カテゴリ:太平記を歩く( 130 )

 

太平記を歩く。 その120 「新田義貞墓所(称念寺)」 福井県坂井市

前稿で紹介した燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地から8kmほど北上した坂井市にある称念寺に、新田義貞の墓があります。


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山門の横には、「新田義貞公墓所」と刻まれた大きな石碑が。


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広い境内です。


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境内には、かつて「近衛中将新田義貞公贈位碑」と刻まれていた大きな石碑があるのですが、上の方の「近衛」の部分が欠けてしまっています。


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これは、昭和23年(1948年)に発生した福井地震の際に折れてしまった跡だそうで、その後も修理されることなくそのままになっているそうです。


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石碑の建つ場所から左(北)に目を向けると、境内の一画に森のような場所があり、そこに廟所と思われる唐門が見えます。


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ここが、新田義貞の墓所。

まるで天皇陵のような厳かさです。


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廟所のなかにある墓です。


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燈明寺畷で自刃した義貞の首は、すぐさま小黒丸城の斯波高経のもとに届けられますが、討ち取った敵兵は、その首が誰のものであるのがわからなかったといいます。

ところが、高経が首実検をしたところ、所持していた刀などから義貞の首と判明し、すぐさま時宗の僧8人を戦地に派遣して首なしの遺骸を収容し、ここ称念寺に運ばれて葬儀が行われたそうです。


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その後、義貞の首は朱の唐櫃に納められ、京の足利尊氏のもとに送られます。

そして都大路を引き回されたのち、陽明門近くに晒されたそうです。

ということは、つまり、ここ称念寺の墓は首なしの胴塚ってことですね。


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時代は下って江戸時代になると、徳川将軍家の先祖は新田義貞ということで、称念寺を大切に保護しました。

元文2年(1737年)には義貞の400回忌を行い、幕府は白銀100枚を寄進したと『徳川実記』に記されているそうです。

現在の墓石は、天保8年(1837年)の義貞500回忌の際に、福井藩主・松平宗矩が建立した高さ五輪石塔で、高さ約2.6mあります。


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墓石の裏手にある顕彰碑(?)です。

古くてところどころしか読解できませんが、最後に「天保十年」という文字が確認できます。

五輪石塔が建てられた2年後ですね。


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墓所とは別に、境内には義貞を慰霊する宝篋印塔もあります。


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詳しくはわかりませんが、「昭和十年七月」と刻まれており、おそらく昭和10年(1935年)に日本全国で行われた建武の中興600年祭に際して建てられた供養塔でしょう。


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あと、ここ称念寺は若き日の明智光秀ゆかりの地としても知られ、その伝承にまつわる松尾芭蕉の歌碑があるのですが、『太平記』とは関係ないので、また別の機会に。


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義貞の死は、南朝方にとっては決定的な打撃となり、その死後、義貞の息子らも戦乱に斃れ、時世は徐々に南朝方の劣勢へと傾いていくことになります。



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by sakanoueno-kumo | 2017-09-09 23:12 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その119 「燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地」 福井県福井市

福井市にある新田義貞戦没地と伝わる地を訪れました。

このあたりはかつて燈明寺畷といい、「燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地」として大正13年(1924年)に国の史跡に指定されています。


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敷地は公園整備されていて誰でも入れますが、一応、入口には門扉があり、厳かな雰囲気が漂います。


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門扉には、新田氏家紋の「一つ引」が。


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前稿、前々稿でもふれましたが、延元3年/建武5年(1338年)7月2日、足利方の大将・斯波高経が籠っていた小黒丸城を包囲していた新田義貞は、別動隊が攻めていた藤島城がいつまでも落城しないため、わずか50騎を従えて偵察に向かいます。


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ところが、同じく藤島城に加勢するため小黒丸城からも高経の重臣・細川出羽上鹿草彦太率いる300騎が出動しており、義貞率いる50騎とこの地で遭遇します。

事態はたちまち遭遇戦となりますが、、斯波方は援軍目的の出撃だったため弓矢の備えも十分であったのに対し、義貞方は偵察目的だったため武具の備えも不十分で、加えて兵力差も歴然としており、義貞方の兵は次々に敵の矢に倒れます。

やがて義貞も流れ矢眉間に刺さり、あっけなく討死します。


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『太平記』巻20「義貞自害事」は、このときの様子をこう伝えます。


「白羽の矢一筋、真向のはづれ、眉間の真中にぞ立たりける。急所の痛手なれば、一矢に目くれ心迷ひければ、義貞今は叶はじとや思けん、抜たる太刀を左の手に取渡し、自ら頚をかき切て、深泥の中に蔵して、其上に横てぞ伏給ひける。」


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致命傷を負った義貞は観念し、自らを太刀で掻き切り、その首を深い泥の中に隠してその上に倒れたというのですが、眉間に矢が刺さったら、ほぼ即死だと思いますし、自分の首を自分で掻き切って隠すなんて、あり得ないというか・・・。


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また、『太平記』によると、敵兵に遭遇した際、義貞の家臣・中野藤内左衛門宗昌が、「千の弩は為廿日鼠不発機(千鈞もある石弓は、ハツカネズミ(けい鼠)を捕るために使用しない)」と言って義貞に落ち延びるよう誓願したといいます。

つまり、「総大将はこの程度の戦いに参戦してはいけない」という意味ですね。

しかし義貞は、「失士独免るゝは非我意。(部下を見殺しにして自分一人生き残るのは不本意)」と言って宗昌の願いを聞き入れなかったといいます。

一見、義貞の行動は義に篤い武士道ともとれますが、『太平記』は、義貞の行動は軽率で、「身を慎んで行動すべきであったのに自ら取るに足らない戦場に赴いて、名もない兵士の矢で命を落とした」と、その死を「犬死」と評しています。

かなりの酷評ですね。


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時代は下って明暦2年(1656年)、この地を耕作していた百姓の嘉兵衛が偶然にを掘り出し、芋桶に使っていたところ、福井藩の軍学者・井原番右衛門がこれを目にし、象嵌「元応元年八月相模国」の銘文から新田義貞着用のものと鑑定。

その4年後には「暦応元年閏七月二日 新田義貞戦死此所」と刻んだ石碑を建て、以後、この地は「新田塚」と呼ばれるようになりました。

現在のこのあたりの住所も、福井県福井市新田塚町といいます。


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ただ、その出土した冑は、現在の研究では戦国時代のものと鑑定されているそうです。

現在は新田一族を祀る藤島神社が所蔵しています。


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大将を失った新田軍3万は一夜にして雲散霧消し、残った兵は僅か2000

弟の脇屋義助は府中(武生)へと兵を退かざるを得ませんでした。

この顛末をみると、やはり義貞の行動は軽率だったかもしれません。



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by sakanoueno-kumo | 2017-09-08 00:48 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その118 「藤島城跡(超勝寺)」 福井県福井市

前稿で紹介した小黒丸城跡から7kmほど東にある藤島城跡を訪れました。

現在は超勝寺という寺院が立ちます。


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ここも、越前国守護の斯波高経が築いたといわれる足羽7城のひとつと伝わります。


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山門の横には「藤島城址」と刻まれた石碑と、説明板が設置されています。


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『太平記』巻20にある「足羽七城の戦い」の中心となったのが、小黒丸城とここ藤島城でした。

小黒丸城には足利方の大将・斯波高経が籠って全軍の指揮を執り、ここ藤島城には、一度は新田軍に味方しながら足利方に寝返った平泉寺衆徒籠っていました。

新田義貞は軍勢を分けて足羽7城を攻めますが、7城の巧妙な連携体制の前に攻めあぐね、戦いは長期化します。


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新田軍の出陣から3ヵ月が過ぎた延元3年/建武5年(1338年)7月2日、小黒丸城を包囲していた義貞は、別動隊が攻めていたここ藤島城がいつまでも落城しないため、わずか50騎を従えて偵察に向かいます。

ところが、その道中、同じく藤島城に加勢するために出動した足利方の軍勢300騎と出くわし、行き当り遭遇戦の末、討死します。


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超勝寺境内には、藤島城の遺構の一部と云われる土塁跡が僅かに残っています。




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by sakanoueno-kumo | 2017-09-07 13:12 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その117 「小黒丸城跡」 福井県福井市

日野川の戦いに勝利した新田義貞軍は、越前国府を占領します。

『太平記』では、この報が越前国中に伝わると、足利方の73の出城が降伏を申し出たと伝えます。

気運に乗った義貞は、越前国を完全掌握するため北上。

足利方で越前国守護の斯波高経の籠る小黒丸城を包囲します。


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現在、小黒丸城は住宅地田園のなかに石碑が立つのみで、遺構などは残っていません。


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小黒丸城は黒丸城ともいい、足利方の足羽7城のなかの本城とされています。

足羽7城は諸説ありますが、勝虎城、藤島城、波羅蜜城、安居城、江守城、北庄城、そしてここ小黒丸城のことをいいます。


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『太平記』巻20によると、延元3年/建武5年(1338年)5月2日、新田義貞は自ら6千余の兵を率いて府中に出陣し、足羽7城への攻撃を開始しました。

しかし、小黒丸城は容易には落ちません。


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高経の築いた足羽7城は実に巧妙な連携体制が整えられていたといわれ、ひとつの城を攻撃すると、他の城から出撃した兵が背後を襲う陣形になっており、戦いは一進一退を繰り返しながら長期化します。


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そして3ヵ月が過ぎた閏7月2日、ここ小黒丸城を包囲していた義貞は、別動隊が攻めていた藤島城がいつまでも落城しないため、わずか50騎を従えて偵察に向かいます。

その道中、足利方の軍勢に出くわし、討死するんですね。


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小黒丸城跡と夕日です。


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義貞の死の翌年、弟の脇屋義助が再び挙兵して小黒丸城を攻めると、斯波高経は黒丸城を捨てて加賀へ逃れたといい、その後、小黒丸城は廃城となります。



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by sakanoueno-kumo | 2017-09-06 13:18 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その116 「新善光寺城跡(正覚寺)」 福井県越前市

「その114」で紹介した杣山城跡から6kmほど北上した場所にある新善光寺城跡を訪れました。

ここは現在、正覚寺という寺院になっています。


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山門の手前にある「正覚寺」の寺号碑には、「新善光寺城跡」という文字も刻まれています。


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山門には、「旧府中城表門」という立札があります。

府中城とは、戦国時代に前田利家が築いた城で、新善光寺城とは別のものです。


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山門の横には「新善光寺城址」の石碑が。


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新善光寺城の築城主は越前国守護の斯波高経です。

つまり、足利方の拠点だったわけですね。

延元元年/建武3年(1336年)には杣山城主の瓜生保の軍勢によって一度落とされていますが、すぐに足利方が奪回しています。


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金ヶ崎城の落城後に杣山城に逃れていた新田義貞は、その後、四散していた軍を糾合して勢力を盛り返し、延元3年/建武5年(1338年)2月、再び打って出て足利方の斯波高経軍と日野川で激戦を交えます。


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この戦で府中(武生)の町は焦土と化し、高経は敗走して新善光寺城は義貞の手に落ちました。


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現在、境内の北側にある総社大神宮との境界に、わずかに土塁跡が残されています。


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その説明版です。


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新田方の手に渡った新善光寺城には、その後、義貞の弟・脇屋義助が入りますが、やがて義貞が戦死すると、義助は美濃へと敗走します。


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その後、正平21年/貞治5年(1366年)には廃城となり、良如上人によって正覚寺が建立され、現在に至ります。



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by sakanoueno-kumo | 2017-09-03 09:00 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その115 「瓜生保戦死の地・墓所」 福井県敦賀市

前稿で紹介した杣山城の城主・瓜生保戦死したと伝わる地を訪れました。

ここは、杣山城跡から20kmほど南下した場所で、すぐ近くに「その110」で紹介した金ヶ崎城跡があります。


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戦死の地と伝わる場所には、贈正四位瓜生判官保公戦死之地」と刻まれた石碑と説明板が。


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瓜生保が戦死したのは延元2年/建武4年(1337年)正月12日、金ヶ崎城に籠る新田義貞軍を援護すべく5千の兵を率いて杣山城を出た瓜生保は、あともう少しで金ヶ崎城にたどり着くという樫曲地区で、足利方の今川頼貞2万と対峙することとなり、激戦のすえ弟の義鑑と共に討死したと伝わります。


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その説明板です。


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横にはお決まりの忠魂碑が。


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戦死の地の裏山には、瓜生保のがあると知り、登ってみることに。


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山道を登ることに約10分。

墓碑らしき石柱が見えます。


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山道の少しだけ開けた場所に墓碑が一基だけあり、「瓜生判官保之墓」と刻まれています。


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延元元年/建武3年(1336年)10月、金ヶ崎城に入った新田義貞から援軍要請を受けた瓜生保は、一旦はこれに応じますが、その直後に義貞討伐命令の綸旨が保のもとに届くと、身を転じて足利方に味方し、斯波高経、高師泰の軍勢に所属して金ケ崎城を攻めます。

しかし、保の弟達はこれに賛同せず、瓜生一族は分裂の様相を呈します。

ところが11月になって、その綸旨は足利尊氏が送った偽物だと発覚。

すると保は、またまた身を転じ、新田軍に与することを決めます。

このあたり、優柔不断な人物のようにも思えますが、都から遠く離れた田舎武将ですから、中央での政情など疎かったでしょうし、綸旨が届くなんてことなど経験がなかったでしょうから、右往左往するのは無理もなかったでしょうね。


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以後は新田軍に味方してたびたび足利方の軍勢を蹴散らしますが、冒頭で述べたとおり、年が明けた延元2年/建武4年(1337年)正月12日、この地で落命します。


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この墓は明治44年(1911年)に瓜生家の末裔の方が建てたものだそうです。

新田義貞の北陸落ちに巻き込まれなければ命を落とすことはなかったでしょうが、歴史の名を残すこともなかったでしょう。

瓜生保にとっては、どっちが本望だったのでしょうね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-09-01 22:39 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その114 「杣山城跡」 福井県南条郡南越前町

「その110」で紹介した金ヶ崎城跡から直線距離にして20kmほど北西にある杣山城跡を訪れました。

ここは、金ヶ崎城の戦い新田義貞軍に加担した瓜生氏の居城でした。


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杣山城は標高492m比高402mの山頂にあり、登山道は険峻ガッツリ登山系の城跡です。


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この日は早朝に神戸を出て、車で2時間半かけて敦賀市に入り、午前中に金ヶ崎城跡をめぐり、午後から約30分かけてここに来ました。

結構つかれていたのでどうしようか迷ったのですが、せっかく来たので登ることに。


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登山コースはいくつかありましたが、この日は、いちばんポピュラーだという第2登山口から居館跡のあいだを通って登るコースを選びました。


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麓の谷間の居館跡です。

幅約100m奥行き約300mの広大な面積です。


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谷の開口部には「一ノ城戸」と呼ばれる幅約100m、高さ3m土塁が残されています。


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居館跡を抜けると、登山道が始まります。

最初は階段がつくられていて登りやすいのですが・・・。


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しばらく登ると、なにかの石垣跡があります。

これはたぶん城跡のものじゃないでしょうね。


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西御殿跡経由のコースを選びます。


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延元元年/建武3年(1336年)10月13日、金ヶ崎城に入った新田義貞は、ここ杣山城の瓜生保とその兄弟に援軍を要請します。

これを受けた瓜生保は、いったんは義貞に味方したかと思えば、足利尊氏からの偽の綸旨に踊らされて義貞に敵対したりと右往左往するのですが、最終的には新田軍に与し、年が明けた正月11日、瓜生保は金ヶ崎城に食糧を運ぶべくここ杣山城を出兵し、その道中、戦死したと伝えられます。

その後、金ヶ崎城の落城直前に城を脱出した義貞は、ここ杣山城に入ります。


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中腹を過ぎたあたりに、ハート型をした洞窟が見えます。


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この洞窟は「姫穴」と呼ばれ、新田義貞の妻・匂当内待が、この穴に一時隠れていたという伝承があるそうです。


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それほど深くないので、隠れていてもすぐに見つかりそうですが。


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姫穴を過ぎると、登山道はいっそう険峻になります。


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標高400m附近にある「殿池」です。


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ここは、山城の唯一の水源だったようです。


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殿池のすぐ上に「西御殿跡」があります。

西御殿跡の周りの西尾根には、殿池の場所も含めて大小17の削平地があります。

そのなかには礎石が見つかった削平地もあるそうで、何らかの建物が建っていた可能性も考えられているそうです。


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西御殿跡に設置された案内板です。


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西御殿跡から本丸跡までは、緩やかな尾根道になります。

ただ、道の周りは大きな岩がゴロゴロあって、決して歩きやすくはありません。


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「袿掛岩」と呼ばれる断崖絶壁に面した岩場です。


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ここは、瓜生保が戦死したと聞いた奥方侍女たちが、この絶壁の岩に袿をかけて飛び降り、自害したという伝承がある岩だそうです。


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試しに覗き込んでみましたが、高いところが苦手なわたしは、気分が悪くなって吐きそうになりました。


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袿掛岩を過ぎると、大きな「堀切跡」が現れます。

もうすぐ本丸跡ということですね。


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そして「本丸跡」入口。


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本丸は標高492mの頂上にあり、円形状の削平地が中央にあり、その一段下にも削平地があります。


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城下の様子が一望でき、なるほど、籠城するには最高のロケーションです。


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金ヶ崎城からここ杣山城に移った新田義貞は、その後、約1年近くここを拠点とし、四散していた新田軍を糾合して足利軍に対抗しました。


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一説には、金ヶ崎城が落城するずいぶん前から義貞は金ヶ崎城と杣山城を往復して指揮を取っていたとも言われており、2月に金ヶ崎城を出て、杣山城にいる間に金ヶ崎城が落城してしまったのではないかという見方もあるようです。


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下山道は東御殿跡コースを選びます。


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本丸から東御殿跡に向かう道中にも、無数の削平地が見られました。

これらも、おそらく何らかの曲輪跡なんでしょうね。


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そして「東御殿跡」

東御殿跡は南北に長い約600㎡の削平地で、礎石建物跡が残っています。


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説明板によると、足利軍との戦いの際に麓の居館を捨てた瓜生保が立て籠もったのが、ここ東御殿だったそうです。


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枯れてしまっていますが、かなりの樹齢と思われる巨木が。

あるいは往時を知っているかもしれません。


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東御殿を過ぎた下山コースがまた過酷で、ほとんど道なき道を進む感じでした。


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下山道を覆う断崖絶壁の岩場

写真じゃこの迫力は伝わりづらいですね。


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下山して再び居館跡から城跡を見上げます。


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よく見ると、杣山が岩によって出来た山だということがわかります。


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西御殿から本丸までの尾根伝いも、こうして見るとよくわかりますね。


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で、普通ならこれで終わりなんですが、杣山城の遺構はまだあります。

居館跡から約1km西に、「二の城戸外濠跡」と書かれた説明板と、土塁と堀の跡と思しき遺構が残っています。


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南越前町のHPによると、このあたりには武家屋敷があったとされているそうです。


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二の城戸外濠跡の側には、「史蹟 杣山城趾」と刻まれた石碑と、小さながあります。


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杣山城はその後、幾多も城主を変えながら戦国時代まで存在したようですが、天正元年(1573年)、織田信長北陸攻めにより廃城となりました。

その後、天正2年(1574年)には一向一揆が杣山に拠ったとされますが、詳細は不明です。




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by sakanoueno-kumo | 2017-08-31 23:58 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その113 「下長谷の洞窟」 福井県南条郡南越前町

「その110」で紹介した金ヶ崎城跡から敦賀湾沿いに海岸線を25kmほど北上した国道305号線沿いの崖に、「下長谷の洞窟」と呼ばれる小さな洞窟があるのですが、ここは、かつて後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の皇子・恒良親王が身を隠したという伝承があります。


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延元元年/建武3年(1336年)10月13日より約半年間続いた新田義貞軍と足利方・斯波高経軍の攻防戦は、翌年の3月6日、義貞の息子・新田義顕と後醍醐天皇の皇子・尊良親王の自刃によって幕を閉じますが、尊良親王の弟でまだ13歳だった恒良親王は、金ケ崎城落城の際に気比神宮の神官が保護し、小舟に乗せてこの地に逃れ、洞窟の中にかくまったと伝えられています。


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この洞窟は、長い年月をかけて少しずつ波が岩を削りできた海食洞だそうで、入り口は広く奥は狭くなっています。


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入口の高さは約7m、間口はいちばん広い部分で約5m、奥行きは20mほどしかありません。

こんな浅い洞窟に身を隠しても、すぐに見つかりそうな気も・・・。


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洞窟の最奥部の岩壁には、矢じりで彫った「延元二年・・・・恒良云々」の文字があると言われていますが、今はほとんど判読できないと知り、しかも、奥は子どもでも身を屈めないと進めない狭さで、わたしはこのあたりまで来て引き返しました。


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ところが、帰宅してPCで洞窟のことを調べていると、文字を判読して解明されている方のブログを発見。

    ↓↓↓

下長谷洞窟の文字を解読しよう


今は判読できないなんて嘘じゃないですか!

こんなことなら、わたしももっと深く掘り下げるべきだった・・・と、後悔先に立たず。


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洞窟内部から外を眺めます。


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洞窟外に設置された説明板。


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洞窟の正面は道路を挟んですぐ海で、いまは漁港になっています。


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南西には敦賀湾と、原発のある敦賀半島が望めます。

そして西の海は広い若狭湾


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その後、恒良親王は足利方に捕らえられ、京都に護送されました。

『太平記』では、弟の成良親王らとともに花山院第幽閉され、その後、共に毒殺されたと伝えられ、その墓所も不明です。

また、同じく『太平記』によると、後醍醐天皇は恒良親王に譲位し、新田義貞らと共に北陸に向かわせたとも伝えられます。

これは『太平記』にしか見られない逸話ですが、恒良親王は金ヶ崎城から各地の武将に綸旨(天皇の命令書)を発給しており、自らを天皇と認識していたことは事実のようです。

でも、だったら、なんで年長の尊良親王に譲位せず、年若の恒良親王に譲位したんでしょうね。

結局、後醍醐天皇が吉野朝(南朝)を開いたことにより、恒良親王の皇位は無効となり、歴代天皇には数えられていません。

たぶん、北朝の天皇と同じく、偽の三種の神器を持たされていたんでしょうね。

自身の野望のためなら皇子も謀る。

さすがは後醍醐天皇です。



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by sakanoueno-kumo | 2017-08-30 21:50 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その112 「金崎宮」 福井県敦賀市

前稿前々稿で紹介した金ヶ崎城の麓には、恒良親王尊良親王を祭神とする金崎宮があります。

ここは全国にある「建武中興十五社」のなかの一社で、旧社格は官幣中社です。


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神社の歴史はそれほど古くなく、明治23年(1890年)に始まります。


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ホームページにあるその由緒によると、敦賀の人々の熱烈なる請願により創立されたとありますが、他の「建武中興十五社」がそうであるように、南朝正統論を国民に浸透させようという当時の国策が背景に見える、多分に政治的意図が含まれた神社といえるでしょう。


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境内にある由緒書きです。


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こちらが案内図。

金ヶ崎城跡と一体化した神社ということがわかります。


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鳥居の向こうに社殿が見えます。


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まず手前にあるのが、舞殿


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そしてこちらが拝殿です。


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当然のことながら、紋章はすべて菊の御紋です。


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創立した明治23年(1890年)9月当初、祭神はこの地で命を落とした尊良親王だけでしたが、2年後の明治25年(1892年)11月、弟の恒良親王も祭神に合祀されたそうです。

恒良親王は金ヶ崎城が落城した際に脱出しましたが、足利軍に捕らえられて京都に拘禁され、翌年に毒殺されたと伝わります。


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こちらは境内・拝殿横にある摂社・絹掛神社です。


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絹掛神社は、尊良親王に殉じて自刃した新田義顕以下321名を祭神とします。


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ここ金崎宮の境内も、かつては金ヶ崎城の一部だったのでしょうね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-08-29 23:46 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その111 「尊良親王御墓所見込地」 福井県敦賀市

前稿で紹介した金ヶ崎城跡の一角に、尊良親王自害したと場所が伝えられています。


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その場所は、本丸跡に登る途中の脇道に設置された階段を上った、小高い丘の上にあります。


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尊良親王は後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の皇子で、幼いころより聡明容姿も端麗だったといい、次期皇太子として期待されていたそうですが、鎌倉幕府の介入によって後二条上皇(第94代天皇)の長子・邦良親王が皇太子となります。

その後、元弘の乱では父帝とともに笠置山に赴くも、敗れて父と共に幕府軍に捕らえられ、土佐国に流されました。

そのときの逸話は、「その9」で紹介しています。


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その後、京に戻って新田義貞と共に足利軍と戦いますが、父帝の降伏に伴い義貞と共に越前国に逃れ、ここ金ヶ崎城にて半年間の攻防戦の末、義貞の息子・新田義顕や他の将兵らとともに、延元2年/建武4年(1337年)3月6日、この地で自害したと伝わります。


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石碑には「見込地」と刻まれています。

たぶん、このあたりだったんじゃないか、ということでしょうね。


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石碑の裏には、「明治九年十月」とあります。

これまで見てきた『太平記』関連の石碑のなかでは、いちばん古いかも。


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一説には、新田義顕は尊良親王に落ち延びるよう勧めたといいますが、親王は同胞たちを見捨てて逃げることはできないと述べて拒絶し、強く自刃を希望したため、義顕は応じたと言われます。

『太平記』によると、親王は義顕に「自害の方法とはどのようなものか?」と問い、義顕は涙ながらに「自害とはこの様にするものでございます。」と、親王の目の前で腹を切って倒れました。

それを見た親王も、直ちにを手にして腹を切り、義顕の上に折り重なるように倒れ、続いて付き従っていた300人も同じく親王に殉じたと記しています。

このとき、尊良親王27歳、新田義顕は18歳でした。


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この半年間の戦いの最中、後醍醐天皇は吉野に逃れ、吉野朝(南朝)を開きました。

たぶん、そのことは尊良親王も聞き及んでいたでしょう。

あるいは、父に付き従っていれば、南朝第2代天皇は尊良親王だったかもしれません。

無念だったでしょうね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-08-25 22:19 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)