カテゴリ:おんな城主 直虎( 43 )

 

おんな城主 直虎 第42話「長篠に立てる柵」 ~長篠の戦い~

 虎松徳川家康の小姓となって井伊万千代と名乗りだした3ヶ月後(ドラマではまだ草履番ですが)、家康は織田信長に援軍を頼み、長篠城に出陣しました。武田信玄の死後、家康が武田氏から奪回した長篠城を信玄の息子・武田勝頼が囲んだからでした。長篠城は遠江と三河の国境付近に位置し、交通の要衝地にありました。


天正3年(1575年)4月に三河攻略を開始した勝頼は、5月に長篠城を包囲。長篠城を守っていた徳川方の奥平信昌は必死の防戦を見せますが、やがて劣勢が明らかになると、鳥居強右衛門を援軍要請の使者として、岡崎城の家康ももとに送ります。これを受けた家康は、5月18日、徳川軍8千と援軍に駆けつけた織田軍3万とともに、長篠城の支援に向かいます。そして、その決戦の舞台となったのが、長篠の手前にある設楽原でした。設楽原は平野ではなく、丘陵地が川に沿って南北に連なる地形でした。両軍は連吾川を挟んで陣を布き、川を自然の堀として防御線を築きました。織田・徳川連合軍は、丘陵地であるがゆえに相手陣を奥深くまで見渡せないという地形を利用し、さらに馬防柵を構えて万全を期します。


 5月20日夜、武田軍が付城として守備していた鳶ヶ巣山城を、織田・徳川連合軍が奇襲して落とし、武田軍の退路を断ちます。そして翌21日早朝、設楽原では、武田軍が織田・徳川軍への攻撃を開始。しかし、連吾川の中流域は水田があり、大軍が進撃するには足元が悪く、さらに、信長が用いた革新的な鉄砲攻撃が火を吹き、8時間の戦いのすえ武田軍は壊滅的な大敗北を喫します。有名な「鉄砲三千挺の三段撃」ですね。当時の火縄銃は、1発を撃ったら2発目を撃つまでには30秒ほどかかったといいます。この30秒の空白を埋めるため、鉄砲隊を3列にわけ、入れ替わりに撃つという戦法で、これにより、織田・徳川連合軍の鉄砲は間断なく火を吹き、当時、最強といわれた武田の騎馬隊は、為す術もなく屍を積み上げていったといいます。織田信長の天才伝説のひとつですね。


 ただ、この「三段撃」に関しては、近年の研究では否定的な見方が少なくありません。太田牛一が記した『信長公記』によると、鉄砲の数は「千挺ばかり」とあるだけで、三段撃ちのことはまったく記されていません。専門家の見解によると、三段撃ちのような複雑な動作をこなすには、よほど熟練した鉄砲隊と安定した性能の鉄砲が必要で、技術的には困難と指摘しています。では、なぜこの「三段撃」が通説となったのか。その出典元は、江戸時代前期の作家・小瀬甫庵『信長記』に記された、「鉄砲三千挺(中略)一弾ずつ立ち変わり打たすべし」からのようで、以後、この逸話が多くの信長伝説に引用され、広く知られるようになったそうです。しかし、この『信長記』は、『信長公記』を元に創作された読み物で、現在では史料としてはほとんど認められていません。信長ファンにとっては残念なことかもしれませんが、「三段撃」は、実際にはなかったのかもしれませんね。


 いずれにせよ、武田軍の大敗に終わったのは事実で、織田・徳川連合軍に主だった戦死者が見られないのに対し、『信長公記』に記載される武田軍の戦死者は、山県昌景、馬場信春をはじめ、原昌胤、原盛胤、真田信綱、真田昌輝、土屋昌続、土屋直規、安中景繁、望月信永、米倉丹後守など重臣や指揮官を含む1万人以上に及んだといいます。武田軍の兵は1万8千ほどだったといいますから、半数以上の死者を出したということで、壊滅したといっても過言ではないでしょうね。


 この大敗北を機に、武田氏は一気に滅亡の道を進んでいった・・・と思われがちですが、実はそうではなく、武田氏が滅亡するのはこれより7年後のことで、それまでは、織田、徳川両氏と激しい攻防を繰り広げます。しかし、この戦いで武田氏は多くの人材を失い、衰退化に繋がったことは間違いないでしょう。歴史の大きなターニングポイントとなった長篠の戦いでした。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-23 02:01 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第41話「この玄関の片隅で」 ~鷹匠・本多正信~

 やはり鷹匠ノブ本多正信でしたね。本多正信といえば、常に徳川家康の側にいて智謀をめぐらす側近中の側近といったイメージがありますが、実は、正信が家康から重用されるようになるのは天正10年(1582年)の本能寺の変以後のことで、天正3年(1575年)頃かと思われるドラマのこの時期は、まだ歴史の表舞台には出てきていません。

 家康より5歳上の正信は、はじめは鷹匠として家康に仕えますが、身分は低く、大久保忠世らからの援助を受けて過ごしていたといいます。そんな暮らしに嫌気がさしたのかどうか、永禄6年(1563年)に起きた三河一向一揆では、弟の本多正重と共に一揆衆につき、家康に敵対します。この一揆は、三方ヶ原の戦い伊賀越えと並んで家康の三大危機とされる出来事で、三河家臣団の半数が一揆衆に与したと言われています。家康の家臣団といえば「忠実」というイメージが強いですが、最初からそうだったわけじゃないんですね。


 一揆の鎮圧後、一揆に与した武士の多くは徳川(当時は松平)家への帰参を望みますが、正信は出奔して浪人します。このあたり、若き日の正信はなかなかの気骨ある男だったようですね。やがて正信は大和国の松永久秀に仕えたといい、久秀をして「剛に非ず、柔に非ず、非常の器」と称されたといいますが、永禄8年(1565年)、久秀が三好三人衆とともに将軍・足利義輝を殺害すると(永禄の変)、再び出奔して諸国を流浪したとされ、その間の行動は詳しくわかっていません。一説には、加賀国に赴いて石山本願寺と連携し、織田信長と戦っていたともいわれます。後年の策謀家のイメージとは違って、反骨心旺盛で血気盛んな人物だったようです。


 諸国を流浪したすえ、正信は再び家康に仕えることになるのですが、帰参した時期ははっきりしません。『寛永諸家系図伝』は元亀元年(1570年)の姉川の戦いの頃と伝え、『藩翰譜』によると、天正10年(1582年)の本能寺の変後と伝えます。どちらが事実かはわかりませんが、確実な史料に正信が現れるのは本能寺の変以後のことで、それ以前は、帰参していたとしても、それほど重要なポストを与えられてはいなかったのでしょう。まあ、一度裏切った身ですからね。当然といえば当然のことで、むしろ、かつての裏切り者を再び召し抱えた家康の度量の広さがうかがえます。あるいは、人材としての正信が、それほど有能だったということかもしれません。


 話をドラマに移して、草履番から小姓に上がるためにあれこれ知恵をめぐらせる万千代(のちの井伊直政)ですが、どれも稚拙浅知恵、家康はすべてお見通し空回り感ありありです。まあ、数えで15歳といえば、いまの中学1、2年生。まだ子供ですからね。伝承では、直政は家康に仕えてから破竹の勢いで出世していったとされていますが、実際には、多少の挫折失敗はあったことでしょう。歴史の結果を知っている後世のわれわれから見れば、そんなに焦らなくとも君はやがて徳川四天王のひとりとなるのだから、と言いたくなりますが、15歳の当の本人はそんなこと知るはずもなく、ドラマのように、必死にアピールしていたかもしれません。もうちょっとの辛抱です。


 ちなみに、織田信長から3000本用意しろと言われた材木。これ、おそらく長篠の戦いで立てる馬防柵に使用する材木でしょうね。今話はすべてフィクションの回でしたが、ちゃんと史実に繋がるアイテムを題材に描いた創作で、秀逸でした。長篠の戦いでは初陣を飾れず、留守居を命じられた万千代でしたが、どんな活躍を見せてくれるのか楽しみです。・・・って、完全に直政のドラマになっちゃってますが。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-16 02:14 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第40回「天正の草履番」 ~日の本一の草履番~

 天正3年(1575年)2月、徳川家康と面会した虎松は、名を家康から与えられた井伊万千代と改め、家康に仕えます。ドラマでは、「井伊」を名乗ることを手放しに喜べないおとわ(井伊直虎・次郎法師)でしたが、武家にとって何よりも屈辱なことは家名を失うことで、家名を失った武家がもっとも望むのは家名再興でした。家康のこのはからいは、井伊一族にとっては何よりのプレゼントだったはずです。


 一方、とんだ思惑違いだったのが養父として虎松を育てた松下源太郎清景でした。松下家は徳川家の家臣で、清景の弟・松下常慶は家康からたいへん目をかけられており、虎松が家康にお目見えできたのは、おそらく清景・常慶兄弟の尽力があってのことだったでしょう。もっとも、実子のいない清景は虎松を後継ぎと考えていたはずで、15歳で虎松を家康に引き合わせたのは、あくまで「松下虎松」として、あわよくば家康に烏帽子親になってもらい、元服させたいとの思惑だったんじゃないでしょうか?


ところが、蓋を開けてみれば、家康は元服どころか「万千代」という幼名を与え、井伊家を再興させてしまいます。これは井伊一族にとっては大きな喜びだったでしょうが、たちまち後継ぎを失った松下家にとっては、お家存続の危機を意味します。いい面の皮ですよね。ドラマでは、寛大な態度で理解を示した清景でしたが、実際には、苦虫を噛み潰す思いだったに違いありません。


 ちなみに、清景はのちに中野直之の次男を養子にし、代々、井伊氏に仕えることになります。


 さて、徳川家の家臣となった万千代ですが、『井伊家伝記』の伝えるところでは、いきなり小姓として三百石を与えられたといいます。しかし、それは後世が家康の人の能力を見抜く慧眼を讃えるために造った話だと見てよさそうで、実際には、草履番だったかどうかはわからないにしても、それほど重用はされていなかったんじゃないでしょうか? かつての地頭とはいえ一度は潰れた家で、しかも、今川方だったわけですからね。家康の正妻で井伊氏の血を引く築山殿の口添えがあったとしても、他の家臣の手前、最初は草履番あたりが妥当だったんじゃないかと。


 もっとも、別の説では、万千代が破竹の勢いで出世していった理由について、万千代は家康の稚児小姓(男色相手)だったんじゃないか、という説があります。戦国時代、名のある武将のほとんどは、15、6歳の美しい少年を男色相手として身辺に仕えさせていたといい、その多くは、草履取りの名目で召し抱えていたことから、男色相手の家来を「小草履取り」と言いました。実際、万千代はたいそう美形だったといいます。その説が本当なら、万千代も、やはり最初は草履取りだったかもしれません。


「井伊万千代、かくなるうえは日の本一の草履番を目指す所存にございます!」.


そう言い放って意地を見せた万千代の奮闘ぶりが描かれた今話でしたが、ここで、ふと、ある言葉を思い出しました。それは、阪急電鉄宝塚歌劇団をはじめとする阪急東宝グループの創業者である小林一三の名言。


「下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。そうしたら、誰も君を下足番にしておかぬ。」


木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が織田信長の草履取りから出世したという故事を下敷きにした言葉だと思いますが、実際、そのとおりですよね。現在の境遇に納得いかなくても、腐らずにそこでできることを目一杯やる。それが「仕事」をするということで、何も考えずに与えられた役目をただこなすだけでは、単なる「作業」に過ぎません。「仕事」とは、「事に仕える」こと。与えられた事柄をより良くするにはどうすべきかを、常に考えながら事に臨むことが「仕事」なんですね。その意味では、藤吉郎も万千代も、最初から「仕事」ができる人物だったのでしょう。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-10 20:12 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第39話「虎松の野望」 ~井伊直政出世物語のはじまり~

 天正2年(1574年)12月14日、井伊谷龍潭寺において井伊直親十三回忌の法要が行われました。『井伊家伝記』によると、このとき15歳になった虎松(のちの井伊直政)も呼び戻され、祐椿尼、次郎法師(井伊直虎)、南渓瑞聞和尚らが集まって相談し、井伊家再興のため、虎松を徳川家康に出仕させる方針が決まったとあります。ドラマでは、直虎は井伊家を再興するつもりはないと言っていましたが、実際には、直親の忘れ形見である虎松によって井伊家を復活させることが、一族の悲願だったようです。まあ、当然だったでしょう。


 虎松と家康の面会は、その後、間もなく実現します。『井伊家伝記』によると、天正3年(1575年)2月と記され、『寛政重修諸家譜』には、同年2月15日と具体的な日付まで記されています。どちらの記述も、面会したのは鷹狩りの途中の道端だったと伝えます。また、江戸時代に新井白石がまとめた『藩翰譜』でも、道端で尋常じゃない面魂の少年を見つけ、素性を調べさせたところ、井伊直親の子だというので、不憫に思って仕えさせたとあり、徳川幕府の公式記録である『徳川実紀』でも、鷹狩の道すがらただものとは思えない小童が家康の目に入り、その子がかつて陰謀によって死んだ直親の遺児で、いまは松下源太郎清景の養子になっていることを知り、すぐに召し抱えたと記されています。すべて二次史料ではあるものの、「鷹狩の途中」という話は一致しており、おそらく本当の話なんでしょうね。


ただ、「偶然の出会い」というのはどうだったでしょうね。『井伊家伝記』によると、「御小袖二つ、祐椿・次郎法師より御仕立遣わされ候なり。天正三年二月、初めて鷹野にて御目見遊ばされ候。」とあります。直虎と祐椿尼から虎松のもとに小袖が届けられ、その小袖を着て家康に拝謁したというのです。つまり、家康に会うために、わざわざ正装を新調したということです。これ、ドラマでも描かれていましたね。この話が事実なら、家康との面会はあらかじめ設定されていたことになります。ドラマでは、この説が採られていましたね。おそらく、そうだったんじゃないかとわたしも思います。江戸時代に記された史料がすべて「偶然の出会い」と伝えているのは、神格化した家康の人の能力を見抜く慧眼を讃えるために造られた話なんじゃないでしょうか。実際には、ドラマのように、誰かによって面会の場があらかじめセッティングされ、その場所が、鷹狩の途中だったんじゃないかと。


 さらに『井伊家伝記』の伝えるところでは、かつて直親が家康と内通した疑いによって今川方に殺されたことを家康は知っており、家康は直親が命を失ったのは自分のためだったも同然として、虎松を召し抱えたとあります。家康はその際、虎松に松下姓から井伊姓に戻るように命じ、自分の幼名・竹千代から「千代」ををとり、「万千代」という名を与えました。そして上下とともに三百石を与えたと伝えます。


 ドラマでは、虎松が築山殿根回しして、家康から井伊姓を名乗るように命じてもらうよう仕向けてもらうといった設定で、その小賢しさのせいで、三百石はおろか、小姓に取り立てられる約束だった話も反故になり、草履取りを申し付けられるという展開でした。まさに策士策に溺れるってやつですね。まあ、そんなに早く虎松に出世されたんじゃ、50話まで話が続かないでしょうからね。ここからは、井伊直政の出世物語となるのでしょう。


 ちなみに、ネタバレになりますが、井伊姓と松下姓のどちらを与えるか迷っていた家康に、逆に虎松に選ばせてはどうかとアドバイスしていた鷹匠ノブという人物は、おそらく、のちの本多正信でしょうね。家康の後半生はこの正信をいつもそばに置き、すべて正信との謀議で事が進められたといいます。早くも、その策士ぶりを発揮していましたね。虎松の才気も、正信にかかっては赤子同然だったようです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-03 14:39 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第38話「井伊を共に去りぬ」 ~武田信玄死去~

 三方ヶ原の戦い徳川家康をこてんぱんにやっつけた武田信玄は、まさに破竹の勢いといえる快進撃で西上を進めますが、その途中、信玄は血を吐いて倒れ、そのまま病死したと伝わります。歴史は武田信玄を時代の覇者に選びませんでした。


 ドラマでは突然死のように描かれていましたが、通説では、信玄は若い頃からたびたび体調を崩すことがあったといわれ、このときも、三方ヶ原の戦いから約1ヶ月半後の野田城の戦いあたりからたびたび喀血するなど持病が悪化し(一説では、三方ヶ原の戦いの首実検のときに喀血が再発したとも)、武田軍の突如として進撃を停止して長篠城療養するために軍を返します。そこで近習や一門衆によって話し合われ、甲斐への撤退が決まりますが、その帰路、甲斐に戻ることなく没したと伝わります。享年53。


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 信玄の死因については様々な説がありますが、大きく2つにわけて、胃がん説肺結核説があります。胃がん説は『武田三代記』『甲陽軍鑑』に見られる説で、現在最も有力視されています。胃がんは末期には吐血下血などの症状が激しくなるといいますから、血を吐いて倒れたという伝聞にも一致します。しかし、信玄はかねてから血を吐く持病があったともいわれ、この説を信用すると、当時の医学で胃がんを患った人が何年も生きているなんてことは考えづらく、そうなると、同じく血を吐く症状のある肺結核説のほうが真実味があるかもしれません。もっとも、肺結核は感染しますから、もし信玄が何年も前から肺結核を患っていたとすれば、家臣たちに感染らないよう隔離されていて、とても上洛できるような身体ではなかったんじゃないかと・・・。たしか、中井貴一さんが演じた大河ドラマ『武田信玄』では、結核説を採っていましたね。

 ちなみに胃がんだと「吐血」、肺結核だと「喀血」というそうです。「吐血」は食道などの消化管からの出血で、黒っぽい血を吐くことが多いそうですが、「喀血」は、からの出血のため、真っ赤な鮮血を吐くそうです。ドラマの信玄が吐いた血は真っ赤でしたね。ということは、結核でしょうか? でも、だったらあんなに寸前まで元気なはずがないですし、少なくとも遊び女を抱くような体力はないような・・・。やっぱ、寿桂尼の呪いだったのでしょうか。あの局面で寿桂尼が床に入ってきたら、誰でも卒倒して血を吐くかもしれません(笑)。おお、コワっ!


 信玄はその死に際して、自らの死を3年間秘匿するよう遺言したと言われています。ところが、ドラマではすぐに情報が飛び交っていましたね。実際、当時も信玄の死はすぐに知れ渡っていたようで、徳川家康上杉謙信織田信長も、かなり早い段階で信玄の死を確信していたようです。テレビも新聞もインターネットもない時代ですが、当時の有力武将たちは、ドラマで言う高瀬のような間者を何人も持ち、諜報活動にはぬかりありませんでした。逆にわざとガセネタを流して混乱させる場合もあるのですが、信玄の死の情報の場合、あからさまに兵を撤退するという不可解な行動をみれば、諜報活動などなくともバレバレだったんじゃないでしょうか。


 信玄が病没する前後の井伊谷については、詳しいことはわかっていません。家康は信玄の死の翌月には早くも駿河侵攻久能、駿府などを侵していますから、おそらく井伊谷も徳川領となったことでしょう。この間の井伊直虎の動向も定かではありません。井伊家が歴史の表舞台に復活するには、いま少し時間を要します。その最初の記録が、天正2年(1574年)に行われた井伊直親十三回忌でした。その話は次回の稿で。



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by sakanoueno-kumo | 2017-09-25 17:31 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第37話「武田が来たりて火を放つ」 ~三方ヶ原の戦い~

若き日の徳川家康が無謀にも武田信玄に戦いを挑み、大敗北を喫したことで知られる「三方ヶ原の戦い」の回です。


元亀2年(1571年)、室町幕府15代将軍・足利義昭織田信長討伐令を出し、これに応えるかたちで武田信玄は、徳川の領国である遠江国、三河国に侵攻する西上作戦を行います。信玄の西上を可能にしたのは、相模国北条氏康が死んだことで再び北条氏と和睦して甲相同盟を結び、後顧の憂いが絶たれたことにありました。信玄は破竹の勢いで侵攻し、徳川領の支城を次々と落としていきます。


 武田軍は南進して家康の居城・浜松城を攻める進路を取ります。これに対して家康は、織田から送られた援軍と共に籠城戦で迎え討つべく準備を進めます。ところが、武田軍は途中で急に進路を西に変えて三方ヶ原台地に上がり、そのまま浜松城を無視して三河国に向かう姿勢を示します。これを知った家康は、急遽、作戦を変更。一部家臣の反対を押し切り、武田軍を背後から襲う積極攻撃策に打って出ました。


 信玄がなぜ進路を変えたかについては、あえて浜松城を無視することで家康を挑発し、得意の野戦に持ち込むためだったと言われますが、確かなことはわかりません。当時、信玄は百戦錬磨の51歳。一方の家康は31歳の血気にはやる武将で、自分の庭を土足で通る武田軍を許しがたく、まんまと信玄の挑発に乗った、というのが一般的な見方です。また、ここで武田軍が通り過ぎるのを指をくわえて見ているようでは、家臣や国人衆たちから見限られる恐れがあったからかもしれません。いずれにせよ、家康は敗北を恐れずに打って出る覚悟を決めます。


 劇中の家康は、織田を見限って武田に下る決断をするも、そこへ織田からの援軍が訪れ、やむなく武田軍と戦うことに。援軍を得てガッカリする武将というもの珍しい(笑)。今回のドラマの家康は、いつも受け身の行動ですね。ここまではその受け身が功を奏してきましたが、今回はそうはいきません。


e0158128_21470434.jpg 三方ヶ原を通過する武田軍を背後から突こうと出撃した徳川軍でしたが、武田軍はその心を読み、三方ヶ原を通過せずに待ち構えていました。およそ2万5千と伝わる武田軍に対して、徳川軍は半分以下の約1万(諸説あり)。しかも、野戦を得意中の得意とする信玄ですから、若い家康が太刀打ち出来るはずがありません。徳川軍はわずか2時間あまりで大敗北を喫します。敗走する徳川軍を武田軍は執拗に追撃し、夏目吉信、鈴木久三郎ら三河譜代の家臣たちが、家康の身代わりになって討死しました。家康は恐怖のあまり鞍の上に脱糞したといわれ、それを部下に指摘されると、「これは味噌だ!」と反論したなんて逸話もあります。これ、劇中にもありましたね。家康はこのときの大失策を今後の戒めにするため、「しかみ像」と呼ばれる肖像画を書かせたとも言われます(異説あり)。劇中の家康は、帰陣するなりしがみポーズをとってましたね。


 武田軍の徳川領侵攻の影響は、井伊直虎たちの住む井伊谷にも及びました。井伊谷には信玄率いる本隊とは別の山県昌景が侵攻し、ことごとく焼き払われたと伝えられます。ところが、ドラマでは武田に帰順することを良しとしない近藤康用が、せめてもの抵抗で城に火を放って逃げるという設定でしたね。まあ、武田軍が井伊谷を焼き払ったという説は確かな史料は存在せず、伝承レベルの逸話なので、ドラマのような設定でも何ら問題はないかと思いますが、でも、だったら、今話のタイトルは「武田が来たりて近藤が火を放つ」なんじゃないかと(笑)。字余りですが。



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by sakanoueno-kumo | 2017-09-18 21:52 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第36話「井伊家最後の日」 ~虎松の養子入り~

 三河国の鳳来寺に入っていた虎松(のちの井伊直政)が、生母の再婚先である松下清景養子となったのは史実です。ただ、どのタイミングで養子となったかは定かではありません。『寛政重修諸家譜』によると、母の再婚とともに虎松も松下家の養子になったと記されていますが、『井伊家伝記』では、井伊家一族が集まって虎松を徳川家康に出仕させる計画を立て、鳳来寺には黙って家康の臣下である松下家の養子になったと伝えます。鳳来寺からは事情を尋ねるべく使者が何度も訪れますが、南渓瑞聞和尚が、その都度、言いくるめていたとあります。


 ドラマでは、清景の弟・松下常慶が持ち込んだ養子の申し出に対して、「虎松を松下によこせということか?」と困惑する井伊直虎に、「虎松君に松下をさしあげたいということでございます」と常慶が答えていましたが、それは詭弁ですよね。ドラマでも言っていたとおり、清景には継嗣がおらず、養子に迎えるということは、即ちあととりです。松下姓を名乗るということは、松下の家に入るということ。実子のいなかった清景にしてみれば、再婚相手の生んだ子で、しかも筋目的にも申し分ないですから、虎松を松下家のあととりにすべく養子に迎えたのでしょう。『井伊家伝記』でも、松下家の養子になったのは徳川家に士官するための隠れ蓑のようなニュアンスで伝えますが、これも、後世に都合よく脚色された話かと思われます。


 つまり、井伊家は、この時点でいったん潰れたと考えていいでしょう。井伊谷城を追われ、井伊家の血を引く唯一の男子である虎松が養子に行ったわけですからね。その虎松が生きている以上、井伊家再興の可能性はゼロではなかったでしょうが、それは極めて薄い希望だったと思われます。ドラマのとおり、この時点の直虎たちは、井伊家再興をいったん諦めたのかもしれませんね。


 井伊谷城を追われたあとの直虎や家臣たちがどうしていたかについては、史料が乏しく定かではないようです。ただ、のちに井伊家が井伊谷に戻ってきたときには、旧臣たちも戻ってきていますから、おそらく、ドラマのように近藤康用井伊谷三人衆などに士官し、井伊谷周辺にいたんでしょうね。直虎はおそらく龍潭寺尼僧として過ごしていたことでしょう。少なくとも、盗賊からプロポーズされることはなかったかと思います。たぶん。


 ネタバレになりますが、後年、虎松は松下家に入ったことで家康の知遇を得ることとなり、やがて井伊氏に復することを許され、名を井伊万千代と改めて井伊谷に戻ってきます。井伊家再興を諦めて養子に行ったことが、結局はのちの井伊家再興に繋がったわけです。歴史って面白いですね。家康にあととりを取られてしまった清景は、中野直之の次男の松下一定を養子として跡を継がせます。虎松を家康に引き合わせた清景にしてみれば、「そんな~!」だったんじゃないでしょうか。



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by sakanoueno-kumo | 2017-09-12 23:08 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第35話「蘇えりし者たち」 ~戦国大名・今川氏の滅亡~

 徳川家康堀川城で起きた気賀の農民たちの一揆大虐殺でもって鎮圧したちょうど同じ頃、駿府を逃れた今川氏真が籠る掛川城を徳川方の本多忠勝らが攻撃していました。しかし、こちらも今川方が執拗な粘りを見せ、戦いは五分五分といったところで双方に多数の犠牲者を出します。また、今川方の大沢基胤も浜名湖の東岸のある堀江城に籠って徳川軍の攻撃に抵抗しつづけ、家康を悩ませていました(ドラマでは、堀川城の大虐殺が見せしめとなって大沢基胤が降伏したかのように描かれていましたが、実際には、基胤はその後、約1か月間持ちこたえています)。


 徳川軍の掛川城包囲戦が長期化の様相となるなかで、駿府に侵攻していた武田信玄が、家康との約定を反故にして遠江への圧迫を強めます。信玄は信玄で、駿府へ侵攻したまではよかったものの、今川氏から援軍要請を受けた北条氏によって逆に包囲され、窮地に立たされていました。これにより徳川と武田は手切れとなり、家康は氏真との和睦を模索しはじめます。


 家康は今川配下の小倉勝久和睦交渉の話を持ち掛けます。その条件は、武田軍を一掃し、氏真を再び駿河に戻すというものでした(この約束が果たされなかったことは歴史の示すとおりです)。一方で家康は、今川配下の諸将への調略も同時進行で進めており、そのなかには堀江城に籠る大沢基胤もいました。基胤は家康からの懐柔策に対して、苦慮のすえ、氏真に降伏を許可して貰うための書状を送っています。これに対して氏康は、今川家の逼迫した情勢を考えて基胤の申し出を受け入れ、徳川の軍門に下ることを許可したうえで、これまでの働きをねぎらったといいます。離反者があとを絶たなかった今川家において、基胤は最後まで今川家のために力を尽くした忠義の武将でした。その功あってか、大沢氏はその後徳川家の高家旗本として、幕末まで続きます。


 話を和睦交渉に戻すと、その後、家康と氏康の和睦交渉はスムーズに進み、永禄12年(1569年)5月17日、氏真は掛川城を開城します。「蹴鞠で雌雄を決したい」とはおそらく言っていません。一国の主らしく、家臣の助命と引き換えに堂々と城をあとにします。このとき、家康は警護の兵を派遣しています。家康としても、かつての主君に対する精一杯の礼儀だったのでしょうね。戦国大名としての今川氏は、このときをもって滅亡しました。


 その後、氏真自身は江戸時代まで生き長らえます。その後半生は、得意な蹴鞠和歌に明け暮れた日々となります。ある意味、ようやく身の丈に合った人生を手に入れたといえるかもしれません。そう考えると、勝負に負けることが必ずしも人生の負けとはいえないかもしれませんね。そして、その氏真の後半生に、妻の早川殿はずっと寄り添い続けました。甲相駿三国同盟で生まれた3組の夫婦のなかで、最後まで添い遂げたのはこの夫婦だけです。ある意味、幸せな人生だったかもしれません。


 井伊谷三人衆のひとり、鈴木重時が大沢基胤の籠る堀江城攻めで戦死したのは史実ですが、近藤康用は出陣しておらず、厳密には康用の子・近藤秀用が父の代わりに従軍していました。康用はこのとき既に長年の戦働きによる負傷で歩行困難になっていたとのことですが、ドラマでは、それをこの戦いでの負傷にしたようです。まあ、康用はこのドラマでは主要人物ですからね。このぐらいの設定変更はいいんじゃないでしょうか。


 少しだけドラマの話をすると、ようやく政次ロスから立ち直りはじめた直虎の姿が描かれた今話でしたね。隠し里で暮らす井伊家の人々も、日常を取り戻しつつあるようです。もし、あのとき南渓和尚のプラン通り、政次と直虎を気賀に逃していたら・・・結局は堀川城の一揆に巻き込まれて政次と直虎も命を落としていたかもしれませんし、そうなると、井伊家はもっと窮地に立たされていたでしょう。「俺ひとりの首で済ますのが最も血が流れぬ」と言った政次のプランが、やはり正解だったんですね。さすが、死して尚、存在感を示す但馬守です。



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by sakanoueno-kumo | 2017-09-04 16:47 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第34話「隠し港の龍雲丸」 ~堀川城の戦い~

 前回、あまりにも衝撃的な結末に、歴史の話をまったくしなかった(する気にならなかった)ので、今回は史実解説を中心にいきます。


 永禄11年(1568年)12月、井伊谷城を攻略した徳川家康は、駿河国今川領を侵攻する武田信玄に加勢すべく遠江国の今川領へ侵攻し、年内に引間城を攻略。その後も家康は今川氏真の籠る掛川城を包囲すべく、侵攻を続けます。しかし、今川方も粘りを見せ、久野城久野宗能高天神城小笠原氏助らは徳川方に帰順しましたが、堀江城大沢基胤と同一族の中安種豊は、反徳川を鮮明にしていました。家康は思った以上に苦戦を強いられることとなります。


 そんな状況下、永禄12年(1569年)3月、気賀の地侍や農民が一揆を起こし、湖岸にある堀川城に女も含めた2,000人が立て籠もるという事態が起きます。この一揆は、竹田高正、山村修理、尾藤主膳らをはじめとする武装蜂起した民たちが中心で、徳川氏の遠江国支配を嫌う親今川氏の最大級の反乱でした。3月27日、家康は3,000の兵をもって堀川城攻めを開始。ドラマでもありましたが、堀川城は干潮時陸続きですが、満潮時には城に行くのに船が必要だったといいます。徳川軍は最初の攻撃は満潮時だったため上手く攻められずに兵を引きますが、2回目の攻撃は干潮時だったため、凄まじい攻撃でたちまち城を落としました。


 『改正三河後風土記』によると、堀川城に籠っていた兵108人が首を討たれたが、烏合の一揆衆寛仁の沙汰によって赦された、とあります。しかし、徳川家家臣の大久保彦左衛門忠教が記した『三河物語』では、約1,000人なで斬りにされたと伝えています。徳川びいきの記述が目立つ『三河物語』が伝えることですから、ほぼ事実と見ていいのでしょう。同じく『三河物語』によると、700人の村人が捕虜となり、9月9日に首をはねられたとあります。そしてその首を小川に沿った道に晒したといわれ、その場所は「獄門畷」と呼ばれるようになり、現在に至るそうです。


ドラマでは、家康は直接関わっておらず、すべて重臣の酒井忠次が計画したことになっていましたが、皆殺しにするか情けをかけて恩を売るか、といった重要な政治的判断を家臣に任せるなどは考えづらく、たぶん、家康の命令で行われたと考えられます。家康はよほど虫の居所が悪かったのか、それとも、見せしめを必要とするほど何かを恐れていたのか、いずれにせよ、当時の気賀の住民の半数以上が犠牲となったといいますから、まさに「大虐殺」といっていいでしょう。家康の黒歴史です。


 さて、少しだけドラマに戻って、巷では「政次ロス」という言葉が飛び交っていますが、もっとも「政次ロス」に罹っていたのは、どうやら井伊直虎本人だったようです。あの状態を記憶喪失というのか現実逃避というべきか、いずれにせよ、政次の死をなかったことにしたいという強烈な思いが、直虎の心を支配している状態なんでしょう。最も大切な人を自分の手で殺した経験がないので、どうにもわかりかねますが・・・。印象的なのは、前話の政次処刑の前も後も、直虎は一度も涙を流してないんですよね。それが、辞世の句を読んで、はじめて涙がこぼれた。やはり、直虎は何かに取り憑かれていたというか、自分の心とは真逆の行動を自らに強いたとき、人は心を失ってしまうのかもしれません。それが、辞世を読んで心を取り戻し、自然、涙が出た。細かい心理描写ですね。あの壮絶な処刑シーンで涙を流さない柴咲コウさんの迫真の演技感服です。


 あれっ? また前回の話になっちゃいました。やっぱ、わたしも「政次ロス」のようです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-08-28 19:42 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第33話「嫌われ政次の一生」 ~小野但馬守政次の最期~

 すごいものを見てしまった・・・というのが今の率直な感想です。今話に限っては、ここでわたしごときが何を語っても安っぽくなるだけで、正直、あまり起稿意欲がわきません。まさに、筆舌に尽くしがたいとはこのことですね。長年大河ドラマを観てきましたが、昔は壮絶な最期惨い処刑シーンは結構あったものの、これほどの衝撃を受けたのははじめてかもしれません。


 『井伊家伝記』にみる小野但馬守政次は、謀略によって井伊直親を死に追いやり、井伊直虎の発布した徳政令に乗じて井伊領を乗っ取った奸臣として伝わります。その最期は、徳川家康の派遣した井伊谷三人衆によって捕らえられ、家康の命によって処刑されます。その罪状は、直親を讒言によって死に追いやったこと、井伊家を乗っ取り、虎松(のちの井伊直政)を亡き者にしようとしたことでした。この通説でいえば、当然、直虎も政次の処刑を望んでいたはずです。


 ところが、今年の大河の基軸は、おとわ、亀之丞、鶴丸の幼馴染3人の友情、愛情物語。政次は直虎を生涯思い続け、直虎も政次を頼り続けます。だから、政次の最期をどう描くのか、政次の処刑を直虎にどう受け止めさせるのか、ここが最も注目の場面でした。ここの描き方次第で、本作は名作にも駄作にもなり得る、と。



 いろいろ考えました。泣き叫びすがる直虎に見送られて死ぬのは、政次の望むところではないだろう・・・これは、大方の視聴者の方々もわかっていたんじゃないでしょうか。ならば、捨て石となるため最期にまた直虎を謀り、あえて憎まれて死んでいくのではないか・・・わたしが想像できたのは、所詮ここまででした。まさか、その意を汲んだ直虎に手を下させようとは・・・。度肝をぬかれました。
 

 「忌み嫌われ井伊の仇となる。恐らく私はこのために生まれてきたのだ。」


 奸臣の汚名を着てでも直虎を守ることが小野の本懐ならば、その本懐を直虎自らの手で遂げさせてやる。壮絶な愛情表現ですね。左胸を突いたのは、苦しむ時間を少しでも短くしてやろうという直虎の情けだったのでしょうか? 通説では、政次には妻子があり、このとき、二人の息子も共に処刑されたと伝えられます。しかし、ドラマの政次は生涯独身でした。それは、直虎を思い続ける政次に妻子は不要、ということもあったのでしょうが、この政次処刑のシーンのためでもあったのかもしれません。だって、直虎に二人の息子まで処刑させるわけにはいかなかったでしょうから。


 「地獄へは俺が行く」


 第31話で政次が言った台詞ですが、直虎は政次をひとりで地獄へ行かせなかったんですね。あとから行くから地獄で待ってろ、と。誰かが言っていましたが、まさに究極のラブシーンです。


 前話の稿でも述べましたが、通説となっている小野政次奸臣説を伝えるのは、江戸時代中期に書かれた『井伊家伝記』のみです。いつの時代でもそうですが、歴史とは、勝者が勝者の都合によって作るもので、歴史に客観的な正史など存在しない。そんな当たり前のことを、あらためて教えてくれた本作だったような気がします。


白黒をつけむと君をひとり待つ 天つたふ日そ楽しからすや 政次


もちろん、小野但馬守政次の辞世は伝わっておらず、ドラマのオリジナルです。でも、見事な辞世ですね。この「嫌われ政次」という人物像を作り上げてくれたすべての関係者の方々に感謝します。


https://youtu.be/v9IdRtzkGQQ

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by sakanoueno-kumo | 2017-08-21 21:55 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)