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軍師官兵衛 総評

 2014年の大河ドラマ『軍師官兵衛』の全50話が終わりました。今年も、なんとか全話レビューを起稿することが出来て安堵しているところですが、最後に、あらためて本作品を総括してみたいと思います。

 今年の主人公である黒田官兵衛は、これまでもたびたび主役予想に名前が挙がっていた人気の人物でしたが、わたし自身も、予てから官兵衛主役の大河を望んでいたひとりでした。古くは吉川英治氏の『黒田如水』司馬遼太郎氏の『播磨灘物語』、最近では池田平太郎氏の『黒田家三代』など、官兵衛主役の小説は何冊か読んでいましたし、地元兵庫県出身の偉人ということもあって、勝手に親近感を持っておりました。姫路市でずいぶん前から官兵衛の大河誘致運動が熱心に行われていることも知っていましたし、それらのPRイベントの仕事に参加させてもらったこともありました。そんなこんなで、『軍師官兵衛』の制作発表があってからは、たいへん楽しみにしておりました。

 それだけ期待が大きいと、逆にハードルが高くなって期待はずれに感じてしまいがちだと思うので、なるべく先入観を持たずに観ようと心がけた1年だったのですが、全話が終わった感想を率直に述べると、たいへん良い出来だったとわたしは思います。少なくとも、ここ近年(今世紀に入ってから)の大河作品のなかでは、わたし個人的にはいちばん良かったんじゃないでしょうか。久々に、大河ドラマを観た!という気分です。

 その理由を簡単にまとめると、まず、昨年、一昨年の作品と同じく、史実、通説を軸にしたストーリーづくりが、ちゃんと成されていたこと。わたしは、決して史実至上主義ではなく、物語である以上フィクションは不可欠だと思っていますが、さりとて、さすがに歴史を歪曲してしまうほどの虚構はいかがなものかと思いますし、何より、事実は小説よりも奇なりで、史実、通説を超えるほど面白い物語を創作するのは、容易なことではないとは思います。安直なフィクションは、荒唐無稽な物語になっちゃいますからね。その意味では、本作は大筋の部分は通説どおりに描かれていて、ストーリーに安心感がありました。もちろん、重箱の隅をつつくような粗探しをすれば、ツッコミどころはあるのですが、わたしは、そういった観方は好きではありませんし、本作に関していえば、それも少なかったように思います。

 次に、主人公の描き方についてですが、ここが最も重要で最も難しいところなんですよね。どれだけ主人公の魅力を引き出せるかがポイントで、それによって作品の評価が大きく変わってきます。いちばん良いのは、そのドラマを観てその人物のことが好きになったと言われるような描き方で、その例で言えば、昭和62年(1987年)放送の『独眼竜政宗』などは、その最たる例でしょう。過去、名作と言われた作品は、ほとんどがそうでしたよね。

 ただ、だからと言って、実在の人物を描くわけですから、虚像で塗り固めたものではダメですし、また、それでは魅力的な人物にはならないでしょう。その人物の本来持つ魅力をどれだけ引き出せるか・・・。歴史上の偉人たちの魅力というのは、いい意味で清濁併せ呑むところにあると思います。聖人君子では絶対に魅力的には映らないでしょうし、かといって、極悪非道でも観る人を引きつけることは出来ない。難しいですよね。

 その意味では、本作の黒田官兵衛は、たいへん魅力的だったと思います。いうまでもなく黒田官兵衛の魅力は「智将」としての部分ですが、必要以上に策士の部分を強調し過ぎると、ただの野心家となってしまうでしょうし、無理に正義の味方的ヒーローにしてしまうと、行動の辻褄があわなくなってシラケてしまいます。本作では、その清濁が上手く描けていたんじゃないでしょうか。

 そう思えた理由は、脚本演出の良さもありますが、岡田准一さんの演技力の高さも大きかったでしょうね。印象深いのは、織田信長横死の知らせを受けたあとの安国寺恵瓊との密会のシーン。知略家同士がお互いの腹の中を探りながらの談合で見せたあの腹黒い笑みや、その後、信長討死を隠したまま毛利氏と和睦を成立させた際のほくそ笑みなど、最近の大河作品ではあまり観られなかったダークな演技は圧巻でした。また、関ヶ原の戦いの混乱に乗じて天下を狙ったときの野望に満ちた目も、たまんなかったですね。やっぱ、大河の主人公には、ああいう目をして欲しいんです。近年の作品には、あの目がなかったんですよね。

 脇を固める俳優さん方で言えば、ヒロインの役の中谷美紀さんはさすがですね。美人だし演技上手いし、まさに本作の華でした。意外にも、大河ドラマ初出演だったんですね。NHKは何をやってたんだ?・・・と。それから、江口洋介さんの織田信長が意外に良かったです。なかなか凄みがありましたよね。竹中直人さんの豊臣秀吉にいたっては、これ以上のハマリ役はないといっていいと思いますが、ただ、竹中秀吉は過去に堪能していますから、新鮮味には欠けましたよね。もうちょっと別の秀吉像も見てみたかった気がします。その意味で目新しかったのは寺尾聰さんの徳川家康ですが、う~ん・・・といったところでしょうか(笑)。たぶん、家康を演じるために無理に太られたのでしょうね。その意気込みには拍手を贈りたいです。今回フィーチャーされた荒木村重役の田中哲司さんは、正直あまり知らなかったのですが、いい俳優さんですね。今後、村重のイメージは田中さんで定着しそうです。今回、最も素晴らしいと思ったのは、黒田長政役の松坂桃李さん。こんな役もできるんですね。この人、いつか大河の主役演るんじゃないでしょうか。あと、黒田職隆役の柴田恭兵さんは・・・まあ、演技はさておき存在感はありました(笑)。最後に、今回最もミスキャストだったのは、春風亭小朝さんの明智光秀。なんでやねん!といいたくなる配役でした(笑)。

 これまで述べてきたとおり、今年の大河はわたしにとって、たいへん高評価の作品となりましたが、まったく不満がなかったわけではありません。たとえば、石田三成の人物像などは、もうちょっとどうにかならなかったかとは思いますね。官兵衛主役の物語ですから、三成がヒール役になるのは仕方ないとしても、あの嫉妬深く陰険なイジメっ子のようなキャラは、いただけなかったですね。仮にも関ヶ原の西軍の将ですから、悪役に描くにしても、もうちょっと大物感を出してほしかったと思います。

 それから、登場人物の呼称についてですが、大河作品ではいつの頃からか、三成のことを「治部少」、秀吉のことを「筑前守」といった呼び方は使わなくなりましたよね。この度も、天下人となったあとは「関白殿下」「太閤殿下」と呼んでいましたが、それまでは、ほとんどが「秀吉様」。実際には下の者が上の人をファーストネームで呼ぶなどあり得なかったと思いますよ。たぶん、わかりやすさを重視したのだと思いますが、難しいところですね。「ありがとう=かたじけない」や、「一人称=それがし、拙者」なども同様ですが、言葉は使わなければ消えていってしまいます。できるだけ、時代劇言語を継承して欲しいんですけどね。

 あと、本作に限らずですが、天下人を目論む武将たちに、「乱世を終わらせるため」とか「戦のない世を作るため」といったスローガンを語らせるのも、そろそろやめにしませんか? そういう風に言わせないと駄目なのでしょうか? あの台詞を聞くと、どうも安っぽく思えてなりません。彼らは皆、自分たちの野望を満たすため、あるいは、自家の存続と繁栄のために戦っていたわけで、決して世のため人のために戦っていたわけではありません。言うなれば、現代の企業戦士たちと同じで、自社の利益のため、家庭を守るため、自身の出世のために血眼になって働いているわけで、世の中のために働いている人なんて、ほとんどいないはずです。皆、自分たちのために働いて、その結果、世の中の繁栄に繋がっているわけで、戦国時代現代社会も同じですよ。あれがなければ、もっと良かったんですけどね。

 ちょっと批判めいたことも述べましたが、それらの不満点を差し引いても、わたしにとって『軍師官兵衛』は、名作のひとつに数えられる作品となりました。ただ、実は1年前の放送前から、本作はきっと良い作品になるんじゃないかと予感していたんですよね。というのも、一昨年の『平清盛』から、明らかに制作サイドのスタンスが変わりましたよね。その前年まで長らく続いていたトレンディードラマさながらのドラマスタイルを一新し、歴史ドラマを作ろうといった意気込みが伝わってくる作風に変わりました。そのスタンスが『平清盛』『八重の桜』を経て、本作で実ったとわたしは感じています。長らく続いていた暗黒時代は終わったと・・・。残念ながら視聴率には反映されていないようですが、この流れはぜひ今後も続けていって欲しいと、わたしは思います。

 とにもかくにも1年間楽しませていただき本当にありがとうございました。このあたりで『軍師官兵衛』のレビューを終えたいと思います。毎週のぞきにきていただいた方々、時折訪ねてきてくれた方々、コメントをくださった方々、本稿で初めてアクセスいただいた方々、どなたさまも本当にありがとうございました。

●1年間の主要参考書籍
『誰も書かなかった黒田官兵衛の謎』 渡邊大門
『黒田家三代』 池田平太郎
『日本の歴史11~戦国大名』 杉山博
『日本の歴史12~天下一統』 林屋辰三郎
『播磨灘物語』 司馬遼太郎
『黒田如水』 吉川英治



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by sakanoueno-kumo | 2014-12-25 19:17 | 軍師官兵衛 | Trackback(1) | Comments(6)  

軍師官兵衛 最終回「乱世ここに終わる」その2 ~エピローグ~

 関ヶ原の戦いにおける黒田長政の活躍によって、黒田家は筑前国名島に52万3000石を与えられます。新天地に入国した黒田官兵衛・長政父子は、さっそく博多のそばに新しい城の建設を開始。同時に、この地を「福岡」と名づけます。これ以後、長政を藩祖とした福岡藩黒田家は、幕末まで12代続きます。

 そして徳川家康征夷大将軍に任じられ、江戸幕府が開かれた慶長8年(1603年)頃から、官兵衛は病に伏すところとなります。その頃から、官兵衛はどういうわけか、人が変わったように家臣に冷たく当たるようになり、難癖をつけては罵るようになったといいます。家臣たちは官兵衛の激変に「ご乱心」と恐れおののいたといいますが、見かねた長政が諌めたところ、官兵衛は「そちのためにやっているのだ。」と囁きます。曰く、家臣たちに酷い仕打ちをするのは、自分が疎まれることで、早く長政の代になってほしいと家臣たちに思わせるためだと・・・。自分が憎まれることによって、長政の求心力を高めようと考えたんですね。

 また、当時は主君が亡くなると家臣が殉死する習慣があったため、これを防ぐ狙いもあったのだとか。有能な家臣が殉死して黒田家家臣団が弱体化することを恐れたというわけですね。いずれも実話かどうかはわかりませんが、人生の最期の最期まで、合理的知略に富んだ逸話が絶えません。と同時に、官兵衛の長政に対する親心もうかがえますね。このエピソードもドラマで演ってほしかったなぁ・・・。

 慶長9年(1604年)に入って、いよいよ死期を悟った官兵衛は、股肱の臣である栗山善助を呼びつけ、自身の愛用していたを授けます。本来であれば、息子の長政に引き継ぐべきものですが、官兵衛はあえてこれを善助に託すことで、長政への忠誠心を今一度促し、また、長政には善助を父のように思うようにと言い残しました。そして、3月20日、黒田官兵衛はその波乱に満ちた生涯の幕を閉じます。享年59歳。その辞世の句は、

 「おもひをく 言の葉なくて つゐに行く 道はまよはじ なるにまかせて」

 「いっこうに悔いが思い浮かばぬ」といったドラマの官兵衛の台詞は、この辞世の句からきたものでしょうね。言い残す言葉もなく、ついにあの世にいくことになったが、その道は迷うことなく、なるようにまかせよう・・・・。人生の最期にこんな言葉が言えるのは、精一杯生きてきた者だけでしょうね。

 「殿、よく生き抜かれましたなぁ・・・。」

 そう言った妻・は、官兵衛の死後、出家して院号を照福院とし、官兵衛の死から23年、息子の長政より長生きします。

 織田信長にその才を見出され、豊臣秀吉を天下人に押し上げ、徳川家康に一目置かれた智将・黒田官兵衛。一方で、その人となりは、生涯名利を好まず、質素倹約を旨とし、戦国武将としては地味な存在の武将といえるでしょう。しかし、そんないぶし銀的な生き方が、官兵衛の魅力だとわたしは思います。それが、官兵衛をして「天下を取ってほしい」という思いに繋がるのでしょうね。もし、官兵衛が天下人になっていたら、歴史はどう変わっただろうと・・・。でも、歴史は官兵衛を天下人に選びませんでした。黒田官兵衛という人物に与えられた歴史的役割は、やはり、「軍師官兵衛」だったということですね。


 1年間、拙い文章にお付き合いいただきありがとうございました。今年も、なんとか完走出来て安堵しています。年内には総括を起稿したいと思っています。


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by sakanoueno-kumo | 2014-12-23 22:43 | 軍師官兵衛 | Trackback(1) | Comments(4)  

軍師官兵衛 最終回「乱世ここに終わる」その1 ~官兵衛天下取り説~

 慶長5年(1600年)9月15日、美濃国は関が原において、徳川家康の率いる東軍8万の軍勢と、石田三成を大将とする西軍10万の軍勢が衝突します。世にいう関が原の戦いですね。結果は、ほとんどの人が周知のところだと思いますが、戦いはわずか半日東軍の圧勝で終わります。

 兵の数では優っていた西軍でしたが、毛利軍、島津軍などは参戦することなく、実際に戦っていたのは3分の1ほどだったといわれます。それでも、大谷軍、宇喜多軍、小西軍の奮戦もあり、前半は優勢に運んだ西軍でしたが、勝利を目前にして形成は瞬く間に逆転。一気に総崩れとなります。そのいちばんの要因は、いうまでもなく小早川秀秋寝返りに尽きるのですが、それ以外にも、戦線を離脱する者や役割を放棄して退く者など、多くの裏切り行為があったといいます。徳川方の「関ヶ原」は、事前の切り崩し工作から始まっていました。一説には、戦前に家康が諸大名に宛てた書状は200通にも及ぶと言われています。まさしく「段取り八分」だったわけですね。

 東軍に属していた黒田長政は、切り込み隊長として西軍に猛攻を加え、三成の片腕である島左近を戦闘不能に追い込む活躍を見せます。また、実戦以外でも、吉川広家小早川秀秋を味方に引き入れる工作で貢献したといいます。文句のない活躍ぶりで、父・黒田官兵衛ぬきでも、黒田武士の存在感を大いに示したといえますね。

 また、戦後、捕縛されて縄目のまま城門にさらされていた三成に対して、通りすがる武将たちの多くが罵声を浴びせるなか、長政は馬から降りて一礼し、「勝敗は武士の常、恥にはござらぬ」と言って自身の着ていた陣羽織を三成の肩にかけた、という逸話があります。ドラマでもそのまま描かれていましたね。実話かどうかはわかりませんが、もし事実だとすれば、長政という人物の廉直な人間性をうかがい知ることができます。

 関ヶ原の戦いが家康の勝利で幕を閉じた同じ頃、九州は豊後国で大友義統を降伏に追い込んだ官兵衛は、安岐城、富来城を攻撃して兵を進めます。このとき、官兵衛は関ヶ原の戦いがわずか半日で決したという知らせを受けたようですが、それでも官兵衛は戦いの手を緩めず、ほぼ1ヵ月かけて豊後を平定。さらに、その勢いで久留米城柳川城を攻撃するなど、その勢いは止まるところを知らず、家康の停戦命令を受けて、ようやく矛を収めます。

 このときの官兵衛の猛攻が、官兵衛天下取り説の根拠となっています。関ヶ原の戦いで中央に大名たちが集結しているをついて、九州から西日本を平らげ、一気に天下取りに名乗りを上げる狙いだったが、予想外に関ヶ原の戦いが早く決着がついてしまったため、官兵衛の野望は露と消えた・・・と。ドラマも、この説で描かれていましたが、本当のところはどうだったのでしょう?

 この説の出処は、官兵衛の死後100年以上経ってから編纂された『常山紀談』によるもので、その記述によると、
 「家康を倒すことはたやすい。九州平定後に島津氏を味方にし、二万の兵を率いて加藤清正と鍋島直茂を従わせ、道中で浪人を集めれば十万の軍勢になろう。その上で東に攻め上がれば、家康を滅ぼすなど簡単なことだ。」
 と、官兵衛が語ったとされます。また、同じく『常山紀談』では、官兵衛が自らの死に臨んで、
 「関が原で今少し石田三成が持ちこたえたなら、九州から攻め上り、日本を掌中に収めたかった。そのときは、子である汝を捨ててでも、一博奕打とうと思っていた。」
 と、長政に遺言したといいます。

 この『常山紀談』は、読み物としての歴史的価値は高いようですが、脚色部分が多く、史料としての価値は高くないようです。客観的に考えて、いかに官兵衛が智将といえども、大身ではない身で天下を狙うなど、いささか夢物語の観が拭えません。

 また、もう一つ有名な逸話として、『黒田故郷物語』に記されたエピソードがあります。関ヶ原の戦後、中津に戻ってきた長政が、官兵衛に家康が手を差し伸べてお礼を言ってくれたと自慢気に話します。その話を聞いた官兵衛は、「その手は右手か?左手か?」と問います。長様が右手だったと答えると、官兵衛は「そのとき、お前の左手は何をしていたのか?」と、言ったといいます。つまり、「なぜ左手で家康を刺さなかったのか?」ということ。有名な話ですね。

 しかし、この『黒田故郷物語』は、作者や成立年が不詳の書物であり、良質な史料とは言い難いもののようです。だいいち、現実的に考えて、短刀を胸に忍ばせて家康に近づくなど不可能だったはずで、残念ながら荒唐無稽な話だと言わざるを得ません。

 では、なぜこのような逸話が生まれたのかと考えたときに、おそらく、官兵衛に天下を取って欲しかったという、後世の人々の思いが作り出した虚構だったんじゃないでしょうか? 一土豪から大名まで上り詰めた智将・官兵衛に、歴史の“もしも”を見たかった・・・。左手のエピソードも、官兵衛なら、きっとこう言ったんじゃないか・・・という思いが、この台詞を生み出したのではないかと・・・。いまでも人気の高い官兵衛ですが、その人気は江戸時代から、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康とは違う天下人像として、人々の空想の中で息づいていたのかもしれません。

やはり長くなっちゃいました。
明日、「その2」を起稿します。


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by sakanoueno-kumo | 2014-12-22 22:00 | 軍師官兵衛 | Trackback | Comments(4)  

軍師官兵衛 第49話「如水最後の勝負」 ~石垣原の戦い~

 九州は豊前国中津城にて情勢をうかがっていた黒田官兵衛は、石田三成の蜂起を知ると、すぐさま戦準備を始めます。しかし、黒田家の兵力のほとんどは、徳川家康に従軍している黒田長政とともに東国に出兵中で、国内にはわずかな家臣しかいません。そこで官兵衛は、これまで倹約して蓄えていた金銀を惜しげも無くばらまき、浪人衆を雇います。小田原合戦以降、仕官を求める浪人が各地にあふれており、たちまち9000人もの軍が即席で出来上がりました。その中に、若き日の宮本武蔵がいたという話もありますが、定かではありません。

 そんなとき、三成からの使者が官兵衛のもとへ着きます。要件は、言うまでもなく西軍に味方するように促したものですが、三成の提示した条件は、「西軍に味方すれば好きな土地に領地を与えよう」というものでした。しかし、官兵衛はその程度の誘いに乗る男ではありません。「九州7ヵ国をいただけるのなら、お味方しましょう」と、飲めるはずのない要望を吹かっけて、使者を追い返します。豊臣秀吉にその才を買われて出世した三成ですが調略の才は、あまりなかったようです。

 一方、三成との決戦に向けて西へ進軍していた東軍内では、長政が父顔負けの暗躍ぶりを見せ、福島正則の説得、宇喜多秀家の不参戦、さらに、勝敗を決定づけた小早川秀秋の寝返り工作に貢献したといいます。若き日の長政は武勇一本の武将といったイメージでしたが、やはり、官兵衛の血を引いていたということでしょうか。

 関ヶ原の戦いの火蓋が切られるより先に、九州で西軍と東軍が激突します。官兵衛の領国の隣で、東軍を支持していた細川忠興の家臣・松井康之が守る豊後国杵築城を、西軍に属していた大友義統が襲撃します。杵築城は、元は義統の城でしたが、朝鮮出兵の折に敵前逃亡したことで秀吉の怒りを買い、改易されたという経緯があります。義統にとっては、旧領回復の執念を燃やした戦いでもありました。

 官兵衛は義統を討伐するため出陣します。その際、全軍の前で、「大友義統は朝鮮で敵を見ずに逃げ出した臆病者ゆえ、たとえ何万騎で来ようと、百に一つも負けることはない。」と演説をし、兵の士気を高めたと伝えられます。この演説の場所は後に「如水原」と呼ばれ、現在でも「大分県中津市上如水」という住所が残されています。

 関ヶ原の戦いの2日前、官兵衛軍と大友軍は、石垣原で激突します。当初は大友軍に押されぎみとなりますが、夕刻に官兵衛本隊が到着すると形成は逆転、大友軍は立石の本陣へ後退を余儀なくされます。この時点で戦意喪失となった総大将の義統は、翌々日に剃髪して降伏を申し出ます。この一連の戦いが、後世に九州版関ヶ原の戦いと言われる戦ですね。

 ドラマでは、井上九朗右衛門と一騎討ちをした大友軍の武将・吉弘統幸が、かつて黒田家の食客だったという設定でしたが、実際にも、大友家の改易のあと一時黒田家に招かれ、井上家に預けられていたそうです。そんな二人の一騎討ちについて『黒田家譜』には、こう記されています。
 「吉弘は南の岸の上にたち、井上は北の岸の上に立てあひ向ふ。両人は、先年よりしたしく馴近付たる事なれば、久しくて参り会たりとて、しばし物語しけるが、いさや花やかに戦て、勝負を決せんと互にいひ合せて、面もふらず戦ひける。」
 一説には、もはや勝ち目がないと悟った統幸が、九朗右衛門に功を挙げさせるるため、自刃して討たれたという説もあるそうです。そんな統幸のことを『黒田家譜』では、
 「吉弘がごとき眞の義士は、古今たぐひすくなき事なり」
と、絶賛しています。

 大友義統が降伏した同じ日、美濃国関ヶ原では両軍合わせて20万の兵が激突する、日本史上最大の戦が始まっていました。次回、いよいよ最終回です。


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by sakanoueno-kumo | 2014-12-09 20:00 | 軍師官兵衛 | Trackback(1) | Comments(4)  

軍師官兵衛 第48話「天下動乱」 ~光、栄の脱出劇と小山評定~

 徳川家康が上杉征伐のために東国に向かった隙を突いて挙兵した石田三成は、すぐさま大坂城を占拠。そして、家康に付き従って東国に向かった諸将の妻子人質にとるべく画策します。徳川方に与する諸将を少しでも切り崩そうとする作戦ですね。これは、当時の慣らいでいえば、特に卑怯な行いというわけでもなく、当然の策でした。然るに、大坂を留守にしていた諸将も、もし、三成に不穏な動きあらば、妻子の身が危険に晒されるであろうことは想定済みだったに違いありません。

 このとき大坂を空けていた黒田官兵衛、長政父子も、当然、三成の動きには警戒を怠っておらず、本来、父子どちらかに付き従っているべき栗山善助母里太兵衛らを、大坂に残しています。非常事態を想定したSP役だったのでしょう。官兵衛の正室・の命ももちろんですが、祝言をあげたばかりの長政の後妻・は家康の養女であり、いわば徳川家からの預かり物のようなもので、何としても敵の手に渡すわけにはいかなかったのでしょう。善助や太兵衛といった最も信頼の厚い家臣を大坂の残したのは、頷ける人選です。

 彼らの働きによって、光と栄は三成の人質包囲網からみごと脱出し、官兵衛のいる豊前国中津城に帰国します。このあたりに経緯については、『黒田家譜』にかなり詳細に記されています。それによると、夜中に二人をに入れ、商人姿に変装した太兵衛が二人の入った俵を天秤棒で担いで運搬し、黒田家に味方する納屋小左衛門という商人の屋敷に逃げ込みます。そこでしばらく身を潜めて脱出の機会を探しますが、三成の包囲網も厳重を極め、なかなか機を得ることができません。その間、黒田の屋敷は善助が守っていましたが、ある日、石田方から差し向けられた使者から、「二人の奥方が屋敷内にいるか確認したい」と迫られます。困った善助は、「お方様の面吟味などあるまじきこと。どうしてもと言うならば、垣根越しにお二人に気付かれぬよう・・・」とたくみに言い逃れ、似た顔の侍女たちを替え玉に仕立てて、なんとか使者を納得させたといいます。ほとんどドラマのとおりですね。

 なかなか脱出の機を得ることなく過ごしていたある日、長政と同じく家康に従軍していた細川忠興の妻・ガラシャが、人質となることを拒んで自らを選び、家臣に胸を突かせて屋敷に火を放ちます(ガラシャの死については、以前の拙稿『江~姫たちの戦国~ 第34話「姫の十字架」』でふれていますので、よければ一読ください)。この事件で大坂城周辺は大混乱。ここを絶好のタイミングと考えた善助や太兵衛らは、騒ぎに乗じて屋敷を脱出。小舟で川を下った後、大阪湾で船に乗り換え、海路、九州に逃げ延びます。

 ドラマでは、善助と太兵衛と井上九朗右衛門の3人が活躍していましたが、『黒田家譜』では、九朗右衛門ではなく宮崎助太夫となっています。善助と太兵衛は、官兵衛の有岡城脱出の際も活躍しており、夫婦揃っての脱出の恩人と言えます。二人共、武勇に長けた猛将だったと伝えられますが、戦場での働きも去ることながら、2度の脱出劇の活躍は、まさに何万石もの大身に値する働きだったといえるでしょう。それ故、『黒田家譜』でも多くの紙数を費やして称えているのでしょうね。

 一方で、上杉討伐に向かっていた家康陣営が、三成と対決すべく結束し、軍を西へ返すことを決定した小山評定の席において、事前に家康が長政を呼びつけ、進退を決めかねている福島正則を説得するよう根回ししたという有名な逸話ですが、これについては『黒田家譜』には何も記されておらず、家康が上杉と三成のどちらを攻めるか諮問したところ、福島正則、黒田長政、徳永法師が大坂へ向かうべきだと進言し、了承されたと記されているだけです。また、福島正則が率先して徳川支持を表明し、その声に煽動された諸将が次々に続いていったという有名な話も、一次史料に乏しく後世の創作と見る向きが強いようです。このあたりの諸将の根回し、裏切り、抜け駆け、逡巡などの人間模様が、いちばん面白いところなんですけどね。

 ただ、この時点ではまだ、徳川方有利などといった空気はまったくなかったわけで、家康にしてみれば、大坂へ向かう東海道中の諸将がどれだけ味方してくれるかというのが、いちばんの気がかりだったに違いありません。そう考えれば、史料は乏しくとも、似たような人間模様は繰り広げられていたんじゃないでしょうか。

 官兵衛の動きについては、次話に譲ることにします。


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by sakanoueno-kumo | 2014-12-01 22:16 | 軍師官兵衛 | Trackback(2) | Comments(2)  

軍師官兵衛 第47話「如水謀る」 ~関ヶ原の合戦序章と長政・糸の離縁~

 石田三成が政治の表舞台から失脚したことで、表面的には沈静化したように見えた豊臣政権内の勢力争いですが、水面下では、双方味方集めの工作合戦が繰り広げられており、事態はいよいよきな臭いムードが漂いはじめます。

 慶長5年(1600年)、三成と昵懇だった(といわれる)会津国の上杉景勝が、徳川家康との対立姿勢を示します。家康は上杉家に対して何度も上洛を促す使者を送りますが、景勝は病気と称してこれを拒否しつづけ、一方で、領内の城の補修工事を進めます。この態度から、上杉家は謀反の疑いをかけられるのですが、上杉家家老の直江兼続は、その釈明のための書状を家康に送ります。しかし、その書状には、家康を痛烈に非難した内容が書かれていたといわれ、それを読んだ家康が激怒し、上杉討伐を決定します

 家康が上杉討伐のため東国に向かったことによって、大坂はガラ空きとなり、その隙をついて三成が挙兵。そして関が原の合戦へと繋がっていくわけですが、この一連の流れは、三成と直江兼続が事前に密謀を交わし、家康を東西から挟み撃ちにする企てだったという説があります。ドラマでも、黒田官兵衛がその謀略を見抜いた上で、三成に作戦の甘さを忠告していましたよね。実際に官兵衛が見抜いていたかどうかはわかりませんが、反家康を表明している二人の挙兵があまりにも出来すぎなタイミングで行われていることや、三成が兼続に宛てた手紙に「密約」を匂わす文章があることなどから、この説を推す歴史家の方も少なくありません。

 一方で、二人の共謀説に否定的な意見も多く、その理由としては、当時、上杉家は新領国に国替えをして間もない時期であり、資金面から考えても、大戦を挑むなんてあり得ないというもの。現在では、こちらの説のほうが有力だそうです。どちらが真実かはわかりませんが、密約があったとする方が、ドラマチックではありますよね。ただ、その更に上手だったのが家康で、三成の挙兵を誘うため、あえて大坂を空にしたとする説。つまりは、三成と兼続の仕組んだ罠も、すべて家康が描いたシナリオだったという見方です。ドラマでも、この説を採っていましたね。晩年の権謀術数に長けた家康なら、それも考えられなくもないかもしれません。しかし、当時の状勢で言えば、まだ西軍(三成方)の方に分があった段階で、家康にそんな余裕をかますゆとりはなかったようにも思えます。結果を知っている後世の私たちは、歴史上の出来事をひとつの物語として繋ぎあわせて、そこに関連性を求めて理由付けをしたくなりますが、実際には、それぞれがそれぞれに個々の保身利益のために動いた結果が、歴史を作っているものなんじゃないかと思います。すべては偶然が重なって生まれたものなんじゃないかと・・・。

 有力大名との婚姻を進めて味方づくりを図っていた家康は、その狙いを黒田長政にも向け、自身の養女である栄姫を長政の正室として嫁がせます。これにより、16年連れ添った離縁することになるのですが、現代の感覚で言えば理解し難い行為ですが、この時代の常識で言えば、やむを得ない選択だったといえるでしょう。家康の意向には逆らえないといった理由もあったでしょうが、糸との間には16年間で娘がひとり生まれただけであり、「嫁して三年子無きは去れ」という当時の常識から思えば、黒田家にしてみれば家康の申し出は糸を離縁する大義名分になったかもしれません。実際、後に長政と栄姫の間には、忠之、長興、高政という3人の男子が生まれます。糸には気の毒な話ですが、黒田家にとっては、結果オーライの縁談だったといえます。

 ただ、そうは言っても、当時としても一方的な離縁は不条理な仕打ちではあったようで、この離縁によって糸の実家の蜂須賀家は怒り心頭となり、以後150年に渡り黒田家と蜂須賀家は絶交状態となります。

 糸はその後、蜂須賀家領国の阿波国で暮らし、長政より20年以上長生きします。その娘であるは黒田家に残り、井上九朗右衛門の嫡男・井上庸名の正室になったと伝えられます。黒田家と蜂須賀家が不通関係である以上、糸と菊はその後会うこともなかったでしょうね。きっと菊の幸せだけを祈りながらの余生だったことでしょう。


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by sakanoueno-kumo | 2014-11-26 20:17 | 軍師官兵衛 | Trackback(1) | Comments(0)  

軍師官兵衛 第46話「家康動く」 ~石田三成襲撃事件~

 豊臣秀吉の死後、天下の政は五大老五奉行の合議制で行われます。今で言う内閣のようなものですね。しかし、実質的には、莫大な領地と高い官位を持つ二人の長老、徳川家康前田利家が権勢をふるい、そこに五奉行の筆頭的立場である石田三成が加わった三者が実権を握って進められます。ただ、そのトップである内閣総理大臣的立場の者がおらず、さらに、家康と三成はそもそも秀吉の生前から折り合いが悪かったため、そんな不安定な内閣が上手く機能するはずがありません。案の定、秀吉の死から半年も経たないうちに、早くも体制は崩れはじめます。

 そのキッカケを作ったのは徳川家康。秀吉が死ぬやいなや家康は、秀吉の生前に禁止と定められた大名間の婚姻を無断ですすめ、着々と味方づくりを始めます。そんな挑発ともとれるあからさまな専横行為に、三成ら反家康勢は大いに憤慨し、前田利家のもとに集結。情勢は一触即発のムードとなります。しかし、このときは利家と家康の間で和解が成立し、なんとか衝突は避けられました。このとき利家を説得したのが、ほかならぬ黒田官兵衛だったといいます。このあたり、『黒田家譜』によると、

「奉行衆利家卿をすゝめて、内府をほろぼし奉らんとする謀、別の儀にあらず。今天下の両雄は、内府と利家なり。利家を大将として内府を討たんとす。内府亡び給はゞ天下にこはき人は利家一人なり。利家は老人にて病者なれば、やがて逝去し給べし。」

 と説いた上で、

「今の世に内府をほろぼさんとする事は、蟷螂が車を遮るに異ならず。今利家卿等が邪謀の欺かれ給はん事、謀の拙き所なり。いそぎ利家卿内府と和睦し給ふべき由をいさめ給へ。」

 と諌めています。ほぼドラマのとおりですね。ただ、ドラマでは官兵衛が利家を直接説得していましたが、『黒田家譜』の記述では、利家の嫡男・前田利長に進言させたとあります。いずれにせよ、『黒田家譜』の記述が実話かどうかは定かではありませんが。

 和解成立からわずか1か月後の慶長4年(1599年)3月3日、利家が病没します。利家の死によって、それまでなんとか保たれていた均衡が一気に崩れ、予てから三成憎しで団結していた武断派の加藤清正、福島正則、藤堂高虎、黒田長政、浅野幸長、細川忠興、脇坂安治の七将が暴発。大坂の前田屋敷に滞在していた石田三成を殺害すべく襲撃します。しかし、この動きを事前に察知した三成は、佐竹義宣の協力を得て屋敷を逃げ出し、伏見城に逃げ込みます。この騒動を収拾したのが、徳川家康でした。家康は武断派を説得して鉾を収めさせ、襲撃した武断派が三成の身柄引き渡しを要求したため、三成を蟄居にすることで手を打たせます。そして閏3月10日、三成は家康の次男・結城秀康の警護のもと佐和山城に戻り、謹慎生活となりました。こうして三成は政治の表舞台から遠のくことになります。

 この経緯のなかでの有名な逸話として、武断派の襲撃を受けた三成が、敵である家康のもとに助けを求めて単身乗り込み、難を逃れたという話があります。このエピソードから、三成が単に小賢しいだけのインテリ官僚ではなく、豪胆な一面を持った武将だったという印象につながっています。このたびのドラマでも、この逸話を採っていましたね。石田三成という人物を描く上で欠かせないエピソードといえますが、残念ながらこの逸話は、最近では否定的な見方が強いようです。というのも、この説の典拠となっている史料は明治以降のもので、それ以前に成立した史料には、三成が家康屋敷に赴いたことを示すものはないからだとか。三成ファンの人にとっては少々ガッカリな事実だと思いますが、ただ、まったく荒唐無稽な逸話かといえば、そうとも言えないですよね。徳川に弓引いた「天下の大悪人」として蔑まれていた江戸期の史料には、三成を称える史料など存在するはずがありません。しかし、伝承レベルで巷に残っていた逸話が、三成が再評価された明治になって拾い記された・・・と考えられなくもないかなぁ・・・と。多少、そうあってほしいという願望が込められていますが・・・。

 この事件を収拾したことにより徳川家康はその影響力を拡大し、一方で石田三成は一時失脚します。一説には、すべて家康の描いたシナリオ、家康自身がこの事件の黒幕だった・・・なんて俗説もありますが、いかがなものでしょう。いずれにせよ、この武断派と吏僚派の対立が家康にとって有利にはたらいたことは間違いありません。これ以降、豊臣政権の政務は家康が一手に握ることとなります。

 そして官兵衛は・・・なるほど、そういう物語の展開で描いていくんですね。次週以降を楽しみにしたいと思います。


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by sakanoueno-kumo | 2014-11-17 19:57 | 軍師官兵衛 | Trackback(1) | Comments(2)  

軍師官兵衛 第45話「秀吉の最期」 その2 ~なにわの事も ゆめの又ゆめ~

 朝鮮での戦が長引くなかの慶長3年(1598年)初夏、床に臥せりがちだった豊臣秀吉の体調はいよいよ悪化の途をたどります。さすがに死期を悟った秀吉は、五大老・五奉行の制度を定め、任命者から起請文を提出させるなど、自身の死後の体制固めを懸命に行いはじめます。死を目前にした秀吉にとって気がかりなのは、ただただ、まだ6歳秀頼の前途のみでした。思い余った秀吉は、伏見城に徳川家康を呼び寄せ、自身の死後は秀吉の後見人になるよう懇願します。最も信用が置けない人物を秀頼の最も近くに置き、逆心を封じ込めようとの考えからでしょうが、その約束を家康が守ってくれる保証などどこにもありません。

 「秀より事 なりたち候やうに 此かきつけのしゆ(衆)としてたのミ申し候 なに事も 此不かにはおもいのこす事なく候 かしく 八月五日 秀吉印」
 「いへやす(徳川家康) ちくせん(前田利家) てるもと(毛利輝元) かけかつ(上杉景勝) 秀いえ(宇喜多秀家) 万いる 返々秀より事 たのミ申し候五人の志ゆ(衆)たのミ申し候 いさい五人物ニ申わたし候 なこりおしく候 以上」

 五大老に向けた秀吉の遺言状です。とにかく「秀頼のことをよろしく頼む」と、手を合わせるようにして五大老らに頼み続けていますね。天下人の最後のメッセージとしては、あまりにも無様で哀れな内容ですが、幼子を残して逝く親の心中としては、少なからず共感できなくもありません。むろん、戦国時代の中を戦い抜いて天下人となった秀吉のこと、主家である織田信長の子に対して自らのとった仕打ちを思えば、誓紙口約束など何の役にも立たないことはわかっていたでしょう。わかってはいても、そうするしかなかった・・・そこが、秀吉の最期の悲痛さです。

 この遺言状が書かれた約2週間後の慶長3年(1598年)8月18日、豊臣秀吉はその劇的な生涯に幕を閉じます。享年62歳。
 その辞世の句は、

 つゆとをち つゆときへにし わがみかな なにわの事も ゆめの又ゆめ
 (露と落ち 露と消へにし 我が身かな 浪速のことは 夢の又夢)


 実に見事な辞世ですよね。意訳するのは無粋かもしれませんが、「なにもかもが夢であった。今となってはな・・・」といったところでしょうか。日本史上最大の立身出世を遂げ、位人臣を極めた男が、最期に辿り着いた境地がこの歌だったというところに、豊臣秀吉という人物の魅力を感じ取ることができます。まるで、物語のような人生であったと・・・。しかし、一方で、ほとんど狂気といえる晩年の愚行も、上記の未練タラタラの悲痛な遺言状も、豊臣秀吉という人物の一面であることに違いありません。この二重人格ともいえるアンバランスさが、秀吉という人の人間臭さを表しているような気がします。

 秀吉の最期は、豪壮華麗な伏見城での臨終でした。数限りない武将を戦場で無念の死に追いやってきた男は、まことに平和で安らかな臨終を迎えられる立場に恵まれながら、人を信じられず、我が子の行く末を案じ、最期は狂乱状態であったともいわれます。志半ばで戦場に散った武将たちと、権力も昇りきれるところまで昇りつめた豊臣秀吉の、どちらが幸せな死に際であったか・・・。人の幸せのあり方について、あらためて考えさせられます。

 「太閤は英雄であった。惜しむらくは己の死んだあとのことを、もっと考えておくべきであった」

 そう言った家康は、己が死んだあとの憂いを入念に拭い去ってからこの世を去るんですね。

 朝鮮から帰国した黒田官兵衛と、死を目前にした秀吉が面会したという記録は残っていません。おそらくはドラマの創作で、あのように二人が会うことはなかったでしょう。でも、ドラマのあの長い別れのシーンは感動でしたね。二人の関係は物語の核といえるもので、いわばドラマの集大成といえるシーンだったと思います。天下人となった秀吉は官兵衛を冷遇しながらも、結局、最期に本音で語れるのは官兵衛だった・・・。官兵衛は最期の最期まで、秀吉の家臣であり軍師だった・・・。秀吉のもとを去った後に感情があらわになる官兵衛の後ろ姿が、とても印象的でした。

 実際の官兵衛も、秀吉の死の知らせを受けたときは、きっと感無量だったに違いありません。官兵衛がいなければ秀吉の天下はなかった・・・というのは言いすぎだと思いますが、秀吉との出会いがなければ、官兵衛の人生はまったく違ったものになっていたであろうことは間違いなく、官兵衛にとって秀吉は、人生そのものだったといえるでしょう。官兵衛にとって秀吉の死は、大きな人生の節目、その後は「余生」といった気分になったんじゃないかと想像します。その余生で、もうひと暴れするんですね。ここから、黒田官兵衛の最終章が始まります。


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by sakanoueno-kumo | 2014-11-11 19:53 | 軍師官兵衛 | Trackback(1) | Comments(0)  

軍師官兵衛 第45話「秀吉の最期」 その1 ~慶長の役と熊之助の死~

 明の使者との会見で、明の降伏が小西行長のでっち上げだったことを知った豊臣秀吉は大激怒し、再び朝鮮に攻め込むことを決断します。慶長2年(1597年)2月、再び海を渡った14万もの兵の中には、若き総大将・小早川秀秋を補佐する軍目付として、黒田官兵衛の姿もありました。もちろん、息子の黒田長政も三番隊として出陣。親子で再渡航となるのですが、このとき16歳になっていた次男・熊之助は、これに加わることができませんでした。

 16歳といえば、初陣を飾ってもおかしくない年齢。兄の長政に似て血気盛んな性格だったのか、熊之助は、家臣の母里吉太夫、黒田吉松を従え、無断で海を渡ろうとします。しかし、不運にもその船が海難事故に遭い、家臣たちとともに溺死したといいます。きっと、熊之助の無鉄砲な行動を、官兵衛ら家族は大いに嘆いたことでしょう。

 ただ、なぜか『黒田家譜』には熊之助の死についてなにも書かれておらず、この話の出典元がわりません。前々話の稿(参照:第43話「如水誕生」)で紹介した官兵衛の遺言状でも、長政に実子が生まれなかったときには、官兵衛の養子となっていた甥の松寿に家督を継がせるよう定めていて、その時点でまだ生きていたはずの熊之助の名が見られません。不思議ですよね。そんなことからも、熊之助はもっと以前に死んでいたのでは?・・・あるいは、熊之助という人物自体、存在しなかったのでは?・・・などなど、いろいろ疑いたくなります。実際のところは、どうだったのでしょう?(詳しい方は教えてください)

 息子たちが遭難した知らせを受けて、我が子の死を嘆くより、まず、主・官兵衛に息子の不始末を詫びる母里太兵衛と、おそらく熊之助が唆したであろうことを理解した上で、太兵衛を気遣う官兵衛のシーンが良かったですね。
家臣は何よりも主のことを重んじ、そんな家臣を主は気遣う・・・これぞ主従関係といったシーンでした。

 再び朝鮮に渡った豊臣軍は、当初はまずまずの戦果を得ますが、長引く戦況に厭戦ムードが漂いはじめます。はじめかこの戦に賛成だった者などひとりもおらず、ほとんど秀吉の意地だけで戦いが続けられていたようなものですからね。目的が見えない仕事ほど、しんどいものはありません。結局、延々と続いた戦いが終わったのは、秀吉の死後のことでした。

 この戦いによって、豊臣政権を支えていた各大名は大いに疲弊し、また、武断派吏僚派の間に確執を生み、結果的に豊臣政権の弱体化の大きな要因を作っただけとなりました。戦地のとなった朝鮮の地も激しく破壊され、敵方の明国も、多額の財政支出で国家が傾き、このあと滅亡への道をたどります。結局のところ、この戦いによって誰も得してないんですよね。唯一、得したとすれば、うまく朝鮮への兵の派遣を逃れて力を蓄えていた徳川家康だけだったでしょうか。

 今日も長くなっちゃったので、その2につづきます。


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by sakanoueno-kumo | 2014-11-10 17:35 | 軍師官兵衛 | Trackback | Comments(0)  

軍師官兵衛 第44話「落ちゆく巨星」 その2~黒田節と母里太兵衛~

前回の続きです。

 酒は呑め呑め 呑むならば 日本一のこの槍を
 呑み取るほどに呑むならば これぞ真の黒田武士


 有名な民謡『黒田節』の歌詞ですが、今話、この歌にまつわる母里太兵衛の有名なエピソードが描かれていましたね。知っている人も多いと思いますが、ここで改めて逸話を紹介しておきます。

 母里太兵衛といえば、「黒田二十四騎」の中でも最も剛力として知られる勇将で、黒田官兵衛、長政父子の二代に仕えた人物です。今回のドラマでも、常に官兵衛に付き従う側近として描かれていますね。

 文禄5年(1596年)正月、太兵衛は長政の名代として、京都伏見城に滞留中の福島正則のもとを訪れます。このとき、太兵衛は正則からを勧められますが、名代という立場をわきまえ、いったんはこれを固辞します。太兵衛は家中でも「フカ」とあだ名されるほどの大酒呑みでしたが、このときは「先方で酒を出されても呑むことまかりならぬ」と、事前に長政より釘をさされていたといいます。しかし、自身も酒豪である正則はなおもしつこく勧めます。今も昔も、大酒呑みという人種は、酔うとはなぜか人にも酒を進めたくなるんですね。いわゆる質の悪い酔っぱらいです。

 頑なに拒む太兵衛に対して正則は、大盃になみなみと酒を注ぎ、「これを飲み干せたならば、好きな褒美をとらせよう」といいます。さらに正則は、「黒田武士は酒に弱い。酔えば何の役にも立たない」と侮辱して挑発したとか。さすがの太兵衛も、ここまで言われては黙っていられなかったのでしょう。太兵衛は大盃を手にすると、一気に呑み干したといいます。

 そして太兵衛は、約束どおりの褒美として、正則が豊臣秀吉から拝領した名槍「日本号」を所望します。さすがの正則もこれには困ってしまいますが、「武士に二言はない」と開き直り、潔く「日本号」を太兵衛に与えたといいます。酔うと太っ腹になるというのも、典型的な大酒呑みの姿ですね。

 翌朝、正気になった正則は、真っ青になって太兵衛のもとに「日本号」の返却を求めてきましたが、太兵衛は「武士に二言は無いはず」といってこれを受け付けませんでした。正則としては、一生の不覚だったでしょうね。この逸話によって、「日本号」は「呑取り日本号」という異名がつき、これが民謡『黒田節』の歌詞となり、黒田武士の男意気を示すエピソードとして後世に長く伝えられることになります。

 とまあ、黒田家の歴史を語る上では欠かせない太兵衛の逸話ではありますが、今話の流れ的にいえば、本筋から大きく外れたところの余談であり、なんとなく唐突な感じがしましたね。多くの人に愛される逸話だから省くわけにいかず、無理やり話の間に押し込んだ感がありました。物語は秀吉の最晩年に差し掛かり、秀吉と官兵衛の関係も大詰めを迎えようとしているところ、太兵衛の逸話は割愛してもよかったんじゃないかと・・・。特に本編に必要な話ではなかったですしね。なんとなく、あのシーンだけ異質なものに感じました。

 さて、いよいよ次週は秀吉の最期が描かれるようです。



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by sakanoueno-kumo | 2014-11-05 22:09 | 軍師官兵衛 | Trackback | Comments(4)