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2011年大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」 主役発表!

 2011年の大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」の主役女優が発表された。主役・江を演じるのは上野樹里さん。脚本は2008年の大河ドラマ「篤姫」を手掛けて大ヒットさせた田渕久美子さんで、今回はオリジナル作品とのこと。大奥の終焉を描いた「篤姫」だったが、今回の作品ではその大奥の始まりを描くことになる。

主役のお江については、製作発表のときに書いているので、よければ一読ください。
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2011年大河ドラマは「江~姫たちの戦国~」

 歴史は大好きだが芸能界オンチの私は、恥ずかしながらこの主役を演じる上野樹里さんという女優さんのことをよく知らない。「のだめカンタービレ」というドラマで脚光を浴びたそうだが、そのドラマすら知らない(汗)。経歴を見てみるとNHKの朝ドラに出演していた人のようで、これもまた「篤姫」の主役だった宮崎あおいさんとラップする。田渕久美子さんの脚本で、「篤姫ブーム」の再現といったところだろうか。

 主役のお江という人物はいってみればマイナーな人で、今年の坂本龍馬のように見る側にとって確固たるイメージがあるわけではないので、人物イメージが壊れるといった批判を受ける心配はなく作品づくりが出来るだろうけど、その分、このドラマで作られるものが今後のお江という人のイメージを作ってしまうとも言えるので、その責任は大きい。世の篤姫のイメージは、宮崎あおいさん演じるところになっているだろうしね。

 とにもかくにも、私たちの目にふれるのはまだ1年近く先の話。大河ドラマとしては50作目の節目の作品ということで、NHKとしても力が入っていることだろう。脇をかためる役者さんたちの発表が待たれる。


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上野樹里、11年大河「江~姫たちの戦国~」主演に抜てき!

 女優の上野樹里(23)が2011年のNHK大河ドラマ「江(ごう)~姫たちの戦国~」に主演することが25日、分かった。同作は徳川2代将軍・秀忠の正室・江の生涯を描いた作品。脚本は08年に宮崎あおい(24)主演の「篤姫」を手がけた田渕久美子さん(50)のオリジナルだ。時の権力者たちに人生を翻弄(ほんろう)され、乱世に波乱の人生を送った江に時代劇初挑戦の上野が体当たりで挑む。
 上野が演じる江は、戦国時代、近江を支配した武将・浅井長政と織田信長の妹・お市の方の三女。豊臣秀吉の妻となる長女・淀(よど)、名門・京極家に嫁ぐ次女・初(はつ)と共に、戦国史上で最も有名な三姉妹であり、徳川2代将軍・秀忠の正室となった人物だ。戦乱を経て、江戸城に大奥を作り上げ、以後二百数十年にわたり、「平和」と「繁栄」の時代の礎を築いたことでも知られる。
 脚本を務めるのは、大奥の終焉(えん)を描き、全国に「篤姫ブーム」を巻き起こした田渕さん。今作では大奥の始まりに至るまでの道のりが物語の中心となる。信長を伯父、秀吉を義兄、家康を義父に持つ“スーパーセレブ”でありながら、2度の落城や3度の結婚を経験した江。時の権力者たちに人生を翻弄され、波乱に富んだ人生が描かれていくという。
 主演に抜てきされたのは、時代劇初挑戦となる上野。大ヒット中の映画「のだめカンタービレ」の野田恵役や「スウィングガールズ」の鈴木友子役でのコメディエンヌぶりは有名。08年のフジ系「ラスト・フレンズ」では、性同一性障害の女性を好演し、新境地を開拓するなど、若手のホープとして注目を浴びている。豊富な演技経験と実力に加え、無限の将来性を見込んで白羽の矢が立った。
 02年にNHK総合「生存 愛する娘のために」でドラマデビューした上野にとって、同局は女優として一歩を踏み出した思い出の放送局。成長した姿を披露するため上野自身もやる気をみなぎらせているようだ。
 11年の大河ドラマは50作目という大きな節目を迎える。人気脚本家との二人三脚で、大女優としての礎を築いていく。

 ◆上野 樹里(うえの・じゅり)1986年5月25日、兵庫県生まれ。23歳。ファッション誌のモデルの応募がきっかけでCM出演。2002年、NHK総合「生存 愛する娘のために」で女優デビュー。03年朝の連続テレビ小説「てるてる家族」に出演。04年「スウィングガールズ」(矢口史靖監督)で日本アカデミー賞新人俳優賞を獲得。07年にはフジ系「のだめカンタービレ」の劇中曲「おなら体操」で歌手デビュー。08年、同局の「ラスト・フレンズ」でギャラクシー賞を受賞した。167センチ。血液型A。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100126-00000065-sph-ent

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by sakanoueno-kumo | 2010-01-26 11:27 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(2) | Comments(4)  

龍馬伝 第4話「江戸の鬼小町」

 江戸に剣術修行に来た坂本龍馬が入門した桶町千葉道場は、幕末の剣豪・千葉周作の弟、千葉定吉(貞吉)を師範とする道場で、北辰一刀流を流派とする。兄の千葉周作は、鏡心明智流の桃井春蔵、神道無念流の斎藤弥九郎とともに幕末三剣豪と呼ばれ、「位の桃井・力の斎藤・技の千葉」と評され、幕末の江戸三大道場とされている。地方から我こそはと江戸に上ってきた剣のエリートたちは皆、この三道場の門をたたいている。現在でいえば、東大、早稲田、慶應といったところだろうか。その三大道場において、のちに龍馬は桶町千葉道場の塾頭となり、斎藤の道場・練兵館では桂小五郎が塾頭、桃井の道場・士学館では、のちに江戸に上ってくる武市半平太が塾頭となる。ここでめぐり合った全国の若者たちが、のちに尊王攘夷の発信元となっていくこととなる。

 龍馬の入門した千葉道場は、精神主義を排し、合理的な教授法が人気を呼んだらしく、江戸に剣術ブームを起こしたそうである。武骨な道場というカラーを脱し、現在でいえば「剣術教室」といった具合のとてもパブリックな道場だったようである。のちの龍馬の観念にとらわれない合理的な発想の基礎は、この千葉道場の修行時代に作られたものかもしれない。

 定吉の娘・千葉佐那。佐那子とも呼ばれる。剣術は本当に強く、10代で北辰一刀流免許皆伝に達したほどの腕前だったとか。小柄で大そうな美女だったようで、本話のタイトルどおり、「千葉の鬼小町」と呼ばれていたという。私の個人的趣味では、龍馬にまつわる女性の中ではこの佐那が一番好きだ。男勝りで気が強く、まっすぐな性格に描かれる佐那。しかし、いや、であるから、純粋で一途な女心の可憐さを感じる。(このイメージは多分に「竜馬がゆく」のキャラに感化されているのだが・・・。) つかみどころのないプッツン娘のお龍や、フェロモンたっぷりの平井加尾よりも、何倍も可愛く感じるのだが、これはオジサンの感覚だろうか・・・。これも個人的な思いだが、おそらく龍馬のことを一番思ってくれていた女性は、この佐那だったように思う。

 本話で桂小五郎も登場した。いつも冷静沈着で、謹厳実直を絵に描いたような人物に描かれることが多い桂小五郎だが、今回の多弁でちょっとコミカルな登場のしかたは、今までになかった桂小五郎を予感させる内容だった。今後が楽しみである。

 さて、次週はいよいよ黒船来航。幕末の騒乱の幕が切って落とされる。


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by sakanoueno-kumo | 2010-01-25 00:31 | 龍馬伝 | Trackback(1) | Comments(2)  

龍馬伝 第3話「偽手形の旅」

 同じ下士の身分とはいえ、生まれついた境遇はあまりにも違う坂本龍馬岩崎弥太郎。育った環境はその人の人格形成には大きな影響を与える。大らかでマイペースな性格の龍馬は、まさしく土佐郷士一裕福な坂本家の末っ子として育まれたものに違いないし、一方で郷士株を売った地下浪人の家の長男として生まれ、食うや食わずの生活をしてきた弥太郎は、極貧家庭の教科書どおりひがみっぽい性格が形成された。弥太郎の父・弥次郎は、ドラマのとおり乱暴者だったようである。

 岩崎弥太郎という人物のことは、私も村上元三氏の著書、伝記小説「岩崎弥太郎」を読んだ程度の知識でしかない。そこに載っていた話のどれが実話でどれがフィクションかはよくわからないが、実際に14歳で漢詩を諳んじるなどかなりの秀才だったようである。その上、強い自負心の持ち主で、その自負心と己の境遇とのギャップが彼ひねくれた性格を作っていて、自分以外の誰も信じないという人物に描かれている。この人物像は司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」に登場する弥太郎にも通ずるところで、結構あたっているのかもしれない。ドラマのように、偽手形を使って江戸に行こうとしたエピソードは実際にはないが、こののち奥宮慥斎(忠次郎)の従者として江戸に行くチャンスをつかみ、ドラマ中の関所で言っていた安積艮斎(あさかごんさい)のもとで実際に学ぶこととなる。しかしその遊学もまた、父・弥次郎の所為で不十分に終わるのだが、それはドラマの今後に譲ることとしよう。

 龍馬の修行中の身を案じ、戒めの心得を伝える父・八平。
 弥太郎の姿が消えて、一心不乱に探し回る父・弥次郎。


 どちらも息子を思う親心には違いないが、出来れば八平のような父親でいたいものである。私にも15歳の息子がいるが、土日は好きなことばかりして泥酔状態で帰宅することもしばしばの私は、息子の目から見れば弥次郎そのものかもしれない。改心せねば・・・。

 
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by sakanoueno-kumo | 2010-01-19 00:54 | 龍馬伝 | Trackback(1) | Comments(0)  

小林繁氏の訃報に思う。

 小林繁氏の突然の訃報にただただ驚いている。享年57歳。野球ファンとしては残念でならない。現役時代の最後も、その年13勝をあげながらも31歳という若さで突然の引退を発表して世間を驚かせた。人生の最後もまた、あまりにも早すぎる引退である。

 小林繁氏といえば、沢村賞2回、最優秀投手2回、最多勝利投手1回と、短い現役生活だったとはいえ輝かしい実績を残しているのだが、そのどの功績よりも世間の知るところは、やはりあの球史に残る「空白の一日」における悲劇の人物ということに尽きるだろう。国会にまで取り沙汰されたこの事件は、世間に小林=被害者江川=悪玉のイメージを定着させた。当時子供だった私も例外ではなく、小林投手を応援し、江川投手を忌み嫌ったものだった。しかし、大人になった今にして思えば、江川投手もまた被害者だったのだと思い至る。悪いのはあの事件を仕組んだジャイアンツのお偉方であり、もっと言えば、その「空白の一日」を生む結果となったドラフト制度自体の問題とも言える。若き江川氏は、ただ純粋に憧れだったジャイアンツに入りたかっただけで、その入れ知恵をしたのは周りの大人たち。しかしすべての絵を彼が描いたかのようなバッシングのされかただった。当時、ワガママを言うことを「エガワる」という言葉まで流行したことを思い出せば、若干23歳で社会人1年生に過ぎない江川卓氏にとっては、世の中は皆敵に思えたことだろう。

 この事件によって小林投手の株は一気に上がった。世間は悲劇のヒーローとして彼に同情した。当時から熱烈な阪神ファンだった私にとってジャイアンツ時代の小林投手は、甘いマスクと爽やかスマイルのビジュアル系ヤサ男というイメージだったのだが、この事件で阪神にきてもそのことには終始口を閉ざし、ただ黙々と結果を残す彼に秘めたる男の闘士を感じた。外見とは裏腹に、男らしさを感じたものだった。しかし、悲劇のヒーロー扱いされた当の本人の心中は、果たしてどのようなものだったのだろう。彼はこの事件に関しては以後も口を閉ざしたままで、誰も知るところではない。

 2007年になって、小林繁氏と江川卓氏がCMで共演したそうである。それまで30年近く、口をきいたことがなかったらしい。江川氏が事件について謝罪した際、「もう風化してるよ。」と答えたという。多少神秘的にいえば、亡くなる前に二人の雪解けの席を神が設定したようにも思える。

 話は変わるが、小林投手といえばその独特の投球フォームで知られている。あの明石家さんまさんもデビュー当時、小林投手の形態模写で名を成した。今では少なくなった下手投げで、帽子を深くかぶり、ウイニングショットのあとは必ずその帽子が宙を舞う。帽子が飛ばないときは調子が悪いとき。一説には、わざと大きめのサイズの帽子をかぶって飛ばすことで、自分の投げる球に威力があるように見せていたという話を聞いたことがあるが、本当かどうかはわからない。当時は私もよく真似をしたものだった。昔は小林投手をはじめ、個性的なフォームの投手や打者が多かった。子どもたちは憧れの選手の真似をすることで、野球を好きになったものである。現在では、皆理にかなった美しいフォームの選手ばかりで、真似をされる個性的な選手が少ない。残念だが小林投手のような選手はもう生まれないかもしれない。

 ともかく、小林繁氏のご冥福を心からお祈り致します。


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小林繁氏が死去 江川事件で阪神移籍
 1978年11月、巨人が浪人中の江川卓投手と野球協約を無視して入団契約を交わし、プロ野球界を揺るがす騒動に発展した「江川事件」で、交換要員として阪神に移籍した現日本ハムの小林繁投手コーチが17日、心不全のため死去した。57歳。鳥取県出身。小林氏は鳥取・由良育英高から全大丸を経て72年に巨人入り。76、77年にはともに18勝(8敗)を挙げて長嶋茂雄監督のリーグ連覇に貢献した。

by sakanoueno-kumo | 2010-01-18 14:42 | プロ野球 | Trackback(1) | Comments(6)  

今日は私の誕生日。そして阪神・淡路大震災から15年。

 今日1月17日は私の誕生日。そして同じく今日は、あの阪神・淡路大震災発生から15年になる。震災当日28歳の誕生日だった私も43歳になった。遠い昔の出来事のようにも思えるが、15年経った今でもその爪痕はまだ神戸のいたるところに残っている。神戸市民は平成7年を震災元年と位置づけ、何かにつけ「震災から何年」と数え、また昔話をするときも「あれは震災前のこと・・・」などと語ることが多い。それほどこの平成7年1月17日という日は特別な日で、この日を境に大きく人生が変わった人も多くいる。そんな日に誕生日を迎える神戸市民の私である。

 震災当日の実体験は、昨年の同じ日のブログに書いているので、良ければ一読ください。
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 震災から14年。そして私の誕生日。今、思うこと。

 6000人以上もの人の命日と同じ誕生日の私だが、幸い私の家族は無事だった。しかし、私の周りには大切な家族を失った人が少なくなかった。中でも当時私の職場の先輩で、17歳の娘さんを亡くされた方がいた。今日は少しその話を紹介したい。

 その方の当時の住まいは神戸市東灘区で、市の中でも最も倒壊率も高く、死者を多く出した地域で暮らしていた。家は、震災の数か月前に引っ越してきた古い木造の一戸建てだった。前年までは郊外に住んでいたが、職場から遠く長い通勤時間を要することから、神戸市の中心部のこの地域に中古物件を購入して移ってきたという。そこで震災に遭った。

 家は全壊だった。瓦礫の中から必死で脱出した父親は、まっ暗闇で何が起こったか十分理解しないまま、とにかく家族の声がする場所を必死で探したという。子どもさんが5人もいる大家族だった。近所の人に助けを求めるも、周りの家もまともな状態ではない。瓦礫をかき分け奥さんを助け出し、子どもさんを一人ずつ掘り起こして救出した。長女の17歳になる娘さんの居場所だけがなかなか見つからなかった。微かに聞こえるうめき声のようなものを頼りに、薄明るくなり始めた中、瓦礫をめくり、やっと見つけ出した娘さんの身体には、彼女が寝ていた二段ベッドのスチールパイプが突き刺さっていたという。地獄のようだったと、後日父親は私に語った。

 近くの月極駐車場に停めてあった自家用車に家族を乗せ、とにかく病院に連れていくため車を走らせた。朝日が昇り街が明るくなってゆくと、その光景に愕然とした。病院なんてあるはずがない。ビルは崩れ、電柱や信号は倒れ、道路は陥没し、街は廃墟と化している。それでもあきらめるわけにはいかない。必死で診てもらえる病院を探したという。しかし、倒壊していない病院は少なく、あったとしても電気も水もガスも全て止まっている病院で治療など出来るはずもない。それでもアスファルトのめくれ上がった道路をよけながら、必死で車を西へ走らせた。父親が車を運転していた。母親が血まみれになった娘さんを抱きかかえていた。車を走らせること数時間。母親に握られた娘さんの手が、だんだん冷たくなっていったという。後部座席で泣き叫ぶ奥さんの声を聞きながら、ただ車を運転することしかできなかった自分の無力さと悔しさを後日切々と語った。ようやく病院を見つけたのは、神戸市の西隣のまた隣にある加古川市。神戸市の最東部にある東灘区からは、距離にして50kmほどの場所である。しかし病院に着いたときは、娘さんの身体は完全に冷たくなっていたという。

 上記の話は数日後に行われた通夜の席で、私の先輩である父親本人から聞いた話である。通夜の日先輩は私に、震災数か月前に被災地へ引っ越してきたことを悔やみ、「娘を死なすために引っ越したようなものだ。娘を殺したのは自分だ。」と肩を震わせながら言った。私は何も言えなかった。もちろん誰のせいでもない。しかし、子どもを持つ親ならその気持ちは誰でもわかる。これほどの地獄はない。結局立ち直ることが出来なかった先輩は、数か月後、会社を退職した。そして数年後、離婚した。

 これは私の身辺に起ったひとつの話。6000分の1に過ぎない。このような悲しい話が6000件以上も存在し、そしてこの日を境に人生が変わってしまった人が神戸にはたくさんいる。毎年1月17日を迎えると平成7年のこの日を思い出し、胸が苦しくなる。15年経ってもその思いは変わらない。神戸市民にとって忘れられない、忘れてはいけない今日は特別な日で、そんな日に誕生日を迎え43歳になった私である。
 

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by sakanoueno-kumo | 2010-01-17 03:14 | 日常 | Trackback | Comments(4)  

龍馬伝 第2話「大器晩成?」

 坂本龍馬19歳のとき(一説には16歳)、堤防の改修工事の差配役をしたという「龍馬堤」は、その場所が何処かというのは定かではなかったそうだが、現在では四万十川にある「桜づつみ公園」(平元の堤)だったというのが定説になっている。私が記憶するこのエピソードは、ドラマとは少し違っていたように思う。龍馬が担当した堤以外にも工事個所が数か所あって、いずれも若い下士(郷士)が差配役を命ぜられていた。どの現場の工夫たちも気の荒い者ばかりで、差配役の下士自ら作業にあたっても容易に工事は進まない。しかし、龍馬の担当した現場では、龍馬は毎日木陰で昼寝をしていただけなのに、工事はどんどん進んでいく。その理由は、工夫たちを担当場所ごとにチーム分けして、働きに応じて褒美を与え競わせたという。龍馬の下で働いた工夫は
 「坂本のだんなに使われるときは、苦もなく仕事が運ぶ。そのかわり、仕事が終わったあとは疲れきって五体が利かない。」
と語ったという。龍馬の合理的な人使いの上手さがうかがえるエピソードだが、実話かどうかはわからない。のちに海援隊隊長として組織を束ねた龍馬を飾る造話ともとれなくもない。ドラマのように、苦悩して、工夫たちに酒を飲ませ、そして土下座までしてやる気を促したという設定の方が、若者らしい話にも思える。

 龍馬の父、坂本八平という人。龍馬のまつわる物語では、厳格でありながら、末っ子の龍馬の行く末をいつも案じていて、彼の良き理解者として描かれている。坂本家に婿養子として入り、当主となった八平だが、坂本家の富を築いたのもこの人で、その経営手腕の才能がそのまま龍馬に受け継がれたのかもしれない。

 末っ子というのは、親の目にはいつまでも頼りなく見えるものらしい。これは現代の親たちも同じようである。上の子は下が生まれたときから兄・姉扱いされるものの、下の子はいつまでたっても下。どの親も同じである。八平の目にも、龍馬の行動は何も考えていないようにしか見えないらしく、武市半平太にその思いを語る。
 「龍馬は、お父上が思うちょられるような男じゃないかもしれんがです。」
 半平太は、龍馬という男の器の大きさを既に見抜いているようだった。

 龍馬の盟友・武市半平太。性格も考え方も生き方も全く違う二人だったが、半平太は若き日の龍馬の一番の理解者だった。謹厳実直で秀才の半平太に一目おかれていたことが、土佐の若い郷士たちの中での龍馬株を上げることとなったし、この型破りで無作法な龍馬に対して寛容だったことが、のちに半平太が器量人と評された所以にもなっただろう。こののち、土佐の軽格武士たちが天下の風雲に乗り出してゆくとき、坂本龍馬と武市半平太を両翼の首領とすることなどは、まだこのときの二人は知る由もない。


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by sakanoueno-kumo | 2010-01-11 18:38 | 龍馬伝 | Trackback | Comments(2)  

坂本龍馬が日本史のスターになった理由。

 大河ドラマ「龍馬伝」が始まった。今更ながら坂本龍馬について少しふれてみたいと思う。彼の経歴や功績については誰もが知るところで、紹介するまでもないだろう。歴史上の偉人たちの中でとりわけ人気の高い人物で、尊敬する人物ナンバーワンだとか、企業が欲しい人物ナンバーワンだとか、とにかくファンが多い。それほどメジャーな人物なのだが、中高生の歴史の教科書を見てみると、薩長同盟の尽力者としてほんの数行載っているだけで、とりたてて重要視されていない。思い出してみても、学校で坂本龍馬のことを詳しく習った記憶はない。では何故これほどまでに坂本龍馬という人物が、歴史上のスター的存在になったのだろう。ここではその経緯について少し紹介してみたい。

 維新後、激動の明治新国家の中で、生者は栄え、死者は忘れられた。龍馬の名も例外ではなく、人々の記憶から消えかけていた。ただ土佐人や土佐系の浪士出身者たちは、薩長政府に憤懣を感ずるごとに、「龍馬がこんにち生きてあれば」という思いは募っていたという。龍馬の名が再び世に出てくるのは、1883年(明治16年)に高知の土陽新聞に、坂本龍馬を初めて題材として取り上げた小説「汗血千里の駒(かんけつせんりのこま)」が連載されたことによる。著者は自由民権運動家で小説家の坂崎紫瀾(しらん)。政治色の強い小説で、当時自由民権運動がにわかにさけばれ初めていた土佐において、「自由民権の元祖は、坂本龍馬だった。」という、いわば宣伝のような作品だったともいわれている。同作品で姉・乙女や妻・お龍ら龍馬の周辺にいた人物が丁寧に描かれており、強い女性に守られながら育った龍馬の柔らかいイメージは、この作品によって作られたといわれている。

 次に龍馬のブームが起きるのは、1904年(明治37年)の日露戦争の日本海海戦直前、皇后の夢枕に立ったという話が新聞に報じられたことによる。当時、どうみてもロシアの陸海軍に勝てるはずがないという観測が誰の胸中にもあり、憂色が一国を覆っていた。そんなおり、皇后の夢に白装の武士があらわれ、「微臣は維新前、国事のために身を致したる南海の坂本龍馬と申す者に候。」と言い、「海軍のことは当時より熱心に心掛けたるところにござれば、このたび露国とのこと、身は亡き数に入り候えども魂魄は御国の海軍にとどまり、いささかの力を尽すべく候。勝敗のことご安堵あらまほしく。」と語ったという。皇后は龍馬という人物を知らなかった。当時の宮内大臣で往年の陸援隊副隊長だった田中光顕が龍馬の写真を見せたところ、「この人である。」と言ったという。この話は「皇后の奇夢」としてすべての新聞に載り、世間はその話題でもちきりになった。

 この奇夢は真実かどうかわからない。当時、そのこのろ流行語であった「恐露病」にかかっていた国民の士気をこういうかたちで変えようとしたとも言われているし、また当時、宮内関係の顕職についていた者は土佐系の人物が多く、彼らは薩長閥の外にあって冷遇されており、土佐株を上げるためにこういう話を作ったのではないかとも言われている。ともあれ、この話によって坂本龍馬の名は世間にとどろき、これ以後大正期に入って伝記が多く刊行され、芝居などにも登場するようになったという。この「奇夢」の、あるいは作者だったかもしれない田中光顕は、生涯この話は事実だと言い続けていたそうである。

 そして時代は進み、なんといっても龍馬の人気を不動のものにしたのは、1963年(昭和38年)に連載が始まった、司馬遼太郎の長編小説「竜馬がゆく」だろう。現代の人が持っている坂本龍馬のイメージはこの作品によって作られたものと言っても過言ではなく、私もこの作品に感化されたひとりである。以後、龍馬を題材にした物語はすべてこの作品をベースにしており、学者さんまでもが崇拝しているということを思えは、この作品がもたらした影響ははかりしれない。しかし、著者の司馬氏はあくまでこの小説はフィクションだと語っており、「龍」を「竜」としたところにもその意図がうかがえる。物語中に出てくる「竜馬」は、司馬氏が作り出した「竜馬像」だという。しかし、司馬氏はこの作品を書くにあたって何年もの準備期間と、きめ細やかな取材を重ねており、そうして作られた「司馬・竜馬像」は、真実とは言わないまでも、まったくの虚像とも言えない気もする。

 龍馬のもつ、自由で、濶達で、壮大な愛すべき人物像はこうして確立された。不思議なのは龍馬のキャラクターは、どの物語においても一定であること。例えば、同じ時代に生きた英雄・西郷隆盛などは、志士側の視点で書かれた物語では情に厚い古武士として描かれ、幕府側の視点で書かれた物語では、裏工作の得意な政治家・西郷の部分が強調されることが多い。しかし、龍馬という人はどの角度から描かれても、そのキャラクターは常に変わらない。どんな物語でも龍馬は龍馬なのである。それだけ龍馬のイメージというのは確立されており、その変わらない、変えようがない人物像が、彼を歴史のスターにさせた理由かもしれない。

 坂本龍馬に魅力を感じる人たちの多くは、小説、ドラマ、映画など虚実とり混ぜた物語の中からその「龍馬像」をもらっている。坂本龍馬という人は、日本史の中よりもはるかに物語の中で輝いてきた人物だと言えるだろう。


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by sakanoueno-kumo | 2010-01-08 14:03 | 歴史考察 | Trackback | Comments(2)  

龍馬伝 第1話「上士と下士」

 明治15年、三菱会社社長となった岩崎弥太郎のもとに、坂本龍馬という人物について話を聞かせてほしいという記者・坂崎紫瀾が訪れる。この脚本の設定は、あながちフィクションとも言えない。平成の現代では、歴史的英雄と評される坂本龍馬だが、明治のこの時期には激動の歴史の中で忘れ去られていた存在だった。明治政府のパトロンとも言えるほどの財力を手に入れた弥太郎に対して、既に過去の人物として埋もれてしまっていた龍馬。再び坂本龍馬の名が世に響き渡るのは、1883年(明治16年)に高知の土陽新聞で連載された「汗血千里の駒」という龍馬をモデルにした志士の物語によってである。当時、薩長閥政府に不満を持っていた土佐系の人々にとっては、「龍馬さえ生きておれば・・・。」という気にさせた読み物だったに違いない。その物語を連載するにあたって、所縁の人物として弥太郎のところに記者が取材に訪れる。あっても不思議ではない話だ。

 この「龍馬伝」は、岩崎弥太郎の視点で坂本龍馬の物語を描くという設定。どのような物語になるのだろうと色々想像はしていたが、この弥太郎の回想から始まったオープニングは全く予想外で、しかしとても面白く、良い意味で期待を裏切ってくれた。今後が楽しみである。

 本話のタイトルは「上士と下士」。そのタイトルどおり、土佐の厳しい身分制度を見せてくれている。他のどの藩にも、上士と下士といった身分は存在するのだが、土佐藩にいたっては特にその差別が激しい。その起源は、この時期よりさらに250年ほど前、関ヶ原の合戦後まで遡らねばならない。関ヶ原で東軍として戦った遠州掛川五万石の山内一豊は、その恩賞として土佐二十四万石を家康より与えられ、国主となった。その山内家の子孫が、土佐の「上士」と言われる身分の武士たちである。一方で「下士(郷士)」という身分の武士は、その関ヶ原において西軍に味方し敗軍となって土佐を追われた元・国主、長宗我部氏の遺臣たちの子孫である。つまり、この下士たちの方が、元々の土佐の地の侍で、上士たちは所謂「よそ者」なのである。それだけに、下士たちは、よそ者である上士に対して積年の恨みがあり、上士たちはその地侍を抑えるために、他藩よりも厳しく抑えつけた。職制上だけにとどまらず、
「郷士は冬でも絹や紬の類を着てはならない。」
「郷士は夏の日差しの強い日でも日傘をさしてはならない。」
「郷士は雨の日でも下駄を履いてはならない。」

など、屈辱的な差別を250年もの長い間、強いられてきた。この土佐の厳しい身分制度を理解しなくては、幕末の土佐藩の立場は理解できない。藩全体が勤皇・倒幕として働いた薩摩・長州はいずれも関ヶ原の敗軍だった外様大名の藩。一方土佐藩は外様とはいえ、徳川家に関ヶ原での大恩がある上士・山内家は佐幕、関ヶ原敗軍・長宗我部氏の流れをもつ下士(郷士)は勤皇といった複雑な形となるのである。

 坂本龍馬の身分は郷士、そして岩崎弥太郎の身分は地下浪人。地下浪人とはその郷士の株を売ってしまった身分のこと。下士の中でも更に虐げられていた。そんな身分の低い男たちが、一方は平成の現代においてもっとも人気の高い英雄となり、一方は三菱グループという日本屈指の財閥の創始者として天下に名を轟かせることとなる。二人に共通するのは、その身分の低い下士の中でも、一風変わった考え方を持つに至ったことだった。それは、今後の物語の運びに任せるとしよう。

 第1話を見た感想は、思ったより楽しめそうな予感。坂本龍馬という誰もが知っている題材で、しかも人気も高く注目度、期待度も高いであろうことを考えれば、否が応でもハードルが高くなるところだが、その高い第1ハードルは難なくクリアといったところだろうか。年末のスペシャル大河「坂の上の雲」と同様、フイルム調の映像の作り方も良かった。物語は始まったばかり。次週からも楽しみに、そして毎週このブログでも感想や補足エピソードをアップしていこうと思う。 


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by SAKANOUENO-KUMO | 2010-01-04 02:07 | 龍馬伝 | Trackback(1) | Comments(1)  

2010年の元旦に思う。

あけましておめでとうございます。

昨年末、有馬記念に惜敗。
今朝、年末ジャンボの結果に落胆。
今年もコツコツ真面目に働くことを決意した、元旦の朝です。

今年もよろしくお願いします。

2010年の年明けは、とても寒い日となりました。
年賀状を取りに玄関を出るのも辛いほどで、わざわざコートを着て郵便受けまで行った私です。
これは歳をとったということでしょうか・・・。(苦笑)
昔の正月の方が確実に寒かったと思うのですが、私個人的には年々寒さに弱くなっている気がします。

正月のテレビ番組もパッとしませんね。
10年ほど前までは、テレビガイドを買って蛍光ペンでマーキングし、テレビ三昧だった私ですが、近年はとりたてて見たいと思う番組が見当たりません。
これもまた、歳をとったということでしょうか・・・。
しかし、私のみならず、我が家の子どもたちも正月テレビにさほど関心を示さないところを見れば、やはりテレビ番組自体の質が落ちているようにも思えます。

今年は3日が日曜日なので、4日から始動という企業が多いのではないでしょうか。
3日間の短い正月ですが、良い正月をお過ごしください。

さて、そろそろ初詣に向かいます。


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by sakanoueno-kumo | 2010-01-01 13:18 | 日常 | Trackback(1) | Comments(6)