カテゴリ:三木合戦ゆかりの地( 47 )

 

三木合戦ゆかりの地めぐり その46 ~書寫山圓教寺~

前稿で黒田官兵衛が出てきましたので、引き続き官兵衛つながりで。

西の比叡山と称される天台宗の古寺「書寫山圓教寺」を訪れました。

書写山は、姫路市の北部にある標高370mの山で、圓教寺はその山上にあります。

三木合戦は始まった当初、羽柴秀吉は一時この地に本陣を置きました。

それを進言したのが、他ならぬ黒田官兵衛だったといいます。


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山頂までは麓から登山すると1時間以上かかるそうで、この日はロープウェイで登ります。

ロープウェイは黒田官兵衛キャララッピングされています。

2014年の大河ドラマ『軍師官兵衛』以降、姫路市周辺はこの官兵衛くんキャラでいっぱいです。


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有名な「摩尼殿」です。

書寫山圓教寺で画像をググったら、まずこの画像が出てきますね。


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摩尼殿の号は承安4年(1174年)に参詣した後白河法皇によるものだそうです。

摩尼殿は、京都の清水寺と同じ舞台造りとなっています。

たしかに似てますね。


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そしてこちらが有名な三之堂

秀吉が本陣を置いた場所です。

右側の建物が大講堂、左奥に見えるのが食堂(じきどう)、写真左に屋根の先端が少しだけ見えているのが、常行堂です。

いずれも室町時代の再建で、国の重要文化財です。


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三木城攻めが膠着状態に入ると、官兵衛は秀吉に書写山まで一旦撤退するよう進言。

その後、ここを拠点に神吉城・志方城・魚住城・端谷城・高砂城などの別所方の支城を攻め落としながら、三木城を取り囲む付城網を築きます。

当時の大寺院というのは、ある種、城と同じくらいの防御力がありましたからね。


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食堂のなかには、当時、羽柴軍の家臣が書いたとされる「羽柴子一郎秀長」という落書が残っていました。

左側に写るアクリルでカバーされた柱がそれです。

写真を撮ったのですが、アクリルが反射して上手く撮れてませんでした。


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ここ、三之堂は、平成26年(2014年)のNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』ロケ地となっています。

場面は当然、秀吉の播磨攻略時の拠点としてです。

また、平成15年(2003年)の『武蔵-MUSASHI-』でもロケ地になっていますし、あのトム・クルーズ主演の『ラスト・サムライ』の撮影も、ここで行われました。

絵になるロケーションなんでしょうね。

書寫山圓教寺については、他の稿でも紹介していますので、よければ。

  ↓↓↓

夏休み中播磨路紀行2016 その4 「書寫山圓教寺 ~前編~」

夏休み中播磨路紀行2016 その5 「書寫山圓教寺 ~後編~」

さて、まだまだ播磨には三木合戦ゆかりの地がたくさんありますが、ここでまた、ひとまず休憩します。

また折を見て続きをやりますね。




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by sakanoueno-kumo | 2016-12-09 17:22 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その45 ~兵主神社・太閤の腰掛け石~

兵庫県西脇市にある兵主神社を訪れました。

ここは、三木合戦の際に羽柴秀吉が、黒田官兵衛孝高に戦勝を祈願させたと伝わる神社です。


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現地説明板によると、兵主神社の祭神は大巳貴命ですが、兵主は中国『史記』に出てくる軍神、武神でもあることから、秀吉は黒田官兵衛に代参させ、奉納金とともに灯明田七反を添えて戦勝祈願を行ったと伝えられています。


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奉納金は、拝殿の建設費に充てられました。

そのとき建てられたのが、現在に残る茅葺入母屋造り長床式の拝殿です。


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天正19年(1591年)8月27日造立の棟札があるそうで、三木合戦が終わってから11年後に建てられたということがわかります。


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戦勝祈願の伝承が史実かどうかはわかりませんが、安土桃山時代の建築物ということは間違いなく、兵庫県の重要文化財に指定されています。


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兵主神社のある兵庫県西脇市黒田庄町は、黒田官兵衛生誕の地との伝承があります。

通説では、黒田官兵衛の家系は近江国の出自とされていますが、江戸時代の史料などに見る別の説では、官兵衛やその父・黒田職隆は、多可郡黒田村(現在の兵庫県西脇市黒田庄黒田)生まれ」とする説が多数あり、この辺りでは昔からそう信じられてきたそうです。

すぐ近くには、黒田氏9代の居城だったといわれる黒田城跡もあるのですが、三木合戦とは無関係なので、また別の機会に紹介します。


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近くにある極楽寺の境内には、「太閤の腰掛け石」と伝わる石があります。


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その伝承によれば、三木合戦の際に秀吉が大志野(現在の西脇市黒田庄町南部)に陣を布いたとき、この石に腰かけて采配を行ったとされています。


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これが、その「太閤の腰掛け石」。


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太閤伝承がなければ、何の変哲もない単なる石です。


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説明板です。
その横には小さな祠が祀られています。


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「その23」でも紹介しましたし、「山崎合戦」の稿(山崎合戦のまちを歩く。その2)でも紹介しましたが、秀吉が座ったと伝わる石や岩は各地にあります。

事実かどうかは定かではありませんが、座っただけで伝説が残るっていうのは、やはり、それだけ伝説的な人だったってことですね。




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by sakanoueno-kumo | 2016-12-08 20:55 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その44 ~西脇城跡~

兵庫県西脇市にあったとされる「西脇城跡」を訪れました。

ここは、三木城から直線距離にして20km以上北上した場所にある城ですが、ここも、三木合戦時に羽柴秀吉軍によって攻め落とされたと伝わる城です。


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西脇城跡のある西脇市は、東経135度・北緯35度が交わる地点で、ここが「日本列島の中心」に当たることから、「日本のへそ」のまちとPRしています。

北は北海道から南は沖縄まで、日本列島すべての時刻はここ東経135度線(子午線)に合わせていますから、日本で最も正確な時刻を刻むまちでもあります。

もっとも、西脇城があった時代には、そんなこと知る由もなかったでしょうが。


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西脇城の遺構は市街地に埋没して全く残されておらず、パチンコ屋駐車場脇の一角に、石柱のみが建てられています。


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石柱横の階段を上ると、大きな石碑五輪塔、石地蔵が建てられた廟所になっています。


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高さ3mほどの石碑には「西脇城主高瀬氏政所之址」と刻まれています。

高瀬氏播磨守護職赤松氏の一族で、三木合戦時は三木城主の別所長治方に与していました。


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こちらは五輪塔

「高瀬家」とありますから、おそらく高瀬家の誰かの墓石でしょう。


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こちらの石仏にも、「高瀬家」とあります。


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西脇城は、古地図の復元から約100m四方を堀と土塁で囲った方形居館と呼ばれる城だったことがわかっていて、現在、廟所がある場所より西にあったと伝えられていますが、現在はその痕跡を見ることはできません。

また、城主についても、高瀬土佐守円山兵庫頭祐則が伝えられ、最近では這田荘と呼ばれていたこの地域の政所であったとの研究もあるそうです。

三木合戦時の城主と伝わる高瀬氏は、合戦を境に滅亡したと伝えられます。


次回も西脇市内の史跡を訪れます。




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by sakanoueno-kumo | 2016-12-07 18:14 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その43 ~春日山城跡~

山下城跡から3kmほど北西にある飯盛山山頂に、春日山城跡があります。

ここも、三木合戦のときに羽柴秀吉軍によって攻め滅ぼされたと伝わる城です。


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春日山城は兵庫県神崎郡福崎町の最南端ある標高198mの飯盛山山頂にあります。

写真は西側から撮影した飯盛山。

この少し南は、姫路市になります。


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山頂にズームイン!


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登山口は2ヶ所ありますが、この日は南側山麓にある春日山キャンプ場からの登城。


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キャンプ場内にある登山口です。


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登山道は写真のように整備されていて、登りづらいといったことはありませんでした。

ただ、勾配は急なので、決して楽ではありません。


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道標です。


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頂上近くになると、登山道脇には曲輪跡と見られる削平地が目につき始めます。


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頂上らしき空が見えてきました。


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頂上の本丸跡です。


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結構広い面積の山頂です。


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三木合戦のときの春日山城主は、後藤基信

基信はあの後藤又兵衛基次の父・後藤基国の兄で、又兵衛の叔父にあたる武将です。

天正5年(1577年)の加古川評定を機に後藤家は別所方に与し、三木合戦が始まって間もない5月、羽柴軍によって城は落とされ、基信は討死したと伝わります。

春日山城の築城時期は南北朝時代の建武年間(1334~1338年)、播磨の守護赤松氏の幕下としてこのあたりを統治していた後藤三郎左衛門尉基明が築城したと言われます。

その後、応仁の乱では赤松政則の部下として出陣し、山名の軍勢を破って軍功を立てたと伝わります。

三木合戦時の城主・基信は、初代・基明から数えて9代目にあたります。


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説明板です。


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食料貯蔵庫跡だそうです。


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北側の眺望です。


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こちらは西側の眺望。

撮影は夏至近い6月18日の夕方4:00頃です。


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こちらは南側の眺望。

3kmほど南下したところには、甥の後藤又兵衛基次が生まれたとされる南山田城跡があります。

三木合戦時、又兵衛は姫路城主の黒田官兵衛孝高の元にいましたが、黒田家は羽柴方に、後藤家は別所方についたことから、黒田家を去ることになるんですね。

又兵衛18歳のときでした。


次回に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2016-12-01 20:14 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その42 ~山下城跡~

前稿の野上城跡(常泉寺)から直線距離にして4.5kmほど西の兵庫県加西市にある「山下城跡」を訪れました。

ここは三木合戦当時、別所長治の幕下・浦上久松の居城だったと伝わります。


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城跡近くに常行院という寺院があり、その横に駐車場があります。

寺院前には城跡までの案内板が設置されています。


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城跡に向かう遊歩道にも誘導表示が設置されていて、迷うことはありませんでした。


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しばらく進むと、丘の麓に登城口が見えます。


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おそらく、ここは大手口搦手口といった正式な城の入口ではなく、城巡り客用に作られた登城口だと思います。


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しばらく登ると、大きな堀切跡に目を奪われるのですが、写真じゃわかりづらいですね。


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登城道は整備されていて、簡単に登れます。


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二ノ丸跡です。

それほど広くはありません。


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上から見下ろした二ノ丸跡です。


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そして更に上を目指し・・・。


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本丸跡です。


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本丸跡には、常行院前にあった案内板より詳細は想定縄張り図が設置されています。

いま登ってきたルートは、左下の遊歩道入口から大堀切横を通って、二郭、本郭というルートです。


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ここ山下城主の浦上久松は、三木城主・別所長治の幕下として兵を伴い三木城籠城戦に参陣、最後は長治と共に自刃して果てたと伝わります。

その久松の母は、黒田官兵衛孝高の父・黒田職隆の娘とも言われます。

ということは、久松は官兵衛のということになりますね。

久松は長治と同じく若い城主だったのでしょうか?


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山下城は戦国期の城としては珍しい平山城で、本丸は比高約30mの丘上にあります。

その本丸跡からの南西の眺望です。

左端に少しだけ覗いているのが、善防山城跡です。


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本丸を下りて、大手口方向に向かいます。

立派な土塁跡です。


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上の縄張り図でいうところの大手守備郭から見た北西の景色です。

春日山城跡のある飯盛山が見えます。


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城跡の外周を散策しました。

田園が美しい。


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南西から見た山下城跡です。

さぞ立派な城だったんでしょうね。


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先ほどいた本丸跡を見上げます。

浦上久松が三木城に籠城したという記録は残っていますが、ここ山下城が三木合戦でどんな戦いをしたかはわかっていません。

これだけ立派な城ですから、別所方の拠点として何らかの役割を果たしていたのではないでしょうか?


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ちなみに、ここ山下城は、南北朝時代の光明寺合戦にも関わっていたようです。

その話は、また別の機会で。


次回に続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2016-11-30 18:20 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その41 ~野上城跡(常泉寺)~

兵庫県加西市にあった伝わる「野上城跡」を訪れました。

現在、城跡とされている場所は、常泉寺というお寺になっています。


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野上城の築城時期は不明ですが、城主は別所長治の幕下だった岩崎源兵衛という人物でした。

三木合戦に際に源兵衛は、三木城に篭って大いに奮戦したそうですが、三木城開城前に自刃して果てたと伝わります。


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その後、岩崎伝兵衛という人物(たぶん源兵衛の一族?)によってこの地に常泉寺が開かれ、源兵衛の菩提寺となりました。

そしてその子孫は、この地に代々永住したと伝えられます。


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現在の常泉寺周辺は、城跡の遺構は何も残されていません。

ただ、お寺は田園風景のなかの高台にあり、まわりは水路で囲まれていて、なんとなく、城跡っぽい雰囲気を醸しだしていました。


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まあ、城跡と知って見ると、そう見えるのでしょうけどね。

元来、寺院と城というのは、一対だった場合が多いですから。


次回につづきます。



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by sakanoueno-kumo | 2016-11-26 05:24 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その40 ~阿形城跡~

兵庫県小野市にあったとされる「阿形城跡」を訪れました。

ここも、三木合戦の際に別所氏に従って戦下に加わった城と伝えられます。


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現在、城跡の遺構は本丸跡と思われる「陣山」と名付けられた丘陵のみ残されています。


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陣山の入口には、小さな説明板のみ設置されています。


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陣山の頂上には、結構な樹齢と思われる巨木が聳えます。

でも、往時を知るほどではないかな。


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説明板によると、阿形城が文献などに出てくるのは、天正年間(1573~1594年)だけだそうで、それ以前のことはまったく不明だそうです。

『播磨古城軍記』によれば、阿形城の城主であった油井土佐守勝利別所長治の幕下であり、三木合戦の際に三木城籠城に参加したため、ここ阿形城は羽柴秀吉軍によって攻め落とされたと伝わります。


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現在、陣山の上は、ご覧のとおりになっています。


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陣山の周りには水路が巡らされていて、なんとなく、かつての堀跡の名残なのかなあといった雰囲気でした。


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ここ阿形城は加古川万願寺川の合流点の西に位置し、標高35mの高台にあります。

城の規模は南北150m、東西70mほどだそうで、陸上競技場くらいの広さがあったようです。

地方の田舎豪族としては、結構な大きさですよね。

油井氏というのはよく知りませんが、当時は、このあたりで結構な力を持っていたのかもしれません。


次回に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2016-11-24 23:52 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その39 ~豊地城跡~

小沢城跡から2kmほど南西に「豊地城跡」があります。

現在の住所でいえば、兵庫県小野市と加東市のちょうど境目あたりが城跡とされています。


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かつては小沢城主の依藤氏が豊地城を居城としていたようですが、三木合戦当時は、三木城主・別所長治の叔父・別所重宗の居城となっていました。

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三木合戦以前は、兄の別所吉親(賀相)と共に若き長治の補佐役を務めていた重宗でしたが、かねてから兄との折り合いが悪く、家内でそれぞれの派閥をつくり、政務のことごとくを対立していたといいます。

その延長線上からか、兄の賀相は毛利氏支持を、弟の重棟は織田氏支持を主張していました。


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一時は織田氏指示でまとまったかに見えた別所氏でしたが、「その18」で紹介した加古川評定の席で兄の吉親(賀相)が羽柴秀吉と衝突し、これをキッカケに別所氏は織田氏に叛旗を翻します。

しかし、重棟は納得がいかず、別所家を出奔して織田方につきました。

この、いわば兄弟喧嘩が、三木合戦のキッカケだったともいえます。

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現在城跡は田園地帯となっていますが、平成22年(2010年)の道路整備による発掘調査で、多くの遺構が発見されたそうです。

その後、また遺構は田畑に埋もれてしまいましたが、南側には、幅11m、高さ5mの立派な土塁跡が残されています。


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土塁の南側(写真右側)は外堀跡です。


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みごとな土塁跡ですね。


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土塁に登って北側を望みました。


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紺のプリウスαは、わたしの愛車です(笑)。


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豊地城の歴史は古く、南北朝時代の延元元年/建武3年(1336年)に北朝方に焼き払われたと伝わる東条城は、ここ豊地城の前身と考えられているそうです。

その後、赤松氏の有力家臣だった依藤氏の居城となり、その依藤氏から城を奪ったのが、別所氏だったと伝わります。

しかし、三木合戦終結後に重宗は但馬国に移封となり、同年6月に秀吉から播磨8城の破城令が下され、豊地城は破城となりました。




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by sakanoueno-kumo | 2016-11-23 19:36 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その38 ~小沢城跡・冷泉為勝、依藤太郎左衛門墓所~

前稿の細川城跡から直線距離で7kmほど北上した兵庫県加東市にあったとされる「小沢城跡」を訪れました。


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三木合戦が行われる直前、細川城主の冷泉為純・為勝父子が三木城主・別所長治の家臣で中村城主岡村秀治に攻められたとき、当時、ここ小沢城主だった依藤太郎左衛門が救援に駆けつけますが、力及ばず敗北。

為純は討死し、息子の為勝は依藤太郎左衛門とともに依藤野へ逃れますが、やがて観念して自刃します。


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写真の丘の上の森が、小沢城跡といわれています。

探索してみようと思ったのですが、柵がめぐらされていたため、森に入るのはやめました。


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小沢城の築城年代は定かではありませんが、一説によると、文治2年(1186年)に依藤豊季平家追討の功で播磨東条谷の地頭職に任ぜられたとき、ここ小沢城を築いたとの伝承があります。

それが事実なら、かなり古い歴史を持つ城ですね。

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小沢城跡から800mほど北西に、冷泉為勝と依藤太郎左衛門の自刃の地と伝わる場所があり、慰霊碑が建てられています。


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「冷泉為勝・依藤太郎左衛門自刃の碑」です。


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墓所です。

右が冷泉為勝、左が依藤太郎左衛の墓石です。


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「天正六年四月一日」と刻まれています。

羽柴軍が三木城の包囲を開始したのが3月29日。

二人が自刃したのは、その3日後だったわけです。

三木合戦最初の犠牲者だったかもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2016-11-19 01:07 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その37 ~細川城跡~

三木城から北東へ7kmほどのところにある「細川城跡」を訪れました。

城跡というより、居館跡といった方が正しいでしょうか。

ここは関白藤原氏の血を引く名門・冷泉家の居館でした。


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三木合戦が行われる直前、三木城主の別所長治は冷泉家に対して反織田方に与するよう誘いますが、当時の主だった冷泉為純とその長男・為勝がこれを断ったため、別所氏の家臣で中村城主岡村秀治に攻められて為純は討死。

為勝は救援に駆けつけた小沢城主依藤太郎左衛門とともに依藤野へ逃れますが、やがて自刃して果てます。

この戦いが、三木合戦関連の最初の戦いでした。


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居館跡に建つ銅像は、為純の三男で、のちに「近世日本儒学の祖」として名を成す藤原惺窩の像です。


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父・兄が討ち死にしたとき惺窩は17歳。

三男ということで幼いころから龍野の景雲寺で禅僧としての修行中だった惺窩は、凶報に接し、姫路の書写山に陣していた羽柴秀吉に面会して仇討家名再興を願い出ますが、秀吉から時期を待つよう諭され、やむなく母や弟妹を伴い京都の相国寺に逃れました。


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以後、としての学問に励みますが、やがて秀吉の天下となり、朝鮮国使節が来国した際、惺窩は秀吉から使者との筆話役を命じられました。

この縁で惺窩は儒学に目覚め、仏道を捨てて学者の道を進みます。


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以来、学ぶところ幅広く、特に、それまで学問の一部にすぎなかった儒学を体系化し、ひとつの独立した学問として作り上げたことにより、広く名が知れ渡りました。

しかし、時の権力に媚びることを嫌い、のちに徳川家康から高禄をもって招かれるもこれを辞退。

士官を好まず自由気ままな学者人生を送りました。

名門・冷泉家に生まれながら、権力争いのなかで滅びていった父や兄の姿を見たことで、権力とは無縁の暮らしを望んだのかもしれませんね。



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by sakanoueno-kumo | 2016-11-17 20:54 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)