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龍馬伝 第22話「龍という女」

 坂本龍馬と後に妻となる、お龍こと楢崎龍との出会いについては正確なことはわかっていないが、元治元年(1864年)の4月から5月にかけてと考えられているらしい。その出会いのきっかけは、小説などでは寺田屋であったり火事場であったりするが、もっとも通説とされているのは、京都の東山区付近に龍馬たち脱藩志士の隠れ家があり、そこでお龍の母・貞が賄いをしていて、同じく近くの宿場で賄いをしていたお龍が度々そこへ通ってきており、父が死に困窮して暮らしているお龍の身の上に同情した龍馬が、何かと世話をするようになったという説。龍馬が姉・乙女に初めてお龍のことを紹介した手紙を送ったのは翌年の慶応元年(1865年)の9月であることから、出会いは伏見寺田屋と結び付けられて語られることが多いが、それは龍馬にとって姉に紹介したい存在になったのがその時期だったというだけのことだろう。

 話はそれるが、伏見寺田屋の話が出てきたので余談を述べると、小説「竜馬がゆく」などでは、龍馬がかなり若い時期から寺田屋に出入りしており、そのせいか本ドラマではまだ出てこない寺田屋の設定を批判する声が聞かれるが、実際にまだこの時期には龍馬が寺田屋に出入りしていた記録はなく、寺田屋は薩摩藩の定宿であったことから考えて、龍馬が寺田屋と縁が出来たのは慶応元年ごろ、つまり龍馬が薩摩藩の庇護を受け始めたころと考えられているようだ。

 話を戻す。明治32年にお龍自身が語った談話によると、
 「京都に大仏騒動といふのがありました。あの大和の天誅組の方々も大分おりましたが、幕府の嫌疑を避けるために、龍馬といっしょに大仏へかくれてをつたのです。ところが浪人ばかりの寄り合ひで、飯たきから縫い張りのことなど何分手が届かぬから、一人気のきいた女を雇ひたいといふので、ここにいろゝ話があって、私の母が行くことになりました。
 この時分に、大仏の和尚の媒介で、龍馬と私が縁組みしたのですが、大仏でいつしよにをるわけにはいきません。そこで私は七条の扇岩(おうぎいわ)といふ宿屋へ手伝ふかたゞ預けられてをりました。」

 と、語っている。ドラマでお龍が働いていた宿屋は、この扇岩という宿屋の設定だろう。龍馬はたびたびこの扇岩を訪ねていたという。新撰組が誕生し、浪士狩りがますます厳しくなっていたこの時期、身の危険も顧みず彼が京の町に潜入していたのは、政治活動だけではなく、お龍の魅力も手伝ってのことだったのではないだろうか・・・。

 お龍の妹が遊郭に売られたというエピソード。龍馬が借金の肩代わりをしたという話はドラマのオリジナルだが、妹を取り戻しに行ったというのは本当の話で、着物などを売り旅費を工面して単身大坂にのりこみ、死ぬ覚悟で懐に合口(短刀)を忍ばせ悪党相手に大喧嘩をしたという。悪党が腕をまくり刺青を見せて脅しても怯むことなく、逆に飛びかかって胸ぐらをつかんみ顔を殴りつけた・・・と、龍馬は姉・乙女宛ての手紙でこと細かに描写している。お龍という女性の気性の強さがうかがえるエピソードだ。私などは、到底ご遠慮させていただきたいタイプの女性だ。

 そんなお龍だが龍馬にとってはとても魅力的な女性だったようで、「まことにみょうな女」または「まことにおもしろき女」であったらしい。龍馬のまわりの女性を見ると、初恋の相手とされる平井加尾がどのような女性だったかはわからないが、「坂本のお仁王様」と言われた姉・乙女や「千葉の鬼小町」と呼ばれた千葉佐那など、気の強い女性に惹かれる傾向にあるようだ。

 後に龍馬と深く関わることとなる土佐藩士・佐々木高行は、お龍のことを日記にこう記している。
 「有名なる美人なれども、賢婦人なるや否やは知らず。
 善悪ともに兼ぬるように思われたり。」

 お龍は、龍馬のまわりの者たちにはあまり良く思われていなかったらしい。

 作家・司馬遼太郎氏は、小説「竜馬がゆく」の中でこう述べている。
 「おりょうの面白さは龍馬の中にしか棲んでいない。」


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by sakanoueno-kumo | 2010-05-31 01:27 | 龍馬伝 | Comments(4)  

抑止力の低下。

もめにもめた普天間基地移設問題
結局、旧政権の現行案どおり、辺野古への移設と正式に発表された。
「最低でも県外」という鳩山総理の出来るはずもない浅知恵発言から8カ月。
この迷走で得たものは、米国を怒らせ、沖縄県民を落胆させ、移転候補地の人々の不安を煽り、近隣諸外国に侮られるといった、誰一人得をする者はないという最悪のものだった。
このたびのことで改めて考えさせられた国防と抑止力の重要性
米軍基地の存在が抑止力ではない。
日米安保そのものが我が国にとって最大の抑止力であって、基地はその象徴にすぎない。
実際に基地が、その力を発揮するような事態が起こってはならないのだから・・・。
日米関係が良好であってこその基地であって、その関係に暗雲が立ち込めるということは、辺野古であっても県外であっても、その抑止力としての効力が低下するということだ。

このたびの騒動によって、その日米関係の不安定さを諸外国にさらすこととなった。
世界一危険といわれる普天間飛行場。
移設によって、その近隣住民の方々の安全は確保されることだろう。
しかし、それと引換に全国民を危険にさらした現政権の責任は大きい。
どう、おとしまえをつけるのか!


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下記、記事本文引用
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日米、普天間の辺野古移設を発表 埋め立て軸に調整
 日米両政府は28日、米軍普天間飛行場移設に関する共同声明を発表。移設先をキャンプ・シュワブ沿岸部(名護市辺野古)と付近の海域と明記。同沿岸部を埋め立てる現行計画の3年近くに及ぶ環境影響評価手続きを遅らせないとして移設地域を限定した。ほぼ現行計画通りの埋め立て構想を軸に調整、8月中の工法確定を目指す。発表に先立ち鳩山首相とオバマ米大統領は電話会談し、共同声明の内容を確認した。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100528-00000523-san-pol
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by sakanoueno-kumo | 2010-05-28 14:16 | 政治 | Comments(2)  

「八月十八日の政変」と、幕末における長州藩の役割。

 文久3年(1863年)8月18日、朝廷内にクーデターが起きた。同年5月10日の攘夷決行(下関戦争)によって朝廷から褒勅の沙汰を享けた長州藩は、以後、朝廷の政に何かにつけ口を出すようになり、暴徒の激しさも増していった。しかし、あまりにも過激な長州藩の行動を持て余した「公武合体派」中川宮朝彦親王(平井収二郎が取り入った人物)や近衛忠熙近衛忠房らが、この当時御所の警備を任されていた薩摩藩・会津藩と手を結び、「攘夷派」三条実美をはじめとする7人の公卿を朝廷から一掃(七卿落ち)、長州藩の軍勢たちも公卿を守って京から落ちていった。いわゆる「八月十八日の政変」である。

 皮肉にも、この政変を最も望んでいたのは、先の攘夷決行の勅許を出した孝明天皇だった。孝明天皇が望んだのはあくまで幕府による攘夷で、過激な長州藩の行動には恐怖すら感じていた。帝を尊び、帝の為に命をも惜しまなかった長州志士たちは、帝の意向によって朝敵にされた。京から長州藩が一掃されると、孝明天皇は本心を明らかにする宸翰(しんかん)を発布する。
 「是迄、彼是、真偽不分明之義有之候へ共、去る十八日以後申出候義は、朕が真実の存意に候。此辺、諸藩一同心得違無之様之事。」
 今までの「勅」は全部インチキだというのだ。長州藩にとっては全く寝耳に水であっただろう。そもそも彼らが藩をあげて戦ったのは、天皇の「勅」を奉じて幕府が5月10日を攘夷決行の日と諸藩に通達した結果ではなかったか。諸藩の中で最も純粋に天皇の「勅」を重んじた長州藩が、実は天皇から最も疎んじられる結果となった。孝明天皇にとって過激なラブコールを贈る長州藩はストーカーのような怖さがあったのかもしれない。これ以後、長州藩は幕末の最終局面で坂本龍馬の力を得るまで、辛苦の時代を過ごすこととなる。

 「攘夷は倒幕のための手段」というすり替え論は、この長州藩に限っては当てはまらなかっただろう。彼らは本気で攘夷が可能だと信じていた。作家・司馬遼太郎氏は、その著書「竜馬がゆく」の中でこう述べている。
 「幕末における長州藩の暴走というのは、一藩発狂したかとおもわれるほどのもので、よくいえば壮烈、わるくいえば無謀というほかない。国内的な、または国際的な諸条件が万位一つの僥倖をもたらし、いうなればこの長州藩の暴走がいわばダイナマイトになって徳川体制の厚い壁を破る結果になり、明治維新に行きついた。・・・(中略)・・・当時の長州藩は、正気で文明世界と決戦しうると考えていた。攘夷戦争という気分はもうこの藩にあっては宗教戦争といっていいようなもので、勝敗、利害の判断をこえていた。長州藩過激分子の状態は、フライパンにのせられた生きたアヒルに似ている。いたずらに狂躁している。この狂躁は、当然、列強の日本侵略の口実になりうるもので、かれらはやろうと思えばやれたであろう。が、列強間での相互牽制と列強それぞれが日本と戦争できない国内事情にあったことが、さいわいした。さらにいえば、当時のアジア諸国とはちがった、この長州藩の攘夷活動のすさまじさが欧米人をして、日本との戦争の前途に荷厄介さを感じさせた、ということはいえる。・・・(中略)・・・いずれにせよ、長州藩は幕末における現状打破のダイナマイトであった。この暴走は偶然右の理由で拾いものの成功をしたが、・・・これでいける。という無知な自信をその後の日本人の子孫にあたえた。とくに長州藩がその基礎をつくった陸軍軍閥にその考え方が、濃厚に遺伝した。昭和初期の陸軍軍人は、この暴走型の幕末志士を気取り、テロをおこし、内政、外交を壟断し、ついには大東亜戦争をひきおこした。かれらは長州藩の暴走による成功が、万に一つの僥倖であったことを見抜くほどの智恵をもたなかった。」
 後半の大東亜戦争云々はここではおいておくとして、幕末の長州藩の姿がとてもよくわかる見解だ。他にも司馬氏は同作品の中でこんな表現をしている。
 「長州藩は火薬庫のようなものだ。過激藩士が、火薬庫の中で、松明をふりまわして乱舞している。あぶない、どころではない。」
 ダイナマイトや火薬庫に比喩されるほど過激なこの長州藩の存在がなければ、後の明治維新はまた違ったものになっていたかもしれない。が、この時期の長州藩はまだ無意味に暴発する危なっかしさだけであった。ダイナマイトも使い方次第である。後に歴史はその使い手に坂本龍馬を選ぶ。龍馬はその導火線に火をつけることなくその威力を発揮させ、やがて幕府を倒すに至るのである。


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by sakanoueno-kumo | 2010-05-26 00:14 | 歴史考察 | Comments(2)  

龍馬伝 第21話「故郷の友よ」

 「志士は溝壑(こうがく)にあるを忘れず、勇士はその元(こうべ)を喪(うしな)うを忘れず」という言葉がある。志のある者は、道義のためなら窮死してその屍を溝や谷に棄てられても良いと覚悟しており、勇ましい者は、君国のためならばいつ首を取られても良いと思っている・・という意味。元は孔子の言葉で、幕末には吉田松陰が志士の心構えとして説き、この時代を生きる全ての志士たちの共通したスローガンだった。近年では小泉純一郎元総理が、改革に向けての所信表明演説でこの言葉を使っていた。小泉元総理が本当にその覚悟があったかどうかは眉ツバものだが、坂本龍馬武市半平太も歩む道は違えど、当然、己の命は天に預けて生きていたことだろう。
 「武市さんらは元から侍じゃ。何があろうと覚悟は出来とったがじゃないですろうか・・・。」
 長次郎の言ったとおり、半平太は覚悟が出来ていただろう。志士は溝壑にあるを忘れず・・・しかし半平太には、溝や谷に棄てられることよりもっと無念な、信じていた者に裏切られるという、彼にとって思ってもみなかった最期が待っていた。

 「八月十八日の政変」で政局が一変すると、山内容堂はついに公然と土佐勤王党弾圧にふみきった。容堂はこのときを待っていたのだ。にも関わらず、半平太はこの直前の8月7日の時点でもまだ容堂を信じていたらしい。7日付けの手紙にはその前日容堂に謁して、「種々様々の御はなしにて、一も争論申し上げ候事御座なく候。」とまで書いており、よほど半平太は容堂に気をゆるしていたらしいことがうかがえる。手紙は続く・・・。
 「天下の勢より、御国の勢、諸侯方の善悪、且つ、其他にて、昨年以来斬姦の次第等申し上げ、誠にしみじみ御談話排承仕候・・・。」
 「斬姦の次第」とか「諸侯方の善悪」云々など、郷士あがりが口にすることなど、容堂が最も嫌悪するところだっただろう。が、この時点ではまだ容堂は耐えた。煮えくりかえる思いで耐えていた。しかし、近々起こり得るであろう政変の匂いは嗅ぎ分けていたことだろう。政変後、なんの遠慮もなくなった容堂は、文久3年(1863年)9月21日、武市半平太、河野万寿弥、そして半平太の妻・富子の弟、島村衛吉など8名を逮捕、投獄した。罪名は、
 「右者、京都へ対し、そのままにおかれ難く、其の余御不審のかどこれ有り。」
という曖昧なものだった。容堂にとって罪状などどうでもよかった。目的は土佐勤王党壊滅にあったのだから。

 龍馬にも当然、この報は届いていた。勝海舟の10月12日の日記にはこうある。
 「聞く。土州にても武市半平太の輩逼塞せられ、其党憤激、大に動揺す。かつ寄合私語する者は必ず捕へられ、又打殺さるゆへに、過激暴論の徒、長州へ脱走する者今三十人斗(ばか)り、また此地に潜居する徒を厳に捕へ、或は帰国を申し渡すよ云ふ。」
 藩庁の手は当然、龍馬にものびた。この時点で、龍馬は再び脱藩者の身になったのである。

 半平太投獄の頃、京に一人残っていた岡田以蔵は、土井鉄蔵と名を変え潜伏していた。半平太と袂を分かち、龍馬とも音信不通になった以蔵は、女色に溺れ、荒んだ日々を送っていたという。追われる身となった以蔵には、「人斬り以蔵」という名で恐れられた面影は既になかった。志士は溝壑にあるを忘れず・・・といった覚悟は、おそらく彼にはなかっただろう。彼は龍馬や半平太のような、高い志を持った志士ではなかった。刀のみを信じたテロリストに過ぎなかった以蔵は、時勢に利用されるだけされ、不要になると、野良犬のような日々を余儀なくされた。時勢に暗い彼は、何故自分が追われる身となったかもわからなかったかもしれない。そこがまた彼の切なさでもある。

 八月十八日の政変や、半平太の妻・富子のことにもふれようと思っていたが、既に多くの行数を費やしてしまったため、また改めて起稿しようと思う。


追記:「八月十八日の政変」と、幕末における長州藩の役割。


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by sakanoueno-kumo | 2010-05-24 01:17 | 龍馬伝 | Comments(4)  

悩める雄星投手に見る、左投手の質の考察。

 今年のプロ野球開幕前の一番の話題といえば、なんといっても埼玉西武ライオンズのゴールデンルーキー菊池雄星投手で、連日彼の動向を伝える報道が後を絶たなかったが、ここにきてようやく過剰報道とも思えた彼の話題も沈静化してきたようだ。高卒としては史上最高の6球団からの1位指名を受け、プロ野球界の宝とまで言われた彼だが、なかなか思うようにいかず苦しんでいるようだ。もっとも、高校野球とプロ野球の差というのは想像以上に大きいもので、あのダルビッシュ有投手や桑田真澄投手でさえ1年目は大した結果は残しておらず、雄星投手もまだまだ焦ることはない。しかしその例でいえば、11年前の高卒ゴールデンルーキーだった松坂大輔投手は、入団初年度から16勝をあげ最多勝利投手、ベストナイン、ゴールデングラブ賞などを総ナメにしており、今更ながらに彼が「30年に一人の怪物」と言われた所以がわかる。雄星投手も30年に一人の逸材と言われているが・・・。

 雄星投手といえば、言わずと知れた速球派の左腕。サウスポーで150キロ超の投手はプロ野球界を見渡してもそうそういるものではなく、そこが、彼が「金の卵」と評される所以なのだが、過去の例から見て、この左の速球派投手の前評判ほどあてにしづらいものはない。桑田真澄、松坂大輔、ダルビッシュ有、田中マー君など、それぞれの時代の甲子園のスターでプロでも大投手に成り得ているのは圧倒的に右投手。大昔まで遡れば、金田正一江夏豊鈴木啓示といった左腕の大投手もいるが、名球会入りした投手で見ても、そのほとんどが右投手だ。それでも左投手というのは重宝され、プロ野球全投手の約3分の1を占めている。

 それでは何故、左投手に大投手が少ないのか。それはプロ野球選手になるまでのプロセスにあるだろう。私は少年野球の指導者をしているが、毎年各学年15人~20人ほどの入部人数の中で左投げの子は1人か2人。しかしその子は左投げというだけで無条件に投手候補になる。サウスポーは希少価値があって有利という理由と、左投げの子は投手を練習させなければ、他はファーストか外野しかポジションがないという理由もある。野球をする子どもたちなら誰でも投手に憧れるものなのだが、左投げの子は競争無く投手になれる。逆に右投げの子は最初から競争なのだ。

 小・中・高校と進むにつれ競争は激しくなり、高校野球でマウンドに立てる子はその競争に勝ち抜いてきた選手。言ってみれば選り抜きの精鋭だ。甲子園に出てきている選手などは内外野手たちも皆、小学校時代は投手だったという選手ばかり。しかし、左投手はといえば、ふるいにかけられることなく生き残ってきた場合が多い。絶対数が少ないのだから当然だ。だから当然、右投手に比べて微妙なところの質が落ちる。左投手にノーコンが多いと言われるのも、その理由のひとつだろう。

 左利きの人の数は、日本の全人口の約8%ぐらいだそうだ。上記、少年野球の左投げの数を見ても頷ける数字だ。しかしプロ野球界で見れば、上にも記したように約3分の1が左投手。この比率から考えれば、左投手は右投手に比べてプロ野球の門は5倍以上広いことになる。例えばイチロー選手なども高校時代は投手で、仮に彼が左投げだったとすれば、おそらく投手としてプロに入っていたことだろう。右投手にとってプロ野球が東大だとすれば、左投手にとってのプロ野球は地方の国公立大学といったところだろうか。もちろんそんな中でも超一流になれる可能性を持った左投手はいるだろうが、確率で言えば、右投手に比べてハズレの可能性も5倍ということだ。

 松坂大輔投手が30年に一人の怪物だとすれば、松坂レベルの左投手が現れるのは150年に一人ということになる。金田投手か江夏投手がその域だとすれば、私の生きている間にはサウスポーの大投手は現れないことになってしまうのだが・・・雄星投手や如何に・・・?!



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by sakanoueno-kumo | 2010-05-20 17:29 | プロ野球 | Comments(11)  

龍馬伝 第20話「収二郎、無念」

 妹・加尾とともに坂本龍馬と親交が深かったとされる平井収二郎。坂本家と平井家は約1kmほどの距離で、幼馴染だったという設定には特別無理はない。ドラマでの収二郎は下士の設定だが、実際には最下級ではあるが上士で、家格としては白札の武市半平太より上だった。幼少の頃より文武に励み、英邁の質あり、弁舌鋭く、戦国策士の風があったらしい。下士中心に結成された土佐勤王党に上士の身分ながら参加。ドラマのとおり幹部として活躍するに至るが、署名血判は192名中157番目と何故か末席に位置する。同じく上士として同党に参加し、収二郎とともに切腹を命じられた間崎哲馬が4番目に署名していることを思えば、この署名順位は不思議だ。結党当初は半平太とあまり親交がなかったのだろうか。

 収二郎が龍馬のことを書いた手紙が残っている。京にいた妹・加尾に宛てた手紙で、龍馬が脱藩したことを知らせ、きっとお前のところに行くだろうけど、どのような相談をされても決して承知してはならない・・・といった内容で、「元より龍馬は人物なれども書物を読まぬゆえ、時として間違いし事も御座候得ば、よくよく御心得あるべく。」と言っている。龍馬は好青年ではあるけれど無学なため正しい判断力に欠ける・・・といった酷評で、この時期土佐勤王党の幹部として頭角を現していた収二郎にとって、龍馬の行動、考え方は理解できないものだったようだ。もっともこの龍馬評は、この時期の龍馬を知るすべての者たちの共通した見方であっただろう。

 半平太の右腕だったはずの収二郎だが、元々家格では半平太よりも上だったことが彼の背中を押したのか、行き過ぎた行動に出てしまう。ドラマのような山内容堂の半平太と収二郎の切り崩し工作はおそらくなかったと思われるが、確かに京での収二郎は半平太を超えた動きをしてしまった。勤皇党の中でも半平太と比較的距離があったとされる間崎哲馬、弘瀬健太とともに土佐藩の藩政改革を目論み、青蓮院宮(中川宮朝彦親王)の令旨を得て、現藩主・山内豊範(とよのり)の祖父で大隠居している土佐藩第12代藩主・山内豊資(とよすけ)を擁立しようとする(山内容堂は第13代藩主)。この豊資と容堂はソリが合わなかったとも言われており、そんな感情が加味されたかどうかはわからないが、この収二郎たちの行き過ぎた行いは容堂の逆鱗に触れ、役目を解かれ土佐に帰国、投獄の末、切腹を命ぜられる。

 収二郎の切腹を知った龍馬は、姉・乙女に宛てた手紙の中で、「平井の収二郎ハ誠にむごいむごい」と言い、「いもふとおかおがなげきいか斗(ばかり)か」と、兄を亡くした加尾を案じる言葉も添えられており、平井家と坂本家の親交の深さを察することが出来る。

 収二郎が獄中、爪書きで詠んだとされる有名な漢詩がある。
 嗚呼悲哉 兮 綱常不張
 洋夷陸梁 兮 辺城無防
 狼臣強倔 兮 憂在蕭牆
 憂勢忠國 兮 忠臣先傷
 月諸日居 兮 奈我神皇

 収二郎の死後、妹・加尾が墓碑にこの漢詩を刻むも藩吏によって削り取られ、明治維新後、再び加尾の手によって復元された。

 もうひとつ、切腹のおりに詠んだとされる辞世の句。
 「もゝちたひ いきかへりつゝ うらむと思ふ 心の絶えにけるかな」
 どちらも、志半ばでこの世を去った収二郎の無念さが伝わり、胸が苦しくなる。

 勝塾の運営資金千両を借りに越前福井藩主・松平春嶽のもとまで足を運んだ龍馬。そこで収二郎たちの投獄に納得がいかないと語った龍馬に、春嶽の政治顧問として招かれていた横井小楠が言った台詞。
 「今まで値打ちのあったもんが、古びて用無しになったっちだけのことたい。世の流れを作っとるとは人間ばってん、世の中の流れから見ればひとりの人間など芥子粒ほどのもんでしかなか。平井収二郎も・・・武市半平太もな・・・。」
 たしかに人ひとりの存在など芥子粒のように儚いものだが、その芥子粒ひとりひとりの存在が歴史を作り、現代の私たちに繋がっている。人は皆、歴史の中の役割を担っており、その命が消えた後も決して値打ちの下がるものではない。平井収二郎も・・・武市半平太も・・・。


■5月17日追記
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 上記本文にて平井収二郎を「上士」と書いたが、その後調べてみると「下士」という説もあるようだ。上士という説は、収二郎の父・直澄が上士の中でも最下層の新留守居組であったとされる説によるものだが、収二郎の死後、明治17年(1884年)に土方久元・田中光顕・河野敏鎌など土佐勤王党の生き残りたちによって編纂され、坂崎紫瀾が執筆した「維新土佐勤王史」によれば、収二郎の切腹に関して、「然るに其の処刑は、従来下士に例なき切腹と知りたれば、隈山(平井収二郎)は之を最後の名誉と喜び、心機たちまち一転せるものの如く・・・」とあり、はっきりと「下士」と記されている。土佐藩では通常、切腹を許されるのは上士だけで、下士は斬首される。拷問による取調べも下士だけで上士は拷問を受けないとされている。ドラマを見てそのあたりの矛盾を指摘する声もあるが、この説をとれば、拷問の後切腹という今話の筋書きも成り立つ。とは言え、収二郎の身分は上士というのがおそらく通説であると思われ、そのどちらが正しいかは私もわからないが、ここに追記というかたちで紹介してみた。


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by sakanoueno-kumo | 2010-05-16 23:49 | 龍馬伝 | Comments(2)  

菊池半平太って誰?

 当ブログを運営するエキサイトブログの管理人だけが閲覧できるプライベートページの中に、「検索ワードランキング」というものがあり、月ごとに自身のブログにどんな検索ワードで訪れてもらっているかを、上位10傑まで知ることができる。拙ブログはやはり大河ドラマに関するものが圧倒的に多いのだが、今月もちょうど半分が過ぎた今日久々に覗いてみたところ、奇妙な人名がランクインしていた。↓↓↓
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 奇妙な人名とは6位にある「菊池半平太」。は?・・・菊池半平太?・・・誰それ?・・・武市半平太じゃなくって?・・・そんな人物知らんで!・・・などと不思議に思いながら自身でもググってみると、なんと最上位に自身の武市半平太のブログ記事があるではないか!↓↓↓
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 このほか、ヤフーでもエキサイトでも検索1ページめに出てくる。ちょっと待て?・・・記事内容は武市半平太じゃないか?・・・なんで菊池半平太なんだ?・・・だいたいそんな名前の人物がいるのか?・・・などと思いを巡らせながら自身のブログ内を検証。そこでひとつの結論に達した。拙ブログのタグの欄に、現・西武ライオンズの菊池雄星投手の名前があり、どうやらその「菊池」の姓と「半平太」の名が結びついて検索ワードに引っかかっているようだ。なるほど納得・・・(苦笑)。

 とは言え、菊池半平太という名で検索している人が、今月だけでこの世の中に10人もいることが実に面白い。おそらくは武市半平太という名をうろ覚えで検索した方々の仕業だとは思うが、しかし、いるはずのない「菊池半平太」という架空の人物を、どうやら当ブログで生み出してしまったようだ(笑)。半平太といえば、あの「春雨じゃ、濡れてまいろう。」の名台詞で有名な「月形半平太」が、武市半平太と月形洗蔵(幕末に活躍した福岡藩藩士)の二人をモデルにして作られたそうだが、当ブログで生まれた「菊池半平太」は、「150キロの球を投げる勤王の志士」といったところだろうか(笑)。・・・ちょっと無理があったかな・・・(苦笑)。

 とまあ、くだらないネタに最後までお付き合いいただきありがとうございます。
 たまにはこんなコネタもいかがでしょうか・・・?(笑)。


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by sakanoueno-kumo | 2010-05-15 00:10 | コネタ | Comments(6)  

武市半平太、岡田以蔵の命日に思う。

本日5月11日は、武市半平太、岡田以蔵の命日である。(旧暦)
山内容堂が行った土佐勤皇党弾圧によって、1年半の投獄生活を余儀なくされた武市半平太。
獄中闘争も虚しく、慶応元年(1865年)5月11日、切腹して果てる。享年37歳
同日、人斬り以蔵こと岡田以蔵は、久松喜代馬、村田忠三郎、岡本次郎とともに、軽格のため切腹も許されず獄舎にて斬首、晒し首となった。享年27歳
大河ドラマ「龍馬伝」では、まだそこまで話が進んでいないので、詳しい記述は控えることとするが、同ドラマの影響で一躍注目度が高まったこの二人。
死後145年経った2010年の命日の今日は、おそらく多くの人が墓参に訪れていることだろう。
きっと墓中で落ち着かないことだろうね・・。

ドラマでも、もうすぐその日が訪れようとしている。
145年の時を越えて・・・合掌・・・。


5月12日追記*************************************************************
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11日、武市半平太の墓所がある高知市の瑞山神社で慰霊祭があったそうで、本日の毎日新聞に掲載されていた。(→)
ネットニュースはこちら↓
半平太の慰霊祭に60人参加

同日、岡田以蔵の墓所がある高知県の真宗寺山でも、初の命日際が行われたらしい。
ネットニュースはこちら↓
岡田以蔵、刑死後145年、初の命日祭

ドラマ開始以前でも、幕末歴史ファンにとってはお馴染みの二人で、以蔵の墓所は人里離れた山奥にあるにもかかわらず献花が絶えなかったそうだが、今年は特に墓参者が後を絶たないそうだ。
今更ながら、大河ドラマのもたらす影響とは大変なものだ。


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by SAKANOUENO-KUMO | 2010-05-11 23:39 | 歴史考察 | Comments(2)  

「議員でも金」ですか・・・。

ヤワラちゃんこと柔道の谷亮子選手が民主党から参院選比例代表に出馬するらしい。
しかも選手としても現役を続行し、ロンドン五輪でも金メダルを目指すそうだ。
金メダルとは議員をしながらでも取れるような、そんな簡単なものなのだろうか。
それとも国会議員という仕事は、アスリートが片手間で出来るほど簡単な仕事なのだろうか。
オリンピック選手と、野球選手の妻と、2児の母と、国会議員の全てを同時にこなすそうだ。
田村で金、谷でも金、ママでも金、そして今度は議員でも金・・・といったところだろうか。
金バッジをつけて金メダル。
引退後は与党議員として国民栄誉賞受賞。

世の中をあまりにも舐めてやいないか!

この出馬は、アスリート谷亮子の価値を著しく下げるってことがわからないのだろうか。
勝負の世界に生きてきた人とは思えないKYぶりだ。

それにしてもタレント議員擁立の問題はもうずいぶん前から問題視されていて、有権者側もウンザリしているにもかかわらず、今回も連日のように有名人候補の報道が後を絶たない。
堀内恒夫、中畑清、池谷幸雄、桂きん枝、岡部まり、敏いとう・・・。
与野党ともにこの節操のなさはどうだろう。
だいたい彼らに投票する人が本当にいるんだろうか。
有権者をバカにするにも程がある。


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下記、記事本文引用
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柔道の谷亮子選手が出馬表明 民主比例、現役は続行

 柔道女子の五輪金メダリストである谷亮子氏(34)は10日夕、民主党本部で記者会見し、同党から夏の参院選比例代表に立候補すると表明した。同時に「ロンドン五輪でも金メダルを目指す」と現役続行の意向を示した。会見に同席した小沢一郎幹事長は「百万、千万の味方を得たような気持ちで心強く思っている」と強調した。抜群の知名度を持つ谷氏の擁立による浮動票の獲得を狙う作戦だ。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100510-00000018-maip-pol
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by sakanoueno-kumo | 2010-05-10 22:23 | 政治 | Comments(4)  

龍馬伝 第19話「攘夷決行」

 「尊王攘夷」。帝を尊び、外敵を武力で退けようという思想。250年もの長い間鎖国によって天下泰平を維持してきた我が国だったが、ペリー艦隊によってその扉がこじ開けられ、以後、外敵による侵略を憂う、主に下級武士たちの間で高まった思想である。その背景には、この時代より少し前、隣国である清国がアヘン戦争時の通商の結果、西欧列強に支配されるに至った実情が影響していた。攘夷という言葉の元は中国の春秋時代の言葉で、日本での原点は朱子学を重んじた水戸学から発した思想である。水戸学とは水戸藩で形成された学問で、全国の藩校で教えられ、その「愛民」「敬天愛人」などの思想は、吉田松陰や西郷隆盛をはじめとした多くの志士たちに多大な感化をもたらした。最初は純粋に外敵による自国への侵略を防ごうという国防精神によるものだったはずだが、時の帝・孝明天皇の意向が攘夷であったことで「勤王思想」と結びつき、やがてそれが「倒幕運動」のエネルギーと化していった。これは一種のすり替えであった。

 その「尊王攘夷」をスローガンに結集された「土佐勤王党」とその旗頭の武市半平太。謹厳実直で「天皇好き」とあだ名された彼だったが、果たして彼の掲げた「攘夷」とはどのようなものだったのだろうか。本当に純粋な国防精神によるものだったのだろうか。下級武士に過ぎない彼にとって藩内で出世するのは容易ではない。そこに追い風となって吹いてきた「尊王攘夷論」という世論。聡明な彼ならば、攘夷論が現実的でないことなどわからないはずもなく、その本質を知った上で、自身の立身出世の手段として世論を利用したともとれなくもない。彼の行った攘夷運動は、吉田東洋をはじめとする開国論者を暗殺し、世情に無知な公卿を操って幕府に働きかけるといった政治的な策謀ばかりで、そのたびに自身が出世していくというものだった。
 「土佐勤王党言うたち、所詮は武市先生のものじゃきのぅ。」
ドラマ中、海軍操練所に派遣された望月亀弥太が言った言葉だが、その言葉どおり、武市半平太の掲げた「攘夷論」とその徒党「土佐勤王党」は、結果的に彼自身を栄進させるための手段でしかなかった。

 文久3年(1863年)、長州藩と英 仏 蘭 米の列強四国との間に起きた下関戦争や、同じ年に薩摩藩と英国の間で起きた薩英戦争などにおいて外国艦隊との力の差に直面したことにより、単純な攘夷論というものが急激に息をひそめ、外国との交易によって富国強兵を図り、諸外国と対等に対峙する力をつけるべきだとする「大攘夷論」が登場する。これによって、攘夷運動の主力であった長州藩・薩摩藩も事実上開国論へと転換していき、やがて時代は坂本龍馬を必要とし始める。そしてその一方で、単純攘夷論だった武市半平太と土佐勤王党は、歴史の中での役割を終えて、時代に切り捨てられ消えていくこととなる。


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by sakanoueno-kumo | 2010-05-10 01:46 | 龍馬伝 | Comments(2)