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龍馬伝 第17話「怪物、容堂」

 坂本龍馬と結婚の約束をしていたといわれている千葉佐那。明治26年(1893年)に発行された「女学雑誌」の誌上に、「坂本龍馬の未亡人を訪ふ」というタイトルで談話が掲載され、その中で彼女は龍馬から求婚された事実を語っている。そして父・千葉定吉の承諾も得て、「天下静定の後を待って華燭の典を挙げん」と約束をしたという。司馬遼太郎著「竜馬がゆく」では、佐那(同小説ではさな子)が想いを打ち明け、そのお返しに龍馬は自分の着ていた紋付の片袖を破り渡したと描かれているが、明治26年の佐那が語るところでは、婚約のしるしとして千葉家から短刀一振りを贈り、龍馬からは松平春嶽から拝領した袷衣を返したという。佐那は生涯この袷衣を形見として側に置いていた。

 ドラマではつれなかった龍馬だが、実際には佐那に恋心を抱いていたようで、そのことがうかがえる姉・乙女に宛てた手紙が残っている。「此はなしはまづまづ人にゆはれんぞよ。すこしわけがある。」という書き出しで始まるこの手紙には、千葉家の佐那という娘の歳は26歳で、乗馬や剣、薙刀に優れ、琴、絵画にも通じ、もの静かで、よけいなことを言わず、平井かほよりも美人であると紹介している。「まあまあ、今の平井、平井。」と書かれており、「平井に変わって今一番好きな人。」といった意味らしい。かなりゾッコンだったようだ。

 この手紙から4年後にこの世を去った龍馬。このとき既に30歳になっていた佐那は生涯独身を通し、維新後、華族女学校(学習院女子部)の舎監をした後、千住の長屋の一角で千葉家家伝の鍼灸を生業として暮らし、明治29年(1896年)、59歳で生涯を閉じる。東京・谷中の墓地に埋葬されたが、独身ゆえ無縁仏になりそうだった為、鍼灸院の患者だった自由民権運動家・小田切鎌明の妻、豊次が不憫に想い、菩提寺だった清運寺に分骨し墓を建てたという。彼女の墓石の裏には「坂本龍馬室」と刻まれている。これまで剣術を学ぶ女性の墓参者は時折あったそうだが、今年はドラマの影響で訪れる人が後を絶たないらしい。きっとお墓の中で驚いていることだろう。

 山内容堂が牙をむきはじめた。
「土佐藩を動かしているのは藩主豊範侯でも武市半平太でもねぇ。あの御仁よ。」
麟太郎の言うとおり、まぎれもなく土佐藩を動かしていたのはこの怪物・容堂。
「最近は土佐にも、時勢に乗じて調子に乗りすぎている輩もおる。」
「土佐ではのう、下士は犬猫同然なのじゃ。下士の分際で藩を動かすなど虫唾が走る。」

 吉田東洋を消し、土佐藩のイニシアティブをとったと錯覚した武市半平太。しかし歴史上、暗殺をもってして大業を成した人物はいない。そんなことにも気がつかなかった半平太は、容堂の言うとおり、時勢に乗じて調子に乗りすぎていたのかもしれない。
「上り坂もここまでじゃ・・・武市・・・。」


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by sakanoueno-kumo | 2010-04-26 23:42 | 龍馬伝 | Trackback(5) | Comments(8)  

愚かな総理。

「確かに私は、愚かな総理かもしれません」
平野官房長官は鳩山首相のこの発言を「謙虚さの表れだ」と擁護したそうだが、そうは思えない。
腐っても一国の首相である以上、外国の新聞社にこき下ろされた程度のこと、強く否定して嘘でも「訴えてやる!」ってなぐらいの気概を見せてもらわないと、とても国を任せようとは思えない。
「辺野古に決めていれば、どんなに楽だったか」
首相の答弁に「泣き」が入ってはおしまいだ。
「職を賭してまでやりぬく気持ちはあるのか」と谷垣さんに迫られていたが、職を賭すも賭さないも、どういう着地点に収まろうが、どのみちこの普天間問題の着地点が鳩山総理の終着点になることは免れないだろう。

そもそも誰が考えたって、丸く収まる着地点なんてあるはずがないこの普天間移設問題。
なんでこんなバカげた公約をしちゃったんだろう。
長年の沖縄の人の苦労は察して余りあるが、だからといって「じゃあうちが引き受けましょう。」なんて声があるはずもないわけで、そんなことは子どもでもわかること。
候補地の理解を得られるはずもなく、腹案をハッキリ示せないのは、アメリカに首を縦に振って貰える場所を模索しているだけで、結局は地元の声なんて何も聞いちゃいない。
もう、「ゴメンナサイ」するしか道はないんじゃない?

この期に及んでまだ「国外移設」なんて出来もしないこといってるみずほちゃん。
予想は出来たことだが、やっぱり社民党とお手々つなぐこと自体無理があったね。
政権を円滑に運営するために手を結んだのに、逆に政権の起爆剤になってしまった社民党と普天間移設問題。
今更ながら、やっぱり民主単独政権で行くべきだったんじゃない?
「参院選で勝たせてもらうまで、もうしばらく待ってください。」ってな具合であくまで単独政権で臨んでいれば、この1年はたいしたことは出来なかったにせよ、ここまで支持率を落とすこともなっかっただろうし、この普天間移設問題もここまでこじれることもなかっただろうに・・・。

民主党政権の終焉もそう遠くなさそうだが、お相手の自民党も空中分解寸前の状態。
米軍基地の移設先以前に、日本国自体の着陸する滑走路が見当たらない。


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「確かに私は、愚かな総理かもしれません」

 21日の党首討論の冒頭、鳩山首相はこう語った。

 自民党の谷垣総裁が取り上げた米紙の報道を引いた言葉だったが、議場は野党議員らのヤジで騒然となった。
 首相は沖縄県の米軍普天間飛行場移設問題でも「愚直」という言葉を使い、謙虚さをアピールしたが、口ぶりとは裏腹に、発言の内容は「開き直り」「責任転嫁」の連発だった。
 訪米中にオバマ米大統領と10分間の非公式会談しかできなかったことは、「政府の案が決まっていない段階で、あまり長い話をするよりも10分間が良いと、大統領が判断された」と、人ごとのように語った。「旧政権に任していれば普天間は返還されずに先延ばしされていた」と自民党政権に批判の矛先を向ける一方、自らの「腹案」については「控えさせていただく」の一点張りだった。
 谷垣氏は、首相が約束した「5月決着」に進退をかける覚悟を尋ねたが、首相は「すべての政策の実現に向けて、職を賭して頑張ることは言うまでもない」と一般論に逃げこんだ。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100421-00001142-yom-pol
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by sakanoueno-kumo | 2010-04-22 19:35 | 政治 | Trackback(2) | Comments(4)  

坂本龍馬愛用の手鏡?

 坂本龍馬にまつわるとても興味深い品が発見され公開されているらしい。話題の品は江戸時代末期のものとされる手鏡箱で、表面には「GOOD LUCK」(幸あれ)「KAIENTAI」(海援隊)という文字、二曳(にびき)と言われた海援隊旗の図柄、そして龍馬のイニシャルを思わせる「SR」という文字、さらに「JULY」(7月)という文字などが刻まれている。

e0158128_14165764.jpg 発見されたのは、京都市にある閑臥庵(かんがあん)という寺院で、寺の言い伝えでは、1877年(明治10年)ごろ、同志社英学校に学んだジャーナリストの徳富蘇峰が寺を訪ねた際にこの品を見つけ、当時の住職に保管を勧めたという。その後、行方不明になっていたが、2008年の倉庫整理で発見したという。

 龍馬自身がこの文字を刻んだとすれば、亀山社中から海援隊という名称に変わったのが慶応3年(1867年)4月のことで、同年の11月には暗殺されていることから、刻まれている「JULY」は慶応3年(1867年)7月と考えられる。ちょうどこの時期、龍馬が京都にいたことは確か。慶応3年(1867年)といえば龍馬が最も多忙を極めた時期で、1月に後藤象二郎と会談して亀山社中が土佐藩おあずかりとなり、4月に海援隊と命名したものの、同月、海援隊の蒸気船「いろは丸」と紀州藩船「明光丸」が海上衝突して沈没した、あの「いろは丸事件」が起こり、5月はその談判に疾走。談判解決後の6月、長崎から京都に向かう船中にて、あの有名な「船中八策」を作成。同月、京都にて「薩土盟約」の成立に尽力、そして7月には龍馬不在中の長崎で英国軍艦イカロス号の水夫が殺害され、その嫌疑が海援隊士にかけられるという事件が発生、この対応のため急遽長崎に戻っている。そんな多忙極まりない時期の品ということになる。

 龍馬ファンとしては、龍馬自身が刻んだものと思いたい。自分の所持品として使っていたものなのか、はたまた誰かに贈るために刻んだものなのか。漢詩などではなく、英文字で「GOOD LUCK」というのが実に粋だ。次から次に起こる難題に振り回されていたこの時期の龍馬に、手鏡箱に文字を刻んで誰かに贈ろうなんて心のゆとりがあったとすれば、そこにまた龍馬の非凡な人物像がうかがえる。てな具合で、いろんな想像が膨らむ発見だ。

 NHK大河ドラマのもたらす影響というのは大きいもので、登場人物の注目度が一躍高くなるため、この機に思わぬ史料が思わぬ場所から発掘されることがよくある。先頃には寺田屋事件の新史料が発見されていたし(参照:寺田屋事件(坂本龍馬襲撃事件)新史料が見つかる。)、昨年の大河ドラマ「天地人」の放送中には、主人公・直江兼続直筆の書状が見つかったというニュースもあった(参照:直江兼続の書状が古書店にて発見される。)。そうした発見によって、新たな歴史解釈が成されたとすれば、NHKの功績は大ということになるが、それだけにいい加減な作品は作れないという責任もある。NHKさん、頼んまっせ!


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by sakanoueno-kumo | 2010-04-21 15:26 | 歴史考察 | Trackback | Comments(0)  

金本知憲選手の決断。

 阪神タイガース・金本知憲選手が更新していた連続試合フルイニング出場の世界記録が、昨日18日、1492試合で止まった。1500試合が目前だっただけに、記録ストップを惜しむ声が後を絶たないが、予てから「記録のためには出ない。」と語っていた金本選手としては、逆に今の状態であと8試合出場することが耐えられなかったのだろう。賢明な決断だ。

 今回のスタメン落ちは自らの申告だったらしい。正直言って、それが一番良い着地点だっただろうと私も思う。少しでも野球がわかっている人なら、金本選手の守備の衰えはもうずいぶん前からわかっていたこと。スタメン4番はともかく、試合後半の守備交代はハッキリ言って何年も前から必要だった。2度の阪神リーグ優勝の功労者であり、球界最高年棒の大選手であり、世界記録更新中の彼に、誰がその引導を渡すのか・・・というのは、阪神ファンなら誰もが注目していたところ。監督といえども苦渋の決断を強いられたであろうこの問題は、金本選手自身が身を引くというのが最も望ましいかたちだった。スタメンを外れる決意を示した金本選手に、真弓監督は最後まで考え直すよう説得したそうだが、それは武士の情けで、実はその言葉を待っていたのではないだろうか。

 このように言うと、まるで金本選手の記録更新がチームのマイナスになっていたように聞こえるが、決してそうではなく、チーム内で金本選手を引きずり下ろすような選手が現れなかったという方が正しい。守備のリスクは差し引いても、4番金本という存在に頼らなければならない実情がチーム内にあった。本来は、若手選手の台頭によって自然にベテラン選手が押し出されるかたちが一番望ましいわけで、金本選手自身もそのかたちを望んでいるような発言が度々聞かれた。自身の衰えを感じながら、それでもまだ若い選手には負けていないという自負心との狭間でずいぶんと悩んだことだろう。「これ以上出てもチームに迷惑をかけてしまう。とくに投手にね。勝つための手段として、決めました。」と語った金本選手。決断した後、実はホッとしたのではないだろうか。

 足かけ12年の大記録。近年は2度の左膝手術を乗り越え、満身創痍の身体で騙し騙しここまできたが、今年開幕前に右肩を痛め、これが致命傷となった。今シーズンの阪神のゲームで走者2塁からレフト前ヒットを打たれた際、相手チームの3塁コーチは全て腕を回した。バックホームが出来ない。これはもはやプロ野球の姿ではなかった。昨日の対横浜戦。葛城選手がレフトの守備についた。金本選手以外の選手が阪神のレフトを守るのは実に8年ぶりのこと。同じ走者2塁でのレフト前ヒットの場面で、今シーズン初めて相手チームの3塁コーチが走者を止めた。これが本来のプロ野球の姿であると感じたと同時に、何とも言えない切なさを感じた。

 金本選手は代打で出場し、フルイニングの記録は途絶えたものの連続試合出場の記録は1638試合と更新中。でも、それももういいのではないだろうか。もし、まだ気持ちが切れていないのであれば、ここで一旦全てをリセットして、身体を休めて改めて臨んで欲しい。全てをリセットした後、また以前のような活躍を見せてくれることによって、記録のために出続けてきたわけではないという自身の言葉を証明して欲しい。それが例え4番じゃなくても、代打であっても・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2010-04-19 18:32 | プロ野球 | Trackback(1) | Comments(0)  

龍馬伝 第16話「勝麟太郎」

 坂本龍馬の生涯に最も大きな影響を与えたのが、この勝麟太郎(勝海舟)との出会いだったというのは誰もが知るところだろう。もっと大袈裟にいえば、この二人の出会いが、後の日本の運命にも大きな影響を与えたといっても言い過ぎではないかもしれない。幕末の風雲児・坂本龍馬は、この軍艦奉行並・勝麟太郎の知遇を得たことによって作られた。この運命的な出会いは、いつ、どのようにして実現したのだろう。

 最も馴染み深い話は、龍馬と千葉重太郎の二人で、開国論者であった勝麟太郎を斬るつもりで訪ねたものの、麟太郎に世界情勢を説かれ、逆に弟子入りしてしまったというエピソード。司馬遼太郎著「竜馬がゆく」を始め、多くの物語でこの話は使われている。しかし今回のドラマではこの話は採用されていなかった。この説の根拠は、明治中期になって麟太郎自身が著した「追賛一話」「氷川清話」に詳しく、ほぼ通説のようになっているが、実はこの話は麟太郎の創作した法螺話という見方が正しいようだ。というのも、自分を斬りに来たというほどインパクトのある来訪者のことを、同時期の麟太郎の日記にはまったく記されていない。勝海舟と名乗った晩年の麟太郎には法螺癖があり、そこがまた勝海舟という人の味のある一面なのだが、それゆえ彼の語るエピソードは話半分で考えなければならないようだ。

 それでは何故、龍馬が麟太郎に出会えたのか。ドラマでは、まず越前藩前藩主であり幕府政治総裁職でもある松平春嶽と会見し、そこで麟太郎に自分を紹介してくれるよう懇願していた。何の名声もない一脱藩浪人の龍馬が、幕府のお偉方である春嶽にそう簡単に会えるはずがない・・・と思いがちだが、実はこの話は本当のようで、春嶽自身が書き残したいくつかの記録に出ている。ドラマのように千葉定吉の口利きがあったという史料は残っておらず、どういうコネがあったかは定かではないが、とにかく龍馬は春嶽に会っていた。同行者は近藤長次郎間崎哲馬の二人だったようだ。どういう目的で春嶽と会見したかはわからないが、彼らにとって雲の上の人物とも言える春嶽に会おうという発想と行動力に驚かされる。龍馬の大器の片りんが垣間見れるエピソードだ。

 龍馬が春嶽と会見したのは文久2年(1862年)12月5日。この4日後の12月9日の「海舟日記」の中に、「此夜、有志、両三輩来訪。形勢の議論あり。」という記述がある。これこそが、龍馬と間崎哲馬、そして近藤長次郎の三人ではないかと考えられている。であれば、春嶽との会見によって麟太郎への紹介状をもらい、その4日後に来訪したという考え方が最も自然だ。龍馬が麟太郎への紹介を望んだのか、春嶽が麟太郎に引き合せようと考えたのかはわからないが、こうして坂本龍馬と勝海舟の運命的な出会いは実現した。今話のドラマの設定は、極めて史実に近いかたちだと思う。

 春嶽からの紹介とあって仕方なく会見したものの、龍馬の器を見抜けず×××の評価で追い返してしまった麟太郎。勝麟太郎の人柄といえば、せっかちで癇癪持ちの性格だったというのは有名なところ。一目会って運命を感じた・・・なんてベタな設定よりも、この方が実に麟太郎らしくていい。博多弁ならぬ、べらんめぇ口調の武田鉄也さんも新鮮だった。次週からの龍馬と麟太郎のかけ合いが楽しみだ。


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by sakanoueno-kumo | 2010-04-19 00:50 | 龍馬伝 | Trackback(7) | Comments(6)  

龍馬伝 第15話「ふたりの京」

 「人斬り以蔵」として後世に名高い、土佐藩郷士・岡田以蔵。そして、その人斬り以蔵を影で操っていたとされるのが、土佐勤王党首魁・武市半平太。 坂本龍馬を主役とする物語の多くにおいて、この二人の存在は欠かせない。幕末の一時期、京の町を震撼させたテロリストの以蔵だが、物語の中に見られる彼の姿は、いつもどこか切ない。人を殺して殺して殺しまくった狂気の男のはずなのだが、後世の私たちが受ける彼の印象はなぜか同情的で、彼の墓前には今もたくさんの献花が絶えないという。

 以蔵の最初の暗殺は、前話にあった土佐藩下目付けの井上佐一郎。このときは人斬りではなく、ドラマのとおり絞殺だった。もっともこれは単独犯ではなく、以蔵を含め4人で犯行に及んでいたようだ。この暗殺事件には思想的な動機はなく、吉田東洋暗殺を捜査していた井上に対して危険を感じたというのが理由だろう。この後、「天誅」という名のもとに暗殺が繰り返されるのは、同じ時期に「人斬り」として恐れられていた薩摩藩士・田中新兵衛の犯行で、「安政の大獄」時に攘夷志士の摘発に励んだ九条関白の家臣・島田左近の暗殺が始まりといわれている。今話で以蔵が殺した目明しの文吉は、その島田左近の手下の岡っ引。井上佐一郎を殺害したのが文久2年8月2日。以後、同月20日に本間精一郎、2日後の22日に宇郷玄蕃頭を、その8日後の30日に上記の文吉を、その後も9月、10月、11月と、短期間で立て続けに暗殺を繰り返している。「暗殺とは癖になるような気がする。」と、第13話「さらば土佐よ」の稿でも述べたが、そのとおり、この時期の土佐勤王党は暗殺が癖になっていた。

 岡田以蔵と武市半平太の関係は、まさに光と影。この時期、事実上土佐藩を動かしていた半平太の影の部分を以蔵は支えていた。その支えを半平太が要求していたのか、それとも以蔵が自主的にしていたことなのかはわからない。後世の私たちに半平太がダーティーな人物としてイメージされるのは、この以蔵との関係によるものが大きいだろう。現代で言えば、大物政治家とその身代わりになって逮捕される秘書官といったところだろうか。似たような関係を例にあげれば、薩摩藩士・西郷隆盛などにも、上記田中新兵衛や中村半次郎(桐野利秋)といった影の部分の担い手がいたのだが、こちらはあまりダークサイドなイメージには描かれない。半平太と以蔵の関係がダーティーに感じられるのは、半平太の急激な出世と以蔵の短期間のテロ実行が、あまりにもラップしすぎることと、後に二人が人生の最期を迎えたときの、以蔵に対する半平太の態度によるものだろう。「邪魔者は抹殺する。」といった方法で暗殺を繰り返した以蔵だったが、やがて自分が邪魔者となってしまうことになるのだが、それは物語の今後に譲ることにしたい。

 浅学だったとされる以蔵だが、それだけに純粋さを感じてしまう。
 「人の道に外れたことをしてはいかんぜよ。」
 以蔵が人斬りになっていることを悟った龍馬が以蔵に向けて言った言葉だが、自分の行動が「人の道に外れたこと」だとは思ってもいなかっただろう。学のない自分にとって、己を生かせるのは剣の道だけであり、その剣を使って自身の師である半平太の力になる。間違っているわけがない・・・と思っていたに違いない。
 「人にはそれぞれの道があるきにのぉ、みんなぁが同じ道は歩いていけんがじゃ。」
 「世の中にはいろんな人がおるがじゃ。意見が違うてあたりまえちゃ。」

 龍馬の言うとおりだが、しかし、自分の意見を持たない・・・持てない人もいる。そういう人は、誰かの意見を信じて自分の進むべき道を決めるしかない。龍馬や半平太のように、自分の進むべき道を自分で決められる者ばかりではないのだ。

 以蔵は信じるべき人物を間違えた。信じる人を見定めたのが自分自身だとすれば、それも自分の意見だと言えるかもしれない。そこに岡田以蔵という男の切なさがある。


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by sakanoueno-kumo | 2010-04-14 00:11 | 龍馬伝 | Trackback(4) | Comments(4)  

ユーティリティープレイヤーという名のスペシャリスト。

 4月2日の練習中にくも膜下出血で倒れ意識不明の危険な状態が続いていた、プロ野球読売ジャイアンツの内野守備走塁コーチ・木村拓也氏が、7日早朝、入院先の広島大病院で亡くなられた。享年37歳。若い人の訃報というのはいつ聞いても辛いものだが、とりわけプロ野球ファンにとってこの度の急逝の知らせは、実に口惜しく言葉がない。今年からコーチとして新たなスタートだった木村拓也氏。おそらくは有能な指導者に成り得たであろうことを思えば、残念という一言に尽きる。

 現役時代の木村拓也選手といえば、言わずと知れたユーティリティープレイヤー。投手以外のポジションは全て着いたことがあるという、数少ない経験の持ち主だ。記憶に新しいのは、昨秋のペナント中、延長12回、ベンチ入りの全ての捕手が出尽くし、十数年ぶりにマスクをかぶった姿。もともと日本ハムに入団した際は捕手だったが、昔とった杵柄とはいえ、捕手というポジションは簡単に出来るものではない。究極の局面で、彼のような存在がいるチームの監督は、どれほど心強く思えることだろう。

 しかしながら、日本ではこのユーティリティープレーヤーというのは、思いのほか評価が低い。ユーティリティープレーヤーとされる人は、スペシャリストになれなかった人という観が強いからだ。何でも卒なくこなすけれど、何かを極めてもいない・・・とされる。だからスペシャリストに比べて大きく年棒も低い。言ってみれば、「ユーティリティープレーヤー=器用貧乏」というイメージがある。しかし実際にはこのユーティリティープレイヤーが複数いるチームは強い。プロである以上、スペシャリストの集合体ではあるわけだが、チーム事情や思わぬアクシデントで本来のフォーメーションで戦えない事態は往々にして起こる。そんなとき、いわゆるスーパーサブの役割を果たしてくれる。そういう存在がひとりでも多くいるチームは、土壇場で右往左往することはないわけで、当然強い。しかしサブメンバーなら誰でも出来るというものでもない。レギュラー選手に違わぬ力を持っていてこその、ユーティリティープレイヤーなのだ。したがって当然希少価値がある。本来もっと高い評価をされてもいいのではないだろうか。

 ユーティリティープレーヤーだった木村拓也氏は、自身の経験を生かし、きっと素晴らしい指導者になれただろう。プロ野球界にとっては、とても大きな損失だ。

 今はただ、心からご冥福をお祈りいたします。


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下記、記事本文引用
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巨人・木村拓也コーチが死去 37歳、くも膜下出血
 プロ野球巨人の木村拓也内野守備走塁コーチが7日午前3時22分、くも膜下出血のため広島市の広島大病院で死去した。37歳だった。葬儀・告別式は10日に広島市で。木村さんは2日に広島市南区のマツダスタジアムで行われた広島―巨人1回戦の試合前に練習でノックを打っている際、ふらつきながら突然倒れた。搬送された病院でくも膜下出血と診断され、意識不明の状態が続いていた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100407-00000026-jij-spo
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by sakanoueno-kumo | 2010-04-07 17:27 | プロ野球 | Trackback(6) | Comments(4)  

第82回選抜高校野球大会 閉幕

 第82回選抜高校野球大会は、興南(沖縄)初優勝で幕を閉じた。沖縄県校としては、1999年・2008年の沖縄尚学と今回の興南で3度目の全国制覇。今大会、初めて沖縄から興南と嘉手納の2校出場を果たしており、ここ12大会で3度の全国制覇という結果を見れば、近年の沖縄勢のレベルの高さがうかがえる。沖縄勢がセンバツに初出場したのは、今からちょうど半世紀前の1960年の那覇高校。その後、1971年に普天間高校が甲子園初勝利をあげるまで、実に11年の歳月を要した。その後徐々に力をつけ、21世紀に入ってからの沖縄勢は、毎年優勝候補といわれる強豪校を送り出してくる。今や沖縄県は、全国屈指の野球王国と言ってもいいだろう。

 準優勝は、過去、春夏ともに優勝経験のある強豪・日大三(東京)。だが、意外にも東京勢がセンバツの決勝に進出するのは1992年の帝京以来18年ぶりのこと。日大三としては、1972年の準優勝以来、実に38年ぶりの決勝進出だった。試合結果は10-5というスコアになったものの、決勝戦としては21年ぶりの延長線にもつれ込む熱戦を見せてくれた。

     ■大会結果
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 興南のエース・島袋洋奨投手は、大会ナンバーワン左腕という前評判どおり、全試合通して見事なピッチングを見せてくれた。昨年夏の甲子園大会で、19奪三振という内容ながらも1回戦で敗退した反省点をふまえ、今大会は打たせて取りながら要所々々を三振で締めるという実に丁寧なピッチングが見られた。特に準決勝の大垣日大(岐阜)戦では、奪三振は6個と少ないながらも、6回2死までノーヒットの快投。決勝では延長12回、198球の力投で、スタミナ面の強さも披露した。173センチと決して大きくない体格だが、マウンド上の彼は誰よりも大きく見えた。

 日大三のエース・山崎福也投手は昨秋の新チーム結成から投手に転向した左腕。今大会では序盤コントロールに苦しみながらのピッチングが見られたが、まだまだ伸び代を感じさせる内容。夏に成長した姿が見たいものだ。

 決勝に残った両チームは打撃の方も素晴らしく、優勝した興南はチーム打率3割3分2厘で全試合2ケタ安打。準優勝の日大三はそれを上回る3割4分だった。特に興南の主将・我如古盛次君と日大三の投手・山崎福也君は、大会最多安打タイ記録の13安打を記録。「春は投手力が制す」などと言われるが、この打線あっての優勝・準優勝だったということも忘れてはならない。ただ、決勝戦で残念だったのは、興南が5失策、日大三が2失策という守りの内容。延長12回に勝負が決まったのもエラーによるものだった。高校野球にエラーは付き物だが、エラーで勝敗が決まるというのは、頑張って練習してきた球児たちにとってこれほど悔しいことはないだろう。決勝の両チームのみならず、夏に向けての課題がそこにあるように思う。

 大会全般で見ると、開幕前に評判の高かった、一二三慎太投手を擁する東海大相模(神奈川)や、岡本健投手を擁する神戸国際大付(兵庫)などが相次いで1回戦で敗退。一方で、その東海大相模を破った初出場の自由ヶ丘(福岡)や、21世紀枠出場の向陽(和歌山)が中国大会覇者の開星(島根)を破った試合、また同じく21世紀枠出場の川島(徳島)も、破れはしたものの4強まで勝ち上がった大垣日大(岐阜)を1回戦でギリギリまで苦しめるという、フレッシュなチームの頑張りが目立った。これもセンバツ高校野球の醍醐味だ。

 今大会は雨に悩まされた大会でもあった。1回戦から雨で25年ぶりという2日連続の順延。短い春休みの中、円滑な試合日程消化は重要なことだが、そんな中、可哀想だったのは雨天で行われた広陵(広島)対日大三の準決勝。5対4と広陵のリードで迎えた8回裏日大三の攻撃時、前夜から降り続いていた雨がこの回から激しさを増し、田んぼのようにぬかるんだグランドで失策が絡み、滑って上ずった球を打ち込まれて10失点。9回表の広陵の攻撃時も同じく失策が相次ぎ、5点差まで詰め寄ったもののそこまで。結果14対9で日大三が勝った。その日の天気予報は1日中雨の予報で、試合開始時も既に雨は降っており、このような試合になることは十分に予想出来た。雨がふらなくとも結果は同じだったかもしれない。しかし雨が降らなければあのような荒れた試合にはならなかったであろうことは間違いない。あのような天候は十分に予想出来た中、強行開催する理由がどこにあったのだろう。結局2試合目は翌日に順延しているのだから・・・。「これも高校野球」とは私は思わない。

 とにもかくにも、球児たちの春は終わった。また夏の甲子園で、さらに成長した彼らの姿をぜひ見たいものだが、春に活躍した球児たちが必ずしも夏に再び甲子園にやってくるとは限らない。これもまた高校野球の醍醐味だ。


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by sakanoueno-kumo | 2010-04-06 15:19 | 高校野球 | Trackback(1) | Comments(2)  

龍馬伝 第14話「お尋ね者龍馬」

 さて、「龍馬伝」第2部が始まった。第1話のオープニングと同様、明治15年、三菱会社社長となった岩崎弥太郎のもとに、既に過去の人となった坂本龍馬のことを取材にきた一人の記者とのシーンから始まった。第1話のときも紹介したが、この記者は、1883年(明治16年)に高知の土陽新聞で連載された、坂本龍馬を初めて題材として取り上げた小説「汗血千里の駒(かんけつせんりのこま)」の著者で、坂崎紫瀾(しらん)という自由民権運動家。この作品のことは、以前、「坂本龍馬が日本史のスターになった理由。」の稿でも紹介したとおり、後世の私たちが持つ「龍馬像」の基礎を作った作品とも言われている。その作者が、執筆前に龍馬の旧知の人物のもとに取材に訪れる。あっても不思議ではない設定だ。同じ席で、新政府の官僚となった後藤象二郎と、このとき自由党総裁だった板垣退助のヨーロッパ外遊費を借りにきていた人物がいたが、この話も実話で、この後、弥太郎は二人の洋行費を世話することになるのだが、その話はドラマの本筋と離れてしまうのでここではひかえることにしよう。物語は「龍馬伝」である。

 龍馬が脱藩したのは、文久2年(1862)3月24日。その後、史実の記録に再び龍馬が姿を現すのは、同年8月の江戸にて。つまり、脱藩してから江戸にたどり着くまでの数カ月間、彼がどこで何をしていたかはわかっていない。小説などのこの間のエピソードは全て想像でしかなく、ドラマのように大坂に現れたり京に立ち寄ったりするのだが、ドラマ中の彼が言っていたように、九州は薩摩へ行ったのではないか・・・とする説が、どうやら最も濃厚のようだ。龍馬の九州行きの件は、上記、坂崎紫瀾著の大正元年に刊行された「維新土佐勤王史」の中でも紹介されているらしいが、それよりも真実味があるのは、文久3年に出された龍馬の脱藩罪の赦免申渡書の中に、
「右之者去戌ノ三月御国元ヲ立チ、京摂並九州関東辺諸所周旋罷在・・・」
という文言があり、これは龍馬自信の供述に基づくものだろうから一概には信用できないものの、はっきりと九州と記されている。この8年前に、龍馬と親交があったとされる河田小龍が藩命で実際に薩摩に派遣され、当時最先端の大砲鋳造技術を視察してきている。その体験談を小龍から聞いた龍馬が、自分の目で見るために薩摩へ向かった・・・としてもまったく不思議ではない。もっとも、ドラマ中の彼も言っていたとおり、当時の薩摩藩はよそ者を簡単に入国させるような藩ではなかったことを思えば、龍馬が目的を果たせたかどうかは定かではないが・・・。

 「わしやち、攘夷の志はあったがじゃ。けんどのぉ、わしが思うちゅう攘夷と他のもんが思うちゅう攘夷は、どうも違うがぜよ。」
 大坂で出会った弥太郎に龍馬が言った言葉。後に勝海舟との運命的な出会いによって、開明的な世界観を持つに至る龍馬だが、一介の脱藩浪人に過ぎないこの頃の龍馬は、まだ他の志士たちと同じく攘夷を志していた。が、他の単純攘夷志士たちと違っていたのは、攘夷の為にはまず敵を知ろうとしたことだろう。敵を知り己を知ることは兵法の常道。このとき薩摩へ向かったことが事実とするならば、日本で最も西洋技術に近い進歩を遂げているとされる薩摩から、何かを学び得ようという発想からだろう。この頃の龍馬には既に他の攘夷志士たちとは違う、自分が目指すビジョンがおぼろげながらあったのかもしれない。

 吉田東洋の死で、土佐勤皇党が土佐藩の実権を握り、同時に武市半平太が歴史の表舞台に登場する。半平太の念願だった「一藩勤皇」が実現しようとしていた。龍馬が歴史の表舞台に登場するまでには、もう少しときを待たねばならない。


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by sakanoueno-kumo | 2010-04-05 01:20 | 龍馬伝 | Trackback(7) | Comments(2)