カテゴリ:江~姫たちの戦国~( 50 )

 

江~姫たちの戦国~ 総評

 2011年のNHK大河ドラマ『江〜姫たちの戦国〜』が終わって1ヵ月以上が過ぎてしまいました。毎年、最終回のあとに締めくくりとして“総評”のレビューを起稿していたのですが、昨年の11月から12月にかけて例年になく多忙を極めていたため時間がとれず、そうこうしているうちにNHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』が始まってそちらのレビューに追われる12月となり、気がつけば最終回から随分と時間が経ってしまっていて、「もう、いいっか!」と思っていたのですが、先日、今年の大河ドラマ『平清盛』の第1話のレビューを投稿したあと、そのまま放置状態になっている『江』ことが気になりはじめ、やはりちゃんと落とし前は着けておこうと思い至りました。今さら、ではありますが、少しばかりお付き合いください。

 大河ドラマ50作目の節目として臨んだ作品でしたが、巷では放送開始早々からかなりの酷評が飛び交っていましたよね。史実云々という毎年お決まりの批判はもちろん、主人公・お江の幼少期を上野樹里さんが演じたことによる矛盾や、大河ドラマらしからぬ台詞や演出などについて、「ファンタジー大河」などと揶揄する声も少なくありませんでした。そんな中、私はそういった声に惑わされないように幼稚な酷評ブログなどは読まないようにし、当ブログではできるだけ肯定的なレビューに徹してきました。大河ドラマファンや歴史フリークを自称する人たちにとって、批判するのは簡単なことです。しかし、一旦批判に走りだすと、批判するための粗探しでしかドラマを観れなくなります。自分で自分に先入観を与えて、無理に面白くなくなるよう視聴しているようなもので、ただでさえ忙しい日曜日の夜を、そんなくだらない時間に使いたくはない。せっかく観るんだから楽しみたいじゃないですか。でも、大河は1年間という長丁場で、楽しむには観る側にもそれなりの根気が必要です。途中で、「このドラマ面白くない」と思ってしまったらもう続きません。だから、私はできるだけ途中での批判はしたくはないんです。ただ、全てを観終えた今なら、正直な感想を言ってもいいだろう、というわけで、ここからは言いたいことをいわせていただきます。

 まず、今までも何度か申し上げてきましたが、私は史実との相違云々について批判するのは好きではありません。そもそも史実とは歴史の断片に過ぎません。その断片を繋ぎあわせて見えてくるのが「史観」であり、そこには当然、見る人の主観が入りますから様々な解釈が生まれます。さらに、そこに想像の世界を肉付けしたものが、小説であったりドラマであったりするわけで、いろんな視点の物語があって当然でしょう。それを、重箱の隅をつつくように「史実と違う!」と揚げ足を取る批判にはウンザリしますし、そういった声を発する人というのは、大概は浅薄な知識をひけらかしたいだけの人で、本当に歴史が好きな人ではないと思っています。それでは、節操無く創作してかまわないのか、という意見になりますが、そこは一般通常人としての常識の範囲内か否か、ということになるでしょう。作り手のセンスが問われるところでもありますね。私は、この『江』がこれまでの大河ドラマに比べて特に創作範囲が多かったとは思いません。過去、名作といわれる作品でも、フィクション性の強いものもあります。史実との相違云々については、どの作品も大同小異ではないでしょうか。

 次に、現代の価値観で歴史ドラマを描くな、という意見があります。これも、今回の作品に限らず聞こえてくる声ですが、とりわけこの『江』に対してはこの批判の声が多かったように思います。たしかに、戦国時代の女性らしからぬ言動や行動が多々見られ、私も少々眉をしかめる場面もありましたが、では、戦国女性の価値観とはどのようなものでしょう。おそらく、正確に答えられる人はいないんじゃないでしょうか。よく、昔の大河ドラマファンの人で、「戦国武将とはこうだ!」などと言い切る人がいますが、大きな勘違いだと私は思います。それは結局、昭和の時代に描かれた昭和の価値観の戦国武将の姿に過ぎません。歴史とは、その歴史を見る時代の価値観によって、いかようにも変わるものだと思います。たとえば、豊臣秀吉像を例にいえば、戦前と戦後、昭和と平成でもずいぶんと描かれ方が変わってきてますよね。昔は、「今太閤」なんて言葉もあったように、立身出世の象徴として英雄のように描かれることが多かった秀吉ですが、現代ではどちらかと言えばダーティーな部分が強調されることが多くなりました。これはまさに、昭和と平成の時代背景の違いからくる価値観の違いといえるでしょう。

 イギリスの歴史家E.H.カーの言葉に、「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話である」というものがあります。歴史を書いたのは後世の歴史家であり、ゆえに、歴史は歴史家を離れては存在しない。その歴史家の生きた時代背景、思想、宗教などにすべからく影響している、ということ。つまり歴史解釈とは、後世の価値観によって変わるもので、歴史ドラマや小説などは尚更でしょう。あとは、その価値観に共感できるか否かで、「これこそが戦国の価値観だ!」などと断定できるような不変の歴史など存在しないと私は思います。

 あと、女性目線のドラマという声もありますが、これについては私も否定はしません。2002年の『利家とまつ』のヒット以降、どうも、女性ファンを意識した作品が増えた観は否めませんね。ひと昔前までは、朝のNHK連続テレビ小説が女性向けのドラマで、大河ドラマはわれわれオッサン向けのものだったと思うのですが、この辺りは世の流れには逆らえないといったところでしょうか。ただ、それ以前に女性目線の作品がまったくなかったかといえば、そうでもないんですね。先日、大河ドラマアーカイブで放送していたのをたまたま観たのですが、大河創成期の1967年に製作された『三姉妹』という作品は、幕末の時代を女性目線で描いた作品で、しかも主人公の三姉妹は架空の人物だそうです。そんな昔に女性目線の大河作品があったというのも意外でしたし、主人公が架空の人物という設定にも驚きました。女性目線となると、どうしても戦のシーンが少なくなりますし、色恋話が多くなります。しかし、それでも私は、2008年の『篤姫』などは名作だと思っていますし、女性目線の作品だからダメという意見は違うように思います。要は、好むか好まざるかではないでしょうか。

 では、私にとって『江〜姫たちの戦国〜』はどうだったか・・・。残念ながら失敗作だと思っています。その理由は、ファンタジー大河だからでも現代価値観だからでも女性目線だからでもありません。単純に、ストーリーが面白くなかった・・・理由はそれだけです。一生懸命、いいところを見つけようと頑張りましたが、最後まで見つけることができませんでした。1話1話でいえば、面白い回もあったのですが、全体で見れば何も印象に残っていない・・・というのが正直な感想です。上述したように、私は2008年の『篤姫』を高く評価しています。その『篤姫』と同じ田渕久美子さんの作品ということで期待していたのですが、見事に期待を裏切られましたね。同じ作者とはとても思えない内容でした。

 まず、お江という女性を通して、何が描きたかったのかさっぱり伝わってきませんでした。『姫たちの戦国』というサブタイトルですから、彼女たち三姉妹を通して通常の戦国史とは違った女たちの戦国物語が描かれるのかと思っていたのですが、結局は既成の秀吉、家康の物語に過ぎず、お江という女性を主役にした意味もわかりませんでした。『篤姫』では、天璋院篤姫という女性に「大奥を閉じる役割を与えられた女性」という意味を見出し、物語全体を通して「歴史上の役割」というテーマを描き、それが最後までブレませんでした。見事な設定だったと思います。だから、創作部分も多く史実歪曲といった批判の声を受けながらも、『篤姫』は多くの人に支持されたのでしょう。

 『江』のテーマとは、いったい何だったんでしょう。父の顔を知らずに育ったお江は、幼少期に叔父である織田信長を父のように慕い、その後の人生に大きな影響を受けた・・・この部分も「そんな事実はない!」といった無粋な批判が多かったようですが、私はこの発想は良かったと思います。問題はその後。信長から受け継いだ思想は「思うがままに生きよ!」・・・正直???ですよね。『篤姫』の「歴史上の役割」という、非常に具体的でしかも深いテーマとは違い、なんとも具体性に乏しく浅いテーマ。別に信長である必要性も感じられません。事実、その後の物語とこのテーマがさほどリンクしません。作者はいったい何が描きたかったのでしょう。

 二度の落城により父と母を失った浅井三姉妹は、時の権力者たちに人生を翻弄され、波乱に満ちた生涯を送る。そんな中、天下人の想い人となり、その子を生みながらも歴史の中に葬り去られてしまった長女・お茶々と、三度の結婚を重ねながらも最後は将軍家御台所となり、浅井家織田家の血脈を将軍家のみならず天皇家にまで繋げ、歴史上に大きな存在感を残した三女・お江。同じ境遇にありながら両極に対峙してしまった姉妹の運命。こうして考えてみても、もっと面白いストーリーがいかようにも作れたんじゃないでしょうか。これだけいい素材でありながら、テーマも浅ければストーリーも軽薄で意味不明、何度もいいますが、『篤姫』と同じ作者だとはとても思えない作品でした。

 なぜそうなってしまったか・・・と考えたときに、私は作者である田渕さんの歴史に対する知識不足が要因だと思いました。詳しくは知りませんが、おそらくこの方は戦国時代にも、というか歴史そのものをあまり知らず、執筆依頼があってからにわか知識を放り込み、その程度の知識で作品を書かれたんじゃないでしょうか。だとしたら、依頼したNHKも依頼を受けた田渕さんも大失態ですし、重罪ですね。歴史ドラマを嘗めていたとしか思えません。上述したように、私は史実云々を批判するのは嫌いですし、物語である以上、フィクションは当然だと思っています。ですがそれは、作り手のセンスが問われるところだとも言いました。歴史に不勉強な人が歴史ドラマを書くと、フィクションも的外れでトンチンカンなものになると私は思います。ピカソは、写実画を極めた上であの画風に行き着いたのです。デッサン力のない者が抽象画を書いても、ただの下手な絵でしかありません。歴史をしっかりと勉強した人にしかフィクションの歴史は書けないのではないでしょうか。

 『篤姫』が成功したのは、宮尾登美子さんの原作小説がちゃんとあって、田渕さんはあくまで脚本家としての執筆だったからではないでしょうか。私はその原作を読んでないのでわかりませんが、読んだ人にいわせれば、原型を留めてなかったとも聞きます。ですが、それでもベースとなる原作はあった。ここ数年、ドラマのための書き下ろし作品がずっと続いてますよね。しかし残念ながら、そのどれもが良い作品だとは言い難いものばかりです。私は物書きのシステムがよくわかりませんが、想像するに、おそらくドラマのための書き下ろし作品というのは、主人公となる人物が先に決まっていて、そのあと作家さんに依頼するものなんじゃないでしょうか。しかも、最初からドラマの尺を意識して物語が構成される。それに対して小説の場合は、そういう縛りが一切ない。小説家が書きたい題材を十分な準備のもとに執筆するものだと思います。逆にいえば、その小説をドラマに作りなおす脚本家さんというのは、ある意味小説家以上の職人技とも言えるように思えますが、脚本家が原作を書き下ろすというのは、歴史ドラマの場合難しいんじゃないでしょうか。やっぱり餅は餅屋です。『篤姫』と『江~姫たちの戦国〜』という田渕さんの2作品のあまりの出来の違いから見て、そういう結論に落ち着かざるを得ません。

 NHKも田渕さんも、おそらく今回の作品が名作だとは思っていないでしょうし、駄作を作ってしまったことに気がついているはずです(気づいていなければ救いようのないKYです)。この失敗を教訓に、今後の作品に生かしていって欲しいと切に願います。最後の最後に、かなり辛口のレビューとなってしまいました。このレビューを読んで気分を害した方がおられましたら、お許しください。最後まで真剣にいいところを見つけようと努力して視聴していた者だからこそ、発言する権利がある言葉だと受け止めていただければ嬉しく思います。こんなことを言いながらも、私は大河ドラマが好きですし、これからも観続けると思います。11ヶ月間、ありがとうございました。

●1年間の主要参考書籍
『お江と徳川秀忠101」の謎』 川口素生
『日本の歴史11~戦国大名』 杉山博
『日本の歴史12~天下一統』 林屋辰三郎



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by sakanoueno-kumo | 2012-01-12 02:08 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback | Comments(14)  

江~姫たちの戦国~ 第46話(最終回)「希望」

 元和2年(1616年)、徳川家康が死去したのちの徳川秀忠は、将軍親政を開始し、酒井忠世土井利勝安藤重信といった重臣に支えられ、幕府権力の強化に努めた。具体的には、法令違反などのあった大名を相次いで除封(おとり潰し)とする一方で、キリスト教禁教を一層徹底させた。秀忠に除封に追い込まれた大名は、福島正則(広島50万石)、田中忠政(筑後柳川32万石)、最上義俊(山形57万石)、蒲生忠郷(会津若松60万石)などの有力な外様大名をはじめ、譜代で家康の側近中の側近だった本多正純や、秀忠の実弟の松平忠輝、秀忠・お江夫妻の三女・勝姫の娘婿で、秀忠から見れば甥にもあたる松平忠直にも及んだ。正純は諫言が過ぎたこと、忠直は不行跡を重ねたことが除封の表向きの理由だったが、正純の場合は同じく幕閣の大久保忠隣暗闘を重ねていたことが、除封につながったものとみられる。最終的に、秀忠が隠居して大御所となってからのものも含めると、除封された大名は外様23家、親藩・譜代16家にもおよび、これは徳川15代将軍の中でもトップの数。親藩・譜代であろうが外様であろうが容赦なく処分するという姿勢を示すことで、大名統制を行い、幕府権力を強固にしていった。

 元和6年(1620年)6月18日、秀忠・お江夫妻の五女である和子(まさこ)ことのちの東福門院は、京都御所の内裏に女御として入内し、元和9年(1623年)には第108代・後水尾天皇との間に興子内親王(第109代・明正天皇/女帝)をもうけた。これにより、徳川家は天皇家の外戚という地位を手に入れ、徳川家の権威は一層増すこととなった。しかし、明正天皇は女帝であったためその後の天皇にその血が繋がることはなく、徳川家が天皇の外戚となったのもこの明正天皇のときだけだった。

 秀忠が女中のお静の方を寵愛して産ませたという幸松丸。お静の方は江戸郊外の領民、もしくは大工の娘であったといわれ、大奥の中ではもっとも下のクラスの女中であった。通常、侍妾の選定には正室の許可が必要で、下級女中の場合には出自を整える手続も必要であったにもかかわらず、お静の方の場合にはそうした手続きを取ることを秀忠が怠ったため、江戸城外での出産となり、その後も正式に側室となることはなく、幸松丸は譜代大名の保科正光の養子・保科正之として育てられた。ドラマでは、隠し子の存在を知ったお江が幸松丸を呼び出して面会していたが、実際には、秀忠はお江の生前に公式の場で正之を実子と認めることはなかったという。秀忠が正之と面会したのはお江の死後で、正之が秀忠の子であることを公式に発表したのは、秀忠の死後、徳川家光の代になってからのことである。家光は正之を重用し、家光の死後はその遺命により、第4代将軍となった徳川家綱の補佐役となり、幕政の安定に寄与していくこととなる。

 紆余曲折の末、秀忠の後継者には長男の家光が据えられ、元和9年(1623年)7月27日、秀忠が隠居し、将軍職徳川家当主の座を家光に譲り、同じ年の12月には公卿の鷹司信房の娘・孝子を正室に迎えた。徳川三代将軍家光の時代が始まる。一方の弟・徳川忠長は、元和2年(1616年)あるいは元和4年(1618年)に甲府藩23万8千石を拝領し、甲府藩主となる(しかし、元服前で幼少の忠長が実際に入甲することはなく、多分に形式上の藩主だった。ただ、このことによって、秀忠の後継者争いが家光に決定したのがこの時期であったことを窺うことができる)。その後、家光の将軍宣下に際して駿河国と遠江国の一部を加増され、駿遠甲の計55万石を領有し、将軍の弟として強い権力を有した。しかし、寛永3年(1626年)の母・お江の病没を境に、秀忠・家光父子の忠長に対する処遇が変わり始め、寛永8年(1631年)には不行跡を理由に蟄居を命じられ、翌寛永9年(1632年)の秀忠の死後、除封処分となり、最終的には切腹に追い込まれる。享年28歳。忠長を溺愛し、秀忠の後継者に忠長を推していたといわれるお江。まるで母に守られていたかの如く、彼女の生前と死後で立場が一変してしまった忠長。このあたりに、お江の実子は忠長だけで、家光の実母はお江ではなかった・・・という説が生まれた背景がある。事実はどうだったか・・・、今となっては憶測の域を出ない。

 さて、晩年のお江について。ドラマでは、大奥制度の計画を秀忠から任されていたお江だったが、実際にはお江が関わっていたという記録は残っていない。大奥制度を作ったのは、ほかならぬ秀忠であった。秀忠は元和4年(1618年)、女中以外の出入りを原則として禁止するなど、6カ条法度を大奥に発し、さらに元和9年(1623年)には8カ条からなる「大奥法度」を定めた。そこに、正室であるお江の意向が取り入れられていたとしても何ら不自然ではないが、その翌年の寛永元年(1624年)には、秀忠の隠居に伴いお江も西の丸に移っていたと思われ、これと入れ違いに三代将軍となっていた家光が本丸に移り、このとき春日局も本丸の大奥に入ったと思われるため、よくドラマの「大奥シリーズ」などで描かれているような、大奥の運営方法をめぐってお江と春日局との間で熾烈な女の闘いがあったといったエピソードは、実際には存在しなかった可能性が高い。やがて、本丸の大奥のすべての女中を指揮下に置いた春日局は、「大奥法度」に基づいて大奥を運営した。大奥制度は、秀忠が立ち上げて春日局が軌道に乗せたもので、お江は、直接的には深く関わっていないようである。

 お江がその波乱に満ちた生涯に幕を下ろしたのは、寛永3年(1626年)9月15日、秀忠・家光ともに上洛中で、江戸城を不在にしていたときだった。徳川幕府の正史である『徳川実紀』には、このときの上洛行列の規模や上洛中の行動はこと細かく記されているものの、大御所や将軍が不在の江戸城内の出来事については、極めて簡単な記述しか見出せないため、お江の病臥についても記載されておらず、死因についても詳しくはわかっていない。上洛中の秀忠たちのもとに、お江危篤の知らせが届いたのは9月11日。しかし、秀忠・家光父子は動くことなく上洛の日程をこなし、忠長だけが江戸城に向かった。忠長は側近が落伍するほどの猛スピードで江戸城を目指したが、結局は臨終に立ち会うことはできなかった。享年54歳。

 お江は、徳川家の歴代将軍と御台所の中では、唯一例外的に荼毘(火葬)に付されている。この時代、疫病などで死んだ場合をのぞいて土葬が主流で、とくに身分の高い人は土葬が常識だった。お江が荼毘(火葬)に付された理由は今もってで、それに加えて、その死が突然だったこと、死去の際、秀忠・家光が不在中だったこと、危篤の報に接して駆けつけたのが忠長だけだったことなどから、毒殺説などの諸説を生む要因となっている。しかし、そのどれもが憶測の域を出ず、いずれも「歴史ミステリー」的な発想に過ぎない。晩年のお江が、殺されるほどの重要な存在であったかどうかを考えれば、答えは簡単な気がする。

 浅井三姉妹の三女・お江という女性を中心とした、姫たちの戦国物語が終わった。実父叔父に殺され、実母をのちの養父に殺され、実姉に殺されるという、それが戦国の慣らいとはいえ大変な運命に翻弄されたお江。その波乱に満ちた生涯を強いられた浅井三姉妹の中で、末妹の彼女だけが、後世にその血脈を残した。徳川将軍家に引き継がれたお江の血筋は、残念ながら第7代将軍・徳川家継がわずか6歳で夭逝したため途絶えてしまったが、お江の二度目の夫・豊臣秀勝との間に生まれた完子が公家の九条家に嫁ぎ、その子孫は代々関白を歴任し、大正天皇の正妻となる貞明皇后に続いている。貞明皇后は言うまでもなく昭和天皇の母君であり、つまり、今上天皇ならびに親王・内親王など現在の皇室の方々はすべて、お江の子孫ということになる。織田家浅井家の血を引き、徳川家豊臣家の子を産み、現在の天皇にも繋がるお江。彼女の物語を観終えて、あらためてお江という女性の歴史上の存在感の大きさを感じずにはいられない。


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by sakanoueno-kumo | 2011-11-28 23:44 | 江~姫たちの戦国~ | Comments(0)  

江~姫たちの戦国~ 第45話「息子よ」

 徳川家康がこの世を去ったのは、大坂夏の陣から1年足らずの元和2年(1616年)4月17日。同年1月、鷹狩に出た先で倒れ、その後容態は好転することなく、4月17日巳の刻(午前10時頃)に駿府城において薨去したと『徳川実紀』は伝える。享年75歳。死因は諸説あって、よく知られるのは、とある京都の富豪が流行の食べ物として「鯛の天ぷら」を勧めて、その鯛にあたって亡くなったという食中毒説で、この説の出典は、家康の死の100年ほど後に大道寺友山が書いたとされる『駿河土産』の中に記されたエピソードである。しかし、素材が鯛であることや、天ぷらとして加熱した調理であったことなどから、死ぬほどの食中毒になるとは考えづらく、また、家康が鯛の天ぷらを食べたのは1月21日のことで、亡くなったのが4月17日と、食中毒とするには日数がかかり過ぎていることから、現在では食中毒説は否定的にみられている。『徳川実記』では家康の病状を「見る間に痩せていき、吐血と黒い便、腹にできた大きなシコリは、手で触って確認できるくらいだった」と記載があり、また、家康の侍医の片山宗哲という医師が残した書物には、「大権現様、御腹中に塊ありて、時々痛みたもう」と記されており、それらの症状から考えて、死因は“胃がん”だったという説が現在では主流である。

 また別の説では、家康は自分の腹の具合が悪い原因は寄生虫のサナダムシだと思いこみ、手製の虫下しを服用したため薬が合わずに死期を速めたという話もある。サナダムシの名称の由来は、真田紐に形状が似ていたことからそう名付けられたもので、真田紐とは、関ヶ原の戦いで西軍に与したため高野山に配流になった真田昌幸・信繁(幸村)父子が、生活の糧として生産した平らな紐のことで、各地で行商人が「真田の作った強い紐」と言って売り歩いたことから名付けられたといわれている。当時、徳川の天下が成立したものの地方の庶民にはまだまだ反徳川的風潮が根強く、最後まで徳川に苦汁をなめさせた真田を支持・美化する動きがあり、真田紐を一つの象徴とする様になったといわれている。そんな真田紐を語源としたサナダムシに最後まで家康が苦しめられていたとすれば、死してなお家康を苦しめた真田父子の執念・・・なんて考えたくもなるが、残念ながらサナダムシという名が付いたのは後世のことで、この当時はこの寄生虫のことを「寸白(すばく)」とよんでいたらしい。ひとつのエピソードとしては面白くはあるが。

 家康の病状を憂慮した徳川秀忠は、2月1日辰の刻(午前8時頃)に江戸を発ち、昼夜兼行して2日戌の刻(午後8時頃)に駿府に到着、父の病床を見舞った。この頃から、直参はもちろん諸大名や公卿衆など見舞い客が引きも切らさず、秀忠も毎日必ず病床を訪れたという。

「これからは徳川の世を継ぐことが、そなたの役目と心得よ。さすれば泰平の世は何代も続くであろう。それはそなた次第。秀忠にはそれが出来ると見込んだのじゃ。」
「父としてはどうなのですか。将軍としてではなく1人の子として私をどう見ておいでなのですか。」
「かわいいのよ。かわゆうてかわゆうてならぬゆえ、迷いもした。将軍とすることも、わしの世継ぎとすることも・・・。ようやく言えたがや・・・死ぬ前に。」
「私はこれまで父上が死んでくれればと何度も願いました。されど今、父上を失うのが恐ろしゅうございます。」
「いや、そなたはもう立派な将軍じゃ。」
「いえ、私もひとりの子として申しております。父上を失いたくないと。私もようやく言えました。」
「互いに不器用よのう。」
「親子ですゆえ。」

 かつては長男の松平信康を、織田信長の命令とはいえ切腹に追いやった家康だったが、自らの死期を悟った家康は、ドラマのように息子を愛する普通の老人となっていたかもしれない。偉大な父を持った息子にとっては、父親の存在とはときに目障りなもので、「父上が死んでくれればと何度も願った」といった秀忠の思いは、あながち的外れでもなかっただろう。実際の秀忠はドラマと違って、およそ父に刃向かうことなどなかった人物と伝わるが、それだけに、偉大すぎる父親の重圧に対する苦悩は、ドラマ以上だったように思える。豊臣家を滅ぼし徳川政権を磐石のものとし、すべてを整えてから逝った徳川家康。その見事すぎる父の最期に、息子・秀忠は何を思っただろうか。

 兎にも角にも、徳川家康は死んだ。19歳のときの桶狭間の戦いに始まり、死の前年の大坂夏の陣に至るまで半世紀余り、彼の生涯はほぼ“戦”だった。幼少期には2度の人質生活を耐えしのぎ、織豊時代を生き抜き、ついには天下人となり、戦国の世にピリオドを打ってこの世を去った。かれの人生そのものが戦国時代であり、まさにミスター戦国といってもいいだろう。長い日本史の中の、大きな大きなひとつの時代が終わった。

 辞世の句
 「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」
 「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」



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by sakanoueno-kumo | 2011-11-22 19:16 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(4) | Comments(0)  

江~姫たちの戦国~ 第44話「江戸城騒乱」

 豊臣秀頼と正室・千姫の間に子供はいなかったが、秀頼は側室・伊茶との間に一男一女をもうけていた。慶長13年(1608年)生まれの長男は名を国松といい(偶然か否か徳川秀忠お江の間に生まれた次男と同名で、歳も近いのでややこしい)、慶長14年(1609年)生まれの長女は、名を奈阿姫という(彼女は別の側室・小石の方の生んだ子という説も)。もっとも、この二人の存在は淀殿をはじめ、ごく一部の者しか知らされていなかったようで、正室の千姫も大坂冬の陣以前は二人の存在を知らなかったともいわれる。慶長8年(1603年)、数えの7歳で秀頼のもとに輿入れした千姫は国松が生まれたときでもまだ13歳。側室や子供の存在を知らされてなかったとしても、頷ける話である。

 といっても秀頼と千姫が形だけの夫婦だったわけでもなさそうで、子供が生まれなかっただけで、仲睦まじい夫婦だったといわれている。千姫が16歳のとき、秀頼が女性の黒髪を揃える儀式「鬢削(びんそぎ)」を千姫にしている姿を侍女が目撃した、という逸話も残されている。考えてみれば、秀頼は11歳から23歳、千姫は7歳から19歳までを二人で共に過ごしたわけで、その関係は夫婦というより幼馴染兄妹のようなもので、特に千姫にとっては徳川家で母・お江と共に過ごした日々よりはるかに長く、ほぼ人生の全てといってもいいほど。19歳の千姫にとっては、秀頼はかけがえのない存在だっただろう。

 そんな秀頼が大坂夏の陣自刃し、千姫は徳川方に救出されて生き延びることとなった。彼女自身が生きる道を望んだかどうかはわからないが、正室としてその最期を共にで出来なかったことに、きっと罪悪感を感じたことだろう。秀頼落命後、その長男・国松は徳川方に捕らえられ、市中引き回しのすえ斬首されたが(享年8歳)、長女の奈阿姫は千姫の懸命な助命嘆願が功を奏し、出家して子を残さないことを条件に生を許される。この当時、男子は父親のもの、女子は母親のものという考え方があった。父の正室のことを嫡母といい、秀頼の正室である千姫は奈阿姫の嫡母。その嫡母の千姫が母親代わりとなることを主張されれば、秀忠らも許さざるを得なかっただろうと想像する。当然、淀殿の孫で織田家浅井家の血を引く奈阿姫の助命は、お江も切望するところだったに違いない。

 その後、しばらくの間千姫と共に過ごした奈阿姫だったが、翌年に千姫が本多忠刻のもとに再び輿入れすると、彼女は相模鎌倉の東慶寺での修行生活に入り、天秀尼と名乗った。東慶寺は臨済宗の尼寺で、弘安8年(1285年)に覚山志道尼が開山した格式高い尼寺だった。そんな天秀尼と東慶寺に、その後も千姫は色々と庇護を加えたという。のちに天秀尼は第20世の住持(住職)となり、東慶寺の発展に功績を残す。東慶寺は離婚を希望する女性の駆込寺としても有名だが、千姫の庇護を受けていた天秀尼は江戸幕府と交渉しつつ、寺法の整備不幸な女性の保護に尽力した。しかし、出家した尼であるため生涯結婚することなく、正保2年(1645年)に37歳の若さで病没する。彼女の死によって、豊臣秀吉の直系は断絶した。長く母親がわりをつとめた千姫は、天秀尼病没の報に接して、きっと嘆き悲しんだことだろう。

 20歳で本多忠刻と再婚した千姫は、一男一女をもうけ束の間の幸せを取り戻したものの、千姫30歳のときに忠刻が病没して再び未亡人に。同じ年、実母であるお江も病没するなど不幸が続き、娘の勝姫と共に本多家を出て江戸城に入る。江戸にもどった千姫は落飾して天寿院と号し、弟の三代将軍徳川家光を陰から支えながら、70歳までの長い余生を竹橋の邸で静かに送った。

 織田家徳川家の血を引き、豊臣家と契りを結んだ戦国最期の姫君・千姫。その長い人生の最期を迎えたとき、半世紀以上前の秀頼との生活を顧みて何を思っただろうか。残念ながら彼女の心を後世に伝えるものは、何も残されていない。


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by sakanoueno-kumo | 2011-11-16 11:56 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(2) | Comments(0)  

江~姫たちの戦国~ 第43話「淀、散る」

 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、真田信繁(幸村)後藤基次(又兵衛)らの健闘が目立った豊臣方だったが、老獪な徳川家康は和睦の後に大坂城の堀をすべて埋め立ててしまう。家康は何がなんでも豊臣秀頼淀殿の命を奪い、豊臣家の息の根を止める考えだった。堀を失い、裸城となった大坂城にもはや防禦力は無いに等しく、幸村、基次らは慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では城外に打って出る作戦に転じた。しかし、頼みとしていた木村重成(長門守)、基次が相次いで討死を遂げ、秀頼、淀殿が籠もる大坂城に対する徳川方の包囲も日を追って厳重になっていった。

 5月6日夜、包囲をより厳重にした徳川方は7日、大坂城に向けて総攻撃を敢行した。大坂城の北側は淀川などの諸河があるため攻撃は困難、これを踏まえ、家康、そして徳川秀忠に率いられた徳川方は城の南側に兵力を集中させた。その陣容は、伊達政宗松平忠直井伊直孝藤堂高虎前田利常らが前面に展開し、その後方に家康、さらに秀忠というものであった。

 豊臣秀頼の正室である千姫が秀忠・お江夫妻の長女であることはいうまでもないが、上述した松平忠直の正室である勝姫は秀忠・お江夫妻の三女、さらに前田利常の正室である珠姫は秀忠・お江夫妻の次女である。江戸城で留守を預っていたお江にとっては、夫の秀忠や姉の淀殿のことはもちろん、娘や甥、娘婿たちの身の上の心配もしなければならなかった。ドラマではひたすら写経をしていたお江だったが、実際のお江も、きっと祈り続けていたことだろう。しかし、お江が心配するすべての者が幸せになる道など、あろうはずはなかった。

 城の南側に攻め寄せた徳川方が総攻撃を開始したのは、7日の正午ごろだった。豊臣方では真田信繁(幸村)、毛利勝永明石全登らが打って出て、獅子奮迅の活躍をする。なかでも、全登の援護を受けた幸村は家康の本陣へ肉薄し、家康を討死寸前にまで追い込んだというが、あと少しというところで家康を討ち漏らす。不運にも、幸村は疲労困憊しているところを忠直麾下の鉄砲頭に撃たれて討死を遂げた。この頃になると徳川方の組織だった攻撃は止んでおり、気がつけば大坂城は煙に包まれていた。やむなく、淀殿・秀頼母子と千姫は、大蔵卿局大野長治真田大助といったわずかな側近、侍女たちと共に、城内の山里曲輪の隅櫓に逃れた。

 千姫を大坂城から脱出させるという計画は、千姫の側近と寄せ手の徳川方との間で早い段階で合意が成立していた。しかし、落城ギリギリまで実行されなかったのは、「千姫が城内にいる限り、徳川方は総攻撃を仕掛けてこないに違いない。」と踏んで、淀殿が千姫を放さなかったからだという説もある。また、和睦交渉に際して千姫を持ち駒切り札として使おうと考えていたとも。このため、淀殿は千姫の身体をで縛り、自ら縄を握って放さなかったという逸話もある。それでも、千姫の側近である侍女・刑部卿局はあきらめず、千姫の脱出を画策。機転を利かした彼女は、「秀頼様が負傷されました!」と叫び、これに驚いた淀殿は縄を投げ出して息子の安否確認に走ったため、その一瞬の隙を衝く格好で、侍女に守られた千姫は大坂城を脱出した・・・という説も。ドラマとはずいぶんと違うエピソードだが、いずれにせよ、千姫が城外へ脱出したことにより、徳川方にしてみれば総攻撃を躊躇する理由がなくなったことは間違いない。大野治長は千姫の身柄と引き換えに秀頼の助命を嘆願したというが、豊臣家の息の根を止める決意をしていた家康がそれを受け入れるはずもなく、8日の正午ごろには直孝麾下の鉄砲隊による曲輪への一斉射撃が開始される。これを徳川方の返答だと知った淀殿と秀頼は、自らの命運が尽きたことを悟り、自刃して果てた。文禄2年(1593年)生まれの秀頼は享年23歳、淀殿は永禄12年(1569年)生まれという説にしたがえば、享年49歳だった。その場にいた大野治長や大蔵卿局、侍女ら二十数人も母子に追従、そのほぼ同時に、付近に置かれていた煙硝に炎が引火したため、山里曲輪は大炎上したという。

 家康がいつから豊臣家を滅ぼそうと思ったかはわからないが、慶長16年(1611年)の二条城の会見後あたりから豊臣家への挑発が露骨になり、おそらくその頃からその意思を固めていたと考えてよさそうである。家康は鎌倉時代の正史『吾妻鏡』を熟読していたといわれるが、そこに描かれる平清盛が、情に絆され肉欲に溺れ、源頼朝義経兄弟を助命したばかりに、後年になって平家はその兄弟に攻め滅ぼされたという事実を自身の立場に置き換え、徳川家の天下を永続させるためには、清盛の犯した失敗を決して繰り返してはならないと考えたのかもしれない。豊臣秀頼が若く聡明であったこと、豊臣家の一族、豊臣家恩顧の大名の中に、秀頼に忠誠を誓う者が今なお多いこと、秀頼が浪人の召抱えに躍起になっていること、豊臣の居城・大坂城が難攻不落の堅城であること、「天下は回り持ち」という風潮が巷にあること・・・などを鑑み、家康は慶長10年(1605年)に秀忠に将軍職を譲った上で、秀頼、そして生母の淀殿を攻め滅ぼすことに心血を注ぐようになった。お江が何度、淀殿・秀頼親子の助命嘆願を行ったとしても、家康はそれを受け入れることはなかっただろう。

 「はなもまた 君のためにとさきいでて 世にならびなき 春にあふらし」
 「あひおひの 松も桜も八千代へ 君がみゆきのけふをはじめに」
 「とてもないて 眺めにあかし深雪山 帰るさ惜しき 花の面影」


 豊臣秀吉が没する半年前の慶長3年(1598年)3月に行われた「醍醐の花見」の席で、淀殿が詠んだ歌である。歌の中に出てくる「君」は秀吉のことだと考えるのが一般的だが、秀頼のことだともとれなくもない。思えば波乱に満ちた彼女の人生の中で、秀頼の生母として秀吉の側にあったこの束の間の時間が最も幸せだった時期で、これ以前もこれ以後も、一刻として心休まるときはなかった。この歌には、そんな幸せな今を噛み締めながら、これからもこの幸せが続いて欲しいと願う思いと、この先を案ずる不安な思いとが入り交じっているようである。この歌から17年後に、彼女はその波乱の人生の幕を閉じた。それは同時に、戦国時代の終焉でもあった。


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by sakanoueno-kumo | 2011-11-07 17:00 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(4) | Comments(2)  

江~姫たちの戦国~ 第42話「大坂冬の陣」

 慶長19年に起こった方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川家と豊臣家は決裂、同じ年の11月、大坂冬の陣が勃発する。豊臣秀頼と生母・淀殿は、福島正則加藤嘉明など豊臣恩顧の大名に檄を飛ばしたが、大坂方に参じる大名はほとんどなく、集まったのは真田信繁(幸村)後藤基次(又兵衛)長宗我部盛親毛利勝永明石全登など、関ヶ原の戦いで改易された元大名や、同じく主家が西軍に与して改易されていた浪人たちばかりだった。浪人たちは士気旺盛ではあったものの、寄せ集めだったため統制が取りにくく、しかも大野治長や淀殿との対立も激しく、所詮は烏合の衆だった。

 そんな烏合の衆ではあったが、籠城戦では大坂城の防御力にもあって徳川軍は苦戦、城内に攻め入ろうにも撃退され、特に真田幸村が城の平野口に構築した出城・真田丸の戦いでは、徳川方が手酷い損害を受ける。ドラマにあったように、幸村は敵を石垣ギリギリまで引きつけておいて、頭上から一斉に銃撃を浴びせかけるという作戦で、徳川方に数千人の被害を与えたという。徳川秀忠が真田丸を攻めると言ったのも逸話にあるとおり。しかし、幸村の奮闘ぶりをみた家康は和議を考えはじめており、秀忠の進言は実行されることはなかった。やがて徳川軍は、大坂城内に心理的圧力をかけるべく、昼夜をとわず砲撃を加え、本丸まで飛来した一発の砲弾は淀殿の居室に着弾し、侍女の身体を粉砕し淀殿を震え上がらせたという。淀殿が和議を決心したのはこのためだとの説もある。

 慶長14年(1609年)に夫・京極高次と死別したお初は、剃髪・出家して常高院と号していた。京極家は関ヶ原の戦後、8万5千石の若狭小浜城主となっていたが、高次の死後に京極家を継いだ嫡男・京極忠高は、お初の子ではなく側室の産んだ子。そんな理由もあってか、高次の死後しばらくしてお初は、実姉・淀殿の居城・大坂城に移り住んでいたようである。そして、この大阪冬の陣の前後から、お初は豊臣方の使者として和睦交渉に当たっていた。

 いうまでもなく、合戦で戦うのは武士と武士男と男だが、合戦前後の降伏勧告、和睦交渉などの際には、武士以外の僧侶商人、あるいは武将の縁者侍女といった女性が駆り出されることも珍しくはなかった。おそらく、お初を使者に指名したのは徳川家康と淀殿の双方であったものと推測できるが、お初自身も相当乗り気だったのではないかと想像する。豊臣家の当主は豊臣秀頼だが、事実上実権を掌握していたのは淀殿だったともいわれ、徳川家と豊臣家の戦いは、いいかえれば家康と淀殿の戦いだった。その淀殿の実妹であり、徳川秀忠の正室・お江実姉であるというお初の立場は、「善意の第三者」として和睦交渉に当たるのにはもってこいの存在であり、きっと、お初自身もそのことを自覚していたに違いない。

 大阪冬の陣の火蓋が切って落とされてからほぼ1ヵ月が過ぎた慶長19年(1614年)12月18日と19日の二日間、徳川方に属していた京極忠高の陣所において和睦交渉が行われた。豊臣方の使者はお初、徳川方の使者は家康の側室・阿茶局(雲光院)だった。冬の陣のような、動員兵力が桁外れに大きな合戦の和睦交渉で、双方ともに女性が使者に指名されたという例は、おそらく日本史上で初めてのことだったに違いない。

 もっとも、家康は本気で豊臣方と和睦する気などは、さらさらなかった。豊臣方の真田信繁(幸村)、後藤基次(又兵衛)らが予想以上に手強かったため、とりあえず和睦交渉で時間を稼ぎ、機を捉えて城の堀をすべて埋めてしまおう・・・そんなふうに考えていたのだろう。この間、家康は淀殿に江戸に来るように・・・いいかえれば、家康の側室になるように・・・と、豊臣方に求めたという話もある。むろん、家康はそんなことが実現するなどとは思っておらず、淀殿を動揺させるための揺さぶりだったのだろう。そんな心理作戦もあってか、交渉2日目で双方は和睦に達した。その講和内容は、豊臣方の条件として、
 一、本丸を残して二の丸、三の丸を破却し、外堀を埋めること。
 一、淀殿を人質としない替わりに大野治長、織田有楽斎より人質を出すこと。

とあり、これに対して徳川方の条件は、
 一、秀頼の身の安全と本領の安堵。
 一、大坂城中諸士についての不問。

というもので、これを約すことで和議は成立した。この城の破却(城割)という条件は、古来より和睦条件において行われてきた方法だが、大抵の場合は堀の一部を埋めたり、土塁の角を崩すといった儀礼的なものだった。しかし、家康はこれを機に徹底的な破壊を実行する。和睦の条件として、城の破却と堀の埋め立ては二の丸が豊臣家、三の丸と外堀は徳川家の持ち分と決められていたにも関わらず、徳川方は20万の軍勢を使ってまたたく間にすべての堀を一斉に埋め立て、大坂城の防御力を一気に削いでしまった。このあたりの家康のやり口も、後世に“たぬき親父”の悪名を着せられる所以ともいえるだろう。方広寺鐘銘事件のときといい今回の和睦条件のことといい、まんまと家康の思惑にハマっていく豊臣秀頼と淀殿。所詮は海千山千の家康の敵ではなかった。

 「善意の第三者」として、この和睦交渉に尽力したお初は、その後のあまりの成り行きを見てきっと狼狽したことだろう。この出来事を契機として、淀殿とお初の信頼関係は一気に崩壊していったともいわれる。事実上、お江を敵にまわし、お初をも信頼できなくなった淀殿は、きっとどうしようもなく孤独だったに違いない。そして、このときから半年も経たない慶長20年(1615年)初夏、淀殿はその波乱の人生の幕を閉じることになる。


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by sakanoueno-kumo | 2011-10-31 01:43 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(3) | Comments(4)  

江~姫たちの戦国~ 第41話「姉妹激突!」

 二条城で対面した豊臣秀頼の成長ぶりを見て、豊臣家を滅ぼす意思を固めたといわれる徳川家康だったが、何の理由もなく攻めこむわけにもいかない。家康にしてみれば、豊臣家と事を構えるための大義名分が欲しかった。その格好の材料にされたのが、方広寺鐘銘事件である。

 秀頼と淀殿は、豊臣秀吉没後から秀吉の追善供養として畿内を中心に寺社の修復・造営を行った。主なもので東寺金堂・延暦寺横川中堂・熱田神宮・石清水八幡宮・北野天満宮・鞍馬寺毘沙門堂など、85件にものぼった。この事業は家康が勧めたといわれ、その目的は、豊臣家の財力を削ごうという思惑があったといわれる。しかし、逆に豊臣家にしてみれば、今なお、秀吉の時代に劣らぬ力があるということを、世間に知らしめる目的があったともいわれ、家康の勧めとは関係なく、淀殿と秀頼はこの事業を熱心に進めた。

 そんな寺社復興事業の中に、かつて秀吉が建立し、地震で倒れたままになっていた東山方広寺の大仏殿の再建があった。そして慶長19年(1614年)、その修営もほぼ終わり、梵鐘の銘が入れられた7月になって突然、大仏開眼供養を中止するよう家康から申し入れがあった。その理由は、鐘の銘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」という8文字。この言葉は、「国家が安泰で、主君と家臣が共に楽しめますように」といった意味の言葉だったが、家康がいうには、「国家安康」という句は家康の名を切ったものだとし、「君臣豊楽、子孫殷昌」は豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむと解釈、徳川を呪詛して豊臣の繁栄を願うものだと激怒した。

 これはおそらく言いがかりであり、家康が豊臣家から戦を起こさせるために仕組んだ挑発とみていいだろう。この策を仕組んだのは、本多正純以心崇伝といった家康の側近たちだったとされる。この言いがかりに、当然、淀殿は激怒した。事態を重く見た豊臣家の家老・片桐且元は、家康への弁明のために駿府へ向かった。しかし、且元は家康に会うこともできず、ようやく会うことのできた本多正純金地院崇伝といった家康の側近から、「淀殿を人質として江戸へ送るか、秀頼が江戸に参勤するか、大坂城を出て他国に移るか、このうちのどれかを選ぶように」との内意を受けた。且元は即答を避け、大坂への帰路に就いた。

 だが、且元の帰城と前後して、なかなか帰らない且元に業を煮やした淀殿は、側近の大野治長の生母であり淀殿の乳母でもある大蔵卿局を、第2の使者として家康のもとに送った。大蔵卿局が駿府に到着すると、家康は且元の時とは態度を180度変え、機嫌よく彼女と面会し、「秀頼は孫の千姫の婿でもあり、いささかの害心もない。家臣たちが勝手に鐘銘の件で騒いで難儀している」と話したという。それを聞いた大蔵卿局は、狂喜して大坂城へ帰った。淀殿は直接家康に会った彼女の報告を信じ、且元の持ち帰った3ヶ条を信用しないばかりか、「且元が家康と示し合わせて豊臣を陥れようとするものに違いない」と疑った。且元は、戦を避けるために家康に従うよう懸命に説いたが受け入れられず、やがて淀殿の信頼を失った彼は、大坂城を退去するに至る。同時に、且元と同じく非戦論を主張していた者たちも大坂城を追われ、秀頼と淀殿のもとに残ったは、大野治長をはじめとする主戦派の者たちばかりとなった。しかし、これこそが家康の仕掛けた策謀だった。事はすべて、豊臣氏討伐のために描いた家康の筋書き通りに運んでいた。

 というのが通説のストーリーで、ドラマもほぼ通説に沿って描かれていた。だが、本当に方広寺鐘銘事件が家康の仕組んだ言いがかりだったのかはわからない。もしかしたら、本当に家康のいうような理由が、豊臣側にもあったのかもしれない。ただ、事件後も鐘がそのままになっていることから考えると、家康はこの8文字を本当に呪詛の文字だとは考えていなかったとも思われ、やはり通説どおり後付の言いがかりだったと見ていいのかもしれない。片桐且元と大蔵卿局の件にしても、豊臣家中を混乱させるために別々の回答を与えたというの一般的な見方で、家康が後世に狸親父と評される代表的な逸話だが、これももしかしたら、淀殿の疑いのとおり且元が家康と内通していた可能性だって否定できない。結果を知っている後世の私たちは、結果から逆算して最もドラマティックな筋書きを信じそうになるが、史実は意外と単純なものだったりするものである。

 理由はどうあれ、片桐且元はこののちの大阪の陣で徳川方に従軍し、大坂城を攻めることになる。すべてが終わって焼け落ちた大坂城を目の前に、且元は何を思っただろう。その日から20日ほどのち、且元は突如の死を遂げている。享年59歳。この死は病死説もあれば、自責の念からの自決であったともいわれ、これも確かなことはわかっていない。ただ言えることは、且元の寝返りがあろうがなかろうが、もはやこの時点での豊臣家は、牙を剥き出した家康の敵ではなかったということである。


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by sakanoueno-kumo | 2011-10-24 02:24 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(3) | Comments(2)  

江~姫たちの戦国~ 第40話「親の心」

 徳川秀忠・お江夫妻の長男である竹千代こと徳川家光は慶長9年(1604年)生まれ、次男の国松こと徳川忠長は、慶長11年(1606年)生まれの2歳違いの兄弟で、お江にとっては32歳、34歳での出産だった。文禄4年(1595年)に秀忠のもとへ輿入れしてから、長女・千姫、次女・珠姫、三女・勝姫、に四女・初姫と、なかなか男子に恵まれなかったお江にとっては、家光は9年目にして授かった待望の男子だったはずであり、大切な後継ぎとなるはずであった。

 ところが、どういうわけかお江夫妻は、長男の家光よりも次男の忠長を可愛がったという逸話が残っている。江戸幕府の正史である『徳川実紀』の付録巻一には、
「御弟国千代の方は御幼稚並にこえて、聡敏にわたらせ給へば、御母君、崇源院殿にはこと更御錘愈ありて・・・」
などと記されている。国千代とは国松のことで、崇源院とはお江の法名、これによれば、お江は次男の忠長が幼少時から聡明であったため、ことさら溺愛したというのである。一方で、上記の分の少し後には、幼少時代の家光に関して、
「公御幼稚の頃はいと小心におはして、温和のみ見え給ひしが・・・」
と記されている。家光は幼少の頃は小心で温和だけが取り柄であったため、秀忠・お江夫妻は家光に期待しなかったのだろうか。とくに、二度の落城と三度の結婚を経験し、戦国の動乱期を生き抜いてきたお江にとっては、後継者の大切さは秀忠以上に知り抜いていたかもしれず、幼少時から聡明であった忠長に期待したのは当然のことだったのかもしれない。

 また、上記引用文の少し前には、秀忠の父、家光の内祖父である徳川家康が家光を可愛がり、家光も家康に懐いていたという意味の記述がある。あるいは、お江、さらに秀忠は、家康への対抗心から家光ではなく、忠長を溺愛したのかもしれない。やがて、その空気を察した大名・旗本たちが、相次いで忠長に接近するようになったという。竹千代こと幼い家光は、弟が父母の愛情を一身に受けていることに、心を打ちひしがれたに違いない。そんなこともあってか、乳母であるお福こと春日局を、父母以上に慕った。

 ドラマで、春日局が家光を後継ぎに裁定するよう家康に直訴するシーンがあったが、この話は家光死後の貞享3年(1686年)に成立した『春日局略譜』に記されている逸話である。これによれば、秀忠・お江夫妻が忠長を後継者に考えていると察した大名、旗本がこぞって忠長に接近しようとしていた中、幕閣・永井直清だけは家光に忠勤を励んでおり、まずはその父・永井直勝に相談して事態の打開を図ろうとした。ところが、直勝に事態の静観を主張され、思い余った春日局は、すぐさま伊勢神宮へ参詣すると称して西へ向かい、駿河駿府城にいた家康のもとへ駆け込み、秀忠・お江夫妻の動向を伝えて家光の世子としての地位を確認して欲しいと訴えた、と伝わる。

 この春日局の直訴が効いたのかどうか、その後しばらくして、家康の裁定によって世継ぎは家光に確定する。理由は、「嫡子である竹千代を廃し、次男の国松を立てるのは、天下の乱れの原因となる」とのこと。この時代の後継ぎは、必ずしも長男が継ぐとは決まっておらず、ましてや戦国動乱の最中は、有能な主君でなければ家臣が着いてこず、実力で後継者を決めるのが当然であった。ところが家康は、竹千代と国松の後継者争いを長幼の序という形でけりをつけた。これは、戦国動乱の時代の終わりを告げると共に、こののちお家騒動が生じないための策だったとも言われる。ただ、それもこれも、家光より忠長のほうが聡明だったという伝承が正しかったとしてのことではあるが・・・。

 家光を後継ぎに決めるに際して、家康はわざわざお江に書状を送って諭している。この書状は、家光の忠長に対する嫡男としての優位性は絶対であることを、きつく戒めるものだったという。興味深いのは、この訓戒状が秀忠宛てではなくお江宛てであったこと。このことから想像するに、忠長に固執していたのはお江のほうで、秀忠は姉さん女房のお江に追従するかたちで忠長に期待していたのだろう。こんな逸話が残っていることからも、お江はかなり豪胆な一面を持った女性であったことがわかり、秀忠が尻に敷かれていたという説が伝わるのも、無理からぬことである。

病に倒れた大姥局と、見舞いに来た家康とお会話。
大姥局 「若様と一度ゆっくりと話し合われて下さいませ。」
家康  「あやつは、わしに心を開かぬでな・・・。」
大姥局 「それは若様おひとりのせいだと・・・? 大殿様の御心が引いているゆえ、若様がお心を開かれぬのです。親に打ち消されるとわかっていて尚、心を開いて話す子がおりましょうや・・・。」
 この大姥局の台詞は、息子を持つ父親としては身につまされた。たしかにその通りである。親は、当然ながら息子より長く生きており、その分経験も豊富で、答えを知っている。だから、ついつい答え合わせの計算式を息子に求めようとし、違う方法で答えを探そうとする息子に、自分の知っている計算式を教えようとしてしまう。しかし、それは息子の思考を打ち消している行為であり、親の意見が正しければ正しいほど、息子は自分の考えを話さなくなり、自分の思考を持たなくなるかもしれない。そんなことを考えさせられた台詞だった。どんなに愚論であっても、まずは耳を傾ける。そして、決して否定はしない。これ、父子関係のみならず、上司と部下の関係にも言えるかもしれない。


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by sakanoueno-kumo | 2011-10-17 03:21 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(3) | Comments(2)  

江~姫たちの戦国~ 第39話「運命の対面」

 徳川秀忠に将軍職を譲った徳川家康は、新首都となる江戸城とその城下町の設計に取り掛かっていた。広大な首府となる江戸の町の地盤を固めるために、家康は前田利長・伊達政宗・加藤清正・結城秀康・松平忠吉・本多忠勝らに命じて神田山を切り崩し、豊島の洲を埋め立てさせた。慶長9年(1604年)8月からは江戸城普請のための石垣工事が始まり、築城の名人とされた藤堂高虎に基本設計を任せ、福島正則・加藤清正・池田輝政・黒田長政・細川忠利といった、遠国に住む豊臣恩顧の大名までもが動員された。家康自身は駿府に移り住むことを決めており、この築城はまぎれもなく二代将軍となった秀忠のためであり、その築城に豊臣恩顧の大名を動員することで、豊臣時代の終焉徳川時代の到来を天下に公言するものでもあった。歴史は着々と、家康の描いたとおりに動き始めていた。

 家康が最初に豊臣秀頼へ上洛要請をしたのは、慶長10年(1605年)5月のことで、秀忠が伏見城で将軍宣下を受けた翌月だった。ドラマにあったように、家康は高台院(おね)を介在して大坂城に居城する秀頼に対し、秀忠の将軍就任を祝うために上洛せよと呼びかけるも、これに激昂した淀殿が、「上洛を強制するならば秀頼と共に自害する。」といって頑なに拒絶したのもドラマにあったとおり。大坂城で秀頼を補佐する淀殿は、徳川家の権力が強大化して実質的な天下の覇者となっても、あくまで徳川家を豊臣家の家臣と見なす見方を変えなかった。いや、変えたくなかったという見方が正しいだろう。このあたりの淀殿に、もしもっと柔軟な思考があったならば、のちの彼女と秀頼の運命も変わっていたかもしれない。

 家康の秀頼に対する二度目の上洛要請は、慶長16年(1611年)3月、後水尾天皇の即位に立ちあうため、駿府城から家康が上洛した際であった。このときも6年前と同じく淀殿は、「主家である秀頼を京に呼びつけるとは何事か。家康のほうこそ大坂に下ってくるのが道理であろう。」と激昂したが、天下の軍事の形勢は完全に徳川に傾いており、秀吉恩顧の加藤清正浅野幸長の懸命な諫言もあって、やむなく秀頼の上洛を同意する。このとき、豊臣秀頼19歳。6年前の上洛要請時と比べれば随分と大人になっており、ドラマのように、自分の意志で上洛を決意したのかもしれない。このときまで、一歩も大坂城の外に出たことがなかったと言われる秀頼だが、これが彼にとっての親離れの瞬間だったといってもいいかもしれない。一方、淀殿は、最後まで子離れができなかった・・・ということだろうか・・・。いってみれば、モンスターペアレントの元祖とでもいうか・・・。

 秀頼の上洛は、「妻の千姫の祖父に挨拶する」という名目で実現した。会見場所は京都二条城。道中は、加藤清正浅野幸長らの厳重な警護のもとに行われ、更には、片桐且元・片桐貞隆・織田有楽・大野治長などの重臣が連れ添った。ドラマでは、家康が上座に着いていたが、これについては物語によって様々である。形式的には、まだ豊臣の家臣である家康が上座に着くのはおかしい、といった見方もあるが、正妻の祖父に挨拶するという名目である以上、家康が上座でも格好がつくともいえる。いずれにせよ、家康の呼び出しに秀頼が答えたかたちには違いなく、公式に豊臣家が徳川家の家臣になったわけではないが、事実上そう解釈した諸大名は多かったであろう。すべては家康の思惑どおりだった。

 しかし、当の家康自身は、この会見で豊臣秀頼という人物の成長ぶりを目の当たりにし、逆に恐怖を覚えたという。秀頼は身の丈6尺5寸(約197cm)の並外れた巨漢であったとされ、それでいて思慮分別に長け、老成人の風格を備えた人物であったと伝わる。家康はこの会見で、秀頼に落ち度があった場合はそれに難癖をつけ、豊臣家を弱体化させる口実にしようと考えていたと言われるが、家康の前に現れた秀頼は、そんな家康を驚かせるほどの立派な若者に成長していたのである。一説には、家康はこのとき秀頼からかもし出されるカリスマ性に恐怖を覚え、豊臣家を滅ぼすことを決意したとも伝わる。真意がどうだったかはわからないが、実質これ以後、家康の豊臣家討伐の姿勢が露骨になっていったのは事実であり、案外、的外れでもないように思う。身の丈6尺5寸は大袈裟としても、家康が恐怖する何かを、秀頼は持っていたのだろう。逆に秀頼がそれほど聡明な人物だったとすれば、このときの家康の心中を察したかもしれない。しかし、いくら秀頼がカリスマ性に富んだ偉丈夫であったとしても、海千山千の家康にまともに対峙してかなうはずもなく、ただ1点、家康に勝てる部分があるとしたら、残された寿命だけであった。

家康 「しかし、母君がよう出されたものじゃな・・・。」
秀頼 「私が望みました。」
家康 「ほう、なにゆえ来ようと?」
秀頼 「・・・詫びを・・・言いたいと・・・。」
家康 「・・・詫び?」
秀頼 「かつては、亡き父、太閤殿下に服従を強いられ、さらには国替えをされ、江戸に追いやられ、積もり積もった恨みもおありでしょう。それでもなお、豊臣のために働いてくださること、ありがたく存じまする。これからも徳川殿と共に・・・徳川殿と共に、泰平の世を築くこと、共に考えてまいりたいと思います。よろしく頼みまする。」

 この会見時の徳川家康、御年70歳。自分の目の黒いうちに、コイツ(秀頼)をなんとかしなければ・・・きっと、そう思ったに違いない。健康には人一倍気を使っていた家康といえども、そう長くは生きられないことは自覚していたはず。大坂冬の陣が起きるのは、この会見から3年後のことである。



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by sakanoueno-kumo | 2011-10-11 00:50 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(2) | Comments(0)  

江~姫たちの戦国~ 第38話「最強の乳母」

 慶長9年(1604年)7月17日、徳川秀忠・お江夫妻に待望の男子が生まれた。父、祖父と同じ竹千代という幼名を付けられたこの長男こそ、のちの第三代将軍・徳川家光である。当時、武家では子女が生まれると老練な家臣の中から傅役(養育係)が、出産や育児の経験のある女性の中から乳母が任命された。竹千代こと家光の場合、傅役には青山忠俊酒井忠利内藤清次らが、そして乳母にはお福こと、のちの春日局が選ばれた。忠俊らはいずれも譜代の旗本だったため、傅役への登用は順当な人事といったところだろう。

 一方、世間の耳目を集めたのは、乳母の人事だった。選ばれた春日局は譜代の大名や旗本の出ではなく、父は斎藤利三で、稲葉正成と結婚、離婚をした経験を持っていた。父の斎藤利三は明智光秀の重臣で、山崎の戦いに敗走したのち捕縛され、羽柴秀吉の命によって処刑された。元夫の稲葉正成は備前岡山藩主であった小早川秀秋の元家老で、関ヶ原の戦いの際には徳川家康と内通し、秀秋を東軍に寝返らせた張本人だったと伝わる。しかし、戦後は秀秋と対立して蟄居、そして慶長7年(1602年)に秀秋が死去して小早川家が断絶すると浪人となる。そして、妻が徳川家の乳母に採用されたことをきっかけに離縁したと伝わる。

 春日局が乳母に抜擢された経緯は諸説ある。よく物語などで使われる説は、江戸幕府が京都市中に立てた乳母募集の高札をみて、春日局が乳母に応募したという説。この説によると、春日の局は自ら乳母に応募し、江戸幕府の京都所司代・板倉勝重に採用されたとされる。また、別の説では、春日局は絵師の海北友松、あるいは家康の側室のお亀の方(相応院)の推薦で、乳母に採用されたという説もある。海北友松は父・斎藤利三の親友だった人物で、山崎の戦いの後、利三の首が京都の六条河原に晒された際、夜陰に乗じて首を奪って手厚く葬った、という逸話を持つ人物である。また、友松はその後も困窮していた春日局らに、援助の手を差し伸べたとも伝わる。ドラマでのお福が、「浅井家縁の者に助けられた。」と言っていたのは、おそらくこの友松のことであろう。絵師として知られる友松だが、元は浅井家の家臣であった。そんな友松が、浅井家の三女であるお江に直接、春日局を推薦したというのは考えづらいが、友松が秀忠の元小姓で詩人の石川丈山あたりを介して、彼女を秀忠もしくは板倉勝重に推薦した可能性は否定できない。いずれにせよ、そういった出自経歴の持ち主である春日局が、秀忠の正子の乳母に抜擢されたのは、多くの人々の推薦を得たからに他ならないであろう。

 慶長8年(1603年)2月に征夷大将軍の職に任ぜられた徳川家康であったが、在職わずか2年で秀忠に将軍職を譲ってしまう。天文11年(1542年)生まれの家康は、この当時63歳という高齢となっていたが、しかし自ら薬を調合するなど健康には人一倍注意を払っていたため、特に健康上の問題があったというわけではなかった。にもかかわらず、家康が在職2年で将軍職を退いた理由は、多くの物語などで描かれているように、将軍職を秀忠に世襲したことで、引き続き徳川家が天下人の座に君臨し続けることと、「天下の大権」を大坂城にいる豊臣秀頼に渡す意志が全くないことを、天下に公言するためだったと考えて間違いないであろう。

 関ヶ原の戦いに勝って江戸幕府を開いた時点で、すでに天下人の座は事実上、家康の手に移っており、なにもそこまで豊臣家を警戒する必要はなかったのでは・・・と、結果を知っている後世の私たちは思いがちだが、当時の家康にとっては、決して徳川幕府の行く末は安泰とは思っていなかった。諸国には福島正則加藤清正のような豊臣家の一族の大名が残っており、前田利長山内一豊のような豊臣家恩顧の大名も数多く存在する。そんな大名たちの中には、豊臣秀頼に期待する者が多く、なかには、「秀頼公が成長すれば、家康公は『天下の大権』を返上するに違いない!」と勝手に思い込んでいる者も少なくなかった。ドラマにもあったように、豊国祭での民衆の熱狂ぶりは大変なものだったようで、大坂では未だ衰えをみせない豊臣人気を目の当たりにして、家康の豊臣家に対する警戒心は更に強まったことであろう。同時に、豊国祭の盛況を見た淀殿が、豊臣政権の復活を民衆は待望していると錯覚したのも、無理からぬことであった。

 家康は将軍職を退いたものの、隠居生活に入ったわけではなく、全将軍=大御所として駿河駿府城へ移住し、ここに駿府政権を樹立して引き続き江戸幕府の基礎固め当たった。二代目将軍・徳川秀忠は江戸城に留まり、ここに駿府と江戸との二重政権が発足する。この家康の行動が大坂城の淀殿に与えた動揺は察するに余りあるが、このときのお江の心中はどんなものだったのか・・・知りたいところである。


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by sakanoueno-kumo | 2011-10-03 01:58 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(1) | Comments(0)