カテゴリ:歴史考察( 28 )

 

坂本龍馬 没後150年の節目に再考する暗殺犯の諸説。 その4

坂本龍馬暗殺の黒幕説として、ここまで松平容保説と薩摩藩説、紀州藩士報復説を考えましたが、もうひとつの有力な説として、土佐藩説があります。

実は、最近のわたしは、この説にいちばん信憑性を感じています。


e0158128_13104610.jpg

一般的に言われる土佐藩黒幕説は、具体的な人物名でいえば参政の後藤象二郎ですね。

かつては龍馬の盟友・武市半平太率いる土佐勤王党弾圧した後藤でしたが、慶応2年(1866年)に長崎に出張して以来、龍馬と深く関わるようになり、次第に龍馬に感化されていきます。

そして慶応3年(1867年)、龍馬の発案とされる船中八策に基づいて大政奉還を土佐の藩論とし、将軍・徳川慶喜に上申して実現に至るのですが、この働きが藩主の父・山内容堂から高く評価され、大きく栄進します。

しかし、後藤はこれが龍馬の発案だとは明かしませんでした。

この一連の発案が龍馬であることを隠すために龍馬を亡き者にした・・・というのがこの説の推論ですが、であれば、そのことを知るすべての人物を殺さねばならず、動機としては無理があります。

それに、後藤象二郎という人物像の他のエピソードなどから見ても、そこまで器の小さな人物だったとも思えません。

龍馬の名を容堂に明かさなかったのも、明かす必要がなかったからではないでしょうか。

いくら坂本龍馬という名が天下に轟いていたとしても、土佐に帰れば下級藩士

藩主の耳に入れるべき人物ではなかったでしょうし、後藤にしてみれば、特にそれが普通の感覚だったんじゃないかと思います。

後藤自身としても、龍馬の能力は認めつつも、所詮は郷士といった見下した感情があったでしょうし、むしろ、自分が龍馬を使っているといった気分だったんじゃないでしょうか。

龍馬の手柄を横取りしたなんて意識は毛頭なかったと思います。


じゃあ、他にどのような動機があったか・・・。

この点で、ある方のブログを読んで目からウロコが落ちました(参照:しばやんの日々「坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか ~~その2」)。


前稿でも紹介しましたが、龍馬が暗殺される約半年前の慶応3年(1867年)4月23日に起きた「いろは丸事件」で、龍馬は紀州藩との談判で一歩も引かず、金塊武器弾薬などの積荷分、8万3,526両198文損害賠償を要求し(江戸時代後期の1両は現在の価値に換算すると3万円から5万円で、約25億円~42億円に相当します)、その後、後藤の協力も得て龍馬はこの日本最初の海難審判に全面勝利します(平成に入ってからの海底のいろは丸の潜水調査では、龍馬の主張した武器類は見つからなかったのですが、その話はまた別の機会に)。

その後、紀州藩からの減額交渉があり、紀州藩が海援隊に賠償金7万両を支払うことで決着を見るのですが、その7万両が土佐商会(土佐藩が経営する長崎の商社で、この当時、海援隊を管理していた)に支払われたのが11月7日。

しかし、その8日後に龍馬は凶刃に倒れます。

なんか匂いませんか?

本来であれば、そのうちの約半分の船の損害金は、船のオーナーである大洲藩に支払われるべきでしたが、実際に支払われた形跡がないそうです。

その後、その7万両がどうなったのか・・・。

ここで登場するのが、のちに三菱財閥の創始者となる岩崎弥太郎です。


e0158128_13152853.jpg

龍馬の死によって求心力を失った海援隊は解散を余儀なくされ、その事業と資産は後藤と岩崎に引き継がれ、やがては岩崎の立ち上げた九十九商会に繋がっていきますが、のちに岩崎は、明治政府が信用のなくなった藩札をすべて買い上げるという後藤からのインサイダー情報によって、10万両で藩札を安く買い漁ってボロ儲けします。

この資金の出どころが、いろは丸事件の賠償金だったんじゃないかと・・・。

岩崎は龍馬が暗殺された数ヶ月前、龍馬が長崎から上京していく船を見送った日の日記に、「余、不覚にも数更の涙を流す」と記しているそうです。

それほどの関係にありながら、岩崎は、龍馬が暗殺される少し前の10月28日から龍馬が殺されたあとの11月22日まで大阪に滞在していますが、その間、龍馬をまったく訪ねていません。

これは少し不自然な気がしますよね。

まるで何かを知っていたかのような・・・。


実際に後藤と岩崎が龍馬を亡き者にするために見廻組に指示したというのは考えづらいとしても、龍馬の居場所をリークした、ということは考えられなくもない気がします。

龍馬が近江屋に潜伏していた事実を知っていたのは、土佐藩士の一部だけだったといい、当然そのなかには、後藤が含まれています(もっとも、龍馬自身が不用心に出歩いていたため、近江屋潜伏の事実は知れ渡っていたとも言われますが)。

後藤は経済面においては公私混同も甚だしかったといい、岩崎も、かつて土佐藩の公金100両を使い込んで役職を罷免された前科があります。

ふたりとも、金に目がくらんでもおかしくない男だとは、ちょっと言い過ぎでしょうか。

でも、暗殺の動機としては、政治的なものや思想的なものより、よほど現実味があるように思うのですが・・・。


e0158128_13192830.jpg

土佐藩黒幕説には、他にも谷干城説があります。

谷は龍馬の暗殺現場に真っ先に駆けつけた人物で、瀕死の中岡慎太郎から事情を聞きだし、新選組の仕業と決めつけ、局長・近藤勇斬首に処したのも谷でした。

見方を変えれば、その新選組説を作ったのが谷だったとも言えるわけで、のちに見廻組今井信郎が暗殺を自供したときも、売名行為だとしてこれを認めようとしませんでした。

谷は龍馬の暗殺犯を生涯かけて追いかけたと言われていますが、どうも、不自然な気がしないでもないです。

現在伝わる龍馬と慎太郎襲撃時の話は、事件発生後に現場に駆けつけた田中光顕や谷干城らが、意識のあった慎太郎から聞いた話しだと言われていますが、自らも襲われて瀕死の重症を負っていた慎太郎としては、あまりにも克明過ぎる証言をしています。

龍馬はまず初太刀で横なぎに斬られて、床の間に置いていた刀を取ろうとした際に背中を斬られ、刀を手にしてごと相手の太刀を受け止めるも、そのまま額に太刀を受け、これが致命傷となって死んだ・・と。

自分も襲われているのに、そんなに詳しく観察できるものでしょうか?

谷たちが作った話なんじゃないかと・・・。


いずれにせよ、龍馬が潜伏していた近江屋は、土佐藩邸の目と鼻の先にあり、であれば、なぜ土佐藩邸に寝泊まりしなかったのかという疑問は拭いきれません。

組織に縛られるのが嫌な性分だった・・・というのは物語などに見る龍馬像ですが、実際には、そんなカッコイイ理由ではなく、何か、土佐藩邸には入りたくない、入っても安全とはいえない理由があったんじゃないでしょうか。

残念ながら、この時期の龍馬には、安全な場所などどこにもなかったような気がします。


e0158128_14540330.jpg

他にも、紀州藩説新選組説御陵衛士説や、なかには中岡慎太郎との心中説まで、様々な推論、邪論がありますが、結局はどれも決定的な論証はなく、推論の域をでません。

通常、推理小説などで犯人探しをする場合、「恨みを抱いていたのは誰か?」「目障りに思っていたのは誰か?」「得をしたのは誰か?」といった着眼点で絞り込みますが、龍馬の場合、その条件に当てはまる人物がたくさんいるんですよね。

それが、これだけ多くの説を生むことになったと言えます。

後世の私たちから見れば愛すべき人物像の坂本龍馬ですが、同時代に生きる者たちにとっては、必ずしもそうではなかったようです。


龍馬の語録にこんな言葉があります。


「義理などは夢にも思ふことなかれ。身をしばらるるものなり。」

「薄情の道、不人情の道、わするることなかれ。」


大事を成すためには、義理や情を捨てよ、という意味ですね。

本当に龍馬がこの言葉どおり生きていたかはわりませんが、国事に疾走するための自戒の念を込めた言葉だったのでしょう。

龍馬の持つ、明るく、楽天的で、濶達な、愛すべき人物像とは裏腹に、この時期の龍馬は、土佐からも、薩摩からも、長州からも、幕府からも理解されることのない、孤立した存在となっていたといえます。

その意味では、非業の最後は、避けられない必然だったのかもしれません。








ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

by sakanoueno-kumo | 2017-11-19 00:26 | 歴史考察 | Trackback | Comments(4)  

坂本龍馬 没後150年の節目に再考する暗殺犯の諸説。 その3

今回は、紀州藩士報復説について考えます。

e0158128_14540330.jpg

坂本龍馬が暗殺される約半年前の慶応3年(1867年)4月23日、龍馬率いる海援隊の汽船いろは丸と、紀州藩大型汽船・明光丸が瀬戸内海讃岐沖で衝突する事件が発生しますが(いろは丸事件)、このとき龍馬は紀州藩との談判で一歩も引かず、金塊武器弾薬などの積荷分、8万3,526両198文損害賠償を要求し(江戸時代後期の1両は現在の価値に換算すると3万円から5万円で、約25億円~42億円に相当します)、その後、後藤の協力も得て龍馬はこの日本最初の海難審判に全面勝利します(平成に入ってからの海底のいろは丸の潜水調査では、龍馬の主張した武器類は見つからなかったのですが、その話はまた別の機会に)。

その後、紀州藩からの減額交渉があり、紀州藩が海援隊に賠償金7万両を支払うことで決着を見るのですが、その7万両が土佐商会(土佐藩が経営する長崎の商社で、この当時、海援隊を管理していた)に支払われたのが11月7日。

しかし、その8日後に龍馬は凶刃に倒れます。


e0158128_17411787.jpg

龍馬の死を知った海援隊士たちが最初に疑ったのが、紀州藩士による「いろは丸事件」の報復でした。

海援隊士・陸奥陽之助(宗光)は、実行犯を新選組、そしてその黒幕を紀州藩公用人の三浦休太郎(安)と決めつけます。

三浦は紀州藩の京都における周旋方(諸藩との外交交渉係)で、在京諸藩の幕府擁護論のリーダー的存在であり、「いろは丸事件」の談判では、紀州藩代表として龍馬と直接交渉した人物でした。

陸奥たちが三浦を疑ったのは無理もなかったでしょう。


龍馬が暗殺された約3週間後の12月7日夜、陸奥陽之助ら海援隊・陸援隊士16名が、三浦が泊まっていた京都の油小路花屋町下ルにある「天満屋」を襲撃します。

しかし、身の危険を察知していた三浦は、会津藩を通して新選組に警護を依頼しており、襲撃当日は、新選組隊士らと酒宴の最中でした。

そのため、狭い天満屋は双方入り乱れた大乱闘となり、三浦の家臣2名、新撰組隊士1名、襲撃者側に2名の死者が出ましたが、三浦本人は、顔に軽いけがをしただけでした。

世にいう「天満屋事件」です。


e0158128_17412244.jpg

この紀州藩士報復説は、もっともわかりやすい動機といえ、陸奥らが真っ先に疑ったのは当然だったかもしれません。

しかし、この説に関しては、それを裏付ける証拠はまったくなく、現在ではこの説を推す歴史家はあまりいません。

よくよく考えてみると、三浦が龍馬を殺して恨みを晴らしたという推論は、ちょっと短絡的すぎる気がしますね。

「いろは丸事件」の談判は、事故発生当初は海援隊と紀州藩汽船・明光丸の間で行われていましたが、途中から、龍馬は土佐藩家老の後藤象二郎を引きずり出し、土佐藩vs紀州藩政治的な談判に持ち込みました。

そしてその談判に紀州藩は全面敗訴したわけで、その賠償金も支払ったあとでした。

もし、ここで三浦が龍馬を殺したとなれば、藩間の政治問題に発展します。

そんなリスクを負ってまで恨みを晴らすなど、あまりにも稚拙な行動といっていいでしょう。

藩の外交を任されるほどの人物だった三浦が、そんな軽挙に至ったとは考えづらいですね。

もし、龍馬を殺すなら、談判の最中だったんじゃないでしょうか?

談判が終わり、賠償金も支払ったあとに龍馬を殺しても、紀州藩は何の得も得られません。

動機としては単純明快でわかりやすい紀州藩士報復説ですが、信憑性は薄いですね。


維新後、三浦は諱であるを名乗り、大蔵省官吏、元老院議官、貴族院議員を経て、第13代東京府知事を務めたあと、明治43年(1910年)、81歳まで長寿します。

それだけ明治政府に貢献しながら、後世に、坂本龍馬を殺した(かもしれない)人物として名が知られているのは、少々気の毒な気がしますね。

次回に続きます。








ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

by sakanoueno-kumo | 2017-11-18 09:28 | 歴史考察 | Trackback | Comments(2)  

坂本龍馬 没後150年の節目に再考する暗殺犯の諸説。 その2

前稿の続きです。

次に、こちらも歴史ファンから根強く支持されているのが、薩摩藩黒幕説です。

坂本龍馬と親交の深かった薩摩藩ですが、慶応3年(1867年)に入ると、その関係は微妙になってきます。

龍馬の推し進める「大政奉還」に表面では賛同しながらも、実際には武力倒幕の準備を着々と進めていた薩摩藩にとっては、平和改革路線を主張する龍馬は次第に目障りな存在になりつつあり、革命成就後の薩摩閥の地位確保のために、龍馬を消したというのがこの説の推論です。


e0158128_15131310.jpg

以前はわたしもこの説に最も信憑性を感じていたのですが、ただ、よくよく考えてみると、やはり腑に落ちない点が浮かび上がります。

というのも、果たして薩摩が龍馬をそれほど重要視していただろうか?・・・と思うんですね。

薩摩藩といえば、幕府に次ぐ勢力を持つ大藩であり、その中心的指導者だった西郷隆盛は、幕末の動乱の初期段階から活動していた名士でした。

一方の龍馬は、最近にわかに名前が売れてきた程度の人物で、西郷にしてみれば、薩長同盟の仲介人といった程度の認識でしかなかったんじゃないかと思います。

その薩長同盟も、後世の小説などでは龍馬と中岡慎太郎が成立させたように描かれますが、これも見方を変えれば、薩長が手を結ぶために双方に親交があった龍馬たちを利用したともとれますし、たぶん、そんな側面もなきにしもあらずだったんじゃないでしょうか。

実際、西郷が国元にいた大久保利通に宛てた書状のなかに「坂本某という脱藩浪士を便利に使っている」といったニュアンスのことが書かれています。

西郷にとって龍馬は、それほど重要な存在ではなかったと思うんですね。


e0158128_14540330.jpg

慶応3年(1867年)に入ってからの龍馬の新国家の構想は、薩長を中心とした雄藩に徳川家も加えた連合政権だったといわれ、大政奉還から暗殺されるまでの約1ヵ月間の龍馬の政治活動は、主にその構想を実現するための周旋活動だったといいます。

この動きは、たしかに薩摩にとっては少々目障りだったかもしれませんが、とはいえ、時流は薩長にありましたから、龍馬ごときを殺そうが殺すまいが、結局は薩長主導のもとに戊辰戦争は起こっていたと思います。

むしろ、どっち付かずの土佐藩を討幕勢力に引き入れるためにも、薩長にとって龍馬はまだまだ利用価値があったといえます。

どう考えても、この時点で薩摩が龍馬を殺すことは、ハイリスクローリターンだと思うんですね。

e0158128_15131733.jpg

ただ、もし薩摩藩黒幕説が事実だとすれば、その中心人物はやはり西郷隆盛だったと思います。

一部には、龍馬とはあまり接点がなかった大久保利通が、西郷の了承なしで暗殺を指示したとの説がありますが、少なくともこれはあり得ないでしょう。

この時期、大久保は主に朝廷への工作を担っており、他藩士との外交の中心は、西郷でした。

「敬天愛人」の体現者としてのイメージが強い西郷ですが、この時期の西郷は、幕府を挑発するために不逞浪士に江戸市中で乱暴狼藉を行わせたり、官軍のために貢献した赤報隊偽官軍として処断するなど、道義に反する行いを数多く断行しており、マキャベリストとしての顔が目立ちます。

一方の大久保は、冷徹な鉄仮面というだけで、そういう面は見られません(一説には、岩倉具視とともに孝明天皇毒殺したなんて話もありますが、これも、裏付ける史料はなにもなく、俗説にすぎません)。

また、武力倒幕に最もこだわっていたのも西郷ですし、革命成就後の薩摩閥の地位確保のためという動機であれば、尚のこと西郷だと思います。

事実、維新後の明治政権におけるふたりを見てもわかるように、一貫して薩摩閥を重視した西郷に対して、大久保は薩摩人には珍しく藩閥に固執しない人物で、そのことが薩摩人からの大久保不人気の一因となり、やがては西南戦争につながっていきます。

そんな後年のふたりを比較してみても、脱藩浪士から土佐藩士に復帰した龍馬の政治活動を疎ましく思うとすれば、大久保より西郷だったのではないでしょうか。

いずれにせよ、最初の話に戻りますが、西郷にせよ大久保にせよ、殺さなければならないほど龍馬を重要視していたとは思えません。


龍馬が暗殺されたとき、西郷も大久保も、薩摩に帰国していました。

何のために帰っていたかというと、討幕のための出兵を要求するために帰っていたのです。

実は、薩摩藩はこの時期に至ってもなお藩内保守派の勢力が強く、決して一枚岩ではありませんでした(むしろ、西郷ら倒幕派のほうが少数派だったとも言われます)。

それら保守派を説得して出兵するための藩論をまとめるために帰国していました。

彼らにしてみれば、いかにして藩内の保守派を抑えるかが眼前の最大の課題であって、はっきりいって龍馬など眼中になかったと思います。

彼らの敵はむしろ薩摩藩内にあり、本当に暗殺したかったのは、藩内の政敵だったんじゃないでしょうか(その最大の政敵が国父の島津久光だったため、さすがに暗殺するわけにはいかなかったでしょうが)。

そんな背景から見ても、薩摩藩黒幕説というのは、よくよく考えてみると薄いように思えますね。

次回に続きます。








ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

by sakanoueno-kumo | 2017-11-17 00:08 | 歴史考察 | Trackback | Comments(0)  

坂本龍馬 没後150年の節目に再考する暗殺犯の諸説。 その1

坂本龍馬150回目の命日を迎えた昨日の稿で、襲撃当日の記録を追いましたが、本稿では、その暗殺犯について改めて考えてみたいと思います。

当ブログでは7年前にも同じネタを起稿していますが(参照)、あれからわたしも色々と見聞きし、少し考えが変わっています。

まあ、もとより確信を得た説などないんですけどね。

e0158128_14432061.jpg

実行犯については、今では通説となっている京都見廻組の面々(佐々木只三郎を頭に、今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎の7人)と見てほぼ間違いないんじゃないでしょうか?

彼らの供述に多少の矛盾点があることから、一部、見廻組説を否定する意見を耳にしますが、歴史研究家の方々のあいだでは、否定する人がほぼいない定説となっているかと思います。

問題は、誰が彼らに殺らせたか?・・・ですね。

実際、今井信郎渡辺篤(渡辺吉太郎と同一人物?)は、襲撃の理由を「上からの御指図」と供述しており、また、自分たちの斬った坂本という人物が、それほどの大人物だとは知らなかった、と後年に語っていることからみても、彼らは所詮、末端の実行犯に過ぎなかったでしょう(リーダー格の佐々木只三郎だけは龍馬を暗殺する政治的意図を知っていたかもしれませんが、佐々木は龍馬の死の2ヶ月後に戦死しており、死人に口なしです)。

e0158128_14471615.jpg

「上からの御指図」という供述を素直に解釈すれば、見廻組の上役である京都守護職、つまり会津藩主の松平容保になります。

事実、前年の寺田屋事件以降、幕府は龍馬を罪人として指名手配しており、見廻組も新選組も、龍馬を追っていました。

シンプルに考えれば、松平容保の命令という見方が正しいように思いますが、ただ、釈然としないのは、京都守護職からの指図であれば、正当な警察権の行使であり、暗殺する必要があったのか?・・・という疑問です。

殺さずに捕縛すればいいはずで、仮にやむを得ず殺してしまったとしても、新選組の池田屋事件のように、堂々と名乗りをあげれば良かったはず。

しかし、龍馬襲撃は紛れもなく暗殺でした。


e0158128_14540330.jpg

この疑問について、この時期は大政奉還後であり、京都守護職も見廻組も「公務」ではなかったとする意見もあります。

たしかに、この約1ヵ月前に将軍・徳川慶喜によって大政奉還が宣言されましたが、幕府の廃止が公式に宣言されるのは12月9日の「王政復古の大号令」においてであり、薩長の新政権が誕生するのも、そのあとのことです。

龍馬が襲撃されたこの時期はまだ、政権は幕府にありました。

現代でも、衆議院を解散しても次の選挙で新しい内閣ができるまで、現状の暫定内閣が国の執行部ですからね。

現に、慶喜は政権を投げ出すと公言したものの、容保はじめ幕府役人の多くはこれに反対の意志を示しており、彼らにしてみれば、少なくとも鳥羽伏見の戦いで薩長軍に錦旗が掲げられるまでは、自分たちの行いは幕府という日本国政府「公務」だという認識だったと思います。

したがって、容保の命令であれば、「坂本を捕縛せよ。抵抗するならば斬り捨ててもよい。」となったんじゃないかと。


e0158128_14563379.jpg

歴史家の磯田道史氏は、佐々木只三郎の兄で会津藩公用人であった手代木直右衛門が、松平容保の命で佐々木に実行させたと説かれています。

龍馬は、幕府若年寄永井尚志のもとへ、暗殺される前日まで連日のように通いつめており、その永井の寓居の向かい側に佐々木の下宿していた松林寺があり、龍馬の行動は逐一監視されていた、と。

磯田氏がMCをつとめる『英雄たちの選択』で力説しておられました。

なるほど、そう聞けば説得力がありますが、だとしても、なぜ暗殺しなければならなかったか、という疑問は拭えません。

こうした事件は穿った見方をせず、シンプルに考えたほうがいいとは思うのですが、闇夜に紛れた暗殺という事件の内容を思うと、やはり、腑に落ちない点が多いんですよね。

というわけで、次回、他説を考えます。







ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ


by sakanoueno-kumo | 2017-11-16 03:43 | 歴史考察 | Trackback | Comments(2)  

坂本龍馬 没後150年の命日に思う。

坂本龍馬暗殺されたのは、慶応3年11月15日(1867年12月10日)。

つまり、今日が150回目の命日にあたります。

約1年前になりますが、京都国立博物館で行われていた「特別展覧会 没後150年 坂本龍馬」に行ってきました。

その後、今年に入って、長崎、東京、静岡で同じ展覧会が行われていたそうですね。

残念ながら展示品は撮影禁止のため紹介できませんが、130通余り残されている龍馬直筆の手紙や、愛用した北辰一刀流の目録など、なかなか見ごたえがありました。

龍馬の手紙は本にもなっているので、有名なものはこれまで何度も読んで知っていたのですが、やはり、実物で読むとさらに引き込まれましたね。

この日、午後1時から6時半過ぎまで、6時間近く展示品に見入っていました。


e0158128_14015807.jpg

龍馬が殺された150年前の今日は、朝からだったといいます。

前日から龍馬は風邪気味だったため、それまで潜んでいた近江屋のはなれの土蔵から、母屋の2階に移っていました。

そこに夕刻、中岡慎太郎が訪ねてきます。

このとき近江屋2階には、龍馬の下僕・藤吉と、書店菊屋の息子・峯吉がいました。

やがて土佐藩下横目の岡本健三郎も訪れますが、しばらく雑談を交わしたのち、龍馬が峯吉に「腹がすいたから軍鶏を買ってこい」と命じると、岡本も峯吉と一緒に部屋をでました。

峯吉が軍鶏を買い戻ってくるまでの時間がおよそ20~30分

その間に事件は起きました。


e0158128_14085085.jpg

午後9時過ぎ、数人の武士が近江屋を訪れます。

入口を叩く音に藤吉が応対に出ると、「拙者は十津川の者、坂本先生ご在宿ならば、御意を得たい。」と、名刺を差し出しました。

十津川郷士には龍馬も慎太郎も知己が多いので、藤吉は特に怪しむことなく龍馬に名刺を渡し、部屋から戻ってきたところを尾行していた3人の男のうちのひとりが斬りつけます。

その物音を聞いた龍馬は、藤吉が客人とふざけていると思い、奥から「ほたえな!」大喝しました。

この声で、刺客たちは龍馬の所在を知ります。

そして藤吉の持ってきた名刺を眺めていた龍馬と慎太郎のところへ、電光石火の如く飛び込んできた刺客2名は、あっという間もなく龍馬たちに斬りかかりました。

そのひとりが「こなくそ!」と叫んで慎太郎の後頭部を斬り、もうひとりは龍馬の前額部を横にはらいます。

龍馬は床の間に置いてあった刀を取ろうと身をひねったところを、右肩先から左背骨への二の太刀を受けます。

続いての三の太刀は立ち上がりざまで受け止めるも、鞘を割られ、刀身を削り、その勢いでまたも龍馬の前額はなぎはらわれます。

脳漿が吹き出すほどの重傷をうけた龍馬は、そのまま倒れました。

慎太郎も刀を屏風の後ろに置いてあったため、短刀を抜き応戦したものの、龍馬以上に数創の太刀を受けて倒れます。

刺客たちは止めの太刀を入れることなく、「もうよい、もうよい」との言葉を残して立ち去りました。

この刺客たちの、ほとんど間髪を入れない技に、腕には覚えのあった龍馬も慎太郎も、完全に立ち向かうすきがありませんでした。


e0158128_14132507.jpg

龍馬は間もなく正気を取り戻し、刀を抜いて行灯に照らしながら無念げに慎太郎に向かって「石川(慎太郎の変名)、手はきくか。」とたずねたといいます。

慎太郎が「手はきく」と答えるのを聞きながし、行灯をさげて隣の六畳間へにじり寄り、階段上から家人を呼んで医者を求めましたが、そのときは既に精根が尽きていました。

「俺は脳をやられた。もういかん。」とかすかに呟くと、うつぶしたまま龍馬は絶命しました。

その血は欄干から下の座敷までしたたり落ちていたといいます。

坂本龍馬、享年33歳。

奇しくもこの日、龍馬の33回目の誕生日でした。


e0158128_14151650.jpg

慎太郎は蘇生し、2日間生き延び、一時は焼き飯を食べるほどの元気を取り戻していたといいますが、その後、容態は悪化し、17日に死去します。

中岡慎太郎、享年30歳。

現在に伝わる襲撃時の様子は、蘇生した慎太郎が語ったものだといわれています。


e0158128_14233606.jpg

上の写真は展示会場を出たときに撮影したもの。

展示品に見入ってしまい、気がつけば外は夜になっていました。

下の写真は、展示会場で購入した没後150年の図録です。


e0158128_14233286.jpg

龍馬、慎太郎が凶刃に倒れてから今日で150年が経ちました。

ちなみに、不肖わたくし、今年50歳。

龍馬没後100年の年に生まれました。

わたしが生まれたときには、龍馬たちが殺されたときに既に生まれていた人が、まだたくさんこの世にいたんですね。

わたしの父は昭和5年(1930年)生まれ、わたしの母は昭和13年(1938年)生まれですが、龍馬たちと共に土佐勤王党に参加していた田中光顕という人物は、昭和14年(1939年)まで生きています。

田中光顕は慎太郎の陸援隊の幹部で、龍馬たちが襲撃されたとき、その現場に駆けつけて重傷の慎太郎から経緯を聞いた人です。

わたしの父や母が生まれた頃には、まだそんな人物が生きていたわけで、そう考えると、龍馬たちの時代って、そんなに昔ではないんですよね。


e0158128_14234047.jpg

上の写真は京都東山にある龍馬と慎太郎の墓所です。
毎年11月15日には、ここで坂本龍馬命日祭が行われていますが、
今年は150回忌の法要ですから、さぞかし盛大に行われるのでしょうね。


さて、次稿では、没後150年の節目ということで、改めて暗殺犯の諸説を考えてみたいと思います。






ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

by sakanoueno-kumo | 2017-11-15 00:06 | 歴史考察 | Trackback | Comments(4)  

坂本龍馬の北辰一刀流免許皆伝は、やはり事実だった! 

e0158128_21185141.jpg先ごろ、坂本龍馬の剣術の腕前を証明する資料が見つかり、話題になっているようです。
記事によれば、今年6月、高知県立坂本龍馬記念館が北海道に住む坂本家の子孫の方から寄贈を受けた資料の中に、かつて「北辰一刀流兵法皆伝」の巻物が実在したとの記述があり、その後、火災で失われたと説明されている文書が確認されたそうです。
嬉しいニュースですね。

幕末の剣豪、千葉周作が創始した北辰一刀流千葉道場で剣術を学んだ龍馬は、後世の証言などから剣の達人だったと伝えられますが、その一方、実際の目録や皆伝を示す史料が現存しないため、近年は疑問視する声が多くあがっていました。
剣の達人と言われながらも護身用にピストルを持ち、実際に剣を使って戦った逸話もなく、しかも、不意をつかれたとはいえ、近江屋でいとも簡単に刺客に討たれたことなどから、龍馬が剣の達人だったという説は、後世の物語が作り出した虚像なんじゃないか?・・・と。

実際、わたしたちが知る坂本龍馬の人物像というのは、以前も当ブログの「坂本龍馬の人物像についての考察。」の稿でも述べたとおり、虚実とり混ぜた物語の中からその「龍馬像」をもらっています。
とくにその「龍馬像」を決定的にしたものが、故・司馬遼太郎氏の代表作『竜馬がゆく』で、わたしたちの知る龍馬像はこの作品によって作られたと言われることに異論はありません。
ただ、その『竜馬がゆく』には、司馬氏の創作部分が多く入っており、世間一般の龍馬像に懐疑的な意見の方々は、それを根拠に批判します。
坂本龍馬を日本史上のスターにしたのは司馬遼太郎の大罪で、実際の坂本龍馬は、とくに大きな功績を残したわけでもなく、当時はそれほど重要視される人物ではなかった・・・と。

たしかに、司馬氏の描いた竜馬像のすべてを鵜呑みにするのは間違いだとは思います。
でも、司馬氏のファンの立場として反論させてもらうと、司馬氏は、『竜馬がゆく』を執筆するにあたって、一等資料だけでなく、ゴシップの類から新聞記事、龍馬の脱藩後に出かけた土地のそれぞれの郷土史までも、しらみつぶしに買い集め、その数およそ3000冊、重さにして約1トン、金額は昭和30年代当時で1000万円もかけたといいます。
手間を掛ければいいというものでもないかもしれませんが、少なくとも、司馬氏の描いたフィクションというのは、氏の想像の世界だけで創りだされた荒唐無稽なものではなく、莫大な史料の断片を繋ぎあわせて確立した龍馬像であり、限りなく実像に近い虚像だと、わたしは思います。

e0158128_21211559.jpg

京都の東山にある龍馬の墓所です。
ここには、幕末維新に殉じたそうそうたるメンバーの墓や慰霊碑が並んでいますが、その中で、最も大きな面積に祀られているのは木戸孝允ですが、龍馬と中岡慎太郎の墓も、いちばん見晴らしのいい場所に、特別扱いの様相で葬られています。
もし、当時の坂本龍馬が、とるに足らない人物だったのであれば、こんな墓の扱いではなかったのではないでしょうか?
ここへ来ると、いつもそう思います。

とにもかくにも、このたびの発見は、龍馬の実像にせまる大きな史料になりそうですね。
剣の達人論争も、これで決着になるかな。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

by sakanoueno-kumo | 2015-10-14 21:25 | 歴史考察 | Trackback | Comments(0)  

桓武平氏と清和源氏 ~禍福はあざなえる縄の如し~

 今年の大河ドラマの主役・平清盛の血筋を桓武平氏という。桓武平氏とは桓武天皇(第50代天皇)の子孫のうち、平姓を賜り天皇の臣下になった家のことである。桓武平氏にはいくつもの系統があるが、もっとも有名なのが桓武天皇の第三皇子である葛原親王の系統である。そのうち葛原親王の長男・高棟王の子孫は京の宮廷貴族として栄え、公家平氏堂上平氏などと呼ばれた。清盛の妻・時子やその兄弟の平時忠建春門院などがこの血筋を引いている。

e0158128_196372.jpg 一方、清盛らに繋がる武家平氏の祖となったのが、高棟王の弟の高見王の子、つまり桓武天皇から見れば曾孫にあたる高望王である。武勇に優れていた高望王は平姓を賜り平高望と名乗り、9世紀末ごろに上総介に任じられて関東に下った。この当時、坂東では徒党を組んで盗賊行為を働く群党の蜂起が頻繁に発生しており、天皇家の血統と武勇をあわせ持つ高望に、その鎮圧が期待されたと伝わる。やがて、平国香、平良持、平良兼、平良正、平良文ら高望の息子たちは、いずれも鎮守府将軍や諸国の受領を務めるなど、坂東に大きな勢力を持つこととなる。そしてその子孫が常陸や下総、武蔵などの関東各地に土着し、坂東平氏として繁栄した。後世、鎌倉幕府の御家人として名をはせる千葉、三浦、上総、大庭などはその末裔である。東国といえば源氏のイメージが強いが、武士の勃興期には平氏こそが坂東の覇者だったのだ。

 桓武平氏の転機をもたらしたのは、10世紀に起きた「平将門の乱」だった。高望の孫である平将門が常陸や上野で大規模な反乱を起こすと、下野国の押領使・藤原秀郷と共に将門の鎮圧に功をあげたのが、将門の従兄弟にあたる平貞盛だった。貞盛は、乱を平定した功により従五位上に叙せられ、丹波守や陸奥守、鎮守府将軍などの職務を歴任。その子供たちも朝廷の官位をもらい、桓武平氏が中央軍事貴族として繁栄する足がかりを得た。このうち、貞盛の子で伊勢を拠点とした平維衡は、藤原道長などの中央の上流貴族に奉仕しつつ、常陸や下野、伊勢の受領を歴任して力をつけた。この維衡こそ、伊勢平氏の祖といわれる人物であり、清盛の祖父・平正盛の曽祖父にあたる。

e0158128_1973525.jpg 一方、源頼朝木曾義仲の血筋である清和源氏は、清和天皇(第56代天皇)の孫である経基王が臣籍降下により源姓を賜り、源経基と名乗ったことに始まる。経基王は上述した「平将門の乱」や、同時期に起きた「藤原純友の乱」で活躍した人物である。経基の子・源満仲や孫の源頼光源頼信らは藤原摂関家に仕え、頼光は摂津を、頼信は河内を拠点として、それぞれ摂津源氏河内源氏の祖となった。

 源氏と東国との関わりは頼信の時代に始まったと考えられている。11世紀初頭に東国で起きた「平忠常の乱」において、朝廷が討伐軍を派遣してもなかなか鎮圧できなかったものを、頼信はいとも簡単に鎮圧して武名をあげ、源氏の関東進出の土壌を作った。頼信の子・源頼義「前九年の役」を平定、頼義の子・源義家「後三年の役」を主導した。この過程で東国の武士団の多くが頼義、義家と主従関係を結んだといわれる。後年、源頼朝が流人生活を送っていた伊豆で旗揚げし、またたく間に関東を席巻する素地はこの時代に作られていたのである。

 河内源氏を中心に清和源氏が繁栄する一方で、伊勢平氏は維衡の子やその孫の代になると勢いがなくなり、上流貴族に仕える侍や中央官庁の三等官程度の地位に低迷、源氏の後塵を拝していた。その源氏と平氏の地位を逆転させたのが、清盛の祖父・正盛だった。源義家の嫡子・源義親が出雲で反乱を起こすと、隣国因幡守として義親の追討をみごと果たし、一躍武門のトップに踊りでたのである。一方、源氏の棟梁は義親の子・源為義が継いだが、粗暴なふるまいが多かったため昇進できず、その子・源義朝が棟梁になったときには、すでに平氏との差は抜きがたいものになっていたのである。大河ドラマ『平清盛』の舞台となっているのは、そんな時代である。

 しかし後年、義朝の子・頼朝らの手によって伊勢平氏が滅亡に追い込まれるのは周知のところだ。互いに相対しながら隆盛と低迷を繰り返してきた桓武平氏と清和源氏。まさしく、「禍福はあざなえる縄の如し」である。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村

by sakanoueno-kumo | 2012-07-11 23:59 | 歴史考察 | Trackback(2) | Comments(4)  

武士の起源

 武士はいつ頃、どのようにして歴史に登場してきたのだろうか。従来の説としては、平安時代中期、地方の豪族有力農民の中から領主が生まれ、自分たちの土地を守るために武装して農民を支配したのが武士の起源だと考えられてきた。その中から武士団が形成され、さらに身分の高い桓武平氏清和源氏などに組織されて、やがて平安時代末期の平清盛源頼朝の出現によって、ついに貴族から政権を奪うに至る。武装した農民が徐々に力をつけて、古い貴族政権を倒して新しい武家政権を創りだしたというわけだ。たしか、私の中学・高校時代の日本史で習った武士の起源は、そんな感じだったと思う。

 しかし、在地領主が全て武士となったわけでなないし、この時代、寺院民衆も自分の身を自分で守るために武装するのは当たり前で、農民だけが武力を持とうとしたわけではなかった。むしろ、武士団の棟梁となった平氏や源氏たちのほとんどは中下級の貴族出身で、その源平の武士たちに与した地方の武士たちも、大なり小なり都との繋がりを持って朝廷から官位を得ていた者が少なくなかった。そこで、従来の「在地領主起源説」に対して、近年では武士はむしろ京から起こったとする「職能武士起源説」が主流となりつつあるらしい。この説によれば、武士は朝廷を守る「衛府」という組織から発展したもので、10世紀以降、都の軍事貴族に継承されて武士職ができたというのである。この説における武士観は、朝廷と結びついて農民に君臨する支配者としての側面が強く、農民たちの中のリーダーが自衛のために武力を持ったという従来の武士観とは、ずいぶん異なる。今年の大河ドラマ『平清盛』の中で、武士たちの存在を「王家の犬」と表現していることが話題になっているが、まさしくこの説でいえば、武士は朝廷の用心棒的存在といっていいだろう。

e0158128_1914238.jpg

 武士が武士として認知されるようになったのは、10世紀中頃に起きた平将門藤原純友による「承平・天慶の乱」からだといわれている。この頃、京の貴族社会では家々で世襲する「家業」が定着しはじめていたようで、「承平・天慶の乱」の鎮圧に貢献した者たちやその子孫が武士として認定され、戦闘を家業とする「武家」が誕生したというわけだ。つまり、武芸という職能を持った戦闘の専門職として誕生したのが武士の始まりだったというのである。実際、平清盛の遠祖・平貞盛も、「承平・天慶の乱」の際に平将門の追討に貢献して朝廷から官位を叙せられ、貴族社会への足がかりを得るとともに、その名声を利用して在地支配を強めた。やがて、それを受け継いだ子孫たちが「武家の棟梁」となり、軍事貴族を組織して武士団を形成していったのである。

 また、源平合戦で勝利をおさめた源頼朝の手よって成立した鎌倉幕府についても、武士階級が古い貴族政権を倒して打ち立てたわが国初の封建国家という従来の解釈から、公家や寺社などの諸勢力とともに中世の国家を形作っていた権門のひとつだった、という考え方(権門体制論)が主流となりつつあるらしい。この論によれば、鎌倉幕府は国家の軍事および警察権の担当組織であり、国政全体を掌握するまでには至らなかったというのでる。政権はあくまで朝廷にあって、幕府は公家政権下の軍事権門にすぎなかった・・・と。これまでの武士と幕府を中心とした歴史観は、大きく変わりつつあるようである。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村

by sakanoueno-kumo | 2012-03-23 21:32 | 歴史考察 | Trackback(2) | Comments(4)  

院政と上皇について。

 今年の大河ドラマの主役・平清盛が生きた時代、わが国の政治は「院政」によって動かされていた。院政とは、退位した天皇である上皇(太上天皇の略。出家すると法皇になる)が、父権に基づき天皇の上にたって、上皇の家政機関である院庁で行う政治のことである。現代でも、総理大臣の職を退いてなお影響力を行使し続けることを「院政をしく」などというが、それはこの歴史的な政治形態からきたものである。

e0158128_19195149.jpg 清盛が生まれる約30年前までは、摂関家と呼ばれた公家・藤原氏が国政の実権を掌握していた。摂関家とは天皇の代理である摂政、天皇の補佐役である関白とを世襲する家柄のことで、摂関家の繰り広げる政治のことを摂関政治と呼び、その時代を政治史の上では摂関時代と呼ぶ。そんな中、摂関政治に疑問を持った白河法皇(第72代天皇)が、応徳3年(1086年)にまだ8歳の善仁親王(堀河天皇)に譲位したことが、院政の始まりとされる(白河院の父である後三条上皇(第71代天皇)が最初という説もある)。その後、鳥羽法皇(第74代天皇)、後白河法皇(第77代天皇)、後鳥羽法皇(第82代天皇)の政権がその最盛期となった。

 院政は「治天の君」と呼ばれる天皇家の家長が、現役の天皇の父または祖父の立場から政治を主導するものだが、上皇であれば誰でも院政が行えたわけではない。たとえば、鳥羽院の第一皇子である崇徳天皇(第75代天皇)が、永治元年(1141年)に異母弟の体仁親王(近衛天皇)に譲位して上皇になった後も、実権は「治天の君」である鳥羽院が握り続けていたし、承久3年(1221年)に承久の乱が起きたときは、後鳥羽法皇のほかに土御門上皇(第83代天皇)と順徳上皇(第84代天皇)という二人の上皇がいたという例もある。崇徳院の場合、近衛天皇への譲位を承諾したのは、近衛天皇が自身の「皇太子」の立場で即位すると考えていたからだった。たとえ弟であっても、皇太子に位を譲るのだから、崇徳院は「父」の資格をもって院政を行えると期待していたのである。しかし、譲位の内容を記した宣命には「皇太弟」と書かれており、父権はあくまで鳥羽院のままだった。騙されたと知った崇徳院は、鳥羽院を深く恨んだという。天皇の兄では院政は行えないのである。

 そんな強い政治力を有していた上皇たちも、独自の軍事力は持っていなかった。このため、当初は公家の身辺警護などに当たっていた武士のうち、優秀な者が上皇の身辺警護に当たる「北面の武士」に登用される。さらに、盗賊海賊が暗躍した際、大寺院の僧兵たちが強訴を企てた際などに、院は武士を動員さするようになる。そんな院政下で頭角を表したのが、伊勢平氏の平正盛平忠盛平清盛の三代だった。また、院政は「院近臣」という新たな政治勢力を生み出した。富裕な受領や乳母の夫や子、学者や実務官僚など、家柄よりも経済力や学識、院との個人的な繋がりによって取り立てられた人たちである。保元の乱後に実権を握った信西は後白河院の乳母の夫で、出家前は下級貴族だった。また、平治の乱で滅亡した藤原信頼は後白河院の男色相手であり、鹿ケ谷事件で島流しになった平康頼は後白河院の今様の弟子だった。武士も学者も、院近臣としての立場を足がかりにして出世したのである。

 治承3年(1179年)の政変によって政権を掌握した平清盛が政治体制として利用したのも院政だった。孫である安徳天皇(第81代天皇)を即位させた清盛は、外祖父の立場から天下に号令するのではなく、娘婿の高倉上皇(第80代天皇)による院政をとおして清盛の意志を国政に反映させた。その高倉院が崩御したのち、清盛は後白河院に院政の復活を要請するが、この清盛の行動からも、天皇の外祖父という立場だけでは政権運営が難しく、院政という政治形態をいかに必要としていたかが伺える。この時代、天皇という位よりもはるかに上皇の位が上だった。

 この、白河院、鳥羽院、後白河院の三上皇(もしくは後鳥羽院も入れた四上皇)の時代を政治史の面から院政時代と呼ぶ。だが、これ以後院政制度がなくなったわけではなく、鎌倉時代以降は政治史が幕府中心となるため目立たなくなるだけで、朝廷ではこれ以後も連綿と院政が受け継がれ、幕末の光格上皇(第119代天皇・明治天皇の曽祖父)まで続く。現代では光格院が最後の上皇で、明治維新後の憲法では天皇が生前に退位することがなくなった。だが、ご高齢で病の体をおしてまで公務に励まれる今上天皇のお姿を見ていると、先ごろ秋篠宮親王が言及しておられたように、「天皇定年制」を真剣に考える必要があるように思える。天皇は一定の年齢に達すると皇太子に譲位して上皇となる。実に理にかなった制度を、皇室は1000年以上も前から確立していた。昔と違って人間の寿命が延びた今だからこそ必要な制度といえるのではないだろうか。現行のわが国の制度では、それは「院政」ならぬ、ただの「院制」の復活に過ぎないのだから。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村

by sakanoueno-kumo | 2012-03-16 18:03 | 歴史考察 | Trackback(1) | Comments(2)  

豊臣秀吉は6本指で、ひとつの眼球にふたつの瞳があった?

 豊臣秀吉6本指だった、という逸話があるのはご存知だろうか。これは、よくある偉人の超人的伝承とはちがって(たとえば、聖徳太子が一度に複数の人の話を聞き分けた・・・とか)、それなりの根拠をもった逸話である。この説の起こりは、織田信長時代にキリスト教布教活動のため来日していたポルトガル人の宣教師、ルイス・フロイスが編纂した『日本史』によるもので、その中に次のような記述がある。

 ルイス・フロイス『日本史』豊臣秀吉編 I 第16章
「優秀な武将で戦闘に熟練していたが、気品に欠けていた。身長が低く、醜悪な容貌の持ち主だった。片手には六本の指があった。眼がとび出ており、支那人のように鬚が少なかった。極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺していた。抜け目なき策略家であった。」


 これ以降、海外では、この「6本指説」が広く信じられてきたが、日本では、フロイス以外にこの点にふれる史料がないことや、フロイスの記述には多分に私怨が含まれているという理由から否定的な意見が多く、“邪説”とされてきた。

e0158128_03078.jpg しかし、私はこの説を信じている。たしかにフロイスの記述をみれば酷い言いようで、彼が秀吉に好感を持っていなかったことがわかるが、だからといって、6本指を作り話とする理由にはならないように思う。フロイスの残した安土城の記述などを読めば、彼は自分の目で見たことを執拗なまでに詳細に記しており、秀吉の6本指も、フロイスには強烈なインパクトとして映り、記録に残したものと考えられる。
(← 6本あるようには見えないが・・・。)

 そのフロイスの記述を裏付ける史料として、秀吉の旧友、前田利家が記した回想録が、近年になって見つかっている。その内容は次のとおり。

 前田利家『国祖遺言』
「大閤様は右之手おやゆひ一ツ多六御座候然時蒲生飛 生飛弾殿肥前様金森法印御三人しゆらく(聚楽)にて大納言様へ御出入ませす御居間のそは四畳半敷御かこいにて夜半迄御 咄候其時上様ほとの御人成か御若キ時六ツゆひを御きりすて候ハん事にて候ヲ左なく事ニ候信長公大こう様ヲ異名に六ツめかな とゝ御意候由御物語共候色々御物語然之事」


 この利家の談話からわかるのは、秀吉は右手の親指が1本多かったということ。要訳すると、「上様(秀吉)ほどのお人ならば、若いときに6本目の指をお切りなればよかったのに、そうされないので信長公は“六ツめ”と異名されていた。」と語っているもので、この談話を信じれば、フロイスの記述が“邪説”でないということになる。

 生まれつき手足の指が多い人のことを「多指症」というそうだが、これはそれほど珍しいことではないらしい。主にアフリカやヨーロッパに多いそうだが、東アジアでも1000人に1人ぐらいの割合で生まれるそうだ。ということは、戦国時代(織豊時代)の我が国の人口は約1200万人と言われるから、単純計算で1万人程度は「多指症」の人がいたということになる。ただ、戦国時代でも現代でも多指症に生まれた場合、幼児の間に切断して5本指にするのが一般的で(通常6本目の指は役に立たない場合が多いらしい)、その意味では、秀吉のように6本指のまま大人になった例は、当時としても珍しかったのかもしれない。

 では何故、秀吉は6本指のままだったのか・・・。ここからは私の想像だが、6本目の指を幼い頃に切り落とす慣習は、武士階級や、ある程度の身分の者に限られていたのではないだろうか。農民の家に生まれた秀吉は6本指のまま成長し、その後、武士となったことから、武家社会では珍しい存在となった。成長してから切り落とすことも出来たかもしれないが、彼はあえてそれをせず、周囲から奇異な目で見られることを逆に反骨心にして、天下人への出世街道を上っていったのではないだろうか・・・と。

e0158128_0351879.jpg しかし、天下人となってからの秀吉は、肖像画を右手の親指を隠す姿で描かせたり、どうも、6本指の事実を歴史上の記録から抹消しようとしたきらいがある。
(たしかに、この肖像画の右手の描き方も、少々不自然な気がしないでもない。 →)
“猿”“禿げ鼠”とあだ名されたことが、これほどまで後世に伝わっているのに対し、利家の談話にある“六ツめ”というあだ名は、現在でもあまり知られていない。これを逆に考えると、秀吉が“六ツめ”というあだ名を歴史の記録から削除するために、あえて、 “猿”“禿げ鼠”というあだ名が後世に伝わるように操作した・・・と考えるのは、穿ち過ぎだろうか。(あえて猿顔に肖像画を描かせた、なんてことはないと思うが。)秀吉にとって一番のコンプレックスは、卑賤の出自でも醜悪な容貌でもなく、6本指だったのでは・・・と。

 作家・司馬遼太郎氏が、小学校の教科書向けに書いた文章『洪庵のたいまつ』の中で、生まれつき病弱だった緒方洪庵について、こう述べている。
 「人間は、人なみでない部分をもつということは、すばらしいことなのである。そのことが、ものを考えるばねになる。」
 たしかにそのとおりで、たとえば野口英世は、1歳のときの火傷で左手の5本の指がくっついてしまい、その後13歳のときに指を切り離す手術を受けるも、生涯、左手の指は自由に動かなかった、という話は有名。発明王のトーマス・エジソンは生まれつきの難聴障害に苦しんだというし、ヘレン・ケラーにいたっては視力・聴力ともに失った人。そうしたハンデキャップを克服して名を成した偉人というのは歴史上たくさんいて、子供向けの伝記などでは、そんな逸話が大いにクローズアップされるものである。

 しかし、秀吉の「6本指説」にふれた伝記は少ない。近年まで邪説とされてきたこともあり、しかも6本指にまつわるエピソードや史料が少ないことを考えれば、これまでは当然だったかもしれないが、現在では真説と考える歴史家も多く、もっとスポットを当てていいのではないだろうか。6本指のコンプレックスをバネにして、天下人になった豊臣秀吉・・・と。

 ちなみに、秀吉にはもうひとつ、一つの眼球に二つの瞳があった(重瞳)という説もある。もっとも、これについての信憑性はきわめて薄く、まともに論じられることはめったにない。重瞳については、古代中国の伝説上の聖王であるが重瞳であったという伝承があり、日本においても重瞳は貴人の相と考えられていたらしく、おそらく秀吉のそれは、天下人となったあとの権威付けのためか、もしくは後の世に作られた伝承と考えてよさそうである。

 6本指にしても重瞳にしても、事実であれ虚像であれ、そんな常人とは異なった身体的特徴の伝承が残っていること自体が、豊臣秀吉という人物の歴史上の存在感の大きさといえるだろう。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村

by sakanoueno-kumo | 2011-08-19 00:53 | 歴史考察 | Trackback(1) | Comments(10)