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坂本龍馬脱藩時の、姉・栄自害説が消えた理由。

 坂本龍馬の脱藩時のエピソードの中で、龍馬の姉で坂本家次女・の逸話がある。龍馬は5人兄弟の末っ子で、長男・権平と龍馬の間に、長女・千鶴、次女・栄、三女・乙女という3人の姉がいる。次女・栄は柴田作衛門という人に嫁いでいたものの離縁され、元夫の形見としてもらい受けていた名刀「陸奥守吉行」を、龍馬が脱藩する際に渡したという。そしてその後、重罪である脱藩に加担した責任をとって自害して果てた・・・というドラマチックなエピソード。この話は司馬遼太郎著「竜馬がゆく」をはじめ多くの物語や漫画などで紹介され、龍馬ファンにとっては馴染み深い話だ。

 ところが近年制作される物語では、この説はあまり採用されない。平成に入ってから2度ほど制作された「竜馬がゆく」のドラマでも、刀を渡したのは三女・乙女に変わっている。NHK大河ドラマ「龍馬伝」では、栄姉の存在すらない。これほどドラマチックな話が、なぜ物語の中から消えてしまったのだろうか・・・。

e0158128_17445933.jpg 栄のエピソードが、どういう形で後世に伝わったかはハッキリとわかっていないが、20年ほど前まではこの説が通説だった。歴史家・平尾道雄氏が記した昭和41年発行の「龍馬のすべて」でも、この説を紹介している。また、坂本家の本家である才谷屋に嫁いだ内田さわ(昭和元年没、享年89歳)の孫にあたる宍戸茂さん(明治24年生)が、「龍馬に刀をやったのは、栄という出戻りのお姉さん。」と語っており、「当時、脱藩者に刀をやったというたら大変ゆえ、隠しておったとも申しておりました。」とも述べている。司馬遼太郎氏は、「竜馬がゆく」を執筆前にこの宍戸茂さんを取材しており、この説を小説の中に取り入れたのだろう。

 しかし、実際にはこの説を裏付ける史料は何も残っていないばかりか、栄という人物自体の史料も、兄・権平が土佐藩庁へ提出したとみられる家系図に「柴田作衛門妻」と記載されていること以外、ほかに栄の事跡を確認できる同時代の史料は見当たらない。生年も不詳で、ほぼ謎の人物と言ってもいい。自害説は、大正3年に刊行された千頭清臣著の伝記「坂本龍馬」に「次女某、市内築屋敷柴田某に嫁し、のち家に帰り、貞婦二夫に見えざる旨を遺書して自刃す。」と記述されているものがある。また、坂本家の家系図は3種残されていて、そのひとつには栄の名が記されているものの、あとの2種には記載されていない。まるで抹消されたかのようなこの家系図を根拠に、権平が家を守るために名前を抹消し、密葬して墓も作らなかったのだと考えられてきた。

 昭和43年に坂本家の縁者が墓所の改修をした際、地下深くから誰のものとも知れない髪の毛と遺骨が発見された。これを自害したことによって密葬された栄のものとみなし、「文久二年三月歿 坂本直足二女」と記した石碑が建てられた。この発見でこれまでの逸話がさらに信憑性を増すこととなった。ところが、昭和63年に栄のものと見られる別の墓石が、嫁ぎ先である柴田家の墓石と隣り合わせに発見された。墓石には「柴田作衛門 妻」「坂本八平 女」と2行で刻まれ、没年が「弘化□□九月十三日」と一部破損して解読不能なものの、かつては「弘化乙巳二年九月一三日」と刻まれていたことが判明しており、「貞操院栄妙」という戒名が刻まれていたという。柴田作衛門の妻であり、坂本八平の娘であり、戒名に「栄」の字があることから見て、この墓は栄のものであるとほぼ断定できる。弘化二年とは1845年で、龍馬の脱藩より17年も前のことになり、栄は嫁いですぐに若くして亡くなったことになる。この発見によって、栄の自害云々はともかく、柴田家を離縁されたことも疑わしく、龍馬に刀を渡せるはずもないことが証明された。通説は覆った。

 以後、物語などでは龍馬の脱藩時に刀を渡したのは三女・乙女ということになっている。これは、大正元年に刊行された坂崎紫瀾著「維新土佐勤王史」の中で、「姉の乙女は早くもその機をさっし、龍馬が日ごろ望める実兄秘蔵の備前忠広の一刀を取り出し、御身にはなむけせんとて与えければ・・・。」という一文からくるもののようだ。乙女も嫁ぎ先の岡上家から離縁されており、上記の宍戸茂さんが語っていた「出戻りのお姉さん」というのは乙女のことで、それが記憶の中で栄と混同されてしまっていたと考えるのが正しいかもしれない。史実が詳らかになるということは、ときにドラマチックな側面を失うことでもあり、歴史小説が好きな私などはそれが残念でもあり、そこがまた面白くもある。

 昭和43年に建てられた栄の墓石は、「栄女伝説を戒める記念碑」として今もその場所にある。墓碑の傍らには「高知県歴史研究会」によって、「通説の誤りを正すため、栄女の没年あざやかなり」と記した木碑が建てられている。



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by sakanoueno-kumo | 2010-03-31 15:07 | 歴史考察 | Comments(3)  

龍馬伝 第13話「さらば土佐よ」

 土佐藩参政・吉田東洋暗殺されたのは、文久2年(1862年)4月8日。この日東洋は、高知城二の丸で藩主・山内豊範に「日本外史」「信長記・本能寺の変」を講義していた。このとき陪席していた後藤象二郎、福岡藤次らはのちに、このときの東洋の講義は普段よりはるかに熱が入っていたと語っている。奇しくもこの後、信長と同じく家臣の手によってその生涯を閉じることになろうとは、思いもよらなかっただろう。この日は最終講義だったこともあり、講義のあと酒肴が出された。亥の刻(午後10時頃)に下城。東洋に多少の酔いはあったであろうと想像する。
 
 雨が降っていた。東洋は傘をさしている。共は若党と草履取りの二人。下城したときは後藤や福岡たちと一緒だったが、途中で別れている。東洋自身、自分の命が狙われているという意識がないわけではなかったはず。土佐勤皇党の不穏な動きは十分に察知していたであろうし、未遂事件もあったという。にもかかわらず、特別な警備をつけていない。東洋は学問のみならず、剣術においても神影流免許皆伝の腕だった。ここでも、吉田東洋という人の何事においても自信過剰な気性がうかがえる。

 刺客団は土佐勤王党の那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助の3人。黒幕は彼らの首領である武市半平太と考えていいだろう。彼らの剣の腕は、普通ならば3人がかりで挑んでも、簡単に東洋を斬れる腕ではない。しかし、ここでも彼の自信過剰が災いした。平素、戦国武将の風を好んだ東洋は、長さ二尺七寸もあり、刀幅も厚い豪壮な太刀を持っていた。これはよほど長身で剛力な者にしかあつかえず、馬上で鎧武者を斬る目的の刀であり、路上で複数相手の立ち回りに適したものではない。酒に酔っていたこと、警備をつけていなかったこと、実戦向きの刀でなかったこと・・・そのどれもが、吉田東洋という人の自信の表れであり、そしてその自信過剰が命取りとなった。

 絶命した東洋の首は、白木綿に包まれた。この白木綿は、3人のうちの誰かが急いで外したふんどしだったという。このふんどしにかんしては、後に武市半平太が、「武士の礼を知らぬ」と怒ったというが、彼らはいずれも食うや食わずの極貧郷士で、新しい布を用意することが出来なかった。平素、絹服しか身につけなかったという贅沢三昧の東洋が、首になって貧乏下士の古ふんどしにくるまれることになろうとは、なんとも皮肉な話である。東洋の首は翌朝雁切橋のたもとにさらされた。

 このクーデターによって武市半平太率いる土佐勤皇党は、土佐藩におけるイニシアティブをほんの少しの間とることになる。ほんの少しの間・・・。

 「暗殺」とは最も近道で簡単な革命手段。「こいつさえいなくなれば・・・。」 現代の私たちも、これに似た感情を一瞬でも抱いたことのない人は少ないのではないだろうか? しかし、ほとんどの場合、思うだけで終わるものである。時代が違うとはいえども、武市半平太はその一線を越えてしまった。「暗殺」とは癖になるような気がする。事実、この後土佐勤皇党は、「天誅」という大義名分のもとに暗殺を繰り返すこととなる。しかし、歴史上、「暗殺」をもってして大業を成した人物はいない。そのことに半平太は気が付いていただろうか・・・。

 坂本龍馬脱藩したのは、文久2年(1862)3月24日。吉田東洋暗殺の約2週間前のことである。龍馬が東洋暗殺の計画を知っていたかは定かではない。ただ、これまで紆余曲折がありながらも寄り添ってきた龍馬と半平太が、このタイミングで袂を別つことになったことから考えれば、この暗殺計画が二人を別々の道を歩ませる原因になったと考えても無理はない。脱藩を決意したこのときの龍馬に、後の開明的なビジョンがあったかどうかはわからないが、あくまで土佐という狭い枠からはみ出すことが出来なかった武市半平太と吉田東洋という二人の秀才よりも、はるかに器の大きさが感じられる決意である。

 龍馬の脱藩における坂本家のエピソードで、ドラマには登場しない龍馬の姉、次女・栄の存在がある。龍馬の脱藩に際し、業物の刀を渡し、家族が脱藩に加担したという事実を隠すために自害したという説。ドラマでは乙女が刀を渡していたが、栄姉の説の方がなじみのある人も多いだろう。この栄姉のことについて少しふれたいのだが、東洋暗殺の件でかなりの行数を費やしてしまったので、後日、稿を改めてふれてみたいと思う。

 兎にも角にも、第1部完結。次週から龍馬のサクセスストーリーが始まる。


 追記:坂本龍馬脱藩時の、姉・栄自害説が消えた理由。


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by sakanoueno-kumo | 2010-03-29 01:45 | 龍馬伝 | Comments(2)  

春告雨。

 連日の長雨によって、センバツ高校野球が昨日今日と中止になっているようです。2日連続中止になるのは25年ぶりのことだそうです。試合を控えた選手諸君や応援団の方々、大会関係者などさぞかし気を揉んでいることでしょうね。春休みは短いですから、新学期にくい込まないよう出来るだけ試合消化していきたい事情と、青空の下で気持ちよくプレーさせてあげたい気持ちが交差して、なんとも辛い心境であろうと察します。

 明日からまた強い寒の戻りがあるようですが、南の方に目を移すと、フィリピン付近で例年より早く台風1号が発生しているそうです。赤道近くでは早くも夏到来のようですが、一方で北に目をやると、シベリアでは氷点下40度の寒波だそうです。北半球の北と南では大きな差があるようですが、地球はこういった状態を放ってはおかないようで、温度差をなくそうとする力がはたらき、それがこの春の長雨であったり、先週起こった強風であったりするそうです。日本にとって今は春を迎える準備期間といったところでしょうか?

 そんな春告雨の中で、一作日、我が家の中3の愚息が無事志望校に合格しました。この長雨が終わって春が訪れる頃、晴れて高校生になります。1ヶ月余り前に併願の私立には合格していたので、既に高校生になれることは決まっていましたが、やはり経済的には公立に通って欲しいですからね・・・。なんてったって「無償化」ですから・・・(笑)。3年間となると大きいですよ・・・。

 私の住む兵庫県では、受験日から合否発表まで11日間もありました。昨年までは5日間ほどだったことを思えば、大幅延長です。これは、昨年我が県で起こった入試採点ミスによる影響で、採点期間が3日間延長になったことと(参照:入試採点ミスで約3500人大量処分 兵庫県教委)、昨年流行した新型インフルエンザ対策で、感染者のための予備受験日を設けるため、通常の受験日が3日前倒しになったことによるものです。この長さは、発表を待つ受験生にとっても、その家族にとっても、結構キツイものでした。最初の3~4日間は、受験勉強から開放された充実感で、何もかも忘れて連日友だちと遊び呆けていたようですが、そのうち遊ぶネタも金も底をつき、後半は悶々とした毎日だったようです。人間そういう状況におかれたときって、時間があればあるほどネガティブ発想になるようですね。受験を終えた直後は結構自信があったようで楽観視していましたが、日が経つに連れて悪い方へ悪い方へと頭がはたらいていたようです。やはり勝負事というものは、リー・ソク・ツモを望みたいですね。

 何はともあれ、春から高校生の親になります。日々成長していく我が子の姿を見るにつけ、いつの頃からかまったく成長していない自分を顧みて反省然りです。



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by sakanoueno-kumo | 2010-03-25 15:53 | 日常 | Comments(10)  

最悪な指導者の姿。

 センバツ高校野球2日目に行われた開星(島根)と向陽(和歌山)の試合で、負けた開星の監督が取材に対して「21世紀枠に負けたことは、末代までの恥です。」という、相手校をバカにした発言をして問題になっているらしい。このような言葉を公の場で発言したこの監督は、思慮が浅い大バカ者といわざるを得ないが、公の場ではなくとも選手たちの前で同じような発言をする指導者は他にも結構いるように思う。このような考え方の指導者が、子どもたちの才能の芽をつみ腐らせていっているということを、当の本人たちはわかっていない。

 負けた開星高校は昨秋の中国大会の覇者。一方で勝った向陽高校は、50年以上前には野球の名門校であったこともあるが、現在は普通の県立高校で甲子園出場も36年ぶり。この監督の発言どおり、向陽の方が「格下」と見られても仕方がないが、スポーツにおいて、この「格下」との戦いほど難しいものはない。格下の方は「負けてもともと」の気持ちで精一杯の力を発揮し、格上の方は「勝って当たり前」という、対戦相手とは別のプレッシャーという敵がいて、持てる力を出せなくなる。これはどんなスポーツであっても同じで、プロならばそれに打ち勝つ強い精神を自分で作らねばならないが、彼らは「格上」「格下」といっても所詮は高校生で、子どもなのだ。高校野球の監督の一番の仕事は、子どもたちの力を十分に発揮出来る場を作ってやることであり、プレッシャーを与えることではない。

 後先考えすに公の場でこのような失言をするぐらいだから、おそらくは劣勢で進む試合展開の最中、同じような意味合いの言葉を子どもたちに投げていたことだろう。言葉を発していなかったとしても、そう感じさせる空気をビンビンに発していたに違いない。監督がそのような状態でいると、選手たちが平常心でいられるはずがない。イニングが進むにつれて、選手たちはベンチと野球をし始める。結果を焦ってミスが生じる。力を発揮出来ないばかりか、普通に出来るはずのことさえ出来なくなってしまう。もっとも悪循環な形だ。

 「末代の恥」とまで言った敗戦の結果に導いたのは、まさにこの監督のこの姿勢。謝罪をしたのは相手校である向陽高校に対してだが、彼らはそんなことを引きずることなく2回戦に進み精一杯プレーすることだろう。本当に謝ってほしいのは、自身の率いる開星高校の選手たちに対してだ。


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下記、記事本文引用
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<センバツ>開星監督が大会本部で謝罪「失礼な発言だった」
 第82回選抜高校野球大会で第2日の22日に、1回戦で21世紀枠出場の向陽(和歌山)に敗れた開星(島根)の野々村直通監督(58)が試合後に「21世紀枠に負けて末代までの恥」と発言した問題で、野々村監督は23日午前、村本克(かつし)部長(46)とともに大会本部を訪れて経緯を報告し、「失礼な発言をした。心からおわび申し上げたい」と謝罪した。
 会見した野々村監督は「向陽や21世紀枠制度を侮辱、批判する思いはなかった」と釈明。「負けたことが悔しくて、受け止められなかった。完敗だと素直に言う前に、自分の悔しさだけが先走ってしまった」と話し、涙を流して言葉に詰まる場面もあった。
 村本部長によると、同校の大多和聡宏校長が23日朝、電話で向陽の板橋孝志校長に謝罪。同日午後には大多和校長が向陽を訪ね、直接謝るという。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100323-00000525-san-base
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by sakanoueno-kumo | 2010-03-23 17:31 | 高校野球 | Comments(4)  

龍馬伝 第12話「暗殺指令」

 土佐勤皇党は、武市半平太を盟主に文久元年(1861年)に結成された。党員のほとんどが下士で、半平太の主張する「一藩勤皇」をテーゼに、公武合体の藩論を転換させるための起爆剤となるべく決起した。署名血判者は武市半平太を筆頭に192名。坂本龍馬は9番目に署名している。上位8名は、この数ヶ月前の半平太が江戸滞在中に署名したメンバー。つまり、龍馬は武市が土佐帰国後の筆頭署名者ということになる。このことで、半平太が龍馬をいかに頼りにしていたかがうかがえる。

 半平太の使者として龍馬が長州に入り久坂玄瑞と会談したのは、文久2年(1862年)1月のこと。このとき久坂と龍馬の間でどのような会話が行われたかは記録に残っていない。ドラマでは「脱藩」という考えを久坂に諭されていたが、龍馬が脱藩するのはこの2ヵ月後のことで、あながち的外れではないかもしれない。少なからず何らかの影響を受けていたと考えても不思議ではない。龍馬にとっては人生を変えるほどの出会いだったかもしれないが、久坂の方はというと、龍馬にそれほど関心を示した様子はなさそうだ。久坂は初めて会って印象に残った人物のことは、自身の日記に仔細に記している。しかし、このとき龍馬と久坂の会談は3度行われたにもかかわらず、彼の日記に坂本龍馬という人物を評する記述が残されていない。久坂にとって龍馬は、武市半平太の使者という程度の認識でしかなかったようだ。この5年後、久坂が成し遂げられなかった倒幕の大業を、この半平太の使者が仕上げることになるなど知る由もないまま、この会談から2年後の蛤御門の変で、久坂はこの世を去ることとなる。

 実際、この時期の龍馬は、時勢の知識においても未熟だったようだ。この少し前に、尊王攘夷論を全国に説いて回っていた水戸藩士の住谷寅之助と、龍馬は武市半平太不在の代行として会談をしているが、そのときの住谷の日記にも龍馬のことを「誠実可也の人物」と評されつつも、「事情迂闊(うかつ)何にも知らず。」と酷評されている。とても、土佐勤皇党の筆頭署名者に見合う人物ではなかったようだ。では何故、半平太は龍馬を筆頭署名者に選んだのだろう。
「おまんはわしが唯一心を許せる友じゃ。傍におってくれるだけでええ。」
ドラマ中、半平太が龍馬に言った言葉だが、それに似た友情関係はあったかもしれないが、前話で紹介された池田寅之進の井口村刃傷事件のときや、山本琢磨の時計拾得事件のときのような、半平太にしてみれば、自分にない龍馬の行動力、人を束ねる力というものを見抜き、期待していたのではないだろうか。その期待感を龍馬に感じさせるための、筆頭署名だったように思う。

 もうひとつ、半平太が龍馬に言った言葉。
「おまんが勤皇党に入ったのは、わしを止めるためだろう?」
 しかし、龍馬にも半平太を止めることは出来なかった。この後半平太は、藩内のイニシアティブをとるための最も近道を選ぶ。しかし、その近道は同時に自身の死期への近道でもあった。


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by sakanoueno-kumo | 2010-03-22 23:17 | 龍馬伝 | Comments(4)  

おかげさまで、5万アクセスを突破。

 突然ですが、拙ブログを初めて1年5ヶ月弱、今週火曜日の時点で5万アクセスを賜りました。「だから何やねん!」と言われればそれまでですが、一応、自身の記録として残しておきたいと思った次第です。アクセス数はユニークユーザーの数で、訪問者数です(同じ人が1日に何度訪問してもカウントは1ということ)。下の画像は、2010年3月19日昼1時の時点。
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 1年5ヶ月の間の記事数は262件。「ブログとは何ぞや?」ということも詳しく知らないまま気まぐれに始めたわりには、よく続いたなぁと自分でも思っています。最初の頃は何が書きたいのか自分でもわからないまま、やたらめったら時事ネタや野球ネタなどを記録していて、無駄に記事数ばかり重ねていました。今になって見返せば恥ずかしいものばかりで削除したい思いですが、これも自身の足跡かなぁと思い、恥を承知で残しています。

 しばらくしてから、何かシリーズものを書こうと思い、自身の好きな大河ドラマの感想を毎週アップし始めたところ、ここから一気にアクセス数が増え始めて、今ではそれがメインとなってしまいました。毎週必ず・・・というのも結構キツイんですよね。元来いい加減な性格ですから・・・。大河ドラマの放送は日曜夜8時で、日曜日の私は少年野球の指導者をしていて、その時間はコーチたちとの飲み会が頻繁なんですね。だからなかなかリアルタイムで放送を見られない。でも、酔っ払って帰ってきてブログにログインしてみるとアクセス数が異常に伸びていて・・・そうすっと、「早く感想を書かなければ・・・」という使命感のような思いがはたらき、それから録画を見て夜中に感想をアップするという・・・仕事でもないのに義務のようになってしまっている現状があります。(勝手に自分でノルマ化しているだけとも思えますが・・・。)

 1年5ヶ月で5万アクセスという数が多いのか少ないのかよくわかりませんが、ど素人の拙い文章をこれだけ多くの人に読んでもらっていると思えば、ちょっとばかり快感でもあり励みにもなります。いつもコメントをくださる方、アクセス数の足跡だけを残していってくださる方、ときにご批判を賜る方と様々ですが、まだまだ続けていくつもりでおりますので、今後とも宜しくお願いします。
 
 2010年、昼下がりのオフィスでの記録でした。


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by sakanoueno-kumo | 2010-03-19 16:24 | コネタ | Comments(10)  

第82回選抜高校野球大会 直前

 21日(日)から、第82回選抜高校野球大会が始まる。13日(土)に組み合わせ抽選会が行われ、出場32校の対戦相手が決まった。毎年、高校野球のシーズンになると、仕事が手につかなくなる私である。組み合わせは下記のとおり。(オリジナルで作りました。)
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 選手宣誓は北照(北海道)の西田明央主将。打率、打点、本塁打の3部門で今大会出場選手内トップという三冠王の選手だ。宣誓は昨秋の明治神宮大会に続いて2回目。高校野球で2回も選手宣誓をすることになるなんて、かなりのラッキーボーイかもしれない。プレーも注目したいところ。

 1回戦の注目カードは、帝京(東京)VS神戸国際大付(兵庫)。東京大会の覇者と、近畿大会の覇者が激突する。神戸国際大付属の岡本健投手は、MAX144キロの速球と、抜群の制球力を持つプロ注目の右腕。かたや帝京の伊藤拓郎投手は、昨夏の甲子園で「1年生投手最速」を記録した逸材。好勝負が期待できそう。
 
 今大会注目度ナンバーワン投手は、優勝候補筆頭の東海大相模(神奈川)の右腕・一二三慎太投手。184センチの長身から投げ下ろす角度のある速球は、昨秋の時点でMAX149キロをマーク。冬を越してどれぐらい成長しているか楽しみ。左腕では、興南(沖縄)の島袋洋奨投手。こちらも昨秋の時点でMAX145キロをマーク。東海大相模の一二三投手に一歩リードしているところは、甲子園のマウンド経験があるということ。昨春のセンバツでは対富山商戦で19奪三振を奪うという好投を披露した。この2人が対戦するとすれば準決勝になるが、2校のいるBブロックは強豪ぞろいで容易ではなさそう。

 21世紀枠の出場は、山形中央(山形)、向陽(和歌山)、川島(徳島)の3校。山形中央の対戦相手は強豪・日大三(東京)、川島の対戦相手は神宮大会の覇者・大垣日大(岐阜)と、いずれも初陣には厳しい試練になりそうだが、下馬評どおりにはいかないのがセンバツの特徴。頑張って欲しい。

 昨春の大会では、花巻東(岩手)の菊池雄星投手(現・埼玉西武ライオンズ)と、清峰(長崎)の今村猛投手(現・広島東洋カープ)の、高校野球史に残る名決勝戦が生まれた。今大会では、どんな名勝負が見られるか、どんなスターが生まれるか、今から楽しみでならない。

いざ、球春。


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by sakanoueno-kumo | 2010-03-17 18:23 | 高校野球 | Comments(2)  

龍馬伝 第11話 「土佐沸騰」

 安政7年(1860年)、江戸城桜田門外において水戸藩の過激浪士たちの手によって大老・井伊直弼が暗殺された、いわゆる「桜田門外の変」。この事件は瞬く間に日本中を震撼させ、以後、幕府の権威も大きく失墜し、各地の尊王攘夷運動を激化させた。これ以降、「天誅」という暗殺を美化する麻薬のような言葉のもとに、多く血が流されていくこととなる。

 「桜田門外の変」からほぼ1年後の文久元年(1861年)に土佐で起こったのが、下士(郷士)である池田寅之進が上士を殺害したという、いわゆる「井口村刃傷事件」。発端は寅之進の弟が殺害されたことによる仇討という私怨から始まった事件だったが、その後の下士・上士間の一触即発の状態に至ったのは、「桜田門外の変」以降の情勢の影響を少なからず受けていたことだろう。長年虐げられてきた土佐郷士たちの憤懣は、もはや暴発寸前となっていた・・・そんなときに起こったのが、この「井口村刃傷事件」だったのだろうと想像する。

 本来の逸話では、寅之進の身柄を引き渡すよう要求する上士に対して、龍馬はあくまで応じず、
「我々郷士は命がけで彼を守る。戦って藩お取り潰しになるまでだ。」
 と、徹底抗戦の構えを見せ、寅之進を助けようとしたそうである。一方で武市半平太は、
「尊皇攘夷をの為には土佐藩は必要であり、寅之進の私怨から生じた刃傷沙汰で潰すわけにはいかない。」
 といって寅之進の行動を責めたとか。江戸で起こった山本琢磨の時計拾得事件のときと同じく、ここでもまた坂本龍馬武市半平太の対処の方法の違いがはっきりでる。あくまで尊王攘夷の遂行を重んじる半平太に対し、何よりも命を重んじる龍馬。そのどちらが当時の志士として正しい判断だったかは、現代の私たちには判断しがたいが、龍馬のとった行動が、若い志士たちにとってどれほど頼もしく思えたかは、現代の私たちにも想像がつく。この事件以降、龍馬はまた、土佐郷士たちの人望を集めることとなる。

 しかし結局、池田寅之進は切腹して果てる。ドラマでは後藤象二郎の命で切腹したことになっていたが、伝わっている逸話では、龍馬や半平太が押し問答していた最中、皆に迷惑が掛かることを恐れた寅之進が突発的に切腹したといわれている。龍馬は、そのときの寅之進の血を自分の刀の緒に染み込ませ、郷士の団結を誓ったという逸話が伝えられている。
 
 そして、この事件の半年後、「土佐勤皇党」が結党される。それは「尊王攘夷」というイデオロギーをもとに終結した政治集団でもあり、また、「天誅」という名の暗殺を繰り返す、テロリスト集団でもあった。時勢はいよいよ血生臭い時代に入っていく。


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by sakanoueno-kumo | 2010-03-15 01:30 | 龍馬伝 | Comments(4)  

仰げば尊し 我が師の恩

今日3月10日、我が愚息の中学校の卒業式に行ってきました。
私が子供の頃は、学校行事に出席する父親などあまりいませんでしたが、今どきは仕事を休んででも我が子の晴れ姿を見に来る父親も多く、私もそのうちの一人で、幼稚園の頃からこういった行事はほとんど欠かしたことがありません。
高校生になったらそんな機会もなくなるでしょうから、これが最後になることでしょう。

で、卒業式ですが、今どきの卒業式はセレモニーというよりパーティーのようなものも多くあると聞きますが、息子の通う中学校はわりと保守的な方で、一応、厳粛な形で行われていました。
先生方もちゃんと「君が代」のときには起立されてましたよ。
歌ってない先生はチラホラ見うけられましたが・・・。
でも、話には聞いていましたが、やはり「仰げば尊し」は歌わないんですね。
今日の式歌とされていた歌は、「旅立ちの日に」という歌。
昨今、卒業式で最も歌われている歌だそうです。
   ↓↓↓

この歌は、たしか息子の小学校の卒業式でも使われていたように思います。
たしかに良い歌ではあります。

他に合唱曲として2曲、一昨年ヒットしたアンジェラ・アキさんの「手紙~拝啓 十五の君へ~」
   ↓↓↓


そしてもう1曲は今、若い子に人気の「いきものがかり」が歌う「エール」という歌でした。
   ↓↓↓


いずれもとても良い歌で、卒業のシーズンにはピッタリの曲ですが、「仰げば尊し」も良い歌だと私などは思うんですけどね・・・。
上記の3曲は、いずれもこれから羽ばたく若者に向けての激励や、苦楽を共にした友との別れを惜しむといった内容の歌詞ですが、「仰げば尊し」でいうところの「我が師の恩」という意味の歌詞はどこにもないんですね。
「仰げば尊し」が歌われなくなった理由は、「言葉が古すぎて子供には理解できない」とか、「教師を崇めるという歌詞の内容が民主主義にそぐわない」ということだそうですが、お世話になった先生方に感謝の意を表すことが何故いけないのか理解に苦しみます。
また、2番の歌詞の「身を立て名をあげ やよ 励めよ」という内容が、「立身出世を呼びかけていて現代の社会情勢に合わない」というのも理由のひとつだそうです。
その辺りの話になると私はよくわかりませんが、ただ、私も子供のころにこの歌の歌詞の意味をちゃんと理解していたわけもなく、ただ卒業式には必ず歌う歌といった認識でしかありませんでしたが、それでも何故か卒業式当日には歌っているうちに感動を覚えたもので、今でも「仰げば尊し」を聞けばその頃のことを思い出したりもします。
私の息子たちにとっては、それが「手紙」や「エール」といった歌になるのでしょう。
でも、私たちの時代にもそういった流行歌の卒業ソングはあったわけで、それはそれで卒業式の後のお別れ会などで歌ったりしたもので、パーティではなく厳粛な式典である卒業式には、やはり「仰げば尊し」のような堅い歌を歌った方が気持ちが引き締まり、明日に繋がると思うんですけどね。

ともあれ、我が愚息もようやく中学校を卒業しました。
明後日、高校の受験日です。
たぶん、高校生になってくれるはずです(笑)。



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by sakanoueno-kumo | 2010-03-10 18:45 | 日常 | Comments(7)  

龍馬伝 第10話「引きさかれた愛」

 坂本龍馬の初恋の相手とされている平井加尾。司馬遼太郎著「竜馬がゆく」のヒロイン・田鶴のモデルにになった女性としても有名である。龍馬と同い年で親交が深かったとされる平井収二郎の妹で、兄を通じて加尾と龍馬が顔見知りであったことは間違いないところだが、二人が恋仲だったとか、異性として特別な感情があったかなどは、当然、想像の域を出ない。ドラマ中での平井家は郷士(下士)格となっているが、実際には最下級とはいえ上士の家柄で、郷士である龍馬が簡単に求婚できる間柄ではない。

 では何故、加尾が龍馬の初恋の相手とされたか・・・。一通の手紙が残されている。
先ず先ず御無事と存じ上げ候。天下の時勢切迫致し候に付、
 一、高マチ袴
 一、ブツサキ羽織
 一、宗十郎頭巾
外に細き大小一腰各々一ツ、御用意あり度存上候。
    九月十三            坂本龍馬
      平井かほどの

 文久元年(1861年)、龍馬が加尾に宛てて書いたラブレターだという。

 加尾が山内容堂の妹・友姫のお付役として京都の三条家に同行したのは安政6年(1859年)、22歳のときだった。前藩主の妹君のお付役という大役を任されたことからも、平井家が龍馬とは違う家格だということが理解できる。彼女が三条家に仕えていたのは3年ほどで、文久二年(1862年)には土佐に帰国することとなる。その間、脱藩浪士の援助に努めたとか・・・。龍馬がこの手紙を送ったのは、帰国する1年ほど前のことである。

 ラブレターと言うにはなんとも色気のない内容である。好きだの愛してるだのという言葉はどこにもないばかりか、刀を用意しろという物騒な内容。この手紙のどこがラブレターだというのだろうか。龍馬がどのような意図でこの手紙を送ったかは謎で、一説には、加尾に男装をさせて京都の情勢を探索させようとしたとも言われ、または物騒な時勢での加尾の身を案じた愛情のこもった手紙だとも言われている。その真意はわからないが、このような謎めいた怪文書を送るほどの関係ということは事実であり、ただの顔見知り以上の関係であったことはうかがい知れる。いろんな想像が膨らむ二人の間柄で、小説家や脚本家の方々にとっては魅力的なエピソードだろう。

 この手紙を送った半年後に、龍馬は土佐を脱藩している。加尾が帰国したときには龍馬は土佐にはいない。その後龍馬と加尾が会ったとする記録はどこにもないが、この物語ではどうだろう・・・。

 龍馬の死後、加尾は兄と同じ土佐勤皇党出身で明治31年に警視総監となった西山志澄のもとに嫁ぎ、明治42年、71歳で生涯を閉じる。


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by sakanoueno-kumo | 2010-03-08 23:15 | 龍馬伝 | Comments(2)