カテゴリ:神戸の史跡・観光( 33 )

 

神戸の古墳めぐり その5 ~大歳山遺跡公園・舞子古墳群~

明石海峡を望む神戸市垂水区西舞子の標高30mの丘陵地に、大歳山遺跡公園があります。

ここは、「明石原人」の発見者として著名な考古学者の故・直良信夫博士によって、大正末年から昭和初期にかけて発掘調査された遺跡です。

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この丘陵地に、「大歳山2号墳」と名付けられた全長37m前方後円墳があります。

調査によると、古墳時代後期(6世紀頃)に造られたと考えられているそうで、古墳の上や周辺からは、須恵器の坏、高坏、瓷などが出土しているそうです。
向こうに見えるのは、明石海峡大橋です。

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「2号墳」というくらいですから、当然、「1号墳」も存在したようですが、いまは住宅開発に埋もれてしまい、詳細は不明です。

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この周辺からは、縄文時代弥生時代土器などがたくさん発掘され、近畿地方で有数の遺跡として知られていましたが、昭和40年代の宅地造成により、消滅の危機に瀕しました。

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しかし、遺跡を守ろうとする多くの人々の努力もあって、弥生時代後期の集落と「大歳山2号墳」を含む遺跡の中心部、約8,000㎡を神戸市が買い取り、昭和49年(1974年)に遺跡公園として開園しました。

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公園内には、発掘調査で出土した竪穴式住居が復元されています。

「大歳山2号墳」の後円上から望む明石海峡大橋です。

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このような見晴らしのいい丘陵地に葬られた人物ですから、さぞかし身分の高い人だったのでしょう。

まさか、ここに世界一の吊橋が出来るなんて、古代人もビックリでしょうね。

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ここから1kmほど東に舞子墓苑という墓地があるのですが、そこにも、舞子古墳群と称される10数基の古墳が点在しています。

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かつては100基前後の古墳が存在したのだとか。

1500年近く経ったいまでも、墓地は墓地なんですね。

いにしえの歴史を感じます。

神戸の古墳は他にもまだあります。

気が向いたときに、また続きやります。



神戸の古墳めぐり その1 ~五色塚古墳と小壺古墳~
神戸の古墳めぐり その2 ~吉田王塚古墳~
神戸の古墳めぐり その3 ~狩口台きつね塚古墳~
神戸の古墳めぐり その4 ~処女塚古墳・西求女塚古墳・東求女塚古墳~


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by sakanoueno-kumo | 2016-04-08 11:14 | 神戸の史跡・観光 | Comments(2)  

神戸の古墳めぐり その4 ~処女塚古墳・西求女塚古墳・東求女塚古墳~

神戸市東灘区御影町に、処女塚(おとめづか)古墳という全長約70m前方後方墳があるのですが、その処女塚を中心に東西約2kmの位置に、東求女塚西求女塚と呼ばれる古墳があります。

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その名称から連想されるように、この3つの古墳には、男女の三角関係の悲恋話が古くから伝わります。

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太古の昔、現在の神戸市東部から芦屋市にかけて、大阪湾沿岸の湿地に茂る芦を屋根にふいて葦屋(あしのや)と呼ばれていたそうですが、伝承によれば、その葦屋に菟原処女(うないおとめ)という可憐な娘がいて、多くの若者が思いを寄せていたといいます。

なかでも、同じ里に住む菟原壮士(うないおとこ)と、和泉国から来た茅渟壮士(ちぬおとこ)という二人の男が彼女を深く愛し、激しく争うことになりました。

これに心を傷めた処女は身を処しかね、嘆きつつ自ら命を絶ってしまいます。

処女の死を知った壮士たちは深く悲しみ、二人とも後を追いました。

親族たちは、このことを長く語り継ごうと、処女の墓を中央に、壮士たちの墓を両側に作ったと伝えられます。

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この『菟原処女の伝説』は、古くは『万葉集』にも歌が残されており、奈良時代から語り継がれてきたそうです。

しかし、発掘調査によると、実際には築造時期がそれぞれ異なっているそうで、事実とは考えられないようですね。

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処女塚古墳には、もうひとつの伝承があります。

建武3年(1336年)に起きた「湊川の戦い」で、敗れた新田義貞が敗走の途中この地に立ち寄り、処女塚に登って敵を防いだといいます。

このとき義貞に従っていた小山田高家という武将は、自身の馬に義貞を乗せて逃し、身代わりとなって討死したと伝わります。

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処女塚古墳の片隅には、弘化3年(1846年)に建てられたと伝わる小山田高家の石碑があります。

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上の写真は、東求女塚古墳

『菟原処女の伝説』で言うところの茅渟壮士の墓です。

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現在は公園になっていて、塚の原型は留めず石碑だけが建てられています。

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そして、こちらは西求女塚古墳

『菟原処女の伝説』で言うところの菟原壮士の墓です。

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こちらも公園となっているのですが、こっちの方は、全長約95m前方後方墳の形が復元されています。

発掘調査によると、卑弥呼の鏡と言われる三角縁神獣鏡をはじめ、たくさんの埋葬品が出土したそうで、ヤマト朝廷と深く関わりを持った豪族の墓と考えられているそうです。

築造時期は3世紀後半で、神戸市内では最も古い古墳だそうです。

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(『摂津名所図会』より。生田川に浮かぶ水鳥を射んとする2人の男と見守る菟原処女)

いまは、ビルなどの建物に隠れてそれぞれの古墳は見渡せませんが、当時は、きっと処女塚を中心に東西に古墳が見渡せて、こんな伝承が生まれたのでしょう。



神戸の古墳めぐり その1 ~五色塚古墳と小壺古墳~
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by sakanoueno-kumo | 2016-04-06 21:45 | 神戸の史跡・観光 | Comments(0)  

桜に彩られた大楠公像と、鞍上を失った騎馬像。

昨日から4月、ですね。

今日の神戸は初夏のような暖かさで、2~3日前から一気にの木がピンクに染まり始めました。

まだ七分咲きといったところですが、今日は天気が良かったのと、明日からはしばらく忙しくて桜を観る余裕がなさそうということもあり、カメラを持って桜見物です。

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今日訪れたのは、神戸市兵庫区にある湊川公園

ここには、巨大な楠木正成銅像があります。

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というのも、いまから700年近く前の建武3年(1336年)5月25日に起きた「湊川の戦い」において、楠木正成軍と足利尊氏の弟・足利直義の軍が激突したのが、ちょうどこのあたりだったといいます。

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楠木正成というと、戦前の皇国史観における忠臣の象徴のようなイメージの人物ですが、神戸では、この近くにある正成を祀った湊川神社も含めて「楠公さん」と親しみを込めて呼ばれています。

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桜に立ち向かう楠公さん。

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桜を飛び越える楠公さん(笑)。

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青空にピンクがよく映えます。

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公園内には、馬の銅像があるのですが、実はこの馬の像、以前は聖徳太子が乗っていたのですが、平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災で太子が落馬し、いまは馬だけになっています。

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なぜ神戸に聖徳太子像かというと、太子が法隆寺を建立した際、このあたり一帯も法隆寺の寺領だったそうで、明治以降の学校教育で聖徳太子の人気が高まると、神戸でも太子信仰が広まったからだそうです。

で、大正10年(1921年)にこの地に像が建てられたそうですが、70余年後に落馬、胴が真っ二つになったそうです。

隣の大楠公像の馬と違って、こちらの馬は、なんか寂しそう・・・。

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現在、休日を利用して『太平記』ゆかりの地の史跡めぐりをしており、その関連もあってここを訪れました。

そのうちシリーズをレポートしたいと思っています。

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たぶん、明日か明後日には満開でしょうね。

この感じでは、入学式の頃には散っちゃってそうですね。

新入学生を持つ親御さんにはお気の毒なことです。



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by sakanoueno-kumo | 2016-04-02 19:20 | 神戸の史跡・観光 | Comments(2)  

神戸の古墳めぐり その3 ~狩口台きつね塚古墳~

明石海峡を間近に望む小高い段丘上に、狩口台きつね塚古墳があります。

この一帯には、古墳時代末期の小型古墳が10数基あったそうですが、現在は、このきつね塚古墳だけが残されています。

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きつね塚古墳は6世紀前半につくられたと考えられており、周りにが二重にめぐらされている作りは、この時代の古墳としてはあまり例がないそうです。

墳丘は2段の斜面でできており、すべて盛り土でつくられています。

円墳の直径は26mで濠の直径は56mにもなります。

円墳としては、結構大きめのものだそうです。

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古墳中央には、花崗岩の巨石で築かれた神戸市内最大の両袖式の横穴式石室があるそうです。

その全長は9.5mで、内部には凝灰質砂岩製の家形石棺が納められていたそうです。

しかし、盗堀で破壊され、副葬品は金銅装馬具須恵器が残るのみだったとか。

出土品から、この古墳は6世紀前半に最初の埋葬が行われ、7世紀初頭に追葬が行われたことがわかったそうです。

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実はわたし、いまから40年近く前に、発掘調査中のこの古墳の石室に入らせてもらったことがあります。

昭和53年(1978年)だったと思いますが、当時小学校6年生だったわたしは、夏休みの自由研究で古墳めぐりをしていたところ、たまたま発掘調査中のこの古墳を訪れました。

カメラを持ったわたしを見つけた調査員の方が、わたしを石室の中に入れてくれました。

当時は、緩かったのでしょうね。

で、その写真を貼った自由研究は、みごと入選し、表彰状をいただいた思い出があります。

それから30余年、同じく小学校6年生の娘の自由研究につきあったときの記録が、この稿の写真です。

親子二代のきつね塚古墳探索です。
(説明板が傷んでます。作り直してください。)
     ↓↓↓

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この古墳に埋葬されている人物はわかりませんが、同時期の周辺の古墳とは様相が異なることから、かなり有力な被葬者ではないかと考えられているそうです。



神戸の古墳めぐり その1 ~五色塚古墳と小壺古墳~
神戸の古墳めぐり その2 ~吉田王塚古墳~
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by sakanoueno-kumo | 2016-03-30 21:34 | 神戸の史跡・観光 | Comments(0)  

神戸の古墳めぐり その2 ~吉田王塚古墳~

「その1」から2年以上あいてしまいましたが、シリーズ「その2」は、神戸市西区にある吉田王塚古墳です。

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このあたりの住所は「王塚台」といいますが、おそらくこの古墳からとったものでしょう。

場所は神戸市の最西端に位置し、明石市との境界近くにあたります。

いまは住宅地となっていますが、明石川右岸の段丘上に造られた前方後円墳で、全長74m、後円部の直径は44m、前方部前端幅は42mと、明石平野では最も大きく、この付近でも、その1で紹介した五色塚古墳の次に大きな古墳です。
下の画像はGoogleアースより。

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周りはがめぐらされ、中には入れません。

濠の外周には遊歩道があり、公園施設になっています。

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吉田王塚古墳は、日本書紀の記述にある、推古11年(603年)に用明天皇(第31代天皇)の第三皇子・当麻皇子が朝鮮半島に出兵した際、明石の地で亡くなった舎人姫王の墓であるとして、宮内庁が管理しています。
舎人姫王は欽明天皇(第29代天皇)の皇女で、日本初の女帝・推古天皇(第33代天皇)の妹にあたります。

夫の当麻皇子は、あの聖徳太子のすぐ下の弟ですね。

当麻皇子は征新羅将軍を任命され、難波から船で朝鮮半島に向けて出発しましたが、播磨国の明石で妻である舎人皇女が薨去したことから、皇女を明石に葬ったのち、引き返したといいます。

その場所が、この吉田王塚古墳だと考えられてきました。

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ところが、平成12年(2000年)に行われた宮内庁の発掘調査によると、出土した円筒埴輪壷形埴輪、朝顔形埴輪、盾形埴輪などから、5世紀の前半に造られたことがわかったそうです。

舎人皇女の時代から、150年以上も前のことになりますね。

たしかに、6世紀になるとこのような大型の前方後円墳は造られなくなったと考えられていますから、舎人皇女の陵墓という説は、たしかに無理があるのかもしれません。

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現在では、舎人皇女の陵墓と指定せず、陵墓参考地として宮内庁が管理しています。

そんなこんなで、「その3」につづきます。

神戸の古墳めぐり その1 ~五色塚古墳と小壺古墳~
神戸の古墳めぐり その3 ~狩口台きつね塚古墳~
神戸の古墳めぐり その4 ~処女塚古墳・西求女塚古墳・東求女塚古墳~
神戸の古墳めぐり その5 ~大歳山遺跡公園・舞子古墳群~



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by sakanoueno-kumo | 2016-03-25 02:10 | 神戸の史跡・観光 | Comments(0)  

20年ぶりに『神戸ルミナリエ』に行っていました。

先日、20年ぶりに『神戸ルミナリエ』に行ってきました。
『神戸ルミナリエ』は、阪神・淡路大震災犠牲者の鎮魂の意を込めて行われている光の祭典で、大震災の起きた平成7年(1995年)12月から20年間絶えることなく続けられ、今年で21回目を迎えます。
いまでは全国各地で似たようなことが行われているようですが、はじまりは神戸からです。

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20年ぶりということは、震災の年の第1回以来ということになります。
あのときは、たしかに震災から1年足らずの時期で、先の見えない復興に不安を抱く神戸市民の心を、久々に明るく照らしてくれた希望の光に感じました。
あれから20年、神戸市民でありながら、なぜ行かなかったかというと、人混みがあまり好きではないということと、仕事帰りにでも行こうと思えばいつでも行けるという環境にあると、ついついタイミングを逃してしまうもので・・・。
そんななか、なぜ今年足を運んだかというと、中2になる娘が、「ルミナリエ観たことない」と呟いたため、じゃあ、連れてってあげよう!ということになった次第です。

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20年ぶりに来てみて驚いたのは、とんでもない行列だったこと。
JR元町駅で降りて、そのまま南下して東へすすめるのかと思いきや、一旦西に回されて、その後もぐるぐると街中を迂回させられて、ルミナリエ会場にたどり着くまで約1時間、7000歩以上歩かされました。
20年前は、ここまでじゃなかったですよ。
驚きました。

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今年から、すべてLEDになったそうですね。
たしかに、昨年までの作品にくらべて、あたたかみがなくなったように思いました(といっても、第1回以外はテレビなどでしか観ていませんが)。
また、今年から光のアーチの距離も大幅に短くなったそうですね。
すべてがLEDになってコストアップになったうえ、寄付金の集まりもイマイチだと聞きますから、やむを得ないのでしょうね(わたしの会社にも、毎年寄付金を募る郵便物が届きますが、いつもごめんなさいしてます)。

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この日観れたのは、旧居留地跡の光のトンネルから、東遊園地のメイン会場まで。
聞けば、噴水広場の装飾がめっちゃ綺麗だったそうですが、残念ながら、この日の前日に神戸は台風並みの強風に見舞われ、噴水広場の電飾は大破してしまいました。
早朝5時頃の事故だったため、ケガ人は出ずにすみましたが、たいへんな事故です。
まあ、イタリア人の施工なんて、そんなもんかなぁと思っていたのですが、それから半日後、同じく神戸市内のJR新駅の建設現場で仮設足場が倒壊し、線路を塞いでほぼ1日、JR上下線とも不通になるという大事故が起きました。
こちらも幸いケガ人はいませんでしたが、足場組んだ企業は真っ青だったでしょうね。
この2つの事故のおかげで、当日の神戸市内はヘリコプターが1日中上空をとんでいました。
複数のヘリが上空を旋回している光景を見ると、震災を思い出すんですよね。

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毎年赤字で、来年は中止といわれながら20年間続いてきた『神戸ルミナリエ』ですが、震災から20年の節目の年にこのような事故が起きたことで、あるいは、これを機になくなっちゃうかもしれません。
そうなれば、わたしは最初と最後の記念すべき年に観に行ったということになりますが、神戸市民としては、なくなると聞くと寂しいような気がするもので・・・。
来年もし行われるのであれば、寄付しようかな・・・なんて、軽はずみなことを発言するのはやめておきます(笑)。
だって、一口でも結構高いんですよ。


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by sakanoueno-kumo | 2015-12-18 18:46 | 神戸の史跡・観光 | Comments(0)  

なだ桜まつりと阪急電車。

今週末の神戸雨予報だったので、先日、七分咲き桜レポートを起稿したのですが(参照:都賀川公園の桜の木の下で思う。)、今日(正確には昨日)、予報を覆して晴天だったので、せっかくなので、再び会社近くの都賀川公園を訪れました。

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今日は土曜日ということもあって、「なだ桜まつり」のイベントが開催されており、人でいっぱいでした。

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今日の都賀川公園は、おそらく満開だったんじゃないでしょうか?

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先日と同じ桜のアーケードです。

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桜との阪急電車です。

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数年前、『阪急電車』という映画がありましたが、たしか、あの映画の中でも、桜のなかを走る電車の絵がありましたよね。


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関西以外の人はそれほど馴染みがないと思いますが、このあずき色の阪急電車の車体は、何十年もずっと変わらない伝統の車両で、鉄道マニアにはたいへん人気の高い車両です。
関西を離れて暮らす関西の方は、この車体を見るときっと昔を思い出すことでしょう。

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少し葉桜になり始めました。
桜の季節も、あとわずかですね。


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by sakanoueno-kumo | 2015-04-05 00:51 | 神戸の史跡・観光 | Comments(0)  

都賀川公園の桜の木の下で思う。

昨日から4月、ですね。
年々寒さが苦手になっていくわたしも、先週末あたりから、ようやくコートとセーターを脱いでジャケットを羽織りました。
日本の春といえば
毎年、誰かがスイッチを入れたかの如く一斉に開花します。
なかには、季節を間違えて開花するドンくさい奴がいてもよさそうなものですが、ぜったい間違えないですもんね。
ある意味、人間より優れているといえるかもしれません(わたしの知人には、今頃インフルエンザにかかった季節外れな奴もいます)。

で、今年も毎年恒例の桜レポートです。
4月2日現在、神戸はまだ満開にはなっていませんが、明日からしばらく悪天候予報が続いているので、七分咲き程度で妥協し、昨日撮影してきました。

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場所は神戸市灘区の中心部を流れる都賀川沿いの公園です。

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遊歩道を演出する桜のアーケードです。
これ、満開だったらもっと綺麗なんでしょうけどね。

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都賀川に降り注ぐ桜の枝です。

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この日のソメイヨシノは、なんとなく例年よりも白く感じました。
その年の冬の温暖差で、花びらの色が濃くなったり淡くなったりすると聞いたことがありますが、本当なんでしょうか?

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ここ都賀川の川辺は、夏には子どもたちが水遊びをしたり、散歩道ジョギングコースとして市民に愛される憩いのスペースです。
ところが、六甲山から海までの短い南北を、急激に滑り落ちるような形状の河川であるため、ひとたび大雨が降ると、たちまち滝のような濁流の川へと変貌します。
平成20年(2008年)7月28日、局地的な豪雨による増水(鉄砲水)によって5人の方が犠牲になった水難事故を憶えておられる方も多いかと思いますが、あの川です。

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桜並木の公園内には、あの水難事故の慰霊碑が建てられています。

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あと、都賀川の周囲といえば、阪神・淡路大震災の被災地のなかでも、特に被害の大きかった地域でもあります。
当時、わたしの会社はこの川の近くだったんですが、ほとんど倒壊率100%に近い状態のこの地域に毎日足を運び、この川を渡って出社していました。
公園内には、震災の慰霊碑もあります。

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今年は震災20周年のメモリアルイヤー。
10年一昔などといいますが、20年経っても、この川を渡ると当時のことを思い出します。

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神戸では、明日から来週の火曜日あたりまで、ずっと雨の予報です。
来週中頃に入学式が行われる学校が多いと思いますが、それまでに散っちゃうかもしれませんね。
こればかりは、人の手ではどうにも調整ができません。
ゲリラ豪雨も大地震も桜の開花も、天の恵み災いも、すべて神のみぞ知るところですから。
だから、人は自然を尊び、自然の中で生かされているという思いを忘れてはいけないんですね。
わたしたち人間も桜と同様、自然の一部だということを・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2015-04-02 17:55 | 神戸の史跡・観光 | Comments(2)  

二度と見られない兵庫城跡を訪ねて その3

シリーズ最後です。

江戸時代も後期に入った明和6年(1769年)兵庫津一帯は尼崎藩領から離れ、幕府の直轄領となります。
このとき、兵庫陣屋の敷地を縮小して「勤番所」となり、兵庫城の堀も幅2間分(約3.6m)を残して埋め立てられ、町人地として払い下げがおこなわれました。

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外堀の外にある、町屋街路の跡です。
いわゆる城下町ですね。
調査によると、何度も火災に遭いながらも再建し、町屋を営み続けていた様子が明らかになったそうです。
その一軒一軒の町屋の区画は、何度も何度も同じ区画のまま踏襲されていることがわかったそうで、その礎石も、ほとんど同じ場所に敷かれていたことが明らかになったそうです。

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写真は、街路を掘った断面です。
何層にもなっているのが、その時代時代の道の跡だそうで、グレーの部分が地表、茶色の部分が埋められた土だそうです。
焼けては埋めて道を造り、また焼けては埋めて道を造る、そうした250年の繰り返しの歴史の跡が、この地層だそうです。
すごいですね。

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出土品も数多く展示されていました。

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明治元年(1868年)5月、この場所に兵庫県庁が置かれ、初代知事にのちの初代内閣総理大臣・伊藤博文が赴任します。
初代兵庫県知事が伊藤博文ということも、知らない人が多いですよね。
しかし、わずか4ヶ月で県庁は現在の中央区に移転。
その後、明治6年(1873年)までは外郭となっていた土塁が残っていたようですが、市街地発展のため取り除かれ、翌年には大規模な兵庫港改修工事が始まり、兵庫新川運河の開削によって、兵庫城はほとんど破壊されてしまいます。
今となっては、なんで史跡として残さなかったのかと思ってしまいますが、城跡を史跡とみなすようになったのは近年のことで、明治新政府の発足当時は、城跡は無用の長物でしかありませんでした。

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兵庫城が水没した兵庫新川運河です。
上の写真左側に少し写っているのが、今回の発掘現場ですね。
下の写真は、運河の東側から西側の発掘現場に向かって撮影したものです。
この運河が出来たことによって、船を風や波から守る避難泊地として大いに活躍し、それまで頻繁にあった海難事故激減したそうです。
当時、神戸港発展のためには、不可欠な工事だったということですね。
兵庫城が運河の底に消滅したのも、やむを得ないことだったのでしょう。

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現在、その運河西側の遊歩道に、「兵庫城跡、最初の兵庫県庁の地」と刻まれた碑が立っています。

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運河西側から発掘現場を望む場所に、城跡を見守るかのように無数のかもめが整然と並んでとまっていました。
あまりにも印象的だったので、思わすシャッターを切りました。

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まるで、発掘調査を見守るかのようですね。

こののち、発掘調査は終了して、当初の予定どおりイオンのショッピング施設が建設されます。
イオンモール側にしてみれば、金を出して神戸市から土地を買ったにもかかわらず、この発見のおかげで工期が延期になり、迷惑千万な話だったと思いますが、われわれ歴史ファンの無責任な意見としては、これほど立派な遺跡が発掘されたのに、調査が終われば破壊というのは、なんともやりきれない思いです。
これまで謎だった兵庫城は、地元神戸市民ですら、その存在自体を知らない人のほうが多かったと思います。
今回の発見は、学術的価値だけでなく、神戸市民、兵庫県民の宝でもあると思います。
この歴史的遺産が、こののち完全に破壊され、もう二度とその姿を表すことはありません。
残念でならないですね。
もう決まったことでしょうから、今更わたしがここで訴えても、どうなるものでもないでしょうが、なんとか遺跡を残してほしいと思っているのは、きっとわたしだけではないでしょう。
明治の運河開削はやむを得ななかったのかもしれませんが、平成のショッピングモール建設は、400年前の歴史的遺産を破壊してまで建てなければならないものでしょうか?
いったん神戸市がイオンモールに売ったものを、ふたたび買い戻すなどといったことがあり得ないことはわかっています。
ですが、400年前の先人たちからのメッセージを、どうにか保存する手立てはないものかと、素人ながら思う次第です。
壊してしまったら、もう二度と元へは戻せないですからね。


二度と見られない兵庫城跡を訪ねて その1
二度と見られない兵庫城跡を訪ねて その2

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by sakanoueno-kumo | 2015-02-06 16:54 | 神戸の史跡・観光 | Comments(4)  

二度と見られない兵庫城跡を訪ねて その2

昨日のつづきです。

神戸は幕末になってから開かれた港町と思われている人が多いですが、実はそうではなく、この兵庫城のあった兵庫津は、奈良時代より1300年の歴史があります。
古くは「大輪田の泊」と呼ばれ、平安時代には平清盛によって日宋貿易の拠点とされたことで有名ですね。
この近くには、清盛廟所や史跡も数多く存在します(下記参照)。 
KOBE de 清盛 史跡めぐり その2
KOBE de 清盛 史跡めぐり その3
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その後、応仁の乱で壊滅的に破壊された兵庫津は、一時歴史のなかから姿を消しますが、恒興がこの兵庫城を築いたことによって、ふたたび都市として機能しはじめます。
恒興はわずか2年で美濃国大垣城に移封となりますが、その後、豊臣秀吉の時代になると、兵庫城下は豊臣家の直轄地となり、片桐且元が代官として入城します。

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江戸時代に入ると兵庫津一帯は尼崎藩領になり、兵庫城は廃城、兵庫陣屋(奉行所)となります。
その後、港町や西国街道の宿場町として栄え、江戸時代中期には、人口2万人を数えるほどのにぎわいをみせたそうです。
このころの元禄9年(1696年)に作成された『摂州八部郡福原庄兵庫津絵図』には、兵庫のまちの様子が克明に描かれており、兵庫津遺跡を調査するうえで貴重な史料となっています。

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しかし、今回の発掘調査によって、堀の形状が絵図のものとは異なることが判明したそうです。
おそらく、江戸時代中期頃に、それまであった堀の一部を埋め戻したり、新たに堀を開削するという土木工事が行われ、堀の形状を変えていたのだろうと考えられます。

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外堀と内堀の間には、二の丸が広がり、内堀の内側に本丸がある城郭だったことが明らかになりました。
上の図でもわかるように、大手道から幅約7m、長さ約16m土橋を渡り、城内に入ります。
この日、二の丸には入れましたが、本丸には入れてもらえませんでした。
本丸に天守のような建物があったかどうかは、史料がなくわからないそうです。

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直角に折れ曲がった石垣は、内堀の外側です。
角には、ここにも墓石が使用されていました。

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「悪水抜溝」の跡です。
「悪水」とは、今で言う下水のようなもので、「悪水抜溝」とは、下水道のことだと思います。

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今回詳らかになった城郭の構造は、安土城から大坂城への過渡的な様相を示しているそうです。

またまた長くなっちゃったので、もう一回続きます。

二度と見られない兵庫城跡を訪ねて その1
二度と見られない兵庫城跡を訪ねて その3

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by sakanoueno-kumo | 2015-02-05 17:01 | 神戸の史跡・観光 | Comments(0)