠んだエピソードが残されている。「明石」「明かし」「寄る」「夜」をかけた歌で、その出来栄えに鳥羽院も大いに感心したという。

 管弦ではをよくしたという。「小枝(さえだ)」という笛を鳥羽院から賜り、それを三男の平経盛に譲り、それがさらに孫の平敦盛に伝わったことが、『平家物語』「敦盛最期」に見える。その他、舞は元永2年(1119年)の賀茂臨時祭で舞人を務め、見物の公卿に「舞人の道に光華を施し、万事耳目を驚かす」と称えられたほどであった。ドラマでの忠盛は無骨な武家の棟梁としての一面だけしか見られなかったが、実際の忠盛は和歌、管弦、舞などの芸術面にも優れた文化人でもあったようである。いや、武力一辺倒の武士のイメージを払拭するため、また、朝廷での平家の地位を高めるため、血のにじむような努力を重ねた上のものだったのかもしれない。

 ちなみに、平家一門には平忠度(清盛の末弟)の和歌や平経正(経盛の長男)の琵琶など、和歌や管弦など芸術面に優れた人物が多いが、これも忠盛の血を引く遺伝的素質だったのだろう。そう考えれば、清盛が芸術面でこれといった才能を見せなかったのが興味深い。ひょっとしたら、ドラマのとおり清盛と忠盛には血の繋がりがなかったのだろうか・・・。

 忠盛の死にあたって、祇園闘乱事件では忠盛・清盛父子の刑を主張した悪左府・藤原頼長でさえ、自身の日記『台記』に次のように記している。
 「数国の吏を経て、富は巨万を重ね、奴僕は国に満ち、武威は人にすぐる。然るに人となり恭倹にして、未だかつて奢侈の行あらず。時の人、これを惜しむ」
 巨万の富と多くの家来を持ち、人にまさる武威を持ちながら、あくまで慎み深く、贅沢な振る舞いはなかった・・・と、あの憎たらしい頼長からは想像できないほどの賛辞を書き残している。この一文からも、忠盛の人となりが窺えるというものである。若き日の清盛が飛ぶ鳥を落とす勢いで異例の出世を遂げたのも、父・忠盛の配慮によってのもので、この時期はまだ忠盛あっての清盛だった。

 公卿を目前にして叶わなかった忠盛だったが、その最終の位である正四位上というのは、通例ではあまり与えられる者のない位階で、公卿になる人はこれを飛び越えて三位になる場合がほとんどだった。忠盛が異例の正四位上についたのは、なんとしても武家を公卿にしてはならないという政治力がはたらいた結果と考えられなくもない。いかに富を蓄え、武力を持ち、宮廷人としての素養を身につけても、武士が公卿に上る道は依然として険しかったのである。その道は、こののち清盛に引き継がれていく。


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by sakanoueno-kumo | 2012-04-24 16:37 | 平清盛 | Trackback(2) | Comments(0) 

平清盛 第15話「嵐の中の一門」

 平清盛の異母弟・平家盛の死から2ヶ月後の久安5年(1149年)5月、高野山の根本大塔が落雷による火災で焼失し、その再建を父・平忠盛鳥羽法皇(第74代天皇)より命ぜられる。このとき清盛は父の代官として高野山に登り建立奉行を務めた。清盛はこの再建事業にあたり、金堂に掲げる大きな両部曼荼羅を寄進した。その制作過程において 、胎蔵曼荼羅の中尊に、清盛自らの頭の血を絵具に混ぜて描かせたという逸話が『平家物語』のなかにある。もっとも、ドラマのように忠盛に殴られて血を流したわけではなく、自ら額を割って血を抜いた、というのが、オリジナルのエピソードである。この造営事業は7年後の保元元年(1156年)まで続けられ、その竣工を待たずして忠盛は没している。

 改元したばかりの仁平元年(1152年)2月、清盛は安芸守に任命された。後年、清盛が安芸の厳島神社を熱心に信仰したことはよく知られているが、平家と厳島の関係は、清盛の安芸守就任と、このときの高野山大塔の造営事業が大きく関係していたという。

 鎌倉初期に生まれた『古事談』によると、高野山大塔の造営事業の最中、清盛自ら材木を担いで運ぶなどの作業をしていたが、ある日、香染めの衣をまとった僧侶が現れ、「わが国の大日如来は伊勢大神宮と安芸の厳島である。大神宮はあまりにも尊い。汝はたまたま安芸の国司となった。早く厳島に奉仕しなさい。」といって忽然と姿を消した。その後、厳島に参詣し社殿の修築を行ったところ、巫女の口をとおして「あなたは従一位太政大臣になるであろう」と告げられたという。

 『平家物語』にも同じような話がある。高野山の大塔修理を終えた清盛が弘法大師(空海)の廟である奥院に参ったとき、眉毛の太い二股の杖をついた僧侶が現れて、「厳島を修理すれば肩を並べる者がないほどに出世するだろう」と予言した。弘法大師の化身だと思った清盛は忠告どおりに厳島の造営に着手。やがて工事が終わって清盛が厳島に参詣すると、うたたねの夢のなかに神の使者が現れて銀柄の小長刀を清盛に与え、「この剣をもって一天四海を鎮め、朝廷の守りとなれ」と告げた。その後、厳島大明神のお告げがあり、「高野の聖がいったことを忘れるな。ただし悪行があれば、子孫まではかなうまいぞ」と述べたという。

 どちらの話も何とも神秘的な話で、とても実話とは考えづらいエピソードだが、長寛2年(1164年)に平家一門が厳島神社に奉納した清盛自筆の「願文」にも、夢に一沙門(僧侶)が現れて厳島を信仰するように勧められ、そのお告げどおりにひたすら信心した結果、一門に栄華がもたらされた、と、これらの逸話をなぞるような体験が記されている。具体的に太政大臣になると予言していることや、のちの平家滅亡の結果を知っているかのような戒めのお告げなどは荒唐無稽な話だとしても、何らかの神秘的な宗教体験がこの時期の清盛にあり、そのことが厳島信仰のきっかけになったことは事実だったのかもしれない。


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by sakanoueno-kumo | 2012-04-16 19:48 | 平清盛 | Trackback(4) | Comments(0) 

平清盛 第14話「家盛決起」

 祇園闘乱事件が発端となった比叡山延暦寺の強訴に一応の決着をみたものの、これまで順風満帆な人生を送ってきた平清盛にとっては初めての挫折となったようで、その後も一時不遇を強いられることとなった。そのことと関係していたかどうかはわからないが、にわかに異母弟の平家盛が朝廷における活動を活発化しはじめ、清盛の地位を脅かす存在となりつつあった。

 ここで清盛の兄弟について触れておこう。清盛の生母については第1話でも触れたとおり(参照:第1話)、正確なことはほとんど何もわかっていない。わかっているのは、清盛が2、3歳の頃に亡くなっているということだけである。この女性が清盛以外の子を産んだという記録はなく、清盛には父母を同じくする兄弟姉妹は一人もいなかったようである(ドラマでは、清盛の実父は平忠盛ではなく白河法皇(第72代天皇)の御落胤という設定になっているが、この説については賛否両論があって事実とは言い難く、ここでは清盛の実父は忠盛という仮定で進めることにする)。清盛の生母の死後、忠盛は藤原宗子(のちの池禅尼)を継室に迎え、平家盛平頼盛といった男子をもうけ、他にも三人の側室や妾との間にそれぞれ、平経盛平教盛平忠度という男子をもうけた。次弟の家盛の生年は正確には不明なのだが、これらの異母弟の長幼の順は、家盛、経盛、教盛、頼盛、忠度というものであったと考えられている。さらに、生母も長幼の順も不明だが、清盛には少なくとも3人の異母妹がいた。

 この中で、家盛と頼盛の二人は継室(正室?)の子であったため、比較的順調に出世した。この時代、長男が家督を継ぐとは限らず、正室の子か側室の子かという生母の立場も重要であり、その意味では、家盛は清盛の強力なライバルだった。

 祇園闘乱事件から5ヵ月が過ぎた久安3年(1147年)11月、家盛は常陸介に任官し、その直後には賀茂臨時祭舞人を務め、さらに翌年正月には従四位下右馬頭に任じられた。右馬頭は御所の馬や馬具を管理する右馬寮の長官であり、軍事的にも重要な部署で、武士にとっては名誉な役職だった。清盛の起こした事件から間もないこのタイミングでの家盛の出世を、事件とは無関係と考えるほうが無理があるように思える。この時期の清盛はドラマのように、朝廷からも平氏内部でも、信頼を失っていたのかもしれない。急激な弟の台頭に、清盛はきっと心穏やかならぬ日々を送っていたことだろう。

 こうして弟の猛追によって平氏の後継者という地位を脅かされていた清盛だったが、幸か不幸か、久安5年(1149年)2月の鳥羽法皇(第74代天皇)の熊野詣に供奉した家盛は、その帰路にに倒れ、3月15日、京に近い宇治川の辺りで帰らぬ人となる。訃報を聞いて駆けつけた乳父の平維綱は、悲しみのあまりその場で出家したという。父の忠盛もその翌月、自ら費用を負担して造営した延勝寺の供養を、家盛の死を理由に欠席し、一周忌には家盛愛用の剣を奈良の正倉院に寄進している。家盛の死による平氏一門の悲しみの深さが伺えるが、この死によって、結果として清盛の後継者としての地位が盤石となったことは間違いない。このとき、清盛はどんな心境だったのだろうか・・・。

 ちなみに、家盛の出世を内大臣・藤原頼長が導いたという話は他の物語などには見られず、ドラマのオリジナルだと思われる。したがって、家盛が頼長の男色相手だったという話ももちろん存在しない。しかし、頼長が男色家だったという話は有名な事実で、自らが記した『台記』という日記には、赤裸々な男色行為が綴られている。この時代の公家社会では男色は珍しいことではなく、政治や人事にも大きく影響していたとか。頼長が記した『台記』は男色日記ではなく、政治活動を後世に残すための記録だったようである。ただ、そう説明されたところで現代の私たちに共感できるものではなく、むしろおぞましい感覚さえ覚えてしまうのだが、驚いたのは、これを天下のNHKが大胆に描いたこと。おそらく賛否両論はあろうかと思うが、このドラマにかける制作サイドの意気込みは評価したい。ただ、今のところその意気込みが視聴率に繋がらず、空回りし始めているような気がしないでもないのだが・・・。



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by sakanoueno-kumo | 2012-04-09 17:30 | 平清盛 | Trackback(6) | Comments(0) 

平清盛  第13話「祇園闘乱事件」

 久安2年(1146年)、平清盛は正四位下という異例の官位に昇進した。飛ぶ鳥を落とす勢いで出世を重ね、順風満帆に見えた清盛の人生だったが、「吉凶は糾える縄の如し」の言葉どおり、翌年の久安3年(1147年)、人生初の試練を味わうことになる。

 6月15日、清盛は恒例の祇園臨時祭に際して、祇園社(現在の八坂神社)に田楽舞を奉納するため、田楽を奏する楽人と護衛の家臣を派遣した。当日、清盛の郎等は弓矢、刀剣などの武具を携えたまま境内に入ろうとしたところ、祇園社の神人は武装解除を求めて参詣を制したという。やがて郎等と神人はお互いに興奮し、ついには郎等の放った矢が神官や宝殿に命中し、けが人まで出る深刻な事態に発展してしまったのである。ドラマでは、清盛自身がわざと神輿を狙って矢を射たことになっていたが、これは吉川英治著の『新・平家物語』で描かれたフィクションで、オリジナルの『平家物語』によれば、郎等が威嚇のために放った矢が神輿に当たってしまったもので、あくまで過失だったようである。

 祇園社の神人はことの顛末を関わりが深い比叡山延暦寺衆徒(僧兵)に告げた。日頃から平氏の存在を快く思っていなかった延暦寺は、同月24日、延暦寺の所司(幹部)が鳥羽法皇(第74代天皇)の御所へ参内し、平忠盛・清盛父子の官位、官職の剥奪と配流を求めたとされる。一方、延暦寺の動きを察知した忠盛は、事件に関与した郎等7人を検非違使に引渡して事件の幕引きを図ろうとした。しかし、それでも延暦寺の怒りは収まらず、26日には祇園社、鎮守日吉社の神輿を担ぎだして強訴を引き起こした。

 衆徒が神輿などのご神体を担ぎ出すのは、宗教的権威によって強訴を正当化するためである。このときより半世紀ほど前の嘉保2年(1095年)、神輿の入洛を武力で鎮圧した関白・藤原師通が、その4年後に38歳の若さで急逝したため、延暦寺は天罰が下ったと喧伝し、貴族たちは神威に恐れをなして為す術をなくしていた。あの、専制君主だった白河法皇(第72代天皇)でさえ、自分の思いどおりにならない「天下三不如意」として、「鴨川の水、双六の賽」とともに「山法師(僧兵の強訴)」をあげているほどである。法皇や摂関家でさえもてあましていた強訴の矛先が清盛に向けられたのだ。清盛にとっては、まさしく人生初の政治的危機であった。

 鳥羽院は検非違使の源光安や、源氏の棟梁・源為義らに強訴の入洛阻止を命じた。といっても、武力で鎮圧しようというものではない。強訴といってもあくまで神威をかさに着てのデモ行為であり、基本的に衆徒らが朝廷に対して武力に訴えることはなかった。しかしこのとき、衆徒の叫び声、シュプレヒコールが洛中まで響いていたと伝えられるほどで、このときの強訴がいかに激しいものであったかが窺える。こういった状況下で、鳥羽院は延暦寺側に使者を送り、公平に裁断する旨を伝えて一旦衆徒を比叡山に引き返させ、同月30日、摂政・藤原忠通、内大臣・藤原頼長以下16人の公卿を院御所の招集して対策会議を開き、善後策を協議させた。公卿の多くは、忠盛と清盛は事件の発端には関わっていないのだから、下手人だけを罰すればいいとの意見だったという。しかし、「悪左府」の異名をとった切れ者・藤原頼長だけは違っていた。

 頼長のいうところでは、たとえその場に居あわせなくとも、下手人たちの雇い主としての責任は免れないとして、清盛たちの有罪を主張した。部下の失敗は上司の責任、秘書官の犯した罪は政治家の責任、大久保隆規氏の犯した罪は小沢一郎氏の罪である・・・と。一方で頼長は、清盛側の郎等も負傷したのだから、祇園社側の下手人も捕えて罰すべきであるとも述べている。もっともといえばもっともな意見で、さすがは曲がったことが嫌いな頼長である。しかし、正論ばかりでは世の中は立ち回らない。鳥羽院はあくまで忠盛たちを守りぬく考えであった。

 その後も容易に結論が出ず、業を煮やした衆徒は再び入洛する構えを見せたが、このときも鳥羽院は武士たちを比叡山の降り口に派遣して防御態勢をしいた。行軍に際しては鳥羽院自ら閲兵にあたり、武士たちは家伝の綺羅びやかな武具をまとって晴れやかに出陣していったと伝えられる。この出陣は半月に及んだ。

 結局、裁断が下ったのは7月27日、忠盛、清盛父子は贖銅三十斤という罰金刑を科せられた。さすがに無罪放免とはいかなかったものの、衆徒たちが求める流罪をはねのけるかたちの極めて軽い処分であった。この予想外の軽い処分は、鳥羽院の意向によるものだと考えられている。鳥羽院は、軍事的にも経済的にも強大な力を有する忠盛、清盛父子を、今後も重用したいと考えていたためだった。この裁断に対して延暦寺側は、天台座主(延暦寺の最高位の役職)をはじめ延暦寺の首脳たちは納得したが、おさまらないの衆徒たちだった。やがて衆徒の怒りの矛先は首脳陣に向けられ、延暦寺内部の抗争に発展したため、清盛たちはそれ以上追求を受けずにすみ、いつしか事態は有耶無耶のまま収束に向かった。さすがの清盛もホッと胸を撫で下ろしたことだろう。

 この出来事によって、清盛は延暦寺の脅威を痛感したはずだ。後年、清盛は奈良の興福寺や延暦寺と対立関係にある園城寺に対しては強圧的に臨んだが、延暦寺に対しては出来る限り協調を保とうとした。それは、このときの苦い経験からくるものだったのかもしれない。


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by sakanoueno-kumo | 2012-04-02 16:52 | 平清盛 | Trackback(3) | Comments(0) 

平清盛 第12話「宿命の再会」

 保延5年(1139年)以降に最初の妻と死別した平清盛は、久安元年(1145年)頃に後妻を迎えた。名は時子。後年、壇の浦の戦いで平家一門が源氏軍に敗北を喫したとき、自らの孫である幼帝・安徳天皇(第81代天皇)を抱いて海中に身を投じたことで有名な、あの女性である。このとき、清盛は27~28歳ごろ。時子の生年は諸説あるので正確なことはわからないが、大治元年(1126年)という説にしたがえば、19~20歳頃のことだった。

 時子の父は平時信という名の中級官僚で、清盛らと同じく桓武平氏である。ただ、清盛と時子を血縁関係とするにはかなり遠い。そもそも、桓武平氏には様々な系統があり、なかでも有力だったのは高棟王(第50代・桓武天皇の孫)の子孫である高棟流の平氏と、高望王(桓武天皇の曾孫)の子孫である伊勢平氏の2系統である。このうち、伊勢平氏は伊勢を本拠として武士の道を歩み、清盛の祖父・平正盛の時代に中央に進出、息子の平忠盛、そしてその息子の清盛の三代の時代に全盛期を迎える。一方、高棟流の平氏は京に留まり、公家の道を歩む。その高棟流の平氏の末裔が時子の実家である。清盛と時子は共に桓武平氏の一族ではあったが、系譜の面ではかなり異なり、遠戚ともいえない間柄だった。

 清盛ら伊勢平氏を武家平氏、時子の実家の清盛の高棟流平氏を公家平氏と呼んだりもする。公家平氏は武家平氏よりも家格でいえば上。若き日の最初の妻のときとは違って、野心を持った清盛にとって多分に政略的な意図の縁談だったに違いない。少なくとも、「もうそなたで良い!」なんて無礼極まりない求婚ではなかったはずだと思われる(笑)。

 清盛の前半生のライバルとなる源義朝は、父・源為義のもとを少年期に離れ、相模鎌倉を拠点として東国での勢力伸長を目指していた。一時は勢力伸長を急ぐあまりに、坂東南部の大庭御厨などを侵略して訴えられたりもしたが、徐々に東国の有力な在地豪族を傘下に収め、相模国一帯に強い基盤を作りつつあった。父と違ってかなりのヤリ手だったようだ。

 義朝のヤリ手ぶりは武勇のみならず、艶福家としても名高い。義朝の子女は少なくとも息子が9人、娘が2人いたといわれているが、それらの生母は、長男の源義平(悪源太)が橋本の遊女、次男の源朝長修理大夫範兼の娘(一説には大膳大夫則兼の娘)、三男の源頼朝、五男の源希義(土佐冠者)、長女が藤原季範の娘で正室となる由良御前、六男の源範頼(蒲冠者)が遠江池田宿の遊女、そして七男の阿野全成(醍醐悪禅師)、八男の義円(円成)、九男の源義経が有名な常盤御前である。この他にも、宇都宮朝綱の娘・八田局との間に、八田知家という男子をもうけたという伝承もあり、38歳没という義朝の短い生涯から思えば、大変な絶倫ぶりだ。ドラマでのワイルドなプレイボーイキャラも、結構、的を射ているかもしれない。
 「どうだ? そなたも俺の子を産んでみるか?」
 こんなとんでもない口説き文句で女を落としていたかどうかはわからないが(笑)。

 この時代、ひとかどの武将であれば一夫多妻は当然で、清盛の場合も例外ではなかった。しかし、良質の史料として確認できるのは、既述した正室と継室以外には厳島神社の巫女だったという妾が一人だけ。義朝の側室だった常盤御前を手篭めにしたという逸話は有名だが、それを裏付ける史料は存在せず、近年では懐疑的な意見が主流のようだ。また、『平家物語』に出てくる白拍子の祇王仏御前についても、同物語自体が事実を曲げてまでも清盛を悪人に仕立てようとする性質の物語であるため、どこまで信用できるかあやしいものである。

 ドラマでは宿命のライバルとして描かれている平清盛と源義朝。女にモテたのは、どうやら義朝の方だったようだ。


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by sakanoueno-kumo | 2012-03-27 22:07 | 平清盛 | Trackback(2) | Comments(0) 

平清盛 第11話「もののけの涙」

 平清盛の最初の妻については、高階基章という廷臣の娘だったということと、長男・平重盛、次男・平基盛の二人の男子を産んだということ以外は何もわかっていない。したがって今話の彼女に関するストーリーは全て創作である。重盛が生まれたのは保延4年(1138年)、基盛が生まれたのは保延5年(1139年)とされており、清盛の2番目の妻となる時子が三男・平宗盛を生むのが8年後の久安3年(1147年)のことなので、おそらくはこの間に何らかの理由で死別したものと思われる。清盛と最初の妻との結婚は身分違いの“格差婚”で、出自からいえば2番目の妻である時子の方が上であることから、名前もわからない身分違いの最初の妻を「正室」と見るか否かは歴史家の中でも意見がわかれているらしい。ただ、清盛があくまで重盛を平家の後継者と考えていた様子から見れば、最初の妻を「正室」、時子を「継室」と考えるのが正しいのかもしれない。いずれにせよ、最初の妻と清盛との夫婦生活は、おそらく7~8年で終わったようである。

 永治元年(1141年)、朝廷では崇徳天皇(第75代天皇)が異母弟の体仁親王に譲位。わずか3歳の近衛天皇(第75代天皇)が即位した。崇徳帝が近衛帝への譲位を承諾したのは、近衛帝が自身の「皇太子」の立場で即位すると考えていたからだった。たとえ弟であっても皇太子に位を譲るのだから、崇徳帝は「父」の資格をもって院政を行えると期待していたのである。しかし、譲位の内容を記した宣命には「皇太弟」と書かれており、父権はあくまで鳥羽法皇(第74代天皇)のままだった。騙されたと知った崇徳帝は、鳥羽院を深く恨んだという。天皇の兄では院政は行えないのである。

 ここで鳥羽院と崇徳院の関係を今一度おさらいしておくと、崇徳院は鳥羽院と待賢門院璋子との間に長男として生まれながら、鳥羽院は祖父の白河法皇(第72代天皇)と璋子が密通して出来たのが崇徳院だと信じて疑わず、鳥羽院は終生、崇徳院のことを「叔父子」と呼んで忌み嫌ったと伝えられる。これがもし事実ならば、鳥羽院の白河院に対する恨みは相当なものだっただろう。崇徳帝を排して弟の近衛帝を即位させたのも、白河院の定めた「直系」を排して、自身が決めた「直系」に移行し、鳥羽院の思いどおりの院政が行えるようにしたばかりか、自身の死後も崇徳院に院政の権限を与えないためという意図もあったと思われる。白河院の命によって、わずか5歳の顕仁親王(崇徳院)に天皇の座を譲って以来、鳥羽院はずっとこの日を待っていたのかもしれない。鳥羽院の白河院に対する恨みはわからなくはないものの、崇徳院にしてみればすべて生まれる前の出来事。にもかかわらず、父からは「叔父子」と呼ばれて冷遇され、白河院への恨みをはらす対象となってしまった崇徳院は、少々気の毒な気がしないでもない。すべての悪の元凶は白河院にあった。「もののけ」と言われても仕方がないところである。

 鳥羽院の寵愛を受け、近衛帝の生母であることを背景に、皇后・美福門院得子の勢力は待賢門院璋子を日に日に圧倒していった。ドラマにあった、璋子に仕えていた判官代・源盛行とその妻・津守嶋子が得子を呪詛したという疑いで土佐国に流されたという話は史実で、近衛帝即位の直後の出来事だった。白河院の死後、凋落の一途を辿っていた璋子が、さらに崇徳帝の退位によって国母の座も奪われ、その恨みの矛先を得子に向けて呪詛の指示を出したといわれているが、一方で、これを機に待賢門院璋子とその一派を一掃するために、関白の藤原忠通と美福門院得子がしかけた謀略だったのではないかという見方もある。いずれにせよ、この約1ヶ月後に待賢門院璋子は出家した。おそらく、この呪詛事件に関連しての出家だったであろうことは間違いなさそうである。かつて鳥羽院から「もののけ」と罵られた待賢門院璋子。このとき「もののけ」の目に涙があったかどうかは知る由もないが・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2012-03-21 00:32 | 平清盛 | Trackback(3) | Comments(2) 

平清盛 第10話「義清散る」

 のちに歌人・西行となる佐藤義清平清盛と同じ元永元年(1118年)生まれ。祖先は平将門の乱で活躍した藤原秀郷(俵藤太)という武門の家で、代々朝廷に仕え、紀伊田仲荘の預所を務める裕福な家に義清は生まれた。幼い頃に死別した父の後を継いで18歳で兵衛尉(ひょうえのじょう、皇室の警護兵)の官職を得た義清は、清盛と同時期に鳥羽上皇(第74代天皇)の「北面の武士」に任命された。武芸は弓や乗馬が得意で、流鏑馬の達人だったという。また、公家社会の社交スポーツである蹴鞠の名手だったといい、その傍ら、和歌を能くし、有職故実に明るい教養人として知られた。さらに容姿端麗だったというから非の打ち所がない。金持ちのボンボンでルックスもよく、スポーツ万能で教養があって芸術的センスにも長けていたという、同じ男としては絶対合コンに同席したくない実に嫌味な男だったという。

 ところが、そんな義清が保延6年(1140年)、突如として兵衛尉の官職を捨て、頭を丸めて出家してしまった。23歳という若さであったことや、官職を得てから5年しか経っていなかったことなどから、人々はこの出来事を大変驚いたようで、時の内大臣・藤原頼長の日記にも驚きの様子が記されている。同い年で同僚の清盛も、義清の思い切った行動にはきっと驚愕したことだろう。

 義清が出家の道を選んだ理由については、失恋が原因だった、友の急死により人生の無常を悟った、公家社会における政争に嫌気がさした、和歌や故実の研究・創作に没頭しようとしたなど、様々な説が取り沙汰されてきたが、どれも決定的なものはない。そんな中、最初の失恋説が物語にするにはもっとも適していたようで、説話集などにこの説を題材とした話が複数収められており、後年には謡曲落語の題材にもなった。今も昔も、下世話な色恋話のワイドショーネタというのは、人々の興味をそそる格好の題材のようである。そういえば、清盛や西行とほぼ同じ時代を生きた文覚(遠藤盛遠)が出家したのも、邪恋の末に誤って不倫相手の人妻を殺してしまったのが原因だった。ともあれ、恋に悩んだ末に出家する武士がいたのは事実のようだ。

 義清の失恋説の出典は、『源平盛衰記』の中に記された一文からきたものである。
「さても西行発心のおこりを尋ぬれば、源は恋故とぞ承る。申すも畏れある上臈女房を思い懸けまいらせたりけるを、あこぎが浦ぞと云ふ仰せを蒙りて思い切り、官位は春の夜、見果てぬ夢と思いなし、楽しみ栄えは秋の月西へとなずらへて、有為の世の契りを逃れつつ、無為の道にぞ入りにける。」
 義清はある高貴な女性に恋をして一夜を共にしたが、義清が別れ際に今一度と会いたいと尋ねると、その女性は「阿漕の浦ぞ」といって去っていった。「阿漕の浦」とは伊勢の海のことで、そこでは神に誓約して年に一度しか網を引いて漁をすること許されておらず、この「阿漕の浦ぞ」という返事で恋に破れたことを悟った義清は、一夜の想いを胸に頭を丸めた・・・と。その高貴な女性、すなわち「申すも畏れある上臈女房」というのが、鳥羽院の中宮であり崇徳上皇(第75代天皇)と後白河法皇(第77代天皇)の生母である待賢門院璋子だというのである。もちろん、全て憶測の域をでない説ではあるものの、実によくできた話ではある。このとき、佐藤義清23歳。待賢門院璋子40歳。もし、この話が本当のことならば、璋子は大変な美貌の持ち主だったに違いない。熟女の魅力に骨抜きにされて、地位も名声も捨ててしまった若きエリート青年。現代でもありそうな話だ。

 あと、出家の際に義清が娘を蹴り飛ばすシーンがあったが、この話は有名な説話で、出典は『西行物語絵巻』によるものである。
「年ごろさりがたく、いとほしかりける女子、生年四歳になるが、縁に出でむかひて、父御前の来たれるがうれしといひて袖に取りつきたるを、いとほしさたぐひなく、目もくれて覚えけれども、これこそ煩悩の絆よと思ひとり、縁より下へ蹴落したりければ・・・」
 縁側で無邪気に父の袂にまとわりついてきた4歳になるわが娘をみて、心から愛しいと思いながらも、これこそ俗世への煩悩であると考えた義清は、娘を縁側から蹴り落としたという。にわかに信じがたい話で、これこそ、おそらく後世に作られた伝説だろう。義清の決意の強さを表したものだと言われているそうだが、現代に生きる私たちからすれば狂ったとしか思えず、決意の強さとしては伝わりづらい。視聴者からクレームがありそうな幼児虐待エピソードをあえて採用した製作者のこのドラマに賭ける決意の強さは伝わってくるが・・・。おそらく、この逸話を知らなかった視聴者は、義清の突然の奇行にドン引きしたのでは・・・?

 世を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人をぞ捨つるとはいふ
 (出家した人は悟りや救いを求めており本当に世を捨てたとは言えない。出家しない人こそ自分を捨てているのだ)

 この歌は『詞歌和歌集』に詠み人知らずとして収録された歌だが、出家時の心境を詠った義清こと西行の歌だといわれている。理由は定かではないが、出家する前のほうが世捨て人の心境だったといいたいようだ。しかし考えようによっては、このように詠われた妻と娘は浮かばれない話だ。老年になってから出家するならともかく、妻子がありながら自分のことだけを考えて出家した義清は、少々身勝手すぎる気がしないでもない。ましてや、それが邪恋に破れたためだったとしたらひどい話である。佐藤義清こと西行法師。金持ちのボンボンでルックスもよく、スポーツ万能で教養があって芸術的センスにも長けていたものの、その性格は良く言えば繊細、悪く言えば心の弱い男だったのかもしれない。


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by sakanoueno-kumo | 2012-03-13 15:26 | 平清盛 | Trackback(4) | Comments(0)