カテゴリ:太平記を歩く( 91 )

 

太平記を歩く。 その61 「薬仙寺(後醍醐天皇御薬水)」 神戸市兵庫区

同じく神戸市兵庫区にある薬仙寺を訪れました。

ここには「後醍醐天皇薬水」という名の井戸跡があります。


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現地説明板によると、元弘の乱によって隠岐島に流されていた後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が、正慶2年(1333年)に島を脱出して還幸の途中、前稿で紹介した兵庫の福厳寺病床に伏したそうです。


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その際、当時の住職がここの霊水を薬水として献上したところ、たちまちにして快癒したことから、「薬仙寺」の号を賜ったといいます。


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井戸脇にある「薬師出現古跡涌水」の碑です。


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こちらの石碑はかなり古そう。


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説明板です。


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まあ、この種の伝承というのは、全国各地で数限りなくある話で、にわかに信じられる話ではありませんが、後醍醐天皇が兵庫津を通ったことは史実ですから、何らかの関わりはあったのかもしれませんね。


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また、太平記とは関係ないですが、ここ薬仙寺の場所には、平清盛後白河法皇を幽閉した「萱の御所」があったとされ、その石碑が建てられています。


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後醍醐天皇といい後白河法皇といい、帝が政治介入すると、歴史は乱れるんですよね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-05-31 23:18 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その60 「福厳寺(後醍醐天皇御駐蹕之處)」 神戸市兵庫区

神戸市兵庫区にある福厳寺の入口には、「後醍醐天皇御駐蹕之處」と刻まれた石碑があります。

ここも、配流先の隠岐島を脱出して京に帰る帰路の後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が立ち寄ったとされます。


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後醍醐天皇は元弘3年/正慶2年(1333年)5月31日から6月2日までの間滞在し、この地で楠木正成の参向を受け、また、東国で挙兵した新田義貞によって鎌倉幕府壊滅したという報せを受けたといいます。

『太平記』は、「兵庫の福厳寺といふ寺に、儲餉(ちょしょう)の在所を点じて、しばらく御座ありける」と伝えています。


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石碑の横には、説明看板があるのですが、色あせてしまって読めません(笑)。

ご関係者さまは、ぜひ作り直してください。


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本堂です。

もっとも、当時の福厳寺は、ここよりもっと北東の会下山にあったそうですけどね。


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その後、京に戻った後醍醐天皇は、天皇自らが政治を行う建武の新政を開始するんですね。

ところが、元弘の乱の論功行賞において赤松則村(円心)足利尊氏を怒らせてしまい、やがてそれが、南北朝の分裂に繋がっていきます。



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by sakanoueno-kumo | 2017-05-30 23:43 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その59 「法華山一乗寺」 兵庫県加西市

兵庫県加西市に「一乗寺」という大きな寺院があるのですが、ここも、配流先の隠岐島から帰京中の後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が立ち寄ったと伝わる寺です。


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後醍醐天皇の護持僧・文観は、東寺長者・醍醐寺座主をつとめた真言律宗の高僧ですが、もともとは、ここ一乗寺の僧だったそうです。


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南北朝時代の播磨国の地誌『峰相記』によると、建武2年(1335年)に後醍醐天皇のを受けた文観が一乗寺を訪れ、西国第一の大堂と称された講堂落慶法要が行われたと記されているそうです。


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大非閣(金堂)と呼ばれる本堂です。


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残念ながら後醍醐天皇が建てた大堂は火災で消失してしまい、現在の本堂は寛永5年(1628年)に姫路藩主・本多忠政の援助で再建されたものだそうです。


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一乗寺の創建は白雉元年(650年)、孝徳天皇(第36代天皇)の勅願で法道仙人が開いたとされています。


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安元年(1171年)に建てられた三重塔は平安時代後期を代表する和様建築の塔であり、日本国内屈指の古塔として国宝に指定されています。


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三重塔は本堂から見下ろすことができます。


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他にも、数多くの国指定重要文化財兵庫県指定文化財を所有しています。

下の写真は室町時代に建てられたと言われる弁天堂妙見堂


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続いて鎌倉時代に建てられたと言われる護法堂


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こちらは、正和5年(1316年)と刻印された石造笠塔婆です。


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ここを訪れたのはゴールデンウィーク中の5月4日。

でも、ケイタイも圏外になるほどの山奥にあるため参拝客もそれほど多くなく、うぐいすの声を聴きながら悠久の歴史にふれ、ゆったりとした時間を過ごしました。

ここ一乗寺は、西国三十三所二十六番札所となっています。




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by sakanoueno-kumo | 2017-05-27 18:38 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その58 「書寫山圓教寺」 兵庫県姫路市

兵庫県姫路にある、西の比叡山と称される天台宗の古寺「書寫山圓教寺」を訪れました。

書写山は、姫路市の北部にある標高370mの山で、圓教寺はその山上にあります。


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大塔宮護良親王楠木正成、さらには播磨国の赤松則村(円心)らが各地で倒幕の兵を上げると、その機に乗じて後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は名和長年ら名和一族を頼って隠岐島から脱出し、伯耆船上山で挙兵します。

やがて六波羅陥落の知らせを聞いた後醍醐天皇は、元弘3年(1333年)5月23日に船上山を出発し、京へと向かいます。


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その帰路、後醍醐天皇はここ書寫山圓教寺に立ち寄り、一泊したといいます。

ここで、天皇方として摂津と山崎を何度も往復して幕府軍と戦っていた円心に会いました。

このとき後醍醐天皇は、円心を「天下草創之功」と称えたといいます。


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有名な「摩尼殿」です。

書寫山圓教寺で画像をググったら、まずこの画像が出てきますね。


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圓教寺は、康保3年(966年)に天台宗の僧・性空によって創建されたと伝えられ、花山法皇(第65代天皇)の勅願所となりました。

摩尼殿の号は承安4年(1174年)に参詣した後白河法皇によるものだそうです。

摩尼殿は、京都の清水寺と同じ舞台造りとなっています。

たしかに似てますね。


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こちらが有名な三之堂

右側の建物が大講堂、左奥に見えるのが食堂(じきどう)、写真左に屋根の先端が少しだけ見えているのが、常行堂です。

いずれも室町時代の再建で、国の重要文化財ですが、後醍醐天皇の行幸以降に再建されたものです。


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ここは、天正6年(1578年)に起きた羽柴秀吉別所長治三木合戦において、一時秀吉が本陣を置いた場所でもあります。


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ここ三之堂は、平成26年(2014年)のNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』、同じく平成15年(2003年)の 『武蔵-MUSASHI-』、そして、あのトム・クルーズ主演のハリウッド映画『ラスト・サムライ』のロケ地にもなっています。


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書寫山圓教寺については、他の稿でも紹介していますので、よければ。

  ↓↓↓

夏休み中播磨路紀行2016 その4 「書寫山圓教寺~前編~」

夏休み中播磨路紀行2016 その5 「書寫山圓教寺~後編~」

三木合戦ゆかりの地めぐり その46 ~書寫山圓教寺~


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by sakanoueno-kumo | 2017-05-26 00:50 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その57 「三人五輪」 鳥取県西伯郡大山町

前稿で紹介した名和一族郎党の墓とは別に、ここ大山町名和地区には名和氏ゆかりのものと伝わる五輪塔があります。


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それが、これ。

「三人五輪」と呼ばれる大型の五輪塔3基で、名和長年、その長男の名和義高、三男の名和高光首塚といわれています。


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後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を護衛して上洛した名和長年は、北条幕府滅亡後に天皇が開始した「建武の新政」において天皇近侍の武士となり、記録所や武者所、恩賞方や雑訴決断所などの役人を務めました。

また、海運業を営んでいた経歴を買われ、京都の左京の市司である東市正にも任じられています。

天皇の忠臣であった長年は、伯耆守(キ)をとって、同じく後醍醐天皇に重用された楠木正成の(キ)、結城親光の(キ)、千種忠顕の(クサ)と合わせて「三木一草」と称されました。

しかし、足利尊氏が政権から離脱して後醍醐天皇に反旗を翻すと、楠木正成、新田義貞らと共に尊氏と戦い、京都大宮にて討死してしまいます。


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『太平記』巻17「義貞軍事付長年討死事」は、長年の最期を次のように伝えます。


義貞今日を限の運命也と思定給ければ、二万余騎を只一手に成て、八条・九条に引へたる敵十万余騎四角八方へ懸散し、三条河原へ颯と引て出たるを、千葉・宇都宮も、はや所々に引分れ、名和伯耆守長年も、被懸阻ぬとみへたり。仁科・高梨・春日部・丹・児玉三千余騎一手に成て、一条を東へ引けるが、三百余騎被討て鷺の森へ懸抜たり。長年は二百余騎にて大宮にて返し合せ、我と後の関をさして一人も不残死してけり。

要訳すると、

新田義貞は今日限りの命かと覚悟を決め、二万余騎の軍勢を一つにまとめて、八条、九条に陣取っている敵、十万余騎を四方八方に蹴散らし、三条河原まで退却しましたが、千葉、宇都宮らとも何処かで別れ別れになり、名和伯耆守長年とも引き離されたようです。仁科、高梨、春日部、丹、児玉らの三千余騎も一団になり、一条通りを東に向かって退却しようとしましたが、三百余騎が討ち取られ、鷺の森に逃げ込みました。名和長年は二百余騎を率いて大宮まで引き返し、退路を閉ざされた状況の中、一人残らず討ち死にしました。


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向かって左から長年、長男の義高、三男の高光のものであると言われています。


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長男の義高は父の死の2年後に河内国の堺浦で討死したと伝わり、三男の高光は父の死と時を同じくして、比叡山の西側にあたる西坂本(現滋賀県)にて討死したと伝わります。

その後、それぞれを家臣が故郷へ持ち帰り、ここへ祀ったと伝えられています。


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さて、「その48」から10稿に渡って伯耆国の史跡を巡ってきましたが、この稿にて終了です。

次稿から、時系列に戻ります。



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by sakanoueno-kumo | 2017-05-25 00:15 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その56 「名和一族郎党の墓」 鳥取県西伯郡大山町

前稿で紹介した長綱寺の裏山に、名和一族郎党の墓と伝わる300基以上の五輪塔があります。

墓所への参道は、境内に誘導板が設置されているので、すぐにわかります。


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急な階段を登ります。


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ここが、その場所です。


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この五輪塔群は、名和長年船上山で幕府軍と戦ったときに戦死した一族を祀ったものか、あるいは、そのとき館に残った一族の女性や子どもたちの墓とも伝えられています。


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後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が都を追われて足利尊氏の天下になったとき、足利方によって墓を荒らされることを心配した長年の子孫が見つからないように土中に埋めたといわれ、それが、昭和5年(1930年)になって偶然、地元の農家の人によって発見されたそうです。


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発見当時は何の墓かわからなかったそうですが、名和長年の妹婿の家に伝わる古文書によって判明したそうで、その後、現在のかたちに祀られたそうです。


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ほとんどが五輪塔ですが、最上段の中央に1基だけ、大きな宝篋印塔があります。


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これが、名和長年の墓と考えられているそうです。


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参道から西を見下ろします。

右端に見えるのが、日本海です。


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下山して長綱寺とその裏山を見上げます。




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by sakanoueno-kumo | 2017-05-24 00:04 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その55 「長綱寺(名和一族菩提寺)」 鳥取県西伯郡大山町

前稿的石前々稿名和氏館跡のすぐ東側に、名和氏一族の菩提寺・長綱寺があります。

この寺には、名和長年、その長男の名和義高、三男の名和高光、そして後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の位牌が祀られてあり、寺紋は帆掛け船で後醍醐天皇から名和氏に賜ったものと言われています。


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寺の創建は名和長年によるもので、元は長年の父・名和行高の還暦を祝って建てた隠居所だったそうです。

長綱寺(ちょうこうじ)という名称は、長年の以前の名である長高から取ったものだそうです。

ちなみに、船上山挙兵時は、長年は長高の名乗っていたといい、後醍醐天皇の「長くて高いのは危険なことではないか」との御言葉を受け、長年の名を贈られたと伝わります。


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説明板によると、創建当初は長高の名前にあやかって「長高庵」と言ったそうですが、後醍醐天皇が足利尊氏に追われて足利氏の天下になってからは、ここが長年(長高)に関係する場所であることを知られないため、「長高庵」を「長綱庵」と改名したそうです。


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その後、長綱庵が火災で焼けたのを機会に、屋敷を前々稿で紹介した場所に移し、再建した寺院は現在の長綱寺と再度改めまたそうです。


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境内の片隅には、「硯岩」と称する遺跡があります。


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その説明書きによると、長年が後醍醐天皇を船上山へ案内する途中に休憩した岩と言われ、上部に墨つぼの様なくぼみがある形状から、「後醍醐天皇の硯岩」と呼ばれ、伝承されてきた岩だそうです。


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ところが、昭和30年代に突然行方不明になり、人々が嘆いていたところ、住職の夢枕に名和長年が立ち、「米子の皆生温泉の辺りで硯岩が粗末に扱われている。持ち帰るよう。」とのお告げがあったそうです。

これを聞いた有志たちが手をつくして探し回ったところ、そのお告げ通り皆生温泉の近くで硯岩を発見。

平成22年に寺へ帰ってきたそうです。


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夢枕云々はどうかわかりませんが、昭和30年代の話ですから、岩がなくなったという話は本当なんでしょうね。

この岩は10トン300kgあるそうです。

誰が? どのようにして? 何のために?

なかなかミステリアスな話ですね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-05-20 00:44 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その54 「的石」 鳥取県西伯郡大山町

前稿で紹介した名和氏館跡のすぐ近くに、「的石」と呼ばれる遺跡があります。

この石は、名和長年を始めとする名和氏一族が、弓矢の修練に使用した的だと伝わります。


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広い公園内の一角に、大きな石と説明板が見えます。


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説明板です。


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縦170cm、横150cmの大きな石で、たしかに平らに削ったような面があるものの、それ以外は何の変哲もないただの石です。


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なんでも、この的石は、雨が降りやんだあとに太陽が照り出すと、石の表面に白い二重の輪がくっきり見えるのだそうで・・・。


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う~ん・・・この日は太陽は照っていたものの雨上がりではなかったので、なんとも言えません。


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長年が弓の名手であったことは、『太平記』にも記されています。

『太平記』巻7「先帝船上臨幸事」によると、隠岐島を脱出した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が名和の湊についたとき、船を降りた千種忠顕「この辺りに弓矢の名手はおらぬか?」と領民に尋ねたところ、「このあたりでは名和又太郎長年という者が一番でしょう。」と答え、長年を頼ることにしたとあります。(参照:その52)

上の説明板にもありますが、長年は五人張りの強弓を引き、一矢で二人の敵兵を射抜いたとの伝説があります。


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五人張りの強弓とは、弓を張るのに5人必要だったという超強弓のことで、普通は強弓といっても3人張り程度だそうです。

現在のオリンピッククラスのアーチェリーでも、強いもので引き重量が25kgほどだそうで、これは、ひとりで十分張れるそうです。

そう考えれば、五人張りというのがいかに強弓であったかがわかり、凄まじい威力を発揮したであろうことが想像できます。


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ちなみに、日本の歴史上、有名な強弓の使い手といえば源為朝(源頼朝、義経の叔父)で、為朝の弓も五人張りだったといいます。

為朝の放った矢は、鎧武者を貫通し、後ろにいた武者の袖鎧を射抜いて止まったという伝説があります。

長年の一矢で二人の敵兵を射抜いたという伝説も、あながち盛った話ではないのかもしれません。



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by sakanoueno-kumo | 2017-05-18 23:21 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その53 「名和氏館跡」 鳥取県西伯郡大山町

前稿で紹介した名和神社から600mほど南東に、名和氏館跡と伝わる場所があります。

説明書きによると、ここは名和2代の屋敷跡で、「又太郎屋敷」または「デーノヤシキ(殿の屋敷)」と呼ばれているそうです。


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名和2代と書かれていましたが、誰と誰のことかは説明されていませんでした。

「又太郎屋敷」という呼称から、ひとりは名和又太郎長年だと思いますが、もうひとりは嫡男の名和義高?・・・あるいは次男の名和基長? 三男の名和高光

でも、長男の義高は父の死の2年後に河内国の堺浦で討死したと伝わり、三男の高光は父と時を同じくして比叡山の西坂本で討死したといわれ、次男の基長は、のちに高野山に入山してとなったといいます。

その後、名和氏は九州に下り、肥後国八代郡の地頭となっていますから、この地には戻っていません。

じゃあ、長年の父・名和行高のことでしょうか?

もうちょっと詳しく説明してほしいですね。


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名和氏は村上源氏雅兼流を自称していますが、おそらくこれは後付の由緒で、播磨国の赤松氏や河内国の楠木氏と同様、地域に根付いた土豪悪党の類だったと思われます。

「悪党」とは、現代で言うところの悪人の意味ではなく、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した自主独立の武士の集団を指します。

室町時代の「国人」の前身ですね。

この頃の「悪」は、「悪い」というより「強い」といったニュアンスの言葉だったようです。


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名和氏は海運業を営んで財をなしたと伝わりますが、海賊のようなものだったのでしょうか?


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敷地内にある碑は、天保6年(1835)に鳥取藩主の池田治道の遺命により建立されたものだそうですが、池田治道が死んだのは寛政10年(1798年)、この碑の建つ40年近く前になります。


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碑には確かに「天保六年八月」と刻まれています。

その頃に死んだ藩主となると、その2代あとの池田斉稷です。

その間違いじゃないでしょうか?


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屋敷は約2700㎡(800坪)ほどで、現在の家屋で考えれば豪邸ですが、当時の土豪の屋敷跡としてみれば、それほど広い敷地とは思えませんでした。

中世の屋敷というのは、土豪といえどもこの程度だったのかもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2017-05-17 22:29 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その52 「名和神社」 鳥取県西伯郡大山町

「その50」で紹介した御来屋漁港から800mほど南にある名和神社を訪れました。

ここは、その名のとおり、名和長年を主祭神とした名和一族以下42名を合祀した神社で、「建武中興十五社」の一社です。


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名和長年は言うまでもなく、隠岐の島から脱出した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を助け、一族郎党を率いて船上山に立て籠もり、天皇方を勝利に導いた功臣です。


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入口の鳥居の横には、「別格官幣社」と刻まれた石碑があります。

「別格官幣社」とは、国家のために功労のあった人臣を祭神とする神社のことで、明治5年 (1872年) に神戸の湊川神社が定められたのに始まり、昭和21年(1946年)に社格が廃止されるまで、日本全国に28社ありました。


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『太平記』巻7「先帝船上臨幸事」では、後醍醐天皇と名和長年の出会いを、次のように伝えます。


さてこそ主上は虎口の難の御遁有て、御船は時間に、伯耆の国名和湊に着にけり。

六条少将忠顕朝臣一人先舟よりおり給て、「此辺には何なる者か、弓矢取て人に被知たる」と問れければ、道行人立やすらひて、「此辺には名和又太郎長年と申者こそ、其身指て名有武士にては候はね共、家富一族広して、心がさある者にて候へ」とぞ語りける。

忠顕朝臣能々其子細を尋聞て、軈て勅使を立て被仰けるは、「主上隠岐判官が館を御逃有て、今此湊に御坐有。長年が武勇兼て上聞に達せし間、御憑あるべき由を被仰出也。憑まれ進せ候べしや否、速に勅答可申」とぞ被仰たりける。

名和又太郎は、折節一族共呼集て酒飲で居たりけるが、此由を聞て案じ煩たる気色にて、兎も角も申得ざりけるを、舎弟小太郎左衛門尉長重進出て申けるは、「古より今に至迄、人の望所は名と利との二也。我等悉も十善の君に被憑進て、尸を軍門に曝す共名を後代に残ん事、生前の思出、死後の名誉たるべし。唯一筋に思定させ給ふより外の儀有べしとも存候はず。」と申ければ、又太郎を始として当座に候ける一族共二十余人、皆此儀に同じてけり。

「されば頓て合戦の用意候べし。定て追手も迹より懸り候らん。長重は主上の御迎に参て、直に船上山へ入進せん。旁は頓て打立て、船上へ御参候べし。」と云捨て、鎧一縮して走り出ければ、一族五人腹巻取て投懸々々、皆高紐しめて、共に御迎にぞ参じける。

俄の事にて御輿なんども無りければ、長重着たる鎧の上に荒薦を巻て、主上を負進せ、鳥の飛が如くして舟上へ入奉る。


ちょっと長いですが、以下、要訳すると、


後醍醐天皇を乗せた船が伯耆国は名和湊に到着すると、さっそく六条少将千種忠顕朝臣が舟を降り、「このあたりに弓矢の名手と知られる者はおらぬか?」と尋ねたところ、道行く人が立ち止まって、「このあたりでは名和又太郎長年という者が一番でしょう。彼はそれほど有名な武士ではありませんが、裕福で一族も多く、皆からも信頼の厚い者です」と答えました。

忠顕は名和長年について詳しく聞き、すぐに勅使を立てると、「先帝後醍醐殿は隠岐判官佐々木清高の舘を脱出され、今この湊にお着きになられた。名和長年の武勇については、予てから陛下のお耳に入っており、頼りにされている旨仰せられている。頼みとして良いのか否か、速やかに返事をされたい」と申し渡しました。

このとき長年は一族らと共に酒宴の最中でしたが、勅使の申し入れに思案がまとまらず黙っていました。

すると弟の小太郎左衛門尉長重が進み出て、「昔から今に至るも、人が望んでやまないのは名誉と利得の二つです。われらありがたくも先帝のご信頼を受けた以上、もし屍を敵の軍門に晒すこととなっても、生前には誇り高き行動であり、また死後には名誉ある行為となります。ここは何も迷うことなくお受けするべきです」と進言し、これを聞いた長年はじめ一族ら二十余人全員が賛同。

「では早速合戦の用意をしよう。きっと追手勢も近くまで来ているだろう。長重は先帝をお迎えに行き、すぐ船上山に登れ!」と言い捨てるや、鎧に身を固めて走り出すと、一族の五人も腹巻を取って身に着けながら、高紐を締めて共に先帝をお迎えに行きました。

しかし、突然の出来事だったので御輿などの用意もなく、長重が身に着けている鎧の上に薦で編んだ筵を巻きつけ、帝を背負って鳥の飛ぶような速さで船上山に登りました。


後醍醐天皇と長年ら名和家の出会いは、突然の出来事だったようですね。

その後、船上山の戦いに勝利した長年は、後醍醐天皇帰洛の際の護衛も務めて、幕府滅亡後に後醍醐天皇によって開始された建武の新政においては、伯耆守に任じられた。


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江戸時代はそれほど大きな神社ではなかったようですが、明治16年(1883年)に旧社を新しく建て替え、鳥取県内でも最大級の神社の規模となります。


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現在の社殿は、国粋主義の盛んな昭和10年(1935年)に建てられたものだそうです。


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説明板によると、境内は名和家の米蔵があった場所だそうで、合戦の際にこれを焼き払ったため、今でも神社の裏から焼き米が出て来るそうです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-05-16 22:07 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)