カテゴリ:おんな城主 直虎( 33 )

 

おんな城主 直虎 第32話「復活の火」 ~井伊谷三人衆と小野但馬守政次~

 永禄11年(1568年)12月6日、甲斐国の武田信玄は甲府を出発して駿河への侵攻を開始します。対する今川氏真は、12月12日、武田軍を迎撃するため重臣の庵原忠胤に1万5千の軍勢を与えて、薩埵峠へ向かわせました。しかし、ここで今川は有力な国衆21人の裏切りにあい、12月13日、今川軍は潰走し、駿府は武田軍に占領されます。今川氏滅亡劇が始まりました。


 一方、三河国の徳川家康も、信玄に呼応するかたちで動き始めます。『三河物語』によると、信玄と家康は事前に示し合わせ、大井川をはさんで駿河国武田領遠江国徳川領にする密約を交わしていたといわれます。三河国から遠江国に侵攻するには、その国境に位置する井伊谷は重要な拠点となります。その徳川に取り入って井伊家の再興を図るというのが、ドラマでの井伊直虎小野但馬守政次の狙いでした。


 『改正三河後風土記』によると、遠江を攻略すべく岡崎城を発った家康は、まず、井伊谷城を攻めようと三河野田城主の菅沼定盈とその家臣・今泉延伝案内役を命じます。その定盈は家康に対し、「井伊谷城は要害の地にある城ゆえ攻めるに難しく、力攻めにすれば空しく月日を費やし、兵を多く失うことになります。そこで、わたしの一族である菅沼忠久や近藤康用、鈴木重時という井伊谷の三人の豪傑に恩を施して味方につけ、戦わずして城を手に入れましょう。」と進言したといい、これを受けた家康は「その申すところ、もっともである。」として、井伊谷近くまで馬を進め、三人に知行の宛行状を渡したと伝えます。このシーンはドラマにもありましたね。


 一方で、『井伊家伝記』によると、家康は菅沼忠久、近藤康用、鈴木重時の三人に井伊谷城を攻めさせ、小野但馬守政次を敗走させたと伝えます。三人の軍勢はよほど強かったようで、政次は満足に戦うことなく逃亡したといいます。ただ、井伊谷城を攻撃したという記述は『井伊家伝記』のみに見られるもので、史実かどうかは定かではありません。何度か紹介してきたとおり、『井伊家伝記』は江戸時代中期に書かれた家伝で、その信憑性については疑問符が打たれる史料なので(・・・ただ、それを言ってしまうと、井伊直虎=次郎法師というのも、この『井伊家伝記』に基づく説なんですが)。


 『井伊家伝記』の記述を信用すれば、井伊家を横領して我が物にしようとした奸臣・小野但馬守政次が悪者で、その政次を捉えて処刑に追いやった近藤康用こそが、井伊家を救った恩人ということになります。ところが、ドラマではまったく逆の設定。政次こそが井伊家のために命を張った忠臣で、近藤はこれまでの遺恨(材木泥棒の話)などから井伊家を快く思っておらず、この機に乗じて井伊谷を乗っ取ろうとする悪役に描かれていました。その真偽はどうなのか・・・。先述したとおり、『井伊家伝記』は徳川を批判することが許されない江戸時代中期に書かれたもので、歴史家のあいだでは、小野を悪役に仕立てることで、徳川、井伊谷三人衆、井伊の大義名分を確保した可能性が指摘されている史料です。そう考えれば、ドラマのような解釈はまったく否定できませんよね。実際、『井伊家伝記』の記述にみる井伊谷城横領後の政次の行動は、あまりにもお粗末すぎて不自然です。案外、ドラマのような物語があったのかもしれません。


「にわかには信じられぬであろうが、井伊と小野はふたつでひとつであった。井伊を抑えるために小野があり、小野を犬にするため井伊がなくてはならなかった。ゆえに憎み合わねばならなかった。そして生き延びるほかなかったのだ。」


 それが、大国・今川氏の傘下で小国が生きていくための手段だった・・・と。かつて「お前は必ずわしと同じ道をたどるぞ。」と語った政次の亡き父・小野和泉守政直の言葉は、こういうことだったんですね。しかし、それも今日で終わりだ・・・と。ここから、新しい井伊家が始まるんだ・・・と。


 しかし、その新しい井伊家に小野は参加できません。政次という人物の見方は、いくらでも角度を変えて解釈できるでしょうが、歴史上起こった出来事までは変えることはできません。次回、その悲痛な結末が描かれます。



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by sakanoueno-kumo | 2017-08-14 16:13 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第31話「虎松の首」 ~小野但馬守の井伊谷城乗っ取り~

 永禄11年(1568年)11月19日、井伊直虎は2年間はねつけていた徳政令をとうとう布告しました。これは、単に徳政令の発動ということだけではなく、直虎の政治的敗北を意味していました。駿府の今川氏真はこれを機に直虎を地頭職から罷免し、井伊谷の統治権を奪います。そして、その代わりに城代となったのが、小野但馬守政次でした。このため、一般にこの事実は、政次の井伊谷城乗っ取りと解釈されています。


 ところが、ドラマでは全く違う設定で、政次は誰よりも井伊家のことを考え、直虎を守るために自らを犠牲にする人物として描かれています。自身が裏切り者を演じることによって今川から井伊谷を任され、井伊家のとなる腹積もりなのでしょう。既に今川から疑念を持たれている政次でしたが、百姓の座り込み騒ぎをとっさに利用して関口氏経に取り入り、信頼を得ることに成功。この政次の機転をアイコンタクトで理解して乗っかる直虎。ふたりのコンビネーションは、もはや主と家老の域を超えています。


 『井伊家伝記』によると、今川氏真は政次を井伊谷城の城代に据える条件として、来る武田氏との戦に備えて軍勢を出すこと、そのうえ、井伊虎松(のちの井伊直政殺害するよう命じたといいます。これを事前に察知してか、直虎は虎松を龍潭寺松岳院に逃し、南渓瑞聞和尚の協力を得て三河国の鳳来寺に逃しました。鳳来寺は徳川氏の領内なので、今川の手が及ぶことはありません。そして直虎は実母の祐椿尼とともに松岳院に残り、徳川軍の救援を待つことになります。


 この徳政令をめぐる一連の出来事は、直虎が関口氏経と連署で蜂前神社に奉じた文書と、今川家から瀬戸方久に送られた赦免状以外、実はほとんど何もわかっていません。政次の専横を伝える『井伊家伝記』は後世に記された家伝で、多分に井伊家に都合よく書かれた創作も多く、一次史料としては扱われていません。つまり、2年間はねつけていた徳政令を発布すると同時に井伊家は井伊谷を追われ、政次が代官として井伊谷に入ったということは事実としても、それが乗っ取りだったという確証はどこにもないんですね。だから、今回のドラマのような解釈があってもいいんじゃないかと。ただ、となれば、この先の政次処刑まで物語をどう持っていくかが見ものですが。


 「すべてを含めて、だまされておられるということはございませぬか?」


 この中野直之の台詞が鍵となってくるのでしょうか?


 それにしても、虎松の首あらためのシーンは引き込まれましたね。「虎松君は疱瘡を患っておいででしたので」という台詞で首が虎松のものではないということを伝え、それを聞いた直虎が、涙ながらに首を抱えてを上げる。あの涙は関口の目を欺くための演技ではなく、身代わりとなった名も無き少年に対する哀悼の悲嘆だったのでしょう。そして、井伊家のために政次にここまでさせてしまったという心痛もあったかもしれません。さすがの政次も、この局面を無血では収められませんでした。身代わりとなって死んだ子は助からない病に罹って親に売られた子で、その子にとっても、あとは死ぬだけなのに銭を親に与えられてよかったんだ・・・という龍雲丸の言葉は、本当の話なのか、それとも直虎を慰めるための作り話だったのか・・・。


 「案ずるな。地獄へは俺がゆく」


 おとわを思う政次の心が、あまりにも悲痛です。



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by sakanoueno-kumo | 2017-08-07 15:04 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第30話「潰されざる者」 百尺竿頭進一歩、大死一番絶後再蘇

 駿府の今川氏真に呼び出されて、気賀に新しいを作ることを認める代わりに、井伊家を取り潰す手助けをするよう求められた瀬戸方久。三河の徳川家康との戦いに備え、その間に位置する井伊谷を今川の直轄領にしたいというのがその狙いで、具体的には、2年間据え置きになっていた井伊谷に対する徳政令を発布し、井伊家の領国経営を立ち行かなくしてしまおうという筋書きです。その対価として、方久の所有する土地、財産に関しては安堵する・・・と。


 これらはすべてフィクションですが、荒唐無稽な創作ではなく、史実、通説を上手く利用した上手い設定でした。方久が井伊家潰しに加担したという話は創作ですが、氏真から方久が徳政令発布後の安堵状を得ていたのは史実で、堀川城の根小屋に方久が蔵を設けたのも本当です。ただ、歴史家・楠戸義昭氏の著書によれば、方久が安堵状を得たことは方久を支援してきた井伊直虎にとっても望むところで、また、堀川城の蔵は、氏真が方久に命じて作らせたとしています。史実はひとつでも、見方を変えればぜんぜん違う解釈に描けるんですね。


 氏真の命を受けた関口氏経が井伊家を訪れて徳政令を行うよう下知していましたが、これは史実に沿った設定で、このあと、直虎は氏経と連盟で徳政令を布告することになります。百姓たちが氏経の元に押しかけて座り込みをしたという記録はありません(笑)。


 で、小野但馬守政次ですが、いよいよ直虎との関係が大きな山場を迎えそうです。少しネタバレになりますが、通説では、政次はこの徳政令発布から氏真と家康、そして武田信玄らの戦いの混乱に乗じて井伊谷を乗っ取るものの、すぐさま徳川軍によって奪還され、その後、処刑されます。しかし、この物語での政次は、今川の犬の仮面をかぶった直虎の。どう物語を展開していくのか興味深かったですが、どうやら、その方向性が見えてきたようです。


 百尺竿頭に一歩を進む

 大死一番絶後に再び蘇る


 久々に禅語が出ましたね。たとえ頂点に達していても、決して現状に満足することなく、次なる一歩を見出さなければならない。死んだつもりになって挑めば、たとえ失敗しても、必ず再び挽回できる・・・といったところでしょうか?


あえて井伊を潰して今川に領地を差し出し、その後、徳川の協力を得て取り戻す。まさしく、「大死一番絶後に再び蘇る」ですね。直虎がこの時点でそこまでの計算をしたかどうかはわかりませんが、歴史はまさにその道をたどります。ただ、その生贄になるのが、政次なんですね。


 政次「俺を信じろ。信じろ、おとわ。」


 但馬ロスが近づいています。



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by sakanoueno-kumo | 2017-07-31 19:30 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第29話「女たちの挽歌」 ~信玄・家康の密約と虎松の生母の再婚~

寿桂尼がこの世を去った永禄11年(1568年)、井伊家を取り巻く情勢はいよいよ緊迫の様相を呈していました。同年8月17日、実質破綻していた甲斐国武田信玄駿河国今川氏真手切れが決定的となります。危機感を抱いた氏真は、越後国上杉謙信同盟を結ぶべく懸命に交渉を進めていました。劇中、井伊直虎三河国徳川家康に上杉氏との同盟を持ちかけたのは、そんな背景からの着想だったわけです。上杉氏と徳川氏が結び、そこに今川氏と北条氏が加われば、武田氏の駿河侵攻は避けられる・・・と。しかし、信玄はすでに家康に接近し、大井川をはさんで駿河国は武田氏、遠江国を徳川氏といった密約を交わしていたといわれます。武田軍の駿河侵攻は時間の問題でした。


 ドラマでは描かれていませんでしたが、信玄がこのタイミングで動き出した背景には、この年の9月、織田信長が将軍・足利義昭を奉じて上洛したことが影響していたと思われます。このとき、武田氏と織田氏は同盟関係にありましたが、織田氏の勢力拡大は武田氏にとって決して喜ばしいことではなく、牽制する必要があったんですね。そのためには、東の憂いを排除しておく必要があったわけです。


 直虎が家康に上杉氏との同盟を勧めたという話はドラマのオリジナルの設定なので、当然ながら同盟は不成立に終わります。そして、逆にその行為がとなって、井伊家の立ち位置を危ぶまれ、井伊虎松の母・しの人質に要求されてしまいます。もちろんこれも、ドラマのオリジナル設定です。


 しかし、虎松の生母再婚したという話は本当で、その相手が徳川方の間者・松下常慶の兄・松下源太郎清景というのも史実です。この件に関して『井伊家伝記』にはこう記されています。


 「直盛公内室並びに次郎法師御相談にて、直政公御実母御年若故、松下源太郎方へ御縁付き成され候」


 直虎は母の祐椿尼と相談し、若くして未亡人となった虎松の母に再婚を勧め、松下源太郎清景に嫁がせたというんですね。どうやら人質ではなかったようです。ただ、この結婚がいつだったかはわかっておらず、ちょうどこの駿河攻め直前にもってきて人質としたのは、上手い設定だったんじゃないでしょうか?


 この松下氏とは、頭陀寺城の城主・松下加兵衛之綱の一族です。之綱といえば、まだ織田信長に仕える前の少年・藤吉郎(のちの豊臣秀吉)の非凡さを見抜いて拾い上げ、武士として育てたことで知られる人物です。その一族である清景は、虎松の実母と結婚したことで虎松の継父となり、後年、井伊直政となった虎松が徳川家家臣として頭角を現すと、井伊家の重臣として代々仕えることになります。


 物語は前回あたりがらグッと大河ドラマらしくなってきましたね。緊迫した甲駿関係、そんななか、直虎のとる策は・・・。これから数話、ドラマは大きなクライマックスを迎えます。



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by sakanoueno-kumo | 2017-07-24 21:53 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第28話「死の帳面」 ~おんな大名 寿桂尼~

 寿桂尼、最後の政治でしたね。武田信玄の息子・武田義信が幽閉先の東光寺自害(病死とも)したのが永禄10年(1567年)10月19日。その翌月には義信の正室・嶺松院(実名は不明)がその娘とともに今川に送還されているので、ドラマはこの1ヵ月前後の政治を描いています。寿桂尼が没するのは翌年の3月14日。死の4~5ヵ月前ということになりますね。そんな寿命が尽きる寸前のばあさんが、甲斐へ相模へと奔走しえたとはとても思えませんが、「死しても今川の守護たらん」という有名な遺言を残すほど今川の行く末を案じていた寿桂尼ですから、きっと、最後まで孫の今川氏真にまつりごとを任せられず、あんな感じで口を出していたんじゃないでしょうか。


信玄「お具合がよろしゅうないと聞いておりましたが、ご息災で何よりでございます。」

寿桂尼「神仏も我には会とうないようにございます。」

信玄「それは神仏も正直なことを。」


寿桂尼「老婆心ながら、そなたほどのお方が尾張の若造に足をすくわれませぬように。」

信玄「ご忠告、痛み入ります」


 圧巻の舌戦でしたね。老獪VS老獪古雌狐VS古禿狸。実に見ごたえがありました。でも、明らかに寿桂尼がイニシアティブを取っていましたね。


氏真「おばばさま、首尾はいかがでしたか?」

寿桂尼「鈴は武田にとっては決め手となる人質です。われが行ったくらいで手放すわけが・・・」

氏真「では、何のために行かれたのですか?」

寿桂尼「シテにお出ましいただきやすくするためです。」

氏真「シテに?」

寿桂尼「春どの、お父上に仲立ちをお頼みしたいので、一筆したためていただけるかの?」

氏真「北条に?・・・では初めからそうすればよかったのではございませぬか?」

寿桂尼は「直に関わる者同士が話し合うておらぬ場にシャシャリ出るのは、北条も望むまい。武田は、北条にはまだ大切な味方・・・」


 寿桂尼のいう「シテ」とは、における「主人公」という意味だそうです。つまり、主人公の出る幕を作りに行ったのだと。仲裁役が仲裁し易いようにお膳立てをしに行ったわけですね。さすがは寿桂尼、したたかな外交手腕です。


 今川氏親の正室として駿河国に嫁ぎ、夫の死後、わが子の氏輝、義元、そして孫の氏真と、今川家4代に渡って政務を補佐し、「駿河の尼御台」「女戦国大名」などと称された寿桂尼。実際、桶狭間の戦いで義元が死んだあとも、今川氏が何とかその大名としての面目を保ってこられたのは、寿桂尼のちからだったともいわれ、武田信玄などは、「寿桂尼が生きているうちは駿河を攻められない」と言っていたとか。事実、寿桂尼が死ぬやいなや、信玄は駿河侵攻を開始しますしね。一説には、駿河攻めを開始した信玄は、まず手始めに寿桂尼の墓を破壊してから今川に攻め入ったなんて話もあります。本当に墓から出てきそうな気がしたのかもしれません。まさに、おんな大名・寿桂尼です。


 さて、ドラマに戻って井伊直虎ですが、井伊直親への所業について寿桂尼から問われた直虎は、こう答えます。


直虎「家を守るということは、きれい事だけでは達せられませぬ。狂うてでもおらねば、己の手を汚すことが愉快な者などおりますまい。汚さざるをえなかった者の闇はどれほどのものかと・・・そう思います。」


 涙する寿桂尼。そなたがわが娘であれば・・・と。そして、そのまま寿桂尼はこの世を去る・・・と思いきや、デスノート×井伊直虎」の文字が!!!
曰く、「われに似た女子は、衰えた主家に義理立てなど決してせぬ。」・・・と。
いや~、見事な結末でしたね。さすが、寿桂尼は最後まで寿桂尼でした。今話は、これまででいちばん見応えがあったかも・・・。


 ちなみに上記の直虎の台詞、のちの小野但馬守政次に対する所業の伏線かもしれません。



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by sakanoueno-kumo | 2017-07-17 20:09 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第27話「気賀を我が手に」 ~義信事件と瀬戸方久城主説~

武田義信、まだ死んでなかったんですね。幽閉の報せが届いたのがずいぶん前(たしか18話)だったので、てっきりもう死んじゃったとばかり思っていました。井伊直虎が城主になって以降、物語の進行がひじょうに緩やかなので、時代背景がわからなくなります。


 義信の幽閉、廃嫡からそのまでを簡単におさらいしておくと、永禄8年(1565年)、義信の傅役である飯富虎昌、側近の長坂源五郎(昌国)曽根周防守らが武田信玄暗殺を企てるも、計画は事前に虎昌の実弟・飯富三郎兵衛によって露見し、同年10月、虎昌ら側近たちは謀反の首謀者として処刑されます。その後、義信は甲府の東光寺に幽閉され、義信の正室で今川義元の娘・嶺松院(実名は不明)と強制的に離縁させられ、嫡子としての地位も異母弟の武田勝頼に奪われます。そして2年後の永禄10年(1567年)10月19日、義信は幽閉先にて死去しました。享年30


 ドラマではその死を自害と伝えていましたが、病死という説もあって定かではありません。また、自害説のなかでも、絶望した義信が自らの意志で自害したという説と、信玄に命じられて切腹したという説があります。昭和最後の大河ドラマ『武田信玄』では、前者の設定でしたね。まあ、どんな感情のもつれがあろうと親子ですから、父親が息子を死に追いやったとは思いたくありませんが、一方で、義信と信玄父子の仲は決して良好なものではなかったともいわれ、対今川氏の方針をめぐって父子の間で対立を深めると、親今川派を一掃するために、信玄自身が自身の暗殺計画をでっち上げて粛清したという見方もあります。さすがは戦国時代、親子といえども血も涙もない話ですが、しかし、見方を変えると、飯富ら側近がすぐさま処刑されたにもかかわらず、義信は2年間生きながらえたことを思えば、やはり、そこには親心があったのかなぁ・・・とも。結局のところ、真相は藪の中です。


 ただ、いずれにせよ、この義信の死が今川氏真にとって大打撃だったことは間違いないでしょう。今川氏にとって武田義信夫妻は武田氏との唯一の架け橋であり、これを失うということは、武田氏との国交断絶、全面対決を意味します。義信の死の翌月には、嶺松院が駿河に送り返されています。ドラマの氏真、荒れてましたね。


 で、話は変わって気賀堀川城ですが、なんか色々あったすえに井伊家が治めることになりましたが、実際には、そのような説は存在しません(たぶん)。ただ、瀬戸方久城主を務めたという説は存在します。というのも、この時期、方久は今川氏真に取り入り、自身の田畑や屋敷を徳政令の対象外とする安堵状を得る代わりに、堀川城、刑部城などの築城の費用を請け負っていたといわれます。また、堀川城の城代として入った大沢基胤配下の新田友作という地元領主が、後年、出家して「法休喜斎」と名乗っていたそうで、これらの逸話から、新田友作と瀬戸方久が同一人物ではないか、というんですね。まあ、俗説ではありますが、ドラマでは、方久は井伊家の家臣という設定ですから、方久が城主(あるいは城代)になるのであれば、堀川城は井伊家のものということになるんでしょうね。


 もっとも、盗賊団が城の普請をするなんて話は、古今東西聞いたことがありません。まあ、城といってものようなものだったでしょうから、気賀の領民が工事を手伝ったということはあったかもしれませんが、設計を任すなんてことはありえません。盗賊に設計なんてさせるから、あんなヘンテコリンな城になっちゃうんですよ。満潮干潮を利用した画期的な設計だそうですが、湖といえども荒波もあれば高波もあります。あの城、波浪警報が出たら一巻の終わりだと思いますよ。


 「大したものだ」(政次)


どこが!!!(笑)



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by sakanoueno-kumo | 2017-07-10 21:41 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第26回「誰がために城はある」 ~領民ファーストの当主~

 「おんな知事 百合子」の圧勝ドラマと藤井聡太四段の初黒星の話題でもちきりの週明けですが、当ブログの月曜日はあくまで井伊直虎です。


前話で一段落したかに思えた材木騒動ですが、まだ引っ張るとは(苦笑)。三河の徳川氏に流れかけていた材木を間一髪取り戻し、駿府に持ち込んで忠義を示した井伊家でしたが、今川氏真はその忠義を認め、材木をそのまま駿府に留め置くよう命じます。安堵する直虎と家臣たち・・・って、材木の代金は? あれだけ苦労して伐採した井伊家の財産なのに、今川家に進呈しちゃうの?・・・なんとも理不尽な話です。


 で、その材木を使って気賀に今川氏配下のを築くということになり、商人たちは憤怒。その話を聞いた龍雲丸は、井伊家に怒鳴り込んできます。


「文句があるなら駿府に言うことだ!」(小野但馬守政次)


 まったくもって政次の言うとおりです。そもそも、材木が手に入ったから築城の計画が出たなんてことはあるはずもなく、もともとあった築城の計画にこの材木を利用しようという話しで、材木を供給した井伊家がその使いみちを指示したわけでもありません。ましてや、あれしきの材木量で城が建つはずもなく、せいぜい門ひとつぐらいでしょう。


「恩を仇で返すのが井伊のやり方か!」(龍雲丸)


 お門違いも甚だしいですね。しかし、そんな的外れな苦情を真剣に受け止め、気賀や龍雲党を気に病む直虎。


 「お前は一体どこの当主なのだ!」(政次)


 これももっともです。当主たる者、自家、自領のことを一番に考えてもらわねば。
領民ファーストです。


 少しだけ歴史の話しをすると、気賀に築こうとしている城は後世にいう堀川城で、ドラマのとおり、ちょうどこの時代に今川氏が徳川家康遠江侵攻に備えて築城したと伝えられます。そして、その統治を隣国の堀江城主で今川氏に忠実な国衆である大沢基胤に任せたというのも、通説どおりです。大沢基胤は離反が相次ぐ今川氏配下の国衆のなかで、最後まで今川氏のために奮戦した忠義と武勇の人物です。


 この堀川城を井伊家で治めては?・・・と提案する瀬戸方久。少しネタバレになりますが、この設定は、今川氏真かが瀬戸方久に出した安堵状のなかに、堀川城の備蓄を賄うよう指示したものがあり、おそらくその話に直虎をからめてくるのでしょう。そのあたりは次週に描かれるかと思うので、ここでは控えます。


ところで、桜の夫・庵原助右衛門朝昌「変なクセ」って何だったんでしょう? 今話でもっとも気になったのは、そこでした(笑)。



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by sakanoueno-kumo | 2017-07-03 18:54 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第25話「材木を抱いて飛べ」 ~経済封鎖政策・塩留~

 「敵に塩を送る」

 という上杉謙信の有名な美談が生まれた「塩留」に絡めた話でしたね。甲相駿三国同盟が瓦解すると、武田信玄幽閉していた長男・武田義信廃嫡し、その妻で今川氏真の妹・嶺松院とも強制的に離縁させ、駿河へ送り返します。そして、四男の武田勝頼の正室に織田信長の娘を迎えました。これは、今川氏との同盟関係を断ち切り、今川氏の仇敵である織田氏と手を結ぶという意思表示でした。


 これに怒った今川氏真は、相模の北条氏康と相談し、武田領である甲斐に塩を売らないよう商人たちに命令します。山国で海を持たない甲斐では、自国で塩を精製することはできず、駿河湾からの輸入に頼っていました。言うまでもなく塩は人が生きていくうえで不可欠なもので、塩を絶たれた武田氏は、たちまち困窮して降伏せざるを得なくなるだろう・・・というのが、今川氏、北条氏の狙いです。


 この経済封鎖政策のことを「荷留」と言い、戦国時代から明治初頭にかけてしばしば行われていました。今川氏の場合は塩でしたが、の輸出を止める場合や、港で船の荷揚げ荷下ろしを制限する「津留」という政策などもあったようです。江戸時代以降のそれは、飢饉時などによる自領内の食料を確保する目的で行われるものでしたが、戦国時代の場合、今川氏の塩留のように敵国に対する経済制裁の目的が多かったようです。このやり方を「卑怯」だと批判した上杉謙信が、敵国である武田領に塩を送ったという逸話が、後世に「敵に塩を送る」という故事を伝えることになるんですね。もっとも、この話は、現在では史実ではないと言われていますが。


 経済制裁は現代でも行われており、国連主導のものや個別国家によるものなど、世界中で複数の制裁政策が現在進行形です。わが国の身近なものとしては、北朝鮮への国連安保理決議のものや、日本が独自に行う特定船舶入港禁止法などの制裁政策も行われていますね。しかし、北朝鮮はいっこうにダメージを受けていないようにも見えます。また、わが国が受けた経済制裁としては、太平洋戦争開戦に至るまでのアメリカによる石油などの禁輸在米資産凍結などの対日措置が知られていますね。その結果、何が起こったか・・・。経済制裁を受けて追い詰められた国が、猛省して態度を改めることはまずなく、暴挙にでることがほとんどです。その結果、苦しむのは民なんですね。その意味では、経済制裁も結局は武力制裁と変わらない非人道的な行為といえるでしょうか。それを450年も前に見通していた上杉謙信はスゴイ!!・・・って、史実じゃないんですけどね。


 で、ドラマに戻って、「荷留」による経済封鎖政策を打ち出した今川氏ですが、そうなれば、武田氏も困りますが、それを生業にしていた商人たちも商売上がったりになるわけで、そうすると、瀬戸方久らのように塩の密輸入を始める輩も当然出てきていたでしょう。そんな時勢の中で、井伊領で伐採した材木の商い先である成川屋が、三河の徳川に材木を流していることが発覚。またもや、井伊は今川より謀反の嫌疑をかけられるはめに・・・。もちろん、これも史実ではありませんが、時勢に絡めた面白い設定だったんじゃないでしょうか?材木の話を何話も引っ張ってきたのは、今話を描くためだったんですね。なるほど納得。


 井伊直虎成長ぶりもいいですね。これまでのような熱意だけの拙い施策とは違い、第二、第三の対応策を練り、毒薬を飲んで時を稼ぐ荒業など、強かさを身につけています。また、直虎と小野但馬守政次が、それぞれ別の場所で碁盤に向かいながら意志を通じ合わせる場面も秀逸でした。そしてその政次に寄り添うなつが切ない・・・。


今川氏真への申し開きも、以前、寿桂尼に申し開きしたときは村人からの嘆願書に救われ、今回は龍雲丸たちが取り戻した材木が持ち込まれて救われるという、一見、ワンパターンの結末にも見えますが、その申し開きの口上は以前のものより明らかにスキルアップしています。おんな城主直虎、覚醒ですね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-06-26 17:12 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第24話「さよならだけが人生か?」 ~新野親矩の娘たちの縁組~

今話は井伊家にまつわる縁組の回。龍雲丸盗賊団が去り、久々に実在の人物の逸話です。


 新野親矩の三女・の元に持ち込まれた縁組の相手は実在の人で、名は庵原助右衛門朝昌。ドラマ中でも紹介されていたように、今川家の譜代の重臣・太原雪斎の一族にあたる人物です。イケメンの好青年に描かれていましたが、実際には、この頃の朝昌は数えで12~3歳少年だったと見られます。だから、ドラマでは長女、次女を差し置いて三女の桜との縁談という設定にしたのでしょうね。ドラマでは三人姉妹ですが、実際には、親矩には一男七女があったとされます。親矩は井伊直虎の母・祐椿尼の実兄で、この頃の直虎が30歳前後だったとすると、親矩は生きていれば50歳以上だったと思われます。その娘と考えれば、ドラマのとおり、たぶん、末の方の娘が朝昌の相手だったんでしょうね。


 ちなみにこの朝昌ですが、今川氏滅亡後は武田氏に仕え、武田氏滅亡後は羽柴秀吉家臣の戸田勝隆に仕え、その後、井伊直政の家臣になります。ところがほどなく直政ともめて出奔。各地を流浪したのち、再び直政の元に戻ってきます。ドラマでは、その誠実さが直虎のお眼鏡に叶った朝昌ですが、桜はこの先けっこう苦労しそうです(笑)。


 で、もうひとりの親矩の娘・桔梗の縁組。こちらも史実のようで、相手は北条氏家臣の狩野泰光の子息。狩野泰光は別名・狩野一庵宗円としても知られ、後年の豊臣秀吉による小田原征伐の際、あの凄惨八王子城の戦いで討死する人物です。桔梗の縁談相手であるその息子のことはよくわかりませんが、父と一緒に八王子城を守備していたとすれば、その妻・桔梗も城に篭っていたと考えていいでしょうね。八王子城の戦いは、女、子どもに至るまで容赦なく斬り捨てられた大虐殺の戦いとして知られます。ということは桔梗も・・・。直虎死後のことですから、そこまでドラマで描かれることはありませんが。


 とまあ、その後の歴史を知っている後世からみれば、ふたりとも決していい縁談とはいえそうにありませんが、この時点の井伊家がそれを知るはずがありません。落ちぶれたとはいえ、「海道一の弓取り」とうたわれた今川氏が、このわずか2年後に滅亡するなど思いもよらなかったでしょうし、20余年後には北条氏までもが滅亡に至るなど、予期できるはずがないですね。この時点での弱国・井伊家にとっては、大国に挟まれながら生き残っていくための必死の知恵だったのでしょう。


直虎「桔梗殿の縁談も取り持ってはくれぬか」

政次「お相手は今川の家臣にございますか?」

直虎「北条じゃ。北条ならば、今川の唯一の味方。今川に怪しまれることもなかろうし、動きを知りたいところでもある」

政次「・・・・なかなか、よろしきお考えかと・・・」


南渓「しかし、思うたよりそなたの働きは認められておったようじゃの」

直虎「あれは迷惑な話にございましたねぇ。阿呆なおなごが治める取るに足らぬところよと見なされておったほうが、井伊はよほど動きやすいではございませぬか」

南渓「もうおとわはおらぬのじゃのぅ。つまらんのぅ・・・」


しの「なんだか、いっぱしの殿様のようになってまいりましたね」


皆が直虎の成長を認めはじめたのか、皆が認めるようになったから成長したのか、直虎が名実ともに城主となりつつあるようです。

もっとも、それも長くは続かないのですが・・・。



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by sakanoueno-kumo | 2017-06-19 20:55 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第23話「盗賊は二度仏を盗む」 ~井伊谷三人衆・近藤満用~

 龍雲丸率いる盗賊団言いがかりをつけて陥れようとする宇利城城主の近藤康用を、南渓瑞聞和尚の機転で返り討ちにするお話。もちろん、今話もすべて創作の回です。ていうか、龍雲丸自体が架空の人物ですからね。彼らが活躍する限り、物語は創作話から出られません。時代劇における架空の人物は常套手段ではありますが、それらのほとんどは狂言まわしの役割で活躍するキャラで、いわば物語の進行上の便利屋的存在として登場します。龍雲丸も、最初に出てきたときはそんな役割の人物かと思ったのですが、どうも、そうではなさそうで・・・。3話も続けて架空の人物が主役の話というのは、歴史ドラマとしては、ちょっとキツイかも・・・。


 今話ではずいぶんダーティーな役どころで描かれていた近藤康用ですが、実際には、のちに井伊谷三人衆のひとりとして、井伊家の行く末に大きく関わってくる人物です。井伊谷三人衆とは、菅沼忠久、鈴木重時、そして近藤康用の3人で、のちに井伊家が徳川家康と結びつくとき、彼ら3人の働きが大いに功を奏することになります。


 井伊谷三人衆のなかで、菅沼忠久と鈴木重時は井伊家の被官でしたが、近藤康用だけは、井伊家とは直接の関係はなかったと見られています。近藤家は康用の祖父・近藤満用松平清康(徳川家康の祖父)に仕えていたといい、満用の時代に戦功の恩賞として宇利城を与えられたといいます。その後、今川氏の配下に加わりますが、やがて今川を離反して徳川氏に付くことになります。ドラマでは、まだ今川氏配下の立場ですね。ただ、井伊家の目付役を任じられていたというのは、ドラマのオリジナルの設定かと思います。今話で南渓和尚にやり込められた康用ですが、のちに井伊家が生き延びる道筋を作ってくれる人物なので、このへんで大目に見てやりましょう。


さて、龍雲丸率らを手なづけて家臣にしようとする井伊直虎でしたが、空に雲があったから振られてしまいました。まあ、龍雲丸たちが家臣になろうがなるまいがどっちでもいいですが、たしかに、この時期の井伊家は、桶狭間の戦い曳馬城の戦いで多くの家臣が討死したあとで、新たに家来を召し抱えて兵力を立て直す必要があったのは事実だっただろうと思われます。そのなかには、あるいは山伏盗賊の輩もいたかもしれませんね。モグラカジゴクウなんて名の奴はいなかったでしょうが。



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by sakanoueno-kumo | 2017-06-12 23:40 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(2)