カテゴリ:太平記を歩く( 45 )

 

太平記を歩く。 その5 「鷲峰山金胎寺」 京都府相楽郡和束町

笠置山から10kmほど北にある鷲峯山山頂に金胎寺という寺院があります。

ここも、笠置寺と同じく山内に奇岩怪石が多く、古くから山岳修行の地とされてきたと伝わりますが、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が笠置山に落ち延びる途中、ここに立ち寄ったと伝えられます。


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『太平記』によると、元弘元年(1331年)8月24日の夜、三種の神器を携えて京の御所を脱出した後醍醐天皇は、四条隆資ら側近とともに奈良の東大寺に入りますが、東大寺内には幕府方の僧も多くいて歓迎されず、やむなく僧の聖尋の導きで26日にここ甲賀境の和束の里にある鷲峰山金胎寺に入ります。


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しかし、あまりにも山奥過ぎて、食糧の補給を不安視し、翌27日に笠置山に移動したと伝えられます。

かなりのドタバタ行幸だったようですね。

吉川英治の小説『私本太平記』の中で吉川氏は、この行幸について、「あわただしさのほど言いようもない。」と述べています。


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鷲峯山は山頂近くまで車で登れるのですが、かなり狭くて曲がりくねった道を5km以上走ります。

駐車場はないので路肩に車を停めて、10分ほど登山すると山門が見えてきます。

山門を潜って入山料を払うと、約2時間の行者めぐりができます。

につかまって岩場を降りたり、崖っぷちを歩いたり、なかなかハードな体験ができるようですが、高所恐怖症のわたしはパス。


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境内を目指して更に山を登ります。


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5分ほど登ると平地があり、本堂多宝塔があります。


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多宝塔は伏見天皇(第92代天皇)の勅願で、重要文化財に指定されています。

後醍醐天皇が見たであろう多宝塔は、まだ建てられて30年余りだったはずで、もっと色鮮やかだったのでしょうね。


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本堂は江戸時代のものだそうです。


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こちらも江戸時代に建てられた行者堂です。

その前の囲いの中で、おそらく護摩が焚かれるのでしょう。


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説明板です。


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さらに山頂にのぼると、西安2年(1300年)の銘が刻まれた宝篋印塔があります。

これも、後醍醐天皇がこの地にきたときには既にあったもので、国の重要文化財に指定されています。


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その説明板です。


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ここから琵琶湖比叡山が一望できるそうですが、木が覆い茂ってよくわかりません

とにかく話に聞いていたとおりの山奥で、こんなところまで、ほんとうに東大寺から1日で来られたのか疑問です。

今ですら曲がりくねった山道ですから、当時の山道を、天皇を乗せた輿が通れたとはとても思えません。

おそらく人の背をかりたか、あるいは自らの足で歩いての登山だったではないでしょうか。


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最後におまけ。

鷲峯山の山頂を目指して狭い道を車で走行中、一瞬、視界が開ける場所があるのですが、そこで見た光景がこれ。


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有名な和束の茶畑です。

なんと美しい光景でしょう。

それまでの道のりが険しかっただけに、得も言えぬ感動でした。




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by sakanoueno-kumo | 2017-01-26 15:08 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その4 「大覚寺・持明院仙洞御所跡」 京都市右京区・上京区

『太平記』の舞台である南北朝時代をめぐるには、まず、その動乱時代の発端となった背景を知らなければなりません。

そこで訪れたのは、京都市右京区にある大覚寺


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紅葉が残る晩秋の11月末に訪れました。


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鎌倉時代の仁治3年(1242年)に即位した後嵯峨天皇(第88代天皇)は、わずか4年で若干4歳の皇子・後深草天皇(第89代天皇)に譲位し、自らは上皇となって院政を行います。

ところが、その後に生まれたもう一人の皇子を溺愛した後嵯峨上皇は、後深草天皇を17歳の若さで退位させ、11歳の弟に帝位を継がせます。

これが、亀山天皇(第90代天皇)です。

その後、後嵯峨上皇は次の天皇を亀山天皇の皇子に定めますが、これには兄の後深草上皇も超不満

やがて、後嵯峨上皇が崩御すると、その遺言と称して亀山天皇は自身の皇子・後宇多天皇(第91代天皇)を帝位につけます。

これを不服とした後深草上皇は、鎌倉幕府に調停を願い出ます。

訴えを聞いた幕府は、後深草上皇の不服をもっともなこととし、後宇多天皇の次には後深草上皇の皇子・伏見天皇(第92代天皇)を即位させます。

しかし、今度はこれに対して後宇多天皇方が不服を申し立てます。

その後、両派すったもんだの泥仕合があったのち、幕府が提示した妥協案は、10年ごとに帝位を両派で交代に継承していくという、両統迭立でした。

この案に両者は納得し、以後、後伏見天皇(第93代天皇)、後二条天皇(第94代天皇)、花園天皇(第95代天皇)と、両派交代で帝位につきます。

これが南北朝の前身で、後深草天皇の子孫を持明院統といい、亀山天皇の子孫を大覚寺統といいます。

やがてその大覚寺統が南朝となり、持明院統が北朝となっていきます。

南北朝の動乱の発端は、皇室の兄弟喧嘩からはじまったのです。


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紅葉が綺麗です。


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現在の大覚寺は、広大な敷地面積を誇る国指定史跡となっており、桜や紅葉の名所として多くの観光客で賑わっています。


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一方、こちらは上京区にある持明院仙洞御所跡

かつては長講堂領という広い荘園を有していた持明院統ですが、現在は、光照院門跡の前に石碑だけが建てられており、この日も、ここを訪れていたのはわたしだけでした。

皇室の歴史の上では、南朝(大覚寺統)の方が正当とされているためなのか、寂しい姿でした。


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大覚寺統の血を引く後醍醐天皇(第96代天皇)は、この鎌倉幕府が調停した両統迭立に従おうとせず、それどころか、幕府を滅ぼして古代の天皇を中心とした政治を行おうと考えたんですね。

そして、その1~3で紹介した笠置山での決起に至るわけです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-01-25 21:08 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その3 「笠置山・後編」 京都府相楽郡笠置町

前編中編の続きです。

頂上近くまで登った東側に、「ゆるぎ石」と名付けられた石があります。


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この場所は、元弘元年(1331年)9月に起きた「元弘の乱」における笠置山の戦いにおいて、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が鎌倉幕府軍から奇襲を受けた場所だそうで、この「ゆるぎ石」は、奇襲に備えるための武器としてここに運ばれて来た石で、ここから石を落とす手筈だったようです。


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ところが、奇襲が雨の降る深夜だったので敵の進軍に気付かず、「ゆるぎ石」も結局使われることなく、いまだにここに置かれたままなんだそうです。


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ちなみに、説明版によると「ゆるぎ石」はその重心が中央にあり、人の力でも動くため「ゆるぎ石」と云われていると書かれていましたが、試しに押してみましたが、微動だにしませんでした。


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その「ゆるぎ石」の場所から見た北東の眺望です。

下に流れるのは木津川です。


ここで、なぜ後醍醐天皇がここ笠置山を拠点としたかについて触れておきます。

笠置山は六波羅のある京都から伊賀、伊勢に抜ける伊賀街道の中心にあり、南は柳生から吉野へ抜ける交通の要衝に位置しています。

また、笠置山は標高288メートルの急峻な小山で、北方には木津川、西側には打滝川が流れ、さらに、もとより修行道場としての笠置寺防御壁で守られていたため、大軍を寡兵で迎え撃つにはまさに絶好のポイントだったわけです。


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さらに山頂目指して登ります。


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雲が近い!!


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『太平記』によると、

「そもそも笠置の城と申すは、山高くして一片の白雲峯を埋め、谷深くして萬丈の岩道をさへぎる。つづら折りなる道をあがること十八町、岩を切つて堀とし、石をたたんで塀とせり。たとへ防ぎ戰ふ者なくとも、たやすくのぼるべきやうなし。」

とあります。

文中、「笠置の城」とありますが、『太平記』では、ここを「城」と考えていたようです。


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その笠置城二の丸跡です。


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といっても、ここ笠置山は後醍醐天皇の仮皇居として使用されただけで、築城されたわけではありません。

しかし、室町時代以降に山頂の行在所の跡を本丸とみたてたので、そこから一段下の広場を「二の丸跡」と呼ぶようになったそうです。


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こちらは西側にある「貝吹き岩」

説明板によると、勤皇軍の士気を高めるために、この岩上よりさかんに法螺貝を吹いたともいわれているそうです。


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「貝吹き岩」からのぞむ北西の空。


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そして、目的の「後醍醐天皇行在所跡」にやってきました。


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『太平記』によると、笠置山を包囲した北条幕府軍7万5千に対して、迎え討つ天皇方2千5百余りだったといいます。

この数字は多少盛ってるでしょうが、大軍を寡兵で迎え討ったことは間違いないでしょう。

この兵力差にもかかわらず天皇方は善戦し、約1か月間持ちこたえますが、暴風雨となった9月28日(10月30日)の夜、幕府軍の奇襲を受けて天皇方は総崩れとなります。

幕府側の陶山義高らによって火をかけられた笠置寺は、大磨崖仏をはじめ山内49ヶ寺すべてが焼失、後醍醐天皇は逃亡しますが、数日内にとらえられます。


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階段を上ると、行在所跡正面は石の柵が張り巡らされ、なかは樹木が鬱蒼と茂っています。


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しかし、柵は正面だけにしかなく、脇からなかへ入れます。

結構な広さです。


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行在所跡の片隅には、自然石に埋め込まれた後醍醐天皇の歌碑があります。


後醍醐天皇御製

うかりける 身を秋風に さそわれて おもわぬ山の 紅葉をぞ見る


つらいことになり、秋風に誘われるままたどり着いたこの山で、思いもよらぬ美しい紅葉を見ることになろうとは・・・といったところでしょうか?


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捕らえられた後醍醐天皇は神器を光厳天皇に譲渡し、翌年の元弘2年(1332年)春、隠岐島へ流されます。

「建武の新政」成立は、そのさらに翌年のことでした。


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最後に、下山して木津川の畔から笠置山を撮影。

約700年前に戦場となった場所とは思えない、のどかな風景です。




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by sakanoueno-kumo | 2017-01-20 22:18 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その2 「笠置山・中編」 京都府相楽郡笠置町

前編の続きです。

笠置町産業振興会館の東に見える標高288mの山が、笠置山です。


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登山口です。

車でも山頂近くまで登れると聞き、この日は車で登りました。


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古道の入口には、古い石碑があります。


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車を停めて5分ほど登ると、笠置寺の山門に到着します。

傍らには、「天武天皇勅願所、後醍醐天皇行在所」と刻まれた石碑があります。


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笠置寺の歴史は古く、その創建は不明ですが、出土品から見て飛鳥時代すでに造営されていたと考えられています。

木津川の南岸にそびえる笠置山は、古くからの修験道場信仰の山として崇められてきました。


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笠置山全景です。

このあと、このMAPを右回りにめぐっていきます。


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向こうに見えるのは本堂の「正月堂」

その頭上に、巨大な岩が見えます。

笠置山は、こんな巨石が至るところに見られます。


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写真では伝わりづらいですが、ド迫力の巨石群です。


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日本では、太古の時代から山岳、滝、巨岩、巨樹などの自然物が崇拝の対象とされ、巨岩は磐座(いわくら)などと呼ばれて、神の依代(よりしろ)、すなわち目に見えない神の宿る場所とされてきました。

日本の神道には教祖などはなく、八百万の神ですからね。

山の神、海の神、森の神、水の神、自然を司るすべてのものに神が宿るという信仰です。

笠置山は、そんな巨石信仰山岳信仰が仏教思想と結び付き、山中の巨岩に仏像が刻まれ、聖地として崇められるようになったと考えられます。


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文殊石笠置石です。

縁起によると、のちに天武天皇(第40代天皇)となる大海人皇子が、鹿を追って狩りの途中にこの岩上に行き着き、岩から転落しそうになったときに山神に弥勒像を刻むことを誓願して助けられたといいます。

感謝した皇子は、身に付けていた笠を置いたことから、笠置山と呼ばれるようになった・・・と。

手前の十三重塔の鎌倉時代のものと推定され、重要文化財に指定されています。

一説には、元弘の乱の供養塔であるとも・・・。


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本堂を見下ろすようにそびえる弥勒石(大磨崖仏)です。

高さ約16メートル、幅約15メートルあります。

かつてはこの表面に弥勒磨崖仏が刻まれていたといいますが、元弘元年(1331年)9月の笠置山の戦いで石の表面が火の熱で剥がれおち、いまは見ることができません。


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写真では伝わりづらいですが、現地に行くとその巨大さに圧倒されます。


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本堂からさらに奥へすすんだところにある「虚空蔵菩薩磨崖仏」です。

こちらは元弘の乱の戦火をまぬがれ、現在でもその姿を見ることができます。

高さ約12メートル、幅約7メートルあります。


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弘法大師(空海)の作とも言われるそうです。


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岩と岩の狭い間を通る「胎内くぐり」です。

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その説明板。


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大人は体を斜めに傾けながらやっと通れる狭さです。


長くなっちゃったので、次回もう1回だけ笠置山を続けます。



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by sakanoueno-kumo | 2017-01-19 21:06 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(4)  

太平記を歩く。 その1 「笠置山・前編」 京都府相楽郡笠置町

京都府、奈良県、三重県の3県が交わる県境ちかくにあるJR笠置駅を訪れました。

ここは1日の利用客はがわずか200人余りしかいない小さな山奥の単線の駅で、電車は1時間に1本しか発車しません。


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そんなひっそりとした山奥で、約700年前にわが国の歴史が大きく動きました。

それが、これ!


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元弘元年(1331年)9月に起きた「元弘の乱」における笠置山の戦いのジオラマモニュメント。

笠置駅前のいちばん目立つ場所にあります。

「元弘の乱」とは、鎌倉幕府を倒すべく挙兵した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)と、鎌倉幕府北条氏の戦いのことで、ここ笠置山は、その決戦の場となりました。

『太平記』の3巻に出てくる最初のクライマックスです。


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なぜここを訪れたか・・・。

これからしばらく『太平記』に関連する史跡を、関西を中心にめぐってみたいと思い立ちました。

となると、まず最初に紹介すべきは、最初に歴史が大きく動いた、ここ笠置山の地からスタートすべきかと思い、神戸から車で約2時間かけてこの地を訪れました。


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『太平記』は、わが国中世の大乱を描いた戦記文学です。

乱世を描いて、なぜ『太平記』というのか不可解な作品で、その内容は『戦乱記』というに相応しいものです。

作者は宮方(後醍醐天皇方)に近い人物といわれますが、詳細はわかっていません。


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『太平記』の書き出しは、平安時代以来の院政を廃し、天皇親政の世を実現した後醍醐天皇の元亨元年ごろに始まり、北条氏鎌倉幕府の滅亡「建武の新政」の成立、朝廷の分裂南北朝の並立、その南北朝のいずれかに属した公家や武家の興亡、やがて足利尊氏室町幕府を開き、その後、幕府内の抗争「観応の擾乱」、そして二代将軍・足利義詮が死亡する後村上天皇の正平23年(1368年)に至る、46年間が描かれています。

現在伝えられている『太平記』は全40巻あり、日本の歴史文学の中では最長の作品とされています。

もちろん、600年以上前に書かれたものですから、あくまで伝承の域を出ない虚実取り混ぜた話もたくさんありますが、日本の中世を知るにおいて、外せない作品といえます。


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駅前の笠置町産業振興会館の外壁には、「笠置元弘の乱絵巻」と書かれた長い看板が設置されていました。


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絵の下の文末には、<笠置寺所蔵の「笠置寺縁起絵巻」より>とあり、どうやら笠置山上にある笠置寺が所蔵する絵巻を観光客用の看板に仕立てたもののようですね。

通常、絵巻物は右から左へ展開するものですが、駅から笠置山に向かう導線の左側に設置されていることから、左から右へ読んでいく構成になっています。

意図はわかるのですが、縦書きの文章を左から読むのは、けっこう難しい・・・。


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笠置町産業振興会館の館内には、後醍醐天皇楠木正成が初めて対面した場面のジオラマが展示されています。


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『太平記』の3巻によると、笠置山の笠置寺に行在所を設けた後醍醐天皇は、自身の周りに名のある武将が全くいないことに不安に感じていたところ、夢で「木に南」と書く者が自分を助けるとのお告げがあり、その後、河内国の金剛山に楠木正成という者がいると聞き及び、急遽、正成を笠置山に呼び寄せたといいます。

吉川英治『私本太平記』では、後醍醐天皇の呼びかけになかなか応じない正成の心の葛藤が描かれていましたね。

わたしにとっての『太平記』の知識は、ほとんど『吉川太平記』がメインです。

なので、楠木正成のイメージは、やはり武田鉄矢さん。

こんなイケメンではありません(笑)。


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さて、そんなこんなで、しばらく『太平記を歩く』シリーズにお付き合いください。

たぶん、かなり長いシリーズになります。

次稿は笠置山を登ります。





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by sakanoueno-kumo | 2017-01-18 22:19 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)