カテゴリ:太平記を歩く( 73 )

 

太平記を歩く。 その73 「苔縄城跡」 兵庫県赤穂郡上郡町

前稿で紹介した白旗城から千種川を挟んで西へ3kmほど離れたところに、標高411m愛宕山があるのですが、この山上が白旗城と同じく赤松氏の拠点だった苔縄城があった場所だと伝えられます。


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登城口は、いまは廃校となっている旧赤松小学校の敷地裏にあります。


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駐車スペースにあった案内板。

愛宕山への登山道は、「苔縄ふれあいの森」と名付けられたハイキングコースになっているようです。


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旧小学校敷地内にあった案内板。


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入山するとすぐに、防獣柵があります。

ここを開けて中に入り、登山道を進みます。


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道中は各所に誘導板が設置されていて、迷うことはありません。


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所々に休憩所が設けられています。


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道中、石塔のようなものを見つけたのですが、よく見ると、上に乗っかっているのは首のない地蔵のようです。


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台座には、『寛政四子七月日』と刻まれています。


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首なし地蔵を過ぎると、傾いた鳥居があります。


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鳥居を抜けると、展望台が見えます。


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展望台付近に石垣跡のようなものがあったのですが、よく見ると石が新しく、たぶん、城跡とは関係ないでしょうね。


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ただ、展望台が設置されている場所は急斜面に突然あらわれた平坦地で、あるいは、ここに曲輪のようなものがあったのではないでしょうか。


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説明板です。

苔縄城は(伝)となっていますね。

ここが苔縄城だったという確証は得られていないようです。


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左端の山が説明板に解説されていた、展望台から見た白旗城です。
下はその拡大。


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『太平記』によると、苔縄城の城主は赤松則村(円心)とあります。

円心は大塔宮護良親王の令旨を持って都から帰った子・赤松則祐の勧めで、一族に奮起を促し、「赤松城に集まる」ように伝えたといわれますが、その赤松城というのが、かつては「その30」で紹介した神戸大学キャンパス敷地内との説もありましたが、現在ではここ苔縄城と考えられています。

しかし、『播磨鑑』では「赤松円心の三男・則祐は元徳3年(1331年)に大塔宮の令旨を受けて、ここに城を築き、義兵を挙げて軍功があり、領国安穏であった」と記されているそうで、初代城主を則祐としています。

また別説として「城主ハ伊豆守祖妙善入道トモ」、あるいは「一説、則祐感状山ニ居住ノ後、又、此城ヲ築キ居ス」、さらに「子息義房其譲ヲ受ケテ居住ス」など、さまざまな記述があるようですが、初代城主は円心と考えるのが正しいとされているそうです。


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東側山麓に千種川が流れ、自然の要害をなしています。


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南側の眺望です。


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真南に見える山の山頂は、同じく赤松氏の拠点・駒山城があった場所です。


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拡大です。

ここも後日足を運びましたので、別の稿で紹介します。


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さて、ここから山頂に向けて登山、といきたかったのですが、ここを訪れたのは初夏で、ここからの道中は見てのとおりシダが生い茂っており、マムシが怖いので登山はここで断念しました。

説明板に(伝)とあったように、特に目を見張る遺構は確認されていないようですしね。


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愛宕山を背後に、下山です。



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by sakanoueno-kumo | 2017-06-21 23:31 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その72 「白旗城跡」 兵庫県赤穂郡上郡町

兵庫県の西の端にある白旗城を訪れました。

ここは、播磨国守護の赤松氏の居城とされたところで、『太平記』によれば、東上する足利尊氏軍を迎え撃つ新田義貞軍約6万を、赤松則村(円心)がここ白旗城にて50日あまりの間足止めさせたと伝わります。

この標高440m比高390mの登山にチャレンジしました。


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城跡への登山の手引は、上郡町のHPで懇切丁寧に紹介してくれていましたので、迷うことなく登れます。

写真に記したように、山頂の北から南へと連なる尾根筋に三の丸・本丸・馬場の丸・二の丸・櫛橋丸と曲輪が梯郭式に並ぶ縄張りとなっています。

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ここを訪れたのはGW初日の4月29日。

新緑が美しい麗らかな日でした。



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登山口には獣除け金網の扉が閉じられて針金で縛られていますが、「扉を開閉できる方はご自由にお通りください」と書かれています。

開けたらちゃんと閉めて、針金で縛って進みます。


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しばらく歩きやすい山道を進むと、城跡の説明看板が表れます。


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城跡まで、約1.6kmとあります。


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ここからの道のりが、大きな岩がゴロゴロ転がった険峻な山道で、たいへん進みにくい。


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これって、元は石垣だったものが崩れた跡じゃないでしょうか?


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更に登ると、どうみても石段跡らしき道があります。


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約1.6kmの標識から歩くこと険峻な道を30分強、城跡南側の分岐にたどりついたのですが、標識はまだ残り0.8km

あれから800mしか進んでいませんでした。


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でも、ここからは尾根道で歩きやすく、北へ5分ほど進むと、はっきりとした遺構が始まります。

まずは堀切跡


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さらに北へ5分ほど進むと、櫛橋丸への誘導表示が。

登ってみます。


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櫛橋丸です。


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櫛橋丸からの眺望です。


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さらに5分ほど進むと、二の丸跡にたどり着きます。


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結構な面積です。


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そして、さらにそこから5分進んだところに、本丸跡があります。


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標高440mの山頂です。


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本丸跡に設置されている案内板。


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縄張り図です。


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九州で勢力を立て直した足利尊氏は、再び兵庫へ攻め上ってきますが、これを阻止すべく新田義貞が西へ向かいます。

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ところが、その動きを見た播磨国の守護大名・赤松則村(円心)がこれを食い止めます。

この戦いを「白旗山合戦」と呼びます。


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『太平記』によれば、東上する足利軍を迎え撃つ新田軍約6万を、ここ白旗城にて50日あまりの間足止めさせたといいます。

その結果、楠木正成はわずかな兵力で、負けるとわかっていた湊川の戦いに出て行かなければならなくなったわけです。


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本丸跡のさらに北側を下ると、三の丸跡があります。


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ここも山頂近くとは思えないほど広い面積の平滑な地で、周りは土塁で囲われています。


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登山は麓から約70分、なかなかハードな道のりでした。


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下山途中、麓にある白旗城跡五輪塔群と、白旗八幡神社、栖雲寺跡に立ち寄りました。


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栖雲寺は円心の次男・赤松貞範が建てたといわれ、ここにある五輪塔群は、白旗城合戦で落命した兵たちの供養塔と言われています。


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麓にある「円心の里」記念碑

その後方に見えるのが、白旗山です。

もう少し、円心の里をめぐってみます。




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by sakanoueno-kumo | 2017-06-20 23:46 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その71 「室山城跡」 兵庫県たつの市

ここでまた少し神戸市を離れて、たつの市にある「室山城跡」を訪れました。

築城は播磨の守護大名・赤松則村(円心)といわれ、建武3年(1336年)に足利尊氏が九州に敗走する途中、西下して来る新田義貞の追討軍を阻止すべく、防衛拠点とした城といわれています。

円心は、長男の赤松範資を室山城の守りにつけますが、新田義貞軍によって落城

その後、範資は円心の白旗城に逃れます。


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室山城は兵庫県たつの市の南西端瀬戸内海に面した岬の先にあります。

江戸時代には参勤交代の宿場町として大いに栄えたという室津港が近くにありますが、現在は小さな漁港町となっています。


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城跡の遺構は残っていませんが、カーブT字路の多い町並は、かつて城があったことを感じさせてくれます。

写真は二ノ丸公園からみた瀬戸内海の景色です。


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二ノ丸公園から坂を登っていくと、本丸跡と見られる高台をぐるりと道が囲っています。


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左は高台、右はです。

いかにも城跡っぽい地形ですね。


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高台に登る坂を進むと、石碑が設置されています。


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石碑南面には「遠見番所跡」と記され、東面には「室山城跡」とあります。


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本丸跡と見られる高台は、一応城跡っぽい石垣に囲われています。

もちろん、遺構ではありません。


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高台頂上です。

たぶん、ここが本丸跡です。


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片隅に目をやると・・・「売物件」の看板が!

なんと、本丸跡が売りに出されていました(笑)。

これって、なんとかならないのかなぁ・・・。


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本丸跡から望む瀬戸内海です。


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城跡を離れて、近くの「道の駅」から城跡のあるを望みます。

その後、室町幕府のもとで播磨の守護となった円心は、この地に孫の本郷掃部助直頼赤松雅楽助頼則を置いて守らせました。

さらに時代は下って嘉吉の乱以後は、山名持豊(宗全)の城となりますが、応仁の乱以降は、浦上氏の城となり、赤松氏と対立します。

2014年の大河ドラマ『軍師官兵衛』で、黒田官兵衛の初恋の相手が婚礼の日に赤松氏の襲撃で命を落としたエピソードがありましたが、あの舞台は、ここ室山城です(実際は、官兵衛の妹と伝わります)。


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ここ室津のまちでは、黒田の姫の死を悼んでひな祭りを半年延期、8月に行う「八朔のひな祭り」という風習があるそうです。

この辺りは、冬は牡蠣が美味しいんですよね。

さて、次回は範資が逃げ込んだ白旗城を訪れます。




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by sakanoueno-kumo | 2017-06-17 00:14 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その70 「慶雲寺」 神戸市須磨区

前稿の宝満寺につづいて、この時期の足利尊氏にまつわる伝承が残る寺院が神戸市内にもう1ヵ所あります。

湊川の戦いの舞台からはちょっと離れているのですが、須磨区車にある慶雲寺です。


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その伝承によると、湊川の戦いのとき、足利尊氏軍の軍勢の近くに一人の僧侶が現われ、その僧が尊氏めがけて飛んでくる幾本もの矢を空中で受け止めては投げ捨ててくれたといいます。

そのおかげで、味方をまったく傷つかずにすみ、尊氏軍の勝利に終わりました。

尊氏は戦勝後、その僧を日ごろ信仰してきた兵庫にある魚御堂地蔵の化身と考え、矢拾い地蔵としてここ車の地に移し、その仏像を祀る寺として善福寺を創建しました。

魚御堂は、平清盛が魚を供養するために建てた寺です。

その後、善福寺は明治20年(1887年)に慶雲庵と合併して、慶雲寺となりました。


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もちろん、この話も伝承の域を出ず、にわかに信じられる話ではありません。

ですが、寛政8年(1796年)に刊行された『摂津名所図会』という江戸時代の観光ガイドブックの文を引用すると、


「善福寺中村にあり。妙法寺より十町ばかり北なり。真言宗。本尊矢拾地蔵、長五尺二分。建武年中、足利尊氏公兵庫合戦の時、この本尊を信仰ありしゆゑ、応験ありて一法師と現れ、敵より射る矢を宙にて拾ひ味方の勝利としたまふゆゑにこの名を呼びけり。旧地は兵庫南浜魚御堂なり。」


とあります。

少なくとも、寛政時代には、この伝承はあったようですね。


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境内から見下ろした景色です。

湊川の戦いの舞台となった場所は、山の向こうです。

残念ながら、昭和28年(1953年)の火災によって、矢拾い地蔵は焼失したそうです。

次回に続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2017-06-16 01:46 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その69 「福海寺(足利尊氏開祖)」 神戸市兵庫区

足利尊氏が開祖という神戸市兵庫区の福海寺に来ました。

建武3年(1336年)、京都を脱出して西へと敗走する足利尊氏が、新田義貞の軍勢に追われたとき、この地にあった観音堂の下に身を隠して難を逃れたといわれ、その報恩のため、のちに尊氏がこの寺を建立したと伝えられています。


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先の話になりますが、「湊川の戦い」楠本正成が戦死し、新田義貞が敗走したことにより、足利尊氏は京へ戻り、延元元年/建武3年(1336年)8月に後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を廃し、持明院統光明天皇(北朝第2代天皇)を擁立します。

しかし、その12月、京を脱出した後醍醐天皇は奈良県の吉野に逃れ、自己が正統の天皇であると主張し、ここに京都の朝廷(北朝)と吉野の朝廷(南朝)が両立することになり、南北朝の動乱がはじまります。


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そんななか、尊氏は延元3年/建武5年(1338年)8月に、光明天皇から征夷大将軍の宣下を賜り、幕府を開きました。

そして、興国5年/康永3年(1344年)、ここ福海寺を創建します。


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入口横の壁にあった「太平記合戦図」です。

先述した福海寺の前身である針ヶ崎観音堂の下に避難する様子が描かれているそうです。


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境内には、尊氏の歌碑があります。


「彼の岸へ 渡す誓いの船出には 我も乗りえん 賽は火の海」


尊氏が兵庫から落のびる心境を詠ったものだとか。


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寺の紋である「二引両」は、足利氏の家紋からきています。

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なお、足利尊氏が兵庫で敗れ九州へ逃げたあと、逃げ遅れた足利軍の軍勢は持っていた軍旗の「二引両」の紋の間を黒く塗って2本線1本線にし、にわか「一引両」(新田家の家紋)にしたという逸話が残されています。



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by sakanoueno-kumo | 2017-06-15 00:41 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その68 「宝満寺」 神戸市長田区

神戸市長田区にある宝満寺を訪れました。

打出合戦に敗れた足利尊氏が敗走中にここを訪れ、再起を願い、武運を守るようにと祈願したと伝えられます。


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その後、尊氏は兵庫から九州へ敗走しますが、筑紫(福岡県)の多々良浜菊池武敏軍と戦った多々良浜の戦いのとき、突然、突風が吹き、その中から一人の少年が尊氏の前に現われ、矢竹をほしいと頼んだといいます。

尊氏は、その少年に一本の矢竹を与えました。

その後、勢力を立て直した尊氏は、再び兵庫へ攻め上ってきますが、その際、再びここ宝満寺を訪れ、矢竹のことを僧に話したところ、その僧はたいそう驚き、寺の本尊の下で見つけたという矢竹を尊氏に見せたそうです。

その矢竹は、まぎれもなく尊氏が少年に与えたものだったとか。

尊氏はこの寺の本尊が自分を守っていてくれたのだと悟り、戦勝後、尊氏はこの本尊を深く信仰したと伝えられます。


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もちろん、にわかに信じられる話ではありませんが、尊氏は湊川の戦いの際、ここ宝満寺に本陣を布き、また、戦勝後も宝満寺を崇敬し、伽藍の修復や寺領の寄進をしたことは本当のようですから、尊氏が何らかのご利益を感じていたというのは事実なんでしょうね。


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説明板によると、その後、宝満寺は天正7年(1579年)に荒木村重によって焼き討ちされ、寺録も没収されたそうです。

天正7年といえば、村重は籠城していた有岡城から9月に尼崎城に移っており、兵庫の花隈城に入ったのは翌年の2月頃のこと。

焼き討ちされたのは天正8年じゃないでしょうか?

さらに、第二次世界大戦時の神戸大空襲により寺は全焼し、残念ながら寺史に関する史料はすべて焼失してしまったそうです。


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太平記とは関係ありませんが、境内には尼崎藩第2代藩主青山幸利慰霊碑と、その家老の天野八郎兵衛の顕彰碑があります。


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青山幸利は尼崎藩主として現在の神戸一帯の領主でもありましたが、たいへん厳正で領民思いの善政を行ったため、その感謝の意を込めて、貞享元年(1684年)にこの碑が建てられたそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2017-06-14 01:40 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その67 「藤之寺(北風家菩提寺)」 神戸市兵庫区

神戸市兵庫区にある、藤之寺にやってきました。

ここは兵庫津の豪商・北風家の菩提寺として知られますが、その北風家の祖先が、『太平記』に関わっていると知り、ここを訪れました。


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伝承によると、建武3年(1336年)2月10・11日の打出合戦に破れた足利尊氏軍が、兵庫津から船で九州に敗走しようとしていたとき、この地に古くから住む豪族・白藤氏の第44代・白藤惟村が、北風を利用して足利軍の船に火をつけ、足利軍に大きなダメージを与えたそうです。

その功により、足利追討軍の新田義貞から軍忠状とその佩刀を賜り、北風にあやかって「喜多風」の姓を受け、さらに、惟村は新田義貞から「貞」の一字を譲り受け、喜多風貞村と名乗るようになったそうです。


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しかし、その新田軍が湊川の戦いで敗走すると、喜多風一族もそれとともに隠遁、その後、なんとか一族の滅亡は逃れたものの、室町時代は目立った活躍はなかったようです。

やがて江戸時代に入り、姓を「北風」と改めると、廻漕業を営むようになり、寛永年間(1624~1648)には、北風彦太郎が越後米、加賀米を西廻り下関を経て瀬戸内海から兵庫に廻漕するルートを開き、莫大な富を築きます。

第63代・北風荘右衛門貞幹のときには、俳人与謝蕪村パトロンとなったり、無名時代の高田屋嘉兵衛を後援したりしたそうです。

また、幕末から明治にかけての当主・北風正造(第66代荘右衛門貞忠)は、表向き幕府の御用達を勤めながら、勤皇の志士側たちに資金と情報を提供し、倒幕を推進しました。

しかし、正造はあまりにも公徳心が強すぎ、明治に入って家業は倒産してしまいます。


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新田軍に与したことから始まり、倒幕軍に与して終わった北風家。

時代は違えど勤皇だったんですね。

その北風家の一族が、ここに眠ります。



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by sakanoueno-kumo | 2017-06-09 23:52 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その66 「打出合戦、大楠公戦跡の碑」 兵庫県芦屋市

建武3年(1336年)2月10・11日に起きた、打出合戦の地を訪れました。

現在、その跡地である兵庫県芦屋市楠木町には、「大楠公戦跡」と刻まれた巨大な石碑があります。


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「建武の新政」に不満を募らせた武士たちの期待に呼応するかたちで、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)に反旗を翻した足利尊氏は、建武2年(1335年)12月11日、攻め寄せた新田義貞軍を箱根竹ノ下で撃破すると、その勢いで、翌年1月に京都へ乱入しますが、それに対し、後醍醐天皇は奥州から北畠顕家を呼び戻し、足利軍と激突させます。

ここで北畠・新田ら朝廷軍に押された足利軍は、1月30日に京を脱出し、丹波路を通り三草越えの道をとって、2月3日には兵庫の魚ノ御堂に陣を布きます。

ここで足利軍は、周防国の大内氏に援軍を得ることができ、再び京奪還を目指して東へ軍を進めました。

その途上、追撃してきた新田義貞・楠木正成軍と、この地で激しい戦闘となります。

これが打出合戦です。


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結局、尊氏はこの合戦に敗れ、12日に全軍をあげて兵庫から船で海路九州へと敗走

このときの様子を『太平記』では、「とるものもとりあへず、乗りおくれじとあはて騒ぐ。舟はわずかに三百余艘なり。乗らんとする人は二十萬騎に余れり」と伝えています。

かなり混乱していたようですね。


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このあたりの住所は、「芦屋市楠木町」といいます。

言うまでもなく、その由来は楠公さんから来たのでしょう。


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国道2号線を挟んで北側が楠木町、南側が打出町です。

さらにその南側は、現在は阪神高速道路が走っていますが、当時はでした。

平成7年(1975年)1月17日の阪神・淡路大震災のとき、高速道路が横倒しになって、バスが半分落下しかけていた映像を覚えている方も多いかと思いますが、ちょうどあのあたりです。


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また、同じく『太平記』における終盤のクライマックスといえる「観応の擾乱」のなかで、足利直義と足利尊氏・高師直の兄弟間で戦った「打出浜の戦い」も、このあたりが舞台でした。


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ちなみに、この「打出」は、「打出の小槌」の伝承の舞台でもあります。

歴史に深く関わる摂津国打出浜は、現在も芦屋市打出という住所で往時を偲ばせてくれます。




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by sakanoueno-kumo | 2017-06-08 22:22 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その65 「一乗寺下り松」 京都市左京区

京都市左京区にある「一乗寺下り松」を訪れました。

ここに、「大楠公戦陣蹟」と刻まれた、大きな石碑があります。


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「建武の新政」に不満を募らせた武士たちによって混乱が生じはじめた建武2年(1335年)7月、滅亡した鎌倉幕府執権だった北条高時の遺児・北条時行が、幕府再興を掲げて信濃で挙兵し、進軍して鎌倉を占拠する「中先代の乱」が起きます。

これを鎮圧に向かった足利尊氏は、乱を平定したのちも鎌倉に留まり、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の帰京を促す呼びかけにも応じず、やがて、鎌倉幕府に変わる新しい武家政権の樹立を求める声に呼応するかたちで立ち上がります。


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後醍醐天皇に反旗を翻した尊氏は、12月11日、攻め寄せた新田義貞軍を箱根竹ノ下で撃破(竹ノ下の戦い)。

その勢いで、尊氏は翌年1月に京都へ乱入します。

これを迎え撃つ天皇方は、各地で諸将が守備します。

その一人、楠木正成が陣を布いたのが、ここ一乗寺下り松でした。


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石碑の裏には、「昭和二十年五月二十五日建立」とあります。

第二次世界大戦終戦の約3ヶ月前ですね。

この時期といえば、各地が空襲に見舞われ、日本全土が焦土と化していた頃で、よくこんなものを建てる余裕があったなと思うのですが、そんな時期だからこそ、皇国の忠臣の象徴である楠木正成の碑が必要だったのかもしれません。

そう思えば、これは史跡というより、負の遺産ですね。


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傍らにある小さな石碑には、そんな正成を頌える文が刻まれています。


碑文

「建武三年正月足利尊氏兵八十万を率ゐて来寇す 官軍之を邀へ廿七日を期して京に決戦せむとす 乃ち前宵楠木結城伯耆の諸将其勢三千餘騎叡山を西に降りて下松に陣し 明くる遅しと進み撃ち一挙にして賊徒を西海に却け了んぬ これ多くは楠公神策の然らしめし所太平記の著者も楠木は元来勇気無双の上智謀第一と讃歎せり しかれとも我か国悠久三千年必すしも文武智勇の人に乏しかりきとせず しかも楠公に貴き所以は其智勇常に天皇に帰一し奉りしに在り かゝる楠公精神こそ以て新に樹立すへき産業日本の指針たるへく又以て永く興隆すへき平和日本の標幟たるへし 即ち新に陪碑して公の徳を謳はむとする所以なり」


強烈ですね。

碑文の後半を要訳すると、「楠公の貴いところは、その智をもって常に天皇のために尽くしたところにあり、この楠公の精神こそ、これからの日本の産業の指針とすべきで、日本の平和の標識とすべきだ」といったところでしょうか。

ほとんど敗色濃厚だったこの時期にこのようなことを言っているのですから、当時のわが国の指導者たちが、いかに狂っていたかがわかります。

正成自身、後世にこのような扱いを受けようとは、夢にも思っていなかったでしょう。


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ちなみに、ここ一乗寺下り松は、江戸時代初期に剣豪・宮本武蔵吉岡一門数十人決闘を行った場所としても有名で、「宮本吉岡決闘之地」と刻まれた石碑があります。

ていうか、観光客用の看板などは、ほとんどが「武蔵ゆかりの地」を謳っており、「大楠公戦陣蹟」は知る人ぞ知るって感じでしたけどね。




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by sakanoueno-kumo | 2017-06-07 23:34 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その64 「岸和田古城跡」 大阪府岸和田市

だんじり祭で有名な大阪府岸和田市にある「岸和田古城跡」を訪れました。

ここは、現在の岸和田城から東へ500mほどのところで、住宅街のなかに石碑と説明版だけが設置されています。


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建武元年(1334年)1月より行われた「建武の新政」摂津国、河内国、和泉国3ヵ国守護に任ぜられた楠木正成は、甥の和田新兵衛高家を和泉国の代官にし、この地に居を構えさせました。

それが、ここ岸和田古城跡と伝わります。


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ただし、城跡推定地は特定されておらず、諸説があるようです。


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石碑は大正10年(1921年)に建てられたもののようです。


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周辺は完全に住宅街として整備されており、遺構はもちろん、城跡を思わせる地形も残っていません。


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このあたりは、かつては「岸」と呼ばれていたのが、和田氏が代官となったことで「岸の和田氏」と呼ばれるようになり、やがてそれが「岸和田」という地名になったのだとか。

あくまで一説ですけどね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-06-06 22:23 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)