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坂の上の雲 第1部まとめ

 NHKスペシャル大河ドラマ「坂の上の雲」の第一部全5話が終了した。続きは2010年の12月まで待たねばならない。撮影も放送も3年に渡って行われるこのドラマは、予算をかけて壮大なスケールで描きながらも非常にきめ細やかな部分まで配慮されていて、司馬遼太郎ファンの私としてもとても満足いくものだった。原作のイメージを壊さないための配慮が随所に施されていた。

 まず最初にもっとも胸を打たれたのは、渡辺謙さんのナレーションだ。その内容は、すべて原作の文章を断片的に使ってつなぎ合わせたものである。まるで原作を朗読しているかのような作り方で、渡辺謙さんの語るいわゆる独特の「司馬節」が、重たすぎず、軽すぎず、とても小気味よく耳に入ってくる。このナレーションが作品を一層いいものにしているように私は思う。

 主人公3人の役者さんも素晴らしい。兄・秋山好古は、長身で手足が長く目が大きくほりが深く、西洋人に間違えられることもしばしばだったとか。阿部寛さんほどのハマリ役はいないんじゃないだろうか。弟・秋山真之は、精悍な顔つきの美男子で、兄ほどの武骨者ではなく、聡明だがどこか少年っぽさが残る人物といった原作のイメージ。本木雅弘さんが見事に演じている。そして何といっても素晴らしいのは香川照之さん演じるところの正岡子規。子供のまま大人になったような純粋で無邪気なこの文学者を、まるで亡霊が憑いたかの如く演じている。正岡子規と会ったことがあるはずもないのだが、子規という人物はきっとこんな男だったのではと思ってしまう。この物語の中盤で子規はその生涯を終えることになる。戦争という重たい主題の物語で、子規は物語を緩和するとても重要な存在で、彼の死後、原作でもその「緩」の部分を失い戦記もののようになってしまうのだが、ドラマでのそのあたりが課題となってくるだろう。

 子規の妹・律や、好古の妻・多美など女性の登場人物は、原作ではあまり重要な存在ではない。司馬氏はこの作品を書くにあったて、「フィクションを禁じて書くことにした。」と語っている。それが事実だと確認出来ないことは描いていないと言っており、ゆえに、色恋沙汰など艶っぽい話は原作にはほとんどない。律と真之のエピソードなどはすべてドラマのオリジナルである。男ばかりのドラマというのも味気ないもので、これぐらいのフィクションは許容範囲といったところだろう。

 司馬氏の小説には「余談」が多く、その余談がとても面白い。氏の没後、「以下、無用のことながら」という余談を集めた本まで出版されたほどである。しかしその余談は、物語の本筋とはそれるものが多く、ドラマでは省かれている。これも仕方がないところだろう。戦争シーンや戦争までの政治の動きなどは、小説では鳥瞰スタイルで描かれているため、非常に説明的で、セリフなどは極めて少ない。しかし、そのままではナレーションだらけになってしまうため、誰かにそれをセリフとして言わさねばならず、脚本家は苦労したことだろうと思う。

 第1部では、日清戦争までが描かれたが、戦争までの史観は、必ずしも原作どおりではなかった。明治を是とし昭和を愚とするいわゆる「司馬史観」だが、その賛否は別として、司馬氏は明治に起こったこのふたつの戦争を否定はしていないのだが、その辺のニュアンスは、ドラマでは少し違っていた。子規が従軍記者として現地で見た醜い軍人の姿などは原作にはない。司馬氏は明治の軍人と昭和の軍人とは明らかに違うものとしている。氏は同作品の映像化を「ミリタリズム(軍国主義)を鼓吹しているように誤解される。」として拒み続けていたということだが、歴史を現代の価値観で裁くほどナンセンスなことはなく、物語である以上、そのままの史観で描いてほしいものである。

 第5話の最後のナレーションの中の一節。
「やがて日本は日露戦争という途方もない大仕事に、無我夢中で首を突っ込んでいく。その対決にかろうじて勝った。その勝った収穫を、後世の日本人は食い散らかしたことになる。」
この言葉は、司馬遼太郎氏がこの物語を通してもっとも言いたかったことではないだろうか。

 ともかくも、第2部まではあと11カ月待たねばならない。この5週間、毎週日曜日が来るのが待ち遠しくてならなかった私にとって、11カ月間もの長い間待たされることはまさに拷問の極みである。


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by sakanoueno-kumo | 2009-12-31 02:32 | 坂の上の雲 | Trackback | Comments(5)  

坂の上の雲 第5話「留学生」

 ひと月あまりの従軍を終えた正岡子規は、帰国の途の船中おびただしい喀血をした。ドラマでは省かれていたが、帰国後松山で療養する前に、3カ月ほど神戸で治療をしている。現在の神戸大学付属病院の前身で、兵庫県立神戸病院に2カ月入院している。この間の苦しみは想像を絶するもので、このとき子規は死を覚悟したという。知らせを受けた陸羯南は、子規の弟分でもある高浜虚子を介抱に行かせる。このときから虚子の子規に対する献身的な介護が始まる。
 「須磨の灯か明石のともし時鳥(ほととぎす)」
という俳句をこのとき記した。時鳥とは無論、血を吐く自身のことであろう。

 喀血が治まった子規は、同じ神戸の須磨保養院に移り、約1カ月間療養する。この保養院は現在の須磨浦病院だったとされている。この近くの鉢伏山の中腹に、子規と虚子の句碑が建てられている。碑には、
 「虚子の東帰にことづてよ須磨の浦わに晝寝すと 子規」
 「子規50年忌 月を思い人を思ひて須磨にあり 虚子」
と記されている。

 療養のため松山に帰省した子規を、秋山真之が見舞いに訪れる。正岡家の屋敷は、母・妹を東京に呼んだ際、人手に売り渡しているため母の実家にて療養。そこの2階には松山中学の英語教師として赴任していた夏目漱石が下宿していた。原作では真之は漱石に会うのを嫌い帰ってしまうのだが、ドラマでは顔を合わせていた。実際には、漱石と子規は深い交友関係があったのだが、真之と漱石は大学予備門時代の同級生という以外には、特別交友はなかったようである。

 子規の松山での療養は約2カ月間。その後、帰京するべく松山を発ったが、まっすぐには戻らず上方のあちこちを見てまわった。その道中にあの有名な句が生まれる。
 「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」
しかし、この名句の誕生とともに、子規の晩年を苦しめたカリエスの症状もこのときから始まる。

 真之と固い友情で結ばれていたという広瀬武夫という人物。風変わりな男で、兵学校の頃から柔術に熱中し、あの嘉納治五郎から直接指導をうけていたという。講道館紅白戦で黒帯相手に5人抜きという同館始まって以来の記録をたてている。この男も独身主義で、嫁は海軍と柔術と漢詩だと言っていた。人生の概念も素朴で簡潔で、簡潔に生死することだけを日常の哲学としていたそうである。ドラマ中にあった、素っ裸で写真館で撮影して祖母に送った話は実話のようである。その時写真に添えた一文がある。
 「吾ヲ生ムハ父母、吾ヲ育ムハ祖母、祖母八十ノ賀、特ニ赤条々、五尺六寸ノ一男児ヲ写出シテ膝下ノ一笑ニ供ス」
変わった男である。

 真之は米国へ、広瀬は露国への留学が決まった。彼らの現地視察が、後の日露戦争において大いに役立つことになる。兄・好古のフランス留学のときもそうだったが、この時代の日本は国家の規模が小さいだけに、その部門部門においてたった一人の人物の肩に国家を背負わされる。その人物はその部門において先駆者になるわけで、そのやりがいは大きく、しかしその責任は重い。現代ではエリート官僚といえども、これほどの重責を担うことはないだろう。しかしこの時代のエリートたちは皆、自らを国家の代表として戦っていた。それが司馬遼太郎氏のいう明治という国家である。

 広瀬とロシア海軍・コヴァレフスキー少将の娘・アリアズナ・ウラジーミロヴナ・コヴァレフスカヤとの出会いがあった。広瀬と彼女は、日本に帰国後も文通を続ける関係にあったという。その後、悲しい物語となるのだが、ここでは触れないでおこう。

 渡米の報告に訪れた真之に、子規は心をこめて激励をする。
 「日本人は猿マネの民族と言われておるが、外国へ行っても卑屈になってはいかんぞな。西洋とて模倣を繰り返してようやく猿マネが終わったところじゃ。イギリスもフランスもドイツもロシアも、真似しあい盗み合うて文明を作り上げた。西洋は15世紀にそれをやって、日本は19世紀にそれをやったというだけの違いじゃ。猿マネの何処が悪い。日本人がいかに素晴らしい吸収力と消化力を持っとるか、あしらは十分に誇ってええんじゃ。日本には大きくて深い皿がある。そこに乗っかるものがいろいろあるゆうんが日本の面白さよ。」
 「そういう国を滅ぼしてはならん。」
 「ほうじゃ。国が滅びるゆうことは、文化が滅びるゆうことじゃ。」
 子規は、余命幾許もない自身の生涯で、どうしてもやり遂げたい仕事、俳句の探究という日本文化の探究を無駄にしないためにも、日本を、日本文化を守ってくれと真之に頼む。子規にとって真之は、病で動くことの出来ない自分の翼のような存在だったのかもしれない。

 真之が渡米した後、新聞日本に「秋山真之ノ米国ニユクヲ送ル」という詞書のもとに、
 「君を送りて思ふことあり蚊帳に泣く」
という俳句を載せた。


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by sakanoueno-kumo | 2009-12-28 02:16 | 坂の上の雲 | Trackback(1) | Comments(0)  

第54回有馬記念 結果

 有馬記念が終わった。結果は下記のとおり
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【有馬記念 全着順】
1着 ドリームジャーニー   2:30.0
2着 ブエナビスタ       1/2
3着 エアシェイディ       4
4着 フォゲッタブル      アタマ
5着 マイネルキッツ      2.1/2
6着 セイウンワンダー     2.1/2
7着 マツリダゴッホ      1.3/4
8着 イコピコ           4
9着 シャドウゲイト       3/4
10着 コスモバルク       クビ
11着 ミヤビランベリ      アタマ
12着 ネヴァブション       7
13着 リーチザクラウン     4
14着 テイエムプリキュア    7
15着 アンライバルド       7
中止 スリーロールス
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 結果的には1・2番人気で決まったものの、馬連740円、馬単1,510円という配当を見れば人気が割れていたことが窺える。それだけ難解なレースで、難解なときは固くおさまるというジンクスどおりの結果に。私も何とかおさえでゲット。元返し程度の配当だったが・・・まぁ、よしとしよう。

 レースはハイペースの展開。勝ったドリームジャーニーはスタート直後から後方待機。理想的な競馬を見せた。2着のブエナビスタはいつもと違って積極策で前へ。鞍乗は初騎乗の横山典で、前に行く競馬は彼のスタイルでもあり予想はされたものの、結果的に展開が向かず差し切られた。しかし、掲示板に載った他の馬が皆後方追い込みの馬であることを考えれば、ブエナビスタの底力はあっぱれ。いずれにしてもこの2頭の強さだけが目立った結果となった。

 3着のエアシェイディ、5着のマイネルキッツは、過去JC組の活躍が目立つこのレースのデータどおり、3歳馬に負けない実力を見せた。4着のフォゲッタブルは、やはりハードなローテーションのせいか、最後のひと伸びがなかった。そしてなんといっても残念なのは、私が予想でもっとも推していたスリーロールスの競争中止。力が未知数だっただけに、期待は大きかったのだが・・・。まともに走った上での結果が見たかった。

 何はともあれ有馬記念が終わると、ようやく今年も終わりだなぁと実感する私である。

私のレース前予想
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第54回有馬記念 予想


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by sakanoueno-kumo | 2009-12-27 17:50 | 競馬 | Trackback | Comments(0)  

第54回有馬記念 予想

 さて、いよいよ有馬記念。4歳馬未出走という異例のメンバーとなった今回の有馬記念。人気は3歳馬中心となった。現在1番人気は今年の桜花賞、オークスの2冠馬ブエナビスタ。確かに実力は認められるものの、秋になって勝ち切れないレースが3走続いている。牡馬の一線級と対戦するのも初めてで、昨年のダイワスカーレットが牝馬として37年ぶりの勝利であったことも考え合わせれば、この圧倒的な1番人気ほどの信頼度は持てない。

 3歳牡馬では、菊花賞の上位3頭が出走している。まずは菊花賞1着馬のスリーロールス。1000万を勝ち上がったばかりの8番人気での勝利でその実力はまだ未知数だが、勝ち時計もまずまずで、たとえ人気薄であっても菊花賞にフロックはないという観点からもここは押さえたい。他の人気馬に比べて比較的前で競馬が出来るところも魅力。菊花賞2着のフォゲッタブルもスリーロールス同様魅力大だが、前走のステーヤーズSが余分。菊花賞から直接有馬なら強く推したいところだが、ローテーションを考えれば割引せざるを得ない。菊花賞3着のセイウンワンダーは、安定はしているものの3歳になって勝ちがない。メンバー薄とはいえ勝利から遠ざかっている馬が有馬記念で勝ち負け出来るとは思えないのでここは見送り。他、菊花賞4着馬で神戸新聞杯をレコード勝ちしたイコピコ、菊花賞1番人気で5着に沈んだリーチザクラウンも気にはなるもののそこまで手を回せないので切り。皐月賞馬のアンライバルドは近走を見れば終わってる感は否めない。

 古馬勢を見渡すと、過去ローテーションで言えばJC組が断然強いのだが、今年はそのJC上位組が参戦していない。JC最先着馬は5着のエアシェイディで、昨年の有馬では3着に着ているものの、今年は勝ちがなく好走もない。JC組は捨てて、今年の宝塚記念の覇者で前走天皇賞6着のドリームジャーニーの方が信頼出来そう。中山巧者で一昨年の有馬記念覇者のマツリダゴッホも多少気にはなるが、昨年同レースでの惨敗と、前走天皇賞での不甲斐ない結果を考えるとここは切り。穴はGⅠレース初出走ながら、今年重賞レース3勝で好調さが伺えるミヤビランベリ。後方待機の人気馬が多いところで、直線の短い中山競馬場で前にいてそのまま粘りこみの展開も大いに予想出来る。買い目あり。

 上記の結論から、今回は勝ち馬を当てるのは非常に難解で、よって馬単、3連単は回避。馬連で勝負したい。本命は10番スリーロールス、2番ブエナビスタ、16番フォゲッタブルの3歳馬のボックスで。そこに古馬の3番ミヤビランベリ、9番ドリームジャーニーを加えて私の買い目は下記のとおり。

馬連②-⑩、⑩-⑯、②-⑯の3点を厚めに。そして
馬連②-③、③-⑩、③-⑯、②-⑨、⑨-⑩、
⑨-⑯
を押さえたい。

 多点買いになってしまった今年の有馬記念。それだけ難解なレースということで、自身の経験から言うと、多点買いになったときほど当たらないモノである。終わってみれば、有馬記念6度目の挑戦のコスモバルクだった・・・・なんてことにはならないとは思うが・・・。
 


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by sakanoueno-kumo | 2009-12-27 11:56 | 競馬 | Trackback | Comments(0)  

坂の上の雲 第4話「日清開戦」

 好古は戦場においても指揮刀を使っている。指揮刀とはおもちゃのような刀身で、刃がなく、当然切れない。まわりの者は不安がったが、彼に言わせれば、指揮官の役目は個人で敵を殺傷するものではなく、一隊一軍を進退させて敵を圧倒することころにあり、個人としての携帯兵器はいらないという。理屈は通っているが普通は不安なのが当然だろう。
 好古は酒がよほど体にあっていたようで、かなりの酒豪だったらしく、戦場においても水筒に酒を入れてある。激戦になるとかならず飲む。のんで勇気をつけるというのではなく、飲んだからといって頭に血が上って景気づくというぐあいにはならず、ただ鎮静はするらしい。酒を飲むことによって平常の自分を維持することができるようである。
 しかし、この日清戦争の旅順攻撃での好古のとった行動はあまりにも無謀で、「蛮勇」という言葉が相応しかった。戦略的にはもっと早く退却するのが定石で、好古ほどの戦略眼をもった男がわからぬはずはない。このとき好古は酔いの限度を超えていたのではないかと、戦後ささやかれたそうである。
 司馬遼太郎氏は言う。
 「好古は同時代のあらゆるひとびとから、『最後の古武士』とか、戦国の豪傑の再来などと言われた。しかし本来はどうなのであろう。勇気はあるいは固有のものではなく、彼の自己教育の所産であったかのように思われる。」
 かつて好古は、弟真之にこんな言葉をいった。
 「うまれつき勇敢な者というのは一種の変人にすぎず、その点自分は平凡な者であるからやはり戦場に立てば恐怖がおこるであろう。しかし、そういう自然のおびえをおさえつけて悠々と仕事をさせてゆくものは義務感だけであり、この義務感こそ人間が動物とはことなる高貴な点だ。」
 秋山好古という人は、こうして己を教育し、豪傑な自分を育てていったのだろうか。

 子規の従軍記者としての渡海もまた無謀であった。彼の東京での保護者であり、彼の頼みならたいていのことは叶えてくれた陸羯南も、従軍については彼の身体を心配して首を縦にふらなかった。しかし最後には根負けしたようなかたちで従軍を認めることになる。このことが、子規の寿命を大きく縮めることとなった。戦場とはおよそ無縁なこの無邪気な文学青年も、当時の日本人のひとりとして、この従軍はよほど嬉しかったようで、
 「かへらじとかけてぞちかふ梓弓(あずさゆみ)
  矢立(やたて)たばさみ首途(かどで)すわれは」

という勇ましい短歌を詠んでいる。

 真之はこの日清戦争では、小さな巡洋艦「筑紫」の航海士として臨んでいた。主力艦隊ではないため、第二線での参戦にすぎず、たいした武功もないままに終わった。一度だけ敵の砲弾をくらった。敵の巨弾が爆発せぬままに筑紫の左舷から中甲板を貫いて右舷側へ飛び出し、そのまま海へ落ちた。いわば串刺しの目に遭ったが、このとき下士官、兵合わせて三名が命を落とした。血だらけになった甲板、肉や骨の飛び散った真紅の光景は彼の終生、その夢に見つづけたほどのショックをあたえた。喧嘩好きの真之は、これほどの闘争的性格に生れついていながら、人の死からうける衝撃が人一倍深刻な心を持ち合わせていたようである。「坊主になろうと思った。」と、のちに語っている。

 ドラマ中、自分は軍人に向いていないのではないかと悩む真之。
 「よき指揮官とはなんでしょうか。あしにはそれがようわからんのです。少将はご自分の出した命令を後悔したことはありませんか。」
 この日清戦争の、最初の砲門を開く命令を出した東郷平八郎に真之は問う。
 「おいも人間じゃ。そいはおはんと同じじゃ。悩みや苦しみと無縁ではなか。じゃっどん、将たるもの自分の下した決断を神の如く信じらんにゃ兵は動かせん。決断は一瞬じゃが、正しい決断を求めるならその準備には何年、何十年とかかろう。よか指揮官とは何か。犠牲になった兵のためにも、よう考えてほしか。」
 悩まない者はよき指揮官にはなれない。悩むことこそが、指揮官としての責務。のちに「智謀湧くが如し」と言われた真之は、この人の死に対する強烈なまでの感受性と、悩み苦しむことができる心が育てたものなのかもしれない。

 とにもかくにも日清戦争は、日本の歴史的勝利で幕を閉じた。このことが、のちの日露戦争そして昭和の大東亜戦争につながっていくことは、この時代にはまだ誰も知る由もない。


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by sakanoueno-kumo | 2009-12-21 03:37 | 坂の上の雲 | Trackback(1) | Comments(4)  

寺田屋事件(坂本龍馬襲撃事件) 新史料が見つかる。

 坂本龍馬が伏見奉行所の捕り方に襲撃された「寺田屋事件」の貴重な資料が見つかったそうである。幕末に言う「寺田屋事件」とは2つあって、ひとつは1862年(文久2年)に起こった、薩摩藩尊王派による決起集結を同じ薩摩藩士が流血をもって鎮撫したという同士討ち事件。そしてもうひとつは今回資料が見つかったという、1866年(慶応2年)に起こった坂本龍馬襲撃事件。のちに龍馬の妻となるお龍が、風呂から裸のまま2階へ階段をかけ上がり、龍馬に危機を知らせたという話は誰もが知るところで、龍馬を主役にした物語では欠かすことの出来ない逸話である。

 これまでこの事件のことは、龍馬自身が姉の乙女に宛てて書いた手紙や、護衛として龍馬と共にこの寺田屋にいて襲撃された、長州藩士・三吉慎蔵の日記などで伝わってきた。今回見つかった資料は、伏見奉行所の報告書で事件後の龍馬の足取りなどが詳細に記されているらしい。幕府側の資料が見つかるのは初めてで、貴重な歴史資料になるだろう。

 この襲撃事件が起こったのは、1866年(慶応2年)1月24日の未明で、龍馬が尽力したとされる「薩長同盟」が締結された翌々日のことである。この時点では、まだ幕府側が薩長同盟の事実を知る由もないが、坂本龍馬が長州の桂小五郎と組んで何かを企てているというのは察知されており、天下のお尋ね者となっていた。22日、京都二本松薩摩藩邸において薩長同盟の締結を見届けた龍馬は、23日夜、三吉慎蔵の待つ寺田屋に戻ってきた。寺田屋に入っていく龍馬の姿を幕吏は確認していたのかもしれない。

 事件は24日の午前3時頃のことだが、幸運だったのは龍馬と三吉が薩長同盟の祝杯だったのか、床に入っていなかったこと。上記のお龍の機転もあって、襲撃までに未然に察知し身を整えることができた。寺田屋を取り巻いた幕吏は50人とも100人とも言われる。いくら手練の二人であっても、寝込みを襲われたり不意をつかれたらひとたまりもない。この幸運が、龍馬をあと1年10カ月の間生かすこととなる。

 龍馬はこの襲撃の際に左手の指に傷を負った。この傷はよほど重傷で、生涯負傷した指は自由がきかなかったという。この負傷は最初にあびせられた太刀を左手に持っていた拳銃で受け、その際に負ったものだという。その後も終始拳銃で応戦していて、この北辰一刀流免許皆伝の腕を持つ龍馬が、応戦中一度も刀を抜くことがなかったと、三吉の日記に記されている。このエピソードが、のちの物語などにある、龍馬の刀に対する姿勢のイメージを作ったものだろう。

 からくも寺田屋を脱出した二人だったが、龍馬は数日前から風邪をひいていて熱があり、負傷した指の出血多量による極度の貧血も重なって動けなくなった。やむをえず材木小屋に潜んだものの、もはや逃げられないと考えた三吉は、ここで潔く切腹して果てようと龍馬に進言する。しかし龍馬の考えは違った。
 「死ぬ覚悟ができているのならば、君はこれより伏見薩摩藩邸へ走ってくれ。
 もし、その途中で敵に会えばそれまでだ。僕もまた、この場所で死ぬまでだ。」

 生き死には天にまかせろ。切腹して果てるのも、敵に首を討たれるのも、死ぬことに変わりはない。ならば体の動く限り生きることを考えろという。この考え方は、この当時の武士としては奇跡的な考え方で、龍馬にまつわる数々のエピソードの中で、私のもっとも好きな話である。

 龍馬に説得された三吉は、川で染血を洗い、わらじを拾って旅人に身を変じ、伏見薩摩藩邸に駆け込んで救援を求めた。報告を受けた薩摩藩は、薩摩の旗印を押し立てて龍馬の救出に向かい、無事助け出した。龍馬と三吉のギリギリの「大脱出」物語である。

 寺田屋は今でも当時の姿を残したまま現存する。(これについては明治に再建されたという説もある。) 一度行ってみたいと思っているのだが、まだその機会がない。上記の寺田屋事件は「三吉慎蔵日記抄録」に詳しく、司馬遼太郎氏の小説「竜馬がゆく」の叙述もこの史料に則っている。今回見つかった資料で、今までになかった詳細や、これまで定説だったものの裏付けとなることなど、いろんな意味で期待は大きい。


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下記、記事本文引用
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<坂本龍馬>寺田屋事件後の足取り記録 奉行所の報告書発見

 坂本龍馬が伏見奉行所に襲撃され重傷を負った「寺田屋事件」について、事件直後の龍馬の足取りを詳細に記した同奉行所の報告書の写しが見つかり、15日、高知県立坂本龍馬記念館が発表した。同事件に関しては、これまで龍馬の手紙などでしか伝わっていなかったが、幕府側の資料が見つかるのは珍しいという。
 報告書は2通で、京都所司代にあてたもの。手負いの龍馬が薩摩藩邸に向かう途中、「村上町」(現在の京都市伏見区)にある「近江屋三郎兵衛」の「材木納家」に逃げ込んだと記載されており、特定されていない詳細な場所が分かる可能性があるという。材木納屋には血に染まった所持品を残していたとの記載もあった。
 また、龍馬は逃げる際、寺田屋に書類を忘れており、報告書には「坂本龍馬所持至款写取奉差上候」(坂本龍馬が持っていた書類の写しを差し上げます)と記されていた。
 報告書は京都土佐藩邸が集めた1854~66年の資料計574点の中から見つかった。資料を手放そうとしていた京都市の収集家から土佐歴史資料研究会のメンバーがいったん購入し、同県が今月買い取った。
 資料を分析している土佐山内家宝物資料館の渡部淳館長(46)は「単なる回想ではなく、同時代の人が書いたもので臨場感があり、文章が躍っている。これからのドラマや本はもっと細かく描けるようになるだろう」と話している。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091215-00000069-san-soci
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by sakanoueno-kumo | 2009-12-16 16:43 | 歴史考察 | Trackback(1) | Comments(2)  

坂の上の雲 第3話「国家鳴動」

 子規が喀血した。肺結核である。当時、この病気は不治の病とされており、この病気にかかれば死を意識せざるを得ない。子規が最初に喀血したのは明治21年のことで、以後14年もの長い間、この病気と闘うことになる。雅号とした子規とはホトトギスの異称で、血を吐くまで鳴くと言われるホトトギスに喩えたものである。病になっても決して悲観的にはならない強さを持った彼だったが、残り少ない人生を急いでいたかのようには感じられる。苦労して入学した帝国大学を中退、陸羯南に頼って新聞「日本」に入社、執筆活動に没頭しだす。陸羯南という人物は、ドラマでは本話で初めて登場したが、原作では子規が上京した当初から彼の力となっている人物である。羯南の言論はのちに政府を震え上がらせるほどに鋭かったが、子規に対してはあくまで優しかった。羯南は子規という一個の才能のために自分が砥石になってやろうと、書物を貸したり、議論をしたりして子規の面倒をみた。子規も夏目漱石に宛てた手紙に「羯南のように徳のある人は類がない。」と書いている。いわば、子規の個人教師だったと、司馬遼太郎氏は言う。

 真之が鎮台さんと喧嘩沙汰を起こした場所は、旧松山藩政時代の水練用のプール「お囲い家」である。真之は松山に帰省すると必ずこの「お囲い池」に通った。この場所にいつも座っている番人のような老人がいた。水練神伝流師範正岡久次郎老人がそれであった。老人は死ぬまで曲げを結い、いつも袴をつけ、夏羽織を着、扇子を膝に立て、このプールを見守っていた。藩政が瓦解し、お役もお禄もなかったが、旧松山藩領での水練は自分が面倒を見なくてはという責務感があったのか、毎年夏が来ると、報酬もないのにこの場所に来ていたそうである。この正岡老人の努力もあって、松山の水泳は当時全国でも群を抜いて水準が高かったそうである。大正になってクロール泳法が入ってくるまでは、この神伝流が主だったらしい。

 このプールでの喧嘩沙汰と、そしてその後、父が警察と談判したエピソードは、真之の攻撃的な性格と、父の人柄を垣間見ることが出来るいい話である。このあとしばらくして父八十九翁は永眠する。息子二人は父の死に目は見ていない。父は最後まで父らしくあった。

 好古は平素、独身主義と語っており、それを自身の哲学としていた。軍人が所帯を持てば、判断や覚悟が鈍るといった考えからである。この時代、このような考えを持った軍人は少なくなかった。これは、お家第一とした封建時代の武士の心とは少し違ってきているようである。しかし、その好古も年貢の納めどきが来る。男にとって結婚=年貢の納めどき・・・などと誰が言い出したか知らないが、平成の現代では女性の方にその感が強いようである。しかし好古にとっては、結婚とはこの言葉がぴったりだったのかもしれない。

 好古の妻となったのは、以前の下宿先だった佐久間家のお姫(ひい)さま、名を多美という。佐久間家は旧旗本で、旗本といえば大名と同格、将軍家直臣で、大名の家来である秋山家などとは身分が違い、このときより二十数年前まではありえない縁談である。このドラマの第1話で、多美の乳母は好古・真之兄弟のことを「陪臣」と言ってさげすんでいた。多美自身も、そういうふうに教えられてきていたので、好古に対して好意は持っていたものの差別意識は多少あったようだ。縁談話があったとき、「陪臣のところに・・・。」と彼女は大まじめに驚き、「清水の舞台から飛び降りる気持ちで決心した。」と、後年になるまでそのときの動揺を子どもたちに語ったそうである。

「今でも茶碗ひとつでお暮らしですか?」
「いや、母と暮らしておりますけん、今はふたつほど・・・。」
「そうですよね(笑)」
「・・・もうひとつあっても、ええかもしれません・・・。」 
 独身主義で不器用なはずの好古にしては、なんとも粋な求婚の言葉だ。

 結婚式の活劇のような演出は面白かった。
「独身最後の砦も、ついに落ちたか!陸大一期生、これにて・・・・全滅っ!どぉーん!!」

 時代は日清戦争に向かおうとしていた。伊藤博文、陸奥宗光、川上操六、山県有朋、東郷平八郎、児玉源太郎。史実における様々な立場での主役たちが動き始める。


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by sakanoueno-kumo | 2009-12-14 02:23 | 坂の上の雲 | Trackback | Comments(0)  

レッドスター赤星憲広選手 引退表明

 阪神タイガースの赤星憲広選手が引退を発表した。阪神ファンにとってはとても残念な発表だ。関西では号外が配られている。他の地域の人たちが聞けば、「赤星ごときで号外?」なんて思うかもしれないが、FA獲得選手が多いタイガースの中で、数少ない生え抜き選手として非常に高い人気の選手なのである。残念でならない。

 赤星選手は、野村克也監督時代の2001年にドラフト4位で入団。ちょうど新庄剛志選手がFAでメジャー移籍をした年で、入団会見の際、「新庄さんの穴を少しでも埋められるよう頑張ります」と言うつもりが、緊張のため「新庄さんの穴は僕が埋めます!」と豪語し、翌日のスポーツ新聞で騒がれたというエピソードは、あまりにも有名な話。しかし、蓋を開ければその言葉どおり・・・いや、言葉以上の活躍をした。「新庄が出ていってくれたおかげで、赤星が育って良かったやん!」などと言う阪神ファンも少なくない。(新庄ファンの方、ゴメンナサイ。)

 主な成績は、1276安打、381盗塁、盗塁王5回(5年連続はセ・リーグ記録)、ベストナイン2回、ゴールデングラブ賞6回。特に盗塁にいたっては、2003年から2005年に3年連続60盗塁という、福本豊選手以来の快挙を成し遂げている。福本選手や高橋慶彦選手が活躍していた昭和の頃は、盗塁王と言えば、60から70盗塁が当たり前だったが、彼ら以降、投手のクイックモーションの技術の進歩などもあってか、平成に入ってからは盗塁王でも30盗塁という寂しい数字が続いていた。赤星選手の登場は、久々に高いレベルの盗塁王を期待させてくれるものだった。打率も3割を超えたシーズンが5回。170cmと小柄ながら、まさに走・攻・守の三拍子揃った名選手だった。

 私は週末、少年野球の指導者をしているが、小学生の子どもたちに「好きな選手は誰?」と聞けば、必ず赤星選手の名前は上位にあがる。(神戸なので阪神ファンがほとんどなもんで) 甲子園球場でも「53」の背番号のユニホームを着た子どもは多い。子どもに人気がある・・・ということは、野球選手として最も素晴らしいことで、最も必要な要素なのではないかと、私は常々思っている。「赤星選手のような野球選手になりたい!」と、子どもたちに思ってもらうことは、のちの野球界全体の発展につながることで、今、現役の選手たちも、子どもの頃、誰かに憧れて野球を始め、今につながっているはずである。赤星選手は野球選手として最も必要な要素を持っていただけに、33歳での引退は球界としても大損失だと思う。

 近年は首の痛みと闘っていた。彼の首は手術をすれば、選手生命はおろか人間生命を失う危険性もある場所だと聞いたことがある。苦渋の決断だっただろうけど生命には変えられない。ゆっくりと体を休めて、そしていつの日か指導者としてグランドに帰ってきてくれることを期待しています。


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下記、記事本文引用
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阪神の赤星が現役引退 盗塁王5度の俊足外野手
プロ野球阪神の赤星憲広外野手(33)が現役引退することが9日、分かった。首の痛みが引かないことなどが原因とみられる。赤星は愛知・大府高から亜大―JR東日本を経て01年ドラフト4位で入団。走攻守三拍子がそろった外野手として1年目からレギュラーに定着し、39盗塁で盗塁王に輝き、新人王に選ばれた。その後05年まで5年連続で盗塁王となった。打率3割は5度マークしている。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091209-00000060-mai-base
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by sakanoueno-kumo | 2009-12-09 18:45 | プロ野球 | Trackback | Comments(0)  

坂の上の雲 第2話「青雲」

 幼い頃から常に肩を並べて、ともに遊びともに学んできた真之と子規。しかし二人の進む道は分かれることになる。ドラマでは省かれていたが、原作では真之も一時期文学に励み、子規と二人で生涯文学をやろうと誓い合ったほどである。そしてその才も真之の方が長けていた。学問においても真之の方が上で、子規にとって真之は、幼馴染であり、親友であり、しかしライバルでもあり、それでいて憧れでもあったのかもしれない。置き手紙を残して去っていった真之。いろんな思いがこみ上げてきたであろう子規の心中が、香川照之さんの無言の演技の中に込められていた。
「戦をも厭わぬ君が船路には 風吹かば吹け 波立たば立て・・・気張れ!ジュン淳さん。」

 子規は生涯友人との交流を大切にした。
「人間は友人がなくとも十分に生きていけるかもしれない。しかし、子規という人間は、切ないくらいにその派ではなかった。」
 これより少し後年の石川啄木などに代表する、歌人・俳人の持つ孤独で神経質なイメージとは異なり、晩年病床に伏しても友人たちとの時間を一番大切にした子規。このドラマに描かれているとおり、生涯少年のような人物だったのかもしれない。

 成績優秀で行動力もあり、子規をはじめ友人たちにも頼られる真之だが、その分、要領が良く、何においても子規のように純粋に夢中になれない自分に悩む。「男は単純明快でいろ!」という兄の教えを胸に、自身にとって居心地のいい大学予備門を中退し、海軍兵学校に入学。軍人の道を進む。心から軍人になりたかったわけではない。しかし、
「一身独立、一国独立。」
 まずは自分の身を一人前に食っていけるようにして、その上で国の存立に関わるようになれ・・・ということ。兄・好古の尊敬する福沢諭吉の言葉で、好古の座右の銘でもある。
「一身独立するには、まず質素を旨とし、単純明快な生活を体に叩き込め!」
 兄の言葉を胸に、一身独立してしかも単純明快であるために、軍人の道を選んだ。

 旧藩主、久松家からの仰せでフランス留学を余儀なくされた好古。原作では、フランス行きが好古のその後にどう影響するかなど、久松家はまったく気にしていない様子だった。ドラマでは多少気にかけてくれていたようである。が、断ることはできない。新しい世になったとはいえ明治維新からまだ20年ほどしか経っていないこの時代。旧下級藩士の微妙な立場がよくわかるエピソードである。好古のフランス留学生活は、途中から官費留学になったことがナレーションで伝えられたが、それまでは私費留学だったことや、そのために困窮していたことなどが省かれていたことが少々残念である。

 ドラマ中にもあったが、子規は野球を愛し、野球のルールや訳語を最初に示した随筆を著し、ここで使用された訳語(打者・走者・飛球・死球等)が現在でも生きている。明治22年(1889年)、帰郷の折りに松山中学の学生であった河東碧梧桐に野球を教え、その後、松山では野球が非常に盛んになった。その流れか、のちに始まった全国高校野球大会創生期の大正から昭和初期にかけて、松山商業は全国屈指の強豪校だったそうである。子規の死後100年経った平成14年(2002年)、野球の普及に貢献した人物として野球殿堂入りを果たしている。

 それぞれの進むべき道が定まった。彼らの選んだ道が、やがて日本の歴史を変える事になる。
それはまさに「一身独立、一国独立」の言葉どおりである。


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by sakanoueno-kumo | 2009-12-08 22:50 | 坂の上の雲 | Trackback | Comments(2)  

坂の上の雲 第1話「少年の国」

 「まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている。」
 タイトルどおり「少年の国」だった明治初年の日本は、いわゆる「大人の国」である欧米諸国に懸命に追いつこうとしていた。それはちょうど思春期ぐらいの少年が、力もないのに大人の真似をし、ときには大人に反抗し、必死に背伸びをしている姿に似ている。大人たちから見れば滑稽にしか見えない彼らだが、当人たちは大真面目なのである。少年たちは知識も経験もお金も持っていないが、大人が失ってしまった夢や希望を持って目を輝かせている。明治の日本には、そんな少年のような目の輝きがあったと作者・司馬遼太郎は言う。

 その「少年の国」で自身も少年期を過ごした3人の主人公、秋山好古、秋山真之、正岡子規。彼らの生まれた松山県(のちの愛媛県)は、幕末、親藩・伊予松山藩として幕府側につき、長州征伐では先鋒を任され財政難の極致に陥り、大政奉還後は朝敵とされ、朝廷への恭順の証として財政難の中から15万両を献上して赦された。そんなわけで明治になっても財政難は続き、旧士族の家柄である彼らも極貧の生活を余儀なくされた。想像するに、平成の不況等とは比べ物にならないものだったであろう。

 しかし彼らには高い志があった。夢があった。希望があった。
「お豆腐ほどの厚みのお金をこしらえてくる。」といって自力で身を立てようとする、いかにも兄貴らしい好古。
「東京で勉強して太政大臣になってやる。」と、高い志を抱く秀才・子規。
「海の向こうにはわしらが知らんものが、ようけありそうじゃのう!」と、まだ目標が定まらないながらも、未来に大きな夢を求める真之。
 頑張ればどんな希望でも叶うかもしれないという、少年らしい純粋な心。国全体が少年だった明治の日本では、少年たちが夢や希望で大いに胸を膨らませられる時代だった。それは、国家として貧しいながらも列強諸国に追いつけ追い越せという、明確なビジョンがあったからなのだろう。
作者は言う。
「彼らは明治という時代人の体質で、前をのみを見つめながら歩く。
上って行く坂の上の青い天に、もし一朶(いちだ)の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて、坂を上っていくであろう。」

 平成の若者たちは、夢や高い志を抱けているだろうか。明るい将来を見出せず、刹那的な生き方に見えるのは私だけだろうか。もしそうだとすれば、私たちの生きる平成の日本は、国家として晩年をむかえた「老人の国」なのかもしれない。


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 オープニングの渡辺謙さんの「司馬節」が、あまりに素晴らしかったので全文紹介します。

まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている。
「小さな」といえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。
産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年のあいだ読書階級であった旧士族しかなかった。
明治維新によって日本人は初めて近代的な「国家」というものをもった。
誰もが「国民」になった。
不慣れながら「国民」になった日本人たちは、日本史上の最初の体験者として、その新鮮さに昂揚した。
この痛々しいばかりの昂揚が分からなければ、この段階の歴史は分からない。
社会のどういう階層の、どういう家の子でも、ある一定の資格をとるために必要な記憶力と根気さえあれば、博士にも、官吏にも、教師にも、軍人にも、成り得た。
この時代の明るさは、こういう楽天主義から来ている。
今から思えば、実に滑稽なことに、コメと絹の他に主要産業のない国家の連中は、ヨーロッパ先進国と同じ海軍を持とうとした。
陸軍も同様である。
財政の成り立つはずがない。
が、ともかくも近代国家を作り上げようというのは、元々維新成立の大目的であったし、維新後の新国民の少年のような希望であった。
この物語は、その小さな国がヨーロッパにおける最も古い大国の一つロシアと対決し、どのように振舞ったかという物語である。
主人公は、あるいはこの時代の小さな日本ということになるかもしれないが、ともかく我々は三人の人物の跡を追わねばならない。
四国は、伊予松山に三人の男がいた。
この古い城下町に生まれた秋山真之は、日露戦争が起こるに当って、勝利は不可能に近いと言われたバルチック艦隊を滅ぼすに至る作戦を立て、それを実施した。
その兄の秋山好古は、日本の騎兵を育成し、史上最強の騎兵といわれるコルサック師団を破るという奇跡を遂げた。
もう一人は、俳句短歌といった日本の古い短詩形に新風を入れて、その中興の祖となった俳人・正岡子規である。
彼らは明治という時代人の体質で、前をのみを見つめながら歩く。
上って行く坂の上の青い天に、もし一朶(いちだ)の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて、坂を上っていくであろう。


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by sakanoueno-kumo | 2009-12-01 11:51 | 坂の上の雲 | Trackback(3) | Comments(0)