カテゴリ:おんな城主 直虎( 13 )

 

おんな城主 直虎 第12話「おんな城主直虎」 ~井伊直親の最期と井伊直虎の誕生~

 井伊直親の最期の回でしたね。その伝承によると、直親が松平元康内通しているという小野但馬守政次の讒言によって、今川氏真は大いに驚き、ただちに井伊谷に軍勢を差し向けようとしますが、今川氏の一族でありながら井伊家寄りだった新野左馬助親矩が、氏真に思いとどまるよう説得し、出撃は中止されます。親矩の妹は亡き井伊直盛の妻で、つまり、次郎法師の母でした。さらに、親矩の妻は井伊家一族の奥山因幡守朝利の妹でもあり、親矩は今川氏の一族として井伊家の目付家老でありながら、井伊家と深い絆で結ばれていたんですね。


 そんな背景もあって、氏真は親矩の説得を心から納得していなかったのかもしれません。あるいは、零落著しい今川氏にあって、氏真は疑心暗鬼になっていたのかもしれませんね。氏真は直親を許すつもりはありませんでした。


 親矩から報せを受けた直親は、逆心がないことを弁明しようとただちに駿府城に向かいます。「行けば殺される」と止める家臣も多かったと思われますが、直親は強行したんですね。あるいは殺されるかもしれなくても、この時点では、そうするしかなかったのでしょう。永禄5年(1562年)12月、直親は家臣18人を従えて、井伊谷を発ちます。


 通説に従えば、12月14日、井伊谷から東南東に35kmほどのところで、遠江国掛川城主朝比奈泰朝の兵に囲まれます。このときのことを『井伊家伝記』は、「掛川通りの節朝比奈備中守取り囲み一戦に及び、直親主従共粉骨を尽すと雖も、無勢故終には傷害成され候」と記します。


また、『寛政重修諸家譜』には「十二月十四日遠江国掛川をすぐるところ、城主朝比奈備中守泰能(泰朝の誤り)その意しらず。氏真をせめむがために、行くならむとおもひ、俄に兵を出して囲みうつ。直親やむ事を得ずしてこれとたゝかひ、終に討死す。年二十七」とあります。つまり、泰朝は直親が申し開きのために駿府に向かっていると知らず、駿府を攻めるためだと勘違いし、兵を出して襲撃した・・・と。まあ、このあたりの理由は、後からどうとでもいえますよね。おそらく、氏真は最初から直親の抗弁など聞くつもりはなく、泰朝に命令して殺させたのではないかと・・・。


 かつて直親の父・井伊直満は、政次の父・小野和泉守政直讒言によって今川義元殺害されました。そしてまた、直満の子・直親は、政直の子・政次の讒言によって、義元の子・氏真に殺されたわけです。なんという因縁でしょう。安物の脚本家でも、こんな出来すぎた設定は考えないのではないでしょうか。まさに事実は小説より奇なり。ドラマでも、この親子二代の因縁を、もうちょっとクローズアップしてほしかった気がします。


 直親の死後、ドラマでは一族最長老の井伊直平中野直由新野親矩が瞬く間に死んでしまいましたが、実は直平らが死んだのは直親の死から9ヵ月後のことでした。しかも、直平の死は毒殺だったという説もあり、十分にドラマになったと思うのですが、ナレーションだけでこの世を去っちゃいましたね。早くおんな城主を誕生させたかったのかもしれませんが、直親の死からあとの井伊家の窮地がもっとも面白いところだと思っていたので、そこをもっとじっくり描いてほしかった気がします。その井伊家存続の危機があったから、おんな城主が誕生したわけで・・・。


直平が死んだことで、ついに井伊家を継ぐ男子は直親の忘れ形見・虎松だけとなりました。しかし、虎松はまだ幼く、後見が必要です。そこで白羽の矢が立ったのが、次郎法師だったんですね。ドラマのとおり、次郎法師を後見に推したのは、南渓瑞聞和尚だったといいます。かくして、おんな城主・井伊直虎の誕生です。



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by sakanoueno-kumo | 2017-03-27 17:11 | おんな城主 直虎 | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第11話「さらば愛しき人よ」 ~小野但馬守政次の讒言~

 松平元康(のちの徳川家康)が今川家に反旗を翻したことで、駿府に人質として残っていた瀬名姫(のちの築山殿)、嫡男の竹千代(のちの松平信康)、長女の亀姫は窮地に立たされますが、元康は鵜殿長照の籠る上ノ郷城を攻め落とした際、長照の子の鵜殿氏長・氏次を生け捕りにし、今川家に対して人質交換を求めます。長照の母は亡き今川義元の妹で、寿桂尼から見れば長照は孫、今川氏真から見れば従兄弟にあたります。桶狭間の戦い以降、配下の離反が後を絶たない今川家にとって、一族の命を守るのは是非に及ばず。家康の要求に応じます。見事な人質奪回工作でした。


 無事に救い出された瀬名でしたが、岡崎城に入ることを許されず、岡崎城の外れにある惣持尼寺幽閉同然の生活を強いられることになります。その理由は、元康の生母・於大の方が瀬名のことを嫌っていたからとも言われますが、もともと今川義元の養女という立場での元康との結婚だったわけですから、反今川の立場となった今となっては、持て余していたというのが正しいかもしれません。こののちも、瀬名は元康から死ぬまで冷遇され続けます。


 ドラマでは、元康の見事な人質奪回工作に感銘を受け、元康に興味をいだいた井伊直親でしたが、もともと元康の妻・瀬名の母方の祖父は井伊直平で、直親にとって瀬名は従兄妹にあたるため、その夫である元康に親近感を持つのは当然のことだったと想像できます。そんな背景もあり、今川家衰退著しいなか、直親は次第に松平家に傾倒していったのではないでしょうか。


 元康から鷹狩の誘いを受けた直親は、その招きに応じて元康と対面、親交を深めることになりますが、これが、実は寿桂尼の仕掛けただった・・・というのがドラマの設定でしたね。そうとは知らない小野但馬守政次は、駿府で寿桂尼に事の真相を突きつけられ、やむなく寿桂尼の前にひれ伏すこととなります。この展開、なかなか上手い脚本だったんじゃないでしょうか。


 通説では、今川家の目付けであり、もともと直親と折り合いの悪かった政次が、今川家に松平家との内通讒言したとされています。『井伊家伝記』は伝えます。


 「小野但馬急に駿府へ罷り下り、今川氏真へ讒言申し候は、肥後守直親は家康公、信長両人へ内通、一味同心仕り候。」


 直親は元康と織田信長に内通し、陰謀を企てている・・・と、政次が今川氏真に讒言したというんですね。まさしく、政次の父・小野和泉守政直が直親の父・井伊直満を讒言して死に追いやったときと同じです。


「お前は必ずわしと同じ道をたどるぞ。」


 まさに、親子二代の因縁です。


 このドラマのとなる部分が、直親と政次、そして次郎法師(おとわ)友情物語にありますから、この設定はうなずけます。結果的に直親を裏切ることになった政次ですが、その裏には、今川家目付けという立場から井伊家を守るための苦渋の決断があった・・・と。ただ、その代償はあまりにも大きいものとなってしまうんですね。その結末は次週。


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by sakanoueno-kumo | 2017-03-22 19:17 | おんな城主 直虎 | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第10話「走れ竜宮小僧」  ~奥山朝利殺害事件~

 桶狭間の戦いが起きた同じ年の暮れ、井伊家一族の奥山因幡守朝利殺害されるという事件が起きます。その加害者は小野但馬守政次でした。ドラマでは、先に刀を抜いたのは朝利の方で、政次はやむなく返り討ちにした正当防衛とされていましたが、実際にはどうだったのでしょう? Wikipediaでは、「小野道好(政次)に暗殺された」とあります。「暗殺」「正当防衛」では、ずいぶん違いますよね。


 龍潭寺古文書によると、「永禄三年十二月二十二日、奥山朝利、小野但馬により傷害される」と記されているのみで、詳細はわかりません。奥山家は井伊家の分家で、朝利は一族の実力者でした。その妹は新野左馬助親矩の妻で、朝利の8人の娘のうち、長女は井伊直親と結婚し、次女は、同じく井伊分家の中野越後守直由の妻となり、五女はのちに井伊家三人衆のひとりとなる鈴木三郎大夫重時の妻、そして、実は三女は、小野但馬守政次の弟、小野玄蕃朝直に嫁いでいました。つまり、朝利は政次から見れば、弟の舅ということになるわけです。


 そんな親戚関係にありながら、政次はなぜ凶行に及んだのか・・・。歴史家・楠戸義昭氏の著書によれば、井伊家分家の最大の実力者が奥山氏で、その当主・朝利が一族内の婚姻関係によってさらに権力を掌握し、桶狭間の戦いで討死した宗家の井伊直盛に代わって、井伊家を支配しつつあったとし、それを恐れた政次が、駿府の今川氏真に何らかの讒言をし、氏真了解のもとに殺害したため、周囲は手が出せなかったのではないか・・・と、推察しています。かつて政次の父・小野和泉守政直は、井伊直満の息子・亀之丞(のちの井伊直親)と次郎法師(ドラマではおとわ)が結婚することで、直満が大きな権力を握ることを恐れて殺害しました。今度も同じ動機だったのではないかと・・・。あくまでも、井伊家の補佐役の筆頭小野家でなければならないということですね。


 「お前は必ずわしと同じ道をたどるぞ。」


 第5話で死に際の政直が息子の政次に言った台詞ですが、ドラマでは、まだその兆候は見られません。でも、あるいは、この奥山朝利殺害事件が、父と同じ道をたどりはじめたキッカケだったのかもしれませんね。ドラマでも、そんな風に描いてほしかったなぁ・・・。


 桶狭間の戦いで今川義元が討たれたことで、今川軍が放棄した岡崎城に帰還した松平元康(のちの徳川家康)は、今川を見限って織田信長に急接近します。そして永禄4年(1561年)、三河の牛久保城を攻撃したことで、反今川の姿勢を明確にしました。しかし、そうなると、窮地に陥ったのが今川の人質となっていた、瀬名姫(築山殿)でした。ドラマでは、その命乞いにのために次郎法師が寿桂尼のもとを訪れていましたが、もちろん、ドラマの創作です。そこへ、元康が上ノ郷城を落とし、その城主で寿桂尼の孫にあたる鵜殿長照が自害したとの報せが届き、万事休す。瀬名の処刑が確定します。さてさて、このピンチをどう切り抜けるのか・・・。続きは次回ということで。



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by sakanoueno-kumo | 2017-03-13 20:25 | おんな城主 直虎 | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第9話「桶狭間に死す」 ~桶狭間の戦い~

 永禄3年(1560年)5月19日、尾張国桶狭間において、その後のわが国の歴史を大きく左右することになる合戦が行われます。世にいう桶狭間の戦いですね。今川義元率いる大軍を少数の織田信長が討ち取り、その名を天下に轟かせたことで知られるこの戦いですが、井伊家では、この戦いで当主の井伊直盛討死したと伝えられます。


e0158128_16435176.jpg 5月12日、今川義元は4万(一説には2万5千とも)の軍勢を率いて西へ進軍します。その目的は、上洛のためとも尾張国の制圧のためとも言われますが、定かではありません。そのなかには、若き日の松平元康(のちの徳川家康)も参陣しています。5月18日、義元は沓掛城に本陣を布いて軍議を開いたといいます。そして、翌19日、運命の桶狭間に到着します。


 一方の織田信長は、圧倒的に劣勢の兵力を考えて籠城戦で耐え抜くのは困難と判断し、家臣の進言もあって野戦に討って出ることを決定します。このとき、信長が「敦盛」の一節「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」と謡い舞ったという逸話は、あまりにも有名ですね。のちに天下に名を轟かせる織田信長も、このときばかりは死を覚悟していたのかもしれません。事実、信長の戦歴のなかで、少数で大軍に討って出るような大博打を打ったのは、あとにも先にもこのときだけでした。


e0158128_16435426.jpg 19日明け方、義元の家臣・朝比奈泰朝が織田方の鷲津砦を落とし、隣接する丸根砦も松平元康によって落とされます。この報せを聞いた義元は、気を良くして桶狭間で休憩をとり、兵に弁当をつかわせました。このとき、近くの寺社から祝いの酒が届き、義元は兵たちに酒を振る舞ったともいいます。あるいは、直盛も酒を飲んでいたかもしれません。完全に緊張の糸が切れた状態でした。


 午後1時すぎ、桶狭間に視界を妨げるほどの豪雨が降ります。この雨の襲来をあらかじめ計算していたのかどうかは定かではありませんが、この雨に乗じて信長は兵を進め、休憩中の今川軍に気づかれることなく接近し、奇襲をかけます。今川軍はたちまち大混乱に陥り、ことごとく惨敗します。義元は織田方の毛利新助良勝に討ち取られ、首を取られました。その際、義元は相手の指を食いちぎって果てたと伝わります。


 この戦いで井伊直盛は先鋒を務めていたと伝わりますが、どのような最期を遂げたかは定かではありません。『寛政重修諸家譜』によると、


 「今川義元につかへ、永禄三年五月十九日尾張国桶狭間にをいて、義元とともに討死す。年三十五」


 と記されているのみで、どのような場面で討死したかは不明です。ドラマでは切腹して果てていましたが、これは後世に編纂された『井伊家伝記』によるものでしょう。それによれば、

 「直盛公切腹に臨んで奥山孫市郎の御遺言仰せ渡され候は、今後不慮の切腹是非に及ばず候。その方介錯仕り候て、死骸を国へ持参仕り、南渓和尚焼香成され候様に申す可く候。扨また、井伊谷は小野但馬が心入、心元無く候故、中野越後を留守に頼み置き候。此以後猶以て小野但馬と肥後守主従の間心元無く候間、中野越後守へ井伊谷を預け申し候間、時節を以て肥後守引馬へ移し替え申す様に、直平公に委細に申す可き旨仰せ渡され、是非なく奥山孫市郎、直盛公の御死骸を御介錯仕り、井伊谷へ帰国申し候」

 とあります。意訳すると、直盛はその死に際して、小野但馬守政次は信用できないので、中野越後守直由に留守を頼んできた。これからも政次と直親の主従関係が不安なので、直由に井伊谷を預けたい。時節を見て直親を引馬城に移したいので、このことを祖父・直平に伝えて欲しい、と遺言して、奥山孫市郎に介錯させて切腹した・・・と。ドラマの設定とは少し異なりますが、奥山孫市郎に介錯させて切腹したこと、その際の遺言などはここから採ったものでしょう。

 「お働き、まことご苦労さまでございました。おひげを整えましょうね・・・」

 となって帰ってきた直盛に妻・千賀が語りかけるシーンは、こみあげるものがありましたね。この時代、合戦で討死して帰ってきた首に、を入れて死化粧を施すのは妻の仕事でした。井伊家では、この戦いで死んだのは直盛だけでなく、一族・家臣の多くが討死しています。たぶん、千賀と同じように夫の首に死化粧を施した妻が、たくさんいたことでしょう。女も戦っていたんですね。

 この戦いによって、今川氏は没落の一途をたどり、信長は天下人への階段を駆け上がることになります。歴史が動いた瞬間でした。



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by sakanoueno-kumo | 2017-03-06 16:50 | おんな城主 直虎 | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第8話「赤ちゃんはまだか」 ~しのと瀬名姫~

 今話は、そのタイトルどおり、井伊直親・しの夫婦になかなか子ができない苦悩のお話。「嫁して三年、子なきは去る」と言われた時代ですから、武家の正妻に子ができないというのは大問題だったことはわかりますが、大河ドラマの1話を使ってやるほどの話か?・・・と思わなくもないです。正直、どうでもいい話かな・・・と。井伊直虎という、ほぼ無名の人物を主人公に物語を描くには、こんな回も必要なんでしょうが・・・。ただ、1ヵ所だけ頷ける台詞が・・・。


 「私がおとわ様じゃったらと誰もが思うておる。口には出さねど、殿も、お方様も、皆も、直親様も・・・。」


 思いつめたしのが次郎法師に向けて吐いた台詞ですが、次郎法師と直親が結婚できなかった本当の理由は定かではありませんが、当主・井伊直盛にとっては、実の娘である次郎法師と直親を娶せて後継者としたかった思いは強かったでしょう。でも、何らかの理由でそれが出来ず、一族の奥山因幡守朝利の娘と結婚します。たしかに、「次郎法師だったら・・・」という目で見られていたでしょうね。


 直親の正妻となった女性については、その事績をうかがう史料は皆無に等しく、奥山因幡守朝利の娘(奥山親朝の娘という説もある)ということ以外はわかっていません。ドラマでは「しの」と名乗っているその名前も、定かではないようです。つまり、ほとんど謎の人物といっていいでしょう。ただ、結婚から約6年後の永禄4年(1561年)、直親との間に待望の男児を生んだことは間違いなく、その男児が、のちの徳川四天王の一角となる井伊直政です。後年、井伊家は徳川幕府体制のなかで5人の大老を輩出するに至るわけですが、その井伊家が滅亡寸前のこの時代、その血をかろうじて繋いだ女性が、この人だったわけですね。ある意味、歴史に大きな役割を担った女性といえるでしょうか。


 舞台を駿府に移して、前話で夫婦縁組が整った松平元康(のちの徳川家康)と瀬名姫(のちの築山殿)でしたが、今話では、もはや嫡男の竹千代(のちの松平信康)が生まれていました。史実では、瀬名姫と元康が結婚したのは弘治3年(1557年)、竹千代が生まれたのは永禄2年(1559年)とされています。瀬名姫の生年は詳らかではなく、結婚したとき共に16歳だったともいわれますが、瀬名姫が8歳年上の姉さん女房だったとの説もあります。ドラマでは、後者の設定のようですね。


寿桂尼「よい縁であろ。2人はよく話もしておるようじゃし。」

元康「身に余るお話にございます。」

瀬名「私も身が余っておりまする。」


 このくだりは笑えましたね。今回のドラマでは、今のところ面白ろキャラの瀬名姫ですが、でも、瀬名姫の人生が笑えない結末となることは周知のところだと思います。これからどんな風に描かれるのか注目しましょう。ちなみに、桶狭間の戦いは永禄3年(1600年)5月19日ですから、「ご武運を!」と言った竹千代は、このとき満1歳になったばかり。なかなかな神童ぶりですね。さすがは、家康が晩年までその死を悔やんだといわれる息子です。



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by sakanoueno-kumo | 2017-02-27 21:33 | おんな城主 直虎 | Comments(2)  

おんな城主 直虎 第7話「検地がやってきた」 ~隠田・忍田・隠地・隠没田~

 今回は全編創作の回だったので、特にここで補足、解説するネタはありません。もちろん、井伊家が隠し里を持っていたなんて話もドラマでのフィクションです。「隠し里」という言葉はあまり耳なじみがありませんが、「隠田」というのは実際にあったようで、「おんでん」あるいは「かくしだ」と読みます。ほかにも、「忍田(しのびだ)」、「隠地(おんち)」、「隠没田(おんぼつでん)」などといった言葉もあったそうで、これらはすべて同義語。読んで字のごとく、年貢の徴収を免れるために密かに耕作した水田のことです。つまり、脱税行為ですね。


 隠田は重罪で、発覚すれば土地は没収され、追放されたそうです。ただ、隠田はふつう農民が行うことで、今回のドラマのように、領主が隠し里を持っていたという例が、本当にあったのかどうかはわかりません。


井伊直平「ここはもしもの時に井伊の民が逃げ込むところでな。かつて今川に追い込まれたとき、わしらはここに隠れ住み、時を稼ぎ、命脈を保ったのじゃ。ここがなければ、井伊は滅んでおったかもしれぬ。」


ということだそうですが、でも、農民にとっては今川か井伊かに年貢を吸い取られることに変わりはないわけで、「井伊の民」にとっては、あまりメリットはなかったんじゃないかと・・・。


 この隠し里をめぐっての井伊直親小野但馬守政次のかけひきは、なかなか面白かったですね。


直親「川名の隠し里をないことにしてしまいたい」


と、政次に対してストレートにぶつけたあと、小野家の置かれた辛い立場を思いやったうえで、


直親「もし鶴が隠すことに加担したくないと思うなら、この冊子をつけてだしてくれ。もし、ひと肌脱いでくれるというなら、そのまま破り捨ててくれ。俺は鶴の決めたほうに従う。」


と、政次に判断を委ねます。これは、政次にとってはキツイですよね。


政次「あいつめ、俺の了見を見越した上で最後は俺に決めよと言い放ちおった。俺に決めよと。」


 この怒りは当然だと思います。これでは、どちらを選んでも政次自身の責任。直親は汚れないですみます。ずるいですよね。主家である以上、「加担しろ!」と命令すべきでしょう。ここまで聖人君子キャラに思えた直親でしたが、実は、なかなかしたたかな男なのかもしれません。


政次「それがしを信じておられぬなら、おられぬで構いませぬ。されど、信じているふりをされるのは気分がいいものではありませぬ。」


 君を信じてこの仕事を任せる・・・といっておきながら、いざというときに責任逃れする上司みたいなもんですね。現代でもよくある話です。そんなこんなで、直親、政次の間の溝が深まっていくのでしょうか・・・。今後、ふたりの関係はどんな展開を見せるのか、ドラマ前半のいちばんの見どころかもしれません。。



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by sakanoueno-kumo | 2017-02-21 02:06 | おんな城主 直虎 | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第6話「初恋の別れ道」 ~井伊直親の元服・結婚~

 弘治元年(1555年)3月、井伊谷に帰還した亀之丞は、早速、井伊直盛の養子となり、元服して井伊肥後守直親と名乗ります。このとき、直親21歳。遅すぎる元服ですが、逃亡、潜伏生活を強いられていたわけですから、やむを得なかったのでしょうね。晴れて井伊家の後継ぎとなった直親は、10年前の約束どおり、出家した次郎法師還俗させて結婚・・・というのが直盛の希望だったでしょうが、残念ながらそうはいきませんでした。


 第4話の稿でも述べましたが、出家した井伊直虎が尼の名前を名乗らず、「次郎法師」という僧名を名乗ったのは、再び還俗しやすいように、との直盛の願いだったといいます。当時、尼から還俗することは許されませんでしたが、男の場合、戦で死ぬことはたびたびで、後継ぎの男子がいなくなった場合、僧侶からの還俗は珍しくありませんでした。そこに目をつけた南渓瑞門和尚が、直虎に僧名をつけ、いつでも俗世に帰れるようにしたと伝えられます。次郎法師の還俗は両親の切実な願いだったんですね。


 ドラマでは、井伊家の本領安堵と引き換えに出家させられた次郎法師でしたが、史実では、そのような記録はありません。即ち、還俗しようと思えばいつでも出来たわけで、直親が帰還したこのタイミングが、まさに直盛の望みを叶えるチャンスだったといえます。しかし、実際には次郎法師の還俗は行われず、直親は一族の奥山因幡守朝利の娘と結婚します。なぜ、次郎法師と結婚しなかったのか・・・。


 これについては、様々な推理があるだけで、実際の理由はわかりません。『寛政重修諸家譜』「井伊直親」の項によると、直親の信濃国逃亡の際、朝利(その父の親朝とも)が直親を匿うべく尽力したと伝えています。つまり、奥山家は直親の命の恩人であり、無下にはできない間柄だったわけです。そんな事情から、直盛は出家した実の娘ではなく、奥山家から直親の嫁を選んだのではないか、と、推測されます。


 また、別の説では、直親は潜伏先の信濃国で代官・塩沢氏の娘との間に一男一女をもうけたといわれ、井伊谷にはその娘を伴っての帰還だったため、次郎法師がこれを嫌った、とも言われます。元服していなかったとはいえ、帰還時の直親は21歳。当時の習慣からいえば、子どもがいても何ら不思議ではありません。ただ、それを理由に次郎法師が還俗、結婚を拒んだというのは、いささか現代チックな見方かもしれませんね。この時代、正妻より先に側女を持つなどよくあることで、その程度のことで目くじらを立てる次郎法師ではなかったでしょう。おそらく、ふたりが添えない何らかの事情があったのでしょうね。


次郎法師「直親とわれは、それぞれ1つの饅頭なのじゃ。2つの饅頭を一時に食べたり与えてしまっては、のうなってしまう。なれど、1つを取り置けば、まことに困ったときに、もう1度食べたり与えたりできる。」

直親「おとわが還俗するのは俺と一緒になるときではなく、俺に何かがあったときでありたいということか?」

次郎法師「井伊のためには、死んでしまったことにするわけにはいかぬ。次郎の名を捨てるわけにはいかぬ。」

直親が「おとわはそれでよいのか? 一度きりの今生と言うたではないか。一生、日の目を見ることなどないのかもしれぬのだぞ!」

次郎法師「それこそ上々であろ? われがかびた饅頭になることこそ、井伊が安泰である証しであろ?」


 これが、ドラマにおける理由でした。つまり、次郎法師はリザーブになる・・・と。実際には、この時点での次郎法師を井伊家の後継ぎ候補と考えるようなことはなかったとは思いますが、そこはドラマですから、多少の千里眼的設定はいいんじゃないでしょうか? 実際、次郎法師はかびた饅頭になれなかったわけですから。



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by sakanoueno-kumo | 2017-02-13 21:43 | おんな城主 直虎 | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第5話「亀之丞帰る」 ~小野和泉守政直の死と井伊直親の帰還~

 信濃国で家臣の今村正實とともに潜伏生活を送っていた亀之丞(のちの井伊直親)が、約10年ぶりに井伊谷に帰ってきます。というのも、父の井伊直満讒言によって死に追いやり、亀之丞自身も逃亡生活を送らざるを得ない境地に追いやった元凶といっていい、小野和泉守政直が死んだからでした。『寛政重修諸家譜』「井伊直親」の項では、このときのことを次のように伝えています。


「伊那郡市田郷の松源寺にありて数年のあひだ、謀をめぐらし、奥山因幡守親朝をたのみ、舊地にかへらむとす。和泉死して後、直盛、直親を領内にまねき、ひたすら駿府に愁訴し、義元も許容ありしかば、弘治元年、ふたたび、井伊谷にかへりて直盛が養子になる。」


 文中に出てくる奥山因幡守親朝は、おそらくその息子・奥山朝利の誤りかと思われます。政直が死んだのち、井伊直盛が駿府の今川義元にひたすら助命嘆願して許された亀之丞は、弘治元年(1555年)、井伊谷に入ったとあります。亀之丞の帰還は、井伊家にとって待望の出来事だったことがわかります。


 政直の没年は詳しくはわかっていませんが、後世に編纂された『小野氏系図』によると、天文23年(1554年)8月27日と記されているそうで、これが正しければ、政直の死から亀之丞の帰還まで数ヶ月以上を要したことになります。その間、直盛は何度も今川家に懇願したのでしょうね。それが出来たのも、政直がこの世を去ったからでした。つまり、亀之丞を潜伏させていたのは、今川家への憚りというより、小野和泉守政直の存在によるものだったことがわかります。家臣の目を気にして主家の継嗣を潜伏させねばならないという、後世の目からみればなんとも不思議な関係ですが、当時の井伊家と小野家の関係は、そんなパワーバランスだったようです。


政直「お前はわしを卑しいと思うておるじゃろう。なりふり構わぬうそつきの裏切り者・・・。己はこうはならぬとわしをずっと蔑んでおるじゃろう。・・・じゃがな、言うておく。お前は必ずわしと同じ道をたどるぞ。」

政次「和尚様のお心遣いで、私には次郎法師様や亀之丞様との間に育んだ幼い頃からの絆がございます。井伊の縁戚となりますからには、井伊のお家を第一に考えていきたいと思うております。そのなかでも、小野はさすがに頼りになると言われることこそ、まことの勝利かと存じます。」

政直「お前は、めでたいやつじゃのう・・・。」


 陰謀家の父と誠実な息子の会話。しかし、奇しくも後年、父の予言どおりになっちゃうんですよね。なぜ、そうなるのか・・・。なぜ、父・政直にそれがわかるのか・・・。誠実な政次が、この先どう変わっていくのか・・・。今後の展開が楽しみです。


 約10年ぶりに帰還した亀之丞。ドラマでは、爽やかな笑顔で何の屈託もなくおとわ次郎法師・のちの井伊直虎)に接し、幼い日の約束を忘れずいきなりプロポーズしていた亀之丞ですが、通説では、潜伏先の代官・塩沢氏の娘との間に一男一女をもうけたと伝えられています。まあ、通説であっても史実としての確証があるわけではないのですが、この話、描かないのですかね。女性脚本家さんは、やはりこの手の話はお嫌いなのかな? でも、であれば、おとわが亀之丞のプロポーズを断る理由がなくなるのでは・・・。とにもかくにも、今後の展開に注目しましょう。



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by sakanoueno-kumo | 2017-02-06 17:31 | おんな城主 直虎 | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第4話「女子にこそあれ次郎法師」 ~直虎の出家~

 今回は出家したおとわの話がメインでしたね。ドラマでは、今川家から本領安堵の条件として、おとわの出家を命じられるといった設定でしたが、実際には、井伊直虎がいつ、どのような理由で出家するに至ったかはわかっていません。前話の稿でも紹介しましたが、『井伊家伝記』によると、直虎は亀之丞(のちの井伊直親)出奔後に仏への信仰が深くなり、南渓瑞門和尚の弟子となることを決意して剃髪したと伝えていますが、『寛政重修諸家譜』によれば、「直親信濃国にはしり、数年にしてかへらざりしかば、尼となり、次郎法師と号す」と記されています。これが正しければ、直虎が出家したのは亀之丞が出奔した数年後ということになり、もう少し大人になってからということになります。


 また、『井伊家伝記』によると、直虎は亀之丞との婚約が破談になったことで、自らの意志で出家したとあります。この時代、夫に先立たれた妻は出家するのが慣わしで、直虎も、その慣例に則って操を通したのかもしれません。しかし、直虎の両親である井伊直盛夫妻は、そもそも結婚はしておらず婚約が破棄になっただけなので、出家する必要はないと猛反対したといいます。ドラマとはずいぶん話が違いますよね。


 結局、直虎の出家への決意は固いものでした。そこで、両親がせめてもの妥協案として、尼の名前は付けないでほしい、と要望したといいます。通常、尼の名とは法名のことで、俗世間との関係を断ち切ったことになります。そうなると、二度と還俗できません。直虎の両親には男子がいなかったので、家督を継がす養子を迎えなければなりません。もちろん、単に養子を迎えることも出来たのですが、できれば、実の娘と結婚させて婿養子として迎えたいという望みを捨てきれなかったのでしょう。そのためには直虎が出家していては望みが断たれるため、なんとしても法名は避けたかったのでしょうね。


 そこで、南渓和尚がひとつのアイデアを提示します。というのは、尼名ではなく、僧名を与えてはどうか、というものでした。尼名と僧名ではどう違うのか・・・。当時、尼から還俗することは許されませんでしたが、僧侶からの還俗は珍しくありませんでした。男の場合、戦で死ぬことはたびたびで、跡継ぎの男子がいなくなった場合、一度僧になった弟が呼び戻されるといった例は少なくありませんでした。その最も有名なところでは上杉謙信がそうで、井伊家の主家である今川義元もまた、仏門から還俗したひとりです。南渓の案は、直虎が変心して還俗できるよう含みをもたせたものだったわけです。


 そこで、直虎につけられた名が「次郎法師」でした。代々、井伊家惣領は「備中法師」と名乗っていたと伝えられ、また、井伊家の歴代当主の仮名が「次郎」だったことから、この2つをつなぎ合わせて「次郎法師」としたとされています。「法師」とは、法名ではなく、僧侶や俗人で僧形をした男子のことを言い、純粋な僧侶ではありません。つまり、井伊家の当主の証である「次郎」を名乗り、尚且つ純粋な僧侶の意味を持たない「法師」をつけることで、いつでも俗世に帰れるようにしたというんですね。両親の切実な願い込められた名だったといえるでしょうか。


 というのが、『井伊家伝記』による直虎出家のくだりです。ところが、ドラマではまったく違うストーリー展開で描かれていましたね。なんで変えちゃったのでしょうね。まあ、『井伊家伝記』にしても『寛政重修諸家譜』にしても江戸時代中期に記されたものですから、そこに書かれた話にどれほど信憑性があるかはわからないので、オリジナルの解釈で創作してもいいところだとは思いますが、『井伊家伝記』の伝承そのままのほうがドラマチックだったような・・・。でも、伝承そのままで描くには、おとわが少々幼すぎたのかもしれませんね。いよいよ、次回からは柴咲直虎の登場です。



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by sakanoueno-kumo | 2017-01-30 16:49 | おんな城主 直虎 | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第3話「おとわ危機一髪」 ~井伊家の血を引く築山殿~

 小野和泉守政直の息子・鶴丸(のちの小野政次)と夫婦になることを拒んで出家しようとしたおとわ。これが駿府の今川義元の怒りを買うところとなり、おとわを人質に差し出すよう命じられます。ところが、南渓瑞門和尚機転とおとわの情熱によって、出家を条件に人質を免除されるというお話。今話は、すべて創作の回でした。井伊直虎が許嫁だった亀之丞(のちの井伊直親)の出奔後に出家したのは事実ですが、いつ、どのタイミングで出家したのかはわかっておらず、今川家に人質として送られそうになったという記録もありません。


 『井伊家伝記』
によると、直虎は直親出奔後に仏への信仰が深くなり、南渓の弟子となることを決意して剃髪したと伝えていますが、『寛政重修諸家譜』によれば、「直親信濃国にはしり、数年にしてかへらざりしかば、尼となり、次郎法師と号す」と記されており、これが正しければ、直虎が出家したのは亀之丞が出奔した数年後ということになります。直虎の生年は不明ですが、亀之丞と同年代と考えると、この時点ではまだ10歳前後。『井伊家伝記』の伝えるように自らの意志で出家したとすれば、『寛政重修諸家譜』の記述どおり、もう少し分別の付く年齢となった数年後に出家したと考えたほうが妥当かもしれませんね。


 劇中、南渓が一策を講じて手紙を送った佐名という女性。直虎の曽祖父、井伊直平の娘で、南渓の妹(姉)にあたりますが、実名はわかっていません。『寛政重修諸家譜』によれば、直平には息子5人と娘1人がいたとされ、嫡子・直宗(直虎の祖父)、長女(名は不明)、次男・直満、三男・南渓、四男・直義、五男・直元と伝えます。当時の系図に娘の名が記されることはほとんどなく、長女も「女子」とあるだけですが、そこに、「今川義元が養妹となり、関口刑部少輔親永に嫁す」と記されています。おそらくこの女性が、ドラマの佐名ですね(この養妹の説については諸説あるなかの一説です)。


 ドラマでは、人質として今川に差し出された佐名は、義元お手つきとなったあと、関口親永に嫁いだとされていましたが、当然ながらそのような記録は残っていません。ですが、主君のお手つきを家臣の妻に下げ渡すという話は珍しくなく、あるいは事実もそうだったかもしれませんね。かくして関口親永の妻となった直平の娘は、その後、を生みます。この娘が、瀬名姫ことのちの築山殿です。つまり、築山殿は直平のにあたり、直虎とは従姉妹違い、従叔母ということになります。


 「瀬名は龍王丸様(のちの今川氏真)の妻となり、今川を手に入れるのです。」


 初対面のおとわに対して瀬名姫が言った台詞です。なかなか強欲でしたたかな姫様のようですね。この築山殿の存在が、やがて徳川家康の登場で井伊家にとって大きな恩恵となるのですが、それはずっと後年の話です。


 寿桂尼太原雪斎など今川家の主要人物が顔を揃えましたね。今回はその顔見せの回といったところだったでしょうか。今回、子役の物語が4週という異例の長さで、おとわを演じる新井美羽ちゃんの迫真の縁起が評判になっているようですが、それも次週で見納めですね。次回、いよいよ次郎法師の誕生です。



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by sakanoueno-kumo | 2017-01-23 18:45 | おんな城主 直虎 | Comments(0)