カテゴリ:八重の桜( 55 )

 

八重の桜 総評

 遅ればせながら、2013年NHK大河ドラマ『八重の桜』の総括です。最終回が終わって2週間が経ちましたが、なかなかまとめの稿をアップできなかったのは、年の瀬で多忙だったこともあるのですが、イマイチ起稿意欲がわかなかった・・・というのも正直なところです。その理由は、これといった感想が思い浮かばない、特筆すべき点が見当たらない、というのが率直な感想なんですね。じゃあ今年の大河は駄作だったのか・・・というと決してそうではなく、わたしの中ではけっこう良い評価です。だけど、終わってみればとくに何も印象に残っていない・・・。矛盾したことを言っていますが、わたしにとって『八重の桜』は、そんな作品となりました。

 演出は実に丁寧できめ細やかでしたね。映像も綺麗でしたし、史実時代考証も、近年の他の作品と比べれば丁寧に描けていたと思います。脚本もしっかりしていましたし、でも決して作者の主観を押しつけるようなクドさもなく、丁寧なストーリーだったと思います。そう、このドラマを一言でいえば、とても「丁寧」に作られたドラマだったと思うんですね。ただ、丁寧=面白い作品となるかといえば、必ずしもそうではないということでしょう。ドラマがエンターテイメントである以上、観る人を引きつける「魅力」がなければ「名作」とはなりません。その魅力が、本作には足りなかったような気がします。

 魅力に欠けたのは、新島八重というマイナーな人物を主役にしたからだ・・・と言う人もいるでしょう。たしかに、わたしもこの作品の制作発表時に、はじめて新島八重という人物を知ったひとりです。でも、無名だから魅力がないという見方は短絡的だと思うんですね。たとえば、2008年の『篤姫』なども、決してメジャーな人物ではありませんでしたが、あれほど多くの支持を受けました。逆に、誰もが知ってる『平清盛』が、視聴率的には超低空飛行でしたよね(わたし個人的には評価は高いですが)。要は有名か無名かではなく、どれだけ主人公の魅力を引き出せるか・・・だと思うんですね。

 このドラマで、会津藩士たちの無念さはよくわかりましたし、定番の薩長史観の幕末史とは違う、会津視点の幕末史を楽しめました。詳しく知らなかった山本覚馬の維新後の活躍も知ることが出来ましたし、新島襄という人物のことも、同志社の成り立ちも深く知ることができました。でも、どれもこれも丁寧に描きすぎたがゆえに、八重の存在感がイマイチなかったですよね。別に八重がいなくても物語は成立していたのでは?・・・と言ったら言い過ぎかもしれませんが、物語は丁寧な会津史であり同志社史ではありましたが、新島八重史ではなかったというか・・・。だから、八重に感情移入したり共感したりすることが難しかった・・・というのが正直なところです。

 魅力に欠けていた・・・というのは、そういうところだと思うんですね。たとえば、先述した『篤姫』などは、あのドラマをきっかけに篤姫を好きになった人や、篤姫という女性に興味をもったひとが大勢いたと思いますし、もっとわかりやすく言えば、司馬遼太郎氏の小説『竜馬がゆく』を読んで、坂本龍馬ファンになった人は世の中に山ほどいるでしょう。もちろん、素材そのものの持つ魅力もあるでしょうが、作家さんの力も大きいと思います。このたびのドラマで新島八重ファンになった人がどれだけいたでしょうね。そのあたりが、丁寧に作られた作品なのに、イマイチ支持が得られなかった大きな理由ではないでしょうか。

 ちょっと辛口のまとめとなりましたが、俳優さんたちは皆、素晴らしかったですね。とくに主演の綾瀬はるかさんは、あらためてスゴイ女優さんだと思いました。綾瀬さんといえば、同じ幕末を舞台としたドラマ『JIN -仁-』が思い出されますが、あのときのという女性の役と、今回の八重役とでは、表情発声姿勢もまったく違ったもので、同じ女優さんが演じているとは思えないほど別人になりきっていましたね。素人が知ったようなことを言って恐縮ですが、何を演じても同じ人物に見える俳優さんもたくさんいます。その点、綾瀬さんは素晴らしかった。もはや大女優といっていいかもしれません。普段は超天然だそうですが(笑)。

 それと、新島襄役のオダギリジョーさんもさすがでしたね。容姿も去ることながら、実際の新島襄という人物も、きっとこんな人だっただろうと思わされました。あと、山本覚馬役の西島秀俊さんは、ちょっとカッコ良すぎた気がしないでもないですが、今回のドラマでもっとも興味を持ったのは、山本覚馬という人物でした。もっと覚馬という人物のことを知りたい・・・と。その意味では、いちばん魅力的に描かれていたのは山本覚馬かもしれません。あと、忘れてはならないのが、小泉孝太郎さん演じるところの徳川慶喜。わたしの知る限り、これまでの慶喜のなかでもっとも慶喜っぽい慶喜でした(笑)。

 さて、来年は黒田官兵衛孝高が主人公ですね。そして、先ごろ発表された再来年の大河は、吉田松陰の妹が主人公だとか。来年の官兵衛は、戦国ファンなら誰もが知っている人物でしょうが、再来年の吉田松陰の妹なんて、大河ドラマ史上もっとも無名な人物かもしれません。ただ、先般申し上げたように、大切なのは有名無名ではありません。その人物の魅力をどれだけ引き出せるか・・・ですね。もちろん、だからといって虚像で固めた人物であってはいけないでしょうし、たぶんそれでは魅力的な人物にはならないでしょう。素材の持つ魅力をどれだけ描けるか・・・これって、決して簡単なことではないんでしょうけどね。でも、視聴者はそれを待っています。作り手の腕の見せどころですね。

 いささか辛口なことばかり述べてきましたが、冒頭で申し上げたとおり、わたしにとって本作は、けっして評価の低いものではありません。名作とはいえませんが、良作ではあったと思います。ただ、少し塩コショウが足りなくて、薄味な物足りなさがあった・・・というのが率直な感想です。昨年、今年と低視聴率が続いていますが、わたし個人的には、一昨年までの作品から一変した大河ドラマの方向性としての趣旨は間違っていないと思います。あとは塩コショウの加減だけかと・・・。ともあれ、1年間楽しませてもらえました。このあたりで、『八重の桜』のレビューを終えたいと思います。

●1年間の主要参考書籍
『新島八重の維新』 安藤優一郎
『新島八重 愛と闘いの生涯』 吉海直人
『会津落城』 星亮一
『幕末史』 半藤一利
『日本の歴史19~開国と攘夷』 小西四郎
『日本の歴史20~明治維新』 井上清
『明治という国家』 司馬遼太郎
『幕末維新のこと』 司馬遼太郎
『明治維新のこと』 司馬遼太郎



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by sakanoueno-kumo | 2013-12-28 22:04 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(4)  

八重の桜 第50話(最終回)「いつの日も花は咲く」

 新島襄の死から3ヵ月後の明治23年(1890年)4月、八重日本赤十字社に入社し、看護婦の資格を得ます。このとき八重は45歳。この時代、夫に先立たれた45歳といえば、そろそろ老後の準備にとりかかろうといった年齢だと思うのですが、八重にとってはまだまだ余生ではなかったのですね。なぜ八重が看護婦の道を選んだのかはわかりませんが(ドラマでは兄の山本覚馬に勧められてでしたが)、あるいは襄の生前から胸に秘めていたのかもしれません。

 赤十字とは、いうまでもなく戦時における傷病者や捕虜の保護を目的とする国際協力組織のことですが、この赤十字の思想を日本に伝えたのは、佐賀藩出身の佐野常民という人物でした。佐野は明治10年(1877年)の西南戦争の際、赤十字をモデルにした博愛社という組織を立ち上げます。そして10年後の明治20年(1887年)5月に、博愛社は日本赤十字社と名を改め、総裁には有栖川宮熾仁親王、社長には佐野が就任します。八重が入社するのはその3年後のことですね。このヨーロッパで始まった赤十字の活動を、新島襄が知らなかったとは考えづらく、むしろ、同志社に医学部を設置するべく病院や看護学校を立ち上げていた襄としては、赤十字の活動は大いに興味があったに違いありません。あるいは、八重に赤十字の考え方や戦地での看護婦の働きを教えたのは、襄だったかもしれませんね。襄の死後たった3ヵ月で従軍看護婦の道を目指したのは、生前の襄が後押しした背景があったのかもしれません。

八重を従軍看護婦の道に突き動かした理由をもうひとつあげれば、やはり会津戦争における鶴ヶ城籠城戦の体験でしょう。八重の籠城戦といえば、スペンサー銃を肩に男性に混ざって戦ったところばかりがクローズアップされますが、野戦病院と化した鶴ヶ城内で看護の任にあたったのは藩士の婦女子たちで、当然ながら八重もそのひとりでした。凄まじい戦場の実態を知っている八重としては、戦場における看護の重要性を充分理解していたことでしょう。そんな実体験も、八重の背中を押した大きな理由のひとつだったに違いありません。

 そうして従軍看護婦の資格を得た八重は、日清戦争時には広島陸軍予備病院で、日露戦争時には大阪予備病院で、傷病者の看護にあたると同時に、看護婦を監督する立場でもありました。その功績に対して、明治29年(1896年)に勲七等宝冠章、明治39年(1906年)には勲六等宝冠章が授与されます。ドラマでも言っていましたが、皇族の女性を除く民間の女性としては、初めての受賞だったそうです。これは八重自身にとっても、そして当時の女性たちにとっても、さらには逆賊の汚名を着せられた旧会津藩士たちにとっても、大きな栄誉だったことでしょう。

 しかし、八重は日清、日露戦争そのものは肯定していましたが、その悲惨さを伝えることも忘れませんでした。戦場で手足を失った兵士や、精神に異常をきした兵士の姿を見るにつけ、国家のためとは言いながら気の毒でならない・・・。名誉の負傷と慰めるものの、病室を出れば涙が止まらなかった・・・と、後年語っていたそうです。きっと、鶴ヶ城内で見た凄惨な光景と重ねあわせていたに違いありません。

 少し余談になりますが、ここ数話のドラマ中、八重が戦争に否定的な発言をするようになりましたが、それについて、後世の反戦史観だ!・・・といった批判の書き込みをいくつか目にしました。そうでしょうか? たしかに、この時代の世論は日清、日露戦争に肯定的で、日本中が戦争に熱狂していた時代であることは事実です。しかし、国民すべてでは決してありません。各地で反戦運動が行われていたのもひとつの側面としてありますし、それらに対する政府の弾圧も、昭和の戦争時に比べれば甘いものでした。作家の与謝野晶子は、日露戦争を批判した「君死に給うことなかれ」という歌を、堂々と発表していますしね(その与謝野晶子も、太平洋戦争時には戦争を賛美する歌を作っています)。決して挙国一致だったわけではありません。

 ただ、大きな歴史の捉え方として国全体が戦争を支持していた時代だったのは事実で、新聞がそれを煽っていたのも事実です。そのあたりは、徳富蘇峰の言動でちゃんと描かれていたのではないでしょうか? でも、実体験として戦争の凄惨さを目の当たりにした人たちは、必ずしも全面的に賛成だったわけではなかったんじゃないかと思うんですね。それが普通ではないでしょうか。その思いに、現代価値観もクソもありません。ましてや、維新後キリスト教徒となった八重が、反戦論者に転じていたとしても何ら不自然ではないですよね。近年の大河ドラマにあった安っぽい反戦思想の刷り込みとは違って、無理のない描き方だと思いました。あれを観て反戦だの現代価値観だのと批判する人のほうが、むしろ寒いものを感じます。戦争に肯定的な意見を持つ人たちは、実体験として戦争の恐ろしさを知らない者たち、つまり、ドラマでいうところの徳富蘇峰たちであり、現代に生きる戦後生まれの私たちです。そんな人たちばかりになったとき、国は進む方向を間違えるんですね。

 ドラマにもどって、八重の最後の一発について、どのように解釈すればいいのか私なりに考えてみましたが、明快な答えを得られていません。おそらく、目の前の敵ではなく、もっと大きな敵を意味しているのでしょうね。それは、争いが消えない世の中かもしれませんし、争いを作り出す人間の心かもしれません。解釈は観る人によって様々だと思いますが、ひとつだけいえるのは、目の前の敵を撃って人をひとり殺しても、世の中は何も変わらないということでしょう。

 「花は、散らす風を恨まねえ」

 老いた西郷頼母の言った台詞ですが、この台詞に尽きるのではないでしょうか。幕末、歴史の綾で逆賊となってしまった会津藩でしたが、歴史の大局の中では、産みの苦しみの代償でしかありません。薩長が悪かったわけでも、幕府に罪があったわけでもなく、ひとつの時代が終わり、新しい国が生まれるための陣痛の役割を、会津藩が負うはめになった・・・。ひとつボタンを掛け違えれば、その役目は薩長だったかもしれません。たまたま、会津はになってしまい、それを散らすになったのが、薩長だったんですね。

 「花は散っても、時が来っと、また花を咲かせる」

 昭和に入って松平容保の孫娘と昭和天皇の弟である秩父宮雍仁親王との婚儀が成立し、会津藩はもはや朝敵ではないことを世に知らしめ、名誉を回復しました。まさしく、花は散っても、時が来るとまた花を咲かせます。東日本大震災を受け、被災地の復興を支援するとして制作されたこのドラマでしたが、新島八重という女性の人生を通して伝えたかったのは、この言葉だったのでしょうね。きっとまた、花を咲かせる・・・と。


 1年間、拙い文章にお付き合いいただきありがとうございました。今年は最後までレビューを続ける自信はなかったのですが、なんとか完走出来ました。年内には総括を起稿したいと思っています。


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by sakanoueno-kumo | 2013-12-17 22:41 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(4)  

八重の桜 49話「再び戦を学ばず」 ~山本覚馬と松平容保の最期~

 新島襄の死後、山本覚馬が同志社臨時総長を務めますが、その覚馬も、明治25年(1892年)12月28日にこの世を去ります。享年64歳。思い起こせば文久2年(1862年)、京都守護職に就任した会津藩主・松平容保に従って京に上ってから30年、波乱に満ちた・・・とか、苛烈極まりない・・・などというありきたりな形容では言い表せない、まさに、筆舌に尽くしがたい人生だったといえるでしょう。

 賊軍として捕らえられ、盲目足が不自由という二重の障害を抱えながらも、明治新政府にその才を買われ、京都府顧問、京都府議会議員、同初代議長、京都商工会議所会頭と要職を歴任。人材が少ない時代だったとはいえ、覚馬がいかに有能な人物だったかがわかりますね。とくに、慶応4年(1868年)の幽閉中に獄中から覚馬が新政府に宛てて出した新国家構想ともいうべき『管見』は、「三権分立」の政体にはじまり「二院制」「女子の教育機会」などなど、実に先見性に富んだもので、西郷隆盛岩倉具視など新政府の要人たちをうならせたといいます。同時代のものとしては、坂本龍馬の『船中八策』『新政府綱領八策』が有名ですが、この山本覚馬の『管見』も、もっと注目されてもいいように思います。

「諸君たちは学業を終えそれぞれの仕事に就かれる。どうか弱い者を守る盾となって下さい。かつて私は会津藩士として戦い、京の町を焼き、故郷の会津を失いました。その償いの道は半ばです。今世界が力を競い合い、日本は戦に向けて動き出した。どうか聖書の一節を心に深く刻んで下さい。」
『その剣を打ち変えて鋤となし、その槍を打ち変えて鎌となし、国は国に向かいて剣を上げず、二度と再び戦うことを学ばない』
「諸君は一国の、いや、世界の良心であって下さい。いかなる力にもその知恵であらがい、道を切り拓いて下さい。それが身をもって戦を知る私の願いです」


 ドラマで描かれていた同志社卒業式での覚馬の訓示ですが、実際に記録が残されている覚馬の言葉は、
「弱を助け強を挫き、貧を救ひ富を抑ゆるものは誰れぞ、諸子乞う吾が言を常に心に服膺して忘るゝ勿れ」
 となります。大意は同じようなものですが、聖書の一節を引用したのはドラマの創作でしょうね。でも、舞台は同志社の卒業式、決して的外れではなく、良い演出だったんじゃないでしょうか。

 『二度と再び戦うことを学ばない』

 敗軍となった会津藩を中心に描いたこの物語で、この言葉がもっとも伝えたいテーマだったのでしょうね。会津戦争までの前半の物語と、明治以降の同志社の物語は、まるでまったく違うドラマのような演出でしたが、いまここで二つの物語が結びつきました。

 覚馬が永眠した約1年後の明治26年(1893年)12月5日、松平容保もこの世を去ります。享年59歳。容保は会津藩改め斗南藩が廃藩置県で消滅したあと東京に移住し、その後、徳川家康を祀る日光東照宮宮司などを歴任しますが、決して表に出ることはありませんでした。既に謹慎処分は解かれていたものの、一度は朝敵とされたことを重く受け止め、自主的に謹慎状態を続けていたそうです。自身の言動が、政治的にどう利用されるかわからないことを知っていたのでしょうね。ただ、やはり朝敵の汚名を着せられたことは無念の極みだったのでしょう。八月十八日の政変後に孝明天皇から下賜された『宸翰』を、小さな竹筒に入れて首にかけ、死ぬまで手放さなかったといいます。のちにこの『宸翰』は、山川浩山川健次郎兄弟が編纂した『京都守護職始末』で公表されますが、それは容保の死から18年が過ぎた明治44年(1911年)のことでした。戦犯者扱いとなった者の汚名返上は容易ではないのは、いつの時代も同じようです。

 ひとつの時代が終わり、次回、最終回。



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by sakanoueno-kumo | 2013-12-10 11:11 | 八重の桜 | Trackback(2) | Comments(0)  

八重の桜 第48話「グッバイ、また会わん」 ~新島襄の最期~

 明治22年(1889年)10月12日、同志社大学設立のために奔走していた新島襄は、その募金活動のため東京に向かいます。前回の上京時には妻の八重も同行しましたが、このときは折り悪く、襄の実母・とみが病に臥せており、その看病のため、やむなく八重は京都に残ります。襄が余命いくばくもないことを医師から告げられてから1年が過ぎていましたが、その襄を単身上京させるのは、八重は心配でたまらなかったでしょうね。そしてその心配は、現実のものとなります。

 京都を発って1ヶ月半ほど経った11月末、募金活動のため訪れていた群馬県前橋にて、襄はとつぜん腹痛を訴えます。医師の診断は胃腸カタル。襄はいったん東京にもどって療養しますが、病状はいっこういに回復の兆しが見えず、事態を重く観た徳富蘇峰が温暖の地への転地療養を勧め、12月末、神奈川県大磯の百足屋(むかでや)旅館のはなれに移ります。ここが、襄の終焉の地となります。

 年が明けた明治23年(1890年)1月11日、再び激しい腹痛が襄を襲います。それでも襄は、モルヒネ注射を打ちながら各方面に手紙を書き続けていたそうですが、17日付の手紙が絶筆となります。18日朝に容態が急変。医師の診断は急性腹膜炎でした。翌19日には、八重のもとに病状急変の電報が届きます。知らせを受けた八重はすぐさま大磯へ向かい、20日夜遅く百足屋旅館に到着します。八重に電報が打たれたことを知っていた襄は、三ヶ月ぶりに再会した八重の顔を見てこう言ったといいます。
「今日ほど1日が長かったことはない」と。
この言葉を、八重は終生忘れませんでした。

 八重が到着して間もなく、自らの死を悟った襄は、八重と小崎弘道(襄の死後、同志社の二代目総長となる人物)の立会のもと、遺言を告げ始めます。筆記したのは徳富蘇峰でした。その内容は、同志社における教育の目的が主で、実に30枚にも及ぶものだったそうです。この他にも、伊藤博文勝海舟大隈重信など個人にあてた遺書が残されているそうですから、襄の筆まめぶりは死ぬ間際まで続いていたようですね。

 そうして伝えるべきことをすべて伝えたあと、1月23日午後2時20分、襄は46年と11ヶ月の生涯を終えます。八重への最後の言葉としては、本話のタイトルとなっている「グッバイ、また会わん」という言葉が伝えられています。また、「わたしの死後、記念碑は建てないでほしい。1本の木の柱に“新島襄の墓”と書けば充分だ」とも告げたとか。46歳11ヶ月といえば、いまの私とまったく同じ歳。決して長いとは言えない生涯ですね。最後の瞬間を八重の左手を枕に迎えられたことが、せめてもの慰みだったでしょうか。

 臨終の場に立ち会った蘇峰は、八重の手をとって、こう告げたそうです。
 「私は同志社以来、貴女に対しては寔(まこと)に済まなかった。併(しか)し新島先生が既に逝かれたからには、今後貴女を先生の形見として取り扱ひますから、貴女もその心持を以て、私に交(つきあ)つて下さい。」
 かつて八重のことを“鵺”と揶揄し、師の妻としての八重の言動を好ましく思っていなかった蘇峰でしたが、今後は八重を先生同様に思うから、何事も自分を頼ってくれとの言葉。蘇峰はその言葉を終生守り続けます。その後八重は、襄の墓碑に揮毫してくれるよう勝海舟に依頼しますが、その仲立ちとなったのは蘇峰であり、また後年、八重自身の墓碑銘は、蘇峰の筆によるものでした。襄が八重のために残したいちばんの財産は、八重の後半生の最も良き理解者となった蘇峰だったかもしれませんね。


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by sakanoueno-kumo | 2013-12-02 15:57 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(0)  

八重の桜 第47話「残された時間」 ~新島襄の余命宣告~

 明治21年(1888年)7月、同志社大学設立に向けて奔走する新島襄は、かねてから親交のあった当時の外務大臣・大隈重信の官邸での募金集会に臨みます。その席には大隈をはじめ、前外務大臣の井上馨、第一国立銀行頭取の渋沢栄一、三菱社社長の岩崎弥之助など、10数名の錚々たる顔ぶれが集まっていました。そこで大隈は、襄の進める事業を一同に紹介し、資力のある人は率先して慈善行為するよう促したそうです。その後、襄は日本で始めての私立大学設立の精神を述べ、その熱意に心動かされた一同は次々に寄付を申し出、3万1千円もの大金の寄付の確約を得ることができました。

 そして同じ年の11月、襄は徳富蘇峰の協力を得て作成した「同志社大学設立の旨意」を、20誌以上の新聞や雑誌に掲載します。これが大きな反響を呼び、同志社大学設立の気運がますます高まります

 大学設立の明るい兆しがようやく見え始めましたが、激務の過労が祟ってか、襄の身体は次第に衰えはじめます。襄が大隈を介して多額の寄付金を得た同じ頃、担当医は妻の八重に、「襄の心臓は皮が薄くなっており、いつ破れてもおかしくない。今のうちに大事なことを聞き取っておくように」と告げられます。この宣告に八重は激しく動揺しますが、このときから、八重の献身的な看病がはじまります。

 襄の身体が心配でならない八重は、寝ずの看病になることもしばしばだったようで、ドラマにもあったように、襄の顔に手を当て、その寝息を確認することもたびたびあったそうです。ここまでされると、逆に襄のほうが八重の健康を心配し、「自分はまだ死なないから、安心して寝てほしい。心配し過ぎで睡眠不足となり、貴女に健康を損なわれると、たいへん困る。だから安眠してほしい。」と諭したそうです。ふたりがいかに互いを気遣いう夫婦であったかがわかります。

 襄はたいそう筆まめだったそうですが、八重はその筆まめぶりも身体に障ると思い、ペン便箋を取り上げてしまうこともあったそうです。そのため襄は、八重の監視を見計らってペンを走らせますが、それも八重はお見通しだったようで、すぐに止めさせられてしまったとか。そんな八重の強引さに辟易した襄は、この当時、辣腕ぶりで知られて警視総監の三島通庸に喩え、「三島総監」と呼んだそうです。よほど八重の監視は厳しかったのでしょうね。

 一見、微笑ましくすら思える二人の夫婦仲のエピソードですが、いずれも余命宣告を受けてからのエピソード。二人の絆が深ければ深いほど、そう遠くない未来に訪れるであろう永遠の別れに、心を痛めていたに違いありません。襄がこの世を去るのは、余命宣告を受けてから1年半後のことでした。


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by sakanoueno-kumo | 2013-11-25 19:16 | 八重の桜 | Trackback | Comments(0)  

八重の桜 第46話「駆け落ち」 ~山本覚馬の娘たち~

 横井時雄と結婚したみね山本覚馬の次女)でしたが、結婚2年後の明治16年(1883年)に長女・悦子を産み、その4年後の明治20年(1887年)に長男・平馬を産んだあと、産後の肥立ちが悪く、亡くなってしまいます。享年27歳。この時代、このような亡くなり方は珍しくなかったのでしょうが、幼くして生母と生き別れ、やっと掴んだ幸せな生活だったことを思えば、無念でならなかったでしょうね。ドラマで祖母の佐久が、「あのむごい戦を生き延びたというのに・・・」と、泣き崩れていましたが、ある意味、女性にとって出産は命をかけた“戦”といえるかもしれません。

 夫の時雄はその後再婚し、新島襄の死後、同志社第3代総長となり、明治36年(1903年)には衆議院議員になります。しかし、明治42年(1909年)に汚職事件で有罪判決を受けて辞職。その後もパリ講和会議に出席するなどの活躍はありましたが、昭和2年(1927年)に脳溢血で死去します。享年70歳。

 覚馬と後妻・時栄の間に生まれた三女・久栄は、母が離縁されたあとも山本家に残ります。そしてその後、徳富蘇峰の弟で、当時同志社の学生だった徳富健次郎(蘆花)とのラブロマンスがあったというんですね。このエピソードは、蘆花が40歳を過ぎて書いた自伝小説『黒い眼と茶色の目』に記されている話です。物語によれば、横井時雄を介して知り合った健次郎と久栄は、みねの死後に急接近し、やがて結婚を誓い合う関係になったそうです。しかし、二人の関係が知れるや、時雄をはじめ新島襄、八重夫妻らから猛烈な反対を受け、結果、二人は引き裂かれます。その後、自暴自棄になった健次郎は、同志社を中退して京都を逃げるように離れた・・・と。

 これは小説のなかで描かれた話であり、蘆花サイドからの一方的な追憶ですから、どこまでが事実かは定かではありません。あるいは、蘆花の一方的な片思いだったかもしれませんね。30歳を過ぎて学生と不倫ができるほどの魅力をもった母の娘ですから、おそらく久栄も魅力的な少女だったのでしょう(現存する写真を見ても、たしかに可愛い顔をしていますね)。

 「今年、数え年の十七になった寿代(久栄)さんは、木屋町時代よりも身長もずっと伸び、一体に肉づいて、小さな渦の入る顎、肩のあたり、ぽちゃぽちゃした手の甲まで軟らかなる円みを帯びて来た。その茶色の眼は睫の下にうっとりと眠るかと思えば、とろとろと人を溶かす媚を含み、またたちまち睫を蹴って、いなづまのように光った。淡褐色の頬に時々薔薇のような紅潮が上った。」

 小説『黒い眼と茶色の目』のなかで、蘆花が久栄を表したくだりです。この文章を読めば、いかに彼が彼女にゾッコンだったかがわかりますね。

 その後、久栄は結婚することなく、父・覚馬が亡くなったすぐあとの明治26年(1893年)、23歳という若さでこの世を去ります。みねといい久栄といい、なぜか覚馬の娘はふたりとも幸薄い運命だったようです。


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by sakanoueno-kumo | 2013-11-18 20:53 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(0)  

八重の桜 第45話「不義の噂」 ~時栄の不倫騒動~

 不自由な身体となった山本覚馬の後妻となり、20年近くもの長きに渡って献身的に支えてきた時栄(時恵とも)でしたが、明治18年(1885年)、真偽は定かではないものの、覚馬が自分のあととりに考えていた会津藩出身の青年(ドラマでは青木栄二郎)と、不倫関係になったそうです。このとき覚馬は58歳、時栄は33歳。下世話な見方をすれば、充分にあり得る話ですよね。

 この時栄の不祥事のエピソードは、徳富蘇峰の弟、徳富蘆花の自伝的小説『黒い眼と茶色の目』に登場します。この小説は、時栄の娘・久栄と蘆花との結ばれなかった恋物語を描いたものだそうですが、そのなかに、母・時栄のことが記されているそうです。それによると、ある日、体調を崩した時栄を来診したドクトル・ペリー医師が、帰り際に「おめでとうございます。妊娠5ヶ月です」と告げたそうで、これを聞いた覚馬が「身に覚えがない」と言い出したため、大騒ぎになったとのこと。問いただされた時栄は、鴨の夕涼みでうたた寝をしているときに、「見知らぬ男に犯された」などといいますが、さらに問い詰められると、最後には青年との不倫を認めます。このあたり、ドラマとはまったく違いますね。

 この話が事実かどうかは定かではありません。これはあくまで小説の中で描かれているものであり、登場人物の名前も、山下勝馬時代といった具合に、明らかに覚馬と時栄がモデルであることはわかるものの、偽名で真偽を濁しています。あるいは、蘆花の創作かもしれません。ただ、この時期に時栄が何らかの不祥事を犯して山本家を去ったのは事実のようで、この小説に描かれている話も、まったくのフィクションではないかもしれません。そんなこんなを考えて、ドラマではNHKらしくまとめていましたね(笑)。

 山本家としては、時栄を離縁すると家の恥が表沙汰になってしまうため、内分に済ませようとしたそうです。覚馬にしてみれば、長年の苦労に対する感謝の気持ちをあったかもしれません。しかし、封建道徳からいえば彼女のしたことは不義密通。許されるべきことではありませんでした。この事実を知った八重は、「臭いものに蓋をしてはいけない」と、兄・覚馬に時栄を離縁するよう強く求め、山本家から時栄を追い出したといいます。この事件以前の八重と時栄の関係がどのようなものだったかはわかりませんが、たとえ良好な義姉妹の間柄だったとしても、どうあれ「ならぬことはならぬものです」だったのでしょうね。

 その後の時栄と不倫相手の消息は記録が残っていません。そのとき妊娠していたとしたら、その子はどうなったかも定かではありません。時栄と覚馬の間の娘・久栄は、そのまま山本家に残ります。前妻・うらとの間の娘・みねもそうでしたが、どうも、覚馬の娘は幼くして母と生き別れる運命のようですね。そして、その娘たちのその後の人生も、決して幸せなものではありませんでした。そのあたり、来週描かれるようです。


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by sakanoueno-kumo | 2013-11-11 19:25 | 八重の桜 | Trackback(2) | Comments(0)  

八重の桜 第44話「襄の遺言」 ~一国の良心~

 同志社大学にするため奔走していた新島襄でしたが、その一方で、肝心の同志社英学校で学ぶ学生たちの中途退学が目立ち始めます。その理由は、明治政府の定める徴兵制度にありました。政府は、官公立学校の学生にのみ兵役免除の特権を与え、私立学校の学生にはこれを認めませんでした。となれば、学生たちが官公立学校に転校したいと考えるのは無理もなかったでしょう。政府にしてみれば、官公立学校に優秀な人材を集めたいという思惑があったのかもしれませんね。あるいは、伊藤博文と対立して政府を追われた大隈重信東京専門学校(のちの早稲田大学)を開校したことも、政府を刺激したかもしれません。

 「官立大学は政府の意のままに人を育てる大学です。それに対抗しうる自立した私立大学が必要なのです。」

 ドラマでの襄の台詞ですが、まさしく襄の大学設立の趣旨はこの台詞どおりだったようですね。襄の「同志社大学設立の旨意」に、次のように記されています。

 「一国を維持するは、決して二三の英雄の力に非ず。実に一国を組織する教育あり、知識あり、品行ある人民の力に拠らざる可からず。是等の人民は一国の良心とも謂ふべき人々なり。而して吾人は即ち此の一国の良心とも謂ふ可き人々を養成せんと欲す。」

 「一国の良心とも謂ふ可き人々」・・・つまり、国の権力に左右されない民間人、国のチェック機能となれる人材、といったところでしょうか。これが、エリート官僚を養成する官学に対抗する私学の本来の教育理念だったんですね。官学のすべり止めになっちゃってる現代とは、ずいぶん違います(まあ、現代では私学からでも官僚になれますが)。

 そんな襄が、明治17年(1884年)4月、再び欧米に向けて旅立ちます。その表向きの理由は静養だったようですが、本来の目的は大学設立の資金集めだったようです。しかし、ドラマのとおり、同年8月、スイスのサンゴタール峠心臓発作を起こして倒れてしまいます。あるいは、日本にいた頃から兆候があったのでしょうか。幸いこのときは命を落とすまでには至らず事なきを得るのですが、襄自身は死を覚悟したようで、ドラマにあったように、八重と両親に宛てた遺書を記しています。

 「私の髪を一房切り取り、キリストの名において結ばれて、断つことのできない絆のしるしとして、京都にいる大切な妻に送って欲しい。」

 もちろん、それ以外にも同志社のことなど連連と綴っていたそうですが、襄の八重に対する愛情が伝わってくる一文ですね。

 実際に襄がこの世を去るのはこの6年後のことですが、その間、襄の遺言は30通あまりあるといわれています。それだけ死と背中合わせの晩年だったということでしょうが、襄はかなりの筆まめだったことがうかがえますね。


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by sakanoueno-kumo | 2013-11-05 23:54 | 八重の桜 | Trackback | Comments(0)  

八重の桜 第43話「鹿鳴館の華」 ~大山巌と捨松の結婚~

 今話は山川浩の妹・捨松大山巌の結婚話でしたね。そこで今回は、大山捨松という女性についてふれておきます。

 捨松は山川家の末娘として生まれ、幼いころの名を咲子といいました。彼女が生まれたとき山川家には既に父は亡く、15歳上の長兄・浩が父親代わりだったそうです。会津藩家老の家に生まれ、世が世ならなに不自由なくお嬢様として育ったであろう彼女でしたが、彼女が数えで8歳のとき、運命は一変します。会津戦争ですね。ドラマでもあったように、幼いながら彼女も八重たちと一緒にあの過酷な籠城戦を戦った婦女子のひとりです。このとき鶴ヶ城に大砲を打ち込んでいた官軍の砲兵隊長が、のちに夫となる大山巌だとは夢にも思わなかったでしょうね。

 戦後、兄たちと一緒に斗南に移った咲子でしたが、斗南での生活は想像以上に厳しく、彼女だけ函館に里子に出されます。明治4年(1871年)、彼女のもう一人の兄・山川健次郎が、政府主導の官費留学生として岩倉使節団に随行することが決まります。これに便乗するかたちで、彼女も留学することになりました。このとき一緒に留学した女子は5人。そのなかに、のちに津田塾大学の創立者となる津田梅子もいました。彼女たちは、日本人初の女子留学生だったわけです。留学期間は10年。このとき咲子は満11歳ですから、ほとんど子どもから大人になる期間といえるでしょう。このとき、彼女の母は「娘のことは一度捨てたと思って帰国を待つ(松)のみ」という思いを込め、「捨松」と改名させます。

 捨松が再び日本の地に降り立ったのは、日本を発って11年が過ぎた明治15年(1882年)のことでした。おそらく日本人初の女子の帰国子女だったといえるでしょうか。しかし、そんな彼女を日本は決して歓迎しませんでした。近代国家に向けて進歩していたとはいえ、まだまだ日本では男尊女卑の社会は根強く、彼女の力を発揮する場は与えられません。欧米で身につけた知識を持って故国に錦を飾ろうと帰国した彼女にとっては、失意以外のなにものでもなかったでしょうね。そんななか持ち上がったのが、大山巌との縁談話でした。

 このとき大山は、妻に先立たれて独り身となり、後妻を探していました。当時、参議・陸軍卿だった大山は、自身も西欧で4年間暮らした経験があり、フランス語やドイツ語を流暢に使って外国人と直に談判できる貴重な存在でした。そんな大山の後妻として白羽の矢が立ったのが、アメリカの名門大学を優秀な成績で卒業し、同じくフランス語やドイツ語に堪能だった捨松だったわけです。政府高官の夫人として外交の場で活躍できる女性など、当時は日本中探しても彼女しかいなかったでしょうね。しかし、この結婚には大きな障害が立ちはだかったことは言うまでもありません。

 薩摩は会津の宿敵。旧薩摩藩出身の軍人で、しかも会津戦争時に砲兵隊長として鶴ヶ城への砲撃を指揮していた大山との結婚を、山川家が許すはずがありません。兄の浩は猛烈に反対します。当然ですよね。浩にしてみれば、亡き妻の仇でもあったわけですから。しかし、大山もまた諦めずに粘ります。大山にしてみても、捨松ほど自身の求める妻にふさわしい女性はおらず、これもまた当然の粘りだったかもしれません。このあたり、ドラマにもあったとおりですね。さらに大山は、従兄弟で農商務卿西郷従道にも助太刀を頼んで山川家への説得にあたり、そのうち、大山の誠意が伝わり、最終的に浩は「本人次第」という回答をするに至ります。八重の腕相撲ではなかったようですね(笑)。

 捨松自身は、最初からこの縁談に消極的ではなかったようです。希望に胸を膨らませて帰国したものの、当時の日本ではまだまだ女性の社会進出の壁は厚く、結婚するしか生きる道はないのではないか・・・そんな気持ちになっていたのかもしれません。その意味では、政府高官の夫人という椅子は、ある意味活躍の場ととらえたのかもしれませんね。彼女は大山とのデートを何度か重ねたのち、大山の人柄に惹かれて結婚を決意します。この頃、彼女がアメリカの友人アリスに送った手紙に、「たとえどんなに家族から反対されても、私は彼と結婚するつもりです」と記されているそうです。障害が多いほど恋は燃える・・・というやつでしょうか(笑)。

 結婚後、社交界に華々しくデビューした捨松は、アメリカ仕込みの立ち振舞い、流暢な外国語、日本人ばなれしたプロポーションなどで、たちまち人々の注目を集め、「鹿鳴館の華」と呼ばれるようになります。鹿鳴館とは外国人の接待所として作られた洋館で、毎晩のように晩餐会舞踏会が開かれていました。彼女にとっては願ってもない活躍の場で、まさに水を得た魚の気分だったのでしょうね。

 その後、彼女は一緒に帰国した津田梅子の進める日本の女子教育の支援や、日本初の看護婦学校の設立などに貢献していきます。明治初期に国家が女子の人材を作るべく留学させた官費は、決して無駄ではなかったわけですね。国をつくるには、まず教育から。平成の政治家さんたちも、学んでほしいものです。


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by sakanoueno-kumo | 2013-10-29 15:36 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(0)  

八重の桜 第42話「襄と行く会津」 ~岐阜事件と八重と襄の里帰り~

 明治15年(1882年)4月6日、自由党総裁の板垣退助が岐阜の中教院岐阜の中教院で暴漢に襲われます。世にいう「岐阜事件」です。このとき板垣が叫んだといわれる「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は、あまりにも有名ですね。ドラマでは、「わしが死んだち、自由は死なんぜよ!」と、土佐弁で叫んでましたが、たしかに、こっちのほうが信憑性があります。ただ、この言葉、本当に板垣が発したかどうかは微妙のようです。一説には、このとき横にいて暴漢を押さえつけた、同じ自由民権家の内藤魯一が叫んだ言葉で、その内藤が、板垣が叫んだことにしたともいわれていますし、その他も諸説あるようです。その真相はわかりませんが、結局は板垣は死なず、自由も死にませんでした。

 同じ年の夏、新島襄八重は、それぞれの故郷である安中会津に里帰りします。といっても、その目的は伝道活動でした。襄は、前年に山本覚馬の娘・みねと結婚した伊勢時雄(横井時雄)徳富蘇峰とともに、中山道を東へ徒歩で旅します。八重は襄とは別行動で、みねを連れて神戸から海路にて横浜へ向かい、安中を目指しました。

 襄たち中山道組の一行は、道中に立ち寄った長野県の「寝覚の床(ねざめのとこ)」で、名物蕎麦の大食い対決をおっ始めます。襄は無類の蕎麦好きだったそうです。のちの襄自身が八重の語ったところによれば、襄が12杯で蘇峰が11杯だったそうで、襄の勝ちだったとか。一方、蘇峰が残した記録によれば、襄が9杯食べたのに対して蘇峰は9杯半食べて、負けた襄が2人分の蕎麦代を払ったとあります。結局のところ勝負の真相は、いまとなっては歴史の闇の中・・・って、どっちが勝とうがどうでもいい話ですけどね(笑)。いずれにせよ、双方自分が勝ったと主張しているところが、なんとも滑稽で可愛くもあるエピソードです。

 そんなこんなで、京都を出発してから1週間後に安中に着いた襄たちは、先に着いていた八重たちと合流します。そこで1周間ほど滞在したあと、いよいよ八重とみねの故郷、会津に向かいます。襄や時雄はもちろん初めて、八重とみねにとっては12年ぶりの会津でした。故郷の景色を目にしたときの感情は、えも言われぬ思いだったに違いありません。ドラマのように、いろんな思いがこみ上げて、過去の出来事が走馬灯のように頭を駆け巡ったことでしょうね。

 「大事なものは皆、ここにあったんです。」

 山本家の角場跡があったかどうかはわかりませんが、未だ会津戦争の爪痕が残る故郷の姿を目の当たりにして、筆舌に尽くしがたい思いだったことでしょう。

 「必ず蘇ります・・・八重さんたちの美しい故郷は。」

 襄の言葉どおり、やがて会津は復興を遂げるのですが、その約140年後に、かつてない天災人災に襲われようとは、ゆめゆめ思わなかったことでしょう。

 みねの母・うらと再会したという記録は残っていません。つまり、本話の設定はドラマオリジナルの創作というわけですが、でも、会わなかったという記録もないわけですから、会ったかもしれません。ていうか、会っててほしいですね。この数年後、みねは短い生涯を終えることになります。


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by sakanoueno-kumo | 2013-10-21 23:22 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(0)