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龍馬伝 第35話「薩長同盟ぜよ」

 通説とは違った「薩長同盟」成立までの流れの今話。私は「史実、史実」と揚げ足をとるような批評を好まないが、今話に限っていえば、通説どおりに描いて欲しかったというのが本音だ。なぜなら、坂本龍馬という人物を題材にした物語の中で、ここがもっとも重要な場面であり、彼が多くの人から支持され続けているところだと思うからだ。さらにいえば、坂本龍馬という人が歴史に残した功績は、この「薩長同盟」成立に尽きるともいえるからである。たとえば、小中学校の歴史教科書などを見れば、坂本龍馬という名はこの「薩長同盟」のくだりで数行ほど登場するだけにすぎない。長い歴史を客観的に見れば、坂本龍馬=「薩摩と長州の手を結ばせた人物」という程度の存在でしかないのである。では、なぜ坂本龍馬という人物が、後世にこれほどまで支持されるのか。それはそこに至るまでのプロセスの中で、坂本龍馬という人物の言動に痛快さをおぼえ、魅了されるからにほかならない。その魅力的なエピソードが「史実」といわれるものならば、変える理由はどこにもないし、変えれば坂本龍馬の魅力を損なうことになるだけだ。今話はそのもっとも重要で魅力的な場面だっただけに、残念でならない。

 西郷隆盛桂小五郎の下関会見が失敗に終わり、一度は暗礁に乗り上げた「薩長同盟」だったが、龍馬が企画した「和解」のためのステップを経て、慶応元年(1865年)暮にはいよいよ決行の機が熟しつつあった。西郷から長州に送った使者や龍馬の説得などもあり、慶応2年(1866年)1月には、ようやく桂も重い腰をあげ、同月8日に伏見に着き、翌9日に厳戒中の京へ入り薩摩屋敷に潜入した。桂を追うように龍馬も、長州の支藩長府の三吉慎蔵を護衛として1月10日に下関をたつ。17日神戸。18日大坂。19日伏見。20日二本松(京の薩摩屋敷)と、強行軍の旅だった。

 桂、西郷の会談が始まって10日が過ぎ、当然「協定」は成立したものと思っていた龍馬は、薩摩屋敷に入り愕然とすることになる。協定はまとまらぬまま、桂は帰ろうと身支度をしていたのだ。桂がいうには、西郷らは毎日接待に気を使い、ご馳走攻にはするものの、一言も両藩の協定について口火を切ろうとしない・・・とのものだった。「ならばなぜ長州から口火を切らぬ。」と龍馬が尋ねると、「それは出来ぬ。」と桂はいう。両藩の立場が違うというのだ。その理由を『木戸孝允自叙ノ要領』から抜粋すると、「薩州ハ公然天子ニに朝シ、薩州ハ公然幕府ニ会シ、薩州ハ公然諸侯に交ル」という。つまり、合法的に天子とも幕府とも諸侯とも交われる立場の薩摩に対して、孤立無援の長州から協定の口を開くということは、助けてくれというのと同じだ・・・というのが、桂の理屈だった。龍馬は怒った。いつまで「藩」の体面にこだわっているのか、と。「拙者らが両藩のために寝食を忘れて奔走するのは、決して両藩のためではない。一意国家を思えばこそだ。しかるに貴兄らは足を百里の外に労し、両藩の重役相会しながら今日まで為す事もなく日を送るのは、はなはだ心得ぬことではないか。」と。のちに龍馬は、亀山社中の中島作太郎に、「おもえば自分は生まれてこのかた怒ったことがなかった。しかしあのときばかりは、度を失うほどに腹が立った。」と語っている。

 龍馬の説くところは桂にも理解できなくはなかった。しかし、感情がそれを許さなかったのだろう。感情は理屈ではない。これまでの長州人の苦しみを考えれば、理屈ではどうにもならない意地があった。その意地を貫くためなら、長州は滅んでもかまわない・・・とまで桂はいった。「薩州、皇家ニ尽スアラバ、長州滅スルトイヘドモ亦天下ノ幸ナリ」と。長州は面目にこだわりはしたが、「天下」のことを考えていないわけではない。薩摩が生き残り、皇国のために奮闘してくれるならば、長州は滅んでもかまわない、と。この言葉を聞いた龍馬の態度をまた『木戸孝允自叙ノ要領』の文章を借りると、「龍馬、黙然タルコト稍久シク、桂ノ決意牢固トシテ容易ニ動カスベカラザルヲ察知シ、マタ敢ヘテ之ヲ責メズ。」とある。龍馬は桂の感情、おかれた立場を理解した。

 桂の覚悟を察した龍馬は、その足で西郷のもとに走った。薩長両藩の提携は、その目前に際して、感情の整理が必要だった。龍馬は西郷を説いた。薩摩と長州のおかれた立場があまりにも違いすぎることを。この期に及んで、なおも藩の体面と威厳を保とうとする薩摩を責めた。西郷は理解した。そして翌日、もう一度桂と会い、西郷から長州との提携の議をもちだした。同席したのは、薩摩側から西郷隆盛小松帯刀、長州側から桂小五郎、そして仲介人として坂本龍馬の4人だった。慶応2年(1866年)1月21日、ここに「薩長攻守同盟」が結ばれ、歴史はいよいよ「倒幕」の道をたどることになる。

 小説「竜馬がゆく」の中で、著者・司馬遼太郎氏は次にように述べている。
 『この当時、薩長連合というのは、竜馬の独創的構想ではなく、すでに薩長以外の志士たちのあいだでの常識になっていた。薩摩と長州が手をにぎれば幕府は倒れる、というのは、たれしもが思った着想である。
・・・(中略)・・・
 しかししょせんは机上の論で、たとえば1965年の現在、カトリックと新教諸派が合併すればキリスト教の大勢力ができる、とか、米国とソヴィエト連邦とが握手すれば世界平和はきょうにでも成る、という議論とやや似ている。竜馬という若者は、その難事を最期の段階ではただひとりで担当した。
・・・(中略)・・・
 この段階で竜馬は西郷に、「長州が可哀想ではないか」と叫ぶようにいった。当夜の竜馬の発言は、ほとんどこのひとことでしかない。あとは、西郷を射すように見つめたまま、沈黙したからである。奇妙といっていい。これで薩長連合は成立した。歴史は回転し、時勢はこの夜を境に倒幕段階に入った。一介の土佐浪人から出たこのひとことのふしぎさを書こうとして、筆者は、三千枚ちかくの枚数をついやしてきたように思われる。事の成るならぬは、それを言う人間による、ということを、この若者によって筆者は考えようとした。』


 冒頭でも述べたように、坂本龍馬という人物の魅力は、歴史に残した功績ではなく、そこに至るまでのプロセスの中にあると私は思う。司馬さんの文章の中にある、「事の成るならぬは、その人間による」という言葉のとおり、龍馬にしか成し得なかったプロセスを、通説どおりに描いてほしかった今話だった。


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by sakanoueno-kumo | 2010-08-30 03:36 | 龍馬伝 | Comments(4)  

第92回全国高校野球選手権大会 総括

 興南(沖縄)の史上6校目の春夏連覇で幕を閉じた第92回全国高校野球選手権大会。とにかく忙しくて閉幕してから1週間が経ち、今更?という声が聞こえないでもないが、遅ればせながら夏の甲子園大会を総括してみたい。大会結果は下記のとおり。↓↓↓
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 興南(沖縄)東海大相模(神奈川)の対戦となった決勝戦。興南のエース・島袋洋奨投手と東海大相模のエース・一二三慎太投手は、今年のセンバツ大会前からそれぞれ右投・左投のナンバーワン投手と注目されていた二人で、センバツでは東海大相模が早々と散ったため対戦はなかったが、夏の甲子園の決勝戦という最高の舞台での投げ合いが実現した。結果は13対1という思わぬ大差のゲームとなったが、投手力の差はこの点差ほどではなかったと思う。東海大相模に守備の乱れが目立った。というより、興南打線の打球の速さに東海大相模の守備陣がついていけなかったというのが正しいかもしれない。一二三投手は、春負けてからサイドスローにフォームを改造して、打たせて取るスタイルで今大会に臨んでおり、言ってみれば、自分のピッチングをしたということだ。それにも勝る興南打線の破壊力だったということだろう。結果よりも、サイドスローに改造してたった数カ月で、甲子園の決勝の舞台まで上がってきた一二三投手に拍手を贈りたい。

 一方、島袋洋奨投手はさすが春の優勝投手といった圧巻の内容だった。これまでと内容を変え、変化球主体で臨んだ決勝戦。9回9安打を許しながら要所を抑え、1失点完投は見事。奪三振4という数字が、いかに打たせて取るスタイルに終始したかを裏付けている。春夏連覇は、現レッドソックスの松坂大輔投手を擁した横浜高校以来の偉業。島袋投手の今後の進路も気になるところだ。

 4強では、大会前に起稿した拙ブログの第92回全国高校野球選手権大会直前で私の注目選手として紹介した、報徳学園(兵庫)の1年生右腕・田村伊知郎投手の活躍が光った。背番号こそ11番だが、実質はエースといっていいだろう。準々決勝の新潟明訓(新潟)戦では、7回2/3を投げ5安打1失点、三振を9個奪った。残念ながら興南戦での先発はなかったが、春夏連覇を目指す興南戦に先発して、もし破ったら・・・と考えたとき、私は27年前に史上初の夏・春・夏の3連覇を目前にしていた、水野雄仁投手を擁する池田高校を、同じく準決勝で破った1年生投手、PL学園の桑田真澄投手を思いだした。背番号11で身長も小柄。そしてなんといってもクレバーなピッチング内容。まさに1年生のときの桑田投手は今回の田村投手のような感じだった。桑田投手と比較するのはまだ早いといわれるかもしれないが、私はそれほどの可能性を田村投手に感じる。彼は中学時代は普通の学校の軟式野球部出身で、硬球をさわりだしてまだ数カ月しか経っていない。伸びしろといった意味では、まだまだ計り知れない魅力があると私は思う。今後に注目したい。

 もう一校の4強、成田(千葉)は、私の中ではまったくのダークホースだった。エース・中川諒投手のキレのあるスライダーは一級品。1回戦で強豪・智弁和歌山(和歌山)を破ったときには失礼ながら大番狂わせと思ってしまったのだが、中川投手の内容をみれば9回6安打2失点で、なんと奪三振14と素晴らしい結果だった。その後も強い内容で勝ち進み堂々4強入り。1回戦がフロックでないことを証明してみせた。準決勝の東海大相模戦では19安打10失点という内容だったが、これは全試合ひとりで投げ抜いてきた疲れもあったのだろう。彼も、今後の進路が楽しみな投手だ。

 ここまで投手のことばかり述べてきたが、今大会は例年以上に攻撃力が目立った大会でもあった。2ケタ得点で勝利したチームが決勝戦も含め15試合もあり、10点差以上の大差のゲームが6試合、さらに7点差まで入れると15試合もあった。「春は投手力、夏は攻撃力が制す」と言われるが、まさに今大会は打撃優位の大会だったといえるだろう。しかし、そんな中で4強に残ったのは、上記したように投手力の優れていた4校。打撃優位だからこそ、投手力が生きる・・・といっていいのではないだろうか。

 あと、私の個人的なことだが、名前は出さないが私が毎週末に指導している少年野球チームの卒団生が今大会に出場していた。これは私が指導者をやりだしてから初めてのことで、それだけでも興奮していたのだが、その選手が今大会で大きな活躍をしてくれた。正直興奮して鳥肌が立った。そんなこともあって、今大会は私にとって忘れられない大会となった。

 さて、沖縄代表の興南の春夏連覇となった今大会。数年前、田中将大投手を擁した北海道代表・駒澤苫小牧が夏2連覇(3年連続決勝進出)という偉業を成し遂げたかと思えば、今度は沖縄の春夏連覇だ。どちらも以前は1回戦の壁すら破るのが難しかった県。昨年の夏は、新潟代表の日本文理が準優勝だったし、今大会でも新潟明訓が8強入りをしている。逆に毎回優勝候補と目される、天理(奈良)や智弁和歌山(和歌山)などが早々と1回戦で敗退など、もはや高校野球における地域格差はなくなりつつあるようだ。これは、これまであまり良い成績がない地方で甲子園を目指す球児たちにとっても、希望が持てる傾向だと思う。優勝した興南の次の目標は、史上初の春・夏・春の3連覇。これは、だいたいの場合メンバーが変わるので容易ではない。しかし、興南の打線の破壊力を見れば、島袋投手がいなくとも不可能ではないように思う。頑張ってほしい。

 気がつけばグダグダと長い講釈をたれてしまったが、語りだすといつまでたっても尽きそうもないので、この辺りで終わりにしようと思う。球児の皆さん、たくさんの感動をありがとうございました。


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by sakanoueno-kumo | 2010-08-28 03:37 | 高校野球 | Comments(4)  

龍馬伝 第34話「侍、長次郎」

 「凡そ事大小となく社中に相談して行ふべし、若し一己の利の為に此の盟約に背く者あれば、割腹して其罪を謝すべし」
 まるで新選組の法度のような厳しい戒めのこの文は、実は亀山社中の盟約文である。この同志一同血判の上成立したという盟約によって、近藤長次郎は切腹して果てた。享年28歳。

 「私共とともニ致し候て盛なるハ、水道通横町の長次郎」と、坂本龍馬が姉・乙女に宛てた手紙の中で評した近藤長次郎は、勝海舟門下生時代から龍馬が常に有能な同志と認めていた人物だった。貧しい饅頭屋に生まれた長次郎だったが、家業を手伝いながら、龍馬も影響を受けた河田小龍の墨雲洞塾に学び、その驚異的な向学心とバイタリティーによる努力の末、文久3年(1863年)には藩から苗字帯刀を許され、終身二人扶持金十両を下賜されている。一説には、海舟門下生時代、長次郎の秀才ぶりを知った諸藩が彼を扶持したいとの申し出が相次いだことから、あわてて土佐藩が藩士に取り立てた・・・との話もある。実話かどうかはわからないが、長次郎の優秀ぶりがうかがえるエピソードだ。

 亀山社中の一員となってからの長次郎は上杉宋次郎と名を変え、その才覚をフルに発揮し、隊長とはいえ不在の多かった龍馬に代わり社中の運営の中心人物となった。そして薩長同盟の前段となる長州藩の薩摩名義による武器購入に尽力し、みごとにその仕事を結実させた。武器購入の担当官として長崎に訪れていた長州藩士・井上聞多(馨)伊藤俊輔(博文)からもその功労を推重され、長州藩主・毛利敬親からも謝礼の言葉を直々に賜った。このときが近藤長次郎の絶頂期だった。多少は天狗になっていたかもしれない。同志たちの反感を買っていたかもしれない。卑賤の身から成り上がり、他藩の殿様から直々に礼を言われるまでになったこの時期、自惚れるなという方が無理だったかもしれない。

 武器購入に続いて汽船・ユニオン号の購入にも尽力した長次郎だったが、このとき長州藩とユニオン号の引渡し条件について抗争を起こしてしまう。結局その件は、龍馬の介入によって問題は解決の方向に向かってはいくものの、長次郎は最後まで激しく抵抗し、納得はしていなかったという。そんなことも背景にあってか、長次郎は「英国留学」という野心をいだき、社中の同志には秘密で密航を企てた。慶応2年(1866年)1月14日、かねて依頼していたグラバーの船にいちどは搭乗したが、おりあしく風浪のため出航が1日延び、やむなく上陸したところ、計画を社中の同志たちに察知されてしまう。同志たちは長次郎を小曽根乾堂の邸に呼び出し、そして盟約違反を沢村惣之丞に告げられ、弁解しようとしたが一切聞き入れられず、やがて同志が設けた席に端座したまま、さびしく腹を切ったと、「維新土佐勤王史」は伝えている。また、毛利家文庫旧蔵の「土藩坂本龍馬伝」などには、ユニオン号所有問題にからんで薩長両藩に行き違いを生じさせたことへの責をとって自刃したとの説も伝わる。

 このとき長崎に不在だった龍馬は、のちにお龍「長次さんはまったく一人で罪を引き受けて死んだので己が居つたら殺しはせぬのぢゃつた」と語っている。しかし、長次郎の死を知った直後の龍馬の手記には、「術数有リ余ッテ至誠足ラズ。上杉氏(長次郎)之身ヲ亡ス所以ナリ」と記している。決して殺させはしなかったとしながらも、長次郎のありあまる「術数」による独断行為は、龍馬にとっても不快なものだったようだ。

 のちに作られた「海援隊約規」では、違背者の処分は隊長である龍馬に一任されている。これはおそらく、長次郎の死の轍を踏まえてのものだったのだろう。


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by sakanoueno-kumo | 2010-08-25 00:52 | 龍馬伝 | Comments(4)  

終戦記念日ドラマ、「歸國(きこく)」を観て。

 終戦記念日の特別ドラマ「歸國」を観た。物語の内容は、六十余年前に戦死した兵士たちが数時間だけ現代の日本に帰国し、その英霊たちの視点で現代社会を考えるというもの。国のために死んだ者にとって、今の日本は正しいのか、彼らが願った平和とはこのようなものだったのかといったテーマで、毎年この時期に制作される“反戦”をテーマとしたドラマとは趣を異にする内容だった。

 率直な感想から言うと、設定は面白かったが取り立てて何かを考えさせられるというものではなかった。そもそも戦前戦中の日本と、現代の日本のどちらが正しいかなどと比べること自体ナンセンスなこと。昔は昔の良いところ悪いところがあり、現代もまた同じ。「豊かさと引き換えに大切なものを失った。」などといった論調は使い古されたテーマで、そんなことは改めてドラマで伝えてもらうまでもなく、現代人は皆、大なり小なりそれを感じながら今を精一杯生きている。何かを得たら何かを捨てなければならないのは常で、問題を解決すれば、また新たな苦労や苦悩が生まれるのもまた常だ。昔の価値観で今を批判することも、また今の価値観で過去の罪を問うことも私は共感できない。終戦記念日にはこういったテーマのものよりも、例年どおり戦争を直視するような作品をつくり、それを観た個々がそれぞれに何かを感じることのほうが、戦争を風化させないということになるのでは、と私は思う。

 そんな中でも、いくつか印象に残るシーンがあった。8月15日の早朝、政府閣僚の靖国神社参拝に向けてマスコミが大勢集まって来ているのを見た英霊たちのの会話。
「国としての公式参拝が認められていないのか?」 
「この戦争の指導者が合祀されているから駄目だという人もいます。」
「国のために死んだ俺たちを、国の責任者が参拝するのは当然の義務なんじゃないのか!」 
「報道はどっちの味方だ?参拝するべきと思っているのか、するなと思っているのか?」
 
「どっちでもありません。奴らは要するにそんな国の要人の姿を世界に報道したいんでしょう。奴らに愛国心はないみたいですよ。」
 物語の本筋とは直接関係がなく、脚本家の意見を英霊たちの口を借りて述べた観がアリアリのシーンだが、確かに英霊たちにこれを言われるほど説得力のあることはない。そしてこのシーンを作っているのが“奴ら”呼ばわりされているマスコミだというのもまた面白いところだ。さらに、奇しくも今年の終戦記念日、この30年で初めて閣僚が一人も公式参拝しなかったという事実も加わって、よくぞ言ってくれた観あり。おそらく菅さんはドラマは観ていないだろうが・・・。

 もうひとつ印象に残ったシーン。ドラマ終盤で生瀬勝久さん扮する報道官の霊が言った言葉。
「人間は二度死ぬ。一度目は肉体的に滅んだとき。二度目は完全に忘れられたとき。」
 英霊であれ普通の霊であれ、この世に“霊魂”というものがあるとするならば、それは残された人の心の中にあるもの・・・だと私も思う。亡くなったその人を思い出してくれる人が生きているかぎり、その心の中に故人の霊も生き続ける。その心を持った人が全てこの世からいなくなったとき、霊魂も消えるときだと・・・。その論でいえば、もうすぐ戦死者たちを思い出すことのできる人たちがこの世からいなくなるわけで、英霊たちも英霊ではなくなるということ・・・。そうなったときの日本が、過去の戦争をどのように認識しているかは私にはわからない。

 こういった話題になると、私はいつも思うことがある。私たち戦後生まれの者には、戦前責任も戦中責任もない。しかし、未来に起こるかもしれない戦前責任は、私たちにもある・・・と。


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by sakanoueno-kumo | 2010-08-17 21:28 | その他ドラマ | Comments(8)  

龍馬伝 第33話「亀山社中の大仕事」

 一度レールを外れてしまった「薩長和解」への道を、再び軌道修正することは至難の技だっただろう。ここから歴史は坂本龍馬を必要とする。薩摩と長州の和解・提携の仲介として奔走しはじめたのは、実は龍馬よりも中岡慎太郎・土方楠左衛門の二人の方が先だった。龍馬がこれに加わったのは、慶応元年(1865年)4月、土方と京で面談した際にこの企てを聞き、同調し関わっていったと考えるのが正しいようだ。言ってみれば、龍馬は慎太郎たちの推進する仕事の「お手伝い」をしていたにすぎなかったのかもしれない。西郷隆盛桂小五郎の下関会談の失敗までは・・・。

 龍馬は薩の側から、慎太郎は長の側から西郷を説いた。特に龍馬より長く両藩和解のために尽力してきた慎太郎は、薩長が手を結ぶことの必要性を激しく説いたという。しかし断交状態にある二つの雄藩のそれぞれの事情は、「道理」では容易に動けなかった。そこで龍馬が考案したとされるのが、前話で言った手みやげ話、薩摩名義で武器や船舶を購入し、長州へ回送するというプランだった。これは慎太郎には考え及ばない、亀山社中という組織を持つ龍馬だからこその発想だった。要は道理ではなく、「実利」なのだ。この着想が、坂本龍馬と亀山社中を歴史の表舞台へ一気に押し上げることとなる。

 幕府は諸藩に長崎で直接外国から武器を購入することを禁じていた。しかし、第二次長州征伐を控えて、幕府に味方する諸藩の貿易は黙認されていた。薩摩名義で武器を購入するということは、つまり長州を攻めるための武器ということ。その武器が実は長州の手に渡るというのだから、薩摩にとっては幕府に対してとんでもない反逆行為となる。西郷が慎重になるのは無理もないことだった。一方で壊滅寸前の長州にとっては喉から手が出るほど欲しいもので、これほどの誠意はない。この「実利」によって、薩長和解のステップを一歩進んだわけだが、このままでは一方的な薩の援助になってしまうと懸念した龍馬は、次に、長から薩への援助のプランを提案する。薩摩藩士が上洛し、征長戦を阻止するために必要な兵糧米が不足しているため、下関で米を売ってはもらえぬかというものだった。長州は快諾した。しかし結局この兵糧米の受け取りを西郷は「長州国難」を理由に辞退する。それが西郷の誠意だった。こうして互いの「実利」というステップを踏みながら、薩長二藩は次第に接近していった。やはり、前回の下関会談は少々事を急ぎ過ぎていた。両藩の同盟締結までには、まずはこうした「和解」のための下準備が必要だったのだ。その「実利」という下準備の着想は、坂本龍馬が歴史に残した最初の奇跡だと私は思う。

 ドラマ中、英国商人・トーマス・ブレーク・グラバーと龍馬の密談シーンは実に面白かった。実際に龍馬がどのようにしてこの武器購入の話を持ち掛けたかはわからない。一説には、この「実利」のアイデア自体、実はグラバーが龍馬に入れ知恵したものという説もあるらしい。実際グラバーは後年の回想談で、「薩長の間にあった壁を壊したのが、自分の最大の手柄」であり、「徳川政府の謀反人の中では、自分が最大の反逆人であった。」と語っていることから、この説もまったく否定できないかもしれない。私は以前、第30話「龍馬の秘策」の稿で、龍馬たちの後ろ盾となったのは商人たちだった、と述べたが、その意味では、この後龍馬の最も力になったのは、このグラバーだった。龍馬とグラバー。この二人の出会いも、龍馬と勝海舟の出会いと同じぐらい、運命の出会いだったと私は思う。


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by sakanoueno-kumo | 2010-08-16 01:31 | 龍馬伝 | Comments(0)  

明治は遠くなりにけり。 100歳以上の高齢者所在不明問題に思う。

 全国で100歳以上の高齢者の所在不明が相次いで明らかになっている問題が、先日より世間を騒がしています。なかでも、私の住む神戸市ではとりわけひどく、同市内に住民登録されている100歳以上の高齢者847人のうち、1割を超える105人の所在が確認できていないそうです。全国で所在不明者が100人を超えた自治体は神戸市が初めてだとか。また、国内最高齢者といわれた、東大阪市に住む119歳の女性の所在不明も判明していましたが、神戸市では、それを超える125歳の女性の住民登録が東灘区で確認され、しかも所在がわからないそうです。神戸市は阪神淡路大震災以降、市の人口の約3分の1が入れ替わっていると聞きます。そんなことも影響しているのかもしれませんね。とはいえ、神戸市民としては不名誉なことです。

 「崩れゆく"長寿国"ニッポン」などと題してマスコミでは報じられていますが、そのこと自体は私はさしたる問題ではないと思っていますが、この騒ぎで一番に思ったことは、所在不明の人たちにも年金は支給され続けているのでしょうか? であれば、なかには年金を不正受給するために、あえて死亡届を出していない、なんてケースもあるんじゃないでしょうかね。そのあたり、もっとしっかり調べてほしいところです。

 今回の報道で、100歳以上の高齢者が全国で約4万人ほどおられるということを知り、思った以上に多くて驚きました。で、平成22年現在、ちょうど100歳の方が生まれた1910年を調べてみると、明治43年なんですね。ということは、2年後には大正元年生まれの方が100歳になるわけです。私が子どもの頃は、お年寄りといえば「明治生まれ」という印象だったんですが、考えてみれば昭和一桁生まれの方は今で言う「後期高齢者」なわけで、明治生まれの方は今では希少な方々なんだと今更気が付きました。いつの頃からか、生年月日を記入する書類の欄から「M」の記載がないものが増えました。あと20年・・・いや15年もしたら、世の中から明治生まれの方はいなくなっちゃうんですね。明治という時代が、本当の意味で歴史になろうとしている・・・そんなことを、この度の騒動とは関係なく、ふと感じました。

 明治後半に生まれ、大正、昭和、平成と生きてこられた方々は、日本の歴史の中でも特に激動の時代を生きてこられた方々だと思います。「元お侍さん」なんて人がまだ多く生きていた時代に生まれ、二つの世界大戦を経験され、戦後の焼け野原から高度成長期を支え、人類が月に降り立つなんて科学の進歩を横目で見ながら、経済大国ニッポンになるまでの一部始終を見てきた方々なんですよね。これだけ激動の時代を生きた日本人は、他のどの時代にもいないでしょう。例えば、戦国時代、信長、秀吉、家康の全ての時代を生きた侍でも、この方々にはかないません。昭和42年生まれの私などは、四十余年生きてきましたが、生まれたときからテレビも冷蔵庫も洗濯機もあって、分野分野では目まぐるしい発展を遂げたものもありますが、相対的に見れば、大きくは変わっていません。おそらくあと半世紀生きても、そう変わり映えしない世の中でしょう。もっとも、変わり映えは望んでいませんけどね(笑)。明治という時代に生まれた方々は、自分がその時代に生まれたことをどう思っているのでしょうかね。聞いてみたい気がしますが、そう思ったとき、私の身辺の明治生まれの人は皆、この世にはもういません。

 現在、所在不明になっている方々は、ただ単に長生きしたというだけではなく、後の世の多くの歴史家たちが研究するであろう歴史を生きてこられた方々なんですね。そんな歴史的価値のある人生がいつ終わったかわからないなんて、方々に対して失礼だと思いませんか。もし年金の不正受給のダシに使われているなんて人がいれば、とんでもない話です。きっと草葉の陰で激怒していることでしょう。 「私の生きた証をちゃんと残してくれ!」と・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2010-08-11 22:43 | 時事問題 | Comments(4)  

龍馬伝 第32話「狙われた龍馬」

 慶応元年(1865年)閏5月、下関での西郷隆盛桂小五郎の会見計画に失敗した坂本龍馬中岡慎太郎は、その10日後、西郷を追いかけるように下関から京に向かってたった。無論、西郷をもう一度説得するためだった。西郷がなぜ、一旦は決めたはずの下関行きをドタキャンしたのかは歴史の謎である。ドラマでは幕府の隠密が船に忍び込んでいたという設定だったが、他の物語などでは、大久保利通から緊急の書簡を受け取ったためというものや、長州との和解はこの時期まだ西郷ひとりの意見で、薩摩藩内では反対意見が多く迷っていたとするものなど、理由は様々だ。私が思うには、前話の第31話「西郷はまだか」でも述べたように、この時期の薩摩側が期待していたのはあくまで「和解」であったのに対し、長州側や龍馬、慎太郎たちが求めていたのはその先の「提携」であり、ことが近づくにつれその「温度差」を感じた西郷は、土壇場になって消極的になった・・・といったところではないかと思っている。この「温度差」があったからこそ、この翌年に行われる両藩の最終会談の場に至ってもこじれ合うこととなり、結局は龍馬の出馬を必要とするに至るわけだが、それは後の話に譲ることにしよう。

 ドラマ中、寺田屋で新選組局長・近藤勇と遭遇した坂本龍馬。龍馬と近藤に面識があったという記録は残っていないが、これ以後も頻繁に京の地に足を踏み入れていた龍馬が、新選組とまったく関わりがなかったと考えるのも無理があるだろう。一度や二度は、剣を交わしたこともあったかもしれない。

 興味深い話がある。司馬遼太郎著の「竜馬がゆく」の中で、巡察中の新選組と龍馬が路上で出くわすという場面がある。殺気立つ新選組隊士を目の前にして、龍馬は突然路傍の子猫を抱き上げ、頬ずりしながら悠々と敵の隊列の中を通り抜けてしまったというエピソード。敵の気を抜くという大胆な戦法なのだが、この痛快なエピソードがなんと実話だったという。大正3年(1914年)に刊行された千頭清臣著「坂本龍馬」の中にその元となった記述がある。
 「慶応元年四月五日(略)、龍馬は同志高松太郎、千屋寅之助等を従へて嵐山に遊び、帰途偶々会藩主の武装して巡羅するに会ふ。龍馬、高松を顧みて曰く、君果して之を横断するの勇ありやと。高松瞠目して一語なし。龍馬突如として路傍の子犬を抱き、余念なげに之に頬擦しつつ歩を会士の中央に運ぶ。会士喫驚して覚えず途を開く。龍馬悠々として之を横ぎり、高松、千屋等辛じて龍馬に次げり。」
 同書は龍馬の伝記としては評価の高いものである。その序文には、龍馬の死後、明治まで生きた海援隊士の直話をもとにしたものと書かれていて、文中に登場する高松太郎千屋寅之助(菅野覚兵衛)はいずれも明治中期まで生きた人物である。子猫ではなく子犬、また新選組ではなく会津藩の巡察隊となっているが、会津藩支配下の新選組は広い意味では会津藩の巡察隊には違いなく、当時の記録には両者を混同してしまっているものも多いらしい。このエピソードからわかるのは、新選組と遭遇しても動じない龍馬の姿。そんな彼だったからこそ、四方八方敵だらけの京に何度も足を踏み入れ、身の危険を顧みず大仕事が成し得たのだろう。そんな龍馬像がうかがえる痛快なエピソードだ。

 本稿では、今話とはあまり関係ない話をさせてもらった。今話で龍馬と慎太郎が西郷を動かした件については、次週の第33話「亀山社中の大仕事」に譲りたいと思ったからだ。龍馬の本当の活躍はこれからである。


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by sakanoueno-kumo | 2010-08-09 01:41 | 龍馬伝 | Comments(0)  

第92回全国高校野球選手権大会 直前

 さて、今年も7日(土)から高校球児の熱い日々、夏の高校野球甲子園大会が始まる。今年から我が愚息も高校球児となり(地区予選で早々に散ったが・・・)、例年以上に高校野球を身近に感じている。先日抽選会が行われ、組み合わせは下記に決まった。↓↓↓
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 センバツ優勝の興南(沖縄)は、4日目第4試合で鳴門(徳島)との対戦となった。興南の左腕・島袋洋奨投手の快投が楽しみだ。優勝すれば史上6校目の春夏連覇となるが、同ブロックには明徳義塾(高知)や仙台育英(宮城)など強豪が揃っていて、そう容易くはなさそうだ。一方で、センバツ準優勝だった日大三(東京)は今回出場を果たせなかった。日大三のような名門校でも、春夏連続出場というのは容易ではないということだろう。

 センバツで注目されながらも1回戦で甲子園を去った、東海大相模(神奈川)の右腕・一二三慎太投手が、春の雪辱を果たすべく、また甲子園にやってきた。184センチの長身から投げ下ろす角度のある速球はMAX149キロ。不完全燃焼で終わった春以来、一時は制球難で苦しんでいたそうだが、ここに来てまた調子を取り戻したらしい。春じっくり見れなかったので、今大会では勝ち上がってその実力を見せてほしいところだ。

 私の注目選手は、我が兵庫県代表の報徳学園(兵庫)の1年生右腕・田村伊知郎投手。背番号は二桁だが、1年生ながら名門・報徳学園のベンチ入りを果たし、準々決勝の市神港戦では6回を無安打ピッチング、準決勝ではセンバツ出場校の神戸国際大付を相手に8回を2失点に抑えた。まさにスーパー15歳の出現だが、驚くことに彼の中学校時代は普通の公立中学の軟式野球部出身。硬球をさわりだしてまだ4ヶ月ほどということだ。まだまだ伸び代を感じる田村投手を今後も注目していきたい。(私の息子も同じ兵庫県の1年生なのだが・・・)

 あと、ここでは名前は出さないが、私が毎週末に指導している少年野球チームの卒団生が、実は今大会に出場している。これは私が指導者をやりだしてから初めてのことで、非常に興奮している。是非頑張ってほしい。

 先日、センバツ優勝校の興南が沖縄代表に決まった後に練習試合を行ったということで、大会本部から注意処分を受けたという報道があった。理由は大会規定に、公平性を期すため地方大会開始後は全国選手権(甲子園)も含め、参加チームが敗退するまで対外試合ができないという決まりがあるらしい。規則である以上、守らなかった興南の指導者は注意を受けて然るべきかもしれないが、しかし、この規定はどういう意図のものだろう。「公平性」という理由で考えれば、そもそも地区によって不公平はある。大阪や神奈川、兵庫といった激戦区は、つい先日まで地区予選を戦っているのに対し、沖縄は47都道府県の中で一番早く代表が決定する。大阪代表が8月1日に決定したのに対して、沖縄代表が決定したのは7月18日で、約2週間もの差があるのだ。甲子園大会までとなると3週間、試合勘という観点で考えれば、これは明らかに不利なことだ。調整試合を行いたくなるのも無理もないこと。公平性というならば、本大会開催何日前というような規定に変えるべきではないだろうか・・・。

 とにもかくにも、今年もまた球児たちの熱い夏が始まる。
 いざ、熱闘甲子園!


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by sakanoueno-kumo | 2010-08-05 21:51 | 高校野球 | Comments(4)  

龍馬伝 第31話「西郷はまだか」

 慶応元年(1865年)閏5月頃、坂本龍馬は長崎において海運、貿易を業とする「商社」とでもいうべき団体を組織する。その名は「亀山社中」。本拠を亀山においたことからそう名付けられたといわれるが、実はこの名称は当時の史料には一切出てこないらしい。確認できる同時代の史料には「社中」とだけ記されていて、「亀山」という地名がついたものは残っていないそうだ。社中のメンバー・近藤長次郎の書簡や、後に土佐商会主任・長崎留守居役となった岩崎弥太郎の日記などにも「社中」としか記されていない。単に省略されただけとも解釈できるが、後の海援隊士・関義臣が明治になって語った回顧談に、「初めは唯、社中々々と称ったのを、土州藩に付属して後、海援隊と名づけた」という談が残っており、やはりどうやら当時は「社中」とだけ称していたようだ。「亀山社中」という名は、後世の史家によって名付けられたものだろう。

 坂本龍馬が大宰府を訪れたのは、慶応元年(1865年)5月23日、翌日24日には、この2年前の「八月十八日の政変」で京を逃れ長州に落ち、翌年の「第一次長州征伐」によってこの大宰府で幽閉生活を送っていた三条実美に謁し、その翌日には同じく幽閉生活中の東久世通禧に謁した。龍馬の目的は彼らに「薩長同盟」の趣旨の理解を得、長州と連絡をつけることにあった。龍馬と会談した東久世の日記には「龍馬面会、偉人なり。奇説家なり」と記されている。そう、この時点では、龍馬の説くところはまだ「奇説」でしかなかった。

 ようやく登場した盟友・中岡慎太郎武市半平太が投獄された文久3年(1863年)に脱藩した彼は、以後長州藩士と行動を共にし、「禁門の変」においても長州側として薩摩と戦っていた。言ってみれば、長州人と同じく「薩賊憎し」の立場にあるはずだった。一説には、薩摩藩国父・島津久光の暗殺を企てたこともあったという。そんな慎太郎が言う。
 「実はのう龍馬。わしもおまんと同じ考えを持っとったがじゃ。長州を助けるためには薩摩と手を組む以外にない。」
 ドラマ中、慎太郎が龍馬に言った言葉だが、まさしくそのとおりのようで、むしろ慎太郎の方が先に着想し行動していたといってもいい。この時期より3ヵ月程前の2月8日、中岡慎太郎と同じく土佐藩士・土方楠左衛門の二人は、下関の豪商・白石正一郎邸にて、薩摩の吉井幸輔、長州の三好内蔵助を加えて薩長和解を協議していた。その後上京した慎太郎と土方は常に薩摩屋敷に泊まり、同藩士の護衛をうけている。すでに二人は薩長間を奔走していた。そして幕府の「長州再征」にあたっていよいよ薩長和解の必要を痛感した彼らは、西郷隆盛が上京する際、何としても下関に立ち寄らせようと考え、慎太郎は直接薩摩へ、土方は長州へそれぞれ二手にわかれて薩長を説きに向かった。龍馬が大宰府に訪れたのはそんなときだった。そして閏5月15日、白石正一郎屋敷で龍馬と土方が会うのだった。

 龍馬と土方は桂小五郎を説得した。しかし桂は薩摩への恨みを拭いきれないでいる。無理もない。長州が今瀕死の状態にあるのも、薩摩が土壇場で会津と組んだからだ。桂自身もそれ以来、京で、但馬で潜伏生活を8ヵ月も送っている。聡明な彼のことだから、龍馬と土方の説くところの必要性は十分に理解出来ただろう。しかしそれにも勝る恨みがあった。龍馬は説きに説いた。ようやく納得した桂は、下関で西郷を待つと約束し、龍馬とともに閏5月21日まで待った。

 しかし、薩摩へ西郷を説きに行った中岡慎太郎は、茫然とひとりでやってきた。西郷は来なかったのである。彼は確かに慎太郎の説くところを了承し下関へ向かったのだが、閏5月18日、佐賀まで来たとき、「幕府征長に反対する朝議を固めるのが先決」と称して中岡を佐賀に下ろし、京へ直行してしまった。桂は怒った。当然だった。

 薩摩と長州が手を結ぶには、まだ時間が必要だった。慎太郎や土方、そして龍馬も、少し事を急ぎ過ぎた。薩摩と長州はまだ「和解」もしていなかったのである。その「和解」を飛び越え、いきなり「提携」すなわち「同盟」に進もうとした。これが失敗だった。

 ここまでの働きは、龍馬よりもむしろ中岡慎太郎と土方楠左衛門の働きが大きかった。ここからが龍馬と「亀山社中」の出番である。彼らが「和解」のための材料を用意し、やがては「同盟」に結びつけるまで、まだあと8ヵ月ほどの時間が必要だった。


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by sakanoueno-kumo | 2010-08-03 03:02 | 龍馬伝 | Comments(0)