カテゴリ:香川の史跡・観光( 2 )

 

雨の讃岐高松城を訪ねて ~後編~

昨日の続きです。

生駒氏が転封になったあと、讃岐国は一時、隣国伊予国の西条藩主・一柳直重、大洲藩主・加藤泰興、今治藩主・松平定房により分割統治されますが、寛永18年(1641年)に西讃地域に山崎家治が入って丸亀藩ができると、翌19年(1642年)には水戸黄門様で知られる水戸城主・徳川光圀の兄・松平頼重が東讃地域に入り、高松藩12万石の藩祖となります。
入封した頼重は、すぐに城の拡張工事にとりかかり、光圀の子で養子となっていた2代藩主・松平頼常の代まで工事は続いたそうです。

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写真は重要文化財に指定されている艮櫓(うしとらやぐら)
もともとは東の丸の北東の隅櫓として建てられたもので、北東の方角のことを丑寅(艮)ということから、この名前になったそうです。
記録によれば、延宝5年(1677年)に完成されたようで、2代藩主・頼常の時代ですね。

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艮櫓の横にある旭門を出ると、濠に旭橋が架かっているのですが、写真で見てもわかるように、濠に対して斜めに架かっています。
これは、横矢が掛かりやすくしているのだとか。

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写真は向かって左から月見櫓(つきみやぐら)・水手御門(みずてごもん)・渡櫓(わたりやぐら)です。
これらもすべて重要文化財指定です。
下の写真は正面から撮影。

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月見櫓は北之丸の最北端に位置し、瀬戸内海を監視するためにつくられた隅櫓だそうで、艮櫓とほぼ同時期に建てられたものと考えられているそうです。
月見櫓は「到着を見る」という意味の「着見櫓(つきみやぐら)」が本来の名称で、藩主が江戸から船で帰ってくるのをこの櫓から望み見たことから名づけられたのだとか。

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水手御門は海に向かって開いた門で、藩主はここで小舟に乗船し、沖で御座船に乗換えて参勤交代等に出かけたそうです。

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上の写真は城敷地内から見た水手御門。
門のすぐ外が濠になっていて、不思議な景色です。

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渡櫓は、生駒氏築城時からあった海手門を改修して建てられたと考えられているそうです。

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写真は渡櫓の中です。
壁がめずらしい波型壁になっているのですが、どういう意味があるのでしょう?

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石落としです。

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梁の継手の下面に、「延寳四年卯二月十日井上氏□□」という墨書が確認でしかます。
340年前の落書きですね。

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こちらは月見櫓の内部。
急な階段で3階まで上れます。

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上からの景色です。

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こちらは北側の景色。
海がすぐそこにあるのがおわかりいただけるかと思います。

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瓦の先には言うまでもなく「葵の御紋」です。

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向こうに写っているのは、藩の政庁および藩主の住居として使われていた披雲閣(ひうんかく)です。
明治5年(1872年)に老朽化のため解体されましたが、大正6年(1917年)に建てなおされて現在に至るそうです。
かつては昭和天皇・皇后両陛下も2度宿泊されたそうです。

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その後、高松松平氏は11代続き、幕末まで西国大名の監視と瀬戸内海の要としての役目を担います。
しかし、幕末には宗家である水戸藩が尊皇に傾く一方、11代藩主・松平頼聰の正室が井伊直弼の娘という立場から、尊皇・佐幕の板挟みで苦しい立場に立たされます。
結局、鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府軍に与したため朝敵とされ、やがて高松城は無血開城され、高松松平氏は終焉を迎えます。

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とにかくこの日は1日中雨で、片手に傘、片手にカメラでたいへんでした。
ハッキリ言ってどう考えても城見物などできる状態ではなかったのですが、せっかく高松に来て、しかも城の隣の施設にいて、見物に行かない手はないだろうと、無理やり強行した次第です。
まあ、それでも行ってよかったですけどね。
というわけで、自己満足の讃岐高松城見物備忘録は、このへんで終わりにします。


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by sakanoueno-kumo | 2014-11-14 19:00 | 香川の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

雨の讃岐高松城を訪ねて ~前編~

先日、香川県は高松市に出張の折、仕事の合間を縫って雨のなか高松城跡を訪れました。
高松城というと、豊臣秀吉の中国征伐で水攻めされた高松城を思い出しがちですが、あちらは備中高松城で、現在の岡山県に位置します。
こちらは四国の讃岐高松城
瀬戸内海を挟んでちょうど向かい合わせるような場所に同じ名前の城というのも、ややこしいですね。
ただ、備中高松城は江戸時代に入って廃城になっていますから、二つの高松城が同時に存在した期間は短かったようです。

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ここ讃岐高松城を訪れると、潮の香りが漂っています。
というのも、北は瀬戸内海に面し、残り三方を囲む濠には海水を引き入れた海城で、伊予国今治城、豊前国中津城と並んで、日本三大水城のひとつに数えられています。
海上から見るとその威容は素晴らしいものだったようで、明治時代には「讃州さぬきは高松さまの城が見えます波の上」と謡われたり、与謝野晶子によって「わたつみの 玉藻の浦を前にしぬ 高松の城竜宮のごと」と詠まれたりしています。

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濠が海とつながっているため、潮の干満による水位調整のための水門があります。

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讃岐高松城は、別名、玉藻城ともいいます。
その由来は、万葉集柿本人麻呂が讃岐国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことから、この辺りの海域を玉藻の浦と呼んでいたからだそうです。

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模型で上空から見るとこんな感じです。
海と濠がつながっていることがわかるでしょうか?

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ここ讃岐高松城は天正15年(1587年)に豊臣秀吉から讃岐一国17万3千石を与えられた生駒親正によって、翌16年(1588年)に築城が開始されました。
その縄張り(設計)を行ったのは、藤堂高虎、黒田官兵衛、細川忠興など諸説あります。
いずれも当時の築城には必ず名前が出てくる面々ですね。
城は約3年かけて完成し、「高松」という地名も、このとき付けられたものだそうです。

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天守台です。
かつては「南蛮造り」と呼ばれる三層四階の天守があったそうですが、明治17年(1884年)に老朽化のため解体されています。
かつてあった天守は、最下重が萩城熊本城の天守のように天守台より出張り、最上重が小倉城岩国城の天守のように「唐造り」だったそうです。
その様子は、解体される以前に写真におさめられているそうです。
高松市では、天守の復元を企画しているそうで、老朽化した石垣の解体・積み直し工事が行われていました。

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写真は復元イメージ図。
たしかに、最下層が天守台より出張っています。
たぶん、この出張ったところに石落しがあったのでしょうが、現代の建築基準法ではあり得ない設計ですね(笑)。

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復元模型で見るとこんな感じです。

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天守台の上も見学できます。

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天守台と二の丸を結んでいる唯一つの連絡橋、鞘橋です。
この橋を落とすことによって本丸だけを守るようになっていたんですね。
絵図などの史料によれば、築城当初からこの位置に橋がかけられていたことがわかるそうで、当初は「欄干橋」と呼ばれる屋根のない橋だったようですが、文政6年(1823年)の絵図には屋根付きの橋が描かれているそうで、江戸時代に改修が行われたことがうかがえます。

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現在の鞘橋は明治17年(1884年)の天守解体時に架け替えられたものと伝わっているそうで、大正期には橋脚が木製から石製に替えられたことが古写真で判明しているそうです。

天守台から見下ろした鞘橋です。

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藩祖となった生駒親正は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて西軍に加担しますが、嫡男の生駒一正東軍に与して戦功をあげたため、戦後も所領を安堵されます。
家を守るために父子・兄弟が敵味方に別れる例は、他にもいくつかありますね。
しかし、第4代藩主の生駒高俊の代にお家騒動(生駒騒動)が起き、寛永17年(1640年)に改易され、出羽国矢島藩1万石に転封されてしまいます。
17万石から1万石の降格ですからね。
ほとんど流罪のようなものだったでしょう。

長くなっちゃたので、「後編」に続きます。


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by sakanoueno-kumo | 2014-11-13 19:58 | 香川の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)