カテゴリ:おんな城主 直虎( 17 )

 

おんな城主 直虎 第16話「綿毛の案」 ~綿花栽培と乱妨取り~

 前話で今川家の寿桂尼から井伊虎松の後見を許された井伊直虎でしたが、今話はその「民を潤す」といったスローガンのとおり、領国経営に奮闘するお話。そもそも、百姓が求めていた徳政令の発布を先延ばしにしたわけですから、それに変わる対策を講じなければ、民が逃散してしまいます。井伊家にとっても、民が潤わなければ年貢が入らないわけですから、死活問題です。そこで目をつけたのが、綿花栽培だったわけですね。ただ、前話の稿でも述べたとおり、直虎が徳政令の発布を先送りした2年間のことは全く記録が残っておらず、もちろん今話のエピソードもドラマのオリジナルです。


 もっとも、浜松が綿花栽培の地だったというのは事実で、直虎の時代に始まっていたかどうかはわかりませんが、江戸時代中期には全国でも有数の綿花産地となっていました。遠州地方は、天竜川の豊かな水と温暖な気候によって、綿花の栽培に適していたようです。やがて、浜松城主・井上正甫が農家の副業として綿織物を推奨したことから、繊維産業が盛んになります。これが、現在に続く「遠州木綿」の原点です。


 時代は下って明治に入ると、紡績工場が作られるまでに発展を遂げ、浜松の綿産業は日本を代表する産業のひとつになります。そして、明治29年(1898年)、トヨタグループの創始者である豊田佐吉が、木製の動力織機を発明したことを機に、一大産業に発展していきます。そしてそして、その技術は、やがてトヨタ自動車の技術へと繋がっていき、さらには、ホンダ、スズキ、ヤマハなどのバイクや楽器にも飛び火していくんですね。


つまり、今話で直虎たちが蒔いた1粒の綿花の種が、世界のトヨタに繋がっていくわけです。少し大袈裟なようですが、産業を起こすということはそういうことなんじゃないかと。その土地の風土にあった歴史を創るってことなんですね。自動車や楽器など、一見、風土などとは無縁の産業に思いがちですが、歴史を掘り下げてみると、農業国ニッポンならではの風土的根拠があるわけです。面白いですね。


 綿花栽培を起こすにあったての人手不足の問題を解決するために、「百姓を貸してほしい」と頼みまわる直虎でしたが、すべて断られてしまいます。これは当然のことですよね。百姓は大事な労働力であり、大切な納税者であり、さらには、兵農分離が確立されていないこの時代、百姓も貴重な兵力でした。この時代の兵士のほとんどは、普段は農業に従事し、召集がかかると武装して参戦する半農半士の者たちだったんですね。だから、領主たちは戦を仕掛けるにも、農繁期を避けて農閑期を選ばなけれなりませんでした。つまり、経済面からも軍事面からも民百姓の数は国力であり、容易に貸し出せるようなものではありません。もっとも、金銭で兵を雇う傭兵制度は当時もありました。しかし、それも農閑期に限ったようです。


 ちなみに、兵農分離を積極的に取り入れて常備軍を作り上げたのが織田信長、豊臣秀吉で、だから天下を取ったともいえます。(もちろん、それだけが理由ではありませんが)


 あと、人身売買の話も出てきましたね。「人の売り買いが出やすいのは戦場でしてな」という瀬戸方久の言葉からするに、ここでいう「人を買う」というのは、おそらく「乱妨取り」のことだと思われます。「乱妨取り」とは、戦場で逃げ惑う民を拉致監禁し、人身売買することで、子どもは奴隷として売られ、女性はその場で身ぐるみを剥がれてレイプされたり、欧州やタイ、カンボジアに性奴隷として売られたりしました。人身売買の相場はドラマで言っていたとおり一人につき二貫文(現代の価値で約30万円)でしたが、戦の着後は乱妨取りが多く行われるため、25文(約4千円)ほどに急落したそうです。つまり、方久が言う「手頃な戦場」というのは、「奴隷が4千円ほどで買えるよ!」ってことです。この提案に目を輝かせる直虎。おいおい!これ、実はめちゃくちゃ残酷な話なんですけど・・・。


 ちなみに、直虎の父・井伊直盛が死んだ桶狭間の戦いで、今川義元の大軍が少数の織田信長軍に敗れた理由を、「民家への略奪行為で油断する今川軍を急襲したから」とする説があります。つまり、敗因は乱妨取りだったと。だとすると、直虎のお父ちゃんも、民への乱暴狼藉をやってたのかもしれません。ドラマの直盛像を壊しちゃうようですが。


 ちなみにちなみに、意外にも織田信長は、自軍の乱妨取りを厳しく禁止していたといいます。逆に、義を重んじていた上杉謙信は、自軍の乱妨取りを黙認していたとか。わからないものですね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-04-24 21:18 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第15話「おんな城主 対 おんな大名」 ~寿桂尼~

 今話のタイトルは「おんな城主 対 おんな大名」。おんな城主とは、いうまでもなく井伊直虎ですが、おんな大名とは、駿河国、遠江国の守護にして戦国大名でもある今川氏のゴットマザー・寿桂尼のこと。この時代の女性というと、大名の正室といえども史料が少なく、その実在性も含めて不明な場合が多いのですが、この寿桂尼に関しては、歴史にその存在をしっかりと残した数少ない女性といえます。


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 寿桂尼は中御門宣胤という公卿の娘として生まれたと伝えられ、永正5年(1508年)、今川氏親の正室として駿河国に嫁いできました。今川家は、足利将軍家の一族にあたり、守護大名のなかでも名門の家柄だったため、京との関係を深めるために公家の娘を正室に迎え入れたのでしょう。氏親との間には長男の今川氏輝、三男の今川義元を含む7人(4人の息子と3人の娘)の子をもうけており、夫婦仲は良かったと見られています。

 その氏親は晩年、十数年に及ぶ病床生活を送っており、その間、寿桂尼が政務を補佐したと伝わります。その最も有名なものとしては、大永6年(1526年)4月に制定された、今川氏の分国法である『今川仮名目録』。ドラマで徳政令を回避するために直虎が使った法令ですね。この分国法が発布されたのは、氏親の死の2ヵ月前のことで、中風で寝たきりだった氏親がこれを作成したとは考えづらく、また、目録は漢文ではなく女性文字である仮名交じり文であることから、寿桂尼が大きく関わり、氏親の名で発布したと考えられています(異説あり)。


 「戦国大名」の定義は曖昧ですが、幕府と一線を画する独自の法律の制定だとすれば、今川氏は、この『今川仮名目録』の制定から戦国大名に変貌したといえ、すなわち、今川家を戦国大名にしたのは寿桂尼だったと言っても過言ではないかもしれません。それ以後、寿桂尼はわが子、氏輝、義元、そして孫の氏真と、今川家4代に渡って政務を補佐し、「駿河の尼御台」、「女戦国大名」などと称されました。


 実際、桶狭間の戦いで義元が死んだあとも、寿桂尼が存命の間は何とかその大名としての面目を保っていましたが、寿桂尼が死ぬやいなや、武田信玄による駿河侵攻によって今川氏は滅亡します。そのことからも、少なくとも氏真の時代は、寿桂尼あっての今川家だったことがわかりますね。まさしく「おんな大名・寿桂尼」でした。


 ドラマで直虎がやりあったのは、そんな女傑でした。もちろん、今話はすべてフィクションで、ドラマのオリジナルです。ただ、同じく国を統治する女性という立場として、直虎は寿桂尼という偉大な存在を意識していなかったはずはありませんし、寿桂尼も、少なからず直虎という女性を気に留めていたかもしれません。ふたりが面会したという記録はありませんが、もしあったとしたら、あんな感じだったかもしれませんね。


 今話はフォクションといえども、わたしは面白かったと思います。そもそも、この徳政令に関していえば、今川氏真が井伊家の領内に発布した徳政令を、直虎が2年間それを抵抗しつづけたということ以外、何もわかっていません。つまり、次週からも、この徳政の施行を引き伸ばした2年間の話は、ほぼ創作の回となります。もともと史料の少ない人物を主人公にしているわけですから、これは仕方がないことでしょう。今話の主題は、実は直虎を守ろうとしていたという、小野但馬守正次の本意だったんじゃないでしょうか? 今後、このふたりの関係がどのように描かれていくのか楽しみです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-04-17 15:58 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第14話「徳政令の行方」 ~徳政令と逃散~

 今話はそのタイトルどおり、「徳政令」のお話。前話の稿でも述べましたが、「徳政令」とは、債権者・金融業者に対して債権放棄を命じる法令で、簡単にいうと「借金帳消し」の制度です。その始まりは鎌倉時代の元寇の折、御家人の窮状を救うために永仁5年(1297年)に発令された「永仁の徳政令」からとされています。その後、室町時代から戦国時代にかけて、土一揆などの鎮静にたびたび徳政令を発布しています。


 徳政令の対象はその時々によって様々でしたが、井伊直虎のときの井伊谷における徳政は、度重なる戦で疲弊した農民が対象でした。戦によって田畑が荒らされ、凶作が続いた農民たちは、寺や商人たちから借金をして食いつないでいましが、今度はその借金の返済に苦しみ、生活が立ち行かなくなっていました。そんな農民たちを救うには、徳政令を施行して借金をチャラにしてあげることが最良ですが、そうすると、今度は貸した側が被害を受けます。場合によっては貸主が破産することも想定され、債権者にしてみれば、これほど理不尽な制度はないわけです。


 実はこのとき、井伊家は度重なる出陣策謀の被害などから、人的損傷もさることながら、経済的にも大いに疲弊していました。そのため、「銭主」と呼ばれる豪商から多額の借金をして、なんとか領主の対面を保っていました。じゃあ、徳政令を発布すれば井伊家も借金返済を免れていいじゃないか・・・というのは短慮で、徳政令によって銭主が破産すると、井伊家はこののちお金を借りることができなくなり、井伊家の財政が立ち行かなくなります。だから、直虎としては、農民より銭主を守らなければならない事情があったわけです。


 徳政を願い出る場合、本来は在地領主の井伊家に訴え出るのが筋でしたが、このとき、百姓たちは井伊家を飛び越えて駿府の今川氏真に訴えました。これを手引したのが、本来は直虎をサポートすべき立場にあった小野但馬守政次でした。理由はわかりませんが、徳政令を利用して直虎の失脚を図り、井伊家を乗っ取ろうとしていたと考えられます。政次は蜂前神社の神職・祝田禰宜と結託して、氏真から徳政令を出させます。


 祝田禰宜は祝田の市場の特権井伊直盛のときに安堵されており、神職でありながら商人でもあって、井伊谷の経済の中核にいた人物でした。ところが、この頃、瀬戸方久をはじめとする新興勢力が現れ、商人としての祝田禰宜は圧迫を受けはじめていました。祝田禰宜にとっては、この徳政令を道具にして方久ら新興勢力にダメージを与えようとの狙いがあったんですね。


 それぞれの立場のそれぞれの思惑が込められた徳政令でしたが、直虎はこれを握りつぶします。というより、先送りにしたというほうが正しいかもしれません。新興勢力の商人に支えられていた井伊家としては、徳政令を施行するわけにはいかなかったんですね。直虎はできるだけ徳政令の施行を引き伸ばし、その間に、銭主の被害がなるべく少なくすむための対策を講じていきます。直虎が単なる虎松成人までのお飾りではなく、優れた行政能力を持った人物であったことが窺えるエピソードです。


 ドラマ中、「逃散」という言葉が出てきましたね。「逃散」とは、農民が集団で荘園から退去して一時的に他の土地へ逃げ込み、年貢の軽減などを訴える行為で、一揆のように武力に訴えることはないものの、いわばストライキのようなものでした。一応、合法なのでボイコットとは違います。ただ、合法と認められるには、訴えの対象になっていない年貢はちゃんと納めているなど、領民としての義務を果たしている必要があります。合法と認められない場合には、領主が妻子や家、田畑などを差し押さえることができました。いずれにせよ、領民に逃げられてしまっては、年貢が入らずに領国経営が立ち行かなくなります。領主というと、農民の血税の上にあぐらをかいているイメージがありますが、決してそんなことはなく、逃散や一揆などが起こらないようにする統治能力が求められていたんですね。前話のタイトルじゃないですが、まさに「領主はつらいよ」です。



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by sakanoueno-kumo | 2017-04-10 18:00 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(2)  

おんな城主 直虎 第13話「城主はつらいよ」 ~地頭・井伊直虎~

 かくして井伊家の家督を相続し、幼い虎松(のちの井伊直政)が成長するまでのあいだ、執務をとることとなった次郎法師あらため井伊直虎ですが、具体的にいつ家督を継承したかはわかっていません。その目安となる史料としては、地頭として直虎が龍潭寺南渓瑞聞和尚に宛てた寄進状が残されており、永禄8年(1565年)9月15日付けとなっていることから、おそらくその数ヶ月前と考えられています。


 直虎が地頭になった経緯を、『井伊家伝記』はこう伝えます。


 「中野信濃守井伊保を預り仕置成され候跡に、討死の後は地頭職も之れ無く候。之に依り、直盛公後室と南渓和尚相談にて次郎法師を地頭と相定め、直政公の後見を成され、御家を相続成さる可き旨ご相談にて、次郎法師を地頭と定め申し候。(瀬戸保久に下され候家康公の御判物に、地頭次郎法師とこれ有り)其節井伊家御一族、御家門方々にて戦死、直政公御一人殊に御幼年故、井伊家御相続御大切に思召され候也。」


 上記()内注釈で、そこには、井伊家を支えた瀬戸保久(方久)に、のちに徳川家康が与えた判物「地頭次郎法師」とあったので、この判物が、直虎が地頭職に就いたことを証明している、と伝えています。つまり、それくらい直虎の地頭職就任に関する史料は少ないんですね。


 また、井伊家に関する一次史料には、次郎法師が還俗して「直虎」と名乗ったとするものは存在しません。『井伊家伝記』によると、「次郎法師は女こそあれ井伊家惣領に生候間」とあるのみで、「直虎」という名は出てこないんですね。では、「直虎」という名はどこから来たかというと、唯一、蜂前神社に伝わる徳政令に関する文書に「次郎直虎」との署名があるそうで、花押が押されているそうです。花押とは、現代でいうところのサインみたいなもんですね。


歴史上、この直虎の花押以外で女性が花押を使用した例はなく、そのことから、直虎は実は男なんじゃないかという説も根強くあります。最近でも、直虎が男だったのではないかと取れる史料が見つかって話題になっていましたね。ただ、これらの説は井伊家の女性地頭の存在をも否定しているわけではありません。井伊直盛が出家して次郎法師と名乗り、のちに虎松を後見したという記録は複数の史料に記されていることです。つまり、いま疑問符が打たれているのは、次郎法師と直虎は別人なんじゃないか?・・・ということで、次郎法師が女性だったという通説は、いまのところ覆っていません。


 ちなみに、「地頭」とは、中学校の日本史でも習ったと思いますが、年貢の徴収権、警察権、裁判権をもった在地領主のことで、戦国時代は、守護の被官となっていました。つまり、井伊家は井伊谷の領主でありながら、地頭として駿河国守護の今川家の被官だったわけです。


 さて、今話は地頭となった直虎が領民からの徳政令の願い出を安請け合いしてしまい、右往左往するといった話。「徳政令」とは、債権者・金融業者に対して債権放棄を命じる法令で、簡単にいうと「借金帳消し」の制度です。歴史的には鎌倉時代からある制度で、災害借金に苦しむ人々を救済する制度です。競馬やパチンコで借金まみれになった人は救ってくれません。ただ、借主がいれば貸主もいるわけで、扱いが難しい制度でもありました。領主となった直虎の領国経営の業績で、最も知られているのがこの徳政令です。ただ、今話のストーリーはすべてドラマの創作。実際には、今川氏真が井伊家の領内に徳政令を発布するものの、直虎は2年間それを抵抗しつづけたという話で、今話はそれにつなげるための伏線と、今後、直虎と深く関わってくるであろう瀬戸方久の顔見せの回ですね。というわけで、徳政令の話は次回に。



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by sakanoueno-kumo | 2017-04-03 18:30 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(2)  

おんな城主 直虎 第12話「おんな城主直虎」 ~井伊直親の最期と井伊直虎の誕生~

 井伊直親の最期の回でしたね。その伝承によると、直親が松平元康内通しているという小野但馬守政次の讒言によって、今川氏真は大いに驚き、ただちに井伊谷に軍勢を差し向けようとしますが、今川氏の一族でありながら井伊家寄りだった新野左馬助親矩が、氏真に思いとどまるよう説得し、出撃は中止されます。親矩の妹は亡き井伊直盛の妻で、つまり、次郎法師の母でした。さらに、親矩の妻は井伊家一族の奥山因幡守朝利の妹でもあり、親矩は今川氏の一族として井伊家の目付家老でありながら、井伊家と深い絆で結ばれていたんですね。


 そんな背景もあって、氏真は親矩の説得を心から納得していなかったのかもしれません。あるいは、零落著しい今川氏にあって、氏真は疑心暗鬼になっていたのかもしれませんね。氏真は直親を許すつもりはありませんでした。


 親矩から報せを受けた直親は、逆心がないことを弁明しようとただちに駿府城に向かいます。「行けば殺される」と止める家臣も多かったと思われますが、直親は強行したんですね。あるいは殺されるかもしれなくても、この時点では、そうするしかなかったのでしょう。永禄5年(1562年)12月、直親は家臣18人を従えて、井伊谷を発ちます。


 通説に従えば、12月14日、井伊谷から東南東に35kmほどのところで、遠江国掛川城主朝比奈泰朝の兵に囲まれます。このときのことを『井伊家伝記』は、「掛川通りの節朝比奈備中守取り囲み一戦に及び、直親主従共粉骨を尽すと雖も、無勢故終には傷害成され候」と記します。


また、『寛政重修諸家譜』には「十二月十四日遠江国掛川をすぐるところ、城主朝比奈備中守泰能(泰朝の誤り)その意しらず。氏真をせめむがために、行くならむとおもひ、俄に兵を出して囲みうつ。直親やむ事を得ずしてこれとたゝかひ、終に討死す。年二十七」とあります。つまり、泰朝は直親が申し開きのために駿府に向かっていると知らず、駿府を攻めるためだと勘違いし、兵を出して襲撃した・・・と。まあ、このあたりの理由は、後からどうとでもいえますよね。おそらく、氏真は最初から直親の抗弁など聞くつもりはなく、泰朝に命令して殺させたのではないかと・・・。


 かつて直親の父・井伊直満は、政次の父・小野和泉守政直讒言によって今川義元殺害されました。そしてまた、直満の子・直親は、政直の子・政次の讒言によって、義元の子・氏真に殺されたわけです。なんという因縁でしょう。安物の脚本家でも、こんな出来すぎた設定は考えないのではないでしょうか。まさに事実は小説より奇なり。ドラマでも、この親子二代の因縁を、もうちょっとクローズアップしてほしかった気がします。


 直親の死後、ドラマでは一族最長老の井伊直平中野直由新野親矩が瞬く間に死んでしまいましたが、実は直平らが死んだのは直親の死から9ヵ月後のことでした。しかも、直平の死は毒殺だったという説もあり、十分にドラマになったと思うのですが、ナレーションだけでこの世を去っちゃいましたね。早くおんな城主を誕生させたかったのかもしれませんが、直親の死からあとの井伊家の窮地がもっとも面白いところだと思っていたので、そこをもっとじっくり描いてほしかった気がします。その井伊家存続の危機があったから、おんな城主が誕生したわけで・・・。


直平が死んだことで、ついに井伊家を継ぐ男子は直親の忘れ形見・虎松だけとなりました。しかし、虎松はまだ幼く、後見が必要です。そこで白羽の矢が立ったのが、次郎法師だったんですね。ドラマのとおり、次郎法師を後見に推したのは、南渓瑞聞和尚だったといいます。かくして、おんな城主・井伊直虎の誕生です。



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by sakanoueno-kumo | 2017-03-27 17:11 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第11話「さらば愛しき人よ」 ~小野但馬守政次の讒言~

 松平元康(のちの徳川家康)が今川家に反旗を翻したことで、駿府に人質として残っていた瀬名姫(のちの築山殿)、嫡男の竹千代(のちの松平信康)、長女の亀姫は窮地に立たされますが、元康は鵜殿長照の籠る上ノ郷城を攻め落とした際、長照の子の鵜殿氏長・氏次を生け捕りにし、今川家に対して人質交換を求めます。長照の母は亡き今川義元の妹で、寿桂尼から見れば長照は孫、今川氏真から見れば従兄弟にあたります。桶狭間の戦い以降、配下の離反が後を絶たない今川家にとって、一族の命を守るのは是非に及ばず。家康の要求に応じます。見事な人質奪回工作でした。


 無事に救い出された瀬名でしたが、岡崎城に入ることを許されず、岡崎城の外れにある惣持尼寺幽閉同然の生活を強いられることになります。その理由は、元康の生母・於大の方が瀬名のことを嫌っていたからとも言われますが、もともと今川義元の養女という立場での元康との結婚だったわけですから、反今川の立場となった今となっては、持て余していたというのが正しいかもしれません。こののちも、瀬名は元康から死ぬまで冷遇され続けます。


 ドラマでは、元康の見事な人質奪回工作に感銘を受け、元康に興味をいだいた井伊直親でしたが、もともと元康の妻・瀬名の母方の祖父は井伊直平で、直親にとって瀬名は従兄妹にあたるため、その夫である元康に親近感を持つのは当然のことだったと想像できます。そんな背景もあり、今川家衰退著しいなか、直親は次第に松平家に傾倒していったのではないでしょうか。


 元康から鷹狩の誘いを受けた直親は、その招きに応じて元康と対面、親交を深めることになりますが、これが、実は寿桂尼の仕掛けただった・・・というのがドラマの設定でしたね。そうとは知らない小野但馬守政次は、駿府で寿桂尼に事の真相を突きつけられ、やむなく寿桂尼の前にひれ伏すこととなります。この展開、なかなか上手い脚本だったんじゃないでしょうか。


 通説では、今川家の目付けであり、もともと直親と折り合いの悪かった政次が、今川家に松平家との内通讒言したとされています。『井伊家伝記』は伝えます。


 「小野但馬急に駿府へ罷り下り、今川氏真へ讒言申し候は、肥後守直親は家康公、信長両人へ内通、一味同心仕り候。」


 直親は元康と織田信長に内通し、陰謀を企てている・・・と、政次が今川氏真に讒言したというんですね。まさしく、政次の父・小野和泉守政直が直親の父・井伊直満を讒言して死に追いやったときと同じです。


「お前は必ずわしと同じ道をたどるぞ。」


 まさに、親子二代の因縁です。


 このドラマのとなる部分が、直親と政次、そして次郎法師(おとわ)友情物語にありますから、この設定はうなずけます。結果的に直親を裏切ることになった政次ですが、その裏には、今川家目付けという立場から井伊家を守るための苦渋の決断があった・・・と。ただ、その代償はあまりにも大きいものとなってしまうんですね。その結末は次週。


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by sakanoueno-kumo | 2017-03-22 19:17 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第10話「走れ竜宮小僧」  ~奥山朝利殺害事件~

 桶狭間の戦いが起きた同じ年の暮れ、井伊家一族の奥山因幡守朝利殺害されるという事件が起きます。その加害者は小野但馬守政次でした。ドラマでは、先に刀を抜いたのは朝利の方で、政次はやむなく返り討ちにした正当防衛とされていましたが、実際にはどうだったのでしょう? Wikipediaでは、「小野道好(政次)に暗殺された」とあります。「暗殺」「正当防衛」では、ずいぶん違いますよね。


 龍潭寺古文書によると、「永禄三年十二月二十二日、奥山朝利、小野但馬により傷害される」と記されているのみで、詳細はわかりません。奥山家は井伊家の分家で、朝利は一族の実力者でした。その妹は新野左馬助親矩の妻で、朝利の8人の娘のうち、長女は井伊直親と結婚し、次女は、同じく井伊分家の中野越後守直由の妻となり、五女はのちに井伊家三人衆のひとりとなる鈴木三郎大夫重時の妻、そして、実は三女は、小野但馬守政次の弟、小野玄蕃朝直に嫁いでいました。つまり、朝利は政次から見れば、弟の舅ということになるわけです。


 そんな親戚関係にありながら、政次はなぜ凶行に及んだのか・・・。歴史家・楠戸義昭氏の著書によれば、井伊家分家の最大の実力者が奥山氏で、その当主・朝利が一族内の婚姻関係によってさらに権力を掌握し、桶狭間の戦いで討死した宗家の井伊直盛に代わって、井伊家を支配しつつあったとし、それを恐れた政次が、駿府の今川氏真に何らかの讒言をし、氏真了解のもとに殺害したため、周囲は手が出せなかったのではないか・・・と、推察しています。かつて政次の父・小野和泉守政直は、井伊直満の息子・亀之丞(のちの井伊直親)と次郎法師(ドラマではおとわ)が結婚することで、直満が大きな権力を握ることを恐れて殺害しました。今度も同じ動機だったのではないかと・・・。あくまでも、井伊家の補佐役の筆頭小野家でなければならないということですね。


 「お前は必ずわしと同じ道をたどるぞ。」


 第5話で死に際の政直が息子の政次に言った台詞ですが、ドラマでは、まだその兆候は見られません。でも、あるいは、この奥山朝利殺害事件が、父と同じ道をたどりはじめたキッカケだったのかもしれませんね。ドラマでも、そんな風に描いてほしかったなぁ・・・。


 桶狭間の戦いで今川義元が討たれたことで、今川軍が放棄した岡崎城に帰還した松平元康(のちの徳川家康)は、今川を見限って織田信長に急接近します。そして永禄4年(1561年)、三河の牛久保城を攻撃したことで、反今川の姿勢を明確にしました。しかし、そうなると、窮地に陥ったのが今川の人質となっていた、瀬名姫(築山殿)でした。ドラマでは、その命乞いにのために次郎法師が寿桂尼のもとを訪れていましたが、もちろん、ドラマの創作です。そこへ、元康が上ノ郷城を落とし、その城主で寿桂尼の孫にあたる鵜殿長照が自害したとの報せが届き、万事休す。瀬名の処刑が確定します。さてさて、このピンチをどう切り抜けるのか・・・。続きは次回ということで。



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by sakanoueno-kumo | 2017-03-13 20:25 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第9話「桶狭間に死す」 ~桶狭間の戦い~

 永禄3年(1560年)5月19日、尾張国桶狭間において、その後のわが国の歴史を大きく左右することになる合戦が行われます。世にいう桶狭間の戦いですね。今川義元率いる大軍を少数の織田信長が討ち取り、その名を天下に轟かせたことで知られるこの戦いですが、井伊家では、この戦いで当主の井伊直盛討死したと伝えられます。


e0158128_16435176.jpg 5月12日、今川義元は4万(一説には2万5千とも)の軍勢を率いて西へ進軍します。その目的は、上洛のためとも尾張国の制圧のためとも言われますが、定かではありません。そのなかには、若き日の松平元康(のちの徳川家康)も参陣しています。5月18日、義元は沓掛城に本陣を布いて軍議を開いたといいます。そして、翌19日、運命の桶狭間に到着します。


 一方の織田信長は、圧倒的に劣勢の兵力を考えて籠城戦で耐え抜くのは困難と判断し、家臣の進言もあって野戦に討って出ることを決定します。このとき、信長が「敦盛」の一節「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」と謡い舞ったという逸話は、あまりにも有名ですね。のちに天下に名を轟かせる織田信長も、このときばかりは死を覚悟していたのかもしれません。事実、信長の戦歴のなかで、少数で大軍に討って出るような大博打を打ったのは、あとにも先にもこのときだけでした。


e0158128_16435426.jpg 19日明け方、義元の家臣・朝比奈泰朝が織田方の鷲津砦を落とし、隣接する丸根砦も松平元康によって落とされます。この報せを聞いた義元は、気を良くして桶狭間で休憩をとり、兵に弁当をつかわせました。このとき、近くの寺社から祝いの酒が届き、義元は兵たちに酒を振る舞ったともいいます。あるいは、直盛も酒を飲んでいたかもしれません。完全に緊張の糸が切れた状態でした。


 午後1時すぎ、桶狭間に視界を妨げるほどの豪雨が降ります。この雨の襲来をあらかじめ計算していたのかどうかは定かではありませんが、この雨に乗じて信長は兵を進め、休憩中の今川軍に気づかれることなく接近し、奇襲をかけます。今川軍はたちまち大混乱に陥り、ことごとく惨敗します。義元は織田方の毛利新助良勝に討ち取られ、首を取られました。その際、義元は相手の指を食いちぎって果てたと伝わります。


 この戦いで井伊直盛は先鋒を務めていたと伝わりますが、どのような最期を遂げたかは定かではありません。『寛政重修諸家譜』によると、


 「今川義元につかへ、永禄三年五月十九日尾張国桶狭間にをいて、義元とともに討死す。年三十五」


 と記されているのみで、どのような場面で討死したかは不明です。ドラマでは切腹して果てていましたが、これは後世に編纂された『井伊家伝記』によるものでしょう。それによれば、

 「直盛公切腹に臨んで奥山孫市郎の御遺言仰せ渡され候は、今後不慮の切腹是非に及ばず候。その方介錯仕り候て、死骸を国へ持参仕り、南渓和尚焼香成され候様に申す可く候。扨また、井伊谷は小野但馬が心入、心元無く候故、中野越後を留守に頼み置き候。此以後猶以て小野但馬と肥後守主従の間心元無く候間、中野越後守へ井伊谷を預け申し候間、時節を以て肥後守引馬へ移し替え申す様に、直平公に委細に申す可き旨仰せ渡され、是非なく奥山孫市郎、直盛公の御死骸を御介錯仕り、井伊谷へ帰国申し候」

 とあります。意訳すると、直盛はその死に際して、小野但馬守政次は信用できないので、中野越後守直由に留守を頼んできた。これからも政次と直親の主従関係が不安なので、直由に井伊谷を預けたい。時節を見て直親を引馬城に移したいので、このことを祖父・直平に伝えて欲しい、と遺言して、奥山孫市郎に介錯させて切腹した・・・と。ドラマの設定とは少し異なりますが、奥山孫市郎に介錯させて切腹したこと、その際の遺言などはここから採ったものでしょう。

 「お働き、まことご苦労さまでございました。おひげを整えましょうね・・・」

 となって帰ってきた直盛に妻・千賀が語りかけるシーンは、こみあげるものがありましたね。この時代、合戦で討死して帰ってきた首に、を入れて死化粧を施すのは妻の仕事でした。井伊家では、この戦いで死んだのは直盛だけでなく、一族・家臣の多くが討死しています。たぶん、千賀と同じように夫の首に死化粧を施した妻が、たくさんいたことでしょう。女も戦っていたんですね。

 この戦いによって、今川氏は没落の一途をたどり、信長は天下人への階段を駆け上がることになります。歴史が動いた瞬間でした。



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by sakanoueno-kumo | 2017-03-06 16:50 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第8話「赤ちゃんはまだか」 ~しのと瀬名姫~

 今話は、そのタイトルどおり、井伊直親・しの夫婦になかなか子ができない苦悩のお話。「嫁して三年、子なきは去る」と言われた時代ですから、武家の正妻に子ができないというのは大問題だったことはわかりますが、大河ドラマの1話を使ってやるほどの話か?・・・と思わなくもないです。正直、どうでもいい話かな・・・と。井伊直虎という、ほぼ無名の人物を主人公に物語を描くには、こんな回も必要なんでしょうが・・・。ただ、1ヵ所だけ頷ける台詞が・・・。


 「私がおとわ様じゃったらと誰もが思うておる。口には出さねど、殿も、お方様も、皆も、直親様も・・・。」


 思いつめたしのが次郎法師に向けて吐いた台詞ですが、次郎法師と直親が結婚できなかった本当の理由は定かではありませんが、当主・井伊直盛にとっては、実の娘である次郎法師と直親を娶せて後継者としたかった思いは強かったでしょう。でも、何らかの理由でそれが出来ず、一族の奥山因幡守朝利の娘と結婚します。たしかに、「次郎法師だったら・・・」という目で見られていたでしょうね。


 直親の正妻となった女性については、その事績をうかがう史料は皆無に等しく、奥山因幡守朝利の娘(奥山親朝の娘という説もある)ということ以外はわかっていません。ドラマでは「しの」と名乗っているその名前も、定かではないようです。つまり、ほとんど謎の人物といっていいでしょう。ただ、結婚から約6年後の永禄4年(1561年)、直親との間に待望の男児を生んだことは間違いなく、その男児が、のちの徳川四天王の一角となる井伊直政です。後年、井伊家は徳川幕府体制のなかで5人の大老を輩出するに至るわけですが、その井伊家が滅亡寸前のこの時代、その血をかろうじて繋いだ女性が、この人だったわけですね。ある意味、歴史に大きな役割を担った女性といえるでしょうか。


 舞台を駿府に移して、前話で夫婦縁組が整った松平元康(のちの徳川家康)と瀬名姫(のちの築山殿)でしたが、今話では、もはや嫡男の竹千代(のちの松平信康)が生まれていました。史実では、瀬名姫と元康が結婚したのは弘治3年(1557年)、竹千代が生まれたのは永禄2年(1559年)とされています。瀬名姫の生年は詳らかではなく、結婚したとき共に16歳だったともいわれますが、瀬名姫が8歳年上の姉さん女房だったとの説もあります。ドラマでは、後者の設定のようですね。


寿桂尼「よい縁であろ。2人はよく話もしておるようじゃし。」

元康「身に余るお話にございます。」

瀬名「私も身が余っておりまする。」


 このくだりは笑えましたね。今回のドラマでは、今のところ面白ろキャラの瀬名姫ですが、でも、瀬名姫の人生が笑えない結末となることは周知のところだと思います。これからどんな風に描かれるのか注目しましょう。ちなみに、桶狭間の戦いは永禄3年(1600年)5月19日ですから、「ご武運を!」と言った竹千代は、このとき満1歳になったばかり。なかなかな神童ぶりですね。さすがは、家康が晩年までその死を悔やんだといわれる息子です。



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by sakanoueno-kumo | 2017-02-27 21:33 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(2)  

おんな城主 直虎 第7話「検地がやってきた」 ~隠田・忍田・隠地・隠没田~

 今回は全編創作の回だったので、特にここで補足、解説するネタはありません。もちろん、井伊家が隠し里を持っていたなんて話もドラマでのフィクションです。「隠し里」という言葉はあまり耳なじみがありませんが、「隠田」というのは実際にあったようで、「おんでん」あるいは「かくしだ」と読みます。ほかにも、「忍田(しのびだ)」、「隠地(おんち)」、「隠没田(おんぼつでん)」などといった言葉もあったそうで、これらはすべて同義語。読んで字のごとく、年貢の徴収を免れるために密かに耕作した水田のことです。つまり、脱税行為ですね。


 隠田は重罪で、発覚すれば土地は没収され、追放されたそうです。ただ、隠田はふつう農民が行うことで、今回のドラマのように、領主が隠し里を持っていたという例が、本当にあったのかどうかはわかりません。


井伊直平「ここはもしもの時に井伊の民が逃げ込むところでな。かつて今川に追い込まれたとき、わしらはここに隠れ住み、時を稼ぎ、命脈を保ったのじゃ。ここがなければ、井伊は滅んでおったかもしれぬ。」


ということだそうですが、でも、農民にとっては今川か井伊かに年貢を吸い取られることに変わりはないわけで、「井伊の民」にとっては、あまりメリットはなかったんじゃないかと・・・。


 この隠し里をめぐっての井伊直親小野但馬守政次のかけひきは、なかなか面白かったですね。


直親「川名の隠し里をないことにしてしまいたい」


と、政次に対してストレートにぶつけたあと、小野家の置かれた辛い立場を思いやったうえで、


直親「もし鶴が隠すことに加担したくないと思うなら、この冊子をつけてだしてくれ。もし、ひと肌脱いでくれるというなら、そのまま破り捨ててくれ。俺は鶴の決めたほうに従う。」


と、政次に判断を委ねます。これは、政次にとってはキツイですよね。


政次「あいつめ、俺の了見を見越した上で最後は俺に決めよと言い放ちおった。俺に決めよと。」


 この怒りは当然だと思います。これでは、どちらを選んでも政次自身の責任。直親は汚れないですみます。ずるいですよね。主家である以上、「加担しろ!」と命令すべきでしょう。ここまで聖人君子キャラに思えた直親でしたが、実は、なかなかしたたかな男なのかもしれません。


政次「それがしを信じておられぬなら、おられぬで構いませぬ。されど、信じているふりをされるのは気分がいいものではありませぬ。」


 君を信じてこの仕事を任せる・・・といっておきながら、いざというときに責任逃れする上司みたいなもんですね。現代でもよくある話です。そんなこんなで、直親、政次の間の溝が深まっていくのでしょうか・・・。今後、ふたりの関係はどんな展開を見せるのか、ドラマ前半のいちばんの見どころかもしれません。。



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by sakanoueno-kumo | 2017-02-21 02:06 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)