カテゴリ:太平記を歩く( 130 )

 

太平記を歩く。 その110 「金ヶ崎城跡」 福井県敦賀市

福井県敦賀市にある金ヶ崎城跡までやってきました。

これまで関西を中心にめぐってきたため(山陰も行きましたが)、ここはちょっと遠いのでどうしようか迷ったのですが、やはり、『太平記』には福井県は欠かせないと思い至りました。

というわけで、しばらく越前国シリーズが続きます。


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足利尊氏が京の都を占領し、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)との講和が始まると、徹底抗戦を主張していた新田義貞恒良親王、尊良親王を奉じて京を脱出。

延元元年/建武3年(1336年)10月13日、当時、気比氏治の居城だった、ここ越前国金ヶ崎城に入り、約半年間、この地で足利勢と激戦を交えます。


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金ヶ崎城は敦賀湾に突き出した海抜86mの小高い丘(金ヶ崎山)を利用して築かれた城で、敦賀津を眼下にみおろす絶好の立地にあります。

前は海、背後は険しい山岳で、天然の要害をなした難攻不落の城でした。


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現在、城跡は公園整備されており、気軽に散策できます。

遊歩道からは敦賀市街地が見渡せます。


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しばらく歩くと、「絹掛松」を書かれた案内板があります。


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その説明書きによると、金ヶ崎城の落城直前、恒良親王(当時15歳)は蕪木浦(現在の越前町)に避難しますが、その際、衣を脱いで岩の松の枝に掛けて小舟に乗り移ったと伝えられ、その松を「絹掛松」と呼び、前方の岩付近を絹掛崎と呼んでいるそうです。


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そのすぐ側にある鴎ヶ崎

大正天皇(第123代天皇)、昭和天皇(第124代天皇)もこの地を訪れ、ここで小休止されたそうです。


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本丸跡に登る途中に、「金ヶ崎古戦場碑」が建てられています。


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義貞らが金ヶ崎城に入ると、足利方は越前国守護の斯波高経新田軍討伐を命じます。

しかし、守りの固い金ヶ崎城を攻めあぐねた高経は、城を包囲して兵糧攻めに持ち込みます。

迎え討つ義貞は、20kmほど北の杣山城を拠点とする瓜生保らに援軍を要請し、紆余曲折のあと協力を得ます。


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年が明けた1月18日、金ヶ崎城の兵糧が尽き始めたことを知った瓜生保らは、杣山城を出て食糧救援に出撃しますが、あえなく失敗。

その後、義貞、脇屋義助、洞院実世は援軍を求めるため、二人の皇子と義貞の息子・新田義顕らを残して兵糧の尽きた金ヶ崎城を脱出しますが、再び金ヶ崎城へ戻ることはできませんでした。

3月3日、斯波軍が金ヶ崎城に総攻撃を開始します。

兵糧攻めによる飢餓疲労で城兵は次々と討ち取られ、3月6日落城。

尊良親王と新田義顕は自害し、恒良親王は斯波軍に捕縛されました。


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本丸跡と伝わる月見御殿跡です。


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片隅に小さな石碑が。


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月見御殿跡からの敦賀湾の眺望です。


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下山は別ルートを進みます。

しばらく下ると、三の木戸跡があります。


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そのすぐ近くに、「焼米石出土跡」と書かれた看板が。


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ここ金ヶ崎城にはもうひとつの戦史があります。

戦国時代の織田信長朝倉義景の戦いがそれで、浅井長政裏切りによって危うく挟撃の危機に瀕したものの、信長の妹で長政の妻だったお市が、袋の両端を縛った「小豆の袋」陣中見舞いに送り、その危機を報せたという、あの戦いです。

「袋のネズミ」は、まさにこの城だったわけですね。

そのとき焼け落ちた米蔵の焼米と思われる遺蹟が、この場所で出土されたそうです。


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二の木戸跡です。


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説明板によると、新田軍と斯波軍の戦いで、このあたりで激戦が行われたといわれるそうです。


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二の木戸と一の木戸の間にある大きな堀切跡です。


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一ノ木戸跡です。


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『太平記』によれば、飢餓に耐えかねた城兵らは、まずを殺して食し、最後は死者の肉すら食らったと伝えます。

援軍を得て体勢を立て直すためだったとはいえ、結果的に義貞は2人の皇子と息子、そして餓えに苦しむ城兵を見捨てたことになり、南朝よりに書かれた『太平記』が、楠木正成ら他の南朝方の武将に比べて義貞の評価が低いのも、この戦いに起因するところが大きいといえるでしょうね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-08-24 22:17 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その109 「東寺」 京都市南区

後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が比叡山に入ると、京を占拠した足利尊氏は、はじめ男山八幡に陣を布いて比叡山に総攻撃を仕掛け、その後、延元元年/建武3年6月14日に、ここ東寺に布陣しました。

東寺は、世界文化遺産に登録されている京都の顔です。


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九条通りに面した正門・南大門です。


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そして南大門を潜ると、国宝・金堂が正面に見えます。


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金堂は1200年以上前からあったとされますが、現在のものは慶長8年(1603年)に豊臣秀頼の寄進によって再建したものだそうです。


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こちらは重要文化財の講堂


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そして、こちらが有名な五重塔

国宝です。


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東寺のみならず京都のシンボルとなっている塔で、高さ54.8mは、木造塔としては日本一の高さを誇ります。


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尊氏が東寺に入ると、名和長年四条隆資など後醍醐天皇方の武将が次々に東寺に攻め込みますが、名和長年は討死し、四条隆資は足利方の土岐頼直に阻まれ、上手く進軍できません。

そんななかの延元元年/建武3年6月30日、新田義貞率いる2万の軍勢が猛然と大宮通りを東寺に向かって進軍し、六条大宮付近で足利軍の激しく激突。

苦戦した足利軍は東寺の東大門から境内になだれ込み、最後の一人が境内に入ると同時に東大門は閉ざされました。


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ここが、外側から見た東大門ですが、平成29年(2017年)5月現在、修築工事中とのことで、養生柵に囲われています。


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柵の上に腕を伸ばして撮影。


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こちらは、境内から見た東大門

工事関係者の車両が停まっています。

邪魔だなあ・・・。


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その説明板。

通称「不開門(あかずのもん)」と呼ばれているそうです。


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足利方によって東大門が閉ざされると、新田軍はその門めがけて無数の矢を放ったといいます。

義貞が門外より尊氏に一騎打ちを挑んだそうですが、尊氏はその挑発にのることなく、その後も東大門が開くことはありませんでした。

そんな由来で、「不開門(あかずのもん)」と呼ばれるようになったのだとか。


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門扉には新田軍が放った矢の跡があると聞いてきたのですが、残念ながら工事が終わるまで見ることはできなさそうです。


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こちらは、この戦いより半年間、尊氏が居館としていたと伝わる食堂です。


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そして、こちらはその間、光厳上皇(北朝初代天皇)の行宮となった小子坊。


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正門の門扉は菊の御紋です。


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この新田軍の総攻撃が失敗に終わったことで、その後、後醍醐天皇方の形勢は厳しくなり、やがて後醍醐天皇は足利方の和平工作に応じ始めます。

しかし、義貞にはこの事実は知らされておらず、義貞がこのことを知ったのは、和議を結ぶ当日でした。

これを知った義貞の家臣・堀口貞満が涙ながらに後醍醐天皇の無節操を非難して訴えるシーンが『太平記』に描かれます。

しかし、結果的に後醍醐天皇は、義貞を切り捨てるかたちをとりました。

一方で、天皇はこの和議は一時的な「計略」であるとの旨を義貞に伝え、それを義貞に知らせなかったのも計略が露呈して頓挫することを防ぐためだったと取り繕います。

これを聞いた義貞は、恒良親王、尊良親王を奉じて北国へと下向させてほしいと提言し、後醍醐天皇もこれを受け入れます。


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後醍醐天皇による新田一族切捨てと尊氏との和睦は、『太平記』にしか見られない記述であり、創作の疑いも拭いきれません。

しかし、この日を機に後醍醐天皇方が2つに分裂したのは確かで、何らかの行き違いがあったのは間違いないでしょう。

義貞が恒良親王と尊良親王を奉じて北陸入りしたのは、自身が逆賊扱いされないための人質だったのかもしれません。

というわけで、次回から北陸の新田義貞らの足跡を追います。




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by sakanoueno-kumo | 2017-08-23 22:15 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その108 「名和長年殉節之地」 京都市上京区

西陣と呼ばれる京都市上京区の一角に、名和長年終焉の地と伝わる場所があります。

現在、名和児童公園としてブランコなどの遊具がある小さな公園となっていますが、その一角に、大きな石碑が残されています。


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公園の入口には、石の鳥居と「名和長年公遺蹟」と刻まれた大きな石碑、そして「此附近名和長年戦死之地」と刻まれた小さな石碑があります。


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石碑の裏には「昭和十四年四月建 名和會」とあります。


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公園内には、「昭兮大宮忠節」「赫兮船上義勇」と刻まれた2つの石柱があります。


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そして、これが「贈正三位名和君遺蹟碑」の石碑、昭和10年(1935年)に建てられたものです。


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名和長年は伯耆国海運業を行う豪族で、元弘3年/正慶2年(1333年)閏2月、配流先の隠岐の島を脱出した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を助け、上洛後は「建武の新政」において天皇近侍の武士となり、記録所武者所恩賞方雑訴決断所などの役人を務めました。

また、海運業を営んでいた経歴を買われ、京都の左京の市司である東市正にも任じられています。

長年については「その48」から「その57」で詳しく紹介したかと思います。


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天皇の忠臣であった長年は、伯耆守の(キ)をとって、同じく後醍醐天皇に重用された楠木正成(キ)結城親光(キ)千種忠顕(クサ)と合わせて「三木一草」と称されました。

しかし、足利尊氏が政権から離脱して後醍醐天皇に反旗を翻すと、楠木正成、新田義貞らと共に尊氏と戦い、延元元年/建武3年6月30日の内野(平安京大内裏跡地)の戦いで敗れ戦死しました。


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討死にした場所については、『太平記』は京都大宮『梅松論』には三条猪熊とされています。

この公園は、『梅松論』に近い場所といえます。

名和長年の戦死を最後に、「三木一草」は全員この世を去りました。


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後醍醐天皇に与えられたという「帆掛け舟の家紋」です。


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こちらの古い石碑には、ちょっと傷んでいますが、「贈從一位名和長年公殉節之所」と刻まれています。


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裏には「明治十九年一月」と刻まれています。


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この2つの石碑で注目すべきは、名和長年は死後500年以上も経った明治19年(1886年)に「正三位」を追贈され、その約半世紀後の昭和10年(1935年)には「従一位」という破格の官位を加増されていることです。

この1年前の昭和9年(1934年)は「建武中興六百年」にあたる年で、日本各地に楠木正成をはじめとする南朝忠臣の石碑が建てられるなどの事業が進められていました。

ちょうどこの頃、明治44年(1911年)に起きた南朝、北朝どちらが正統かという議論「南北朝正閏問題」における「南朝正統論」が国策として進められていた時期で、教科書では「南北朝時代」「吉野朝時代」と改められ、南朝の正統性を国民に浸透させようとしていた真っ只中でした。

それがやがて「七生報国」などのスローガンを生んで政治利用され、日中戦争、太平洋戦争の戦火になだれ込んでいくことになるんですね。

いまでは世間一般にあまり名を知られなくなった名和長年。

この2つの石碑は、単に長年がこの地で死んだということだけじゃなく、この明治の石碑から昭和の石碑に至るまでの時代背景に、どういう政治的意図があったかを知ってから見るべき碑かもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2017-08-19 23:12 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その107 「千種忠顕戦死之地」 京都市左京区

前稿で紹介した雲母坂を登ること約1時間半、標高660mのあたりに、「千種忠顕戦死之地」と刻まれた大きな石碑があります。

ここは、比叡山に逃れた後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を守っていた千種忠顕が、攻め寄せる足利直義軍と激戦の上、討死した場所と伝えられます。


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千種忠顕は早くから後醍醐天皇の近臣として仕え、元弘2年(1332年)の元弘の乱で天皇が隠岐島配流となると、これに付き従います。


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そしてその翌年、天皇が隠岐島を脱出して伯耆国船上山にて再び挙兵すると、伯耆国の名和長年とともにこれを助けます。

そして、楠木正成赤松則村(円心)らが京を奪還すべく各地で奮戦している報を受けると、天皇は忠顕を山陽・山陰道の総司令官に任命し、援軍として京に向かわせます。

千種軍は進軍途中で増え続け、『太平記』によると、その数20万7千騎にも及んだとか。

京に上った千種軍は赤松円心の六波羅探題攻めに加わり、やがて足利高氏(尊氏)寝返りもあって天皇方が勝利し、鎌倉幕府は滅亡します。


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建武の新政では結城親光、楠木正成、名和長年らと共に「三木一草」と称され、莫大な恩賞を受けますが、贅沢三昧の暮らしぶりが新政の批判の対象となり、出家に追い込まれます。

やがて、足利尊氏が新政に反旗を翻すと、忠顕は新田義貞北畠顕家らと共に天皇方として尊氏を追い、九州へ駆逐しました。

しかし、再び力を得た尊氏が「湊川の戦い」にて楠木正成を打ち破ると、忠顕は新田義貞らと共に天皇を比叡山に逃し、比叡山西側の登山道・雲母坂、つまりこの地にて足利軍と激突。

そして討死しました。


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『太平記』巻17「山攻事付日吉神託事」によると、足利軍は三石岳、松尾坂、水飲より三手に分れて攻撃し、迎え討つ千種忠顕、坊門正忠300余騎はよく守るも、松尾坂より進軍してきた足利軍に背後を突かれたため、一人残らず討死、全滅したとされています。


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石碑は千種家の子孫によって大正10年(1921年)5月に建てられたもので、高さは3m、巾65.5cm、基壇は三段の切石で積まれ、墓地の郭は直径約9mあります。

石碑にはめ込まれている銅板は、明治・大正の歴史学者・三浦周行によって撰文されたものです。


「卿ハ六条有忠ノ子ニシテ、夙ニ後醍醐天皇ニ奉仕ス。資性快活ニシテ武技ヲ好ミ、頗ル御信任ヲ蒙レリ。元弘元年、討幕ノ謀露レ、天皇笠置ニ潜幸シ給フニ当リ、卿之ニ扈従シ、城陥リテ天皇六波羅ニ移サレ給フニ及ビ、卿亦敵ニ捉ヘラレンモ、特ニ左右ニ近侍スルヲ許サル後、天皇ニ供奉シテ隠岐ニ赴キ、密ニ恢復ヲ図リ、元弘三年、天皇ヲ伯耆ニ遷シ奉リ綸旨ヲ四方ニ伝ヘテ義兵ヲ起サシメ、又自ラ兵ニ将トシテ六波羅ヲ攻メテ、之ヲ陥レ、神鏡ヲ宮中ニ奉安セリ。尋デ北条氏亡ビ、車駕京都ニ還幸アラセラルルヤ、卿之ガ先駆タリ。天皇厚ク其首勲ヲ賞シ給ヒ、従三位ニ叙シ、参議ニ任ゼラル。中興ノ政治参著スル所亦多シ。既ニシテ足利尊氏、大挙シテ京都ヲ攻メ、天皇延暦寺ニ幸シ給フ。尊氏弟直義ヲシテ兵ヲ進メテ、行在ヲ侵サシム。卿之ヲ西坂本ニ拒ギシモ、利アラズ、終ニ此地ニ戦死ス。時ニ延元元年六月七日ナリ。大正八年、其功ヲ追賞シテ、従二位ヲ贈ラル。

大正十年五月

文学博士 三浦周行撰並書」


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ここを訪れたのは4月22日で、外界のは散ってしまっていたのですが、標高660mのこの地では、まだ桜が残っていました。


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また、ここから北へ200mほどの登山道の端に「千種塚旧址」と刻まれた小さな石碑がありました。

いつ建てられたものかはわかりませんが、かなり古いもののようでした。


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「千種忠顕戦死之地」から少し南西に下ったところにある休憩所からの眺望です。

京都市内が一望できます。

写真右下の小高い山が宝ヶ池、その向こうに見える山が金閣寺などのある北山地区で、さらに遠くに見えるのが、嵐山です。

写真中央左に見える小さな森が下鴨神社で、その左奥に見える大きな森が京都御所、さらにその向こうには、二条城が見えます。

比叡山と都を結ぶこの雲母坂は、1000年以上、すっと京の町を見下ろしています。




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by sakanoueno-kumo | 2017-08-18 20:35 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その106 「雲母坂~雲母坂城跡」 京都市左京区

延元元年/建武3年(1336年)5月25日の湊川の戦い楠木正成が討死し、退却した新田義貞が京に戻ってくると、足利尊氏軍の追撃を防ぐため、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を京から比叡山に移します。

そして、東坂本(現在の滋賀県側)を新田義貞名和長年が守り、西坂本(現在の京都府側)を、後醍醐天皇の皇子・尊良親王と、千種忠顕が守りました。

そして6月7日、尊氏の弟・足利義直の軍勢が西坂本に攻め寄せ、雲母坂(きららざか)で激しい戦闘となります。


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比叡山につながる登山道・雲母坂は、現在ハイキングコースとなっています。

叡山電鉄修学院駅から登山道に向かう途中には、「千種忠顕卿遺跡是ヨリ三十町」と刻まれた古い石碑があります。


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雲母坂へは、音羽川沿いに上流を目指して歩きます。

前方には、標高848mの比叡山が聳えます。


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川沿いを10分ほど歩くと、雲母坂の入口、雲母橋に到着します。


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橋を渡ると「親鸞上人旧跡きらら坂」と刻まれた石碑が。

雲母坂は平安時代から都と比叡山を結ぶ主要路として利用され、浄土真宗の宗祖とされる親鸞が、9歳のときに出家して叡山修行のためこの坂を登り、29歳のときに叡山と決別し、この坂を下りたと伝わります。


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石碑を過ぎると、いよいよガッツリ登山道です。


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登山道に入ってすぐのところにある、「雲母寺跡」と刻まれた小さな石碑。

雲母寺は平安時代に建立された寺院で、現在は別の場所に移設されています。


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雲母坂の登山道は長年の浸食によって深いV字形になっており、谷底歩いているような気分になります。


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足利軍が雲母坂から西坂本へ攻撃してきたのを見た千種忠顕は、京の南に布陣させている四条隆資に背後をつかせて足利軍を挟み撃ちにする作戦を立てていたといいますが、四条軍も苦戦しており、雲母坂に駆けつけることができませんでした。

また、万一の場合、東坂本を守る新田義貞と名和長年が西坂本に駆けつける手はずとなっていましたが、それも上手く連携がとれず、千種軍は全滅、忠顕も討死します。


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雲母橋から30分ほど登ると、標高330mあたりで少し尾根道になるのですが、しばらく尾根道を進んだところに、こんもりとした丘陵があり、なにやら標示板が見えます。


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近づいて見てみると、なんと、「きらら坂城跡」と記されています。

えっ? ここって城跡だったの?


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早速スマホでググってみると、築城年代や築城者については詳らかでないものの、土塁跡が約70~80mに渡っており、城跡と考えられているようです。

城跡というより、砦跡といった方がいいのかもしれません。


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その立地から考えて、千種軍と足利軍の戦いにこの砦が利用されなかったはずはないでしょうね。

どちらがここを陣としたかはわかりませんが、ここから少し登ったところに、足利軍が陣を布いた「水飲」というところがあり、あるいは、ここも足利軍に占領されていたかもしれません。


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で、城跡から10分ほど登ったところにある、「水飲」です。

端には「水飲対陣の碑」が建てられています。

「水飲」という名称は、道の南下に音羽川のせせらぎが流れ、参拝者の疲れや渇きをいやしたことからつけられたと推測されているそうです。

たしかに、川のせせらぎの音が耳を和まさてくれました。


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『太平記』によると、ここ「水飲」に陣を布いた足利軍は、ここから三手に分かれて攻撃を開始し、千種軍もよく防戦したものの、足利軍に背後をつかれて一人残らず討死したといいます。


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「水飲」から200mほど登ったところに、「浄刹結界趾」と刻まれた石碑があります。

この浄刹結界は比叡山と外界との境界線で、かつてはここから先には女人が入ることが禁じられていました。

この石碑は、大正10年(1921年)3月に建てられたものです。


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ここをさらに30分近く登ると、「千種忠顕戦死之地」と伝えられる場所があるのですが、長くなっちゃったので次稿にて。




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by sakanoueno-kumo | 2017-08-17 23:48 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その105 「楠木正季・和田和泉守重次の墓(寶國寺)」 大阪府和泉市

大阪府和泉市にある寶國寺にやってきました。

ここに、延元元年/建武3年(1336年)5月25日の湊川の戦いで、兄・楠木正成と刺し違えて自決した弟・楠木正季の墓があります。


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自決後、兄・正成の首級は京都六条河原で晒された後、足利尊氏の命で河内国の観心寺に届けられ、首塚として祀られたと伝えられますが(参照:その101)、正成に殉じた者たちがどうなったかは伝わっていません。

普通に考えれば、兄と一緒に弟の首も京都六条河原に晒され、その後、楠木家の菩提寺である観心寺に送られたと考えるのが自然だと思うのですが、観心寺に正成の首塚しかないことを思えば、正季の首は、違うルートで葬られたことになるのでしょうか?

でも、じゃあ、なぜ和泉国の寶國寺なのか、はっきりした理由はわからないようです。


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手前の細長い墓碑と、その向こうの低い自然石の墓石と、どちらが正季の墓石かわかりません。


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細長い墓石の裏を見ると、「楠木正成弟和田二郎正季 嫡子和田和泉守重次 墓碑」と刻まれています。

和田二郎とは、正季の改名。

和田和泉守重次という人物がわからないのですが、「嫡子」とありますから、正季の息子ということでしょうか?


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自然石の墓石の台座には、「和田墓」と刻まれています。


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『太平記』によれば、死の間際、「人間は最後の一念で善悪の生を引くが、九界のうちどこに生まれたいか?」という兄・正成の問に対し、弟・正季が「七生までただ同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存候へ」と答えたというくだりは有名ですね。

吉川英治の小説『私本太平記』でも、兄より忠誠心の熱い男に描かれています。

兄の首塚はたくさんありますが、弟は、こんなところにひっそりと眠っていたんですね。




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by sakanoueno-kumo | 2017-08-16 23:23 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その104 「楠木正成首塚(杜本神社)」 大阪府羽曳野市

大阪市羽曳野市にある杜本神社にも、楠木正成首塚があると聞いて訪れました。


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神社入り口には、「水分神社併楠公遺物陳列場」と刻まれた石柱があります。

「水分神社」とは、「その21」の稿で紹介した千早赤阪村にある建水分神社のことだと思いますが、「楠公遺物陳列」というのは、正成の首ってことでしょうか?


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鳥居をくぐって丘の上にある本殿を目指します。


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こちらは拝殿です。


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由緒書きには、たしかに「大楠公首塚」が紹介されています。

それによれば、河内に送られてきた正成の首を、この地に密かに隠して敵の目を逃れたとあります。


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拝殿横の小さな鳥居をくぐります。


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その奥に、さらに小さな鳥居があります。


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その奥にある小さな祠には、「南木神社」と書かれています。

「南木神社」は、千早赤阪村の建水分神社境内にある、楠木正成を祀った最古の神社です。

その横に、隠れるように五輪塔が見えます。


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どうやらこれが、「大楠公首塚」のようです。


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たしかに、かなり古いもののようですね。


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花立には、「楠公御墳前」と刻まれています。


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まあ、英雄であればあるほど、この種の伝承は数多く存在するものですが、それにしても、楠公さんの首ってどんだけあんねん!って感じですね。

ほとんどキングギドラ八岐大蛇状態です(笑)。


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ちなみに『太平記』とは無関係ですが、楠公首塚のすぐそばに、奈良時代の左大臣・藤原永手の墓があったので、せっかくなので掲載しておきます。

どんな人物かは、調べてください(笑)。




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by sakanoueno-kumo | 2017-08-13 16:50 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その103 「楠木正成首塚(観心寺)」 大阪府河内長野市

楠木正成廟所「その94」で紹介した神戸市の湊川神社にありますが、前稿で紹介した大阪府河内長野市にある観心寺には、正成の首塚があります。


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こちらが正成の首塚です。

石碑に刻まれた「非理法権天」の文字は、「非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、権は天に勝たず」という意味の漢詩で、正成が旗印として用いたと言われています。


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まるで天皇陵のような厳かさです。


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門扉には、楠木家の家紋「菊水」があります。


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墓石は五輪塔です。

高さは1mほどでしょうか?

特に立派なものではありません。


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湊川の戦いに敗れ、弟・楠木正季と差し違えて自刃した正成の首は、一時、京都の六条河原に梟首されますが、その後、足利尊氏の命により、ここ観心寺に届けられて首塚として祀られたといいます。


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『太平記』巻16「正成首送故郷事」では、正成の首が届けられたときのことを、こう伝えます。


貌をみれば其ながら目塞り色変じて、替はてたる首をみるに、悲の心胸に満て、歎の泪せき敢ず。今年十一歳に成ける帯刀、父が頭の生たりし時にも似ぬ有様、母が歎のせん方もなげなる様を見て、流るゝ泪を袖に押へて持仏堂の方へ行けるを、母怪しく思て則妻戸の方より行て見れば、父が兵庫へ向ふとき形見に留めし菊水の刀を、右の手に抜持て、袴の腰を押さげて、自害をせんとぞし居たりける。


父・正成のあまりにも変わり果てた姿を見た11歳の嫡男・楠木正行は、父の形見の刀で自害しようとした・・・と。

これを見た母・久子は急いで駆け寄り、こう叱責します。


「栴檀は二葉より芳」といへり。汝をさなく共父が子ならば、是程の理に迷ふべしや。


「栴檀は双葉より芳し」とは、大成する者は幼いときから人並み外れてすぐれているということ。

つまり、楠木正成の息子ともあろう者が、この程度のことで何を血迷っているのか・・・と。

有名なくだりですね。

母は強し。


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傷んで読みづらいのですが「詠楠木正成卿歌短謌」と刻まれているようです。

正成関連の歌を集めた碑でしょうか?


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墓所横に建てられた忠魂塔です。


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寺領には、後醍醐天皇の皇子・後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)陵もあるのですが、また別の機会に紹介します。



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by sakanoueno-kumo | 2017-08-11 22:26 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その102 「観心寺」 大阪府河内長野市

大阪府河内長野市にある観心寺を訪れました。

ここは、観心寺は楠木正成一族の菩提寺で、正成の少年時代の学問所だったという伝承もあります。


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山門横では、正成の騎馬像が迎えてくれます。

神戸の湊川公園の騎馬像よりは小振りなものです。


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逆光の撮影なのでわかりにくいですが、精悍な顔をしています。


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観心寺の寺伝によると、大宝元年(702年) に役小角によって開かれ、当初は雲心寺と称したとされますが、天長4年(827年)に空海がこの地を訪れ、「観心寺」の寺号を与え、その一番弟子の実恵が実質的な開祖となった寺院です。


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国宝の金堂です。

14世紀に入ると、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は当寺を厚く信任し、建武の新政成立後(1334年ごろ)、楠木正成を奉行として金堂外陣造営のを出し、 現在の金堂ができたそうです。


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金堂は「折衷様建築」の代表作といわれているそうです。

寺院建築には、鎌倉以前から寺院建築として用いられた地震に強い「和様」、鎌倉時代初期にに東大寺再建にあたって採用された大形建築に対応できる「大仏様」、同じく鎌倉時代初期に禅宗と共に日本に伝わった「禅宗様」があるそうですが、「折衷様」は、その良いとこ取りをした建築様式のことをいうそうです。

かつては折衷様のことを「観心寺様」とも呼んだほど、この金堂が折衷様を代表する建物なんだそうです。


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金堂は大阪府下最古の国宝建築物といわれているそうで、これまで、17世紀はじめの豊臣秀頼の時代、江戸時代中期、明治の初め、昭和の初めに修理が行われ、昭和59年(1984年)に昭和大修理が行われ、現在に至っています。


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こちらは、重要文化祭の建掛塔です。

正成は報恩のため三重塔の建立に着工したと伝わりますが、延元元年/建武3年(1336年)5月25日の「湊川の戦い」で正成が戦死したため工事はストップし、“建掛(たてかけ)”の塔として今に残ってと伝わります。


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のちに屋根の小屋組みと茅葺の屋根が架けられたそうです。

たしかに、これ単体のお堂と見るには、やけに屋根が大きくてアンバランスな気がしないでもないです。

でも、正成が死んでも、その子供たちが遺志を継いで完成させることはできたはずなんですけどね。

境内には、楠木正成の首塚と伝えられる場所がありるのですが、続きは次稿にて。



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by sakanoueno-kumo | 2017-08-10 21:39 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その101 「真光寺」 神戸市兵庫区

神戸市兵庫区にある真光寺を訪れました。

一遍上人が中興の開祖として知られる同寺ですが、「湊川の戦い」の戦後、足利尊氏楠木正成供養を行ったと伝わる寺でもあります。


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正成の首は前稿で紹介した阿弥陀寺の石の上で首実検が行われたあと、京の六条河原1日だけ晒されますが、その後、尊氏はここ真光寺において正成の大供養会をとりおこない、首は正成の本拠地である河内の水分に届けさせたと、『太平記』は伝えます。

正成と袂を分かつことになった尊氏でしたが、かつての戦友の死を、決して粗末に扱わなかった点、尊氏も思うところがあったのかもしれませんね。


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現在の境内には、その歴史を知らせてくれる史跡はありません。


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真光寺はたいへん大きなお寺で、一遍上人が没した寺だと伝わります。

境内の一角には一遍上人の廟所があり、五輪塔は国の重要文化財に指定されています。



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by sakanoueno-kumo | 2017-08-09 23:19 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)