カテゴリ:歴史考察( 23 )

 

坂本龍馬の北辰一刀流免許皆伝は、やはり事実だった! 

e0158128_21185141.jpg先ごろ、坂本龍馬の剣術の腕前を証明する資料が見つかり、話題になっているようです。
記事によれば、今年6月、高知県立坂本龍馬記念館が北海道に住む坂本家の子孫の方から寄贈を受けた資料の中に、かつて「北辰一刀流兵法皆伝」の巻物が実在したとの記述があり、その後、火災で失われたと説明されている文書が確認されたそうです。
嬉しいニュースですね。

幕末の剣豪、千葉周作が創始した北辰一刀流千葉道場で剣術を学んだ龍馬は、後世の証言などから剣の達人だったと伝えられますが、その一方、実際の目録や皆伝を示す史料が現存しないため、近年は疑問視する声が多くあがっていました。
剣の達人と言われながらも護身用にピストルを持ち、実際に剣を使って戦った逸話もなく、しかも、不意をつかれたとはいえ、近江屋でいとも簡単に刺客に討たれたことなどから、龍馬が剣の達人だったという説は、後世の物語が作り出した虚像なんじゃないか?・・・と。

実際、わたしたちが知る坂本龍馬の人物像というのは、以前も当ブログの「坂本龍馬の人物像についての考察。」の稿でも述べたとおり、虚実とり混ぜた物語の中からその「龍馬像」をもらっています。
とくにその「龍馬像」を決定的にしたものが、故・司馬遼太郎氏の代表作『竜馬がゆく』で、わたしたちの知る龍馬像はこの作品によって作られたと言われることに異論はありません。
ただ、その『竜馬がゆく』には、司馬氏の創作部分が多く入っており、世間一般の龍馬像に懐疑的な意見の方々は、それを根拠に批判します。
坂本龍馬を日本史上のスターにしたのは司馬遼太郎の大罪で、実際の坂本龍馬は、とくに大きな功績を残したわけでもなく、当時はそれほど重要視される人物ではなかった・・・と。

たしかに、司馬氏の描いた竜馬像のすべてを鵜呑みにするのは間違いだとは思います。
でも、司馬氏のファンの立場として反論させてもらうと、司馬氏は、『竜馬がゆく』を執筆するにあたって、一等資料だけでなく、ゴシップの類から新聞記事、龍馬の脱藩後に出かけた土地のそれぞれの郷土史までも、しらみつぶしに買い集め、その数およそ3000冊、重さにして約1トン、金額は昭和30年代当時で1000万円もかけたといいます。
手間を掛ければいいというものでもないかもしれませんが、少なくとも、司馬氏の描いたフィクションというのは、氏の想像の世界だけで創りだされた荒唐無稽なものではなく、莫大な史料の断片を繋ぎあわせて確立した龍馬像であり、限りなく実像に近い虚像だと、わたしは思います。

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京都の東山にある龍馬の墓所です。
ここには、幕末維新に殉じたそうそうたるメンバーの墓や慰霊碑が並んでいますが、その中で、最も大きな面積に祀られているのは木戸孝允ですが、龍馬と中岡慎太郎の墓も、いちばん見晴らしのいい場所に、特別扱いの様相で葬られています。
もし、当時の坂本龍馬が、とるに足らない人物だったのであれば、こんな墓の扱いではなかったのではないでしょうか?
ここへ来ると、いつもそう思います。

とにもかくにも、このたびの発見は、龍馬の実像にせまる大きな史料になりそうですね。
剣の達人論争も、これで決着になるかな。


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by sakanoueno-kumo | 2015-10-14 21:25 | 歴史考察 | Comments(0)  

桓武平氏と清和源氏 ~禍福はあざなえる縄の如し~

 今年の大河ドラマの主役・平清盛の血筋を桓武平氏という。桓武平氏とは桓武天皇(第50代天皇)の子孫のうち、平姓を賜り天皇の臣下になった家のことである。桓武平氏にはいくつもの系統があるが、もっとも有名なのが桓武天皇の第三皇子である葛原親王の系統である。そのうち葛原親王の長男・高棟王の子孫は京の宮廷貴族として栄え、公家平氏堂上平氏などと呼ばれた。清盛の妻・時子やその兄弟の平時忠建春門院などがこの血筋を引いている。

e0158128_196372.jpg 一方、清盛らに繋がる武家平氏の祖となったのが、高棟王の弟の高見王の子、つまり桓武天皇から見れば曾孫にあたる高望王である。武勇に優れていた高望王は平姓を賜り平高望と名乗り、9世紀末ごろに上総介に任じられて関東に下った。この当時、坂東では徒党を組んで盗賊行為を働く群党の蜂起が頻繁に発生しており、天皇家の血統と武勇をあわせ持つ高望に、その鎮圧が期待されたと伝わる。やがて、平国香、平良持、平良兼、平良正、平良文ら高望の息子たちは、いずれも鎮守府将軍や諸国の受領を務めるなど、坂東に大きな勢力を持つこととなる。そしてその子孫が常陸や下総、武蔵などの関東各地に土着し、坂東平氏として繁栄した。後世、鎌倉幕府の御家人として名をはせる千葉、三浦、上総、大庭などはその末裔である。東国といえば源氏のイメージが強いが、武士の勃興期には平氏こそが坂東の覇者だったのだ。

 桓武平氏の転機をもたらしたのは、10世紀に起きた「平将門の乱」だった。高望の孫である平将門が常陸や上野で大規模な反乱を起こすと、下野国の押領使・藤原秀郷と共に将門の鎮圧に功をあげたのが、将門の従兄弟にあたる平貞盛だった。貞盛は、乱を平定した功により従五位上に叙せられ、丹波守や陸奥守、鎮守府将軍などの職務を歴任。その子供たちも朝廷の官位をもらい、桓武平氏が中央軍事貴族として繁栄する足がかりを得た。このうち、貞盛の子で伊勢を拠点とした平維衡は、藤原道長などの中央の上流貴族に奉仕しつつ、常陸や下野、伊勢の受領を歴任して力をつけた。この維衡こそ、伊勢平氏の祖といわれる人物であり、清盛の祖父・平正盛の曽祖父にあたる。

e0158128_1973525.jpg 一方、源頼朝木曾義仲の血筋である清和源氏は、清和天皇(第56代天皇)の孫である経基王が臣籍降下により源姓を賜り、源経基と名乗ったことに始まる。経基王は上述した「平将門の乱」や、同時期に起きた「藤原純友の乱」で活躍した人物である。経基の子・源満仲や孫の源頼光源頼信らは藤原摂関家に仕え、頼光は摂津を、頼信は河内を拠点として、それぞれ摂津源氏河内源氏の祖となった。

 源氏と東国との関わりは頼信の時代に始まったと考えられている。11世紀初頭に東国で起きた「平忠常の乱」において、朝廷が討伐軍を派遣してもなかなか鎮圧できなかったものを、頼信はいとも簡単に鎮圧して武名をあげ、源氏の関東進出の土壌を作った。頼信の子・源頼義「前九年の役」を平定、頼義の子・源義家「後三年の役」を主導した。この過程で東国の武士団の多くが頼義、義家と主従関係を結んだといわれる。後年、源頼朝が流人生活を送っていた伊豆で旗揚げし、またたく間に関東を席巻する素地はこの時代に作られていたのである。

 河内源氏を中心に清和源氏が繁栄する一方で、伊勢平氏は維衡の子やその孫の代になると勢いがなくなり、上流貴族に仕える侍や中央官庁の三等官程度の地位に低迷、源氏の後塵を拝していた。その源氏と平氏の地位を逆転させたのが、清盛の祖父・正盛だった。源義家の嫡子・源義親が出雲で反乱を起こすと、隣国因幡守として義親の追討をみごと果たし、一躍武門のトップに踊りでたのである。一方、源氏の棟梁は義親の子・源為義が継いだが、粗暴なふるまいが多かったため昇進できず、その子・源義朝が棟梁になったときには、すでに平氏との差は抜きがたいものになっていたのである。大河ドラマ『平清盛』の舞台となっているのは、そんな時代である。

 しかし後年、義朝の子・頼朝らの手によって伊勢平氏が滅亡に追い込まれるのは周知のところだ。互いに相対しながら隆盛と低迷を繰り返してきた桓武平氏と清和源氏。まさしく、「禍福はあざなえる縄の如し」である。


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by sakanoueno-kumo | 2012-07-11 23:59 | 歴史考察 | Comments(4)  

武士の起源

 武士はいつ頃、どのようにして歴史に登場してきたのだろうか。従来の説としては、平安時代中期、地方の豪族有力農民の中から領主が生まれ、自分たちの土地を守るために武装して農民を支配したのが武士の起源だと考えられてきた。その中から武士団が形成され、さらに身分の高い桓武平氏清和源氏などに組織されて、やがて平安時代末期の平清盛源頼朝の出現によって、ついに貴族から政権を奪うに至る。武装した農民が徐々に力をつけて、古い貴族政権を倒して新しい武家政権を創りだしたというわけだ。たしか、私の中学・高校時代の日本史で習った武士の起源は、そんな感じだったと思う。

 しかし、在地領主が全て武士となったわけでなないし、この時代、寺院民衆も自分の身を自分で守るために武装するのは当たり前で、農民だけが武力を持とうとしたわけではなかった。むしろ、武士団の棟梁となった平氏や源氏たちのほとんどは中下級の貴族出身で、その源平の武士たちに与した地方の武士たちも、大なり小なり都との繋がりを持って朝廷から官位を得ていた者が少なくなかった。そこで、従来の「在地領主起源説」に対して、近年では武士はむしろ京から起こったとする「職能武士起源説」が主流となりつつあるらしい。この説によれば、武士は朝廷を守る「衛府」という組織から発展したもので、10世紀以降、都の軍事貴族に継承されて武士職ができたというのである。この説における武士観は、朝廷と結びついて農民に君臨する支配者としての側面が強く、農民たちの中のリーダーが自衛のために武力を持ったという従来の武士観とは、ずいぶん異なる。今年の大河ドラマ『平清盛』の中で、武士たちの存在を「王家の犬」と表現していることが話題になっているが、まさしくこの説でいえば、武士は朝廷の用心棒的存在といっていいだろう。

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 武士が武士として認知されるようになったのは、10世紀中頃に起きた平将門藤原純友による「承平・天慶の乱」からだといわれている。この頃、京の貴族社会では家々で世襲する「家業」が定着しはじめていたようで、「承平・天慶の乱」の鎮圧に貢献した者たちやその子孫が武士として認定され、戦闘を家業とする「武家」が誕生したというわけだ。つまり、武芸という職能を持った戦闘の専門職として誕生したのが武士の始まりだったというのである。実際、平清盛の遠祖・平貞盛も、「承平・天慶の乱」の際に平将門の追討に貢献して朝廷から官位を叙せられ、貴族社会への足がかりを得るとともに、その名声を利用して在地支配を強めた。やがて、それを受け継いだ子孫たちが「武家の棟梁」となり、軍事貴族を組織して武士団を形成していったのである。

 また、源平合戦で勝利をおさめた源頼朝の手よって成立した鎌倉幕府についても、武士階級が古い貴族政権を倒して打ち立てたわが国初の封建国家という従来の解釈から、公家や寺社などの諸勢力とともに中世の国家を形作っていた権門のひとつだった、という考え方(権門体制論)が主流となりつつあるらしい。この論によれば、鎌倉幕府は国家の軍事および警察権の担当組織であり、国政全体を掌握するまでには至らなかったというのでる。政権はあくまで朝廷にあって、幕府は公家政権下の軍事権門にすぎなかった・・・と。これまでの武士と幕府を中心とした歴史観は、大きく変わりつつあるようである。


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by sakanoueno-kumo | 2012-03-23 21:32 | 歴史考察 | Comments(4)  

院政と上皇について。

 今年の大河ドラマの主役・平清盛が生きた時代、わが国の政治は「院政」によって動かされていた。院政とは、退位した天皇である上皇(太上天皇の略。出家すると法皇になる)が、父権に基づき天皇の上にたって、上皇の家政機関である院庁で行う政治のことである。現代でも、総理大臣の職を退いてなお影響力を行使し続けることを「院政をしく」などというが、それはこの歴史的な政治形態からきたものである。

e0158128_19195149.jpg 清盛が生まれる約30年前までは、摂関家と呼ばれた公家・藤原氏が国政の実権を掌握していた。摂関家とは天皇の代理である摂政、天皇の補佐役である関白とを世襲する家柄のことで、摂関家の繰り広げる政治のことを摂関政治と呼び、その時代を政治史の上では摂関時代と呼ぶ。そんな中、摂関政治に疑問を持った白河法皇(第72代天皇)が、応徳3年(1086年)にまだ8歳の善仁親王(堀河天皇)に譲位したことが、院政の始まりとされる(白河院の父である後三条上皇(第71代天皇)が最初という説もある)。その後、鳥羽法皇(第74代天皇)、後白河法皇(第77代天皇)、後鳥羽法皇(第82代天皇)の政権がその最盛期となった。

 院政は「治天の君」と呼ばれる天皇家の家長が、現役の天皇の父または祖父の立場から政治を主導するものだが、上皇であれば誰でも院政が行えたわけではない。たとえば、鳥羽院の第一皇子である崇徳天皇(第75代天皇)が、永治元年(1141年)に異母弟の体仁親王(近衛天皇)に譲位して上皇になった後も、実権は「治天の君」である鳥羽院が握り続けていたし、承久3年(1221年)に承久の乱が起きたときは、後鳥羽法皇のほかに土御門上皇(第83代天皇)と順徳上皇(第84代天皇)という二人の上皇がいたという例もある。崇徳院の場合、近衛天皇への譲位を承諾したのは、近衛天皇が自身の「皇太子」の立場で即位すると考えていたからだった。たとえ弟であっても、皇太子に位を譲るのだから、崇徳院は「父」の資格をもって院政を行えると期待していたのである。しかし、譲位の内容を記した宣命には「皇太弟」と書かれており、父権はあくまで鳥羽院のままだった。騙されたと知った崇徳院は、鳥羽院を深く恨んだという。天皇の兄では院政は行えないのである。

 そんな強い政治力を有していた上皇たちも、独自の軍事力は持っていなかった。このため、当初は公家の身辺警護などに当たっていた武士のうち、優秀な者が上皇の身辺警護に当たる「北面の武士」に登用される。さらに、盗賊海賊が暗躍した際、大寺院の僧兵たちが強訴を企てた際などに、院は武士を動員さするようになる。そんな院政下で頭角を表したのが、伊勢平氏の平正盛平忠盛平清盛の三代だった。また、院政は「院近臣」という新たな政治勢力を生み出した。富裕な受領や乳母の夫や子、学者や実務官僚など、家柄よりも経済力や学識、院との個人的な繋がりによって取り立てられた人たちである。保元の乱後に実権を握った信西は後白河院の乳母の夫で、出家前は下級貴族だった。また、平治の乱で滅亡した藤原信頼は後白河院の男色相手であり、鹿ケ谷事件で島流しになった平康頼は後白河院の今様の弟子だった。武士も学者も、院近臣としての立場を足がかりにして出世したのである。

 治承3年(1179年)の政変によって政権を掌握した平清盛が政治体制として利用したのも院政だった。孫である安徳天皇(第81代天皇)を即位させた清盛は、外祖父の立場から天下に号令するのではなく、娘婿の高倉上皇(第80代天皇)による院政をとおして清盛の意志を国政に反映させた。その高倉院が崩御したのち、清盛は後白河院に院政の復活を要請するが、この清盛の行動からも、天皇の外祖父という立場だけでは政権運営が難しく、院政という政治形態をいかに必要としていたかが伺える。この時代、天皇という位よりもはるかに上皇の位が上だった。

 この、白河院、鳥羽院、後白河院の三上皇(もしくは後鳥羽院も入れた四上皇)の時代を政治史の面から院政時代と呼ぶ。だが、これ以後院政制度がなくなったわけではなく、鎌倉時代以降は政治史が幕府中心となるため目立たなくなるだけで、朝廷ではこれ以後も連綿と院政が受け継がれ、幕末の光格上皇(第119代天皇・明治天皇の曽祖父)まで続く。現代では光格院が最後の上皇で、明治維新後の憲法では天皇が生前に退位することがなくなった。だが、ご高齢で病の体をおしてまで公務に励まれる今上天皇のお姿を見ていると、先ごろ秋篠宮親王が言及しておられたように、「天皇定年制」を真剣に考える必要があるように思える。天皇は一定の年齢に達すると皇太子に譲位して上皇となる。実に理にかなった制度を、皇室は1000年以上も前から確立していた。昔と違って人間の寿命が延びた今だからこそ必要な制度といえるのではないだろうか。現行のわが国の制度では、それは「院政」ならぬ、ただの「院制」の復活に過ぎないのだから。


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by sakanoueno-kumo | 2012-03-16 18:03 | 歴史考察 | Comments(2)  

豊臣秀吉は6本指で、ひとつの眼球にふたつの瞳があった?

 豊臣秀吉6本指だった、という逸話があるのはご存知だろうか。これは、よくある偉人の超人的伝承とはちがって(たとえば、聖徳太子が一度に複数の人の話を聞き分けた・・・とか)、それなりの根拠をもった逸話である。この説の起こりは、織田信長時代にキリスト教布教活動のため来日していたポルトガル人の宣教師、ルイス・フロイスが編纂した『日本史』によるもので、その中に次のような記述がある。

 ルイス・フロイス『日本史』豊臣秀吉編 I 第16章
「優秀な武将で戦闘に熟練していたが、気品に欠けていた。身長が低く、醜悪な容貌の持ち主だった。片手には六本の指があった。眼がとび出ており、支那人のように鬚が少なかった。極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺していた。抜け目なき策略家であった。」


 これ以降、海外では、この「6本指説」が広く信じられてきたが、日本では、フロイス以外にこの点にふれる史料がないことや、フロイスの記述には多分に私怨が含まれているという理由から否定的な意見が多く、“邪説”とされてきた。

e0158128_03078.jpg しかし、私はこの説を信じている。たしかにフロイスの記述をみれば酷い言いようで、彼が秀吉に好感を持っていなかったことがわかるが、だからといって、6本指を作り話とする理由にはならないように思う。フロイスの残した安土城の記述などを読めば、彼は自分の目で見たことを執拗なまでに詳細に記しており、秀吉の6本指も、フロイスには強烈なインパクトとして映り、記録に残したものと考えられる。
(← 6本あるようには見えないが・・・。)

 そのフロイスの記述を裏付ける史料として、秀吉の旧友、前田利家が記した回想録が、近年になって見つかっている。その内容は次のとおり。

 前田利家『国祖遺言』
「大閤様は右之手おやゆひ一ツ多六御座候然時蒲生飛 生飛弾殿肥前様金森法印御三人しゆらく(聚楽)にて大納言様へ御出入ませす御居間のそは四畳半敷御かこいにて夜半迄御 咄候其時上様ほとの御人成か御若キ時六ツゆひを御きりすて候ハん事にて候ヲ左なく事ニ候信長公大こう様ヲ異名に六ツめかな とゝ御意候由御物語共候色々御物語然之事」


 この利家の談話からわかるのは、秀吉は右手の親指が1本多かったということ。要訳すると、「上様(秀吉)ほどのお人ならば、若いときに6本目の指をお切りなればよかったのに、そうされないので信長公は“六ツめ”と異名されていた。」と語っているもので、この談話を信じれば、フロイスの記述が“邪説”でないということになる。

 生まれつき手足の指が多い人のことを「多指症」というそうだが、これはそれほど珍しいことではないらしい。主にアフリカやヨーロッパに多いそうだが、東アジアでも1000人に1人ぐらいの割合で生まれるそうだ。ということは、戦国時代(織豊時代)の我が国の人口は約1200万人と言われるから、単純計算で1万人程度は「多指症」の人がいたということになる。ただ、戦国時代でも現代でも多指症に生まれた場合、幼児の間に切断して5本指にするのが一般的で(通常6本目の指は役に立たない場合が多いらしい)、その意味では、秀吉のように6本指のまま大人になった例は、当時としても珍しかったのかもしれない。

 では何故、秀吉は6本指のままだったのか・・・。ここからは私の想像だが、6本目の指を幼い頃に切り落とす慣習は、武士階級や、ある程度の身分の者に限られていたのではないだろうか。農民の家に生まれた秀吉は6本指のまま成長し、その後、武士となったことから、武家社会では珍しい存在となった。成長してから切り落とすことも出来たかもしれないが、彼はあえてそれをせず、周囲から奇異な目で見られることを逆に反骨心にして、天下人への出世街道を上っていったのではないだろうか・・・と。

e0158128_0351879.jpg しかし、天下人となってからの秀吉は、肖像画を右手の親指を隠す姿で描かせたり、どうも、6本指の事実を歴史上の記録から抹消しようとしたきらいがある。
(たしかに、この肖像画の右手の描き方も、少々不自然な気がしないでもない。 →)
“猿”“禿げ鼠”とあだ名されたことが、これほどまで後世に伝わっているのに対し、利家の談話にある“六ツめ”というあだ名は、現在でもあまり知られていない。これを逆に考えると、秀吉が“六ツめ”というあだ名を歴史の記録から削除するために、あえて、 “猿”“禿げ鼠”というあだ名が後世に伝わるように操作した・・・と考えるのは、穿ち過ぎだろうか。(あえて猿顔に肖像画を描かせた、なんてことはないと思うが。)秀吉にとって一番のコンプレックスは、卑賤の出自でも醜悪な容貌でもなく、6本指だったのでは・・・と。

 作家・司馬遼太郎氏が、小学校の教科書向けに書いた文章『洪庵のたいまつ』の中で、生まれつき病弱だった緒方洪庵について、こう述べている。
 「人間は、人なみでない部分をもつということは、すばらしいことなのである。そのことが、ものを考えるばねになる。」
 たしかにそのとおりで、たとえば野口英世は、1歳のときの火傷で左手の5本の指がくっついてしまい、その後13歳のときに指を切り離す手術を受けるも、生涯、左手の指は自由に動かなかった、という話は有名。発明王のトーマス・エジソンは生まれつきの難聴障害に苦しんだというし、ヘレン・ケラーにいたっては視力・聴力ともに失った人。そうしたハンデキャップを克服して名を成した偉人というのは歴史上たくさんいて、子供向けの伝記などでは、そんな逸話が大いにクローズアップされるものである。

 しかし、秀吉の「6本指説」にふれた伝記は少ない。近年まで邪説とされてきたこともあり、しかも6本指にまつわるエピソードや史料が少ないことを考えれば、これまでは当然だったかもしれないが、現在では真説と考える歴史家も多く、もっとスポットを当てていいのではないだろうか。6本指のコンプレックスをバネにして、天下人になった豊臣秀吉・・・と。

 ちなみに、秀吉にはもうひとつ、一つの眼球に二つの瞳があった(重瞳)という説もある。もっとも、これについての信憑性はきわめて薄く、まともに論じられることはめったにない。重瞳については、古代中国の伝説上の聖王であるが重瞳であったという伝承があり、日本においても重瞳は貴人の相と考えられていたらしく、おそらく秀吉のそれは、天下人となったあとの権威付けのためか、もしくは後の世に作られた伝承と考えてよさそうである。

 6本指にしても重瞳にしても、事実であれ虚像であれ、そんな常人とは異なった身体的特徴の伝承が残っていること自体が、豊臣秀吉という人物の歴史上の存在感の大きさといえるだろう。


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by sakanoueno-kumo | 2011-08-19 00:53 | 歴史考察 | Comments(10)  

歴史小説 「黒田家三代~戦国を駆け抜けた男達の野望」 読記

<平太郎独白録:性懲りもなく「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」告知>

e0158128_0314633.jpg 昨年末に刊行された歴史小説「黒田家三代~戦国を駆け抜けた男達の野望」を読んだ。著者は、当ブログもリンクしていただいているブログ「平太郎独白録 親愛なるアッティクスへ」のブログ主でもあられる、池田平太郎氏。同氏にとっては3作目の作品となる。一昨年よりブログを楽しませていただいていて、この度の出版を知り、歴史小説好きの私としては迷わず購入し、先日完読した。で、身の程知らずにも、著者の目に触れるであろうことを承知の上で、ここで感想文を記すという暴挙にでようと思う。

 黒田家とは、ご承知のとおり、筑前福岡藩52万石の領主で、江戸時代の265年を通して12代続いた名家。物語では、同家の創成期である戦国時代を舞台に、初代・黒田官兵衛、二代目・黒田長政、三代目・黒田忠之を軸に展開する。

 黒田官兵衛孝高。出家後の号は如水。播磨国は姫路の豪族、小寺氏の筆頭家老の家に生まれた官兵衛は、織田信長が天下に勢力を伸ばしつつあった当時、毛利氏征伐を命じられた羽柴秀吉のもとに仕え、その才覚を見出された。一時は、信長に叛旗を翻した荒木村重の手によって摂津有岡城内に1年以上も幽閉されるという挫折を味わうが、九死に一生を得た官兵衛は、その後、秀吉の頭脳として数々の功績をあげ、信長の死後は、秀吉の天下統一に向けて重要な役割を果たし、早世した竹中半兵衛と並び、秀吉の名参謀としてその名を残した。しかし、天下人となった秀吉は、官兵衛の智謀・謀才を恐れ始め、貢献に見合った報酬を与えようとしなかった。秀吉から警戒されていることを敏感に察知した官兵衛は隠居を申し出、出家して如水と号す。だが、隠居はしたが領国に引っ込むことは許されず、秀吉の側に仕え続けた。

 黒田吉兵衛長政。幼名は松寿丸。官兵衛の嫡男として播磨国で生まれた長政は、幼少時代を織田家の人質として羽柴秀吉の居城・近江長浜城で過ごす。上記、荒木村重の謀反によって父・官兵衛が幽閉されたとき、「官兵衛が裏切った。」と勘違いした織田信長は、秀吉に長政(当時は松寿丸)の殺害を命じる。しかし、官兵衛を信じていた秀吉と相談した竹中半兵衛の機転によって美濃菩提山城に匿われ、一命を助けられた。信長の死後、父と共に秀吉配下に入った長政は、智謀・謀才の父とは違い、勇猛な武人として頭角を現し、官兵衛より家督を譲られ、豊前中津12万3千石の大名となる。しかし、秀吉が没すると一転して策士としての才を現し徳川家康に接近。関ヶ原の戦いに際しては、豊臣恩顧の大名の切り崩し工作に貢献し、その功あって戦後、家康より筑前国52万石を賜り、福岡藩初代藩主となった。物語では、父・官兵衛の重臣で兄弟子とも言うべき、後藤又兵衛との確執が描かれる。

 黒田忠之。幼名は万徳丸。長政の嫡男として福岡で生まれた忠之は、父の死去により家督を継ぎ、筑前福岡藩第2代藩主となる。天下泰平の世に生まれ、祖父や父の苦労を知らずに育った忠之は、我がままで愚鈍な、典型的ドラ息子だったとして伝わる。父である長政も忠之の甘さを心配して、一時は廃嫡して三男の長興を後継者にすることも検討したが、家老の栗山大膳の助言により結局は2代目藩主になった。長政は死を目前にして、「大膳の言葉を自分の言葉だと思って従うように」と遺言したものの、家督を受け継いだ忠之は大膳を始めとする口うるさい古参の重臣たちを敬遠し、やがてそれが「黒田騒動」という黒田家改易の危機にまで発展する。しかし、この物語の中で著者は、この忠之暗愚説に疑問を呈している。

 黒田官兵衛黒田長政黒田忠之の3世代を描いたこの物語は、従来の戦国物に見られるような戦場の描写は少なく、3世代それぞれの時代の、お家経営の奮闘を軸に描かれている。片田舎の個人商店から身を起こして上場企業に成長するまでのプロセス、下請け企業ゆえ石高を過少申告して実利を得ることができた官兵衛の時代、成長したがゆえ石高を水増しして粉飾決算しなければならなかった長政の時代、そのツケをまわされて大幅リストラに踏み切らねばならなかった忠之の時代と、それぞれの立場でのお家経営者としての苦悩がわかりやすく描かれていて、実に面白い。

 その他、後継者選びにおける世襲制の利や、世襲後継者と優秀な番頭との確執、経営者と技術者(武闘派の家臣)の方向性の違いなど、どれをとってみても、現代の企業経営と変わらない姿がそこにはある。昨年ベストセラーとなった「もしドラ」ではないが、この物語も、戦国時代の藩経営を通してみる、良質のビジネス読本といっても差し支えないかもしれない。

 私が日本史を愛し、歴史小説を好んで読む理由は、現代の私たちの生きるヒントがそこに隠されているような気がするからである。日本の歴史を知ることは、日本人を知ることでもあり、ひいては自分を知ることにもつながる。先人たちの人生の中には、私たちが今、直面している問題や、今後迎えるかもしれない課題が、克明に描かれているような、そんな気がするからである。書店に足を運べば、ビジネスの手引書や意識改革・自己啓発の読本、人生のハウツー本などが数多く並んでいるが、私にとってはその類の本を読むよりも、歴史小説を読んで先人たちの足跡から学び得ることのほうが、はるかに大きいと思えるのである。

 そんな私のニーズに見事に答えてくれた、この作品だった。それは、著者の歴史に向き合う主眼が、おこがましくも私と近いところにあるような、そんなふうに思えたからである。文章も平易でわかりやすく、歴史小説に慣れていない人でも抵抗なく入れそうだ。是非、ご一読あれ。


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by sakanoueno-kumo | 2011-02-09 00:27 | 歴史考察 | Comments(15)  

坂本龍馬の人物像についての考察。

 NHK大河ドラマ「龍馬伝」が、次回で最終回を向かえる。毎週ドラマの進行に沿いながら、史実・通説との対比や私見を述べさせてもらってきたが、最終回を向かえるにあたって、今更ながら坂本龍馬の人物像についてふれてみたいと思う。

e0158128_14402415.jpg 坂本龍馬といえば、人々の中に強い一定のイメージが存在する。明るく、楽天的で、濶達で、気取りがない。粗野に見えるところもあるが、陰険さがまったく感じられないので、とにかく好感がもてる。同時代に生きる「志士」たちのイメージといえば、激情家で、眉をつり上げ、とらわれた精神の持ち主という、いわば悲憤慷慨型の人物を連想しがちだが、龍馬にはそういった気負いがまったく感じられず、良くも悪しくも自然体の自由人といったイメージだ。

 では、そうした龍馬像はいつごろから定着したのだろうか。龍馬をあつかった小説として司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』は決定的で、私たちの持つ龍馬像はこの作品によって作られたと言われることに異論はないが、では、その司馬・龍馬像は、どのようにして出来たのだろうか。歴史家の故・飛鳥井雅道氏はその著書の中で、龍馬の人物像は明治、大正、昭和の時代背景に応じて段階的に形成されていったと説く。

e0158128_144152100.jpg 最初に龍馬が脚光をあびたのは、明治16年(1883年)に高知の土陽新聞で連載された「汗血千里の駒」という小説だった。著者は自由民権運動家で小説家の坂崎紫瀾。自由民権運動の激化の中で、悪は薩長にありとのキャンペーンが民権派の中に浸透されていく過程でのことだった。民権運動の中で育った若き坂崎紫瀾は、維新前、土佐を二分していた上士と下士の対立をそのまま藩閥対民党の対立にかぶせ合わせて話を展開していった。維新に際して土佐藩は完全に薩長の後塵を拝し、征韓論以来、政府の片隅に追いやられてしまっていた土佐派が、板垣退助後藤象二郎をはじめとして、なんとか土佐の役割を復権したいと模索していた時期だっただけに、この小説の影響力は大きかった。板垣はこのころから、「自分の今日あるは坂本龍馬先生のおかげである」などと好んで言い始めていたという。龍馬の復活は死後十数年経った明治中期、まずは民権派の源流としてであった。

e0158128_14424896.jpg 次に龍馬の名が世間に轟いたのは、明治37年(1904年)2月、近代日本の二度目の大博打たる日露戦争の戦端が開かれ、国民の中に憂色が立ち込めていた時期だった。そんなおり、新聞各紙は突然、「皇后の奇夢」と題したセンセーショナルな記事を発表する。日本がロシアと国交を断絶した2月6日、皇后の夢に白装の武士があらわれ、「微臣は維新前、国事のために身を致したる南海の坂本龍馬と申す者に候。海軍のことは当時より熱心に心掛けたるところにござれば、このたび露国とのこと、身は亡き数に入り候えども魂魄は御国の海軍にとどまり、いささかの力を尽すべく候。勝敗のことご安堵あらまほしく。」と語ったという。そして翌日の晩も再び皇后の夢枕に立ったという念の入りようだった。皇后が怪しんで側近にこの夢を語り、当時の宮内大臣で往年の陸援隊副隊長だった田中光顕が龍馬の写真を見せたところ、「容貌風采、この写真に寸分違ひなしと仰せられた」とあっては、龍馬ブームが爆発的に広がっていく理由としては十分すぎただろう。龍馬の墓の横には新たな碑が建てられ、「死して護国の鬼となる」とうたわれた。ここでの龍馬は、亀山社中のリーダーから海援隊の隊長にとどまらず、大日本帝国海軍の守護神にまで高められたのである。もちろん、この夢はおそらく作り話だろう。陸軍は長州閥、海軍は薩摩閥にその実権をにぎられ、二流の閑職かせいぜい皇后宮関係などの無難な場所に追いやられていた土佐派にとって、この龍馬の幽霊は大きな意味があった。演出者はほぼ想像がつく。龍馬の二度目の復活は、こうした背景の中、海軍の先駆者としてであった。

 「皇后の奇夢」から20年ほどが過ぎた大正末から昭和初年にかけて、立憲主義をとなえた大正デモクラシーが華やかに展開されていた。この立場によれば、明治維新は「万機公論ニ決スベシ」という「五箇条の御誓文」の精神にそってとらえなおすべきであり、藩閥政府は維新本来の精神に反しているという論だった。こうした「デモクラシー歴史観」の中で再び注目されたのが、龍馬の「船中八策」ならびに「新政府綱領八策」であったという。 「万機宜シク公議ニ決スベキ事」「外国ノ交際広ク公議ヲ採リ」など、この案では「公」が激しく強調されており、デモクラシー史観からは、この龍馬の案が「デモクラシー」の先駆的思考と考えられた。強く日本の変革を求めつつも、ボルシェヴィキ革命のような流血をさけたいとする民本主義者たちにとって、公儀を原則とする「大政奉還」、つまり平和革命コースはもっとも理想的な革命のモデルだった。こうした背景の中、龍馬の三度目の復活は、大正デモクラシーの源流、平和革命論者としてであった。

 こうして坂本龍馬は、「自由民権運動の祖」「大日本帝国海軍の祖」「大正デモクラシー的平和革命の祖」と、時代時代に合わせてその姿を変え、語り継がれてきた、と飛鳥井雅道氏はいう。だが、この龍馬の持つ3つの顔は、きわめて政治的な背景が生んだ虚像であることは言うまでもない。では、本来の龍馬像はどのようなものだったのだろう、という観点から生まれたのが、司馬遼太郎氏の小説『竜馬がゆく』であった。e0158128_1446159.jpg司馬氏は、それまでの龍馬が持つ政治的な匂いを払拭し、人々が抱き始めていた愛すべき龍馬像を司馬氏的に大きく拡大し定着することに成功したことで、戦後の龍馬像の決定版を作れたのだ。土佐にとらわれず、薩長にもとらわれず、さらには幕臣の勝海舟から貪欲に知見をむさぼりつくした自由人・坂本龍馬・・・と。この司馬氏的龍馬像も、司馬氏が作り出した虚像だといわれれば、そうかもしれない。事実、小説である以上、多分にフィクションが盛り込まれている。しかし、少なくとも司馬氏の龍馬像は、上記に見る政治的、思想的に都合よく利用されてきた龍馬像ではない。明治、大正、昭和と政治的に利用され、思想的に拡大解釈されてきた龍馬像は、死後100年が過ぎ、司馬氏の手によってようやく本来の龍馬像に近づき得たと私は思っている。

 今年また、大河ドラマの影響で5度目の龍馬ブームが起こった。ドラマに見る龍馬像については、最終回終了後の稿にゆずることにしたい。ただ、一言だけいえば、司馬氏的龍馬像を超える龍馬像はまだ生まれていない。


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by sakanoueno-kumo | 2010-11-25 22:51 | 歴史考察 | Comments(4)  

坂本龍馬の命日に再考する、龍馬と中岡慎太郎の暗殺犯の諸説。

 本日、11月15日(旧暦)は坂本龍馬の命日。今から143年前の1867年(慶応3年)11月15日、京都・近江屋において坂本龍馬と中岡慎太郎が何者かの手によって暗殺された。奇しくもこの日は、龍馬の33回目の誕生日でもあった。事件当日の内容は、2週後の大河ドラマ「龍馬伝」の最終回の稿に譲るとして、命日の今日は、未だ歴史の謎とされている暗殺犯の諸説、その代表的なものを簡単にまとめてみた。

■ 新選組説
 事件後、最初に疑われたのは新選組だった。彼らは言わずと知れた佐幕派の警察組織で、殺人集団ある。龍馬を襲う動機は十分にあり、また事件現場に証拠となる下駄刀の鞘が残っていたことが、疑いの発端となった。下駄は新選組がよく出入する料亭「瓢亭」のもので、鞘は新選組隊士・原田左之助のものであると、元新選組隊士であった高台寺党の伊東甲子太郎が証言している。この左之助説については、事件後2日間生き延びた中岡慎太郎が、刺客の中に「こなくそ」という伊予弁を使う人物がいたと証言したことで、伊予出身であるの原田左之助への疑いが強まった。以後明治に入るまでこの説が最も有力とされ、実際に新選組隊士・大石鍬次郎などはその疑いで処刑されている。しかし、その物証については後世の研究で矛盾点が立証され、また、慎太郎の証言についても信憑性を欠く部分が多く、現在では、この説を支持する人はほとんどない。

■ 見廻組説 
 この見廻組説が、現在もっとも定説とされているものである。上記、新選組の大石鍬次郎が官軍に捕えられたとき、龍馬暗殺の実行犯を「見廻組の今井信郎らの仕業だという話を聞いた。」と供述した。見廻組は幕府が設置した特殊治安部隊で、浪士結社の新選組に対して幕臣をもって組織された隊で、その任務は同じである。明治3年、函館の旧幕軍が降伏し、その降軍の中に今井信郎を発見、明治新政府の手によって捕えられた。今井はほどなく犯行を自供。供述によれば刺客団は隊長の佐々木唯三郎を頭に、今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎の7人。しかし、今井自身はあくまで見張り役をしただけで、直接手を下してはいないという。真実はわからないが、結局今井は禁錮刑という軽い刑ですみ、明治5年(1872年)、特赦によって釈放されている。その後28年経った明治33年(1900年)、今井信郎自身が雑誌「近畿評論」「坂本龍馬を自らが斬った」と発表し、物議を醸した。さらに、それから15年後の大正4年(1915年)、渡辺篤という老人が自身の死を目前にして、坂本龍馬を殺したのは自分だと告白している。この老人が上記、渡辺吉太郎かどうかは定かではない。ただ、この渡辺の告白と今井の供述は、刺客の人数や名前など食い違う点が多く、その点はよくわからないが、二人とも襲撃時の供述内容は具体的な部分でも一致する点が多く、ほぼ信頼できる説となっている。しかし、上記、今井の減刑については何らかの政治的圧力があったといわれており、また、今井の自白があったにもかかわらず、見廻組が実行犯という説は明治政府上層部のみに知られる事実として、なぜか世間には公表されず、そのため新選組説がその後も長く信じられることとなったことから、現在でも研究者の間で様々な推論がる。

■ 紀州藩説
 この説は、動機としてはもっともわかりやすい。慶応3年4月、海援隊が搭乗していた船・いろは丸と紀州藩の船・明光丸が衝突した、いわゆる「いろは丸事件」によって紀州藩は賠償金8万3千両を支払うこととなった。我が国最初の「海難裁判」といわれるこの事件で、大藩の紀州相手に龍馬率いる浪士集団が勝った。このとき紀州代表として交渉にあたったのが三浦休太郎という人物で、以後、龍馬に対して恨みを抱いていたという。その報復による暗殺というのがこの説。実際、この「いろは丸事件」の談判中、龍馬暗殺を企てていたという話もある。龍馬の死後、海援隊の番頭格だった陸奥陽之助などは紀州藩を疑い、海援隊・陸援隊士ら16名で三浦を襲撃している(天満屋事件)。しかし、新選組に護衛を依頼していた三浦休太郎は軽傷のみで終わり、以後明治43年(1910年)まで長寿している。動機としては、もっとも単純で説得力もあり、陸奥が疑ったのも無理はないように思うが、この説にはこれといった証拠もなく、憶測の域を出ない。

■土佐藩黒幕説
 龍馬の所属藩であるはずの土佐藩だが、藩内での龍馬の身分は低く、しかもこの1年ほど前までは脱藩の罪で追われていた罪人の立場。この時期、天下の名士として名を轟かせていた龍馬だったが、他藩である薩摩や長州から懇意にされるほど土佐人からは重視されず、むしろ疎ましく思う者たちがいたであろうことも容易に想像できる。「大政奉還」という藩論を掲げて手を結んだ土佐藩参政・後藤象二郎と龍馬だったが、その信頼関係はどこまで築かれていたかはわからない。龍馬が起草したといわれる「船中八策」の案を後藤が自分の手柄にするため龍馬を殺したという説があるが、この論でいくと龍馬の秘書官であった海援隊士・長岡謙吉なども殺さねばならず、少し無理がある推論だ。他、土佐藩にも薩摩藩と同じ武力倒幕を推す派もおり、その代表格である谷干城の仕業という説。谷は龍馬の暗殺現場に真っ先に駆けつけた人物。事件後2日間生き延びた中岡慎太郎の証言は、この谷によって語られたものだ。現場の遺留品なども彼が発見したものであり、上記・新選組説を強く信じていて、局長・近藤勇を斬首に処したのも谷である。見方を変えれば、その新選組説を作ったのが谷だったとも言えるわけだが、これも少々深読みし過ぎの観は否めない。谷は生涯を通して龍馬の暗殺犯を追ったという。

■薩摩藩黒幕説
 土佐藩説に比べて、こちらはリアリティーがある。龍馬と親交の深かった薩摩藩だったが、この時期に来てその関係は変わってくる。龍馬の推し進める「大政奉還」に表面では賛同しながらも、実際には武力倒幕の準備を着々と進めていた薩摩藩にとっては、平和改革路線を主張する龍馬は目障りな存在になりつつあった。革命成就後の地位確保のために、龍馬を消したというのがこの説の推論。実行犯は中村半次郎(桐野利秋)という説もあるが、暗殺未遂の場合を想定すると、他藩に顔の売れた中村ではリスクが大きく考え難い。直接薩摩藩士が手を下さず、黒幕として足が付かない刺客を送ったと考えるのが妥当だろう。とすれば、この時期薩摩藩を動かしていたのは、西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀の3人で、このうちの誰かが下命したと考えられる。西郷と小松は龍馬と昵懇だったが、大久保と龍馬の関係はあまり伝わっていないことから大久保を黒幕とする説があるが、逆に大久保は龍馬という人物をそれほど重視していた様子はうかがえず、また、事件後、大久保は龍馬や慎太郎と親交の深かった岩倉具視宛の手紙の中で、二人の死について驚きと遺憾の意を記しており、これを信じれば大久保は事件とは無関係ということになる。その手紙すら、味方をも欺くための偽文書と疑うこともできるが、そこまでいくと深読みしすぎのようにも思える。一方で西郷を黒幕とする説。上記見廻組説で実行犯のひとりとされた今井信郎の減刑に、西郷の口添えがあったという説がある。西郷と今井に面識はなかった。この話が事実だとすれば、西郷がなぜ面識のない今井の助命運動に疾走したのか、という疑問になり、そのことで、龍馬暗殺と西郷の何らかの関わりを想像できるが、この西郷の口添え説を裏付ける史料は残っておらず、憶測の域を出ない。ただ、後世の小説などにあるような、西郷と龍馬の間に信頼関係があったかどうかは疑わしく、また、もしそのような信頼関係があったとしても、幕末きってのマキャヴェリスト西郷にとって、武力倒幕を断行するにあたって目障りな存在となった龍馬を消すことなど、ためらいの余地もなかっただろう。大久保説は、のちの明治政府での政争で後世に与えた不人気なイメージが作り出したもので、客観的に見れば、黒幕は西郷と考えるほうが、説得力があるように私は思う。

 他にも俗説は多々あるが、上記が主だったものである。私個人的には、実行犯は通説となっている見廻組とみてほぼ間違いないのではないかと思う。そこに黒幕がいたとすれば、これも現在通説となっている薩摩藩、その中でも西郷隆盛説にもっとも真実味を感じる。しかし武力倒幕を進めるにあたって、殺さねばならないほど薩摩が龍馬を重要視していたかという点では首を傾げるし、武力派にとっていわば同志である中岡慎太郎の死は薩摩にとって痛手だったはずで、そういった疑問は残る。その点で考えれば、単純に見廻組単独犯説というのも捨てきれない。実際に龍馬は前年の「寺田屋事件」以降、捕り方を殺害した罪で幕府から追われる身となっていた。「大政奉還」は幕府延命の妙案であり、それが龍馬によって推進されていることも幕府上層部の一部には知られていたものの、末端の知るところではなく、この時期でもまだ、坂本龍馬は幕府にとっての危険人物という認識だった。濡れ衣を着せられた新選組も同様の認識だったようだ。事実、今井は、「上からの命令」と供述しており、事件当日の昼間に堂々と近江屋に訪れ龍馬の不在を確認している事実から考えれば、見廻組にとっては正当な警察権の行使だった可能性は否定できない。

 こうして見ても、どの説にしても決定的な論証はなく、この先新しい史料が見つかる可能性も低く、永遠に歴史の謎だろう。通常、犯人探しのセオリーは、「恨みを抱いていたのは誰か?」「目障りに思っていたのは誰か?」「得をしたのは誰か?」という着眼点で絞り込むものだが、龍馬の場合その条件に該当する者が多数いて、そのことが諸説を生む要因だといえる。後世の私たちから見れば愛すべき人物像の坂本龍馬だが、同時代に生きる者たちにとっては、必ずしもそうではなかったようだ。
 龍馬の語録にこんな言葉がある。
 「義理などは夢にも思ふことなかれ。身をしばらるるものなり。」
 「薄情の道、不人情の道、わするることなかれ。」

 大事を成すためには、義理や情を捨てよ、という意味。儒教的な道徳が支配していたこの時代において、龍馬のこの言葉はあまりにも非常識な言葉だ。これは国事に疾走するための自戒の念を込めた言葉で、本当に龍馬がこの言葉どおり生きていたかはわからないが、彼の濶達な生き方は、ときに人の恨みをかったり目障りな存在となったであろうことは容易に想像できる。 「敷居をまたげば、男には七人の敵がいる。」という言葉があるが、志を遂げるためにその何十倍もの敵を作ったであろう晩年の龍馬にとって、非業の最後は、避けられない必然だったのかもしれない。


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by sakanoueno-kumo | 2010-11-15 21:55 | 歴史考察 | Comments(9)  

坂本龍馬の「大政奉還論」と、中岡慎太郎の「武力倒幕論」(後編)

 坂本龍馬大政奉還の周旋に動き始めた慶応2年(1866年)末、中岡慎太郎は、「窃(ひそか)に知己に示す論」(慶応2年10月執筆)、「愚論 窃に知己の人に示す」(同年11月執筆)という二つの論文を記している。
e0158128_1555366.jpg 「徳川を助くる今日の策は他無し。政権を朝廷に返上し、自ら退いて道を治め、臣子の分を尽すにあり。強て自から威を張らんとせば、則ち必滅疑無。諸侯若し信あらば、今日暴威を助けて自滅に至らんよりは、早く忠告し、一大諸侯となり、永久の基を立てしむべし。」
 この慎太郎の記した「窃に知己に示す論」の結論を見ると、龍馬の大政奉還論と根本的に一致していることがわかる。前年に記した「時勢論」の、「戦の一字」の名文が一人歩きし、武力倒幕一辺倒のイメージでとられがちな彼だが、この論文を見ると決してそうではなかったことがうかがえる。また、「愚論 窃に知己の人に示す」ではこうも記している。
 「窃に思ふに、大に開かんとすれば、其の船の仕法肝要なる故に、大坂辺の豪商と結び、洋商公会の法に習ひ商会を結び、下ノ関、大坂、長崎、上海、香港等へ其の局内の者を出し、大に国財を養ひたらば、海軍の助になるべし。」
 土佐の藩政改革を論及したものだが、ここでも龍馬の発想に接近していることは明らかだ。龍馬から得た経済眼だったと考えてもいいかもしれない。慎太郎は、龍馬のいう大政奉還論や経済感覚を、完全に肯定するまでには至らずとも、ひとつの手段として認めていたことがうかがえる。

 龍馬はどうだろう。慎太郎のいう武力倒幕論を全く認めない、平和主義非戦論者だったのだろうか。私は違うと思っている。たしかに彼は、慶応3年(1867年)5月、京における四侯会議がまとまらず、薩長がもはや武力討幕しかないと考え始めていたとき、「船中八策」後藤象二郎に説き、大政奉還を土佐の藩論とするよう促した。彼はこの時期、「いろは丸沈没事件」の談判で無駄な日々を費やしており、京の情勢に疎くなっていたという歴史家もいる。それも違うと思う。龍馬は現実を見据え、もっとも可能性の高い道を探していたのだと私は思う。

e0158128_1563989.jpg 長州は、前年の四境戦争で幕軍を追い払うだけの実力があることは証明された。薩摩も同等の力はあるだろう。しかし、徳川慶喜の率いる幕府直属軍も、フランス陸軍の援助のもとに軍制改革が強化されており、四境戦争のときよりかなり質が高まってきていることは、薩長とて知らないはずはない。薩長が事を起こすとしても、この5月、6月の段階ではまだ準備不足で、必ず勝てる保障などどこにもなかった。そんな博打のような革命路線で多くの無駄な命を亡くすことは、龍馬は避けたかったのだろう。龍馬が起案した「大政奉還」への道筋は、もし、幕府がこれを受け入れればそれでよし、受け入れずとも、この案を土佐藩が藩論として幕府に促している間に、武力討幕の準備も同時進行で進めるといった、両道の、いわば引き伸ばし策でもあったのではないだろうか。ここでも、あらゆる可能性を考えて策を施す、龍馬の現実的な政治手腕がうかがえる。後藤がこれを、まったくの平和路線と考え、これで武力討幕派を抑えて土佐藩がイニシアティブをとれると思ったことは間違いないだろう。しかし、龍馬は武力倒幕の道を完全否定しているわけではなかった。

 つまり私が言いたいのは、中岡慎太郎の武力討幕論に対して、坂本龍馬は大政奉還論平和革命コースという常識は、必ずしもそうとはいえないということだ。たしかに言論だけ見ていけば、慎太郎の方が武力倒幕論一本でまとまっている。しかし、実際の行動を見ると、慎太郎は龍馬の海援隊に呼応する陸援隊を作ったものの、現実には小銃の買い入れさえ上手く進んでいなかったのに対し、龍馬は新式ライフル銃1300挺を買い入れ、そのうち1000挺を土佐に送りつけるなど、はるかに具体的な討幕の準備を進めていた。言論で促すよりも、1000挺のライフル銃を土佐がどう始末するか、龍馬流の土佐藩に対する脅しだったのではないだろうか。龍馬と慎太郎は、決して相反する考えだったわけではなく、間違いなく同志だった。龍馬は、武力倒幕の準備を全力をあげて行った上で、薩摩、長州、土佐がまだその実力を持てない状況を見据え、もうひとつの道、「大政奉還」の案をいまひと押ししようとしたのだろうと私は思う。

 前編の冒頭で述べたように、もともと大政奉還論は、幕府側から出たものである。その大政奉還を、龍馬はかたちを変えてぎりぎりのタイミングで幕府に投げ返した。この政治的センスの良さは坂本龍馬の大きな魅力のひとつで、高く評価していいのではないだろうか。

坂本龍馬の「大政奉還論」と、中岡慎太郎の「武力倒幕論」(前編)


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by sakanoueno-kumo | 2010-11-11 23:59 | 歴史考察 | Comments(2)  

坂本龍馬の「大政奉還論」と、中岡慎太郎の「武力倒幕論」(前編)

 「大政奉還論」は、もちろん坂本龍馬が考えたものではない。最初に提唱したのは、幕閣の大久保一翁だった。一翁は文久2年(1862年)、幕府の衰退が甚だしい情勢から、政権を朝廷に返上して、徳川家も駿河一体の一大名になるべきだと城中で説いた。このとき幕府内では誰も賛同する者はいなかったが、その後、越前藩主・松平春嶽も同年10月13日付の政治総裁職辞任願で同意見を記し、翌年1月18日には勝海舟も江戸城大広間で将軍職辞退を発言している。ただ、この頃の大政奉還論は、後年の龍馬のそれとはニュアンスが少し違う。嘉永6年(1853年)の黒船来航から、幕府は鎖国が不可能であることを認識していた。しかし、当時の孝明天皇は開国に反対し、攘夷を求め続けていた。一翁たちのいう大政奉還論は、開国の必要性を朝廷に認識させ、それと引き換えに政権を返上する、といった意味での論だった。幕府の政権はあくまでも天皇から委任されたものであり、日本の第一主権者は天皇であることは歴史的にも明白であったが、鎌倉幕府以来600年以上も続いていた武家政権の中、朝廷に政権担当能力などなかった。攘夷、攘夷と簡単にいうが、では政権を返すから、やれるものならやってみろ、といった露骨な批判の意味を込めた大政奉還論だった。幕府側から出た大政奉還論は、つきつめれば低意はそこにあった。

e0158128_1524677.jpg 坂本龍馬が大政奉還論を初めて口にした記録は、慶応2年(1866年)8月、四境戦争で幕府が長州に敗れたのちだった。長崎にいた龍馬を訪ねてきた越前藩士・下山尚に、幕府はもうだめだ、親藩の春嶽公なら何とかなるから、「政権奉還ノ策ヲ速ヤカニ春嶽公ニ告ゲ、公一身之レニ当ラバ、幸ニ済スベキアラン」と語っている。春嶽が大政奉還の意見だったことは海舟から聞いていたことだろう。下山尚は越前への帰途、横井小楠に面会してこの龍馬の意見を告げると、小楠は「手ヲ拍シテ歎シタ」という。大政奉還論はもともと小楠からの発想でもあったからだ。越前に戻った下山は、直ちにこの意見を春嶽に伝えた。しかし、春嶽は難色を示した。彼がこの意見を述べた4年前とは情勢が変わっていたからである。4年前のそれは、朝廷はたとえ政権返上案を突きつけられても、のめるはずがないことが分かっていての、いわば脅しの意味のそれだった。今は違う。大政奉還は、徳川政権の終焉を意味する。春嶽にそれほどの意欲はなかった。彼は賢公ではあったが、所詮、実行の人ではなかった。

e0158128_1533825.jpg この時期より少し前の慶応元年末、中岡慎太郎は独自の論法で倒幕への見通しをたてた論文を記している。有名な「時勢論」である。封建の害の克服を目指して書かれたこの論の主眼は、龍馬とは違い武力そのものに集中していた。
 「夫れ国に兵権有て然る後、可和、可戦、可開、可鎖、皆権は我に在りて、而して其兵権なるものは武備に在り。其の気は士気にあり、故に卓見者の言に曰く、富国強兵と云うものは、戦の一字にあり、是れ実に大卓見にして千載の高議、確乎として不可抜、則も知能の事に処する者、且和し、且戦い、終始変化無窮極る者なり。」
 のちに伝説的に伝えられることになる「戦の一字」なのだが、この武力に集中した慎太郎の発想は、二度も朝廷の「賊」として追われた長州激派と共に行動してきた経験から引き出された信念だったといえる。彼はこの中で、死んだ久坂玄瑞の言葉を借りてこう記す。
 「西洋諸国と雖、魯王のペートル、米利堅のワシントン師の如き、国を興す者の事業を見るに、是非共百戦中より英傑起り、議論に定りたる者に非らざれば、役に立たざるもの也。是非共早く一旦戦争を始めざれば、議論計りになりて事業は何時迄も運び不申」
 ロシアのペートル大帝を見ても、アメリカのワシントン大統領を見ても、戦争なくして革命は成立しないといった慎太郎の論は、決して的外れではなかった。

 歴史家の中には、この時期の龍馬の行動について、大政奉還の周旋を春嶽に依頼したことなどをあげて、「龍馬が主張する大政奉還論は、中岡の場合と違って現実の厳しい諸勢力の対立をかなり安易に判断しているとみなければならない。」と、手厳しい評価を下しているものもあるが、私はそうは思わない。薩摩も長州もまだ具体的な討幕の計画が出されていない慶応2年8月、大政奉還論というひとつの手段を、かねてから知り合いだった春嶽に促してみただけで、春嶽が動けばそれはそれで結構なことで、やらなければまた別の方法を考えればよしといった程度のものだったのではないだろうか。あらゆる可能性の種を一応は蒔いて布石を打っておくこと、これこそ龍馬の能力ではないだろうか。

坂本龍馬の「大政奉還論」と、中岡慎太郎の「武力倒幕論」(後編)


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by sakanoueno-kumo | 2010-11-10 23:59 | 歴史考察 | Comments(0)