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カテゴリ:奈良の史跡・観光( 6 )

 

大和国、郡山城跡を歩く。 その6 「三の丸・外堀」

ひと通り城跡内を歩いたので、次は中堀の外を散策します。

まずは、鉄御門を出た南側にある「三の丸緑地」

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現在は、市民憩いの場となっています。

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三の丸緑地から道路を挟んで東側にある「柳御門跡」

ここも石垣は「野面積み」ですね。

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石垣と押しボタン信号のミスマッチです(笑)。

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大和郡山市役所前の「中堀跡」

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そこから更に東へ進むと、「外堀跡」「外堀緑地公園」として整備されています。

写真はその南門

かつて郡山城の外堀は、惣構として九条町大門、鍛冶町大門、高田町大門、柳町大門の4つの大門を通じて出入りをしていましたが、この南門は、柳町大門をイメージして再現されたものだそうです。

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その外堀公園に設置されていた城下町MAPです。

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外堀を普請したのは、豊臣秀長の死後、文禄4年(1595年)に20万石で入部した増田長盛でした。

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この頃には約1万人の家臣が城下に集中し、武家屋敷も多くなり、城下町では商工業が発達するなど、外堀で城下全体を囲む惣構の必要が生じていました。

そこで長盛は、秋篠川の付け替えや溜池をつないで、周囲が50町13間(約5.5km)の外堀を完成させます。

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外堀のほとんどは素掘りで、中堀や内堀のように石垣は積まれなかったようですが、掘削した土を堀の内側に積み上げて土塁を作り、防御壁としました。

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それらの説明板です。

赤いTシャツを着たわたしが映っています(笑)。

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城下町には、箱本十三町と書かれた説明板とMAPが各所に設置されていました。

天正13年(1585年)に入城した豊臣秀長は、城下町の繁栄のため、奈良や堺の商人たちを郡山に呼び寄せ、地租免除などの特権を与えて箱本制度という自治組織を作りました。

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城下町に復元された「火見櫓」です。

延宝8年(1680年)、郡山で大規模な火災があり、町屋670軒あまりが焼失しました。
貞享3年(1696年)、当時の藩主・
本多忠平が、この延宝の大火」を教訓として城下町の防火進めるために、堺町、本町、柳5丁目、今井町に火見櫓を建てました。

城下町を描いた町割図という絵図には堺町の火見櫓が描かれているそうです。

建物の屋上に四角い望楼を高く建てて、四方に窓を開けたもので、17町が交代で見張りを行っていたそうです。

さて、シリーズ6まで続いた郡山城シリーズですが、ひとまずこれで終わりとします。

この日は2015年8月8日の夏真っ盛りの猛暑日で、汗だくになって歩きまわりました。

郡山城は桜の名所だと聞きますから、今度は春に訪れてみたいですね。




大和国、郡山城跡を歩く。 その1 「二の丸」

大和国、郡山城跡を歩く。 その2 「天守台」

大和国、郡山城跡を歩く。 その3 「本丸(法印郭)」

大和国、郡山城跡を歩く。 その4 「本丸(毘沙門郭)」
大和国、郡山城跡を歩く。 その5 「本丸(主郭)」

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by sakanoueno-kumo | 2016-05-26 23:12 | 奈良の史跡・観光 | Comments(4)  

大和国、郡山城跡を歩く。 その5 「本丸(主郭)」

郡山城主郭は、現在、柳澤神社となっています。

本丸南側の入口には、その鳥居があります。

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鳥居をくぐって進んだところにある、「竹林門跡」です。

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石碑には、「祭神旧川越甲府城主柳澤美濃守吉保公」と刻まれています。

柳沢吉保とは、郡山城に入った初代・柳沢吉里の父にあたります。

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この神社は、明治に入ってから旧藩士たちによって、吉保・吉里の遺徳を偲んで建立されたそうです。

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神社境内の西側に、小さな鳥居と祠がありました。

その向こうに見えるのが、立ち入り禁止になっている天守台です。

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この祠が何を祀ったものかは説明板がなかったのでわからなかったのですが、おそらく、「その2」で紹介した石地蔵などを祀ったもので、天守台が立入禁止の間は、ここに参拝するようになっているのかと。

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祠から見た天守台石垣です。

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柳沢氏は第19代城主・柳沢吉里から第24代・柳沢保申まで6代に渡って郡山城主を務め、郡山城の最期を見届けました。

明治6年(1873年)に郡山城は破却され、櫓・門・塀などの建築物は、入札によって売却されます。

多くの城がそうでしたが、維新後、旧藩主は知藩事に任命され、城も藩庁としての役目を担うものの、その後、明治4年(1871年)の廃藩置県によってほとんどの知藩事は罷免となり、東京に移住させられます。

そのとき、ほとんどの城が破却されてしまうんですね。

今となっては残念なことですが、維新当時は、城など無用の長物の極みだったでしょうから。

あと1回だけ続きます。



大和国、郡山城跡を歩く。 その1 「二の丸」

大和国、郡山城跡を歩く。 その2 「天守台」

大和国、郡山城跡を歩く。 その3 「本丸(法印郭)」

大和国、郡山城跡を歩く。 その4 「本丸(毘沙門郭)」
大和国、郡山城跡を歩く。 その6 「三の丸・外堀」


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by sakanoueno-kumo | 2016-05-25 20:31 | 奈良の史跡・観光 | Comments(2)  

大和国、郡山城跡を歩く。 その4 「本丸(毘沙門郭)」

追手門向櫓の南側は、「毘沙門郭」と呼ばれていました。

もともとは「本丸ニの郭」と呼ばれていましたが、柳沢吉里入城以降に「毘沙門郭」と改名したそうです。

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毘沙門郭にある「久護門跡」です。

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毘沙門郭から見た「追手向櫓」です。

この櫓は、追手門を守るために置かれた櫓で、柳沢氏の前の本多氏時代には、「大手先艮角櫓(おおてさきうしとらすみやぐら)」と呼ばれていたそうです。

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毘沙門郭は現在庭園になっていて、中央にあずまやがあります。

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毘沙門郭に建つ「柳沢文庫」

郡山藩最後の藩主となった柳沢保申が建てた迎賓館で、現在は柳沢家に伝わる藩や城に関する古文書や絵図、文化作品などが展示されておいます。

中は撮影禁止だったので紹介できませんが、この日は夏真っ盛りの猛暑日だったので、冷房が効いた館内でしばらく涼みました(笑)。

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毘沙門郭西側にあったという「極楽橋跡」です。

かつてここに、本丸主郭と毘沙門郭を結ぶ「極楽橋」があったそうです。

現在、この極楽橋を復元する案があるとか。

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その極楽橋が架かっていたとされる堀です。

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現在、毘沙門郭と主郭を結ぶ通路は、この門だけとなっています。

次回は主郭に入ります。




大和国、郡山城跡を歩く。 その1 「二の丸」

大和国、郡山城跡を歩く。 その2 「天守台」

大和国、郡山城跡を歩く。 その3 「本丸(法印郭)」

大和国、郡山城跡を歩く。 その5 「本丸(主郭)」
大和国、郡山城跡を歩く。 その6 「三の丸・外堀」


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by sakanoueno-kumo | 2016-05-19 17:42 | 奈良の史跡・観光 | Comments(2)  

大和国、郡山城跡を歩く。 その3 「本丸(法印郭)」

郡山城の本丸は、堀を挟んで天守台のある西側と、法印郭、毘沙門郭のある東側に分かれます。

本稿では、城跡東側から本丸に向かいます。

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本丸東側の石垣です。

ここも「野面積み」ですね。

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写真は昭和62年(1987年)に復元された「追手向櫓」です。

青空に映えて美しいですね。

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その追手向櫓に繋がっているのが「追手門」、別名、「一庵丸門」とも「梅林門」とも言うそうです。

天正13年(1585年)8月、豊臣秀長が入城したときに、この場所に築かれたといわれますが、慶長20年(1615年)4月26日に起きた大坂夏の陣の前哨戦、郡山城の戦いの際に焼失。

その後、元和4年(1618年)に松平忠明が入封したとき再建され、「一庵丸門」と呼ばれたそうです。

更に時を経た享保9年(1724年)、柳沢吉里が入城した際、「梅林門」と名を変えました。

やがて明治に入って全ての建物が取り壊されましたが、昭和58年(1983年)に市民の寄付などにより復元されたそうです。


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外側から見た追手門。

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追手門側から見た「追手向櫓」です。

内枡形構造になっています。

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内側から見た追手門です。

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「法印郭跡」です。

写真は明治時代に建てられた旧奈良県立図書館跡で、現在は市民会館となっており、県指定の文化財になっています。

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法印郭南東隅にある、「追手東隅櫓」です。

こちらも、昭和59年(1984年)に復元されたものだそうです。

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かつては、「法印斜曲輪巽角櫓(ほういんななめのくるわたつみすみやぐら)」と呼ばれていたそうですが、柳沢吉里が入城した際、現在の名称になったそうです。

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豊臣秀長の時代、ここ法印郭に筆頭家老の桑山一庵法印良慶の屋敷があったとされ、法印曲輪または一庵丸と呼ばれるようになったそうです。

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鉄砲狭間が6ヶ所あります。

次回は法印郭の南に位置する毘沙門郭

をめぐります。



大和国、郡山城跡を歩く。 その1 「二の丸」

大和国、郡山城跡を歩く。 その2 「天守台」

大和国、郡山城跡を歩く。 その4 「本丸(毘沙門郭)」

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by sakanoueno-kumo | 2016-05-18 17:32 | 奈良の史跡・観光 | Comments(0)  

大和国、郡山城跡を歩く。 その2 「天守台」

郡山城天守台は、石垣の倒壊の恐れがあるとして、現在は立ち入り禁止となっています。

そこで、「中仕切門」から「新宅郭跡」に入り、内堀沿いに天守台を見てみます。

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天守台です。

石垣は典型的な「野面積み」で、出隅だけのちに補強された跡が見えます。

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郡山城の天守閣が築かれたのは天正11年(1583年)、豊臣秀長が大規模工事を行う前の筒井順慶のときだったそうですから、野面積みが主流だった時代ですね。

伝承では、かつてここに五層六階の天守閣があったと伝えられますが、現在の建築学上から考えて、現存する天守台では不可能とされており、その真偽は定かではありません。

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ここ郡山城は、大坂夏の陣の火蓋が切られた場所でもあります。

豊臣秀吉の死後、豊臣五奉行の一人である増田長盛が城主となりますが、長盛は関が原の戦い西軍に与したため、高野山に追放され、その後、徳川家康のはからいで、もともとの城主だった筒井氏の一族・筒井定慶1万石を与えられ、郡山城に入城しました。

大阪冬の陣が終結し、大坂城の内堀が埋め立てられ、もはや決戦やむなしとの局面を迎えると、豊臣方は郡山城を守る筒井氏に使者を送り、「豊臣家が勝利した暁には、定慶に大和を、弟の慶之には伊賀を与える」との条件で協力を要請します。

しかし、定慶は長らく途絶えていた名跡を復活させてもらった徳川家康に対する恩義を捨てきれず、申し出を断ります。
これを受けた豊臣方は、慶長20年(1615年)4月26日、2000の兵で大和に進軍してきますが、戦なれしていない定慶は、豊臣軍を3万の軍勢と見誤り、早々に城を捨てて奈良方面に落ち延びてしまいます。

その後、豊臣軍は奈良方面に進軍するかまえを見せますが、徳川軍の水野勝成隊が奈良方面に進軍しているとの報を受けると、大坂城に引き上げます。

水野勝成は戦後、その功により郡山城主となります。

一方、城を捨てて逃げた筒井定慶は、大坂城が落城してから3日後の5月10日、弟と共に切腹して果てたと伝えられます。

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天守台の裏手にが見えますが、この祠は、石垣築造の際の石不足を補うため、付近から石地蔵などをかき集めて徴用しており(この当時の築城ではよく行われていたことですが)、それらの地蔵を祀ったものだそうです。

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残念ながら立ち入り禁止で観ることはできませんでしたが、石組みの間から奥を覗き込むと、逆さになった状態で石の間に埋もれている地蔵を確認することができ、これは「逆さ地蔵」と呼ばれているそうです。(参照:Google画像検索

かつては、この逆さ地蔵の祟りで天守が倒壊した、なんて俗説もあったそうです。

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天守台石垣は、平成25年10月から29年3月まで3年半かけて修復工事を行うそうです。

当分の間は立ち入り禁止のようですね。

でも、石垣保存のためには、必要な期間だと思います。

同じく野面積みの石垣で昨今人気の兵庫県朝来市にある竹田城は、急激な観光客の増加で踏み荒らされたため、地面の草が枯れ、雨水がたまった土が膨張し、石垣が崩壊の危機にあるといいますが、観光客を確保したい朝来市は立ち入り禁止などの策を施さないばかりか、あろうことか、観光客の通路確保のため、国指定の史跡にも関わらず国の許可なしで勝手に朝来市が史跡に手をいれて工事をすすめ、大問題になっていましたね。

観光誘致史跡の保存管理相反するところにありますが、やはり、優先すべきは史跡の保存管理で、その点、朝来市と違ってさすがに奈良や京都は、史跡保存に対する意識が成熟していますね。

次回に続きます。



大和国、郡山城跡を歩く。 その1 「二の丸」

大和国、郡山城跡を歩く。 その3 「本丸(法印郭)」

大和国、郡山城跡を歩く。 その4 「本丸(毘沙門郭)」

大和国、郡山城跡を歩く。 その5 「本丸(主郭)」
大和国、郡山城跡を歩く。 その6 「三の丸・外堀」

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by sakanoueno-kumo | 2016-05-13 00:52 | 奈良の史跡・観光 | Comments(4)  

大和国、郡山城跡を歩く。 その1 「二の丸」

だいぶん前になりますが、奈良県は大和郡山市にある郡山城を訪れました。

「郡山城」という名称の城は全国に複数あって混同しがちなので、便宜上ここを大和郡山城と呼んだりしますが、正式名称は郡山城です。

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郡山城の築城は天正8年(1580年)、筒井順慶が筒井から郡山に移ったときに始められ、天正11年(1583年)には天守閣が完成。

その後、天正13年(1585年)8月に、豊臣秀吉の実弟・豊臣秀長が入城。

秀長は紀伊国、和泉国、大和国の3カ国百万石の太守・大納言として、城の拡張工事を行いました。

現在のこる石垣などの遺構は、秀長時代のものだそうです。

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城跡公園北東の角にある「桜御門跡」です。

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時代を感じさせる「野面積み」ですね。

「野面積み」とは、自然石をそのまま積み上げる手法で、加工せずに積み上げただけなので石の形に統一性がなく、石同士がかみ合っていないので、隙間や出っ張りができ、敵に登られやすいという欠点がありましたが、逆に隙間があるおかげで排水性が良く頑丈でした。

主に関ヶ原の戦い以前の16世紀の城に用いられた手法です。

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城跡の東の堀に沿って近鉄橿原線が走っていて、そこから堀を挟んで「東隅櫓」が見えます。

全国金魚すくい選手権大会があるようです(笑)。

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南東の角にある「鉄御門」から城跡公園内に入ります。

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こちらの石垣も同じく野面積みです。

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まずは内堀に沿って歩いてみました。

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鉄御門跡から西へ進んだところにある「表門跡」です。

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道は石畳に整備されており、車の通行も可能です。

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本丸南西にある「中仕切門跡」です。

枡形虎口となっています。

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そのすぐ西側にある「松蔭門跡」

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ここに「松蔭郭」という曲輪があったようです。

松蔭門の北側にある松蔭池に面する石垣です。

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この石垣は、「打込み矧ぎ」に見えますね。

「打込み矧ぎ」とは、表面に出る石の角や面をたたき、平たくして石の接合面の隙間を減らして積み上げる方法で、主に関ヶ原の戦い以後に用いられた手法です。

ここは、秀長時代のものではないのかもしれません。

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更に西へ進んで「西御門跡」

ここは奈良県立郡山高校城内学舎の校門にあたります。

郡山高校といえば、かつて甲子園の常連校だった高校ですね。

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さて、次回は門の中に入ります。



大和国、郡山城跡を歩く。 その2 「天守台」

大和国、郡山城跡を歩く。 その3 「本丸(法印郭)」

大和国、郡山城跡を歩く。 その4 「本丸(毘沙門郭)」

大和国、郡山城跡を歩く。 その5 「本丸(主郭)」
大和国、郡山城跡を歩く。 その6 「三の丸・外堀」

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by sakanoueno-kumo | 2016-05-12 00:49 | 奈良の史跡・観光 | Comments(2)