カテゴリ:広島の史跡・観光( 14 )

 

鞆の浦の龍馬の足跡を訪ねて。 その5 「福禅寺・對潮楼(いろは丸事件第2・3回談判場)」

前稿で紹介した旧魚屋萬蔵宅の東側の高台にある福禅寺・對潮楼が、慶応3年(1867年)4月25日と26日に行われた「いろは丸事件」2回目、3回目の談判場となりました。


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細い路地の坂道を上ると、「国史跡 對潮楼」と書かれた誘導板が出てきます。


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海岸山千手院福禅寺は、平安時代の天暦年間(950年頃)の創建と伝えられる真言宗の寺院です。


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石碑には、「日東第一形勝」と刻まれています。

この言葉は、正徳元年(1711年)にここを訪れた朝鮮通信使が、あまりにも美しい景観に感動して言った言葉だそうです。

つまり、朝鮮より東で一番美しい景色ってことですね。

楽しみです。


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本堂です。

元禄年間(1690年代)に建立されたそうです。


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隣接する客殿・對潮楼も、同じ時代に建てられたものだそうです。

「對潮楼」という名称は、延享5年(1748年)に訪れた朝鮮正使の洪啓禧が名付けたそうです。

さっそく對潮楼に行ってみましょう。


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おおっ!


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おおおおっ!


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たしかにこれは素晴らしい!


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窓枠が額縁の絵画のようです。


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話をいろは丸事件の談判のことに戻します。

慶応3年(1867年)4月25日、2回目の交渉の席についた坂本龍馬は、要領を得ない紀州藩汽船・明光丸船長の高柳楠之助に対し、急場の難を救うために1万両を要求します。

これを受けた高柳は、「お申し出のとおり1万両は出すが、返済期限を立てられたい」と返答します。

ところが、これに対して龍馬は、「弁償金の一部として受け取るので、返済期限を立つべき性質のものではない」と、強気に跳ね返したといいます。

万国公法に明るい龍馬は、よほど自信があったのでしょうか?


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坂本龍馬率いる海援隊の船・いろは丸と紀州藩汽船・明光丸が瀬戸内海で衝突したこの事故ですが、実は、海援隊側に重大なミスがあったという説があります。

西から東へ向かういろは丸と、東から西へと向かう明光丸。

この2隻が衝突しそうになった場合、お互いに面舵、つまり右折して回避するのがルールなんだそうです。

ところが、記録では、いろは丸は左折し、右折の明光丸と衝突しています。

あわてた明光丸は一旦、五十間(約90メートル)ほど後退したあと、また前進して今度はいろは丸の船腹を完全に衝いてしまったため、いろは丸は大破、沈没しました。

つまり、致命傷となった2回目の衝突は明光丸側に過失があるとしても、最初の操縦ミスはいろは丸側にあったというんですね。

もし、これが本当の話なら、いろは丸側の方が不利な立場だったんじゃないでしょうか?

龍馬はこれを知らなかったのか・・・。

神戸海軍操練所航海術を学び、さらに国際ルールにも明るい龍馬ですから、知らなかったとはとても思えない。

だとしたら、なかなかしたたかですね。


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交渉は翌26日も平行線をたどり、27日午後に交渉は決裂

談判の場は長崎に移されることになります。

このあと龍馬は、身の危険を感じたのか、万一の場合、自分の死後は妻・お龍を故郷の土佐に送り届けるよう、寺田屋事件で生死を共にした三吉慎蔵に手紙を送っています。

それほど殺気立った交渉だったのでしょうね。

龍馬も見たであろうこの景色。

とても景色を楽しむような気分ではなかったでしょう。


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観光客用の渡し船「平成いろは丸」です。

実際のいろは丸に比べるとぜんぜん小ぶりですが、まあ、町おこしの一環でしょうね。


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長崎での談判では、互いに航海日誌を交換し、双方の言い分を検証した結果、ついに紀州側が根負けし、衝突時に明光丸には見張り役がいなかったこと、一度ならず二度に渡っていろは丸に衝突したことを認めます。

しかし、それでも紀州側は完全に負けを認めず、幕府御三家の立場をかさに、長崎奉行所を味方につけて海援隊側を威圧する策に出ました。

ところが龍馬も負けておらず、世論を味方につけます。


 「♪ 船を沈めてその償いに 金を取らずに国を取る 国を取ったらミカン食う♪」


こんな狂歌をつくり、長崎丸山の妓楼で歌わせたそうです。

この歌はたちまち巷間に流行し、長崎市民の同情はいずれも海援隊に集まりました。

さらに龍馬は、追い打ちをかけるように交渉の席に土佐藩家老の後藤象二郎を引っ張り出し、一海運業者vs紀州藩の事件を、土佐藩vs紀州藩という、同等の立場での、いわば政治的な談判としました。

藩同志の談判となれば、紀州側もこれまでのような脅しまがいの交渉は出来ません。

もはや勝算なしと見た紀州藩は、薩摩藩士・五代才助(のちの五代友厚)に調停を頼み、その裁定で紀州藩は賠償金8万3千両を海援隊に支払うという条件で、ようやく事件に決着がつきます。

龍馬の巧みな世論操作、そして後藤を使って政治問題にすり替えた強かさ、さらには、大藩相手に怯まない腹の据わったリーダーシップ

どれをとっても、一級品の外交手腕ですね。

現代の政治家さんにも見習ってほしいものです。


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くつろいでいるのは、わたしの高1の娘です(笑)。


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サザエさんも鞆の浦に来たようです(笑)。


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最後に、下の道路に降りて、さっきまでいた對潮楼を見上げます。

この日、鞆の浦での滞在は約3時間

まだまだ観光スポットはたくさんあったのですが、時間に限りがあったため、龍馬関連に絞って観光しました。

また機会があれば。









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by sakanoueno-kumo | 2017-11-26 00:27 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

鞆の浦の龍馬の足跡を訪ねて。 その4 「旧魚屋萬蔵宅(いろは丸事件第1回談判場)」

「いろは丸事件」坂本龍馬紀州藩鞆の浦での談判は、慶応3年(1867年)4月24日から26日にかけて3回行われましたが、その最初の談判の会場が、ここ旧魚屋萬蔵宅だったといいます。


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といっても、この建物は当時のものではありません。

旧町役人の家である魚屋萬蔵宅は、明治以後、何度も増改築が繰り返され、戦後には通りに面した部分に近代的な増築が施され、伝統的な外観を大きく損ねる建物になっていたそうです。

長く呉服店として使用されていたそうですが、平成13年(2001年)からは空き家になり、老朽化が進んでいたそうです。

その後、地元のNPO「鞆まちづくり工房」をはじめ、さまざまな協力を得て改修し、旅館「御舟宿いろは」として平成18年(2008年)にオープンしたそうです。

なんと、外観はあの宮﨑駿氏がデザインしたんだとか。

宮崎氏は、ここ鞆の浦の滞在中に映画『崖の上のポニョ』の構想を練ったそうで、そのときの縁で、ここの改修工事に関わったそうです。


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「いろは丸事件談判跡」と刻まれた石碑があります。


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中に入ると、1階は御食事処でした。

観光のつもりで入ったのですが、「いらっしゃいませ」と言われてしまい、ちょうど昼食がまだだったこともあり、やむなく食事をとることに(苦笑)。

でも、「鯛いろは漬け御膳」、メチャウマでした。


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修復作業の際の調査により、旧魚屋萬蔵宅は江戸時代後期に当たる18世紀後半に建てられたと推測されたそうです。

また、龍馬たちの談判の場は2階だとされていましたが、調査の結果、2階部分は明治以降に増築されたことが判明し、談判が行われたのは1階の8畳間であると断定されたそうです。

それが、この部屋。


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もちろん、改修されていますので当時のままの部屋ではありません。


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慶応3年(1867年)4月24日、この部屋で交渉の席についた龍馬は、明光丸船長・高柳楠之助に、「今回のような海難事故は例のないこと。万国公法にのっとり、この後の交渉を進めたい」と提案します。

万国公法はアメリカの法学者が著した国際法の教科書で、龍馬は神戸海軍操練所時代に勝海舟らを通じてこれを学び、日本語への翻訳を計画するほどに内容を熟知していたといいます。


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しかし、この時代のほとんどの日本人は国際ルールなど知らず、そのため、万国公法をたてに取って談判に臨めば、自分の土俵で相撲をとれるいう目算があったのでしょう。

龍馬は、事故の交渉事は現場近くで行うのが国際ルールとして、「事件解決まで明光丸の出港をひかえられたい」と要求しますが、高柳は首を縦にふりません。

「万国公法に基づき非は明光丸にある」と主張する龍馬と、「すべて藩命に従う」とする高柳。

交渉はまったく進まないまま、ここ旧魚屋萬蔵宅での第1回目の談判を終えます。


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談判時も、こんな中庭があったのでしょうか?


さて、次稿では、第2回、第3回の談判が行われた場所を訪ねます。








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by sakanoueno-kumo | 2017-11-25 00:11 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

鞆の浦の龍馬の足跡を訪ねて。 その3 「桝屋清右衛門宅(龍馬の隠れ家)」

坂本龍馬鞆の浦に滞在した4日間、宿泊していたとされる桝屋清右衛門宅を訪れました。

屋根が片方だけ長い特徴的なつくりですが、これは、正面から見たときに実際よりも建物を大きく見せかけてる工法で、鞆では19世紀以降に流行した手法だそうです。

商家の見栄っ張りな気風がよく現れている建物だそうです。


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「坂本龍馬宿泊跡」と刻まれた石碑が。


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入口は2ヵ所ありますが、南側の入口から入ります。


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玄関を入るとすぐに、龍馬の写真パネルが迎えてくれます。


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こちらは説明板。


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順路を進むと、日本間に時代劇などでよく見る商家の衝立が。

ここに番頭さんがいたのでしょうか?


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横のふすまには坂本家の桔梗の家紋が入った袴下が飾られています。


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順路に沿って奥に進みます。


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物置のような箪笥部屋に、梯子が架かっています。


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当時は、屋根裏部屋に行くにはこの梯子しかなかったようで、板が閉じられていれば、上に部屋があることはわからなかったそうです。

まさに隠し部屋ですね。

あるいは命を狙われるかもしれない談判に臨む龍馬としては、このような場所に潜む必要があったわけです。


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いまは観光用に階段が設置されています。


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階段を上ると、海援隊のメンバーが集っていました(笑)。

左から3番目が龍馬です。


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そして更にこの細い階段を上ると・・・。


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ありました!

龍馬の隠れ部屋です。

広さは約8畳で、壁は当時のままだそうです。


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ホームページの解説によると、龍馬がここに宿泊した理由は、長崎の豪商・小曽根乾堂の末弟である小曾根英四郎が積荷の仕切り役としていろは丸に乗っており、その小曾根家と桝屋は商取引があったと思われ、英四郎の仲立ちで桝屋を宿舎に定めたと考えられているそうです。

ここ桝屋清右衛門宅に龍馬が泊ったという伝承がありましたが、長年その場所は確認されていなかったそうです。

そこで平成元年(1989年)、「坂本龍馬は屋根裏部屋に泊った」との言い伝えから地元の有志が天井を調査したところ、1カ所だけ天井板が外れ、この隠れ部屋が発見されたそうです。

部屋は当時のまま手つかずで残されていたそうで、ほこりや傷みがひどく、一般に公開できる状態ではなかったそうですが、広島県などの補助金を利用し整備を進め、平成23年(2011年)から一般公開することになったそうです。


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龍馬がここに泊まったとしては、紀州藩との賠償交渉の経過が記された『備後鞆津応接筆記』のなかに残されているそうで、そこには、「才谷梅太郎」の偽名で宿泊していたと記されているそうです。


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机の上の手紙は、「才谷梅太郎」の名で京都の伏見寺田屋お登勢に宛てて書いた手紙(複製)で、その日付から、龍馬がこの鞆の浦で書いたものと思われるそうです。


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身の危険を感じながらも、龍馬はこの部屋で談判の策を練っていたんでしょうね。

次回はその談判の場を訪れます。









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by sakanoueno-kumo | 2017-11-23 23:41 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

鞆の浦の龍馬の足跡を訪ねて。 その2 「いろは丸展示館」

前稿で紹介した常夜燈のすぐ側に、「いろは丸展示館」があります。

せっかくなので、入ってみることに。


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建物は坂本龍馬が訪れた当時からあったという「大蔵」と呼ばれる土蔵で、国の登録有形文化財だそうです。


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入口から中を覗くと、上野彦馬撮影の有名な龍馬の肖像写真が迎えてくれます。

実はこの写真、わたしの職場の部屋にも飾っていて、毎日見ています。

入口横に掲げられた紅白の旗は、海援隊の隊旗です。


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館内は写真撮影オッケーです。

入ってすぐに龍馬の像がお出迎え。


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1階の館内です。


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グッズ販売やパネル展示が所狭しと並べられています。


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いろは丸沈没した正確な場所は長年の間わかっていませんでしたが、平成元年(1989年)、地元の有志で結成された「鞆を愛する会」によって発見され、その後、京都の水中考古学研究所によって平成2年(1990年)、平成18年(2006年)、平成22年(2010年)の4回に渡って潜水調査され、船体の鉄材、部品、装備品、日用品、石炭などが引き上げられました。

上の写真は、その潜水調査を再現したジオラマです。


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背面のパネルには、衝突地点沈没場所の地図があります。


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こちらでは衝突した経緯が解説されています。


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こちらの展示コーナーでは、引き上げられた物品が展示されています。


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革靴のかかとなんて、150年近くも海中にあって、よく残っていましたね。


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ここ鞆の浦で行われた紀州藩汽船・明光丸海援隊との談判において、龍馬は鉄砲400丁などの武器弾薬3万5,630両分、金塊など4万7,896両198文分が沈んだとして、合わせて8万3,526両198文損害賠償を要求します(江戸時代後期の1両は現在の価値に換算すると3万円から5万円で、約25億円~42億円に相当します)。

その後の談判で、最終的に紀州藩は龍馬側に賠償金7万両を支払ったのですが、平成18年(2006年)に行われた潜水調査では、龍馬が主張した鉄砲などの銃火器は一切発見されませんでした。

龍馬もなかなかしたたかですね。


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展示館2階です。


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こちらは、龍馬が鞆の浦に滞在した4日間、隠れ家としていた回船問屋の桝屋清右衛門宅屋根裏部屋を忠実に再現したとのことですが、桝屋清右衛門宅の屋根裏部屋、現存してるんですよね。

再現する必要あるのかなぁ・・・と。


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龍馬の蝋人形は高知県の坂本龍馬記念館にもありましたが、こうして見ると、五木ひろしさんに似てません?

さて、次回は実際の桝屋清右衛門宅を訪れます。









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by sakanoueno-kumo | 2017-11-22 23:52 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

鞆の浦の龍馬の足跡を訪ねて。 その1 「鞆の港」

平成29年(2017年)の今年は、坂本龍馬没後150年にあたる年ですが、同じ年の4月23日に起きた「いろは丸事件」からも、ちょうど150年になります。

そこで、かねてから行きたかったいろは丸事件の談判の地鞆の浦に、この夏、足を運びました。


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鞆の浦はJR福山駅から南へ14km、沼隈半島南端にある港町で、瀬戸内海のほぼ中央に位置し、このあたりで潮の流れが変わることから、古来、潮待ち風待ちの港として栄えてきました。

現在では風光明媚な観光地として人気のスポットで、映画のロケ地や、あの宮崎駿氏のアニメ『崖の上のポニョ』の舞台にもなっています。


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慶応3年(1867年)4月19日、坂本龍馬率いる海援隊は、伊予大州藩の出資によって購入した「いろは丸」に乗りこみ、土佐藩の帰属となった海援隊として初めての航海に出発しました。

しかし、瀬戸内海を東へ進むいろは丸は、同月23日午後11時頃、讃岐沖で紀州藩汽船・明光丸と衝突してしまいます。

いろは丸は160トン、明光丸は880トン軽自動車と大型トラックの衝突のようなものでした。


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いろは丸の当夜の当番士官・佐柳高次は明光丸の幻灯に気付き、すぐに左転してこれを避けようとしましたが、なおも明光丸は右旋しながら猛進を続け、いろは丸の右舷にふれて機関室を破壊したといいます。

佐柳は船中に事故を伝え、さらに明光丸に向かって救助を求めるも返答がなく、やむなく機関士・腰越次郎が救命船の錨をとって明光丸に投げかけ、素早くよじのぼって明光丸の甲板に上がり、そこで同船の乗組員を詰責しましたが、お互いにあわてて要領を得ない。

そうこうしているうちに、明光丸は一旦、五十間(約90メートル)ほど後退したあと、また前進して今度はいろは丸の船腹を完全に衝いてしまったため、いろは丸は大破、沈没しました。

龍馬と明光丸船長・高柳楠之助との合議によって、事故の善後策を決するため、同夜のうちに明光丸をここ鞆の浦に入港させます。

そして、そこから4日間、この地で激しい談判が繰り広げられました。


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写真は鞆の港のシンボルといっていい常夜燈です。

安政6年(1859年)に作られたものだそうですから、龍馬がこの地を訪れたとき、すでにあったものです。


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常夜燈は船の出入りを誘導する燈台で、鞆の浦では「灯籠燈」と呼ばれて親しまれてきました。

燈の部分は5.5mですが、海中の基礎の上から宝珠までは11mあり、現存する江戸期の常夜燈のなかでは日本最大級の高さだそうです。


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こちらは、雁木と呼ばれる石段で、いわゆる船着き場ですね。

潮の満ち干きによる水面の上下に応じて階段状になっていて、停泊中の船からここに渡り板を架けて乗降していました。

時代劇なんかでは、よく見る港の風景ですよね。

この雁木は文化8年(1811年)に作られたといいますから、龍馬がこの地を訪れる半世紀以上前から存在するものです。

説明板によると、雁木、常夜燈ともに花崗岩製だそうです。


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というわけで、しばらく鞆の浦での龍馬の足跡をたどります。









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by sakanoueno-kumo | 2017-11-21 23:21 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

備後福山城のまち逍遥備忘録 その6 「水野勝成の墓所・聡敏神社」

福山城から東へ10分ほど歩いたところに、福山藩初代主・水野勝成をはじめとする水野家の墓所があります。


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公道沿いに誰でも気軽に入れるような墓所公園となっていて、厳かな雰囲気ではありません。


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見上げると、交通標識でも案内されています。


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入口はこんな感じ。

「福山開祖水野勝成公墓地」と刻まれた石碑が建っています。


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そして、これが勝成の墓。

墓石の五輪塔は、高さ5.1mの巨大なものです。


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勝成は永禄7年(1564年)三河国刈谷城主・水野忠重の嫡男として生まれます(他の説では刈谷岡崎生まれとも鷲塚生まれとも)。

16歳のときに遠江高天神城攻めで初陣を果たすと、武田勝頼を攻撃した天目山の戦い小牧・長久手の戦いなどに出陣して着々と戦功をあげますが、20歳のときに父との不和がもとで出奔し、その後、諸国を歴遊。

天正13年(1585年)に豊臣秀吉に仕えて以後、佐々成政、小西行長、加藤清正、黒田長政など、名だたる武将に仕えました。


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慶長5年(1600年)に父・忠重が死去すると、徳川家康の命により刈谷三万石を継ぎ、関ヶ原の戦いでは東軍に属しました。

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、大和口の先鋒として功をあげ(参照:大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その8 ~大和郡山城跡~)、戦後、大和郡山6万石の領主となります。


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そして元和5年(1619年)に福島正則の改易に伴い、備後10万石の福山藩初代藩主となりました。

その後、勝成はこの地で、88歳の長寿を全うします。


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こちらは、父・忠重の墓です。

息子と喧嘩別れした親父でしたが、墓は出世した息子の領地にあるんですね。


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こちらは3代藩主・水野勝貞の墓。

これも、立派な五輪塔です。


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こちらは4代藩主・水野勝種の墓。

2代、5代、6代藩主の墓は、ここにはありませんでした。

福山藩水野家は6代で終わり、以後、阿部氏が10代藩主を務めます。


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ここには、ほかにも一族・家臣の墓が葬られていました。


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場所は変わって福山城の北にある福山八幡宮のなかに、聡敏神社という小さな社があるのですが、ここは水野勝成を祀った神社です。


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社殿には、勝成の絵馬が奉納されています。


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水野家の家紋
ですね。


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400年後の福山のまちにも、藩祖・水野勝成の足跡は各所に残されていました。

以上で「福山城のまち逍遥記」を終わります。

この日は昼前から夕方まで、実に25,000歩も歩きました。



備後福山城のまち逍遥備忘録 その1 「本丸・伏見御殿跡」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その2 「天守」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その3 「二の丸」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その4 「赤門・小丸山」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その5 「備後護国神社(阿部神社)」



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by sakanoueno-kumo | 2016-05-06 16:03 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(4)  

備後福山城のまち逍遥備忘録 その5 「備後護国神社(阿部神社)」

福山城北側三の丸には、備後護国神社があります。

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ここは昭和32年(1957年)まで阿部神社と称えていましたが、護国の英霊と合祀され、社名が備後護国神社と改められました。


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そもそものはじまりは、文化10年(1813年)、福山藩主・阿部氏の遠祖である大彦命・武沼河別命・豊韓別命と歴代藩主を祀る勇鷹(いさたか)神社として創建されたことに始まります。


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その後、明治10年(1877年)に阿部神社と改称、県社に列しました。


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最初と2枚目の写真は西側にある備後護国神社としての正式な参道で、3枚目4枚目の写真は南側にある阿部神社の時代の参道です。


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拝殿本殿です。


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境内には、7代藩主・阿部正弘の石像があります。

福山城二の丸にも正弘の像がありましたが、あっちの方がイケメンでしたね。

でも、こっちのほうが肖像画に似てるかな?


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若干25歳で老中首座(現在でいえば内閣総理大臣)に就任した正弘は、ペリー来航にあたり日米和親条約を締結したことで知られています。

教育の重要性を早くから唱え、その人材を育てるために藩校・福山誠之館を創立しました。

そのため、現在では受験合格、学業成就の神として信仰されているそうです。


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そういえば、正弘は薩摩藩主・島津斉彬や水戸藩主・徳川斉昭とともに、日本の国旗を「日の丸」と制定した人物でもあります。

昨今の卒業式などで日の丸に敬意を払わない教員さんを見て、正弘はどう思うでしょうね。


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あと、境内には「宮本武蔵腰掛石」があります。

読んで字のごとく、宮本武蔵が座ったとされる石ですね。


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元和元年(1615年)の大坂夏の陣において、武蔵は水野勝成の陣に属したとい伝わり、その後、福山藩初代藩主となった勝成を訪ねて福山城を訪れた際、家老・中山将監の屋敷の庭園で腰を掛けた石が、この石なんだそうです。

実話かどうかはわかりませんが、NHK大河ドラマ『武蔵』のなかでも紹介されていました。

まあ、武蔵の伝説は全国各地にありますけどね。


そんなこんなで、シリーズはあと1回だけ続きます。




備後福山城のまち逍遥備忘録 その1 「本丸・伏見御殿跡」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その2 「天守」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その3 「二の丸」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その4 「赤門・小丸山」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その6 「水野勝成の墓所・聡敏神社」


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by sakanoueno-kumo | 2016-04-28 16:12 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

備後福山城のまち逍遥備忘録 その4 「赤門・小丸山」

福山城三の丸北側は現在テニスコートや護国神社になっていますが、その北側に「赤門」と呼ばれる門があります。

時代は進んで幕末長州軍と幕府軍の激戦地となった場所です。


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慶応4年(1868年)1月9日、前年から尾道に駐屯していた長州軍は、徳川譜代の大名である阿部家を攻めるべく福山城下に侵攻しました。

ちょうどこの3日前、京都は鳥羽伏見の戦いにおいて薩長軍は幕府軍を破っており、勢いづいていました。

反対に福山藩は、前年の11月22日に9代藩主・阿部正方が病没していたものの、時局多端のためその死は秘され、1月9日未明、まさに長州藩兵が福山城に攻撃を行う数時間前に、城内北西の小丸山仮埋葬されたばかりでした。

長州軍は堀が築かれていない福山城の北側から攻撃を開始。

しかし、天神山、小丸山などの自然の地形を巧みに生かした福山藩兵の銃撃により、長州軍の進撃はここ赤門で阻止されます。


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その後、7代藩主・阿部正弘の側近で福山藩の儒学者・関藤藤陰(当時は石川和助)が、福山藩家老の三浦義建と共に藩を代表して長州藩との交渉を行い、新政府に参加していた広島藩主・浅野長勲の実弟・正桓を次期藩主として迎え入れることを条件に、福山藩と長州軍の間で講和が成立。

これ以後、福山藩は新政府軍に加わり、福山城下は戦火を免れます。


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赤門をくぐったところに建つ捨生取義の石碑です。


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明治維新前後の動乱(石州の役、函館の役、佐賀の役、台湾の役、西南の役)の戦闘で命を落とした旧福山藩士110名の名が刻まれています。

明治19年(1886年)に建てられたものだそうで、その揮毫は、最期の藩主となった阿部正桓によるものだそうです。


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長州軍から福山城を死守した小丸山は、「先人の森」として福山の礎となった人々の顕彰碑が建てられています。


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これは、寺地舟里という医学者の碑。


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こちらは、江木鰐水という兵学者の碑。


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そしていちばん奥には、福山藩初代藩主の水野勝成の碑。

なんだ、慶応4年1月の攻防とは関係ない人ばかりじゃないか!

なんで、ここに関藤藤陰を入れないんでしょうね。


次回に続きます。



備後福山城のまち逍遥備忘録 その1 「本丸・伏見御殿跡」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その2 「天守」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その3 「二の丸」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その5 「備後護国神社(阿部神社)」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その6 「水野勝成の墓所・聡敏神社」

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by sakanoueno-kumo | 2016-04-27 13:37 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

備後福山城のまち逍遥備忘録 その3 「二の丸」

本丸を降りて二の丸を歩きます。

福山城の二の丸は本丸を囲む帯曲輪で、北面以外は幅が狭く、櫓以外に目立った施設は建てられていなかったそうです。

まずは南側から。

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いまは桜並木になっています。

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上の写真は二の丸南から見上げた伏見櫓です。

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こちらは二の丸南から見上げた月見櫓です。

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二の丸東には、備後福山藩初代藩主・水野勝成の銅像があります。

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猛将として名高い勝成ですが、銅像は知的で上品なお殿様といった感じです。

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銅像の横には、ご覧のとおり天守東面がそびえています。

ここ、絶好の撮影スポットです。

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青空だったらいい写真になったでしょうけどね。

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少し北に進んで、二の丸北東から天守を撮影。

ここも結構、いいポイントかな。

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二の丸北側にやってきました。

上の写真は真北から見た天守です。

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二の丸北側だけは広い敷地になっていて、かつては城米蔵などが建て並んでいたそうです。

現在はテニスコートがあり、その東には昭和初期に建てられた福寿会館という建物があります。

上の写真は、そこの庭園から見た天守です。

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そして二の丸西面に足を運ぶと、阿部正弘の銅像がありました。

備後福山藩の藩主は水野家、松平家、阿部家へと引き継がれますが、最後の阿部家は廃藩置県まで10代に渡って161年間在封し、この間、幕府老中を4人、大坂城代を1人輩出しました。

とくに7代藩主・阿部正弘はわずが25歳の若さで老中首座(現在でいえば内閣総理大臣)に就任したキレ者です。

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阿部正弘は、肖像画などを見てもダンディーなイケメンですからね。

正弘は39歳の若さで急死してしまいますが、もし正弘が生きていれば、井伊直弼大老就任もなかったかもしれませんし、そうなれば、安政の大獄もなかったでしょうから、幕末の歴史は大きく変わっていたかもしれません。

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もっとも、正弘はほとんど江戸城にいたでしょうから、ここ福山城で藩政に従事することは少なかったでしょうけどね。

次回に続きます。



備後福山城のまち逍遥備忘録 その1 「本丸・伏見御殿跡」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その2 「天守」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その4 「赤門・小丸山」

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by sakanoueno-kumo | 2016-04-20 21:27 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

備後福山城のまち逍遥備忘録 その2 「天守」

福山城天守は昭和20年(1945年)8月8日の福山大空襲で消失し、現在の建物は昭和41年(1966年)に月見櫓、御湯殿と共に復興された鉄筋コンクリート製のものです。

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8月8日といえば、同じ広島県内に原爆が投下された2日後、終戦の1周間前ですね。

広島市内では、原爆により8月6日に広島城が大破しています。

戦争は多くの人の命を奪いましたが、同時に、わが国の歴史的遺産も奪いました。

終戦の決断がもう少し早ければ、救われた命も、そして失わずにすんだ文化遺産もたくさんあったでしょうね。

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福島正則の改易によって元和5年(1619年)に入封した水野勝成が、3年の歳月をかけて築城した福山城天守は、5重5階地下1階層塔型の天守でした。

現在の復元城とは、外観はかなり違うようで、「復元」ではなく「復興」に分類されているそうです。

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明治維新による廃城後、城はそのまま放置され、天守の傷みは甚だしかったそうですが、その歴史的価値が認められた明治30年(1897年)から修理が行われ、昭和6年(1931年)には、姫路城松本城と同時に国宝に指定されたそうです。

重ね重ね残念ですね。

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この日は本丸広場でイベントが開催されていて、写真を撮るには目障りなテントやらステージやらがあって残念でした。

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天守のなかは博物館になっていて、撮影禁止です。

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ただ、せっかくなので、天守最上階からの眺望をアップします。

写真は天守南側の本丸広場で、奥の芝生部分が前稿で紹介した伏見御殿跡、その左の櫓は月見櫓、中央が御湯殿、右側に少し見えるのが筋鉄御門で、その横に伏見櫓があるのですが、木に隠れちゃってます。

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曇り空でなければ、いい眺めだったのでしょうけどね。

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扉の家紋です。

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さて、本丸と天守を制覇したので、次回は二の丸をめぐります。



備後福山城のまち逍遥備忘録 その1 「本丸・伏見御殿跡」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その3 「二の丸」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その4 「赤門・小丸山」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その5 「備後護国神社(阿部神社)」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その6 「水野勝成の墓所・聡敏神社」

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by sakanoueno-kumo | 2016-04-15 13:14 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)