カテゴリ:太平記を歩く( 130 )

 

太平記を歩く。 その90 「楠木正成本陣跡」 神戸市兵庫区

神戸市兵庫区の山の手にある会下山公園を訪れました。

ここは、湊川の戦いにおいて楠木正成が陣を布いたといわれるところです。


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『太平記』には楠木正成軍が陣を置いた地について、「湊川の西の宿にひかえて、陸地の敵に相向う」と記されており、『梅松論』には「湊川の後ろの山より里まで」とあります。

それらの条件を満たす場所といえば、高台になっているこの場所なんですね。

現在は、見晴らしのいい公園になっており、その公園内のいちばん高いところに、「大楠公湊川陣之遺蹟碑」と刻まれた巨大な石碑が建てられています。


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建武2年(1335年)12月11日、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)に叛いて武家政権の樹立を目指す足利尊氏は、竹之下で新田義貞を破り、翌年の1月、京に攻め上がりましたが、その隙をついて北畠顕家が尊氏不在の鎌倉を占拠すると、そのまま尊氏の後を追い西上、尊氏軍を撃破します。

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さらに豊島河原・打出浜の戦いにも敗れた尊氏は、海路九州へ敗走しますが、その後、多々良浜の戦いに勝利して体制を立て直すと、光厳天皇(北朝初代天皇)を奉じて東上を開始。

これを迎え撃つため、楠木正成は京を発し、5月24日、既に新田義貞が布陣する湊川に着陣し、ここ会下山に本陣を布きます。

楠木勢の総兵力は、わずか700余りだったといわれます。


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石碑の揮毫は東郷平八郎元帥だそうです。


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石碑の建つ場所からは、神戸市の中心部が一望できます。

現在は高いビルに阻まれていますが、かつてはここから海辺が見渡せたはずです。

勝算の薄い戦いを前にしてこの地に着いた正成たちは、この景色を前に何を思っていたのでしょう。



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by sakanoueno-kumo | 2017-07-21 18:12 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その89 「松尾稲荷神社」 神戸市兵庫区

神戸市兵庫区にある松尾稲荷神社という小さな神社も、『太平記』にかかわりがあると聞いて訪れました。


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現在は「松福さん」とよばれるアメリカ渡来の福神ビリケンが社殿の中の奥に祀られていることで知られています。


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その社伝によると、かつては湊川の堤防上に鎮座していたといい、延元元年/建武3年(1336年)5月25日に足利尊氏軍と激突した「湊川の戦い」に臨む楠木正成が、堤防上に聳える松の大樹を目印に一族郎党の集合を命じ、一同が身につけていた神仏の護符が血に汚れるのをはばかって、その松の木の根元に祀られていた稲荷の祠に納めたといいます。


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つまり、楠木正成軍決起の地というわけですね。

その松の木は、およそ100年前の大正3年(1914年)まで残っていたそうですが、社殿の造営に伴い伐採されたそうです。


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その後、正成ゆかりの松というわけで、これに因んで「松尾稲荷」という社号になったそうです。


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戦前ごろまでは、当時、神戸の繁華街の中心地だった新開地の近くにあることもあって、多くの商売人や劇場の役者、福原の遊郭で働く芸妓たちが参拝して栄えたそうですが、いまは、住宅街の中に隠れるように鎮座しています。



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by sakanoueno-kumo | 2017-07-20 20:31 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その88 「南宮宇佐八幡神社」 神戸市中央区

神戸市中央区脇浜にある、南宮宇佐八幡神社を訪れました。

ここは、湊川の戦いに出陣途中の楠木正成が、この付近に馬を留めて武運を祈願したといわれ、のちに村人が八幡社をこの地の建てたと伝わる神社です。


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現地説明板の文をそのまま引用します。


創建は古書によると、「建武3年(1336年)楠木正成、足利尊氏追討の命を奉じ、兵庫に出陣の途次、当脇浜に同志を集め休息せし時遥に八幡宮を拝して湊川に下向し、勝利をおさめた。依って村民等其の跡地南宮川畔に八幡神社を勧請し、脇浜村の鎮守として尊崇怠りなし」と伝えられてる。


ん?・・・なんかおかしくないですか?

「勝利をおさめた」って、勝ってないし!


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言うまでもありませんが、延元元年/建武3年(1336年)5月25日に行われた湊川の戦いにおいて勝利したのは足利尊氏軍で、楠木正成軍は敗走の上自刃して果てます。

正成が勝利をおさめたのは、同じ年の2月10・11日に起きた打出合戦ですが、この戦いは、ここより20km近く東の芦屋市で行われた戦いですから、進軍の途中にこの地を訪れるというのは無理があるでしょう。
古老による言い伝えということですが、伝承なんて、あてにならないものですね。


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なお、「南宮」は「楠」の「きへん」を後世おとしてしまったものであるといわれているそうです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-07-19 22:14 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その87 「櫻井驛跡(楠公父子訣別之所)」 大阪府三島郡島本町

大阪府と京都府の府境近くに位置する「櫻井驛跡」を訪れました。

「駅跡」といっても現代でいうところのそれではなく、古代律令制度下の「駅家」の跡です。

ここは、「楠公父子訣別之所」として知られています。


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『太平記』によると、建武3年(1336年)、九州から大軍を率いて上洛してくる足利尊氏を討つべく湊川に向かう楠木正成が、この地で11歳になる嫡子・楠木正行に訓戒を与え、河内国に帰らせたと伝えられています。


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『太平記』巻16「正成下向兵庫事」には、その別れの情景が記されています。


今度の合戦、天下の安否と思う間、今生にて汝が顔を見んこと、これを限りと思うなり。

正成すでに討死すとききなば、天下は必ず将軍(尊氏)の代になりぬと心得べし。

然りといえども、いったん身命を助からんるに、多年の忠烈を失いて隣人に出ずること有るべからず。


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史跡公園内に建ついちばん大きな石碑『楠公父子訣別之所』の碑です。

大正2年(1912年)に建立されたそうです。

揮毫は陸軍大将の乃木希典

でも、乃木は明治天皇崩御の際に殉死していますから、この碑が出来たときには、既にこの世にいなかったことになります。


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こちらは、昭和6年(1931年)に建てられた『明治天皇御製碑』で、明治天皇が明治31年(1898年)に詠まれた歌が刻まれています。


「子わかれの 松のしずくの 袖ぬれて 昔をしのぶ さくらいのさと」


揮毫は海軍大将・東郷平八郎だそうです。


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こちらは、『楠公父子子別れの像』です。

昭和15年(1940年)に建てられた最初の像は銅製だったそうですが、その後、戦争の協力で金属供出され、石像に変わったそうです。

更に時を経て、現在の像は平成16年(2004年)に有志によって寄贈されたものだそうです。


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どうりで、アニメちっくな顔だと思いました(笑)。


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正行の頭上のは、本物です(笑)。


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台座の「滅私奉公」の文字は、公爵・近衛文麿の揮毫です。

昭和15年の「滅私奉公」が何を意味するか・・・、後世の私たちは知っています。


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こちらのは最も古い石碑で、明治9年(1879年)に英国大使パークスが楠木正成の精忠に感じて、「楠公訣児之処」と刻した石碑を建てたそうです。

楠公さんの精忠はインターナショナルのようです。


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こちらは「旗立松」「子別れの松」と呼ばれる古松の幹です。

この松の木の袂で、楠木父子が決別したと伝えられます。

明治30年(1897年)に松は枯死し、一部を切り取って小屋に保存したそうです。


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「桜井の別れ」のエピソードは、戦前の国語の教科書には必ず乗っていた逸話で、「桜井の訣別」という学校唱歌にもなりました。

乃木希典、東郷平八郎、近衛文麿。

戦前の国粋主義バリバリですね。

乃木も東郷も、日露戦争後は生きながらにして神に祀り上げられた人物です。

忠臣の象徴として神格扱いされた大楠公と同じですね。

ただ、正成が後世に神扱いされることを望んでいたかどうかは、定かではありませんが。


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ちなみに、この「桜井の別れ」の逸話は『太平記』のみに記されているだけで、また、当時の正行は左衛門少尉の官職に就いており、年齢はすでに20歳前後だったという説が古くからあり、史実かどうかは疑わしいとされています。



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by sakanoueno-kumo | 2017-07-15 00:11 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その86 「楠木正成奉納の灯籠(極楽寺)」 大阪市住吉区

大阪市住吉区にある極楽寺に、楠木正成が奉納したと伝わる灯籠があると聞き、足を運びました。

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門の横にある石碑には、「毘沙門天王」と刻まれていたそうですが、表面が削れて「天王」の部分が確認できません。

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その右上には「楠正成」と刻まれていますが、その後は読解できず・・・。

いつの時代に建てられた石碑かはわかりませんが、かなり古いもののようです。


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本堂左に見えるのが、正成が奉納したと伝わる灯籠です。

極楽寺の創建は不明ですが、本尊の毘沙門天は聖徳太子の真作で、ここから南に広がっていた榎津庄(奈良~平安期に見られる郷)にあった寺のものと伝えられています。


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正成の父が子供を授からないのを悲しみ、この毘沙門天王に50日の願をかけたところ、妻が身ごもり誕生したのが、のちの正成だったとの伝承があります。

この話を父母から聞かされていた正成は、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の住吉行幸に同行した折にここに立ち寄り、報恩のため石灯篭を寄進したと伝えられます。


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灯篭には「建武三年三月楠木正成建」の銘があるとのことですが、表面の風化が甚だしく、その銘を確認することはできません。


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でも、建武3年(1336年)3月といえば、打出合戦足利尊氏を撃退してから1ヶ月後のことで、後醍醐天皇の住吉行幸のときではないんじゃないかと。

まあ、伝承なんて、そんなもんでしょうけどね。


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境内には、「正成手植えの楠」と伝わる巨樹がそびえます。

確かに大樹ではありますが、樹齢700年近いとは思えないような・・・。


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伝承が本当なら、正成はこの灯籠を奉納した2ヶ月後、湊川の戦いで討ち死にすることになります。




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by sakanoueno-kumo | 2017-07-14 01:39 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その85 「瓦林城跡」 兵庫県西宮市

兵庫県西宮市にある日野神社を訪れました。

ここは、かつて瓦林城があったとされる場所です。


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白旗城で新田義貞の進軍を阻止した赤松則村(円心)でしたが、赤松軍は播磨だけでなく、摂津にも防衛線を張っていました。

そのなかの拠点のひとつが、ここ瓦林城だったとされます。

湊川の戦い時には、円心の家臣・貴志五郎四郎義氏がこの城を守っていました。


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「貴志義氏軍忠申書」という史料によると、湊川の戦いでは、北の香下寺城丹生山城から押し寄せてきた南朝軍と戦ったとあるそうです。


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その後、しばらく瓦林城という名は古文書から消えますが、やがて16世紀に越水城が出来ると、以後、瓦林城はその支城となります。


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現在は石碑のみが建ち、遺構は見られません。


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拝殿横にそびえ立つ楠の巨木です。

推定樹齢650年だそうで、あるいは、680年前の往時を知っているかもしれません。


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敷地内は「日野神社の森」として、県の天然記念物に指定、保護されています。



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by sakanoueno-kumo | 2017-07-13 10:56 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その84 「鏑射山城跡」 神戸市北区

舞台を東に移して、神戸市北区にある獨鈷山鏑射寺を訪れました。

ここ獨鈷山鏑射寺とその裏山に、かつて鏑射山城があったとされています。


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赤松則村(円心)の家臣・貴志庄の貴志五郎四郎義氏は、建武3年(1336年)3月26日に円心の子・赤松範資に属して湊川の戦いでは南朝軍と戦い、やがてここ鏑射山城に籠城。

翌月2日よりこの地で合戦したといいます。

この戦火により鏑射寺の建物はすべて焼け落ちたそうです。


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現在の獨鈷山鏑射寺の建造物は、すべて近年に建て替えられたもので、当時を偲ぶものはなにも残されていません。


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この三重塔も、昭和48年(1973年)に建てられたそうです。


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こちらの本堂も、見るからに新しそうですもんね。


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標高327メートルの裏山の山頂に向かう山道です。

途中まで登ってみましたが、草深くかなり険しそう。

ここを訪れたのは初夏の7月2日で、マムシが怖かったので、登山は諦めました。


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鏑射寺の戦いで南朝方の攻めに後退した義氏は、13日には摂津西宮の瓦林城に移りました。



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by sakanoueno-kumo | 2017-07-12 00:25 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その83 「三石城跡」 岡山県備前市

岡山県備前市にある三石城跡を訪れました。

ここは「その10」で紹介した船坂峠から西へ1kmほどの場所にある標高297mの山城で、備前国の東の玄関口を守る城でした。


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『太平記』によると、元弘3年(1333年)に三石保地頭の伊東大和二郎が、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の挙兵に呼応して築いたと伝わる城で、建武3年(1336年)に赤松則村(円心)白旗城にて新田義貞を50日間足止めにする戦いを演じた際には、足利尊氏の家臣・石橋和義がこの城を守備し、白旗城を援護したといいます。


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城跡に登るルートは、城山南側の大手から攻めるコースと、北側の搦手から攻めるコースがありますが、この日は駐車スペースがある搦手側から登ります。


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車道といってもは終始こんな感じの狭い道で、ガードレールもなく、対向車が来たらどうしようとビクビクしながら進みます。


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ここに車を停めて、ここからは徒歩で登山です。


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説明板です。


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北側から望む城山です。


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登山道はこんな感じで整備されていて、歩きにくいといったことはありません。

ですが、傾斜は結構キツイです。


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登山途中に設置された東側を望む第一展望所


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こちらは、南西を望む第二展望所


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30分ほど歩くと、城跡に到着。

まず着いた場所は、本丸北側の鶯丸跡です。


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こちらは、鶯丸跡と本丸跡の間を通る大きな堀切跡です。


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そして、いきなり本丸跡です。

搦手から登城したので、本丸から順番に下っていきます。


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約500坪あるそうです。


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居館跡には、説明板が設置されています。


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足利尊氏は九州に落ち延びてから再挙東上するまでの間、備前国には足利一族の石橋和義を大将に据え、守護の松田盛朝ら国人衆を組織して軍備を固めました。

そして建武3年(1336年)、白旗城の赤松則村(円心)、感状山城赤松則祐とともに新田軍約6万を迎え討ち、足止めにします。

その間、態勢を立て直した尊氏は、大軍を率いて進軍し、勝利します。


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本丸跡には、軍用石の残骸が残っています。

攻め寄せる敵に対して本丸からこの石を投じていたわけです。


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木々が邪魔でわかりづらいですが、本丸跡から見下ろした南側の集落です。


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本丸から南西に下った二の丸跡です。


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こちらは三の丸跡

長細い敷地です。


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三の丸南側には、立派な石垣跡が残っています。


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こちらは、三の丸東側の馬場跡


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そして、こちらが三石城最大の見どころ、大手門です。

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見事に残った野面積の石垣の遺構。

感動ものです。


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足利幕府が誕生し、赤松則祐が備前守護職となると、その重臣の浦上宗隆が守護代となって三石城に入り、その後、室町時代から戦国時代にかけて浦上氏の歴代の居城となります。


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これだけ立派な遺構を残した城跡ですが、この日、登山の道中ひとりも人に出会いませんでした。

あまり知られていないようですね。

城めぐり好きな方は、必見の史跡ではないでしょうか。


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おまけ。

城山下山途中にある、深谷の滝です。

たぶん、『太平記』の時代にもあったのでしょうね。




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by sakanoueno-kumo | 2017-07-08 00:36 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その82 「大嶋城跡」 兵庫県相生市

「その72」で紹介した白旗城から南東7kmほど下った相生湾の入江にある大嶋城跡を訪れました。

ここも、赤松則村(円心)に関係する城です。


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写真に写るおわん型の山が、大嶋城跡と伝わる大島山です。

かつて大島山は蝦江(相生湾)に浮かぶ離れ島だったそうで、長治元年(1104年)、播磨国の海老名家季がここに城郭を築いたのがはじまりといわれています。

海老名氏は、代々矢野荘別名の下司職、矢野荘例名の地頭職等に任ぜられた豪族です。


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ここを訪れたのは4月、桜が満開の日でした。


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登山口には、「大嶋城址」と刻まれた石碑が建てられています。


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側面には説明書きが。

建武3年(1336年)5月19日、児島高徳の父・和田範によって火を放たれ、灰燼に帰したとあります。


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大島山の由来です。

この説明書きによれば、保元2年(1157年)に小千通清が架僑し、次に赤松氏が船橋をかけて、赤松則村(円心)のときに、ここに城を築いたとあります。

その後、赤松氏の家臣・宇野弥三郎重氏速弥太の兄弟が城主となったとあります。

そして、焼失したのは嘉吉の乱のときと伝えています。

石碑の説明と少し違いますね。


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山頂にも、説明板が設置されていました。

こちらの説明では、石碑と同じく海老名家季が築城主としています。

建武3年(1336年)の白旗城の戦いのとき、7代目海老名景知は赤松方に属し、弟の詮季や同族の泰知と共に白旗城にたてこもって戦功をあげましたが、留守にしていたここ大嶋城は、新田義貞軍によって焼き落とされたといわれています、とあります。

築城、落城共に、諸説あるようですね。


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現在、山頂には住吉神社善光寺が並んで鎮座しています。

大嶋城は別名・浜御殿と呼ばわれるほど、美しい城だったといいます。

かつては離れ島だったことから、洋上の要塞といった感じだったのでしょうね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-07-06 23:18 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その81 「感状山城跡」 兵庫県相生市

「その72」で紹介した白旗城から東へ7kmほどの場所にある感状山城跡を訪れました。

ここは、建武3年(1336年)に赤松則村(円心)が白旗城にて新田義貞軍を50日間足止めにする戦いを演じた際、円心の三男・赤松則祐が、父に呼応してこの城に籠城し、白旗城を援護したと伝わる城です。


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もとはこの城は瓜生城と呼ばれ、鎌倉時代に瓜生左衛門尉によって創築されたと伝えられますが、「白旗山合戦」の戦功により、足利尊氏から感状を与えられて「感状山城」と呼ばれるようになったと伝えられています。


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標高305m、比高220m感状山ですが、中腹に「羅漢の里」というキャンプ場公園があり、そこから約650mの道のり。

登山道も整備されていて、2.5kmの険峻な登山だった白旗城跡に比べれば、楽に登れます。


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整備された登山道を15分ほど登ると、大手門跡にたどり着きます。

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その横には、物見岩跡があります。


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そのすぐ北側に曲輪跡」があります。

いわゆる「三の丸」のことですね。


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かなり広い面積です。


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ここから急な岩場を登ります。

おそらく、石垣が崩れた跡でしょう。


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岩場を登ると、みごとな石垣の遺構が目に入ります。


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標識には、「南曲輪群」とあります。


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綺麗に残っていますね。

中世の山城では、これほどみごとな石垣跡はなかなか見られないのではないでしょうか。

ただ、この石垣が南北朝時代のものかどうかはわかりませんが。


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南曲輪群から見た南側の眺望です。


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そしてその北側が曲輪跡」です。


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そして更に北へ進むと、曲輪跡」に到着します。

つまり「本丸」ですね。


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曲輪は広大でしたが、曲輪、曲輪は、それほど広い面積ではありません。

白旗城の支城ですから、本城よりは規模の小さなものだったのでしょう。


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本丸からの東側の眺望です。


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その後の感状山城については詳しくはわかっていませんが、天正5年(1577年)の羽柴秀吉上月城攻めの際に落城したとの説があります。




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by sakanoueno-kumo | 2017-07-05 23:46 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)