カテゴリ:太平記を歩く( 73 )

 

太平記を歩く。 その53 「名和氏館跡」 鳥取県西伯郡大山町

前稿で紹介した名和神社から600mほど南東に、名和氏館跡と伝わる場所があります。

説明書きによると、ここは名和2代の屋敷跡で、「又太郎屋敷」または「デーノヤシキ(殿の屋敷)」と呼ばれているそうです。


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名和2代と書かれていましたが、誰と誰のことかは説明されていませんでした。

「又太郎屋敷」という呼称から、ひとりは名和又太郎長年だと思いますが、もうひとりは嫡男の名和義高?・・・あるいは次男の名和基長? 三男の名和高光

でも、長男の義高は父の死の2年後に河内国の堺浦で討死したと伝わり、三男の高光は父と時を同じくして比叡山の西坂本で討死したといわれ、次男の基長は、のちに高野山に入山してとなったといいます。

その後、名和氏は九州に下り、肥後国八代郡の地頭となっていますから、この地には戻っていません。

じゃあ、長年の父・名和行高のことでしょうか?

もうちょっと詳しく説明してほしいですね。


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名和氏は村上源氏雅兼流を自称していますが、おそらくこれは後付の由緒で、播磨国の赤松氏や河内国の楠木氏と同様、地域に根付いた土豪悪党の類だったと思われます。

「悪党」とは、現代で言うところの悪人の意味ではなく、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した自主独立の武士の集団を指します。

室町時代の「国人」の前身ですね。

この頃の「悪」は、「悪い」というより「強い」といったニュアンスの言葉だったようです。


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名和氏は海運業を営んで財をなしたと伝わりますが、海賊のようなものだったのでしょうか?


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敷地内にある碑は、天保6年(1835)に鳥取藩主の池田治道の遺命により建立されたものだそうですが、池田治道が死んだのは寛政10年(1798年)、この碑の建つ40年近く前になります。


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碑には確かに「天保六年八月」と刻まれています。

その頃に死んだ藩主となると、その2代あとの池田斉稷です。

その間違いじゃないでしょうか?


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屋敷は約2700㎡(800坪)ほどで、現在の家屋で考えれば豪邸ですが、当時の土豪の屋敷跡としてみれば、それほど広い敷地とは思えませんでした。

中世の屋敷というのは、土豪といえどもこの程度だったのかもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2017-05-17 22:29 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その52 「名和神社」 鳥取県西伯郡大山町

「その50」で紹介した御来屋漁港から800mほど南にある名和神社を訪れました。

ここは、その名のとおり、名和長年を主祭神とした名和一族以下42名を合祀した神社で、「建武中興十五社」の一社です。


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名和長年は言うまでもなく、隠岐の島から脱出した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を助け、一族郎党を率いて船上山に立て籠もり、天皇方を勝利に導いた功臣です。


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入口の鳥居の横には、「別格官幣社」と刻まれた石碑があります。

「別格官幣社」とは、国家のために功労のあった人臣を祭神とする神社のことで、明治5年 (1872年) に神戸の湊川神社が定められたのに始まり、昭和21年(1946年)に社格が廃止されるまで、日本全国に28社ありました。


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『太平記』巻7「先帝船上臨幸事」では、後醍醐天皇と名和長年の出会いを、次のように伝えます。


さてこそ主上は虎口の難の御遁有て、御船は時間に、伯耆の国名和湊に着にけり。

六条少将忠顕朝臣一人先舟よりおり給て、「此辺には何なる者か、弓矢取て人に被知たる」と問れければ、道行人立やすらひて、「此辺には名和又太郎長年と申者こそ、其身指て名有武士にては候はね共、家富一族広して、心がさある者にて候へ」とぞ語りける。

忠顕朝臣能々其子細を尋聞て、軈て勅使を立て被仰けるは、「主上隠岐判官が館を御逃有て、今此湊に御坐有。長年が武勇兼て上聞に達せし間、御憑あるべき由を被仰出也。憑まれ進せ候べしや否、速に勅答可申」とぞ被仰たりける。

名和又太郎は、折節一族共呼集て酒飲で居たりけるが、此由を聞て案じ煩たる気色にて、兎も角も申得ざりけるを、舎弟小太郎左衛門尉長重進出て申けるは、「古より今に至迄、人の望所は名と利との二也。我等悉も十善の君に被憑進て、尸を軍門に曝す共名を後代に残ん事、生前の思出、死後の名誉たるべし。唯一筋に思定させ給ふより外の儀有べしとも存候はず。」と申ければ、又太郎を始として当座に候ける一族共二十余人、皆此儀に同じてけり。

「されば頓て合戦の用意候べし。定て追手も迹より懸り候らん。長重は主上の御迎に参て、直に船上山へ入進せん。旁は頓て打立て、船上へ御参候べし。」と云捨て、鎧一縮して走り出ければ、一族五人腹巻取て投懸々々、皆高紐しめて、共に御迎にぞ参じける。

俄の事にて御輿なんども無りければ、長重着たる鎧の上に荒薦を巻て、主上を負進せ、鳥の飛が如くして舟上へ入奉る。


ちょっと長いですが、以下、要訳すると、


後醍醐天皇を乗せた船が伯耆国は名和湊に到着すると、さっそく六条少将千種忠顕朝臣が舟を降り、「このあたりに弓矢の名手と知られる者はおらぬか?」と尋ねたところ、道行く人が立ち止まって、「このあたりでは名和又太郎長年という者が一番でしょう。彼はそれほど有名な武士ではありませんが、裕福で一族も多く、皆からも信頼の厚い者です」と答えました。

忠顕は名和長年について詳しく聞き、すぐに勅使を立てると、「先帝後醍醐殿は隠岐判官佐々木清高の舘を脱出され、今この湊にお着きになられた。名和長年の武勇については、予てから陛下のお耳に入っており、頼りにされている旨仰せられている。頼みとして良いのか否か、速やかに返事をされたい」と申し渡しました。

このとき長年は一族らと共に酒宴の最中でしたが、勅使の申し入れに思案がまとまらず黙っていました。

すると弟の小太郎左衛門尉長重が進み出て、「昔から今に至るも、人が望んでやまないのは名誉と利得の二つです。われらありがたくも先帝のご信頼を受けた以上、もし屍を敵の軍門に晒すこととなっても、生前には誇り高き行動であり、また死後には名誉ある行為となります。ここは何も迷うことなくお受けするべきです」と進言し、これを聞いた長年はじめ一族ら二十余人全員が賛同。

「では早速合戦の用意をしよう。きっと追手勢も近くまで来ているだろう。長重は先帝をお迎えに行き、すぐ船上山に登れ!」と言い捨てるや、鎧に身を固めて走り出すと、一族の五人も腹巻を取って身に着けながら、高紐を締めて共に先帝をお迎えに行きました。

しかし、突然の出来事だったので御輿などの用意もなく、長重が身に着けている鎧の上に薦で編んだ筵を巻きつけ、帝を背負って鳥の飛ぶような速さで船上山に登りました。


後醍醐天皇と長年ら名和家の出会いは、突然の出来事だったようですね。

その後、船上山の戦いに勝利した長年は、後醍醐天皇帰洛の際の護衛も務めて、幕府滅亡後に後醍醐天皇によって開始された建武の新政においては、伯耆守に任じられた。


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江戸時代はそれほど大きな神社ではなかったようですが、明治16年(1883年)に旧社を新しく建て替え、鳥取県内でも最大級の神社の規模となります。


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現在の社殿は、国粋主義の盛んな昭和10年(1935年)に建てられたものだそうです。


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説明板によると、境内は名和家の米蔵があった場所だそうで、合戦の際にこれを焼き払ったため、今でも神社の裏から焼き米が出て来るそうです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-05-16 22:07 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その51 「元弘帝御着船所」 鳥取県西伯郡大山町

前稿で紹介した御来屋漁港の「後醍醐天皇御腰掛の岩」から路地を一筋南に下ると、民家の玄関先に「元弘帝御着船所」と書かれた看板と、古い石碑があります。

元弘帝とは、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)のこと。


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その伝承によると、後醍醐天皇が隠岐の島から逃れて名和の湊に上陸したとき、この地の領民だった戸屋助右衛門が自分の家に天皇を迎え、鶏の塒(ねぐら)に偽装してしばらく匿ったといいます。

後年、その功を賞して鳥取藩が安政5年(1858年)に家の前にこの碑を建てたそうです。


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後醍醐天皇を匿った戸屋家は、天皇から「塒」という苗字を与えられたと伝わり、石碑には、そのことが記されています。


「戸屋は古へ塒と称す 相伝ふ 帝の賜ふ所なりと」


当時は「塒」「とや」と読んでいたそうですが、明治時代に「ねぐら」

と名乗るようになったのだとか。

なんでも、笑福亭鶴瓶さんの『鶴瓶の家族に乾杯』に塒助右衛門の子孫の方が出演されて、その由来を話しておられたそうです。(わたしは観てませんが)

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いまもお住いなので家全体や表札の撮影は遠慮しましたが、石碑の後ろの家が塒さんのお宅です。

立派なお宅でした。



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by sakanoueno-kumo | 2017-05-12 23:33 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その50 「後醍醐天皇御腰掛の岩」 鳥取県西伯郡大山町

せっかく伯耆国まで足を伸ばしたので、船上山周辺の『太平記』にまつわる史跡を巡ってみます。

まずは、御来屋漁港にある「後醍醐天皇御腰掛の岩」


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元弘3年/正慶2年(1333年)閏2月、側近の千種忠顕らと共に配流先の隠岐の島を脱出した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は、当初、出雲国を目指すも風に流され、ここ名和の湊にたどり着き、ここで、この地で海運業を営んでいた名和長年を頼ります。


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このとき、疲れた天皇が体を休めるために海岸にあった大きな岩に腰をかけたという言い伝えあり、それが、この岩だと伝わるそうです。


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30年ほど前までは海中にあったそうですが、漁港の改修によって海面から1.4m持ち上げられ、現在では陸の上に位置しています。


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それにしても、たかが休憩のために座っただけで史跡になんるんですね。


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御腰掛岩の隣には、後醍醐天皇の御製の碑があります。


「忘れめや よるべもなみの荒磯を 御舟の上にとめし心を」

(どうして忘れようか。寄る辺のない波の荒い磯で 朕の乗った船に心を留めてくれたことを)


「寄る辺のない」「波」「御舟の上」と天皇が立て籠もった「船上山」をかけているんですね。


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このあたりの地名を「御来屋(みくりや)」といいますが、天皇家や伊勢神宮などの神領を表す「御厨(みくりや)」という言葉がありますよね。

後醍醐天皇がこの地に上陸したということで、この地名になったのかもしれませんね。


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御来屋漁港から日本海を望みましたが、隠岐の島は見えませんでした。

うっすら見えている島のような場所は、おそらく島根半島かと。


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そのまま西に目を移すと、海岸線に風力発電の大きな風車が並びます。


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せっかくなので、近くに行ってみました。


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壮観ですね。

後醍醐天皇もびっくりです。


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遠くに大山、そして船上山が見えます。




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by sakanoueno-kumo | 2017-05-11 23:36 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その49 「船上山行宮跡(後編)」 鳥取県東伯郡琴浦町

前稿の続きです。

標高616.5m地点に建つ「船上山行宮之碑」の丘をあとにし、「後醍醐天皇行宮跡」への誘導案内板に従ってさらに尾根道を奥に進みます。


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船上山は、平安時代の初期ごろ(約1,200年前)から山岳仏教が栄え、大山、美徳(三徳)山とともに伯耆三嶺とよばれた修験道の零場だったといいます。

後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)と名和長年らがこの地で挙兵した頃、この山には金石寺という寺院があったと伝わります。


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しばらく進むと、石段石垣の遺構があります。

おそらくこれは、その金石寺の後身・智積寺のものと思われます。

智積寺とは、室町時代後期の享禄3年(1530年)に創建された寺院です。


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山道の左右には、「寺坊跡」とみられる削平地が何箇所もあります。

当時の智積寺の繁栄ぶりがうかがえますね。


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この「寺坊跡」は、かなりの面積です。


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道中、「船上山古石塔群」と記された案内板がありました。

それに従って進んでみると、古い五輪塔宝篋印塔が100基以上、苔むした状態で乱立していました。


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形から察するに、鎌倉時代末期から室町時代中期のものかと思われます。


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その時代、立地から考えて、おそらく寺院関係の墓域かと思われますが、あるいは、後醍醐天皇らが挙兵した「船上山の戦い」での戦死者の墓だったりするかもしれません。


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それにしても、保存状態がよろしくなく、荒れ放題です。

数少ない中世墳墓の貴重な遺跡といえます。

船上山は国の史跡にも指定されているわけですから、なんとか維持管理できないものでしょうか?


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山頂の船上神社が見え始めた少し手前に、「文保二年銘台石」と名付けられた石塔の台石があります。

その説明板によると、後醍醐天皇が即位した文保二年(1318年)の年号が刻まれているそうで、鎌倉時代の僧・良賢によって建てられたものだそうです。

後醍醐天皇がこの地に籠もったのが元弘3年/正慶2年(1333年)ですから、その当時、すでにこの石塔があったということですね。


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そして、標高687m付近にある船上神社です。


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船上神社は、かつては船上山三所権現といい、寺僧が奉仕していたそうですが、明治11年(1876)の神仏判然令によって本尊等を山下の法蔵院に戻し、奥ノ院のご神体を権現社に移して、船上神社としたそうです。


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拝殿です。

戦後、正道館の講堂を移築したものだそうです。


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本殿です。

昭和9年(1934年)に船上山史跡保存会によって再建されたものだそうです。


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そして本殿から200mほど西に進むと、奥の院があります。


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奥の院には、後醍醐天皇が祀られているのだとか。


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船上神社の北側には、金石寺本堂跡(推定)があります。


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説明板によると、承和6年(839年)鋳造で「伯耆国金石寺」の銘が残る梵鐘が、現在も福岡県福岡市早良区にある西光寺国宝として保存されているそうで、そのことから、約1200年前には既にこの地にあったことがわかっています。


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船上神社の南側には、智積寺本堂跡があります。


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金石寺は南北朝時代の争乱に巻き込まれて衰退してしまいますが、室町時代後期の享禄3年(1530年)に智積寺として再興されました。

しかし、天文13年(1544年)に尼子氏と山名氏の戦乱により焼失。

これ以後、本堂は再建されていないそうです。

その後、太閤検地による寺院の没収などにより、文禄年間(1592~1595年)に山上の寺院を解散したそうです。


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で、本稿のメイン、船上神社の本堂と奥の院の間に、「後醍醐天皇行宮跡」があります。


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後醍醐天皇を奉じた名和長年らは、攻め寄せる隠岐守護の佐々木清高軍と激しい戦いを繰り広げます。

『太平記』によると、3000余りの佐々木軍に対して名和軍は僅かに150余り

しかし、名和長年は木に数百の旗をくくりつけて自軍を大軍であるかのように見せかけるなどの策を講じ、3日間の激戦の末、佐々木軍を打ち破ります。


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戦いに勝利した後醍醐天皇は、その後も約80日間この地に留まり、全国の反北条派の武士たちに檄を飛ばすなど、倒幕に向けての政治工作を執り行ったといいます。

いわば、倒幕の聖地といえますね。

そんな歴史を踏まえ、昭和7年(1932年)5月、「船上山行宮跡」として国指定の史跡となりました。


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ただ、当時は行宮跡の正確な場所が確定できず、頂上一帯が指定区域となっていたそうで、第二次世界大戦後に調査研究が進み、地元史の『伯耆民談記』に見られる「本社より乾に當りて三丁計り去り東西十四丁、南北十五丁の地あり、境内廣平にして辰巳の方に門の跡あり」という記述から、後醍醐天皇行宮跡をこの地と推定したそうです。


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行宮跡と船上神社の間には、樹高23m、幹周囲5.6mの杉の大樹が聳えます。


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推定樹齢1000年だとか。

後醍醐天皇の挙兵時にも、既に樹齢300年の大樹だったことになりますね。

歴史の守り人・・・もとい、守り樹といえるでしょうか。


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最後に、麓の船上山ダムから見上げる船上山屏風岩

絶景です。

この山が太古の昔から山岳信仰の対象となってきたことがわかりますね。

この『太平記を歩く』シリーズを続けるにあたり、当初は車で片道2時間程度以内で行ける関西の史跡をめぐる設定で、ここ船上山はリストに入れてなかったのですが、進めていくうちに、どうしてもこの神秘的な景色が見たくなり、このGWに神戸から片道4時間かけてこの地にやってきました。

いや~、来てよかったですね。




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by sakanoueno-kumo | 2017-05-10 23:59 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その48 「船上山行宮跡(前編)」 鳥取県東伯郡琴浦町

島根県の東伯郡琴浦町にある標高687mの船上山までやってきました。

ここは、配流先の隠岐の島から脱出した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が、挙兵したとして知られています。


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大塔宮護良親王楠木正成、さらには播磨国の赤松則村(円心)らが各地で倒幕の兵を上げると、その機に乗じて後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は伯耆国名和にて海運業を営んでいたとされる名和氏を頼って名和の湊にたどり着きます。

『太平記』巻7「先帝船上臨幸事」によると、当初は出雲国を目指していたものの、風に流されて名和の湊についたとしています。

これを助けた名和一族の当主・名和長年は、天皇を奉じて元弘3年/正慶2年(1333年)閏2月28日に、ここ船上山にて挙兵します。


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船上山は、「屏風岩」と呼ばれる比高100m以上の断崖絶壁が数kmに渡って続く山として知られています。

これ、一度見たかったんですよね。


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船上山は大山山系のひとつで、その南方に連なる勝田ヶ山(1,149m)、甲ヶ山(1,338m)、矢筈ヶ山(1,358m)などと連なり、古期大山(約100万年前)の外輪山といわれています。

古期大山の火山活動によって噴出した溶岩流が、長い間の浸食によって削られ、特異な山容を形成したと考えられているそうです。


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この山容が船底の形に似ていることから、「船上山」と名付けられのだとか。

ここは後醍醐天皇の挙兵の地となったことから、船上山城ともいわれますが、まさに、天然の要塞ですね。


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逆光でわかりにくいですが、頂上の台地から勢いよく流れ落ちる雄滝雌滝があり、この2つの滝を千丈滝といいます。


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屏風岩と愛車のプリウスαです(笑)。


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ここから屏風岩にズームしてみると、なっ、ななななんと!!!

天然の要塞を果敢に攻めるロッククライマーが!!!

崖の中腹にブルーの服を着たチャレンジャーがいて、崖の下でそれを見守る人が3人ほどいるのがわかるでしょうか?

よーやるわ!


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さて、標高400mほどの場所にある駐車場に車を停めて、ここから登山です。


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登山口にある説明板と案内板です。


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ここを訪れたのはゴールデンウィーク初日の4月29日。

いい登山日和の天気です。


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登り始めて10分ほどすると、「駕籠立て場」という立て札が立つ場所を通ります。


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その説明によると、後醍醐天皇がこの地を発って京に向かわれる途中、この地に駕籠を立てて休憩されたのだとか。


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駕籠立て場から2~3分登ったところに、山頂へ向かう登山道と横手道に別れる分岐点につきます。

横手道を行くと、先程ロッククライマーがチャレンジしていた屏風岩の下に行くことができるようです。

試しに行ってみることに。


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進み始めてすぐに後悔。

急斜面にある細い山道は、高いところが得意でないわたしにはハードでした。


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足元を見下ろすと足が竦みます。


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なんとか屏風岩の最北端に這うようにたどり着き、下から撮影。


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振り向いた東の眺望です。


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行きはよいよい帰りは恐い。

登りは上を見て進んでいたのでまだ良かったのですが、帰りは否が応でも足元を見ながら進まなければならないため、足がガクガクでした。

まるで、崖の斜面に設置された平均台の上を歩いているかの如くで・・・。


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さて、気を取り直して山頂を見ざします。


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登り始めて約30分、山頂の尾根道にたどり着きました。


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丘の上に石碑が見えます。


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「船上山行宮之碑」と刻まれています。


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石碑裏面の碑文。

「大正十三年六月」とあります。


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石碑の横にある立て札。

標高616.5mとあります。


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その横に倒れていた石にも、何か文字が刻まれていました。

これも、かつて石碑だったのでしょうか?


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帰宅してネットで調べていると、この碑の立つ丘から少し下ったところに、「千丈のぞき」と呼ばれる屏風岩を上から見下ろせるスポットがあったことを知りました。(※参照)

この日、まったくその存在に気づかずに痛恨・・・と言いたいところですが、横手道でへっぴり腰になっていたわたしですから、たぶん、千丈のぞきは無理だったに違いないと思い、納得です。


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この日は4月29日ですが、山頂にはまだ山桜が残っていました。


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で、丘の下にある案内板です。

「後醍醐天皇行宮跡」とあります。

えっ?・・・ここが行宮跡じゃないの?

・・・てな訳で案内板に従って進んでみることにしますが、かなり長くなっちゃったので、続きは次稿にて。




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by sakanoueno-kumo | 2017-05-09 23:59 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その47 「観音正寺~観音寺城跡(後編)」 滋賀県近江八幡市

前稿の続きです。

琵琶湖の東岸、滋賀県近江八幡市にある標高433mの繖山(きぬがさやま)山頂にある観音正寺と、その背後にある観音寺城跡をめぐっています。

観音寺城は、標高432m繖山の山頂に築かれた巨大城郭で、「日本五大山城」のひとつに数えられ、「日本100名城」にも選出されている国の史跡です。


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観音正寺境内に設置された観音寺城跡の縄張り図です。


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こちらは、駐車場でもらった縄張り図。


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この大手石段を登ると本丸跡です。


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本丸跡です。


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本丸跡の面積は約2000㎡あるそうです。

とにかく広い。


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本丸跡を囲む土塁跡です。


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本丸西面にある、食い違い虎口跡の石垣です。

後年の枡形虎口のようなものでしょうか。


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本丸跡から南に一段下がった二ノ丸のような曲輪跡です。

ここは、平井氏屋敷跡と伝わり、平井丸と名付けられています。

ここも約1700㎡あるそうで、広い曲輪です。


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周りには石垣跡が。


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何より圧巻なのは、平井丸を南側の高さ3.8m、長さ32mにも及ぶ虎口跡の石垣です。


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見事ですね。


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観音寺城がいつごろ築城されたのかはわかっていませんが、歴史の記録に初めて登場するのは『太平記』で、建武2年(1335年)、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)方の北畠顕家軍の進攻を防ぐため、足利方の六角氏頼が籠もったという記述があり、その頃にはすでに存在したことがわかります。

ただ、このときは、まだ本格的な城郭ではなく、臨戦用の砦として活用していたのではないかと考えられています。


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また、室町幕府樹立後、足利尊氏足利直義兄弟が対立した観応の擾乱の最中の観応2年(1352年)9月には、近江にて直義の兵が南朝と連合して尊氏方に属していた佐々木道誉六角氏頼・直綱兄弟らを打ち破り、敗れた道誉らは、当時、「佐々木城」と呼ばれたここ観音寺城に逃げ込み、籠城したと伝えられます。


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以後、幾度となく戦火に巻き込まれ、応仁の乱では3度も観音寺城の攻城戦が行われています。


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平井丸からさらに一段下がった三の丸のような曲輪跡です。

ここは、池田氏屋敷跡と伝わり、池田丸と名付けられています。
池田丸の面積は約2700㎡だそうで、本丸より広い最大の曲輪です。

城の最南端に位置し、本丸の御屋形へ通じる城戸口になっていたと考えられています。


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池田丸の周囲も、土塁と石垣跡が見られます。

平井丸より石が小さめなのが特徴です。

石垣が積まれた時代が違うのかもしれませんね。


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そして、池田丸の南側を下ると、大石垣跡があります。

天然の岩のようにも見えますが、石垣跡なんですかね。


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大石垣跡からの南側の眺望です。


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最後に、観音寺城の東の端に一郭独立したような形である府施氏の居館、淡路丸跡です。

広さは東西43m×南北50mの規模があり、周囲は土塁と石垣跡が残っています。


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観音寺城は繖山全体にをめぐらせた、中世の山城としてはきわめて突出した規模を持っています。

正確な数はわかりませんが、1000ヵ所以上の曲輪があったとみられ、その多くが石垣で囲まれていたのではないかとみられています。

城郭建築に本格的に石垣が使用されるようになるのは、近世城郭に先駆けとなった織田信長安土城の築城以降とされていますが、観音寺城は本丸部分だけでなく山全体に石垣が配置されている点も注目されています。

ちなみに、この繖山の西に伸びる支尾根先端部に安土城があります。


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戦国期には六角義賢・義治親子の居城となりますが、永禄11年(1568年)織田信長上洛の際、支城である箕作城和田山城が落とされるとそのまま放棄され、その後、安土城が築城されると、その役目を終えたかのように観音寺城は廃城となりました。


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とにかく圧巻の遺構の数々で、さすがは日本五大山城に数えられる名城でした。

本稿で、近江の佐々木道誉関連の史蹟シリーズは終了、次稿から、時系列に戻ります。



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by sakanoueno-kumo | 2017-05-05 00:17 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その46 「観音正寺~観音寺城跡(前編)」 滋賀県近江八幡市

琵琶湖の東岸、滋賀県近江八幡市にある標高433mの繖山(きぬがさやま)にやってきました。

この山の山頂付近に観音正寺という大きな寺院があり、その背後には、室町時代から戦国時代にかけて近江国南半部を支配した佐々木六角氏の居城・観音寺城跡があります。


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参道入口にある観音正寺全景です。


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寺伝によると、推古天皇(第33代天皇)13年(605年)、この地を訪れた聖徳太子のもとに人魚が現れ、「もとは漁師だったが、魚を殺生しすぎてこんな姿になってしまいました。太子さまがお堂を建てて、観音さまをお祀りしてくれれば、この苦しみから解放されます。」と訴えたそうで、その願いを聞き入れた聖徳太子は、千手観音菩薩像を刻み、同地に観音正寺を興したといいます。

にわかに信じがたい話ではありますが、その人魚のミイラと称するものが最近まで同寺に保管されていたそうですが、平成5年(1993年)の火災で焼失したそうです。

ホントかなあ。


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参道の崖には、巨岩を天然の祠とした「奥の院」があります。


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巨岩に神が宿るとする原始的な磐座信仰は古代からあり、聖徳太子が観音正寺を興す以前から、繖山は信仰の山だったようです。

その点は、「その1」「その2」「 その3」で紹介した笠置山と同じですね。


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境内の入口にあたる権現見附の石垣です。


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そして観音正寺境内。

露天に立つ仁王像というは、珍しいですよね。


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『太平記』との関連は、元弘3年(1333年)に足利高氏(尊氏)ら討幕軍に攻められた六波羅探題北条仲時が、後伏見上皇(第93代天皇)、花園上皇(第95代天皇)、光厳天皇(北朝初代天皇)を伴って東国に下ろうとした際、ここ観音正寺を両院やと天皇の宿舎に充てられたと伝えられます。


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本堂です。

以前の本堂は平成5年(1993年)に火災で焼失し、現在の本堂は平成16年(2004年)に再建されたものだそうです。


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本堂横にある石積みです。

いつの時代に積まれたものかはわかりませんが、壮観です。


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観音正寺の境内から約300mで観音寺城跡のようです。


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観音正寺境内の石垣です。

ほとんど城跡ですね。


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観音寺城はその名が示すとおり、観音正寺という大きな寺院と一体型になった山城でした。

この時代、大きな寺院では多くの僧兵をかかえ、時として合戦に参加することもありました。

寺院に求められたのは、戦勝祈願祈祷戦力でした。

寺院にとっても、時の権力と結びついて、祈祷と戦功による恩賞としての所領を獲得しなければ、寺を運営していけない現実がありました。


長くなっちゃたので、城跡めぐりは次稿にて。



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by sakanoueno-kumo | 2017-05-04 00:50 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その45 「北畠具行の墓」 滋賀県米原市

清瀧寺徳源院から少し南の丸山という標高285mの山頂に、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の重臣・北畠具行の墓があります。


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標高285mといっても、近くまで車でいけますので、徒歩での登山は5分ほど。

墓所までの参道も整備されていて、迷うこともありません。


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しばらく登ると「元弘忠臣北畠具行卿」と刻まれた石碑があります。

この横の道を登ると、墓所です。


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この日は、雨の降るなか傘をさしての参拝です。


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こちらは、墓所広場入口にある石碑です。


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北畠具行は後醍醐天皇の側近として活動し、従二位権中納言まで昇進した、公家の中でも国政を担う最高幹部の「公卿」という高い身分の貴族でした。

いずれ、このシリーズでも出てきますが、北畠宗家第4代・北畠親房の従兄弟にあたります。

元徳2年(1330年)に宗家の北畠親房は後醍醐天皇の皇子・世良親王急死の責任を取って出家し、宗家はまだ幼少の北畠顕家が継ぐこととなるのですが、具行はその後見人となります。


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元弘元年(1331年)の「元弘の変」で具行は中心的存在としてはたらきますが、計画に失敗し、幕府軍に捕えられてしまいます。

そして具行は鎌倉に護送されることになるのですが、この護送を命じられたのが、この時点ではまだ幕府方だった佐々木道誉でした。

護送の任務に就いた道誉は、具行の人となりと才能を惜しみ、幕府に助命嘆願を行ったといいます。

その間、京極氏の領地である清瀧寺に具行を約1カ月間留め置いたともいわれていますが、結局、道誉の願いは聞き入れられず、具行はこの地で斬首されました。

具行は処刑前、道誉に対して感謝の意を述べたとも伝わります。


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砂岩製で、総高は204cmあるそうです。


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「貞和三(1347年)丁亥十一月二十六日」の銘文があり、死後16年後に介錯を務めた田児六郎左右衛門尉により建てられたと伝えられます。


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下山したとたん、急に雲が切れて晴れ間が見え始めました。

遠くに見える高い山は、伊吹山です。


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ちなみに、前稿で紹介した清瀧寺徳源院境内の「京極家墓所」にも、具行の遥拝墓とされる宝篋印塔があります。

上の写真がそれ。

婆娑羅大名と呼ばれた道誉と上流貴族の具行が、どのように心を通わせたのか、興味深いですね。




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by sakanoueno-kumo | 2017-04-27 00:45 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その44 「佐々木道誉墓所(清瀧寺徳源院・京極家墓所)」 滋賀県米原市

前稿で紹介した道誉桜のある清瀧寺徳源院は、佐々木道誉(高氏)の一族・京極家菩提寺となっており、歴代の京極家当主の墓所があります。

京極氏は佐々木氏の分家で、道誉はその嫡流でもあることから、京極道誉とも呼ばれます。

道誉の墓は「その41」で紹介した勝楽寺にありますが、ここ京極家墓所にも、一族と共に祀られています。


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鎌倉中期に近江を領していた佐々木氏が、六角氏、京極氏、高島氏、大原氏に分かれ、本家に当たる六角氏は、戦国時代、織田信長によって滅ぼされましたが、京極氏は、江戸時代も大名家としてつづき、現在に至っています。

寺は、弘安6年(1283年)京極家初代・氏信によって建立されたといわれ、寺号も氏信の法号の清瀧寺殿から称したものだそうです。


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墓標の配置図です。

名前の上の四角の中の数字は、何代目かを表しています。

数字のないものは嫡流ではありませんが、一族だそうです。

世襲順に並んでいないのは、もとと別の場所に散財していた墓を、後年ここに集めたとき、順番を気にせずに配置したからだそうです。


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上段の始祖・京極氏信を筆頭に、道誉を含む歴代当主の墓碑宝篋印塔18基並びます。

墓石は、そのほとんどが宝篋印塔です。


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これが佐々木道誉の宝篋印塔。

上段の右から4番目にあります。

既成概念にとらわれない「婆娑羅大名」と称されながらも、足利幕府内では評定衆政所執事を勤め、京極家が室町幕府四職の一家となる基を築いた道誉は、文中2年/応安6年(1373年)、78歳という長寿で死去しました。


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あと、全部の墓を紹介していられないので、主だった人物のみ紹介します。

まずは上の写真は初代・佐々木(京極)氏信の宝篋印塔です。


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上の写真は、嘉吉元年(1441年)に起きた嘉吉の乱にて、赤松邸猿楽観賞の最中、将軍・足利義教と共に殺された10代・京極高数の宝篋印塔です。


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下段には、それ以降の当主や分家やらの宝篋印塔14基と、淀殿の妹・をめとった19代・京極高次の墓石などが整然と並んでいます。


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これがその高次の廟です。

幼少期には織田信長に人質としてとられ、成人してからは豊臣秀吉に仕えて浅井三姉妹の次女・初の結婚。

関ヶ原の戦いでは徳川家康方につき、浅井氏の台頭とともに一時期衰えていた京極家を再び勃興させたことから、京極家中興の祖とされています。


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そしてこれが、丸亀藩二代藩主となった22代・京極高豊の廟です。

この墓所を作った人物です。

京極家の衰えとともにこの寺も一時荒れていましたが、寛文12年(1672年)、高豊が境内に三重塔(県の指定文化財)を建てて以来、勢力を取り戻しました。

このとき、付近に散在していた墓を一カ所に集めたといいます。

塔の大きさは様々で、京極家の栄枯盛衰を表しているといわれています。

現在、国の史跡および県の史跡に指定されています。




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by sakanoueno-kumo | 2017-04-26 00:32 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)