カテゴリ:太平記を歩く( 130 )

 

太平記を歩く。 その130 「銅の鳥居」 奈良県吉野郡吉野町

「その127」で紹介した金峯山寺の北側の参道に、で造られた鳥居があります。

この鳥居を「銅(かね)の鳥居」といい、安芸の宮島の朱塗りの鳥居、大阪四天王寺の石の鳥居と並んで、日本三鳥居のひとつといわれています。


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創立年代はわかっていませんが、一説には、聖武天皇(第45代天皇)が東大寺大仏を建立したとき、その余った銅を使って作られたといわれるそうです。


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地面から笠木の天まで8.23m、柱の周囲が3.2mあります。


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『太平記』巻26「吉野炎上事」によると、正平3年(1348年)1月28日に足利軍の高師直が起こした焼き討ちによって、この鳥居も焼失したとあります。

その後の再建は記録されていませんが、同じ日に焼け落ちた金峯山寺の蔵王堂再建供養会が、それから62年後の応永17年(1410年)に行われていることからみて、この銅の鳥居も同じ頃に再建されたものだろうと考えられています。


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その後、宝永3年(1706年)の火災、明治26年(1893年)の台風によって破損しましたが、その都度修理されて、いまは重要文化財に指定されています。

扁額の文字は「発心門」と読み、大峯修験の入峰のとき、この門で修行の心を新たにし、俗界と離れるわけです。

吉野山から山上が岳までの間に、発心、修行、等覚、妙覚4つの門があり、それぞれの門をくぐるごとに修行の心を強めていったそうですが、ここ銅の鳥居は、その最初の門にあたります。




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by sakanoueno-kumo | 2017-09-24 08:58 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その129 「後醍醐天皇導之稲荷」 奈良県吉野郡吉野町

「その127」で紹介した金峯山寺の南側入口の脇に小さなお稲荷さんがあります。


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近づいてみると、「後醍醐天皇導之稲荷」と刻まれた石柱が建てられています。

「導之稲荷」とはどういう意味か・・・。


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説明板によると、延元元年(1336年)12月21日、足利尊氏によって幽閉されていた京の花山院を脱出した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は、12月28日、ここ吉野山行宮(仮の宮)に入りますが、その道中、夜道に迷ったとき、とある稲荷社の前で、


「むば玉の 暗き闇路に 迷うなり 我にかさなむ 三つのともしび」


と詠んだところ、ひとむらの紅い雲が現れて、吉野への臨幸の道を照らして天皇を導くと、その雲は金の御岳(吉野山)の上で消え失せたといいます。(吉野拾遺)

その稲荷を勧請したのがこの「導き稲荷」だそうです。


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歌のなかに出て来る「三つのともしび」とは、京都の伏見稲荷大社の神体山・稲荷山三つの峰に祀られている神をさすそうです。

夜道に迷って困っていると、稲荷山の御神体がわたしに重なった・・・といった意味でしょうか?


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心に迷いが生じたとき、ここ「導き稲荷」の神にお祈りすると、自ずから道が開けるという伝承があるそうです。

わたしのように常に迷って生きている者には、ご利益はあまり期待できないかもしれませんが。




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by sakanoueno-kumo | 2017-09-22 23:54 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その128 「金峯山寺・大塔宮御陣地」 奈良県吉野郡吉野町

前稿で紹介した蔵王堂の正面、玉垣に囲まれたなかに桜の木が4本植えられている空間があります。


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時代は遡って元弘3年(1333年)閏2月1日、北条幕府の二階堂貞藤(道蘊)を総大将とする大軍に責められた後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の第二皇子・大塔宮護良親王は、ここに本陣を布いて戦ったと伝えられます。


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隅には「大塔宮御陣地」と刻まれた石柱が建てられています。


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『太平記』巻7「吉野城軍の事」によると、圧倒的な兵力で攻める幕府軍でしたが、天然の要害を持つ吉野城を攻めあぐみ、戦いは一進一退の攻防を繰り返します。

しかし、結局は衆寡敵せず、死を覚悟した大塔宮は、ここ蔵王堂前で最後の酒宴を開いたといいます。


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『太平記』の記述によると、このとき、大塔宮親王の鎧には7本の矢が刺さり、二の腕の2ヵ所に傷を負い、血が滝のように流れていましたが、宮は突き刺さった矢を抜こうともせず、流れる血を拭おうともせずに、毛皮の敷物の上に立って、大盃で3杯空けたといいます。

なんとも豪傑な親王ですね。


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雲が近いです。


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蔵王堂前庭の南側には、「村上義光忠死之所」と刻まれた石柱が建てられています。

村上義光は大塔宮護良親王の忠臣で、『太平記』では、「元弘の変」笠置山が陥落し、潜伏していた南都の般若寺から熊野へ逃れる親王に供奉した9名のなかの1人として登場します。

吉野城落城の際、前庭での酒宴も終わり、いよいよ死を決した大塔宮護良親王に対して、「ここで宮に死なれるのは犬死というもの、恐れながら今お召しの鎧直垂と甲冑を賜り、それを某が身に着けて敵を欺きましょう。その隙に宮は落ち延びてください。」と涙ながらに説き、身代わりとなって二天門に駆け上がり、「われこそは大塔宮護良親王である。」と叫んだのちに見事に腹をかき切り、壮絶な最期を遂げたといいます。

このとき義光は、自らのはらわたを引きちぎって敵に投げつけ、太刀を口にくわえたのちに、うつぶせになって絶命したといいます。

この間に大塔宮は高野山に落ち延びます。

歌書よりも軍書に悲し吉野山

松尾芭蕉の門弟・各務支考が詠んだ有名な句ですが、まさに、そんな歴史が感じられる場所です。




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by sakanoueno-kumo | 2017-09-21 23:33 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その127 「金峯山寺・蔵王堂」 奈良県吉野郡吉野町

世界遺産に登録されている吉野山のなかで、シンボル的存在がここ金峯山寺です。

創建は7世紀、開基は伝説の呪術者・役小角と伝わります。


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なかでも、本堂の蔵王堂はその象徴的建築物で、天武天皇(第40代天皇)の勅願によって建てられたともいわれます。


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蔵王堂は入「母屋造り」という建築様式で、正面5間(約9m)、側面6間(約11m)、高さ約34mと、日本の木造建築物としては東大寺大仏殿に次ぐ大きさを誇ります。


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さすがの大迫力です。


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現在でも修験道の根本道場として多くのひとびとの崇敬を集めている蔵王堂ですが、特に平安時代から鎌倉時代には隆盛をきわめ、多数の堂塔が並び建ち、吉野大衆と称せられる大勢の僧兵が集まっていたといいます。


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長い歴史のあいだには何度も火災に遭い、寛治7年(1093年)、嘉禄元年(1225年)、文永元年(1264年)に焼失した記録があります。

その都度、強い信仰の力によって復興されてきましたが、正平3年(1348年)1月28日、足利軍の高師直による焼き討ちによって兵火にかかったときには、その再建に実に60年余りも要しました。


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『太平記』巻26「吉野炎上の事」では、

「さらば焼払へとて、皇居並卿相雲客の宿所に火を懸たれば、魔風盛に吹懸て、二丈一基の笠鳥居・二丈五尺の金の鳥居・金剛力士の二階の門・北野天神示現の宮・七十二間の回廊・三十八所の神楽屋・宝蔵・竃殿・三尊光を和げて、万人頭を傾る金剛蔵王の社壇まで、一時に灰燼と成ては、烟蒼天に立登る。浅猿かりし有様也。」

と、その惨状を嘆いています。


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ちなみに、その後も天正14年(1586年)にも失火によって焼失し、現在の蔵王堂は天正20年(1592年)に再建されたものです。

そして平成16年(2004年)7月、「紀伊山地の霊場と参詣道」のひとつとして、ユネスコの世界遺産に登録されました。




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by sakanoueno-kumo | 2017-09-20 22:56 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その126 「吉野神宮」 奈良県吉野郡吉野町

桜の名所で有名な奈良県の吉野山にやってきました。

といっても、訪れたのは真夏の7月のことで、桜はまったくありまぜん。

桜の季節は観光客でいっぱいですからね。


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『太平記』における吉野山は、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が足利尊氏の擁立する京の北朝に対して南朝を樹立したところとして重要な場所ですが、『太平記』の描く吉野山はそれだけではなく、巻7「吉野城軍の事」、巻18「先帝吉野潜幸の事」、巻26「正行吉野に参る事」、「吉野炎上の事」、巻34「吉野御廟神霊の事」と、多岐にわたって登場しますので、時系列でめぐっていくのはたいへん難しい。

そこで、ここからしばらくは、時系列から外れて吉野山特集でいこうと思います。


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最初に紹介するのは、吉野山の北西麓付近に鎮座する「吉野神宮」

ここは後醍醐天皇を祭神とする神社で、明治22年(1889年)に明治天皇(第122代天皇)の意向によって創建されました。


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もともとは、後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)の勅命により後醍醐天皇の御尊像を吉水院に奉安し、以後、550年間、代々供養が続けられていきましたが、明治になり、吉水院は後醍醐天皇社と改称し、その後、吉水神社と改称されました。


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しかし、明治政府の打ち立てた神仏分離の目的で、別に社地を定めて後醍醐天皇を祭るように指示が出され、ここ吉野神宮の創建に至ったそうです。


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全国にある「建武中興十五社」の一社で、旧社格は「官幣大社」でした。


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拝殿です。


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本殿です。

拝殿の横に並ぶ摂社には、後醍醐天皇の「建武の新政」に功績のあった、日野資朝、日野俊基、児島高徳、桜山茲俊、土居通益、得能通綱などが祀られています。



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by sakanoueno-kumo | 2017-09-19 23:46 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その125 「内山永久寺跡(萱御所跡)」 奈良県天理市

延元元年/建武3年(1336年)12月21日、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は足利尊氏によって幽閉されていた花山院を抜け出し、吉野山新たな朝廷を樹立するに至るのですが、吉野山に向かう道中、大和路の内山永久寺に一時身を隠していたと伝えられます。


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内山永久寺は平安時代後期の永久2年(1114年)に鳥羽天皇(第74代天皇)の勅願により興福寺の僧・頼実が創建したと伝えられ、往時は壮麗な大伽藍を誇ったといわれますが、明治年間の廃仏毀釈より徹底的な破壊を受け、いまはその敷地のほとんどが農地となっています。


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唯一痕跡として残るのが、境内のほぼ中央にあったされる本堂池


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長閑な風景です。


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池の畔にある「内山永久寺記念碑」

裏には「明治廿二年四月建立」とあります。


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その石碑の建つ場所から、説明板のようなものが見えます。


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こちらがその説明板と、江戸時代末期に刊行された「名所図会」の絵図。


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絵図中央に赤く「現在地」の標示があり、その横に大きな池がありますね。


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絵図の池の左隣には、「後醍醐帝萱御所旧跡」と記された一角が確認できます。

ここが、後醍醐天皇が一時身を潜めていたとされる場所ですね。


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現在その跡地には、「萱御所」と刻まれた石碑が建てられています。


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『太平記』巻18「先帝潜幸芳野事」によると、12月21日の夜に花山院を抜け出した後醍醐天皇は、翌22日の夜が明ける前に梨間の宿(城陽市)に入り、そこから張り輿(全体を畳表で張った略式の輿)に乗って白昼の大和路を南下し、夕暮れどきにここ内山永久寺にたどり着きます。

その翌日の23日夜には賀名生(西吉野)に移っていますから、ここ内山永久寺に身を潜めていたのは、わずか一晩、それも、数時間のことだったかと思われます。


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わずか数時間滞在しただけで後世に「萱御所」と称されて石碑まで建っちゃうんですね。

まあ、古代神話時代の天皇明治天皇(第122代天皇)以降の近代の天皇は別として、ほとんどの天皇は一生京の都を離れることなくその生涯を終えられたわけですから、天皇が訪れた地というだけでも、たいへんな事だったのでしょうね。

そう考えれば、後醍醐天皇は比類なきアクティブ天皇だったといえるでしょうか。


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集落の高台に展望台が設置されていたので、上ってみることに。


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文禄4年(1595年)には豊臣秀吉から971石の寺領が与えられ、大和国では東大寺、興福寺、法隆寺に次ぐ待遇を受ける大寺となり、その規模の大きさと伽藍の壮麗さから、江戸時代には「西の日光」とも呼び習わされたそうですが、今はその痕跡はまったく見られず、見渡す限りの農地です。


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池の北側の畔には、松尾芭蕉の句碑があります。

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「うち山やとざましらずの花ざかり」宗房

「宗房」とは、芭蕉の若き日の号だそうで、まだ出生地の伊賀上野に暮らしていた頃の作品だそうです。

この句意にあるように、現在でも春になるとこの池は桜で埋め尽くされるそうです。

今度は桜の季節に訪れてみることにします。



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by sakanoueno-kumo | 2017-09-17 00:28 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(1)  

太平記を歩く。 その124 「花山院邸跡(宗像神社)」 京都市上京区

京都御苑内にある宗像神社を訪れました。

ここは、かつて花山院邸があった場所で、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が、一時幽閉されていた場所です。


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建武の新政が崩壊し、延元元年/建武3年(1336年)10月10日、足利尊氏に降伏した後醍醐天皇は、ここ花山院に幽閉されることになります。

ここで天皇は厳しく監視され、これまで従っていた側近たちは引き離され、接触できるのは女房達だけだったといいます。


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11月1日、ここで後醍醐天皇と足利尊氏の会見が行われます。

尊氏の要求は、三種の神器の引き渡しでした。

尊氏は8月に持明院統光明天皇(北朝第2代天皇)を即位させており、その正当性を得るためにも、三種の神器が必要だったわけです。


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そこで、尊氏は次の天皇には後醍醐天皇の皇子の成良親王を即位させることを約束します。

この条件を後醍醐天皇は受け入れ、三種の神器を光明天皇に引き渡しました。

しかし、実はこの三種の神器は偽物でした。

天皇は尊氏を信用していなかったんですね。


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12月21日、後醍醐天皇はわずかな供を従えて花山院を抜け出し、かつて大塔宮護良親王が挙兵した吉野へと向かいました。

吉野へと落ちのびた後醍醐天皇は、その地で新たな朝廷を樹立します。

これが吉野朝廷、いわゆる南朝ですね。

これにより、尊氏が立てた光明天皇の朝廷は北朝となります。

かくして南北朝の争乱がはじまったわけです。




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by sakanoueno-kumo | 2017-09-16 01:42 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その123 「尊良親王墓所」 京都市左京区

金ヶ崎城の戦いで自害した尊良親王が、紅葉の名所として知られる京都の禅林寺(永観堂)の近くにあると知り、訪れました。


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尊良親王は後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の皇子で、『太平記』『梅松論』などには「一宮」と記されていることから、後醍醐天皇の数多い皇子のなかで最初に生まれた皇子と考えられています(大塔宮護良親王の方が先という説もあり)。

母は権大納言二条為世の娘・為子で、宗良親王が同母弟と伝わります。

幼いころに母を亡くしたこともあってか、幼少期は後醍醐天皇の側近・吉田定房に養育されました。


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元弘の乱では父帝とともに笠置山に赴くも、敗れて父と共に幕府軍に捕らえられ、土佐国に流されました。

鎌倉幕府滅亡後に京に戻った尊良親王でしたが、足利尊氏が鎌倉で反旗を翻すと、新田義貞・脇屋義助兄弟と共に討伐軍を率いますが、箱根・竹ノ下の戦いで敗北し、京へ撤退。

その後、足利尊氏が京を占領すると、幼い恒良親王とともに新田義貞に奉じられて越前国に落ち、約半年間におよぶ金ヶ崎城での籠城戦のすえ、義貞の息子・新田義顕や他の将兵らとともに自害して果てます。

享年27

尊良親王の最期については、「その110」「その111」で詳しく紹介しています。


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金ヶ崎城にて自害した尊良親王のは、京都禅林寺(永観堂)の住職・夢窓国師のもとへ送られ、葬礼のあと、この地に埋葬されたと伝わります。

つまり、ここは首塚ということですね。


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『太平記』には、尊良親王の死を知ったその后・御匣殿(みくしげどの)の深い悲しみが描かれています。

その信憑性については定かではありませんが、『太平記』によると、御匣殿には別の婚約者がいたにもかかわらず、彼女に一目惚れした尊良親王は1000通におよぶ熱烈ラブレターを送り続け、やがて自分の后にしてしまったという馴れ初めが描かれています。

今流行のゲス不倫ですね(婚約だけだから不倫にはならないかな)。

しかし、二人の幸せな結婚生活は元弘の乱以降の戦乱によって終わりを告げます。

そのときの逸話は「その9」で紹介しています。


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尊良親王の死を知って深い悲しみに打ちひしがれた御匣殿は、嘆き苦しんだ末にになり、親王の四十九日も済まない間に、その後を追うように亡くなってしまったと『太平記』は伝えます。

この話は「金ヶ崎恋物語」として後世に広く知られるようになりますが、一方で、『太平記』と同じ時代に成立した『増鏡』によると、御匣殿は元弘の乱時には既に亡くなっていたと伝えます。

どちらが事実はわかりませんが、『太平記』の伝承のほうが、ドラマチックでいいですよね。


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そんな劇的な生涯を歴史に刻んだ尊良親王の墓所の前の道が、あろうことか附近のゴミステーションになっていました。

これ、なんとかならないのかなぁ・・・。




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by sakanoueno-kumo | 2017-09-15 01:40 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その122 「新田義貞首塚(滝口寺)」 京都市右京区

新田義貞の墓所は「その120」で紹介した福井県坂井市の称念寺にありますが、あちらの墓は胴塚で、京都嵯峨野にある小さな山寺・滝口寺の境内に、義貞首塚と伝わる墓石があります。


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境内入口です。

中央にNO PHOTOと書かれた立て札がありますが、これは、参拝料を払わない人は撮影禁止という意味で、ちゃんとお金を払ったわたしは撮影オッケーです。


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この苔むした墓碑が、新田義貞の首塚だそうです。


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燈明寺畷自刃した義貞の首は、越前国守護の斯波高経によって検められたあと、すぐさま京に運ばれ、都大路を引き回されたのち、陽明門近くに晒されたそうです。

それを見た義貞の最後の妻・勾当内侍は泣き崩れ、その日のうちに髪を剃り落して尼となり、かつてこの地にあった往生院で余生を義貞の菩提を弔うことに費やしたといいます。


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『太平記』が伝えるのはそこまでで、その後、晒された義貞の首がどうなったかは伝えられていません。

ここ滝口寺に伝わる伝承によれば、晒された義貞の首を妻の勾当内侍が盗み出し、秘かにこの場所に葬ったといいます。


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たしかに、この説は真実味がありますよね。

足利尊氏は信心深い人で、一旦は晒した楠木正成の首を河内の親族の元に丁重に送り返したり、あれだけ確執があった後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の死後、その菩提を弔うために天龍寺を建立したりしています。

そんな尊氏が、最大のライバルだった義貞の首を、そのまま捨て置くとは思えないですよね。

もし、その妻が盗み出して葬ったとあらば、それが発覚したとしても、尊氏は見て見ぬふりをしていたんじゃないかと。


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義貞の墓所の側には、その妻の勾当内侍の供養塔があります。

勾当内侍は公家の出で、後醍醐天皇によって義貞のもとに降嫁されたと伝わります。


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『太平記』では、義貞の最期をこう評します。


「此の人、君の股肱として、武将の位に備わりしかば、身を慎み命を全うしてこそ、大儀の功を致さるべかりしに、自らさしもなき戦場に赴いて、匹夫の鏑に命を止めし事、運の極めとは云いながら、うたてかりし事共也」


「うたてかりし」とは「情けない」といった意味だそうで、要訳すると、

「身を慎んで行動すべきであったのに自ら取るに足らない戦場に赴いて、名もない兵士の矢で命を落とした。運が悪いというより、軽率である」

といった感じでしょうか?

つまり、「犬死」だとい言っています。

かなりの酷評ですね。


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新田義貞も足利尊氏も、源氏の中興の祖である源義家を祖先にもつ家系で、いわば同族でした。

共に鎌倉幕府瓦解の立役者であり、ライバル関係だった義貞と尊氏でしたが、建武の新政以後、朝廷に対して反旗を翻した尊氏を討伐する目的で官軍を率いたはずの義貞が、最期は足利氏から朝廷に抗う反乱軍というレッテルを貼られてしまい、無念の死を遂げてしまいます。

そんな義貞に対する後世の評価は微妙で、戦には強かったものの、鎌倉陥落後に大勢の武士に見限られたり、九州へ追い出した尊氏を追撃できなかったりしたことから、時代の趨勢が読めなかった武将とか、機を見るに敏という能力が足りなかったなど、その器量、能力に対しては酷評気味です。

同じく一貫して後醍醐天皇方に与して討死した楠木正成英雄扱いを受けているのに対し、なぜ義貞は微妙な評価になっちゃったんでしょうね。

客観的に見て、鎌倉幕府滅亡にもっとも尽力したのは義貞だったと思いますし、建武の新政以後、尊氏が反旗を翻したあとも、最も長く、足利方と互角に戦ったのは義貞でした。

後世の評価は、ちょっと、気の毒な気がしないでもないですね。




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by sakanoueno-kumo | 2017-09-13 23:37 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その121 「藤島神社」 福井県福井市

福井県福井市の足羽山にある藤島神社を訪れました。

ここの主祭神は新田義貞で、副祭神は弟の脇屋義助、息子の新田義顕・新田義興・新田義宗

「建武中興十五社」の一社で、旧社格は「別格官幣社」でした。


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「別格官幣社」とは、国家のために功労のあった人臣を祭神とする神社のことで、明治5年(1872年) に神戸の湊川神社が定められたのに始まり、昭和21年(1946年)に社格が廃止されるまで、日本全国に28社ありました。


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朱塗りの大鳥居をくぐると、長い石段が続きます。


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境内には車でも行けるのですが、ここはあえて石段を登ります。


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藤島神社の創建は明治時代に入ってからだそうで、それほど古い神社ではありません。

「その119」で紹介した「燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地」に初代福井県知事が明治3年(1870年)に祠堂を作ったのが始まりで、明治9年(1876年)に「藤島神社」と名付けられ、その後、明治34年(1901年)にこの地に移り、現在に至ります。


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拝殿です。


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明暦2年(1656年)、義貞が自刃したと伝わる燈明寺畷を耕作していた百姓の嘉兵衛が偶然にを掘り出し、芋桶に使っていたところ、福井藩の軍学者・井原番右衛門がこれを目にし、象嵌や「元応元年八月相模国」の銘文から新田義貞着用のものと鑑定します。

その冑が、ここの神社に祀られいるというのですが・・・。


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ああ、あった!・・・たぶんこれかな?

ただ、無粋なことをいえば、この冑、現在の研究では戦国時代のものと鑑定されているそうです。


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新田氏家紋入り旗印


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この甲冑も、なんか新田氏と関係あるのでしょうか?

説明板がないので、わかりません。


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藤島神社は足羽山の北東麓にあるため福井市街が一望に出来ます。

気持ちのいい朝の景色でした。



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by sakanoueno-kumo | 2017-09-11 23:30 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)