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おんな城主 直虎 第49話「本能寺が変」 ~本能寺の変~神君伊賀越え~

 「敵は本能寺にあり!」

 過去、大河ドラマにおいて数々の役者さんが発してきたこの台詞ですが、おそらく、明智光秀を演じられた役者さんは、みなさん、配役が決まったときからこの台詞をどのように吐くかを悩まれるんでしょうね。演出家さんや脚本家さんの意向とかもあるのでしょうが、光秀のいちばんの見せ場ですからね。この台詞を吐くために他の場面があると言っても過言ではないかもしれません。今回のそれは、躊躇している自身に言い聞かせるよう呟く、といった演出でしたね。このパターンは、はじめてなんじゃないでしょうか。


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 「敵は本能寺にあり!」という台詞がはじめて使われたのは、江戸時代中期の元禄初頭から15年(1688年~1702年)頃に書かれたといわれる明智光秀を主人公とした軍記物『明智軍記』からだそうです。作者は不明で、光秀の死後100年以上経ってから書かれたものということで、史料的価値は低いとされている作品ですが、この台詞に関しては、その後、「本能寺の変」を題材とした作品ではずっと使われてきた台詞で、もはや光秀の代名詞のような言葉となっています。実際には、どのような言葉を発したのかはわかりませんが、備中の羽柴秀吉の援軍として出陣した軍勢を、途中で進路を返して本能寺に向かわせたのは史実ですから、そこで、何らかの意思表示をしたのは確かでしょう。「これより本能寺に向かい、信長を討つ!」では普通だし、「敵は信長なり!」でも、イマイチ、パッとしません。やっぱ、「敵は本能寺にあり!」ですよね。その後300年以上、ずっと使われる台詞を書いた『明智軍記』の作者は、よほどのセンスの持ち主といえます。いまだったら、間違いなく流行語大賞ですね。

 徳川家康饗応役を解かれた光秀に代わって、織田信長自ら膳を運んでいましたが、これは、『信長公記』にも記されているエピソードで、史実とされています。でも、実際に信長に配膳されたら、ドラマのように家康たちは凍りついていたでしょうね。どれほど豪華な料理でも、味がわからなかったでしょう。

 今回の「本能寺の変」は、信長が家康とその重臣たちを安土城に招き、接待すると見せかけて殺してしまおうという計画を、事前に明智光秀が家康と今川氏真に情報を漏らし、逆にその機に乗じて信長を討とうという光秀の謀略で、しかし、光秀が想定外の備中援軍を申し付けられてしまったため、徳川一行が堺見物をしている最中、備中に向かう兵を返して本能寺で事に及んだという設定でした。まあ、「本能寺の変」に至る経緯は諸説ありますから、どのような描き方があってもいいと思いますが、今回の設定は、結局、よくわからないまま終わったという感じです。そもそも、信長は光秀がいうように、家康を殺すつもりだったのでしょうか?


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 家康に贈る茶道具を選んでいる信長の姿や、「殺気が感じられない」と言った家康の台詞などから、どうも、家康を殺すという計画は最初からなかったと見ていいんでしょうね。であれば、光秀はなんでそんなをついたのでしょう? 家康や氏真に計画を明かして味方に引き入れる、というわけでもなさそうでしたし、であれば、計画を明かす必要がないというか、むしろ、家康や氏真が信長に計画を漏らす危険だってあったわけで、そんなリスクを背負ってまで、ふたりに謀略を打ち明ける理由が見当たりません。光秀にとって、何の得もないですからね。結局、ドラマでも、徳川一行は光秀の計画を知っていたせいで必要以上にオロオロしただけで、光秀の謀略には何ら役に立ってないですからね。いったい光秀は何がしたかったのでしょう? どうも、消化不良な「本能寺の変」でした。


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 また、信長横死の報せを受けたあとの「神君伊賀越え」についてですが、これがなぜ家康の人生における一世一代の大ピンチだったかというと、信長と同盟関係にあった家康は光秀から見ればであり、もし、明智軍に遭遇すれば衝突は避けられず、かといって、弔い合戦が出来るような兵力を引き連れておらず、四面楚歌の状態に陥っていたからでした。しかし、今回のドラマでは、徳川一行は光秀から事前に信長討伐を知らされていたわけで、家康の心中はどうあれ、光秀はこの時点では家康のことを味方だと思っていたはず。何も知らない穴山梅雪さえ始末してしまえば、あとは険しい伊賀越えなんてせずに、大手を振って東海道を帰ればよかったのでは? それとも、光秀の計画は、信長もろとも家康も殺すつもりだったとか? う~ん・・・。イマイチ設定がよくわかりません。繰り返しますが、消化不良な「本能寺の変」でした。まさしく、その副題どおり「本能寺が変」でしたね。

 さて、次回は最終回ですね。井伊直虎が死んだのは、本能寺の変から約2ヶ月半後のことだったと言われています。でも、ドラマの直虎はピンピンしていて、そんな兆候は微塵にも感じられません。この感じでは、病死とかではなさそうですね。どんな最期に描かれるのか、楽しみにしましょう。



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by sakanoueno-kumo | 2017-12-11 15:55 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第48話「信長、浜松来たいってよ」 ~信長の駿河訪問~

 甲州征伐で武田氏を滅ぼした織田信長は、その帰路、富士山見物に出かけます。これまで富士山が見られる地域は敵対してきた今川氏、武田氏の領地でしたから、おそらく富士山を間近で見たことはなかったのでしょう。富士山といえば、言わずと知れた日の本一の名山で、当時は信仰の対照でした。富士山を一度この目で見たいという願望は、魔王・信長といえども同じだったんですね。


 このとき、富士山を有する駿河の国は、甲州征伐の戦功で徳川領となっていました。そのため、信長の富士山見物ツアーの一報をうけた徳川家康は、莫大な私財を投じて街道を整備し、宿館を造営しました。「紀行」でも紹介されていましたが、富士信仰の聖地、富士山本宮浅間大社の境内には、金銀をちりばめた豪華な装飾を施した仮の宿所が建てられたと伝えられます。


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 また、信長は富士山見物のあと、家康の居城・浜松城に立ち寄りました。そのため、家康は街道を広げ、川に橋を架け、また、ドラマにもあったように、人を集めて川の水を堰き止めたといいます。至れり尽くせりの接待ですね。現代でも、アメリカ大統領クラス国賓を迎えるにあたっては、厳重な警備体制はもちろん、道路、宿泊先の整備まで入念に行われますが、まあ、あれと同じようなものといえるでしょうか。大統領の娘や孫にまで、これでもかと言わんばかりの気の使いようでしたもんね。同盟国といえども明らかに弱者である日本にとっては、大統領およびその家族をもてなすことは、大きな政治です。信長と家康の関係も同じことがいえるでしょう。信長は家康の接待をことのほか喜び、米八千俵あまりを贈ったといいます。そして、その返礼として、信長は家康とその重臣たちを、安土城に招きました。

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 信長から招きを受け、その真意を詮索する家康と重臣たち。たしかに、主だった家臣団を引き連れて安土城に入れば、駿河はがら空きになり、その隙を突かれたら、ひとたまりもありません。実際、武田氏を滅ぼしたことで、信長にとって家康との同盟関係のメリットが薄くなったのは事実。自民党単独3分の2議席を獲得したあとの公明党のようなものでした。徳川家にしてみれば、いつ切り捨てられてもおかしくはないといった心配はあったでしょう。ドラマ中、明智光秀は、信長の駿河訪問は軍事視察目的だったと言っていましたが、実際、そのような解釈を説く歴史家さんもおられます。もし、信長があと少し生きていたら、徳川氏は滅ぼされていたかもしれません。

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 結局、信長からの招きを断れるはずもなく、家康一行は安土城を訪れ、その約半月後に「本能寺の変」が起きることは周知のところだと思います。ただ、明智光秀がいつの段階で謀反を決意したのかは、様々な見方があってハッキリしません。ていうか、人の心の部分ですから、心中を吐露した書簡でも残されていない限り、どれだけ状況証拠を並べても推論の域を出ないんですけどね。ドラマでは描かれていませんでしたが、有名なエピソードのひとつで、最後の武田攻めの際、光秀が「ここまで来られて、われわれも骨を負った甲斐があった」と語ったところ、信長の逆鱗に触れ、光秀は欄干に頭を打ち付けられたという話があります。これが実話だとすれば、富士山見物をして浜松城を訪れたこのときは、ちょうどその直後で、すでに腹に一物を持っていたかもしれません。もちろん、その計画を今川氏真に持ちかけたという話はドラマの創作ですが、このとき既に殺意を持っていたかもしれないという推理は、否定できません。

 光秀の息子として描かれていた自然(じねん)という少年ですが、実在したかどうかは定かではありませんが、諸説あるなかの一説では、光秀の五男として生まれ、山崎の戦いで父の光秀が討死したあと、近江坂本城自刃したとされます。ただ、光秀の系図は複数あって、その子供についても俗説が多く、はっきりしません。もちろん、今川氏の人質となって井伊直虎の住む井伊谷で匿われたという話はドラマの創作ですが、そもそも実在したかどうかもわからない息子ですから、この創作はありなんじゃないでしょうか。こうでもしないと、直虎を話に絡められないですもんね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-12-04 15:32 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第47話「決戦は高天神」 ~高天神城の戦い~

 息子の松平(徳川)信康と正室の築山殿を失った徳川家康でしたが、落ち込んでいる間もなく、武田氏の高天神城攻めを本格化します。天正3年(1575年)以降、高天神城は武田氏、徳川氏の間で幾度となく攻防戦が行われてきました。しかし、戦いは両者とも一進一退を繰り返し、決定的な決着がつかずにいました。そんななか、信康の武田氏内通の嫌疑が浮かび上がり、信康は自刃に追い込まれます。前話の稿でも述べましたが、信康自刃の背景には、徳川家内での織田派、武田派の分裂の危機があったといわれます。となれば、家臣を結束させるためには、信康の自刃だけではなく、その根源である武田氏を攻め滅ぼす必要があったわけです。


 信康が自刃して約半年後の天正8年(1580年)3月以降、家康は高天神城の周囲に付城を築いて包囲網を形成、そして9月、5000人の軍勢で城を取り囲みます。このとき家康は力攻めではなく、兵糧攻めの作戦をとります。ドラマでは、「兵糧攻め」を敵味方ともに兵を失わずに戦う策と言っていましたが、たしかに「兵糧攻め」は味方の兵の損傷を少なくする作戦ではありますが、敵(籠城軍)にとっては、そんな心優しい作戦では決してありません。籠城兵にとって、食糧を断たれることほど苦しいことはなく、餓死者は続出し、飢餓の極致に達した者たちは、人肉をも食らったという記録も数多く残されています。同じ頃に羽柴秀吉が指揮した「三木の干殺し」「鳥取の飢殺し」などが有名ですね。「兵糧攻め」とは、決してドラマで言っていたような人命尊重の戦い方ではありません。


 城代の岡部元信はよく耐えましたが、武田勝頼からの援軍を得ることができず、やがて城兵の大半が餓死します。この戦いには織田の援軍も加わっており、織田信長からは、「高天神城が降伏してきても許すべからず」といった書状が家康に対して送られています。これはドラマでも描かれていましたね。信長は、勝頼が高天神城を見殺しにしたという形にすることで、武田氏の威信が失墜することを狙っていたようです。そして、ついに翌天正9年(1581年)3月、逃亡する城兵が続出し、残った城兵は城から討って出るも、徳川軍の包囲網によって岡部元信と兵688の首が討ち取られまず。


 『寛政重修諸家譜』によると、この戦いに出陣していた万千代(のちの井伊直政)は、水の手を断つなどの手柄をあげたと記されていますが、派手な活躍は伝えられていません。また、『井伊家伝記』によると、同じ頃に万千代は2万石加増されていますが、それが、この戦いでの戦功だったかどうかは定かではありません。ドラマで描かれていたように、この加増によって、中野直之、奥山六左衛門朝忠以下、山中に籠っていた旧井伊家譜代の家臣たちが万千代のもとに集まり、仕えたといいます。


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 この戦いのあと、武田氏の凋落は一気に加速し、戦国の世のならいとはいえ、武田家内での裏切り、寝返りは酷いものでした。これが、高天神城の城兵を見捨てたことに端を発したとすれば、信長のシナリオどおりになったといえます。そして、「高天神城の戦い」から約1年後の天正10年(1581年)3月11日、武田勝頼は自害します。享年37。このとき、勝頼に付き従っていた家臣団は、わずか43人になっていたとも。『甲陽軍鑑』『甲乱記』などの記述では、勝頼主従の最期は華々しく戦って討死したとありますが、『信長公記』では、「落人の哀れさ、なかなか目も当てられぬ次第なり」とあります。実際には、43人の手勢ではなすすべもなかったでしょう。ここに、450年の歴史を誇る名門武田氏は滅亡します。


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by sakanoueno-kumo | 2017-11-27 17:45 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(2)  

おんな城主 直虎 第46話「悪女について」 ~松平信康自刃事件(後編)~

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 徳川家康の命令によって長子・徳川(松平)信康自害に追い込まれ、家康の正室・築山殿(ドラマでは瀬名)も家臣によって殺害されたという徳川家の最大の悲劇ですが、実際には、史料に乏しく詳しい内容はわかっていません。一般に知られる話としては、信康の妻・徳姫が、父である織田信長に宛てて信康が武田氏と内通しているといった内容が含まれる手紙を送り、これを受けた信長が、家康に信康と築山殿の処分を迫り、力関係から考えて信長に従わざるをえなかった家康は、苦渋の決断に及んだ、というもので、多くのドラマや小説が、この説をベースに描かれています。しかし、この説は江戸時代に入ってから書かれた『三河物語』のみにある話で、同著は、徳川家に都合よく書かれた部分が多々見られるため、史料として十分とはいえません。

また、信長が自身の息子である織田信忠より信康の方が優れていると見て、息子の代になって徳川と織田の力関係が逆転することを恐れて事前に芽を摘んだという説もありますが、これも、何の根拠もない推論にすぎませんし、本当に信康が有能な人材だったのなら、能力主義の信長であれば、むしろ婿として重宝したのではないかとわたしは思います。信長の一代記『信長公記』には事件の記述はなく、この事件に関しては、信長は不介入だったと見るほうが妥当かもしれません。


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 築山殿の殺害についても史料に乏しく詳らかではありませんが、ひとつの説としては、築山殿は今川一族の出であり、彼女の父は家康が今川氏を裏切って織田氏と結んだことで今川氏真切腹させられ、そのことで、築山殿は家康を憎んでいたとの見方があります。そのせいか、のちに今川の人質生活から岡崎に移ったあとも、岡崎城には入らず(あるいは入ることが許されず)、城外にある惣持尼寺の西側に屋敷を与えられ、そこで暮らしていました。その屋敷の地が惣持尼寺の築山領であったことから、「築山殿」と称されるようになったと言われます(ドラマでは、この呼称は使われなかったですね)。そんな立場ですから、当然、信長の娘である徳姫との関係も悪く、かつて武田氏の家臣だった浅原昌時日向時昌の娘を信康の側室に迎えさせ、また、築山殿自身も、唐人医師の減敬とのゲス不倫があったとも、武田氏と内通していたともいわれます。


 しかし、これらもすべて確かな史料には見られず、後世に作られた話と思われます。築山殿が今川を裏切った家康を憎んでいたという話はあったかもしれませんが、そもそも彼女に武田氏と内通するほどの政治力があったとは考えづらく、これも、築山殿の殺害を正当化するために理由づけされたものと見るべきでしょう。別の説では、信康を殺せば築山殿は半狂乱になるだろうとし、信康に切腹を命じる前に彼女を殺したとの説もあります。しかし、それだけで正室を殺すというのも、理由としては薄い気がしますね。いずれにせよ、わかっているのは、信康の自刃の約半月前の天正7年(1579年)、遠江国の佐鳴湖の畔の小藪村にて、家康の家臣によって殺害されたということ。一説には、信康の助命嘆願のために浜松城に向かう途中だったとも。子を思う親心は、いまも昔も変わりません。


 信康の自刃に関しては、近年の研究では、家康との父子不仲説が主流となりつつあるようです。不仲説というと聞こえが悪いですが、この時期、織田氏と同盟関係にありながらも、徳川家内はまだまだ武田氏と結ぶべきとの意見も多く、その急先鋒が息子の信康だったとされ、そのせいで、家臣団も両派に分裂しつつあったとされます。家康は徳川家の分裂を避けるため、やむを得ず息子を殺す決断をした、と。一国を預かる武家の棟梁としては、肉親の命よりも、お家の結束が優先だったんですね。


 ドラマでは、虚実織り交ぜてきれいにまとめていたんじゃないでしょうか。家康も信康も瀬名も、それぞれが互いの立場を尊重しながら、なんとかこの苦境を乗り切ろうと必死で模索しますが、上手く連携できず、結局は徳川家にとって最悪の着地点となりました。何もかもが終わったあと、万千代に碁石を投げつけて嘆くシーンが切なかったですね。ちなみに、落ち込む万千代に対して井伊直虎が、「そなたが信康様の代わり身となればよいではないか」と言っていましたが、このとき万千代は19歳。死んだ信康は21歳で、その勇猛さといい、利発さといい、共通点があったかもしれません。事実、これより間もなく井伊直政異例の出世街道がはじまります。あるいは、家康は直政のなかに信康の面影を見ていたのかもしれません。


 後年、家康は関ヶ原の戦いにおいて、大遅参した三男・徳川秀忠の器量のなさを嘆き、「信康が生きていてくれれば・・・」ため息をついたという有名な話がありますが、奇しくも、その日は9月15日、信康の21回目の命日でした。きっと、家康は戦い前から信康のことを思い出していて、だから、そんな言葉を吐いたのでしょうね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-11-20 15:24 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第45話「魔王のいけにえ」 ~松平信康自刃事件(前編)~

 諸説あって謎が多い徳川(松平)信康自刃事件ですが、ドラマでは長年通説となっていた『三河物語』の記述をベースに構成されていました。前回の徳川家康暗殺未遂事件のあとの信康と石川数正のやりとりを見ていて、何か違う解釈で描くのかなぁと思っていたのですが、違いましたね。まあ、ほとんどの物語では、『三河物語』の通説を採用していますから、やはり、それがいちばんドラマチックだということでしょう。わたしはそれでいいと思います。


 信康の正室・徳姫織田信長の娘で、ふたりの結婚は徳川と織田の同盟の証でした。『三河物語』によると、天正7年(1579年)、徳姫は父・信長に宛てて夫と姑の愚痴12箇条に綴った手紙を書きます。その内容は、信康の日頃の乱暴な振る舞いを嘆き、また、自分が女児しか産んでいないことを姑の築山殿から罵られたということなど、現代の夫婦間でもありそうないざこざですが、そのなかに、信康と築山殿が武田家と内通している疑いがあるとの報告がありました。これが事実なら、織田家としては捨て置けません。


 信長は真偽を確かめるべく、徳川家家老の酒井忠次を呼んで詰問します。ドラマでは、岡崎城の信康と浜松城の家康の配置を入れ替える旨を信長に伝えるために家康が忠次を使者として送り込むという設定でしたが、このあたりは、『三河物語』を少しドラマのオリジナルにアレンジしたものでした。たしかに、こっちの方がより自然かもしれません。


 『三河物語』によると、信長から問いただされた忠次は、何の弁解もしなかったばかりか、あろうことか、信康をかばうことなくすべてを事実と認めてしまいます。忠次、何を血迷っていたのでしょうね。一方で、ドラマでの忠次は、信康の内通を家康の指示があってのことなのか、それとも信康独断の行いだったのかという二者択一誘導尋問に迫られ、家康に害が及ばぬため、やむなく信康を切り捨てたという描き方でした。このあたり、なかなか秀逸なアレンジだったんじゃないでしょうか。『三河物語』では、信康をかばわなかった忠次に対して家康は、「知らぬと言えばよかったものを」と嘆き、他の家臣たちからも憎まれたとされていますが、ドラマでの忠次も家康から叱責されていましたが、忠次は忠次なりに徳川家を守るための最善策をとった結果であり、一方的には責められません。通説を上手く料理した脚本でしたね。


 こうなった以上、信康の首を差し出すしかないと意見する忠次。憤る家康。そこに、家康の実母・於大の方が訪れ、信康を斬りなされと諭します。


「獣はお家のため我が子を殺めたりいたしませぬ。なれど武家とはそういうものです。お家を守るためには己自身、親兄弟も、いえ、子の命すら人柱として絶たねばならぬことがある。そのなかで生かされてきたのですから。そなただけが逃れたいというのは、それは通りません。それは通らぬのです。」


 母の言葉。みごとでしたね。最近の大河ドラマでは、こういった台詞がありませんでした。現代のヒューマニズムの観点からいえば、許されない考えだからでしょう。しかし、かつて我が国の武家の秩序では、肉親の命より大切なものがあったのです。それを正しく描くことが、非人道的なことだとはわたしは思いません。よくこの台詞を、しかも女性に吐かせてくれたと思います。今話のこのワンシーンだけで、わたしはこのドラマが巷で批判されているような酷い作品じゃなかったと言いたくなりました。最終回まであと数話。楽しみです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-11-13 01:11 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第44話「井伊谷のばら」 ~井伊万千代の初陣~

 井伊万千代初陣の回でしたね。ドラマでは、天正6年(1578年)の田中城攻めを初陣としていましたが、通説では、天正4年(1576年)の芝原の戦いが初陣だったとしています。その詳細は、『井伊家伝記』が次のように伝えます。


天正四年の春、甲州勝頼、遠州高天神近所柴原にをいて御合戦の時、権現様陣小屋の中に御休息被遊候所に夜中忍びの敵近藤武助と申者を直政公御次之間にて御討取被成候故、権現様殊の外御悦にて御感不斜、則、十倍の御加増にて三千石に被仰付なり。

(天正四年の春、甲斐の武田勝頼と遠江国高天神に近い柴原で戦ったとき、権現様(徳川家康)が陣小屋で休息していたところ、夜中に敵方の忍びの近藤武助という者が侵入したので、直政(万千代)が御次の間で討ち取った。そのはたらきを家康はことのほか喜び、十倍の加増をして三千石を与えた)


舞台の設定は違いますが、手柄の内容はドラマとほぼ一緒ですね。徳川家康の部屋に忍び込んだ曲者を討ち取ったとなれば、まさに家康にとって命の恩人。戦場での槍働きをはるかに凌ぐ武功といっていいでしょう。家康が喜んで加増するのは当然のことだったでしょうね。ただ、加増はこの時点では1万石ではなく、三千石だったようですが。もっとも、忍者を討ち取ったというエピソードは、『井伊家伝記』のみの記述であり、史実か否かを判断するには資料不足といえるでしょう。少々出来すぎた話のようにも思えますしね。


 一方で、万千代の初陣を「天正四年」と記す史料は他にも複数あり、『寛政重修諸家譜』では、「天正四年二月七日」と明確な日付まで示しています。内容はともかく、このときが初陣で何らかの手柄をあげたのは事実かもしれません。


 ドラマの設定は、天正6年(1578年)の田中城攻めが初陣でした。このとき万千代は18歳。『井伊家伝記』の記述は次のとおりです。


 直政公御奉公日夜御勤労忠節異代故、拾八の御年に壱万石御加増被成候。

 (直政は日夜、他に代わりがないほど忠節を尽くして奉公に勤めたため、18の年に1万石を加増された)


具体的な手柄の内容は記されず、日々の勤労の賜物としています。ただ、この年の3月から本格的に田中城攻めを開始したのは事実で、ここで何らかの手柄を立てたのでしょうね。1万石といえば、江戸時代なら大名に匹敵する大身です。日々の忠節だけではここまでの大出世は考えられないでしょう。他の家臣たちから見ても納得できるような手柄をあげたに違いありません。


 ドラマでは天正4年の手柄と天正6年の加増を合体させて、300石の小姓から一気に1万石の大身に出世させました。まあ、いずれも二次史料でしか確認できない説ですから、ドラマなりの解釈があっていいんじゃないでしょうか。ドラマの尺の都合もあるでしょうしね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-11-06 02:19 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第43話「恩賞の彼方に」 ~戦の論功行賞~

 長篠の戦い手柄あらため(論功行賞)に頭を悩ませる徳川家康。徳川・織田連合軍の圧勝に終わったこの戦いでしたが、この敗北によって武田氏がたちまち滅亡したわけではなく、したがって、徳川の領地が急増したというわけでもありません。ところが、戦は大勝利だったわけですから、戦功をたてた武将はたらふくいたわけです。そんな中でバランスよく恩賞を与えるというのは、さぞかし難しい仕事だったことでしょう。


 劇中の家康は、岡崎城浜松城の恩賞のバランスに苦慮します。武功だけみれば、浜松の武将たちの活躍が目立ち、岡崎城を守備していた家康の嫡男・徳川信康の配下には、目立った活躍が見られません。しかし家康は、岡崎城の日頃のはたらきがあったから、織田の援軍を得ることができた、というところを思案の材料とします。岡崎城は織田領との国境に近く、信康の正室は織田信長の娘・徳姫です。織田氏との関係を良好に保つために、岡崎城は重要な役割を果たしていました。長篠の戦いの兵力を見ても、徳川勢8千に対して、織田の援軍が3万。本体より援軍の方がはるかに多かったわけで、織田の援軍なくしては、長篠の大勝はなかったでしょう。その意味では、岡崎城の戦功は、決して軽視はできないものでした。しかし、榊原康政は言います。


 「武功は命がけでございます。」


 たしかにそのとおりで、命がけで槍働きをした武将を蔑ろにすると、のちのちの士気に影響しかねません。武士は戦場で活躍してなんぼの時代ですからね。しかし、戦場で武勇を奮うだけがいくさではありません。このあたりのバランスは難しかったでしょうね。


 通常は、榊原康政のいうとおり武功第一でした。しかし、その常識を覆した論功行賞が行われた例があります。天才・織田信長でした。その舞台は、このときより遡ること15年前の永禄3年(1560年)5月19日に起きた桶狭間の戦い。織田方の奇襲によって大軍の今川軍を壊滅させたことで知られるこの戦いですが、このとき、敵将の今川義元に最初に槍をつけたのが服部小平太で、二番手に飛びこんでいった毛利新介が義元のをあげました。当然ながら、このとき、一番手柄は服部小平太か毛利新介のどちらかと誰もが予想しましたが、翌日の論功行賞の場で信長が最初に名をあげたのは、簗田政綱という武将でした。簗田は戦場で目立った活躍はなく、誰もが驚いたのは言うまでもありませんが、このときの簗田の戦功は、隠密行動によって今川義元の本陣の場所をつきとめ、信長に伝えたことでした。これによって織田軍の奇襲が可能になったわけで、信長は、義元の首を挙げた武功よりも、簗田の功績が大きいと判断したわけです。信長は、武功よりも情報が重要と考えたんですね。これは当時としては画期的な判断で、下手をすれば、家臣から不信を買って士気を下げかねません。信長だから出来た仕置だったといえるでしょうか。


 恩賞の与え方というのは、国を預かる領主にとっては重大な政治でした。その意味では、家康にしても信長にしても豊臣秀吉にしても、ときには手厚く、ときには冷酷に、上手く論功行賞を捌いたからこそ天下人たり得たといえるかもしれません。特に家康は、晩年の関ヶ原の戦いから大坂の陣に至るまで、その論功行賞の巧みさで力を拡大していきました。その政治感覚は、この頃に磨かれたものだったかもしれませんね。


 さて、次回は井伊万千代にも、大きな恩賞が与えられるようです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-30 19:10 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第42話「長篠に立てる柵」 ~長篠の戦い~

 虎松徳川家康の小姓となって井伊万千代と名乗りだした3ヶ月後(ドラマではまだ草履番ですが)、家康は織田信長に援軍を頼み、長篠城に出陣しました。武田信玄の死後、家康が武田氏から奪回した長篠城を信玄の息子・武田勝頼が囲んだからでした。長篠城は遠江と三河の国境付近に位置し、交通の要衝地にありました。


天正3年(1575年)4月に三河攻略を開始した勝頼は、5月に長篠城を包囲。長篠城を守っていた徳川方の奥平信昌は必死の防戦を見せますが、やがて劣勢が明らかになると、鳥居強右衛門を援軍要請の使者として、岡崎城の家康ももとに送ります。これを受けた家康は、5月18日、徳川軍8千と援軍に駆けつけた織田軍3万とともに、長篠城の支援に向かいます。そして、その決戦の舞台となったのが、長篠の手前にある設楽原でした。設楽原は平野ではなく、丘陵地が川に沿って南北に連なる地形でした。両軍は連吾川を挟んで陣を布き、川を自然の堀として防御線を築きました。織田・徳川連合軍は、丘陵地であるがゆえに相手陣を奥深くまで見渡せないという地形を利用し、さらに馬防柵を構えて万全を期します。


 5月20日夜、武田軍が付城として守備していた鳶ヶ巣山城を、織田・徳川連合軍が奇襲して落とし、武田軍の退路を断ちます。そして翌21日早朝、設楽原では、武田軍が織田・徳川軍への攻撃を開始。しかし、連吾川の中流域は水田があり、大軍が進撃するには足元が悪く、さらに、信長が用いた革新的な鉄砲攻撃が火を吹き、8時間の戦いのすえ武田軍は壊滅的な大敗北を喫します。有名な「鉄砲三千挺の三段撃」ですね。当時の火縄銃は、1発を撃ったら2発目を撃つまでには30秒ほどかかったといいます。この30秒の空白を埋めるため、鉄砲隊を3列にわけ、入れ替わりに撃つという戦法で、これにより、織田・徳川連合軍の鉄砲は間断なく火を吹き、当時、最強といわれた武田の騎馬隊は、為す術もなく屍を積み上げていったといいます。織田信長の天才伝説のひとつですね。


 ただ、この「三段撃」に関しては、近年の研究では否定的な見方が少なくありません。太田牛一が記した『信長公記』によると、鉄砲の数は「千挺ばかり」とあるだけで、三段撃ちのことはまったく記されていません。専門家の見解によると、三段撃ちのような複雑な動作をこなすには、よほど熟練した鉄砲隊と安定した性能の鉄砲が必要で、技術的には困難と指摘しています。では、なぜこの「三段撃」が通説となったのか。その出典元は、江戸時代前期の作家・小瀬甫庵『信長記』に記された、「鉄砲三千挺(中略)一弾ずつ立ち変わり打たすべし」という記述からのようで、以後、この逸話が多くの信長伝説に引用され、広く知られるようになったそうです。しかし、この『信長記』は、『信長公記』を元に創作された読み物で、現在では史料としてはほとんど認められていません。信長ファンにとっては残念なことかもしれませんが、「三段撃」は、実際にはなかったのかもしれませんね。


 いずれにせよ、武田軍の大敗に終わったのは事実で、織田・徳川連合軍に主だった戦死者が見られないのに対し、『信長公記』に記載される武田軍の戦死者は、山県昌景、馬場信春をはじめ、原昌胤、原盛胤、真田信綱、真田昌輝、土屋昌続、土屋直規、安中景繁、望月信永、米倉丹後守など重臣や指揮官を含む1万人以上に及んだといいます。武田軍の兵は1万8千ほどだったといいますから、半数以上の死者を出したということで、壊滅したといっても過言ではないでしょうね。


 この大敗北を機に、武田氏は一気に滅亡の道を進んでいった・・・と思われがちですが、実はそうではなく、武田氏が滅亡するのはこれより7年後のことで、それまでは、織田、徳川両氏と激しい攻防を繰り広げます。しかし、この戦いで武田氏は多くの人材を失い、衰退化に繋がったことは間違いないでしょう。歴史の大きなターニングポイントとなった長篠の戦いでした。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-23 02:01 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第41話「この玄関の片隅で」 ~鷹匠・本多正信~

 やはり鷹匠ノブ本多正信でしたね。本多正信といえば、常に徳川家康の側にいて智謀をめぐらす側近中の側近といったイメージがありますが、実は、正信が家康から重用されるようになるのは天正10年(1582年)の本能寺の変以後のことで、天正3年(1575年)頃かと思われるドラマのこの時期は、まだ歴史の表舞台には出てきていません。

 家康より5歳上の正信は、はじめは鷹匠として家康に仕えますが、身分は低く、大久保忠世らからの援助を受けて過ごしていたといいます。そんな暮らしに嫌気がさしたのかどうか、永禄6年(1563年)に起きた三河一向一揆では、弟の本多正重と共に一揆衆につき、家康に敵対します。この一揆は、三方ヶ原の戦い伊賀越えと並んで家康の三大危機とされる出来事で、三河家臣団の半数が一揆衆に与したと言われています。家康の家臣団といえば「忠実」というイメージが強いですが、最初からそうだったわけじゃないんですね。


 一揆の鎮圧後、一揆に与した武士の多くは徳川(当時は松平)家への帰参を望みますが、正信は出奔して浪人します。このあたり、若き日の正信はなかなかの気骨ある男だったようですね。やがて正信は大和国の松永久秀に仕えたといい、久秀をして「剛に非ず、柔に非ず、非常の器」と称されたといいますが、永禄8年(1565年)、久秀が三好三人衆とともに将軍・足利義輝を殺害すると(永禄の変)、再び出奔して諸国を流浪したとされ、その間の行動は詳しくわかっていません。一説には、加賀国に赴いて石山本願寺と連携し、織田信長と戦っていたともいわれます。後年の策謀家のイメージとは違って、反骨心旺盛で血気盛んな人物だったようです。


 諸国を流浪したすえ、正信は再び家康に仕えることになるのですが、帰参した時期ははっきりしません。『寛永諸家系図伝』は元亀元年(1570年)の姉川の戦いの頃と伝え、『藩翰譜』によると、天正10年(1582年)の本能寺の変後と伝えます。どちらが事実かはわかりませんが、確実な史料に正信が現れるのは本能寺の変以後のことで、それ以前は、帰参していたとしても、それほど重要なポストを与えられてはいなかったのでしょう。まあ、一度裏切った身ですからね。当然といえば当然のことで、むしろ、かつての裏切り者を再び召し抱えた家康の度量の広さがうかがえます。あるいは、人材としての正信が、それほど有能だったということかもしれません。


 話をドラマに移して、草履番から小姓に上がるためにあれこれ知恵をめぐらせる万千代(のちの井伊直政)ですが、どれも稚拙浅知恵、家康はすべてお見通し空回り感ありありです。まあ、数えで15歳といえば、いまの中学1、2年生。まだ子供ですからね。伝承では、直政は家康に仕えてから破竹の勢いで出世していったとされていますが、実際には、多少の挫折失敗はあったことでしょう。歴史の結果を知っている後世のわれわれから見れば、そんなに焦らなくとも君はやがて徳川四天王のひとりとなるのだから、と言いたくなりますが、15歳の当の本人はそんなこと知るはずもなく、ドラマのように、必死にアピールしていたかもしれません。もうちょっとの辛抱です。


 ちなみに、織田信長から3000本用意しろと言われた材木。これ、おそらく長篠の戦いで立てる馬防柵に使用する材木でしょうね。今話はすべてフィクションの回でしたが、ちゃんと史実に繋がるアイテムを題材に描いた創作で、秀逸でした。長篠の戦いでは初陣を飾れず、留守居を命じられた万千代でしたが、どんな活躍を見せてくれるのか楽しみです。・・・って、完全に直政のドラマになっちゃってますが。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-16 02:14 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第40回「天正の草履番」 ~日の本一の草履番~

 天正3年(1575年)2月、徳川家康と面会した虎松は、名を家康から与えられた井伊万千代と改め、家康に仕えます。ドラマでは、「井伊」を名乗ることを手放しに喜べないおとわ(井伊直虎・次郎法師)でしたが、武家にとって何よりも屈辱なことは家名を失うことで、家名を失った武家がもっとも望むのは家名再興でした。家康のこのはからいは、井伊一族にとっては何よりのプレゼントだったはずです。


 一方、とんだ思惑違いだったのが養父として虎松を育てた松下源太郎清景でした。松下家は徳川家の家臣で、清景の弟・松下常慶は家康からたいへん目をかけられており、虎松が家康にお目見えできたのは、おそらく清景・常慶兄弟の尽力があってのことだったでしょう。もっとも、実子のいない清景は虎松を後継ぎと考えていたはずで、15歳で虎松を家康に引き合わせたのは、あくまで「松下虎松」として、あわよくば家康に烏帽子親になってもらい、元服させたいとの思惑だったんじゃないでしょうか?


ところが、蓋を開けてみれば、家康は元服どころか「万千代」という幼名を与え、井伊家を再興させてしまいます。これは井伊一族にとっては大きな喜びだったでしょうが、たちまち後継ぎを失った松下家にとっては、お家存続の危機を意味します。いい面の皮ですよね。ドラマでは、寛大な態度で理解を示した清景でしたが、実際には、苦虫を噛み潰す思いだったに違いありません。


 ちなみに、清景はのちに中野直之の次男を養子にし、代々、井伊氏に仕えることになります。


 さて、徳川家の家臣となった万千代ですが、『井伊家伝記』の伝えるところでは、いきなり小姓として三百石を与えられたといいます。しかし、それは後世が家康の人の能力を見抜く慧眼を讃えるために造った話だと見てよさそうで、実際には、草履番だったかどうかはわからないにしても、それほど重用はされていなかったんじゃないでしょうか? かつての地頭とはいえ一度は潰れた家で、しかも、今川方だったわけですからね。家康の正妻で井伊氏の血を引く築山殿の口添えがあったとしても、他の家臣の手前、最初は草履番あたりが妥当だったんじゃないかと。


 もっとも、別の説では、万千代が破竹の勢いで出世していった理由について、万千代は家康の稚児小姓(男色相手)だったんじゃないか、という説があります。戦国時代、名のある武将のほとんどは、15、6歳の美しい少年を男色相手として身辺に仕えさせていたといい、その多くは、草履取りの名目で召し抱えていたことから、男色相手の家来を「小草履取り」と言いました。実際、万千代はたいそう美形だったといいます。その説が本当なら、万千代も、やはり最初は草履取りだったかもしれません。


「井伊万千代、かくなるうえは日の本一の草履番を目指す所存にございます!」.


そう言い放って意地を見せた万千代の奮闘ぶりが描かれた今話でしたが、ここで、ふと、ある言葉を思い出しました。それは、阪急電鉄宝塚歌劇団をはじめとする阪急東宝グループの創業者である小林一三の名言。


「下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。そうしたら、誰も君を下足番にしておかぬ。」


木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が織田信長の草履取りから出世したという故事を下敷きにした言葉だと思いますが、実際、そのとおりですよね。現在の境遇に納得いかなくても、腐らずにそこでできることを目一杯やる。それが「仕事」をするということで、何も考えずに与えられた役目をただこなすだけでは、単なる「作業」に過ぎません。「仕事」とは、「事に仕える」こと。与えられた事柄をより良くするにはどうすべきかを、常に考えながら事に臨むことが「仕事」なんですね。その意味では、藤吉郎も万千代も、最初から「仕事」ができる人物だったのでしょう。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-10 20:12 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)