カテゴリ:太平記を歩く( 73 )

 

太平記を歩く。 その43 「道誉桜(清瀧寺徳源院)」 滋賀県米原市

滋賀県米原市の清瀧寺徳源院に、佐々木道誉(高氏)が愛したと伝わる、通称「道誉桜」があると聞き、遠路訪れました。

道誉の時代、このあたりは佐々木京極氏の居城・柏原城があったとされています。


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清瀧寺徳源院の正門です。

「史蹟 清瀧寺京極家墓所」と刻まれた石碑があることでわかるように、ここは京極家の菩提寺です。


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そして、これがその「道誉桜」。


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現在の「道誉桜」は二代目だそうです。

それでも、樹齢約350年と伝わり、幹周は2.3m、樹高は約15mあります。


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わたしの妻と娘を比較の対照にしてもらえば、そのスケールが伝わるでしょうか?


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エゾヒガンザクラの一種で糸ざくらとも呼ばれるそうです。


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わたしたちのよく知るソメイヨシノに比べると、小さな花びらが特徴です。

ちなみに、ソメイヨシノはエドヒガン系の桜と日本固有種のオオシマザクラの雑種の交配で生まれた桜で、単一の樹を始源とするクローンだそうです。

ソメイヨシノが日本全国に植えられ始めたのは明治中期だそうで、したがって、「道誉桜」のように全国にある樹齢数百年といわれる桜の大樹は、すべてソメイヨシノではありません。


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境内にある県指定の重要文化財の三重塔前には、三代目の道誉桜も植えられています。


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三代目は昭和52年(1977年)に植えられたそうで、まだ樹齢40年の若者です。


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塔は、寛文12年(1672年)に讃岐国丸亀藩主京極高豊が建てたものだそうです。


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二代目と三代目をワンフレームに。

手前が三代目、奥が二代目です。


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本堂位牌堂です。

ここを訪れたのは先週の4月15日の土曜日で、実はこの日、天気予報がはずれて午前中はで、仕方なく雨の中の桜を撮影して別の場所に移動中、にわかに天気が好転して晴れてきたので、午後からの予定を変更して、もう一回ここに戻ってきて撮影しました。

戻ってきて良かった。


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最後に、お堂裏の庭園の写真です。

道誉の時代からずいぶん時代が下った江戸時代のものですが、県指定の名勝で、秋には紅葉が美しいそうです。


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庭園の端に見える白塀の向こうは京極家の墓所があります。

次稿では、その墓を紹介します。



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by sakanoueno-kumo | 2017-04-21 07:26 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その42 「勝楽寺城跡」 滋賀県犬上郡甲良町

前稿で紹介した勝楽寺の裏山に、勝楽寺城跡があります。

勝楽寺は「婆娑羅大名」異名で知られた佐々木道誉が、雲海和尚を請じて開山したものと伝わり、道誉の菩提寺となっています。

道誉は晩年この地に隠棲し、応安6年(1373年)に78歳で生涯を閉じました。

勝楽寺城は、道誉が館と領地を守護するために、応安元年(1368年)に家臣の高筑豊後守に命じて築城したものといわれています。


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登山道入口です。

この日は先日の4月16日、桜が満開から少し散り始めといった時期でした。


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登山道案内です。

所要時間は往復1時間半から2時間とあります。


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防獣ネットを開けて入山します。


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登りはじめてすぐに、「仕置場」跡があります。


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仕置場とは、いわゆる処刑場です。

その霊を弔うための地蔵菩薩が何体もつくられていました。


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そこから少し登ったところに、「経塚」といわれる平坦な場所があります。


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説明看板によると、佐々木道誉の第三子・高秀が父の菩提をとむらうために、山頂に穴を掘り諸大名を始め近隣の人々を集めて大法要をいとなみ、そのとき、集った人達に法華経の経文を一字一石に書き、その穴に埋め後世に残して菩提をとむらったものだそうです。

その中央には、「大乗妙典」と刻まれていると書かれていますが・・・。


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いわれてみれば、たしかに。


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さらに山頂の城跡を目指します。


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しばらく登ると、小さな鳥居が見えてきました。


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ここは「狐塚」といわれるそうで、この塚は、狂言「釣狐」の発祥の地といわれているそうです。


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道誉とは関係ない話なので、あとは、説明板をお読みください(笑)。


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30分以上登り続けて、ようやく尾根にたどり着きました。

ここからが城跡のようです。

案内看板には「正楽寺城」とありますが、この山の麓にある道誉の菩提寺は「勝楽寺」ですが、その勝楽寺のある集落の地名が「正楽寺」といいます。

城名などは後世につけられたものでしょうから、どっちが正しいということもないのでしょう。


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主郭近くになると、石垣跡と思われる大きな石が見え始めます。


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そして本丸跡

標高317m、比高170mあります。


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それほど広い面積ではありません。


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説明板によると、この城はところどころに縦堀があり、全国的にめずらしい「うね状縦堀山城」の姿をしているそうです。

「うね状縦堀山城」とは、「畝状竪堀(うねじょうたてぼり)」とも書き、竪堀(縦堀)とは、斜面に縦に造られた堀のことをいいます。

ただ、わたしにはどれが竪堀なのか、よくわかりませんでした。


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本丸北側斜面の石垣跡です。


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本丸跡からさらに北へ進むと、見張り台跡があります。


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見張り台跡です。


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説明板によると、ここから佐々木六角の居城・観音寺城と、京極家との境界である愛知川以北が一望できるとありますが、いまは高い樹木に覆われて周囲を見渡すことはできません。

道誉の時代、江北の京極氏と江南の六角氏の国境は愛知川を境としていましたが、時代は下って戦国時代になると、六角氏の勢力が拡大して国境は北上し、勝楽寺城も六角氏の支配下におかれました。

その後、永禄3年(1560年)の野良田の戦い浅井長政六角義賢を破り、勝楽寺城は浅井氏の支配下におかれました。

しかし、その後、永禄11年(1568年)に足利義昭を奉じて上洛する織田信長によって落城し、麓の勝楽寺と共に炎上したとされます。


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城跡の尾根伝い南端には、「上臈落とし」いわれる場所があります。


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説明看板によると、何か悲しい伝説があるみたいですが、調べがつきませんでした。

ただ、その立地からみて、ここも南側の見張り台的役割を果たしていた曲輪跡なんじゃないかと想像します。


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上臈落としからの西(湖東平野)の眺望です。

前方に見える山は、荒神山城跡のある荒神山です。


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そして南西に目を移すと、樹木のあいだに六角氏の居城、観音寺城のある山が見えます。

絶好の見張り台です。


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最後に、下山して麓から勝楽寺城を撮影。

いかにも城跡らしい山の形状ですね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-04-20 00:43 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その41 「佐々木道誉墓所(勝楽寺)」 滋賀県犬上郡甲良町

前稿佐々木道誉の名が出てきましたので、ここで少し時系列を離れて、滋賀県にある道誉関連の史跡をめぐります。

まずは、犬上郡甲良町の勝楽寺にある、佐々木道誉の墓です。


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勝楽寺のある集落の地名は滋賀県甲良町正楽寺といいます。

たぶん、元は勝楽寺の名称にあるのでしょうね。

名神高速の高架を潜って集落に入ると、いきなり「ようこそ道誉の郷・正楽寺へ」という看板が迎えてくれます。


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その向かいには、「道誉の郷」と記された石碑が。


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こちらが勝楽寺の山門

ここを訪れたのは先日の日曜日で、満開から少し散り始めといった状況でした。


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山門の軒瓦には佐々木京極家の「四つ目結紋」が。


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山門を潜ると、左手に「道誉記念堂」というお堂があります。


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道誉は北近江の守護・佐々木氏の支流京極家の当主で、京極道誉とも呼ばれます。

佐々木氏は鎌倉時代に二家に分派し、本家は六角氏、分家が京極氏となりました。


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「道誉」という名は法名で、諱(実名)は「高氏」といいます。

そう、共に鎌倉幕府を倒した足利高氏(尊氏)と同じ名前なんですね。

吉川英治の小説『私本太平記』では、同じ名の足利高氏をかねてから気に留めていた道誉との出会いが、たいへん面白く描かれています。


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また、道誉は「婆裟羅大名」という異名がよく知られていますね。

「婆裟羅(ばさら)」とは南北朝時代の流行語で、形式や常識から逸脱して奔放な生き方をポリシーとすることをいいます。

『太平記』では、を廻らし権威を嘲笑し、粋に振舞う道誉の逸話が多く記されています。


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道誉は尊氏と同じく、当初は北条幕府方に属していましたが、尊氏が後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)に呼応すると、これに従い、共に幕府を滅亡に追い込みます。

一説には、事前に尊氏と密約があったのではないかと言われていますが、定かではありません。

その後、後醍醐天皇の建武の新政が始まると、新政権の役人になりますが、尊氏が新政権に参加せず反旗を翻すと、いったんは足利軍と戦う姿勢をみせながら、土壇場で新田義貞を裏切り、足利軍に勝利させます。

これも、尊氏と同様はあらかじめ示し合わせていたんじゃないかとも言われています。


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その後は、一貫して尊氏のブレーンに徹し、高師直、土岐頼遠と並んで婆裟羅三傑のひとりとしてその歴史に刻みます。


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勝楽寺は閑静な正楽寺の集落の奥にあり、道誉の墓は境内のいちばん奥にあります。


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苔むした物寂しいたたずまいの墓石でしたが、図らずもこの日は桜舞い散る晴れた日で、婆裟羅大名として奔放に生きた道誉の人生を華やかに演出しているかのようでした。


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最後に、勝楽寺前にある西蓮池の桜並木です。



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by sakanoueno-kumo | 2017-04-19 00:27 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その40 「北条仲時以下432名墓所(蓮華寺)」 滋賀県米原市

滋賀県米原市番場にある蓮華寺を訪れました。

ここは、足利高氏(尊氏)軍の攻撃を受けて落ち延びた六波羅探題北方の北条仲時が、進退窮まり、一族432人と共に自刃した場所と伝えられます。


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蓮華寺は名神高速米原ICを降りてすぐのところにあります。

このあたりは、かつて中山道の62番目の宿場、番場宿として栄えたところです。

道沿いに、「南北朝の古戦場・蓮華寺」と書かれた誘導看板が見え、その横に「境内在故六波羅鎮将北条仲時及諸将士墳墓」と刻まれた石柱があるのですが、なぜかその1面が、野暮ったいブリキ看板で覆われていました。

石柱に刻まれた文字が古くて読みづらくなったからかもしれませんが、なんだか安っぽくて・・・。


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山門です。

ここを訪れたのは年末押し迫る12月17日。

場所が米原ということもあったのですが、今にも雪が降りそうな寒い日でした。


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蓮華寺は聖徳太子の創建で、はじめは法隆寺と呼ばれたそうですが、弘安7年(1284年)、当地の地頭で鎌刃城主の土肥元頼が、良忠の弟子とされる一向を招いて寺を再建し、八葉山蓮華寺と号したと伝わります。

山門横には、寺院の由緒と、仲時自刃を説明する看板が設置されています。


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山門横には、「血の川」と書かれた立て札が。

伝承によると、432人の鮮血滴り流れて、辺りは川の如しだったといいます。


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本堂です。


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境内の奥にある、北条仲時ら432人の墓所に向かいます。


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墓所です。


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元弘3年(1333年)5月7日、足利高氏(尊氏)軍、赤松則村(円心)軍、千種忠顕軍らに六波羅探題の館を包囲され、追い詰められた六波羅探題北方の北条仲時は、六波羅探題南方の北条時益とともに、後伏見上皇(第93代天皇)、花園上皇(第95代天皇)、光厳天皇(北朝初代天皇)を伴って東国へ落ち延びようとしますが、道中の近江国で野伏に襲われて時益は討死し、仲時も番場峠野伏に襲われ、さらには佐々木道誉の軍勢に行く手を阻まれ、やむなく番場の蓮華寺にて天皇と上皇の玉輦を移したあと、5月9日、本堂前で一族432人と共に自刃します。享年28。

『太平記』によると、仲時は自害するに際して、最後まで付き従ってくれた軍勢に感謝の意を表し、「自身の首を持って敵方に下り、恩賞を得よ!」と言って果てたといいます。

以下、『太平記』原文。


其時軍勢共に向て宣ひけるは、「武運漸傾て、当家の滅亡近きに可在と見給ひながら、弓矢の名を重じ、日来の好みを不忘して、是まで着纏ひ給へる志、中々申に言は可無る。其報謝の思雖深と、一家の運已に尽ぬれば、何を以てか是を可報。今は我旁の為に自害をして、生前の芳恩を死後に報ぜんと存ずる也。仲時雖不肖也。平氏一類の名を揚る身なれば、敵共定て我首を以て、千戸侯にも募りぬらん。早く仲時が首を取て源氏の手に渡し、咎を補て忠に備へ給へ。」と、云はてざる言の下に、鐙脱で押膚脱、腹掻切て伏給ふ。


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寄り添うように眠る432人の墓。

境内奥の森のなかで、あまり光が挿さない場所ということもあったのですが、何かもの悲しげに思え、700年近く経ったいまも、その無念さが伝わってきます。


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説明板によると、仲時の墓だけは、享保年間(1716~36年)に近くの山に移されたそうです。

この日、周辺を探してみましたが、どの山も立入禁止で入れませんでした。


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432人の墓の側には、明治22年(1889年)に建てられた記念碑があります。


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境内には、樹齢約700年と伝わる「一向杉」と呼ばれる巨木があります。

あるいは、仲時らの最期を見届けていたかもしれません。


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六波羅探題が落ちた翌日の5月8日、新田義貞が関東の上野国で挙兵。

元弘3年(1333年)5月22日、激戦の末ついに鎌倉を落とし、北条一族は執権・北条高時をはじめ全員自害

ついに北条氏鎌倉幕府は滅亡します。



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by sakanoueno-kumo | 2017-04-14 15:34 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その39 「六波羅探題府跡(六波羅蜜寺)」 京都市東山区

大塔宮護良親王楠木正成、赤松則村(円心)のはたらきに加え、幕府方だった足利高氏(尊氏)寝返りが決定打となり、元弘3年(1333年)5月7日、とうとう六波羅探題が落とされます。


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六波羅探題は現在の京都市立六原小学校にあったとされ、現在はその近くにある六波羅蜜寺石碑が建てられています。


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『太平記』によると、足利軍と六波羅軍の合戦を源平合戦になぞらえています。

足利は源氏、北条は平氏だからでしょう。

六波羅軍は足利軍の猛攻を必死に抵抗しますが、6時間の激戦のすえ、ついに壊滅します。

足利軍は、なおも追いすがる残敵を払いのけ、大宮大路の各木戸を打ち破り、二条大路から八条大路までの七つの大通りを埋め尽くしながら、ここ六波羅密寺に押し寄せました。


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やがて、赤松則村(円心)軍、千種忠顕軍も合流し、六波羅探題の館を包囲。

追い詰められた六波羅探題北方の北条仲時は、六波羅探題南方の北条時益とともに、後伏見上皇(第93代天皇)、花園上皇(第95代天皇)、光厳天皇(北朝初代天皇)を伴って東国へ落ち延びようとしますが、道中の近江国で野伏に襲われて時益は落命し、仲時も番場峠野伏に襲われ、さらには佐々木道誉の軍勢に行く手を阻まれ、やむなく番場の蓮華寺にて天皇と上皇の玉輦を移したあと、本堂前で一族432人と共に自刃します。享年28。

次回は、その蓮華寺を訪れます。



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by sakanoueno-kumo | 2017-04-13 22:09 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その38 「篠村八幡宮(足利高氏旗揚げの地)」 京都府亀岡市

京都府亀岡市にある篠村八幡宮を訪れました。

ここは、足利高氏(尊氏)尊王討幕の旗揚げをした地として知られます。

シリーズ38にして、ようやく高氏の登場です。


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鎌倉幕府の役人だった足利高氏は、当初は幕府軍として笠置山の戦い下赤坂城の戦いに従軍していましたが、そのとき、父の足利貞氏の喪中であることを理由に出兵動員を辞退しましたが、幕府はこれを許しませんでした。

『太平記』では、このことで高氏は幕府に反感を持つようになったと伝えています。


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元弘3年(1333年)閏2月24日に隠岐を脱出した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が伯耆国船上山にて挙兵すると、幕府はその鎮圧を高氏に命じます。

これを受けた高氏は、兵を率いて西へ進軍しますが、4月27日にこの地に兵を留め、社前で神に誓って決意を表明し、4月29日、後醍醐天皇側に寝返って討幕する意思を表明します。


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本殿横には、「足利高氏旗揚げの地」と刻まれた石碑があります。


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『太平記』によると、討幕の決意を表明した高氏は、戦勝祈願の願文を神前で読み上げ、その願文に添えて鏑矢を1本、神前に奉納しました。

その際、弟の足利直義をはじめ、一族の吉良、一色、仁木、細川、今川、高、上杉らの諸将も、我も我もとを一本ずつ納めて必勝を祈願したといい、そのため社壇には矢が塚のように高く積み上げらたといいます。


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境内には、そのときの矢が埋葬されたと伝わる「矢塚」があります。


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塚に建てられた石碑は、元禄15年(1702年)に奉納されたものだそうです。


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現地説明板によると、矢塚には椎の幼木が植えられ、その椎は樹齢600年程を経て周囲の椎と同じ程に成長していたそうですが、昭和9年(1934年)の室戸台風で倒れちゃったそうで、現在の椎は2代目だそうです。

第二次世界大戦時には、高氏の勝ち戦にあやかるべく、椎の倒木から作った肌身守を持参して出征した人がいたそうです。

戦前の日本では、楠木正成忠臣の象徴で高氏は逆賊扱いだったと思うのですが、必ずしもそうではなかったのでしょうか。


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矢塚横に聳えるツブラジイの巨樹です。

樹齢はわかりませんが、樹高は27mあり、「亀岡の名木」に指定されているそうです。

あるいは、この木も同じ頃に植えられたものかもしれません。


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境内の北の民家の横に、「旗立楊(はたたてやなぎ)」と呼ばれる楊が立っています。

旗揚げした高氏は、すぐさま全国各地の武将に協力を求める密書を送ったといい、5月7日までの間に、久下時重をはじめ、長澤、志宇知、山内、葦田、余田、酒井、波賀野、小山、波々伯部などが参じ、その数は2万3千にまで膨れ上がったといいます。


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このとき、次々と駆けつけてくる武将たちに陣の場所を示すため、高く聳え立つ楊の木に足利家の家紋「二両引」印の入った源氏の大白旗が掲げられたと伝えられています。


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楊の樹齢は100年程だそうで、現在の楊は昭和初期に植えられたものだそうで、高氏の時代から6~7代を経て引き継がれたものだそうです。


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高氏の寝返りが決定打となり、5月7日には京の六波羅探題が落とされ、そして5月22日に北条氏鎌倉幕府は滅亡します。

その後、高氏は後醍醐天皇から勲功第一とされ、天皇の諱「尊治」から偏諱を受け「尊氏」と改名しました。



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by sakanoueno-kumo | 2017-04-12 18:41 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その37 「滝山城跡」 神戸市中央区

「その8」で紹介した布引の滝の西側にある滝山城に来ました。

場所は、JR山陽新幹線・新神戸駅の裏山です。


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滝山城の築城年代は定かではありませんが、京都東福寺良覚が記した『正慶乱離志』によると、摩耶山合戦から1ヶ月余りあとの元弘3年(1333年)4月、赤松則村(円心)の陣として、ここ滝山城が使われたと記されています。


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城跡への登山道は2とおりありますが、この日は先に「布引の滝」を訪れたので、東から攻めます。

標高は316.5m、比高は約250mの山頂にある滝山城への登山道は、ハイキングコースとして整備されているので、藪をかき分けて進むような場所はありません。

ただ、斜面はかなり急で、結構ハードです。


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道中から望む神戸市内の眺望です。

目の前に広がるのは三宮の町並み

神戸市のド中心部です。

このような大都会のすぐ近くに中世の山城跡が残っているというのが、山と海が接近する神戸ならではという気がします。


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しばらく登ると、いかにも曲輪跡と見られる削平地が次々に表れます。


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ここ滝山城跡の遺構の保存状態は良好で、30以上の曲輪跡が確認されています。


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たいぶん上まで進むと、ところどころに石垣跡と見られる大きな岩が見られます。


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これなんて、間違いなく石垣跡でしょう。


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傾斜がゆるやかになって、尾根伝いになると、いよいよ土塁堀切などの遺構の宝庫となります。


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三の丸下に設置された説明板です。


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縄張り図です。


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大きな堀切跡です。


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立派な土塁跡です。

写真じゃ、なかなか伝わりづらいですね。


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三の丸跡と思われます。


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そして二の丸跡

ハイキング客用のあずまやが設置されています。


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そして頂上の本丸

昭和13年(1938年)に建てられた石碑があります。


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摩耶山合戦に勝利した赤松軍は、これを好機と捉え、京都近くまで攻め上りますが、そこで今度は逆に幕府六波羅軍に反撃されて後退し、ここ滝山城に立て籠もったそうです。

赤松軍は同年4月3日に滝山城を出撃し、ふたたび六波羅軍を攻撃しますが、またしても敗退。

その後、赤松軍は千種、結城軍の援軍を得て、六波羅軍を八幡、山崎で破り、5月7日に足利尊氏軍と協力して入京を果たし、六波羅を攻略するに至ります。

その拠点となったのが、ここ滝山城だったんですね。


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その後、滝山城の城主は則村の息子・赤松範資になったり、後醍醐天皇方に渡ったり、再び範資の息子・赤松光範に戻ったりしたそうですが、やがて歴史の記録からその名が消え、再び滝山城が記録に登場するのは戦国時代、三好長慶の西の拠点として松永久秀が改修したことで登場します。

その後も幾度となく戦いの舞台となり、最期は、織田信長に反旗を翻した荒木村重花隈城籠城戦のとき、落城したと考えられているそうです。


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本丸からは、木が茂って景色が見えません。

たぶん、木樹が枯れただったら、神戸の町を望めたのでしょうね。

ここを訪れたのは5月14日。

森林浴には最適な季節でしたが、景色や遺構の縄張りを見るには、冬のほうが良かったかも。

山城を訪れるのは、真冬がいいですね。


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下山して新神戸駅南側から撮影。

写真左側の山が、滝山城です。

700年経った今も、神戸の中心部を見下ろしています。




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by sakanoueno-kumo | 2017-04-08 11:54 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その36 「太山寺・太山寺城跡」 神戸市西区

神戸市西区にある太山寺を訪れました。

ここは、霊亀2年(716年)、元正天皇(第44代天皇)の勅願寺として藤原鎌足の子・藤原定恵が開山し、孫の藤原宇合が建立したと伝わる寺で、南北朝時代に建てられたとされる本堂国宝に指定されており、神戸市内ではもっとも由緒あるお寺です。


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この太山寺が、「その29」で紹介した「摩耶山合戦」と、深く関わっていたといいます。


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元弘3年(1333年)2月、赤松則村(円心)の挙兵を知った後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の皇子・大塔宮護良親王は、ここ太山寺の衆徒に赤松応援を命ずる令旨を出しました。

令旨とは皇太子、皇后、親王などが発する文書のことです。


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この令旨は現存するそうで、現在、太山寺に保管されているそうです。

それによれば、「今月二十五日寅一点に軍勢を率いて、当国赤松城に馳せ参ぜしむべし」と記されており、これを受けた同寺の衆徒は、さっそく摩耶山城に陣を布く赤松軍に加勢します。


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現存する太山寺衆徒の軍忠状によれば、赤松軍に加わった太山寺衆徒は、多くの死傷者を出しながらも、摩耶山の合戦、尼崎の合戦、坂部村の合戦を戦い、さらに京都まで攻め上ります。


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この時代、大きな寺院では多くの僧兵をかかえ、時として合戦に参加することもありました。

寺院に求められたのは、戦勝祈願の祈祷と戦力でした。

寺院にとっても、時の権力と結びついて、祈祷と戦功による恩賞としての所領を獲得しなければ、寺を運営していけない現実がありました。


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寺の東の背後の山上には、太山寺城跡があります。


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城跡への登山道には、古い石仏が連なるように並んでいます。


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堀切跡でしょうか?


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郭跡らしき山頂の削平地には、大きな石仏が建てられていました。

ここが本丸跡だとしたら、比較的小さな規模の城だっただろうと思われます。


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鎌倉幕府の滅亡に一役買った太山寺は、その後、多くの末寺をかかえ、寺内には、41もの支院や僧坊を数えましたが、やがて時代とともにその力を失っていき、現在は五つの支院を残すだけとなっています。


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現在の太山寺は、そんな往時を偲ぶものものしさは少しもなく、桜や紅葉の名所として、市民に広く親しまれています。




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by sakanoueno-kumo | 2017-04-06 19:04 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その35 「山王神社」 神戸市北区

専念寺から南西に300mほどのところにある「山王神社」を訪れました。


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ここは何の予備知識もなく、専念寺を訪れたついでに、同じ集落で目に入ったので立ち寄ってみたのですが、偶然にも、ここも赤松則村(円心)・則祐父子ゆかりの神社だったようです。


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拝殿です。


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拝殿横に設置された説明板です。

「建武動乱の折り、戦勝を祈願して円心・則祐が金幣などを奉納した」とありますね。

でも、前稿の専念寺と同じく、その立地から考えると、建武年間(1334~1338年)ではなく、元弘3年(1333年)2月の摩耶山合戦の戦勝祈願ではなかったかと想像します。
赤松氏といえば播磨国の印象が強いのですが、神戸市内にもゆかりの史跡が多くあるんですね。

このたびの史跡巡りで、はじめて知りました。


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説明板では、源義経一の谷の戦いの戦勝を祈願して、弓矢を奉納したとも書かれています。

有名な「ひよどり越え」の場所は諸説ありますが、六甲山脈の北側(通称:裏六甲)は義経の進軍路と考えられていますから、この辺りでは義経の伝承も多くあります。

また、別の機会に紹介します。



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by sakanoueno-kumo | 2017-04-05 18:44 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その34 「唐櫃城跡(専念寺)」 神戸市北区

神戸市北区の有馬温泉の近くにある「専念寺」というお寺の地が、かつて唐櫃城があったとされる場所で、赤松則村(円心)が一時滞在していたといわれているそうで、訪れました。


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専念寺は、「その33」で紹介した五社八幡神社から直線距離にして約2km南にあり、摩耶山城からは六甲山脈を超えた北側になります(神戸では、六甲山北側のことを「裏六甲」といいます)。


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現地説明板によると、円心が滞在していたのは「建武の頃」とありますが、その立地から考えると、円心がこの地に居たのは、摩耶山合戦の頃、すなわち元弘3年(1333年)2月前後ではなかったかと想像します。


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説明板によると、境内には円心とその三男・赤松則祐供養塔があると紹介されているのですが、肝心の供養塔を示す標示がなかったので、どれかわかりませんでした。

ご住職に訪ねようと思ったのですが、どなたかの法事が行われていて、聞くこともできず・・・。

とりあえず、それっぽい古い石碑を片っ端に撮影しました(笑)。


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これなんて、円心と則祐が二つ並んでるっぽくないですか?


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たぶん、この中のどれかです(笑)。


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唐櫃城の遺構らしきものは確認できませんでした。

たぶん、この裏山なんでしょうが、柵があって入れませんでした。




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by sakanoueno-kumo | 2017-03-31 17:38 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)