カテゴリ:広島の史跡・観光( 9 )

 

備後福山城のまち逍遥備忘録 その6 「水野勝成の墓所・聡敏神社」

福山城から東へ10分ほど歩いたところに、福山藩初代主・水野勝成をはじめとする水野家の墓所があります。


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公道沿いに誰でも気軽に入れるような墓所公園となっていて、厳かな雰囲気ではありません。


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見上げると、交通標識でも案内されています。


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入口はこんな感じ。

「福山開祖水野勝成公墓地」と刻まれた石碑が建っています。


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そして、これが勝成の墓。

墓石の五輪塔は、高さ5.1mの巨大なものです。


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勝成は永禄7年(1564年)三河国刈谷城主・水野忠重の嫡男として生まれます(他の説では刈谷岡崎生まれとも鷲塚生まれとも)。

16歳のときに遠江高天神城攻めで初陣を果たすと、武田勝頼を攻撃した天目山の戦い小牧・長久手の戦いなどに出陣して着々と戦功をあげますが、20歳のときに父との不和がもとで出奔し、その後、諸国を歴遊。

天正13年(1585年)に豊臣秀吉に仕えて以後、佐々成政、小西行長、加藤清正、黒田長政など、名だたる武将に仕えました。


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慶長5年(1600年)に父・忠重が死去すると、徳川家康の命により刈谷三万石を継ぎ、関ヶ原の戦いでは東軍に属しました。

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、大和口の先鋒として功をあげ(参照:大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その8 ~大和郡山城跡~)、戦後、大和郡山6万石の領主となります。


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そして元和5年(1619年)に福島正則の改易に伴い、備後10万石の福山藩初代藩主となりました。

その後、勝成はこの地で、88歳の長寿を全うします。


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こちらは、父・忠重の墓です。

息子と喧嘩別れした親父でしたが、墓は出世した息子の領地にあるんですね。


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こちらは3代藩主・水野勝貞の墓。

これも、立派な五輪塔です。


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こちらは4代藩主・水野勝種の墓。

2代、5代、6代藩主の墓は、ここにはありませんでした。

福山藩水野家は6代で終わり、以後、阿部氏が10代藩主を務めます。


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ここには、ほかにも一族・家臣の墓が葬られていました。


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場所は変わって福山城の北にある福山八幡宮のなかに、聡敏神社という小さな社があるのですが、ここは水野勝成を祀った神社です。


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社殿には、勝成の絵馬が奉納されています。


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水野家の家紋
ですね。


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400年後の福山のまちにも、藩祖・水野勝成の足跡は各所に残されていました。

以上で「福山城のまち逍遥記」を終わります。

この日は昼前から夕方まで、実に25,000歩も歩きました。



備後福山城のまち逍遥備忘録 その1 「本丸・伏見御殿跡」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その2 「天守」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その3 「二の丸」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その4 「赤門・小丸山」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その5 「備後護国神社(阿部神社)」



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by sakanoueno-kumo | 2016-05-06 16:03 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(4)  

備後福山城のまち逍遥備忘録 その5 「備後護国神社(阿部神社)」

福山城北側三の丸には、備後護国神社があります。

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ここは昭和32年(1957年)まで阿部神社と称えていましたが、護国の英霊と合祀され、社名が備後護国神社と改められました。


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そもそものはじまりは、文化10年(1813年)、福山藩主・阿部氏の遠祖である大彦命・武沼河別命・豊韓別命と歴代藩主を祀る勇鷹(いさたか)神社として創建されたことに始まります。


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その後、明治10年(1877年)に阿部神社と改称、県社に列しました。


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最初と2枚目の写真は西側にある備後護国神社としての正式な参道で、3枚目4枚目の写真は南側にある阿部神社の時代の参道です。


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拝殿本殿です。


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境内には、7代藩主・阿部正弘の石像があります。

福山城二の丸にも正弘の像がありましたが、あっちの方がイケメンでしたね。

でも、こっちのほうが肖像画に似てるかな?


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若干25歳で老中首座(現在でいえば内閣総理大臣)に就任した正弘は、ペリー来航にあたり日米和親条約を締結したことで知られています。

教育の重要性を早くから唱え、その人材を育てるために藩校・福山誠之館を創立しました。

そのため、現在では受験合格、学業成就の神として信仰されているそうです。


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そういえば、正弘は薩摩藩主・島津斉彬や水戸藩主・徳川斉昭とともに、日本の国旗を「日の丸」と制定した人物でもあります。

昨今の卒業式などで日の丸に敬意を払わない教員さんを見て、正弘はどう思うでしょうね。


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あと、境内には「宮本武蔵腰掛石」があります。

読んで字のごとく、宮本武蔵が座ったとされる石ですね。


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元和元年(1615年)の大坂夏の陣において、武蔵は水野勝成の陣に属したとい伝わり、その後、福山藩初代藩主となった勝成を訪ねて福山城を訪れた際、家老・中山将監の屋敷の庭園で腰を掛けた石が、この石なんだそうです。

実話かどうかはわかりませんが、NHK大河ドラマ『武蔵』のなかでも紹介されていました。

まあ、武蔵の伝説は全国各地にありますけどね。


そんなこんなで、シリーズはあと1回だけ続きます。




備後福山城のまち逍遥備忘録 その1 「本丸・伏見御殿跡」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その2 「天守」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その3 「二の丸」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その4 「赤門・小丸山」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その6 「水野勝成の墓所・聡敏神社」


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by sakanoueno-kumo | 2016-04-28 16:12 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

備後福山城のまち逍遥備忘録 その4 「赤門・小丸山」

福山城三の丸北側は現在テニスコートや護国神社になっていますが、その北側に「赤門」と呼ばれる門があります。

時代は進んで幕末長州軍と幕府軍の激戦地となった場所です。


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慶応4年(1868年)1月9日、前年から尾道に駐屯していた長州軍は、徳川譜代の大名である阿部家を攻めるべく福山城下に侵攻しました。

ちょうどこの3日前、京都は鳥羽伏見の戦いにおいて薩長軍は幕府軍を破っており、勢いづいていました。

反対に福山藩は、前年の11月22日に9代藩主・阿部正方が病没していたものの、時局多端のためその死は秘され、1月9日未明、まさに長州藩兵が福山城に攻撃を行う数時間前に、城内北西の小丸山仮埋葬されたばかりでした。

長州軍は堀が築かれていない福山城の北側から攻撃を開始。

しかし、天神山、小丸山などの自然の地形を巧みに生かした福山藩兵の銃撃により、長州軍の進撃はここ赤門で阻止されます。


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その後、7代藩主・阿部正弘の側近で福山藩の儒学者・関藤藤陰(当時は石川和助)が、福山藩家老の三浦義建と共に藩を代表して長州藩との交渉を行い、新政府に参加していた広島藩主・浅野長勲の実弟・正桓を次期藩主として迎え入れることを条件に、福山藩と長州軍の間で講和が成立。

これ以後、福山藩は新政府軍に加わり、福山城下は戦火を免れます。


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赤門をくぐったところに建つ捨生取義の石碑です。


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明治維新前後の動乱(石州の役、函館の役、佐賀の役、台湾の役、西南の役)の戦闘で命を落とした旧福山藩士110名の名が刻まれています。

明治19年(1886年)に建てられたものだそうで、その揮毫は、最期の藩主となった阿部正桓によるものだそうです。


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長州軍から福山城を死守した小丸山は、「先人の森」として福山の礎となった人々の顕彰碑が建てられています。


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これは、寺地舟里という医学者の碑。


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こちらは、江木鰐水という兵学者の碑。


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そしていちばん奥には、福山藩初代藩主の水野勝成の碑。

なんだ、慶応4年1月の攻防とは関係ない人ばかりじゃないか!

なんで、ここに関藤藤陰を入れないんでしょうね。


次回に続きます。



備後福山城のまち逍遥備忘録 その1 「本丸・伏見御殿跡」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その2 「天守」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その3 「二の丸」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その5 「備後護国神社(阿部神社)」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その6 「水野勝成の墓所・聡敏神社」

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by sakanoueno-kumo | 2016-04-27 13:37 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

備後福山城のまち逍遥備忘録 その3 「二の丸」

本丸を降りて二の丸を歩きます。

福山城の二の丸は本丸を囲む帯曲輪で、北面以外は幅が狭く、櫓以外に目立った施設は建てられていなかったそうです。

まずは南側から。

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いまは桜並木になっています。

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上の写真は二の丸南から見上げた伏見櫓です。

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こちらは二の丸南から見上げた月見櫓です。

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二の丸東には、備後福山藩初代藩主・水野勝成の銅像があります。

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猛将として名高い勝成ですが、銅像は知的で上品なお殿様といった感じです。

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銅像の横には、ご覧のとおり天守東面がそびえています。

ここ、絶好の撮影スポットです。

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青空だったらいい写真になったでしょうけどね。

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少し北に進んで、二の丸北東から天守を撮影。

ここも結構、いいポイントかな。

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二の丸北側にやってきました。

上の写真は真北から見た天守です。

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二の丸北側だけは広い敷地になっていて、かつては城米蔵などが建て並んでいたそうです。

現在はテニスコートがあり、その東には昭和初期に建てられた福寿会館という建物があります。

上の写真は、そこの庭園から見た天守です。

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そして二の丸西面に足を運ぶと、阿部正弘の銅像がありました。

備後福山藩の藩主は水野家、松平家、阿部家へと引き継がれますが、最後の阿部家は廃藩置県まで10代に渡って161年間在封し、この間、幕府老中を4人、大坂城代を1人輩出しました。

とくに7代藩主・阿部正弘はわずが25歳の若さで老中首座(現在でいえば内閣総理大臣)に就任したキレ者です。

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阿部正弘は、肖像画などを見てもダンディーなイケメンですからね。

正弘は39歳の若さで急死してしまいますが、もし正弘が生きていれば、井伊直弼大老就任もなかったかもしれませんし、そうなれば、安政の大獄もなかったでしょうから、幕末の歴史は大きく変わっていたかもしれません。

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もっとも、正弘はほとんど江戸城にいたでしょうから、ここ福山城で藩政に従事することは少なかったでしょうけどね。

次回に続きます。



備後福山城のまち逍遥備忘録 その1 「本丸・伏見御殿跡」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その2 「天守」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その4 「赤門・小丸山」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その5 「備後護国神社(阿部神社)」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その6 「水野勝成の墓所・聡敏神社」

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by sakanoueno-kumo | 2016-04-20 21:27 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

備後福山城のまち逍遥備忘録 その2 「天守」

福山城天守は昭和20年(1945年)8月8日の福山大空襲で消失し、現在の建物は昭和41年(1966年)に月見櫓、御湯殿と共に復興された鉄筋コンクリート製のものです。

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8月8日といえば、同じ広島県内に原爆が投下された2日後、終戦の1周間前ですね。

広島市内では、原爆により8月6日に広島城が大破しています。

戦争は多くの人の命を奪いましたが、同時に、わが国の歴史的遺産も奪いました。

終戦の決断がもう少し早ければ、救われた命も、そして失わずにすんだ文化遺産もたくさんあったでしょうね。

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福島正則の改易によって元和5年(1619年)に入封した水野勝成が、3年の歳月をかけて築城した福山城天守は、5重5階地下1階層塔型の天守でした。

現在の復元城とは、外観はかなり違うようで、「復元」ではなく「復興」に分類されているそうです。

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明治維新による廃城後、城はそのまま放置され、天守の傷みは甚だしかったそうですが、その歴史的価値が認められた明治30年(1897年)から修理が行われ、昭和6年(1931年)には、姫路城松本城と同時に国宝に指定されたそうです。

重ね重ね残念ですね。

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この日は本丸広場でイベントが開催されていて、写真を撮るには目障りなテントやらステージやらがあって残念でした。

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天守のなかは博物館になっていて、撮影禁止です。

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ただ、せっかくなので、天守最上階からの眺望をアップします。

写真は天守南側の本丸広場で、奥の芝生部分が前稿で紹介した伏見御殿跡、その左の櫓は月見櫓、中央が御湯殿、右側に少し見えるのが筋鉄御門で、その横に伏見櫓があるのですが、木に隠れちゃってます。

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曇り空でなければ、いい眺めだったのでしょうけどね。

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扉の家紋です。

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さて、本丸と天守を制覇したので、次回は二の丸をめぐります。



備後福山城のまち逍遥備忘録 その1 「本丸・伏見御殿跡」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その3 「二の丸」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その4 「赤門・小丸山」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その5 「備後護国神社(阿部神社)」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その6 「水野勝成の墓所・聡敏神社」

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by sakanoueno-kumo | 2016-04-15 13:14 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

備後福山城のまち逍遥備忘録 その1 「本丸・伏見御殿跡」

過日、広島県は福山市にある福山城に行ってきました。

福山城は山陽新幹線福山駅のすぐ北側にあり、城跡周辺は「ふくやま文化ゾーン」として観光地化されています。


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この日はあいにくの曇り空だったのですが、なんとか雨に降られず一日中城跡周辺を歩きました。

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現在、城跡公園として整備されているのは、かつて内堀のなかだったところです。

南面の階段を登ると、すぐに本丸南側につながります。

なので、今回は先に本丸から攻めていきます。

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本丸南側にある筋鉄御門(重要文化財)です。

この門をくぐると、本丸広場になります。

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本丸南側には、かつて伏見御殿がありました。

なぜ「伏見御殿」という名称かというと、元和5年(1619年)に廃城となった京都の伏見城から多くの移設されており、それにあやかって「伏見御殿」と名付けられたそうです。

ちなみに、先述した筋鉄御門も、伏見城から移設されたものです。

他には、

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本丸南東角の月見櫓

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本丸南中央の御湯殿

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本丸南西角の伏見櫓などが、同じく伏見城から移設されました。

このうち、月見櫓と御湯殿は空襲で焼けたため復元ですが、伏見櫓と筋鉄御門は当時のもので、重要文化財に指定されています。

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その伏見御殿跡から北を見ると、天守がそびえます。

この日は本丸広場でイベントが開催されていて、テントやらステージやらが設置されていて残念でしたが。

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福山城は、元和5年(1619年)に福島正則が改易され、備後10万石の領主として入封した水野勝成が、3年の歳月をかけて築城した平山城です。

次稿では、その天守を攻めます。



備後福山城のまち逍遥備忘録 その2 「天守」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その3 「二の丸」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その4 「赤門・小丸山」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その5 「備後護国神社(阿部神社)」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その6 「水野勝成の墓所・聡敏神社」

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by sakanoueno-kumo | 2016-04-14 00:37 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(4)  

広島を訪れたなら行かないわけにはいかない原爆ドームに学ぶ。

先週、出張ついでの広島城見物について起稿しましたが、せっかく広島に行ったので、原爆ドームのことも少しだけ記録したいと思います。

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いまさら説明するまでもないと思いますが、昭和20年(1945年)8月6日、世界史上はじめての原子爆弾投下によって破壊された、旧広島県産業奨励館の残骸です。

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爆弾はこの建物のほぼ直上約600mの空中で爆発し、そのたった1個の爆弾によって、20万人を超える市民の命が奪われ、半径2kmに及ぶ市街地が廃虚と化しました。

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現地の説明看板ではじめて知ったのですが、ここ原爆ドームは戦後まもなく保存が決まったわけではなかったんですね。
説明によると、被爆後の姿のまま放置されていたものが、昭和28年(1953年)に広島県から広島市に譲与され、保存が正式に決まったのは、昭和41年(1966年)7月のことだったのだとか。
実に戦後20年後のことだったんですね。
それまで、記念物として残すという考え方と、危険建造物であり被爆の悲惨な思い出につながるということで取り壊すという意見が対立していたそうです。

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原爆ドームという名称も、誰かが考えたというものではなく、頂上の円蓋鉄骨の形から、戦後、いつしか市民から原爆ドームと呼ばれるようになったんだそうですね。
いまでは日本人なら誰でも知っている原爆ドームですが、実は、意図的に造られたものではなく、自然発生的にシンボル化したものだったんですね。

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平成8年(1996年)12月には、核兵器の惨禍を伝える建築物として世界文化遺産に登録されました。
文化遺産とは、おもに歴史的価値の高い建造物が指定されていますが、そのほとんどが、災害などの被害を免れて、長い年月原型をとどめてきたものばかりで、人工的に破壊されたことにより文化遺産の対象となった建物は、たぶん原爆ドームだけなんじゃないでしょうか?
その意味では、世界遺産の中でも稀有な存在といえます。

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ライトアップされた夜の原爆ドームです。
三脚を持ち合わせていなかったので、手ブレまくりです。

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毎年原爆の日に行われる平和祈念式典の席に、いまでは当たり前のように内閣総理大臣が出席していますが、初めて式典に出席したのは、原爆投下から26年が過ぎた昭和46年(1971年)の佐藤栄作首相だったそうですね。
これも初めて知りました。
過去が歴史になるまでには、それ相応の年月が必要だということでしょう。
また、就任して間もない頃のアメリカのオバマ大統領が、米国大統領として初めて原爆ドームを訪れるんじゃないかといった噂も当時ありましたが、その後、日本が民主党政権になったために計画は頓挫したともいいますよね。
それが実現したら、歴史はまた大きな一歩を踏み出すことになったのでしょうが、いまの日米関係とオバマ大統領の力では無理でしょうね。
まだまだ、本当の意味での歴史になるには、時間がかかりそうです。

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わたしが行ったこの日も、外国人の方がたくさん訪れていました。
世界遺産登録の影響は大きいようですね。
今年は戦後70年の節目の年にあたりますが、ノーモア・ヒロシマのシンボルである原爆ドームを、今後もたくさんの外国人の方々に見てほしいですね。

晩秋の安芸国広島城逍遥記 その1
晩秋の安芸国広島城逍遥記 その2


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by sakanoueno-kumo | 2015-02-19 20:21 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

晩秋の安芸国広島城逍遥記 その2

昨日の続きです。

内堀の外から見た広島城二の丸の写真です。
手前から太鼓櫓・多聞櫓・平櫓です。

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この石垣と3つの櫓から成る二の丸は、馬出の機能を持つ郭で、全国の城郭の中でも特異な配置だそうで、広島城の特徴とされています。

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上の写真は表御門
橋を渡って表御門をくぐり、二の丸内に入ります。

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で、こちらが二の丸内側から見た太鼓櫓と多聞櫓です。
これらはもちろん復元ですが、戦前まであった郭は、毛利輝元の築城当初からのものだったそうです。
3つの櫓の外観は、天守と同じく黒漆塗りの板貼りですね。

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こちらは内部の天井。
梁をむき出しにし、柱も漆などを塗らずに、木の肌を出したままの質素なつくりです。
下の写真は、太鼓櫓のなか。

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工事が始まって2年後の天正19年(1591年)に輝元は入城しますが、その後も並行して工事は進められ、全工事が完工したのは慶長4年(1599年)、しかし、その前年に豊臣秀吉が死去しており、時代はふたたび戦乱の様相を呈していました。
そして、翌年に天下分け目の関ヶ原の戦い
このとき、名目上、西軍の総大将となった毛利輝元は、実際に出陣はしなかったものの、その責任を負わされ、徳川家康によって周防・長門の2ヵ国に押し込められます。
それが、幕末まで続く長州藩となるんですね。

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毛利家に代わって広島城に入城したのは、安芸・備後の2カ国(現在の広島県域)45万余石の領主となった福島正則でした。
正則はさっそく城の修築工事を進めるとともに、西国街道が城下を通るように南下させるなど、城下町を整備します。
しかし、洪水で破損した石垣を修築する際、幕府への修築届けの不備を咎められ、元和5年(1619年)、正則は安芸・備後両国を没収されます。
この一件については、豊臣恩顧の正則を失脚させるための幕府の陰謀説もありますが、真相は闇の中です。

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福島氏が去ったあと、領内は広島藩福山藩に分かれ、広島城には紀伊国和歌山城主だった浅野長晟が42万余石の領主として入城します。
以後、明治2年(1869年)の版籍奉還までの約250年間、浅野氏が12代に渡って広島城主を勤めます。

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明治時代、広島城内には旧大日本帝国陸軍の施設が徐々に設けられ、日清戦争時には、本丸に大本営が置かれたという稀有な歴史を持っています。
上の写真はその大本営跡です。

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なぜ広島に大本営が置かれたかというと、山陽鉄道(現在のJR山陽本線)が広島まで開通していたことや、近くに宇品港を擁するといった諸条件が揃っていたからです。
ここに大本営が置かれると、明治天皇が広島に入られ、城内にあった建物を行在所として、戦争を指揮されたそうです。

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太平洋戦争時にも、周辺に軍事施設が集中していたことから、この広島城が、原爆投下の目標点になったと言われています。
当然ながら、天守をはじめ城内の建造物は、すべて壊滅しました。

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夜の広島城です。
三脚などは持っていなかったので、手ブレご容赦ください。

毛利時代、福島時代、浅野時代のみならず、日清戦争、太平洋戦争と、近世近代の歴史を見つめ続けた広島城。
いまは、堀と緑に囲まれた城跡公園として、市民憩いの場となっています。
まさに、「兵どもが夢の跡」ですね。

晩秋の安芸国広島城逍遥記 その1

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by sakanoueno-kumo | 2015-02-13 18:14 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

晩秋の安芸国広島城逍遥記 その1

3ヶ月近く前になりますが、昨秋、広島出張の折、広島城跡を訪れました。
広島市内の観光といえば、原爆ドーム平和記念資料館を訪れる人が多いと思いますが、そこから歩いて行ける距離のところに、日本三大平城に数えられる名城・広島城があります。

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広島城の特徴として最初に目についたのは、黒漆塗りの板が貼りめぐらされた天守の壁面ですね。
たしか、岡山城もこんな感じの外観だったと思いますが、姫路城などに代表される白壁の城も優雅で美しいですが、この板貼りの天守は、なんともいえない重厚感で、圧倒されます。

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この板貼りの壁面は、大坂城天守を模したといわれているそうですが、現在復元されている大坂城は、板貼りではないですよね。
実は、豊臣秀吉築城当時は、こんな感じだったようです。
戦国時代には、白の漆喰は風雨に弱いとされ、外壁にはあまり使われなかったそうで、白壁が使用されるようになったのは、主に江戸時代に入ってからだそうです。

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広島城は、天正17年(1589年)に毛利輝元によって築城が開始されました。
毛利氏は、南北朝時代から吉田郡山城を居城とする一領主でしたが、輝元の祖父・毛利元就の時代に山陰の尼子氏をはじめ各地の有力武士を倒し、中国地方の大半を支配する戦国大名に成長しました。

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その息子・毛利隆元が若くして急逝したため、わずか11歳で家督を継いだ輝元は、叔父の吉川元春・小早川隆景の補佐を受けながら引き継いだ中国地方を治めます。
一時は織田信長と対立して、山陽・山陰の各地で織田軍と覇権を争いますが、やがて秀吉の時代になると、輝元は秀吉に臣従して「五大老」のひとりとなり、豊臣政権を補佐します。

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秀吉の天下統一によって乱世の時代は終わり、城の役割は軍事から領国統治へと変わります。
秀吉の招きによって上洛した際、大坂城や聚楽第を見た輝元は、もはや吉田郡山城が時代遅れであることを痛感し、広島城の築城を決意したと言われます。

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広島城の城郭構成は京都の聚楽第をモデルにしたといわれ、本丸に続く二の丸が小さく、馬出として利用された独特の構造だそうです。
本丸を中心にを三層にめぐらせ、三の丸、大手郭、北の丸、北の郭、西の郭などを配し、さらに外側は太田川を天然の要害に利用しています。

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天守から望む景色です。

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現在の天守はもちろん復元です。
本来の天守はいうまでもなく、原爆投下によって破壊されました。
戦前の天守は、昭和6年(1931年)に国宝に指定されていたそうです。
同じときに国宝となった姫路城が、20世紀末に世界遺産となったことを思えば、もし、原爆で被災しなければ、あるいは世界遺産となっていたかもしれません。
まさか、そのすぐ近くにあった洋館が、原爆ドームとなって世界遺産に指定されようとは、当時は思いもよらなかったことでしょう。

つづきは明日にします。

晩秋の安芸国広島城逍遥記 その2

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by sakanoueno-kumo | 2015-02-12 17:59 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(4)