カテゴリ:太平記を歩く( 202 )

 

太平記を歩く。 その202 「等持院」 京都市北区

シリーズ200を超えましたが、関西を中心とした『太平記』ゆかりの地は、ほぼ網羅できたんじゃないかと思っています。

というわけで、このあたりで、ひとまず一区切りにしようかな・・・と。

そこで、その節目を飾るのは、足利将軍家の菩提寺「等持院」です。


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ここ等持院は「その158」で紹介した臨済宗天龍寺派の古刹で、室町幕府を開いた足利尊氏が、興国2年/暦応4年(1341年)に「その157」で紹介した洛中の等持寺を建立し、その2年後の興国4年/康永2年(1343年)、この地に別院北等持寺を建立したことに始まるといわれます。


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開山当初は「北等持寺」と呼ばれましたが、尊氏の死後はその墓所とされ、尊氏の法名をとって「等持院」に寺号を改めたと伝わります。


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ここ等持院は紅葉の名所としても知られていますが、わたしが訪れたこの日は11月26日。

だいぶん枯れかけてはいましたが、辛うじて残っていました。


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庫裏と呼ばれる入口を潜ると、すぐに方丈(本堂)があります。


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屋根瓦には足利家の家紋(足利二つ引)が見えます。


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方丈に入るとすぐに、達磨図の衝立が目に入ります。

これ、似たような衝立が天龍寺にもありましたよね。

こちらの絵は、天龍寺の元管長で等持院の住職でもあった関牧翁の作だそうです。


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こちらは方丈から望む南側の庭園。


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方丈の回廊を奥に進むと、はなれのような建物があります。


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それがこれ、霊光殿という建物です。

実は、ここに来たいちばんの目的はここ。

この中に、尊氏が日頃念持仏として信仰していた利運地蔵菩薩(伝弘法大師作)を中心として、足利歴代の将軍木像(第5代義量と第14代義栄を除く)が、徳川家康の像と共に安置されています。

残念ながら木像の撮影は禁止だったので、建物外から中を望遠レンズでブームイン

これくらいは勘弁してください。


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左右に木像のシルエットが見えるのがわかるでしょうか?

これらの像がいつの時代に作られたものかは、説明書きなどがなかったためわかりませんでしたが、家康の像は、42歳の厄除けのために自ら作らせたものだそうです。

時代は下って幕末、文久3年(1863年)2月22日、倒幕派の志士たちによって足利尊氏・足利義詮・足利義満三代の木像の首が鴨川の河原にさらされる事件が発生しますが(足利三代木像梟首事件)、そのときの木像が、ここに安置されている木像です。

3体の首のあたりをじっくり観察しましたが、斬首された痕跡はわかりませんでした。

どうやって繋いだんでしょう?


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方丈北側に目をやると、夢窓疎石の作と伝わる見事な庭園が広がります。


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しばし庭園を散策。


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水面に映る紅葉。

ちょっと枯れかけですが。


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紅葉、紅葉、紅葉。


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庭園の一角に、「足利家十五代供養塔」と伝わる全高5m十三重塔があります。

等持院では、代々、大切に供養されてきました。


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で、庭園の片隅に樹樹に隠れるようにひっそりとある宝篋印塔

これが、尊氏の墓だそうです。


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高さ約1.5m

室町幕府の開祖の墓としては、なんと小じんまりした墓でしょう。

これまでこのシリーズで見てきた楠木正成新田義貞などの墓と比べても、ずいぶんと小さく質素なたたずまい。

どう見ても征夷大将軍の墓とは思えません。


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尊氏が死んだのは正平13年/延文3年(1358年)4月30日、自身の落胤で弟・足利直義の養子となっていた足利直冬との合戦で受けた矢傷による背中の腫れ物がもとで、洛中の等持寺で死去したと伝わります。

享年54


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『太平記』巻33「将軍御逝去事」では、尊氏の死を次のように伝えます。


病日に随て重くなり、時を添て憑少く見へ給ひしかば、御所中の男女機を呑み、近習の従者涙を押へて、日夜寝食を忘たり。懸りし程に、身体次第に衰へて、同二十九日寅刻、春秋五十四歳にて遂に逝去し給けり。さらぬ別の悲さはさる事ながら、国家の柱石摧けぬれば、天下今も如何とて、歎き悲む事無限。さて可有非ずとて、中一日有て、衣笠山の麓等持院に葬し奉る。

(病は日を追って重くなり、時とともに容態も思わしくないように見えてきたので、将軍の屋敷に仕える男女らは固唾を飲んで見守り、側近く仕える従者らは涙をこらえ、日夜寝食も忘れていました。やがて身体は次第次第に衰え、四月二十九日の寅刻(午前四時頃)、享年五十四歳にして、ついに逝去しました。それでなくても別れは悲しいものなのに、国家の柱石が砕けてしまったので、天下は今後一体どうなるのかと嘆き悲しむ限りです。しかし、いつまでも悲しんでいるわけにもいかず、中一日おいて、衣笠山の麓にある等持院に葬りました。)


ここ等持院に葬ったと伝えていますね。

さらに『太平記』はこう続けます。


哀なる哉、武将に備て二十五年、向ふ処は必順ふといへ共、無常の敵の来るをば防ぐに其兵なし。悲哉、天下を治て六十余州、命に随ふ者多しといへ共、有為の境を辞するには伴て行く人もなし。身は忽に化して暮天数片の煙と立上り、骨は空く留て卵塔一掬の塵と成にけり。

(生まれながらの武将として二十五年、向かう先は全て彼に従ってきたといえども、死を迎えるにあたってそれを防ぐ兵士はいません。悲しいかな、天下を治めて六十余州、彼の命令に従う者は多いといえども、この世を去るにあたって伴ってくれる人もいません。身は忽ちにして暮れ行く空を立ちのぼる僅かな煙となり、はかなく残った骨は僅かばかりが墓石の塵となりました。


『太平記』は南朝よりに書かれた物語ですが、尊氏の死に際しては、ひとつの時代の終わりを伝えています。


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さて、冒頭でも述べたとおり、この稿をもって『太平記を歩く』シリーズはひとまず終わりにします。

関西を中心に山陰、北陸をめぐってきた202回でしたが、日本全土に目を向けると、『太平記』ゆかりの地は、関東、東北、東海、四国、九州などにまだまだ数多くあります。

いつの日か、また続きを再開できればと思っていますが、なにぶん遠方ばかりになるため、資金と時間が許せばですが・・・。

そのときは、また、おつきあいください。




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by sakanoueno-kumo | 2018-02-17 09:02 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その201 「大光明寺陵」 京都市伏見区

北朝の光明天皇(北朝第2代天皇)、崇光天皇(北朝第3代天皇)、そしてその孫にあたる治仁親王が眠る「大光明寺陵」を訪れました。


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大光明寺とは、室町時代のはじめにこの辺りにあった臨済禅宗の寺院で、北朝の護願寺だったそうです。

現在の大光明寺陵の場所は、かつて伏見殿上御殿があった付近で、明治時代に入り、光明・崇光両天皇の遺骨は大光明寺に納められたとの一部の古記録から、かつて大光明寺のあったと伝わる付近に円丘の御陵が整備されたそうです。


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宮内庁の案内板です。

治仁親王のことを「後伏見天皇皇玄孫」と表していますね。

後伏見天皇(第93代天皇)は光厳上皇(北朝初代天皇)の父です。

なぜ、「崇光天皇の皇孫」ではいけないのか?

北朝5代の天皇が歴代天皇に数えられていないからでしょうか?


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御陵までの長い道。


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御陵が見えてきました。


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御陵です。


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光明天皇は足利尊氏の擁立で、延元元年/建武3年(1336年)に即位し、延元3年/暦応元年(1338年)には尊氏を征夷大将軍に任じて室町幕府樹立に一役買った天皇です。

後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)も、いったんはこの即位を認めましたが、その後、吉野にのがれて南朝をひらき、以後50余年にわたる南北朝対立の時代となります。

つまり、南北朝の分裂時の天皇であり、事実上、光明天皇が北朝初代の天皇という見方もできるわけです。

康暦2年/天授6年(1380年)6月24日崩御。

在位12年、宝算60歳。


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崇光天皇は正平3年/貞和4年(1348年)に譲位を受けて即位しますが、同じ頃、足利幕府内では内紛が激しくなり、正平6年/観応2年(1351年)に尊氏が南朝に下ったことで正平一統が成立し、一時的に北朝は消滅

これにより崇光天皇は廃位となります。

その後、「その197」で紹介した天野山金剛寺幽閉生活を送り、京に戻ったのちは仏門に入り、応永5年(1398年)に崩御しました。

在位3年、宝算65歳。


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ただ、前稿の山国御陵と同じく、この大光明寺陵も、宮内庁のHPで紹介されている歴代天皇陵には記載されていません。

というのも、現在の天皇家の歴史は、南朝が正統とされているからです。


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明治44年(1911年)に起きた南朝、北朝どちらが正統かという議論「南北朝正閏問題」で、「南朝正統論」を広めることこそ日本国民の道徳教育であると一部の歴史家が唱えたことにより、大逆事件などの政治問題と絡んで国会で追及された桂太郎内閣が、明治天皇(第122代天皇)の裁可を得て南朝を正統と決定しました。

これにより、北朝5代天皇は歴代天皇からは除外されてしまいます。

その後、「南朝正統論」は国策として進められ、教科書では「南北朝時代」「吉野朝時代」と改められ、政府を挙げて南朝の正統性を国民に浸透させようとしました。

ただ、それまでの明治政府は北朝を正統としてきたため、このような立派な御陵が建てられていたんですね。


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ちなみに、現在の皇室は北朝の血筋です。

もはや南朝正統論が政治的意味を持たなくなった今日、北朝5代天皇を歴代天皇に復帰させてもいいように思うんですけどね。

そうしてこその南北朝合一なんじゃないかと。




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by sakanoueno-kumo | 2018-02-15 22:40 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その200 「光厳天皇髪塔」 京都市右京区

光厳天皇(北朝初代天皇)の御陵前稿で紹介した常照皇寺にあり、「その196」で紹介した天野山金剛寺に遺髪を葬った分骨陵がありますが、「その158」で紹介した嵐山の天龍寺の東側正門前にある金剛院の境内にも、光厳天皇の髪塔があります。


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金剛院の境内といっても、嵐山の観光のメインストリート沿いにあるため、お寺の境内といった雰囲気ではありません。


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なぜ、この地に光厳天皇の遺髪が葬られたのかは、調べてみたのですが、わかりませんでした。

金剛院と天野山金剛寺が、何かつながりがあるのでしょうか?

あるいは、天龍寺を建立した足利幕府が、その境外塔頭である金剛院に持ってきたのかもしれません。

ただ、天龍寺が後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の菩提を弔うために足利尊氏によって創建された寺院であることを思えば、その真向かいに光厳天皇の遺髪を葬るというのは、どういう意図だったのでしょうね。

当人たちは、それを望んだかどうか・・・。


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「髪塔」とされていますが、現在、塔は存在せず、「髪塚」といった方が正しいかもしれません。

おそらく、かつては宝篋印塔があったのでしょう。


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前稿でも紹介したとおり、後醍醐天皇に勝るとも劣らない波乱万丈な人生を送った光厳天皇ですが、現在の天皇家の歴史は南朝が正統とされているため、歴代天皇には数えられません。

しかし、現在の皇室は北朝の血筋であり、そういうこともあってか、一応は宮内庁によって管理されています。

まあ、いわば、備考欄のような扱いですけどね。


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でも、戦前は、北朝5代天皇の存在すら学校で教えなかったといいますから、戦前教育を受けた世代の人たちには、知られていなかった天皇といえます。

戦前は逆賊あつかいだった足利尊氏が擁立した天皇ですからね。

いまでも、南北朝時代って、それほど時間を割いて教えませんよね。

そのせいもあってか、この日も、観光客でいっぱいの嵐山のメインストリート沿いにありながら、この塚の前で足を止めていたのは、わたしだけでした。




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by sakanoueno-kumo | 2018-02-14 22:30 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その199 「常照皇寺(山国御陵)」 京都市右京区

京都北郊の山中にある、常照皇寺を訪れました。

ここは、出家した光厳天皇(北朝初代天皇)が晩年に開山して隠棲した寺院で、光厳天皇陵(山国御陵)があります。


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参道入口です。

ここは紅葉の名所として知られていますが、人里離れた山奥ということもあり、それほど人は多くない穴場スポットです。

わたしがここを訪れたのは平成29年(2017年)11月11日。

もちろん、紅葉狙いです。


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真っ赤です。


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山門です。

長い石段は、まだ楓のレッドカーペットはできていません。

あと1週間ほど経ってからのほうがよかったかも。


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石段を上りきったところにある勅額門です。


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勅額門をくぐると、目の前に紅葉が広がります。

太陽が照っていればもっと鮮やかに見えたでしょうが、少し残念。


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正面に見えるのは勅使門

現在は閉ざされていて使われていません。


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光厳天皇は、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の失脚により、鎌倉幕府によって擁立されますが、その後、配流先の隠岐島を脱出した後醍醐天皇が討幕の兵を挙げると、討幕方に与した足利尊氏の軍勢によって京都の六波羅探題が攻め滅ぼされ、光厳天皇は後伏見上皇(第93代天皇)・花園上皇(第95代天皇)らとともに北条仲時に連れられ、東国に逃れるべく京を落ちます。

しかし、ほどなく近江番場宿で捕らえられ、在位僅か1年8ヶ月で廃位されます。


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その後、復権した後醍醐天皇によって、「朕の皇太子の地位を退き、皇位には就かなかったが、特に上皇の待遇を与える」として、光厳天皇の即位そのものを否定されます。

ところが、後醍醐天皇の建武の新政はわずか2年で崩壊

再び後醍醐天皇が京を追われて吉野朝を起こすと、光厳上皇は足利幕府の庇護の下、北朝院政を行いました。


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しかし、その後、南朝軍が一時京を奪還したことにより、弟の光明天皇(北朝第2代天皇)、子の崇光天皇(北朝第3代天皇)と共に捕えられ、南朝の本拠地だった大和賀名生幽囚されました。

その幽囚先で光厳天皇は失意のうちに出家し、諸国を行脚したのち、この山奥の寺を隠棲の場と定め、正平19年(1364年)7月7日、この地で崩御しました。


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中庭入口の紅葉もきれい。


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中庭の中央には、天然記念物に指定されている枝垂れ桜「九重櫻」があります。

光厳天皇の弟、光明天皇が手植えした桜と伝わるそうですが、だとすれば、樹齢650年に及びます。

これは、桜の季節にもう一度来る価値がありそう。


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庫裏入口です。


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方丈内です。


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玉座?

・・・じゃないでしょうね。


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方丈の縁側から見る庭園です。

みごとな紅葉です。


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しばし堪能。


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方丈の奥に続く怡雲庵(開山堂)に向かいます。


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怡雲庵(開山堂)のなかです。

明るく開放的な印象の方丈とは対照的に、薄暗く厳粛な雰囲気が漂う異空間といった感じです。


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外陣両脇のギャラリーには十六羅漢像が並んで見下ろしています。

その下には、昭和天皇をはじめとする歴代天皇の位牌が整然と安置されています。


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圧巻ですね。


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内陣です。

奥に、何やら僧侶のような人影が。


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どうやら、光厳天皇の木像のようです。

一瞬、即身仏かと思ってしまいました。

傍らにいるのは、側近の順覚の像だそうです。

順覚は、光厳天皇が諸国行脚の旅に出たとき、ただひとりお供した僧です。


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波乱に満ちた生涯を送られた光厳天皇ですが、木造のお顔はたいへん穏やかに見えます。


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それにしても、国の重要文化財でありながら撮影禁止じゃないのがありがたい。


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建物を出て、光厳天皇の御陵に向かいます。


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ここが、光厳天皇が眠る山国御陵です。

後花園天皇(第102代天皇)もここに眠ります。


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多くの歴代天皇が洛中にほど近い場所に眠るなか、人里離れた山奥を終焉の地に選んだ光厳天皇。

おそらく、俗世とは距離を置きたかったのでしょうね。

同じく山奥に眠りながら、最後まで京に帰ることを望んだ後醍醐天皇とは、対照的です。


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ただ、この山国御陵は、宮内庁のHPで紹介されている歴代天皇陵には記載されていません。

というのも、現在の天皇家の歴史は、南朝が正統とされているからです。

明治44年(1911年)に起きた南朝、北朝どちらが正統かという議論「南北朝正閏問題」で、「南朝正統論」を広めることこそ日本国民の道徳教育であると一部の歴史家が唱えたことにより、大逆事件などの政治問題と絡んで国会で追及された桂太郎内閣が、明治天皇(第122代天皇)の裁可を得て南朝を正統と決定しました。

これにより、北朝5代天皇は歴代天皇からは除外されてしまいます。

その後、「南朝正統論」は国策として進められ、教科書では「南北朝時代」「吉野朝時代」と改められ、政府を挙げて南朝の正統性を国民に浸透させようとしました。


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ちなみに、現在の皇室は北朝の血筋です。

もはや南朝正統論が政治的意味を持たなくなった今日、北朝5代天皇を歴代天皇に復帰させてもいいように思うんですけどね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-02-11 00:49 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その198 「後村上天皇陵(観心寺)」 大阪府河内長野市

「その102」で紹介した楠木正成首塚がある観心寺に、後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)の陵があります。


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観心寺の山門をくぐってすぐ右手に池があり、その向こうに、「後村上天皇御奮跡」と刻まれた大きな石碑が立っています。

観心寺は、正平14年/延文4年(1359年)から約10年間、南朝の行在所となりました。


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後村上天皇陵は別名、檜尾陵といいます。

公式形式は円丘

この長い階段を上ったところにあります。


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後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の第7皇子として生まれた後村上天皇は、建武の親政が始まると、東国武士の帰属を目的に北畠親房等と共に東国へ出兵しました。

その後、足利尊氏が離反すると討伐のために京へ戻りますが、その後も戦が続き、幼い身で奥州、美濃等各地の戦場に身を置きます。

延元4年/暦応2年(1339年)3月、11歳で吉野朝の父帝の元に戻ると、間もなく皇太子となり、同年8月に父帝の譲位を受けて天皇に即位します。


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天皇となってからは積極的に畿内の寺社や武士に対し綸旨を発し、南朝方への帰属を促しました。

一時、北朝方に攻められて紀伊賀名生行宮を移しましたが、足利幕府内の内紛・「観応の擾乱」の隙をついて北朝の崇光天皇(北朝第3代天皇)を廃位させ、一時的に南北朝の統一に成功します。(正平一統)

そして、京都を奪還すべく河内国・摂津国経由で山城国の男山八幡に入り、七条大宮の戦にて足利方を破り京都を奪還しますが、勢力を盛替えした足利方の反撃に破れ、賀名生に戻ったあと河内金剛寺を行宮とし、のちにここ観心寺に移ります。


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この後も、楠木正儀らが再度京を奪還しますが、すぐに義詮軍の反撃に遭って撤退。

住吉行宮に戻った後村上天皇は、北朝方との和睦交渉を行いますが、あくまで強硬姿勢だったため交渉は決裂しました。

このころ天皇は病を得ており、和睦交渉の翌年、住吉行宮にて崩御されます。

在位30年、宝算41歳


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後村上天皇は嘉暦3年(1328年)に生まれ、正平23年/応安元年(1368年)3月11日に崩御されたといいますから、ほぼ『太平記』の物語の年月と重なります。

『太平記』は父・後醍醐天皇の挙兵によって幕を開けますが、『太平記』を生きた天皇は、後村上天皇だったといえるかもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2018-02-10 01:42 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その197 「栄山寺行宮跡」 奈良県五條市

奈良県五條市にある栄山寺を訪れました。

ここも、かつて南朝の行在所が置かれていたと伝えられおり、「栄山寺行宮跡」として国の史跡に指定されていいます。


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現在、本堂前には、「史跡榮山寺行宮阯」と刻まれた石碑があります。

昭和13年(1938年)に建てられた碑のようです。

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栄山寺は、藤原南家の創始者・藤原武智麻呂が養老3年(719年)、父母を弔うために創建したと伝わる古刹です。

その後、武智麻呂を祖とする藤原南家の菩提寺として、鎌倉時代になるまで大いに栄えたそうです。


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写真は天文22年(1553年)の再建と伝わる本堂です。


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本堂には重要文化財の木造薬師如来坐像が安置されています。


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本堂前には弘安7年(1284年)との銘が打たれた石灯籠が据えられています。

こちらも重要文化財。


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こちらは大日如来像を安置する塔ノ堂(大日堂)


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塔ノ堂の前には、奈良時代のものと伝わる石造七重塔(石塔婆)があります。

こちらも重要文化財。


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こちらは、国宝の梵鐘を吊るす鐘楼です。

なかの梵鐘が国宝なのに、鐘楼が鉄筋コンクリート造なのが残念。


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こちらがその国宝の梵鐘です。

銘文から延喜17年(917年)の製作とわかるそうで、京都の神護寺、宇治の平等院の鐘と共に「平安三絶の鐘」として知られています。

四面に菅原道真撰で、小野道風の書と伝えられる陽鋳の銘文が施されています。

高さ157.4cm、口径89cm。


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そして、榮山寺境内の最も東側にある八角堂

国宝です。

天平宝字年間(757~765年まで)の建立と推定され、この時代の円堂としては、法隆寺の夢殿に並ぶものだそうです。


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八角堂は、藤原武智麻呂の菩提を弔うために、その子・藤原仲麻呂が建立したと伝えられるそうです。

平城京および斑鳩以外の地区にある奈良時代建築としては稀有のものであり、建立年次がほぼ特定できる点でも貴重な建築物だそうです。

榮山寺の堂宇は戦国時代にほとんど焼失してしまいましたが、この八角堂だけは焼け残ったのだとか。


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で、本題の南朝の行在所についてですが、吉野行宮賀名生行宮男山八幡行宮金剛寺行宮観心寺行宮住吉行宮については、それぞれ、いつの年代に行在所となっていたかが克明に記録として残されているのですが、ここ栄山寺行宮については、いろいろ調べてみたのですが、「南北朝時代に南朝の行在所がおかれていた」と記されているだけで、時代背景がわかりませんでした。

実は、わたしも栄山寺行宮のことを最近まで知らず、当ブログで『太平記を歩く』シリーズを読んでくれた方が、ここの存在を教えてくれて、さっそく足を運んだ次第です。

Wikipediaによると、長慶天皇(第98代天皇・南朝第3代天皇)と後亀山天皇(第99代天皇・南朝第4代天皇)の皇居には栄山寺行宮が載っていますが、後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)のページには記載されていませんでした。

あるいは、長慶天皇以降の行在所だったのかもしれません。


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ここを訪れたのは、年末の12月23日でしたが、気候は暖かく、のどかな雰囲気を堪能して帰りました。




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by sakanoueno-kumo | 2018-02-09 01:36 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その196 「天野山金剛寺(北朝御座所・光厳天皇分骨陵)」 大阪府河内長野市

前稿では天野山金剛寺と南朝のゆかりを紹介しましたが、同じくここ天野山金剛寺は北朝ゆかりの地でもあります。


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正平7年/文和元年(1352年)2月、足利幕府内の内紛によって勢力を盛り返した南朝軍は、北朝の光厳上皇(北朝初代天皇)、光明上皇(北朝第2代天皇)、崇光上皇(北朝第3代天皇)、直仁親王を拉致し、当時南朝方の拠点だった賀名生に移しました。

その2年後の正平9年/文和3年(1354年)3月、北朝三上皇の身柄はここ金剛寺に移され、南朝方の軟禁下に置かれます。


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北朝三上皇の御座所は、本坊内の奥殿にあります。


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奥殿に向かう回廊から眺める庭園


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この庭園は室町時代につくられ、桃山時代に蜂須賀政が手直しし、江戸時代には庭師雪舟流の家元・谷千柳によって改装された名勝です。


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写真では部分的な絵になるので伝わりにくいですが、見事な庭園です。


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向こうに見えるのが、北朝御座所のある奥殿です。


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奥殿に向かう回廊の横には、「北朝光厳天皇行在所」と刻まれた石碑が見えます。

行在所というより幽閉所なんですけどね。


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奥殿内の玉座の間に向かう長い廊下です。


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その廊下から見た玉座の間です。

金箔の菊の紋章のふすまが厳かです。


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一番奥に玉座が見えます。


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三上皇同時に幽閉されていたのですが、玉座はひとつです。

まあ、天皇、上皇はいつも御簾の向こうの玉座に座っているわけではありませんが。


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また、天野山金剛寺の敷地内には、光厳上皇の御陵があります。


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光厳天皇陵は京都の常照皇寺内にある山國陵に治定されていますが、当時、光厳上皇は金剛寺学頭の禅恵僧正について出家しており、その縁で、常照皇寺で崩御されたのち、遺髪を金剛寺に送ってきたそうです。


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立札には、「分骨所」とありますね。

遺髪でも「分骨」というのでしょうか?


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北朝三上皇と皇太子がここに幽閉されていたのは約4年間

ちょうど時を同じくして、南朝の後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)も境内・魔尼院食堂を行宮所としていました。

奇しくも南北朝が同座していたんですね。

顔を合わすなんてこともあったかもしれません。

のちの南北朝合一までは、なお40年の年月を要するのですが、一瞬だけ、ここ河内国の寺院内で南北朝の融合の歴史があったわけです。




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by sakanoueno-kumo | 2018-02-07 23:12 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その195 「天野山金剛寺(南朝行在所)」 大阪府河内長野市

大阪府河内長野市にある天野山金剛寺を訪れました。

ここは、かつて南朝行宮所となった歴史をもつお寺です。


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天野山金剛寺は、奈良時代、天平年間(729~749年)に聖武天皇(第45代天皇)の命により、当時の高僧・行基によって開かれたといわれています。

また、平安時代には弘法大師(空海)が修行した聖地ともいわれています。


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正平7年/文和元年(1352年)に起きた「正平の役(八幡の戦い)」に敗れた後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)は、「その 」で紹介した賀名生の行宮に帰還したあと、正平9年/文和3年(1354年)10月に河内天野に移り、ここ金剛寺を行宮と定めます。

その後、正平14年/延文4年(1359年)12月に観心寺に移るまでの5年余りをこの地で過ごしました。


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わたしがここを訪れたのは平成29年(2017年)6月10日、このとき、金剛寺は各所が修復工事中でした。

上の写真は鎌倉時代築で国指定の重要文化財楼門ですが、工事中でネット養生されていました。

残念。


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境内側から見た楼門です。


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楼門を潜ってすぐ右手(北側)にある食堂です。

こちらも国指定の重要文化財。

後村上天皇はここで政務を執られたそうです。


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食堂は別名「天野殿」とも呼ばれるそうです。

石碑には「南朝六年間常御殿」と刻まれています。


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平安時代の治承2年(1178年)の創建と伝わる金堂

こちらも国指定の重要文化財。

慶長年間の大修理で改築されており、金堂内陣に安置されている本尊の木造大日如来坐像、脇士の木造降三世明王坐像木造不動明王坐像は、いずれも運慶の作と伝えられ、国指定の重要文化財。

ここも修復工事中でした。


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平安時代の創建と伝わる多宝塔

こちらも国指定の重要文化財です。

慶長10年(1605年)に豊臣秀頼の命により、大規模な修理が行われています。


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こちらは五佛堂


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五佛堂と回廊でつながる観月亭


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観月亭は後村上天皇の行在所時代に付け加えるように建てられたそうで、ここで天皇がお月見をしたため、観月亭と呼ばれるようになったそうです。


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その隣の御影堂

五佛堂、観月亭、御影堂、いずれも重要文化財です。


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そして、その北側にある魔尼院が後村上天皇の行在所となったところなんですが、この日は魔尼院も修復工事中で、まったく近寄ることすら出来ませんでした。

非常に残念。

魔尼院は後村上天皇が5年余りに渡って行在所としたのち、長慶天皇(第98代天皇・南朝第3代天皇)、後亀山天皇(第99代天皇・南朝第4代天皇)の3代20余年にわたり、行在所となりました。

下の写真は「後村上天皇御手植桜」だそうですが、たぶん、当時のものではなく、何代目かなんでしょうね。


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さて、天野山金剛寺は南朝行在所という歴史を持つとともに、北朝ゆかりの地でもあります。

というわけで次稿も金剛寺を続けます




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by sakanoueno-kumo | 2018-02-06 23:41 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その194 「楠木正儀の墓」 大阪府南河内郡千早赤阪村

「その15」で紹介した千早城跡から「その16」「その17」で紹介した金剛山に登る登山道に、楠木正儀の墓と伝わる五輪塔があります。


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楠木正成の三男・楠木正儀は、正平3年/貞和4年(1348年)1月5日の「四條畷の戦い」で兄の楠木正行・正時が討死すると、楠木家の家督を継いで南朝方の先鋒武将として各地で戦い続けます。


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足利幕府内の内紛・「観応の擾乱」に乗じて正平7年/文和元年(1352年)には、一時、京を奪還するも、北朝の盛り返しによってわずか1ヶ月あまりで京を追われます。

正平9年/文和3年(1354年)には、足利直冬と呼応して2度、京を占領しますが、足利義詮の反撃により再び撤退することになります。


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その後、南朝の不利を悟って南北朝合体を試みますが、南朝内の長慶天皇(第98代天皇・南朝第3代天皇)をはじめとした強硬派に遠ざけられ、正平24年/応安2年(1369年)に管領・細川頼之のとりなしによって北朝へ降伏します。

ところが、北朝内で次第に孤立を深めていった正儀は、弘和2年/永徳2年(1382年)に再び南朝へ帰参し、参議に任じられました。

その後も河内・和泉の拠点を中心に北朝と戦いを続け、元中6年/康応元年(1389年)もしくは元中8年/明徳2年(1391年)に死去したとされています。

実に、父・正成が死んでから半世紀以上、兄・正行、正時が死んでから40年以上も戦い続けていたんですね。


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『太平記』では、正儀の性格を「父・正成や兄・正行と違い、少し間が抜けたところがある。」と評しているそうですが、これは少し気の毒な気がしますね。

父も兄も、死後、美化され、信仰の対象となって崇め奉られる存在となっていますが、実は、南朝忠臣としていちばん長く戦ったのは、この正儀でした。

そう思えば、父も兄も、たいそう立派な墓所が複数あるのに対し、正儀の墓はあまりにも寂しい気がします。


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正儀の生年については明確な史料が存在しませんが、享年62との説があります。

とすれば、父・正成が死んだときは数えで5歳くらい。

きっと、顔すら覚えていない父の意志を引き継ぎ、戦い続けた人生だったのではないでしょうか。




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by sakanoueno-kumo | 2018-02-03 00:34 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その193 「楠木正儀卿駒繋樟(香具波志神社)」 大阪市淀川区

大阪市淀川区にある香具波志神社に、楠木正成の三男・楠木正儀が愛馬を繋いだ楠の切株があると知り、訪れました。


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社伝によれば、天徳3年(959年)秋、稲荷大神である食稲魂神(うかのみたまのかみ)・

保食神(うけもちのかみ)を祀ったことに始まるそうです。


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「香具波志(かぐはし)」の社名は、孝徳天皇(第36代天皇)が有馬温泉へ行幸の途中、当地を通った際、「かこはしや此花いもみせぬかもやこの花」と詠まれた御製に由来しているそうです。


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拝殿です。


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境内の北側の隅に、小さな鳥居が見えます。

どうやら、ここが伝説の「楠木正儀卿駒繋樟」のようです。


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その伝承によると、楠木正儀が神崎川で北朝方の佐々木秀詮との戦いに向かう途中、ここ香具波志神社の前身・加島神社の楠に愛馬を繋いで参拝し、必勝を祈願したというのですが、ネット情報などでは、それを正平6年(1351年)としており、香具波志神社のwikipediaでも、そう記されています(参照)。


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でも、おそらくそれは間違いで、正儀と秀詮が戦ったのは、正平16年/康安元年(1361年)か正平17年/康安2年(1362年)のことで、約10年違っています

『太平記』巻36「秀詮兄弟討死事」に、そのことが記されています。


和田・楠是を聞て、能き時分也と思ければ、五百余騎を卒して、渡辺の橋を打渡り、天神の森に陣を取る。佐渡判官入道々誉が嫡孫、近江判官秀詮・舎弟次郎左衛門、兼て在国したりければ、千余騎にて馳向ひ、神崎の橋を阻て防戦んと議しけるを・・・


上記、「渡辺の橋」とは、現在の天満橋あたりで、「天神の森」とは、おそらく西成区天神ノ森あたり。

「神埼の橋」とは、おそらく尼崎市神埼かと思われます。


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「楠木正儀卿駒繋樟」は、推定樹齢800年で、樹高27m、幹周り7mと、大阪市内ナンバーワンの巨木だったそうで、昭和13年(1938年)には天然記念物に指定されましたが、残念ながら昭和42年(1967年)に枯死してしまい、その後、樹先や枝を払ってしばらくはその姿を留めていたそうですが、それでも危ないということで、昭和51年(1976年)に今のかたちになったそうです。


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現在は、切株の上にを置き、岩木神社として祀られています。




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by sakanoueno-kumo | 2018-02-02 00:07 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)