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桑田佳祐が食道がん!

サザンオールスターズ桑田佳祐さんに、初期の食道がんが判明したそうです。
幸い早期発見により、初期段階での治療で済む状態とのことでした。
私は桑田キチガイと言っていいほど彼の音楽が大好きで、この報道にはぶっ飛んでしまいましたが、大事に至らなさそうで胸を撫で下ろしています。
しばらくは休養して治療に専念してほしいですね。

数ある名曲の中から、桑田佳祐ソロナンバーを1曲。
     ↓↓↓


サザンオールスターズが「勝手にシンドバッド」で衝撃的なデビューをしたのは私が小学校6年生のとき、それ以来32年、ずっと彼の音楽を聴き続けてきました。
デビュー当時はコミックバンドのように思っている人が多かったのですが、そう思っていなかった私はそれがとても腹立たしく、その後3曲目のシングル「いとしのエリー」がヒットして世間の評価が変わったときには、自分のことのように嬉しく思ったものです。
まあ、実際コメディアンのようなことをしてましたけどね。
ドリフターズのいかりや長介さんが、どうせ「勝手にシンドバッド」の一発屋だろうと判断して、ドリフのメンバーにスカウトするため桑田佳祐さんのもとに訪れたというエピソードは有名です。

その後10代、20代、30代と、自分の人生を振り返ると、いつもそこに彼の曲があります。
高校時代、洋楽にかぶれていた時期も、邦楽で唯一彼の曲だけは聴き続けました。
車の免許を取ってからは、彼の全アルバムのカセットテープ(ふ・・・古っ)を常に車に置き、ともに走りました。
結婚してからも子どもが生まれるまでは、毎年家内とLIVEにも足を運びました。
そして今では、携帯電話に何百曲も入れて、通勤時に楽しんでいます。

最近では、高校生の息子が聴いてたりします。
これってスゴイことですよね。
私が高校生の頃、私の親の世代の人と話が合う音楽なんてありませんでした。
30年以上、常に一線で支持され続けている桑田サウンドだからこそあり得ることでしょうね。
好き嫌いは別にして、日本一のミュージシャンと言っていいのではないでしょうか。

昨年、私たちの世代では桑田佳祐さんと人気を二分した忌野清志郎さんが、同じくがんで58歳という若さでこの世を去りました。
名曲「いとしのエリー」のモデルと言われる桑田さんの実姉・えり子さんも、一昨年がんで亡くなられています。
早期発見とはいえ、がんは恐ろしい病気です。
焦らずしっかりと治療して、またいい歌を聴かせてほしいと思います。


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下記、記事本文引用
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サザンの桑田さんが初期食道がん 全国ツアーは中止
 人気バンド、サザンオールスターズの桑田佳祐さん(54)が初期の食道がんと分かり、手術と治療に専念するため、10月からの全国ツアーを中止すると、所属事務所のアミューズが28日発表した。休養期間は少なくとも今後半年間になる見通しという。事務所によると、今月中旬に受けた検査でがんと判明。8月にも手術を受けるという。10月20日に予定していた新作アルバムも発売を延期する。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100728-00000013-oric-ent
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by sakanoueno-kumo | 2010-07-28 16:11 | 芸能 | Comments(8)  

龍馬伝 第30話「龍馬の秘策」

 「世の中の仕組みを変えようと思うとる。」
 一脱藩浪士に過ぎない坂本龍馬たちのこの理想に、最初に反応し耳を傾けたのは商人たちだった。出島商人として財を築いた長崎の豪商・小曽根乾堂もそのひとりである。乾堂と龍馬の最初の出会いは、元治元年(1864年)2月、龍馬が勝海舟に同行して長崎を訪れたときだといわれている。乾堂は海舟とも親交が深かった。海舟と長崎妻・お久の間に生まれた子の世話も乾堂はしていたという。余談だが、海舟とお久の間には一男一女が生まれ、男児の名は梅太郎という。後に幕府のお尋ね者となった龍馬が、頻繁に使用した変名「才谷梅太郎」は、この男児の名にあやかったものだといわれている。

 小曽根乾堂は龍馬たちを心物ともに援助した。龍馬たちが設立した「亀山社中」は、小曽根邸宅に隣接する、乾堂の「亀山焼」という陶芸工場跡地を事務所とした。龍馬が慶応2年(1866年)8月に書いた手紙の中に、「長崎に出た浪士は小曽根家を隠れ家にしており、既に私たちもそうしている」という記述がある。後に龍馬の妻となるお龍は8ヵ月もここに預けられており、ここで月琴を習ったという。そのとき使った月琴は今も小曽根家に伝わっている。また、饅頭屋・近藤長次郎が悲しい死を遂げたのもこの場所で、長次郎の墓は小曽根家墓地にある。長崎に活動の拠点を置いた龍馬たちにとってこの場所はベースキャンプであり、小曽根乾堂は「社中の父」のような存在だった。さらに後、社中が「海援隊」になると、乾堂の弟・英四郎は龍馬たちと行動を共にし、「いろは丸沈没事件」の際には会計官として同船に乗船していた。

 もうひとり、龍馬たちを援助したと伝わる商人、お慶こと大浦慶。龍馬の人生は、実姉・乙女や寺田屋の女将・お登勢など女性の支援によるところが大きいが、乙女やお登勢が心情的な支えになっていたのに対し、このお慶は経済的支援、つまりパトロンとして龍馬を支えたという。彼女は、代々豪商だった上記小曽根乾堂とは違い、女手ひとつで財を成した商人。油商家に生まれた彼女だったが、父は若くして亡くなり、さらにお慶16歳のときに火災に遭って油とともに旧家も消失。17歳で婿を迎え家業の再興に着手するものの、その婿に商才がないとみるや手切金を払って離縁、以後単身で家業の再興をはかる。ペリー来航があった嘉永6年(1853年)、お慶は嬉野茶の輸出に着眼し、この成功によって巨財を手に入れる。想像するに、かなりの女傑だったようだ。

 この大浦慶が坂本龍馬を支援したという話は、実は言い伝えによるもののみで史料として残るものはない。小説などでは、後に社中が船を購入する際にその代金を肩代わりしたり、さらに陸奥宗光と恋仲になったりもする。油屋町の広壮な「お慶屋敷」は、龍馬ら社中の者たちの「秘密の拠点」だったともいわれ、志士のあいだでも「大浦のお慶さん」と親しまれたと伝えられるが、これも言い伝えに過ぎず、龍馬とお慶がどれほどの関係だったかはわからない。しかし近年、お慶の親族にあたる家に保管されていた龍馬の写真が、複写ではなく原物写真だということが分かったらしい。龍馬とお慶の関係を近づける貴重な史料として、歴史研究者たちに注目されているそうだ。言い伝えどおりかどうかはわからないが、何らかの関係があったと考えていいのではないだろうか。

 得体のしれない一脱藩浪士たちの声に、最初に耳を傾けたのは商人たちだった。幕府独占の交易体制に兼ねてから不満を持っていた彼らには、龍馬たちのいう「世の中の仕組みを変える」という思いは、共通の利害だった。きっと絵空事とは思えなかったのだろう。



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by sakanoueno-kumo | 2010-07-26 01:08 | 龍馬伝 | Comments(4)  

土佐勤王党と山内容堂 (後編)

 土佐藩の政変から京における土佐勤王党の台頭までの流れを、江戸で謹慎中の山内容堂はどんな思いで見ていたのだろうか。彼ら勤王党は、自身が信頼を厚くしていた吉田東洋を殺した憎き集団であり、しかし、「君辱かしめを受る時は臣死す」と容堂に忠誠を誓っている集団でもあった。容堂にとって土佐勤王党は、物語などで描かれるような、不快な存在でしかなかったのだろうか。

 約8年ぶりに謹慎が解かれ藩政に復活した山内容堂は、ちょうど時を同じく京で政変が起き、攘夷派が一掃されたことも相俟って、公然と土佐勤王党弾圧に乗り出した。これより勤王党は一変して衰退の道を辿ることになる。手始めは平井収二郎間崎哲馬弘瀬健太の3名が切腹。そして文久3年(1863年)9月21日、武市半平太が投獄されたことにより、土佐勤王党は壊滅する。結局、彼ら勤王党が活躍したのは、文久2年(1862年)4月8日に吉田東洋が暗殺されてから、わずか1年半足らずの間に過ぎなかった。

 武市半平太の投獄生活は1年8ヶ月にも及んだ。他の軽格党員たちは過酷な拷問を受けたが、半平太は同年1月に白札から留守居組という上士格に昇格していたため拷問は受けなかった。党員たちは厳しい拷問に耐え、吉田東洋暗殺を否認し続けた。中には拷問に屈することを恐れ、服毒自殺した者もいた。結局、東洋暗殺の罪状を立証出来ぬまま、「君主に対する不敬行為」という罪目で半平太は切腹を命ぜられ、慶応元年(1865年)5月11日、「三文字の割腹」の法という壮絶な最後を遂げる。

 ここで少し疑問に思うことがある。それは、武市半平太の投獄から切腹までになぜ1年8ヵ月もの年月を費やしたのかだ。容堂にとって半平太が、嫌悪の対象でしかなかったのであれば、すぐにでも処罰できたはずだ。東洋暗殺の罪を暴くためといっても、結局は立証できず、「君主に対する不敬行為」という曖昧な罪状で切腹に至っている。その気になれば、罪状なんてどうでも良かったはずだ。実際、平井収二郎たち3名は、投獄後間もなく処刑されているし、土佐の独眼竜・清岡道之助と、野根山23士の悲劇。の稿で紹介した清岡道之助たち23名などは、一度も取調べを受ける事もなく首を落とされている。半平太は上士格だったということが理由ならば、即刻降格させればいい。もともと彼の昇格は容堂の隠居中のことであり、容堂の認めるところではなかったのだから。もっと言えば、隠居中の身であっても藩政にまったく口を差し挟めなかったわけではなく、勤王党の台頭を阻むこともできたはずだ。しかし彼はそれをせず、彼らが江戸に下った際には逆に力になったりしている。容堂にとって半平太は、本当に不快な存在でしかなかったのだろうか。

 ここで私見を述べさせてもらうと、容堂は迷っていたのではないだろうか。「酔えば勤王、醒めれば佐幕」と揶揄された山内容堂。「錦旗ひるがへるの日」と誓ったのも彼の本心で、しかし関ヶ原以来の徳川恩顧を重んじるのもまた彼の本心だった。「開国やむなし」と考え至ったのも彼の本心で、しかし「帝の御心に添いたい」と思うのもまた彼の本心だった。参政としての吉田東洋の行政能力には絶大な信頼を置いていたものの、「婦女子の如き京師の公卿を相手にして何事ができようか」といった東洋の考えと容堂は違っていた。下士の分際で藩政を掌握した土佐勤王党には不快感を抱くものの、自身が出来なかった「錦旗ひるがへるの日は、列藩、親藩を問はず、その不臣はこれを討ち、王事に勤めん。」の言葉どおりに行動した勤王党に対して、半ば痛快に思えたときもあったのではないだろうか。そして「君辱かしめを受る時は臣死す」と容堂に忠誠を誓った武市半平太を、殺すに憚られる思いがあったのではないだろうか。半平太投獄から切腹までの1年8ヵ月、容堂は半平太を生かす道を模索していたのではないだろうか。

 結果的に山内容堂は「秩序」を選んだ。藩を治める立場の者の判断としては当然だったのかもしれない。しかし、このとき多くの有為な人材を失ったことによって、維新に際して土佐藩は完全に薩長の後塵を拝することになる。維新後、木戸孝允(桂小五郎)が酒席で容堂に向かって「殿はなぜ武市を斬りました?」と責めた際、容堂は「藩令に従ったまでだ」と答えたという。明治5年(1872年)脳卒中で倒れ病床に伏した容堂は、「半平太、許せ。半平太、許せ。」と何度もうわごとを繰り返したといわれている。容堂の本心はどこにあったのか、彼自身にしかわからない。

 幕末の一時代を猛スピードで駆け抜けた土佐勤王党。彼らは新しい日本が生まれるための「陣痛」のような存在だった。「産みの苦しみ」がなければ、新しい命は生まれない。その苦しみが大きければ大きいほど、生まれてくる命は強いものとなる。彼らの存在がなければ、後の坂本龍馬中岡慎太郎の活躍もなかったかもしれない。新国家誕生の産みの苦しみ。彼ら土佐勤王党は、歴史に大きな役割を果たしたといえよう。

土佐勤王党と山内容堂 (前編)
土佐勤王党と山内容堂 (中編)


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by sakanoueno-kumo | 2010-07-24 00:37 | 歴史考察 | Comments(2)  

土佐勤王党と山内容堂 (中編)

 土佐勤王党の掲げる「一藩勤王」を実現するには、どうしても邪魔な存在、それが吉田東洋だった。武市半平太は何度も東洋と会見し、その重要性を説くも、東洋は一向に理解を示さない。事態は思うように好転せず、武市半平太は行き詰っていた。しかし彼らにとって有利だったのは、東洋に敵が多かったことである。まずは民衆だった。彼の推し進める改革によって藩の出費がかさみ、税が厳しくなっていた。それに商人たちは、東洋が作った専売制によって、利益の大部分を藩に吸い上げられ、恨んでいた。そして東洋は下僚には節約を命じていながら参政の職分は別格だとし、豪放な暮らしを平気で行っていた。

 官僚内にも敵が多かった。急激な藩政改革を推し進めていた東洋に対して、それを不満とする保守派グループが形成されていた。これまで世襲が決まっていた、軍学、弓術、槍、剣、居合、馬術、砲術、儒者、医者、などの家格を廃し、家筋によらず能力によってその役を任ずるといった東洋の改革によって、「芸家」の当主たちは当然失職のおそれが出てきた。必然、東洋の失脚を願う者たちが出来た。行き詰まった土佐勤王党と藩内保守派の共通の政敵。思わぬ利害の一致がそこに生じた。

 土佐勤王党と藩内保守派の、そのどちらが先に歩み寄ったのか、また、どちらが先にその計画を打ち出したのかはわからないが、彼らの共通の敵が排除された。吉田東洋暗殺である。実行犯は勤王党と考えてほぼ間違いないだろう。東洋は江戸で謹慎中の山内容堂から全面的信頼を受けている。その東洋を殺すことに、武市半平太に迷いはなかったのだろうか。そこで半平太の背中を押したのは、「錦旗ひるがへるの日」と誓った容堂のあの言葉だったのではないだろうか。容堂が東洋を信頼しているのは、その実情を知らないからだ。東洋は君側の奸なのだ。「その不臣はこれを討ち、王事に勤めん」。この言葉が、東洋暗殺の追い風になったのではないだろうか。

 東洋の死後、土佐勤王党は隆盛を極めた。元々無能が故東洋に退けられていた保守派の藩政復活によって、武市半平太は身分こそ軽格であったが実質影の首相と言ってもよかった。彼らの掲げた「一藩勤王」は、ここに実現した。そして、藩主・山内豊範を奉じて京に上った彼らは、京における尊皇攘夷運動の中心的存在となり、半平太は朝廷の直参のような扱いを受けた。幕府に対する攘夷催促と御親兵設置を要求する勅使として三条実美姉小路公知が江戸に下った際には、警固役に勤王党の者が選ばれ、半平太は姉小路の雑掌となり江戸へ随行した。その際、隠居中の山内容堂も力添えをしている。土佐一藩に留まらず、日本をも動かしつつあったこの時期は、まさに土佐勤王党最盛期だった。一方で、「暗殺集団」としての色も増していった。岡田以蔵を刺客として開国派の人物を次々と殺していったのもこの時期である。彼らはこの暗殺を「天誅」と言った。これもまた、「その不臣はこれを討ち、王事に勤めん」という容堂の言葉に後押しされたものだったのかもしれない。

土佐勤王党と山内容堂 (前編)
土佐勤王党と山内容堂 (後編)

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by sakanoueno-kumo | 2010-07-23 00:00 | 歴史考察 | Comments(0)  

土佐勤王党と山内容堂 (前編)

 幕末史に燦然とその名を残す土佐勤王党。尊皇攘夷をスローガンに立ち上がった彼らは、一瞬の花火のように燃え上がり、消えていった。同時代の同じような思想集団としては、水戸の天狗党や薩摩の精忠組などがあげられる。彼らは皆、藩内において低い身分の者たちの集団で、その多くは動乱の中に消え、あるいは藩上層部によって処刑された。

 彼らのような下級層にとってこの「尊皇攘夷論」は、250年もの長い間、身分によって虐げられてきた憤懣を晴らす、恰好の材料だった。元々「尊王論」「攘夷論」という、それぞれ独立した考えとしてあったものが、ペリー来航によって結ばれた不平等条約のため、諸物価の高騰や流通制度など日本経済に大混乱を招き庶民の生活を圧迫、その憤懣から「攘夷論」が叫ばれはじめ、やがてそれに、日本は神国であるというナショナリズムの発想である「尊皇論」が結びつき、「尊皇攘夷論」となって諸藩の志士や公卿に支持された。さらにそこに、天皇に忠義を尽すという「勤王論」が加わり、やがてそれが250年続いた「封建制」を瓦解させ、倒幕のエネルギーと化していった。

 武市半平太を首魁とした土佐勤王党も、当然この尊皇攘夷をスローガンとした。特に身分差別が激しかったとされる土佐藩下士たちにとっては、封建社会を打破する一筋の光であっただろう。そんな背景もあってか彼ら土佐勤王党は、上記の天狗党や精忠組のような単純な「思想集団」に留まらず、藩論を勤王に統一する「一藩勤王」というテーゼを掲げた「政治集団」となった。そしてその改革を実現するために邪魔者を排除する「暗殺集団」となっていったのである。「思想集団」「政治集団」「暗殺集団」の3つの顔を持ってしまった土佐勤王党。彼らはなぜ、ああも足早に時代を駆け抜けてしまったのだろう。

 当時、土佐藩の藩政を握っていた参政・吉田東洋は、半平太たち土佐勤王党とは180度違う「開国論」の持ち主だった。東洋にとって勤王党の主張は、書生の戯言でしかなかっただろう。そんな東洋を相手に、下士集団に過ぎない勤王党が「尊皇攘夷」を声高に訴えることが出来たのは、このとき江戸にて謹慎の身だった前藩主、容堂こと山内豊信の存在があったからだ。後に勤王党を壊滅させるに至る容堂だが、若き日の彼は熱心な尊王家だった。彼の正室が三条家の幼女だったこともあり、朝廷への政治工作にも加担し、そのことによって安政の大獄時に謹慎の身となった。謹慎前、朝廷に宛てた容堂の「使命覚書」がある。
 「豊信(容堂)は一朝事有り、錦旗ひるがへるの日は、列藩、親藩を問はず、その不臣はこれを討ち、王事に勤めん。」
 この言葉が、武市半平太たち勤王党員たちを後押しした。天皇に忠義を尽すことが、自藩の君主に忠義を尽すことでもある。彼らの思いには一辺の迷いもなかっただろう。

 土佐勤王党の盟約書(盟曰)には次のような文言がある。
 「かしこくも我が老公(容堂)夙に此事を憂ひ玉ひて、有司の人々に言ひ争ひ玉へども、却てその為めに罪を得玉ひぬ、斯く有難き御心におはしますを、など此罪には落入玉ひぬる。君辱かしめを受る時は臣死すと。」
 「錦旗若し一とたび揚らバ、団結して水火をも踏まむと、爰(ここ)に神明に誓ひ、上は帝の大御心をやすめ奉り、我が老公の御志を継ぎ、下は万民の患をも払わんとす。」

 この盟約の文言は、明らかに上記容堂の言葉を取り入れたものだとわかる。ここでは、天皇と「我が老公」である容堂が忠誠の対象となっている。幕府が容堂に謹慎を命じたことを批判し、そしてその志を自分たちが引き継ぐと誓っている。この思いが、彼らが臆することなく突き進む糧となった。そして容堂の本質を見誤る要因ともなったのである。

土佐勤王党と山内容堂 (中編)
土佐勤王党と山内容堂 (後編)

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by sakanoueno-kumo | 2010-07-22 02:38 | 歴史考察 | Comments(2)  

龍馬伝 第29話「新天地、長崎」

 さて、第3部のスタート。第1部、第2部のオープニングと同様、明治15年、坂崎紫瀾岩崎弥太郎を取材する場面で始まった。舞台は東京・千住にある鍼灸院。そこにいたのは、坂本龍馬と結婚の約束をしていたといわれている千葉佐那だった。龍馬伝 第17話「怪物、容堂」でも紹介したとおり、晩年の佐那は千葉家家伝の鍼灸を生業として暮らし、明治29年(1896年)、59歳で生涯を閉じるまで独身を貫いたと言われていた。彼女の墓石の裏には「坂本龍馬室」と刻まれていて、「生涯龍馬を思い続けた女性」として司馬遼太郎著の「竜馬がゆく」をはじめ、多くの物語で描かれてきた。しかし、つい先日、その佐那に結婚歴があったという史料が見つかったそうだ。

 史料によれば、明治6年(1873年)、佐那の父・千葉定吉が剣術師範役を務めていた鳥取藩の元藩士・山口菊次郎から求婚され、龍馬の七回忌も済んだことから受諾したという。しかし菊次郎の身持ちの悪さなどから10年たたず離縁、そしてこの千住に移り住み、その後は生涯独身だったという。これまでの通説を覆すことになりそうな発見だ。大河ドラマで注目されると、思わぬところから関連史料が見つかるというのはよくあることだ。つい先日も、大政奉還の際に、龍馬が後藤象二郎に宛てた書簡の下書きが見つかったという話もあった。こうした新たな発見が歴史家たちの研究に影響を与えているとすれば、大河ドラマの功績でもあるといえるかもしれない。しかし史実が詳らかになるというのは、ときにそのドラマチックな側面を失うこともあり、歴史小説が好きな私などにしてみれば複雑な心境でもある。

 舞台は長崎。「日本の中の異国」ともいえる長崎に足を踏み入れた坂本龍馬率いる脱藩浪士一行は、初めて目にする異国文化にカルチャーショックを受けていたようだ。しかし龍馬の長崎入りは実は初めてではなく、元治元年2月に勝海舟に同行して長崎を訪れている。当時は神戸海軍操練所に身を置いていた時期で、まさかその1年後に操練所が廃止になろうとは思ってもいなかっただろうが、藩という枠を超えて人々が集うこの長崎を目の当たりにしたこのとき、後の自身の活躍の場をこの地に想定していたかもしれない。薩摩藩の庇護を受けた龍馬たちは、西郷隆盛らの帰国に同行して一時薩摩に滞在し、その帰路、この長崎に降り立った。そして薩摩藩の後ろ盾によって、脱藩浪士のみで構成される「亀山社中」を設立するにことになる。

 これまでの歴史の流れが随分と省略されていたので、ここで簡単にふれておきたい。「禁門の変」で敗走した長州藩は、さらに同年8月、英・仏、米、蘭の4ヵ国連合艦隊の攻撃を受け、まさに満身創痍の状態にあった。幕府はさらに追い打ちをかけるように「長州征伐」を断行、その参謀が西郷隆盛だった。戦う余力を失った長州藩は、保守派が主導権を握り、禁門の変の責任者を処罰して幕府に謝罪恭順した。しかしその翌月、高杉晋作奇兵隊を率いて挙兵、再び倒幕派が政権を握る藩内クーデターを起こした。彼らは4ヵ国連合艦隊と戦い「攘夷」が不可能なことを知り、以後はイギリスに接近して軍備を整え倒幕運動へ進んでいく。

 長州藩はこの時期、「一藩割拠」しようとしていた。「割拠」とは、幕府から独立して藩単位の独立国家化の方針のようなものである。日本史でいえば、戦国時代の大名のようなもの。幕府からも朝廷からも敵視されていたこの時期の長州藩は、すでに事実上「割拠状態」といっても良かった。

 「侍は藩の元で生きる。藩は幕府の元で生きる。いままではそれが当たり前じゃったけんど、変えてもええがじゃないですろうか。西郷さん、そろそろ幕府の元から飛び出してみんかい。」
 ドラマ中、龍馬が西郷に説いた台詞で、つまり薩摩も割拠せよ、ということだ。しかし実は龍馬に進言されるまでもなく、西郷にはすでに「割拠」の考えがあった。この少し以前に、西郷が国元に宛てた報告書の中に下記のような文章がある。
 「いつ迄も共和政治をやり通し申さず候ては、相済みまじく候間、能々(よくよく)御勘考下さるべく候。若(もし)、此策を御用ひこれなく候はゞ、断然と割拠の色を顕はし、国を富すの策に出でず候はでは相済申すまじき候義と存じ奉り候。」
 長州征伐で参謀だった西郷だが、その最中、大阪で勝海舟と会見し、幕府の実情を知った彼はやがて長州処分を寛大に寛大にと工作し始めた。幕府を見限り始めたのである。西郷は長州藩に対して最低限の処罰で終わらせ、兵を引いた。薩摩が兵を引くや否や、上記、高杉のクーデターが起こり、再び長州藩に倒幕運動が起こった。これを見た幕府は再び長州征伐を行なおうとしていたが、西郷はもはや幕府に協力する気はなかった。慶応元年(1865年)5月、龍馬を同行して薩摩に帰国した理由は、その出兵拒否を藩論としてまとめるためだった。その帰路の長崎が、今話の舞台である。

 長州、薩摩、この2大雄藩が、それぞれの立場から幕府を見限り、「割拠」しようとしていた。すでにこの時期、時勢は倒幕に向かっていたのである。後の薩長同盟が、坂本龍馬中岡慎太郎のアクロバット的な芸当のように描かれることが多いが、実はそうではなかった。プロセスは違えど、既に同じ方向性を見出していたのだ。あとは両者が手を結ぶ「大義名分」が必要なだけだった。その大義名分作りに、龍馬が動き始める。


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by sakanoueno-kumo | 2010-07-20 01:14 | 龍馬伝 | Comments(6)  

「ねじれ国会」に思う。

旬ネタを過ぎた観はありますが、先頃行われた参議院選挙について少しばかり・・・。
与党・民主党の苦戦は予想されていましたが、思った以上の大敗を喫しました。
菅総理が目標に掲げた「54議席+α」を大幅に下回り、獲得数は44議席、これによって民主党の参議院での議席は106議席となり、過半数割れが確定しました。
今後の政権運営はかなり厳しいものになることは免れないでしょうね。

敗因として一番に上げられるのは、やはり直前の消費税増税発言でしょう。
その必要性は別として、なんでこのタイミングで言っちゃったんでしょうね。
菅総理といい鳩山前総理といい、どうも発言の短慮さが目立ちます。
国民に負担を強いることであっても、誠心誠意話をすれば理解を得られると、本気で思っていそうですよね、きっとこの方たちは。
この点では、国民を騙してでも選挙に勝つ道を選ぶ、小沢さんの強かさを少しは見習うべきだったかもしれません。
これでまた、「やはり選挙は小沢じゃないと」といった声が大きくなるかもしれませんね。
実際、小沢さんの神通力というのがどれほどあるのかは知りませんが、彼が選挙が上手いというよりも、現執行部が選挙が下手だったんじゃないでしょうか?
だって、比例区では自民党12に対して民主党16で、勝ってるんですよね?
ところが全国に29ある「1人区」では8対21の惨敗でしょ。
結局敗因はこの「1人区」だったわけで、これでは選挙が下手といわれても仕方がないですよね。
単に消費税発言だけが原因ともいえない気がします。

良いのか悪いのか、これでまた「衆参ねじれ国会」が当分続きそうです。
それとも、またどこかの党と「無理やり連立」を組むのでしょうか?
今世紀に入ってから、旧自民政権時代も含めて、「衆院選で大勝したあとの参院選で大敗する」といった流れがずっと続いています。
それだけ国民が、選挙即結果を求めているということで、長い目で見ていられるほどの余裕はないということの現れだと思います。
どこが政権与党になっても、きっと同じことになるんじゃないでしょうか。
でも、これって結局、国民にとっては損なことですよね。
これでまた、衆議院解散がない限り、最低3年間は立案、廃案を繰り返しながらいっこうに前に進まない政局になります。
もうウンザリですね・・・。

こうなるといつも思うことですが、参議院って必要なんでしょうか?
衆議院の暴走に対する抑止効果の参議院ですが、実際の日本の参議院は本来の役割を果たしているとは到底思えません。
「ねじれ国会」での参議院は、何でもかんでも否決していたずらに政局をフリーズさせるばかりで、逆に衆参共に過半数を得たら得たで、衆議院の盲判の役割でしかありません。
だから数さえいれば誰でも良いといった具合で、タレント議員を乱立するんですよね。
「一院制」の導入、真剣に考えたほうが良いのではないでしょうか?

それでも、どうしても監査役として参議院が必要なのであれば、裁判員制度のように国民から無差別の抽選で選んだらどうでしょう。
そうすれば客観的な立場での抑止効果が得られますし、国民の直の声が反映されます。
それに何よりも選挙という無駄な経費が掛かりませんし・・・。
愚論ですかね・・・?

兎にも角にも、しばらくは「衆参ねじれ国会」が続きます。
菅さん、福田康夫元総理のように逃げ出しちゃうかもしれませんね。
その前に今回の大敗の責任を取らされるかもしれませんが・・・。

~追記~
ソフトバンクの犬も、当選したようですね・・・(笑)。


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by sakanoueno-kumo | 2010-07-14 00:21 | 政治 | Comments(8)  

ワールドカップ南アフリカ大会 総括

 1ヵ月間に及んだFIFAワールドカップ南アフリカ大会は、スペインの初優勝で幕を下ろしました。グループリーグからの全ての成績は下記のとおりです。↓↓↓
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 FIFAランキング2位の強豪スペインですが、ワールドカップでの優勝は今までなかったんですね。少し意外でした。念願の王座といったところでしょうか。日本が敗退したベスト16以降も随時このブログにて取り上げたかったのですが、珍しく仕事が忙しくてなかなかその時間がとれず、ここで少しだけベスト8以降を総括してみたいと思います。

 8強に名を連ねた国は、南米勢4ヵ国、欧州勢3ヵ国、アフリカ勢1ヵ国と、南米勢の優勢に思えましたが、結果欧州勢3ヵ国はすべて4強に勝ち上がり、南米勢はウルグアイ1ヵ国だけでした。今大会は、タレント揃いの南米サッカーを組織の欧州サッカーが制したという結果となりました。ブラジルアルゼンチンの意外なもろさが出ましたね。どちらも個人技としては相手国を凌いでいましたが、失点後の動きは粗くなり、その隙をつかれてまた失点といった、悪循環が目立ちました。焦りで平常心を失うと、もともと組織力がないためどうしても散漫なプレーになってしまうんですね。その点、ドイツオランダは安定感がありました。日本が負けたパラグアイも善戦したんですけどね。スペインに一歩及びませんでした。

 そんな中、南米勢で1ヵ国だけ勝ち上がったウルグアイでしたが、あの勝ち方には驚きましたね。決定的なゴールをレッドカード覚悟の両手ハンドで阻止。その後PKをガーナが外してゲーム終了。更にPK戦を制して勝利と、言ってみれば反則で掴んだ勝利のようなもので・・・。まあ、PKを決められなかったガーナが悪いといえばそうなんですけど、何か釈然としない思いがあります。ハンドで阻止した選手はお国では英雄扱いらしいですね。これって日本じゃあり得ない感覚でしょう。日本人選手が同じことやったら、おそらく勝ったとしても非難轟々でしょうね。一方で日本じゃ負けても精一杯戦った結果なら拍手が送られますが、南米の彼らは成績如何では命すら危ないお国柄ですから、反則してでも勝てば良しなんでしょうね。国民性の違いといってしまえばそれまでなんですが、私は日本人で良かったと思います。

 安定感抜群のドイツでしたが、4強でスペインに敗退しました。ドイツはこれまで大勝続きできており、少し油断があったように思えました。他のスポーツでもよくあることですが、大勝の次の試合は気付かぬうちにプレーが粗っぽくなり、力が出せない結果になることが往々にしてあります。ドイツがそうだったかはわかりませんが、やはり大勝続きでくると、緊張感が緩むというのはあったかもしれません。一方で、ここまで全勝という安定感を見せていたものの決して楽な試合続きではなかったオランダは、無難に決勝へと駒を進めました。まあ、反則勝ちのウルグアイはこの辺で負けてもらわないとねえ・・・。

 で、迎えた欧州勢同志の決勝。試合前の私の予想は、これまでのプロセスを考えるとランキングでは劣るものの勢いでオランダの優勝と思っていました。が、結果はスペインの底力に軍配が上がりました。全勝のオランダに対して、グループリーグ初戦を黒星スタートと今大会ではイマイチ地味な印象だったスペインでしたが、やはりランキング2位は伊達ではありませんでしたね。注目すべきは、決勝トーナメントの4試合をすべて1-0で勝利してきたことです。失点0というのはその堅い守りがわかりますし、1-0という緊迫したゲームを制してきたことによって培われた集中力の賜物とも言えるでしょう。大勝続きだったドイツと対比して、勝負の難しさがうかがい知れます。ボロ勝ちが必ずしも良いとは限らないということがよくわかる結果ですね。

 決勝に勝ち上がった2ヵ国は、どちらも派手な選手はいない組織のチーム。それはまさしく日本サッカーの目指すところで、この2ヵ国の活躍というのは、日本サッカーにとっても明るい未来に繋がる結果といえるのではないでしょうか。ここ数日、日本代表選手の海外移籍のニュースが後を絶ちませんね。ワールドカップは今の日本人選手にとっては世界への品評会のようなもののようです。近い将来、日本が決勝に上がる日が来ることを期待しながら、しばらくはワールドカップ南アフリカ大会の余韻に浸りたいと思います。


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by sakanoueno-kumo | 2010-07-13 01:49 | 他スポーツ | Comments(0)  

龍馬伝 第28話「武市の夢」

 文政12年(1829年)9月27日、土佐国長岡郡の白札郷士(郷士の中の最上位)に生まれた武市半平太。幼少の頃から学問と武芸に励み、まさに文武両道の秀才で、容姿端麗、人格高潔にして誠実、風雅をわきまえ、深沈で喜怒色にあらわさず、音吐高朗、見るからに人に長たる威厳があったという。その人物像をうかがい知れるものとしては、中岡慎太郎が後年、西郷隆盛を評して、「その誠実、武市に似」と語っているものや、また、人斬り新兵衛こと薩摩藩士・田中新兵衛も半平太を評して、「至誠忠純、洛西にその比を求むるならば、わが大島三右衛門(西郷隆盛)か」と述べていることなどからも、半平太の人物のほどがうかがえる。「人望は西郷、政治は大久保、木戸(桂)に匹敵する」とも言われ、また、坂崎紫瀾が執筆した「維新土佐勤王史」によれば、「一枝の寒梅が春に先駆けて咲き香る趣があった」と評されている。維新後、西郷、大久保、木戸の3人をもって「維新三傑」と呼ばれるが、歴史の「もし」はタブーではあるが、もし武市半平太が明治の世まで生きていれば、間違いなく彼を加えた「維新四傑」となったであろうという声も多い。

 そんな至誠の人・武市半平太だが、後世にあまり良い印象を残していないのは、暗殺事件の黒幕というイメージと、人斬り以蔵こと岡田以蔵との関係によるところが大きいだろう。中でも、拷問を受ける以蔵を毒殺しようとしたエピソードは、半平太の人生最後の汚点といえる。本来の言い伝えはドラマとは違い、強い思想を持たない以蔵の自白を恐れ、口封じのために毒入りの弁当を差し入れ殺そうとしたというもの。しかし、この計画は失敗に終わり、そのことを知った以蔵は憤りを覚え自白したと伝えられる。この逸話から思うのは、上記で述べたような至誠の人・武市半平太にあるまじき行動だということだ。たしかに彼は、暗殺事件の黒幕として岡田以蔵を使い、数々のテロを行った。しかし、それは彼にとっては「正義」の行いで、やましい思いはひとつもなく、だからこそ勤王党弾圧が始まり、久坂玄瑞や中岡慎太郎から脱藩を勧められても応じることなく、潔く縄についた。獄中でも臆することなく取り調べに応じ、尚も君主・山内容堂に対し意見を述べていたという。しかし、だとすればこの以蔵毒殺未遂の逸話はあまりに半平太像と異なるという思いがあった。ドラマでは、厳しい拷問で弱っていく以蔵を見るに見かね、楽にしてやろうという思いからの毒殺計画となっていた。半平太の人柄から考えて、この設定はありだと思う。

 岡田以蔵が捕えられたのは元治元年(1864年)6月ごろ、半平太投獄から遅れること9ヵ月後のことだった。半平太が土佐に戻ると、以蔵は土井鉄蔵と名を変えひとり京都に潜伏、女色に溺れ荒んだ生活をしていたという。些細な強盗事件を起こし幕吏に捕えられた以蔵は、「無宿者鉄蔵」と入墨をされ、京を追放、同時に土佐藩吏に捕えられ国元へ搬送される。半平太以外の投獄者は皆拷問を受けたといわれるが、中でも以蔵に対する拷問は苛烈を極めたという。思想を持たない以蔵で口が割れると考えた藩庁だったが、処刑されたのが翌慶応元年(1865年)5月11日のことだから、実に1年近くも厳しい拷問に耐え抜いたことになる。以蔵にも以蔵なりの強い意志があったのだろう。この日処刑された者のなかで以蔵の刑は最も重く、斬首の上、鏡川上流の雁切河原に三日間晒し首となった。享年28歳。

 岡田以蔵の辞世の句。
 「君が為  尽くす心は  水の泡  消えにし後ぞ  澄み渡るべき 」
 歌中にある「君」は、勤王の志士らしく「天皇」のことともとれるが、実は、武市半平太のことだったのではないだろうか・・・。

 私はこれまでこのブログを通して、かなり半平太に肩入れした発言をしてきた。自由で闊達な坂本龍馬に対して、堅物で融通の利かない武市半平太というのが世間一般の見方だと思うが、そんな彼に、私は最も日本人らしい日本人の姿を見る。謹厳実直を絵にかいたような彼の生きざまは、まさに日本人の国民性といってもよく、彼のような真面目を常とする人たちが、少なくとも昭和期まではこの日本を支えてきた。だから多くの人が、自分たちにない坂本龍馬に憧れるのではないだろうか。私たち日本人のその多くが、坂本龍馬に憧れる武市半平太だと私は思っている。

 ドラマでは吉田東洋暗殺を自白した半平太だったが、言い伝えでは最後までその容疑を認めることはなく、結局その件は立証出来ぬまま、「党与を結び人心煽動し君臣の義を乱した」という「君主に対する不敬行為」の罪状で切腹を命ぜられた。以蔵が処刑された同日夜、南会所大広庭にて、切腹の作法としては最も難しいとされた「三文字の割腹」の法を用いたと伝えられている。介錯人は妻・富子の実弟・島村寿太郎と義理甥・小笠原保馬。この割腹法を用いるため、「合図をするまで首をはねるな」と、介錯人にあらかじめ指示していたという。結局、みごと三文字に割腹した半平太は介錯の合図をすることなく倒れ、介錯人は横から喉を刺したという。享年37歳。彼の最後の意地とも思えるこの死に際の潔さは、自己の武士としての誉れの為だったのか、それとも君主・山内容堂への無言の訴えだったのか・・・。

 武市半平太の辞世の句。
 「ふたゝひと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり」
 半平太の無念の叫びは、この後龍馬に引き継がれていく・・・。
 

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by sakanoueno-kumo | 2010-07-12 02:13 | 龍馬伝 | Comments(5)  

土佐の独眼竜・清岡道之助と、野根山23士の悲劇。

 「禁門の変」があった元治元年(1864年)、土佐では郷士たちによる反乱が起きていた。安芸郡の郷士・清岡道之助を首領とする23名が野根山に屯集し、土佐勤王党弾圧により投獄された武市半平太の釈放と、藩論の統一を要求し挙兵した。半平太投獄から約1年後のことである。

 清岡道之助は天保4年(1833年)生まれでこのとき32歳。坂本龍馬より2歳上で、龍馬の義兄である高松順蔵の元で学んでいた時期があり、龍馬とも親しかったという。その後、岩崎弥太郎も学んでいた岡本寧浦に儒学を学び、さらに江戸へ遊学して陽明学や兵学も学んだ。向学心に熱い秀才だったようだ。道之助は左目が不自由だったため武芸の道を諦め、学問で身を立てようと人一倍勉学に励んだといわれている。そんなインテリ郷士だから、当然の如く武市半平太の勤王思想にも感化され、土佐勤王党にも加盟して志士活動もしていた。

 文久3年(1863年)9月、土佐勤王党の弾圧が始まり武市半平太が投獄されると、土佐七郡に住む同志たちの代表者が集まり、道之助も安芸郡の代表者として出席し、今後の対策を協議した。道之助は武力で藩庁に圧力をかける強硬論を主張したが賛同を得ることが出来ず、土佐勤王党幹部で同党の盟約文を起草したともいわれる大石弥太郎が、半平太釈放を賢明に嘆願するが、それも受け入れられることはく、憤懣をつのらせた道之助は、次第に苛烈な思想に傾倒してゆくようになる。

 そして業を煮やした道之助は安芸郡郷士単独での決起を強行し、同志23名で野根山にある土佐三関の一つとされる岩佐番所に武装屯集し、土佐藩庁に半平太以下同志の釈放を要求した。この嘆願を「徒党強訴」とみなした土佐藩庁は、藩兵800人を動員して鎮圧にあたらせた。23人に対して800人である。半平太投獄の最中、藩庁が如何に郷士たちの行動に神経質になっていたかがうかがえる。この大群にはさすがに抵抗出来るはずもなく、道之助たちは隣領の阿波へ逃げ込んだ。当初の予定では嘆願が受け入れられない場合、長州藩が進発する京へ向かい、これに合流する策であったが、長州藩は禁門の変ですでに敗走し、その報をいまだ知らない道之助たちはまったくの孤立状態におちいった。

 
 阿波領に逃げ込んだ道之助たちは、船便を得て脱藩するつもりがあえなく阿波藩兵に捕らえられ、土佐藩へと引き渡された。その際、阿波藩は寛大なる処置を土佐藩に依頼したという。しかし、その依頼が叶えられることはなかった。9月3日、田野郡奉行所に護送された道之助たち23名の郷士たちは、一度も取調べを受ける事もなく、2日後の9月5日、安芸郡の奈半利川の河原に連行されて一人残らず斬首された。清岡道之助、享年32歳。処刑に際して、彼らは辞世を詠むことも許されず、その歌は完全なかたちで伝わっていない。辞世を高らかに吟じる道之助の声は途中で途絶え、首が落とされたという。

 23人の遺骸は道之助の遺言によって福田寺に葬られた。道之助の妻・静は、亡夫の頭髪に櫛を入れて整え、柄杓の柄で首と胴をつないだという。彼女が夫の霊を慰めて詠んだ歌が、墓前の石碑に今も刻まれている。
 「よしやこの 土にかばねは埋むとも 名をば千歳の松にとどめん」
 本堂の傍らには、後に作られた「二十三士記念碑」と、彼らが賢明に助けようとした武市半平太の小さな銅像がある。

 清岡道之助という人物は、坂本龍馬や武市半平太のように有名ではない。しかし、彼のように、おそらくは明治まで生きていれば要職に就いたであろう有能な人物が、いとも簡単にその命を落とし、大業を成し得ず歴史の中に埋もれていった例が、この時代には数えきれないほどある。そんな一人ひとりの犠牲の上に、龍馬などの英雄伝説があることを忘れてはならない。


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by sakanoueno-kumo | 2010-07-10 00:59 | 歴史考察 | Comments(4)