<   2010年 09月 ( 15 )   > この月の画像一覧

 

阪神タイガース歴代ナンバーワン捕手・矢野燿大選手引退。

 阪神タイガース・矢野燿大選手の引退セレモニーが、甲子園球場で行われました。リーグ優勝に一路の望みを残しているタイガースにとって、今日はどうしても負けられない試合。矢野選手の出番を作るには、早いイニングで勝ちを決めて、余裕のある状況を作らなければなりませんでした。3対1とタイガースの2点リードで迎えた9回表、決してセーフティリードとはいえないものの、おそらく2アウトランナー無しの形を作れば、最後の1人の場面で矢野捕手のマスクという絵は描けてたと思います。が、残念ながら、そうはならなかったばかりか、痛恨の逆転3ランを浴びるという、最悪のシナリオとなってしまいました。打たれたのは守護神・藤川球児投手で、勝ちゲームの最終回のマウンドに彼が立つのは当然の策なわけで、それで負けたのだから誰も責めることは出来ないわけですが、本塁打を打たれる前の2つの四球が、もし、矢野捕手を出場させるために打たれたくないという力みから来たものだったとすれば、それは本末転倒のような気もします。引退試合である矢野捕手の出場はファンの期待するところでしたが、優勝争いをしているタイガースにとっては何より勝利が最優先であるべきだったわけですから・・・。結局、矢野捕手の引退試合を勝利で飾ることが出来なかったばかりか、タイガースのマジックは消滅、逆にドラゴンズにマジック1が点灯するという、なんとも後味の悪い試合となってしまいました。

 矢野燿大選手は、1990年のドラフトで中日ドラゴンズから2位指名を受け入団したものの、当時のドラゴンズには中村武志選手という絶対的な正捕手がいて、控え捕手でしかありませんでした。一時は打撃を買われ外野手に転向したこともあったようです。1997年のオフ、トレードでタイガースに移籍。そこから彼のプロ野球人生が始まったといっても過言ではないかもしれません。移籍後2年目には、野村克也監督との出会いがあり、のちに「いまの僕があるのは、野村監督の教えがあったから。」と彼自身が語っているように、そこで捕手としての頭脳を徹底的に磨かれ、今世紀に入ってからはセ・リーグを代表する捕手となりました。ベストナイン3回、ゴールデングラブ賞2回、オールスター出場7回、日本シリーズ敢闘賞1回と、その記録を見ても、まぎれもなく、阪神タイガースの歴代ナンバーワン捕手といっていいのではないでしょうか。

 試合後のセレモニーで矢野選手は、「ファンのみなさんに感謝、感謝、感謝です。」と涙を浮かべて語っていました。9月初めの引退発表の記者会見で、「まさかこの年まで野球ができるとは・・・何年でクビになるのかな、というところからスタートして、タイガースでこんないい思いができるとは思いませんでした。」と語っていた彼にとって、この感謝の言葉は本当に心から出た言葉なのでしょうね。今シーズン、城島健司捕手の獲得が決まったとき、今日のこの姿はなんとなく想像できてしまいました。ケガが引退の理由ですが、ケガがなくともこの日は来たかもしれませんね。実力勝負の世界ですから・・・。しかし、田淵幸一捕手が退団して以来、20年以上定まらなかったタイガースの正捕手の座に何年もすわり、2度のリーグ優勝という強いタイガースの復活を牽引したのはまぎれもない事実で、私たちタイガースファンにとっても感謝の気持ちでいっぱいです。「皆さんの前に戻ってこられるように勉強してきたい。いつの日か、この甲子園で会いましょう。」と語っていましたが、その言葉どおり、指導者として、または監督として、縦じまのユニホーム姿を見せてほしいものです。

 矢野燿大選手、本当にお疲れ様でした。


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by sakanoueno-kumo | 2010-09-30 23:43 | プロ野球 | Trackback | Comments(4)  

福岡ソフトバンクホークスの奇跡の優勝と、競り弱い阪神タイガース。

 プロ野球パ・リーグのペナントレースは、福岡ソフトバンクホークスの奇跡の逆転優勝で幕を閉じました。残り6試合で3.5ゲーム差という絶望的な状況からの逆転優勝は、まさにミラクルといっていいでしょうね。逆にひっくり返された埼玉西武ライオンズは、球史に残る痛恨の2位ですね。まさに勝負は下駄を履くまでわからない・・・西武の選手たちは下駄を見失っていたのかもしれません。勝負事というのは、必ずしもリードしているほうが有利だとは限らないんですね。追う側が勢いにのれば、逆に追われる側は必要以上に気力・体力を消耗するもので・・・。結果、持てる力を発揮することができなかったということはよくあることです。

 さて、セ・リーグに目を移してみると、これまた不思議な現象が起きています。我が愛する阪神タイガースマジック8が点灯しているわけですが、戦況はソフトバンク以上に厳しい状況。マジックが点灯するということは、他のチームの自力優勝が消えたということですから、この場合、タイガースだけが自力優勝の可能性を残しているということで、優勝に一番近いチームのはずなんですが、現状そうではありません。首位の中日ドラゴンズは残りヤクルト戦1試合。その1試合を中日が勝利すれば、タイガースは残り9試合で8勝しなければならず、つまり自力で8つマジックを減らさなければならないという、極めて厳しい自力優勝の可能性です。これはマジックとはいえませんね。まあ、2位のチームにマジックが点灯するというのは珍しいことではありませんが、そのほとんどの場合、マジック2とか3ぐらいの数字で、今年のような例は珍しいと思います。このままドラゴンズが優勝すれば、セ・パ両リーグ共、マジック点灯チームが優勝を逃すという、これまた珍しいシーズンとなりそうです。

 可能性は極めて低いですが、ホークスのミラクル優勝を目の当たりにした今、タイガースもぜひ奇跡にあやかってほしいものですが、競り弱いんですよね・・・タイガースというチームは・・・。私が物心ついてからのタイガースは、1985年、2003年、2005年の3度の優勝しかありませんが、いずれもぶっちぎりの逃げ切り優勝なんですよね。その間、混戦の優勝争いに加わったことも何度かありましたが、競り合いになると、土壇場で浮足立っちゃうんですよね。その例でもっとも有名なのは、1973年、読売ジャイアンツ9連覇達成の年です。タイガースに待望のマジック1が点灯して迎えたシーズン129試合目の中日戦。この試合に勝つか引き分けるかでジャイアンツの9連覇の夢は断たれ、タイガースの9年ぶりの優勝が決まるはずでした。観測としてドラゴンズはジャイアンツよりタイガースに優勝して欲しいはずで(報知新聞と中日スポーツはライバル関係であるため)、もうタイガースの優勝は決まったようなものだと誰しも考えました。ところが優勝へのプレッシャーにコチコチになった阪神が「打たせてやろう」というドラゴンズ星野仙一投手の球に凡打を繰り返し、タイガース江夏豊投手もまた調子が上がらず失点を許し、勝てるはずの試合を落としてしまいます。そんな状態で迎えた甲子園でのジャイアンツとの最終戦は、あまりにも無残な結果に終わり、手中にしていたはずのペナントを逃すこととなりました。

 似たような年がもうひとつ。中村勝弘監督率いる1992年。2年連続最下位という不名誉なチーム状況で迎えたこの年、新庄剛、亀山努といった若返りに成功したタイガースは快進撃をみせ、野村克也監督率いるヤクルトスワローズと一騎打ちの優勝争いをしていました。ところがマジックが点灯すると途端に失速し始め、残り15試合を4勝11敗。結果、シーズン132試合中131試合目で優勝を逃します。この年の129試合目も73年と同じく名古屋球場のドラゴンズ戦。ドラゴンズの星野監督は、このときタイガースに勝たせてやろうと、二戦級の投手から順番にマウンドに立たせるものの、やはりコチコチになったタイガース打線は凡打を繰り返し完封負け。その後甲子園に戻ってのスワローズとの直接対決では、マウンドに送り込まれるタイガースの投手が皆、緊張してストライクが入らないという散々な内容でした。結果はいうまでもありません。

 最近では2006年、首位を走る中日ドラゴンズを、10ゲーム以上離れていたところから猛追したものの、0.5ゲーム差まで詰め寄ったところで直接対決で叩かれ2位。2008年には逆にシーズン序盤から首位を独走していたものの、シーズン終盤に一時は13ゲーム差をつけていたジャイアンツに逆転され優勝を逃すなど、とにかく競り合いに弱いのが阪神タイガースのチームカラーなんですよね。これって関西の地域色でもあるのでしょうか(苦笑)。冒頭で、「勢いにのる」という言葉を使いましたが、タイガースというチームは、ほんと、勢いに乗るのが下手なチームです。

 とはいうものの、可能性がある以上応援します。実際ホークスが奇跡を見せてくれてますからね。セ・パ両リーグとも逆転優勝チーム同士で、ミラクルな日本シリーズが見たいものです。・・・・・あっ、優勝しても日本シリーズが決まるわけじゃないんだ・・・忘れてました(笑)。


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e0158128_2355234.jpg9月28日 23:45追記
本文とは全く関係ありませんが、さっき当ブログにログインしたら、
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by sakanoueno-kumo | 2010-09-28 01:32 | プロ野球 | Trackback(1) | Comments(6)  

龍馬伝 第39話「馬関の奇跡」

 おそらく最終章となる第4部のスタート。第1部から3部までと同様、のちに三菱会社社長となった岩崎弥太郎と、そこに取材に訪れた記者・坂崎紫瀾との会話で始まった。弥太郎が不機嫌になっていた新聞小説「汗血千里の駒(かんけつせんりのこま)」は、以前「坂本龍馬が日本史のスターになった理由。」の稿でも紹介したとおり、1883年(明治16年)に高知の土陽新聞に連載された坂崎紫瀾著の小説で、当時、歴史に埋もれかけていた坂本龍馬の名を再び世に知らしめた作品である。以後、多くの作家たちによって執筆された「龍馬伝」は、すべてこの作品がベースとなっている。

 土佐藩家老・後藤象二郎に藩の商務組織・土佐商会主任・長崎留守居役に抜擢され、藩の貿易に従事することになった弥太郎だが、実はそれは今話の設定より半年ほどのちのこと。おそらく次話の、後藤象二郎と坂本龍馬の会見に弥太郎を絡めたいために、前倒しにしたものと思われる。慶応3年(1867年)4月に龍馬の脱藩の罪が許され、亀山社中海援隊として土佐藩の外郭機関となると、弥太郎は藩命によって隊の経理を担当することとなる。ドラマでは龍馬と弥太郎が幼馴染だった設定になっているが、記録上確認出来る弥太郎と龍馬の最初の接点はこの時期である。しかし、このドラマのみならず、司馬遼太郎著「竜馬がゆく」や、村上元三著「岩崎弥太郎」などの伝記小説でも、この二人に若い頃から接点を持たせている。おそらくそれは、のちに海援隊の商務の部分を継承するかたちとなった弥太郎と、その商才に多分な影響を与えたであろう龍馬との関係を、単に隊長と経理担当としてだけの関係ではなく、多少運命的なものにしたいという作者の思惑からだろう。ちなみに、上記両作品でもドラマと同様、龍馬と弥太郎はそりが合わない。というより、弥太郎が龍馬に対して妬みやっかみの感情を抱く。本当にそのような関係だったかどうかはわからないが、もし違うとすれば、いつも龍馬の引き立て役になる弥太郎はつくづく可哀想な男だ。

 薩摩で3ヵ月ほどの日々を過ごした坂本龍馬は、慶応2年(1866年)6月、ユニオン号改め桜島丸、さらに名を改めた乙丑丸に乗って鹿児島を発ち馬関に向かった。龍馬たちが下関に入港したとき、長州・幕府の間ですでに火ぶたが切られており、防長四境は砲煙に包まれていた。幕府軍は陸では長州勢に勝てないばかりか、農民の一揆におびやかされ、容易に進むことすらできない。かたや長州軍は、「兵を行(い)ること迅速神の如し」といわれた天才・高杉晋作を海軍総督として、この年買い込んだオテント丸と、鹿児島から帰ってきたユニオン号の2隻を主力として、6月17日、海を渡って門司に奇襲をかけて幕府軍を打ち破った。龍馬もこの開戦にユニオン号を指揮して参戦したといわれるが、一説では、船を指揮していたのは亀山社中の菅野覚兵衛で、龍馬は直接参加せずに本陣か小高い山の上から見物していともいわれる。龍馬が実兄・坂本権平に宛てた手紙にその報告が記述されている。
 「頼まれてよんどころなく長州の軍艦を率いて戦争せしに、是は何事もなく、面白き事にてありし。惣て咄しは実とは相違すれど、軍は別して然るもの也。之を筆にし差上げても、実となさずやも知れず。一度やつて見たる人なれば咄しが出来る。・・・(中略)・・・私共、兼ねて戦場と申せば人夥多しく死するものと思ひしに、人の十人と死するほどの戦なれば、余ほど強き軍が出来ることに候」
 この手紙には海峡をスケッチした海戦図も描かれており、やはり船には乗り込まず傍観していたと考える方が正しいのだろうか。いずれにしても、この海峡戦ではオテント丸の活躍がもっともはなやかで、ユニオン号は早めに戦線を退いている。しかしユニオン号の参戦は、長州軍の士気を高めた点では、なみなみならぬものがあったようで、龍馬ものちに人に向かって「これで少しは長州へ恩返しができた」と語ったそうである。

 この長州・幕府戦争で龍馬がもっとも恐れていたのは、幕府が勝海舟を起用し、彼の指揮によって幕府海軍をもって下関海峡を封鎖するのではないかということだったようで、その懸念を木戸孝允(桂小五郎)に宛てた手紙の中でも述べている。実際この6月、海舟は幕府軍艦奉行に復帰していた。あるとき一橋義喜(のちの徳川慶喜)に向かって、「もし真実長州征伐の必要があるなら、諸侯は頼むに足らず、私に軍艦四五艘お貸しくだされば、馬関は暫時のうちに乗りとってご覧に入れましょう。」と言上すると、慶喜は「また勝の大言か」と一笑したというエピソードがある。実話かどうかはわからないが、龍馬の懸念は決して的外れではなかったようだ。結局海舟が指揮に起用されることはなく、長幕戦の停戦交渉という、最期のケツ拭きだけを任される。龍馬も師と一戦を交えることはなく、さぞかし安堵したことだろう。

 海舟が指揮していれば、展開が変わっていたかどうかはわからないが、とにかく幕府は長州に負けた。この敗戦によって、幕府の権威は急速に失墜していったことはいうまでもない。


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by sakanoueno-kumo | 2010-09-27 02:41 | 龍馬伝 | Trackback(6) | Comments(4)  

大久保利通の北京談判に見る、尖閣諸島沖漁船衝突事件の弱腰外交。

 沖縄県の尖閣諸島沖で起きた漁船衝突事件で逮捕された船長が釈放されたことを受け、中国政府は日本に対して謝罪と賠償を求める声明を発表したらしい。そもそも政治的理由で釈放すること自体あり得ない話なのだが、その弱腰外交につけ込まれ賠償まで求められる始末では、現政権のいう「友愛外交」が聞いてあきれる。アメリカはアメリカで、これを機に沖縄米軍基地の重要性を日本に再認識させるような発言がみられ、あっちにもこっちにも弱腰な日本は、国家の誇りを失った亡国といってもいいかもしれない。

 外交には、力の裏付けが必要。現状、軍事力を持たない、そして経済力も中国に越されつつある日本は、弱腰にならざるを得ない・・・なんてことはないことを証明した政治家が、かつて日本にもいた。麻生太郎元首相の高祖父、大久保利通である。

 江戸時代、現在の沖縄県である琉球王国日本清国のどちらにも属するという曖昧な立場にあった。明治政府が成立すると、その帰属をめぐり日本と清国の間で政治問題が起きていた。
 
 明治4年(1871年)、琉球王国の御用船が台風による暴風で遭難し、台湾に漂着。船には役人と船頭69名が乗っていた。漂着した船員たちは先住民に助けを求めたが、逆に拉致され、次々に処刑されるという事件が起こった。日本は清国に対して事件の賠償を求めたものの、当時の明治政府は成立してまだ浅く、外交交渉の経験もなければ国際慣習も知らない。事件はその後3年間、放置されることとなってしまった。

 明治6年(1873年)の政変で、事実上日本の首相となった大久保利通は、台湾出兵を企画、翌7年(1874年)5月、前年の政変に破れ、このとき下野していた西郷隆盛の実弟で、当時、陸軍中将だった西郷従道を事務局長に任命して全権を与え、台湾に征討軍3000名を出兵させた。当時の国際慣習を知らない明治政府は出兵に際して清国に通達をせず、清に権益をもつ列強にたいしても根まわしをしなかった。これには、当時清国の保護者(支配者)の立場だったイギリスが大激怒。しかしそれでも強気の姿勢を崩さない日本に屈したイギリス公使トーマス・ウェードの斡旋で、和議の舞台がもうけられ、同年9月、大久保は清国政府との交渉のテーブルにつくために全権弁理大臣として北京におもむいた。

 交渉は困難を極めた。当時は日本も清国も近代国家としては赤子同然、交渉もイギリス外交官を顧問として国際法を教わりながらの協議だった。が、相手は後進国といっても大国清国。国力も軍事力も相手のほうが数段上で、明治維新から数年しかたっていない日本にとっては、小学生が高校生に噛みついているようなものだった。しかしそれでも大久保は、強硬姿勢を崩さない。この大久保の粘りには清国もイギリスも手を焼いた。

 1か月以上の協議を経て交渉は決裂。大久保は帰国の準備をはじめ、北京にいる各国関係者は戦争の覚悟をした。日本にとってもイギリスをまきこんでの開戦は、まぎれもない国家の滅亡を意味する。しかし、土壇場で事態は急変した。清国内に巨大な利権をもっていたイギリスは、争乱が起きてアジアの現秩序が破られることを望んでなかった。大久保の強硬姿勢に泡をくったウェードは、清国政府に日本の要求をのむよう圧力をかけた。その結果、清国は日本の台湾出兵を義挙と認め、賠償金として50万両(テール)の支払いを承諾した。大久保の命を賭けた粘りの外交が勝利した。この賠償金を支払ったことで、事実上清国は、琉球を日本国属民と認めることとなった。そして日本は明治12年(1879年)、琉球藩を廃して沖縄県を設置するに至る。

 「戦を覚悟すれば戦をせずにすむ。」という意味の言葉を、大久保はこの北京談判前の意見書の中で述べている。幕末騒乱を経てきた大久保だからいえる言葉だろう。いうまでもなく彼はのちに暗殺されるわけだが、この時代の政治家にとって「命をかける」というのは決して大袈裟ではない。彼はこの交渉に失敗したら、自分はテロに遭って死ぬだろうことを覚悟していた。その覚悟が、力の裏付けのない弱小国の外交を勝利に導いた所以だろう。

 現代の政治家に「命をかけろ」とまではいわない。しかし、今回のこの弱腰姿勢では、およそ外交とはいえない。外交は大久保利通のように、あくまで強気でなければならない。なぜなら、国際社会においては国際政府世界政府などといった国家の上に位置する機関は存在せず、国家それ自体がパワーの源泉だからだ。無法者がいようと悪辣な国があろうと、彼らを取り締まる国際機構など存在せず、いわば弱肉強食のジャングル状態が国際社会の現状だからだ。強気で臨まなければ、国家を守ることなど出来ない。「友愛」も結構だが、私たち日本国民の生命財産を守ることが最優先なのではないのか。

 まともな外交が出来ない国は、もはや「独立国」とはいえない。アメリカの隷属がいいか、中国の隷属がいいか、そんな選択をする日もそう遠くないかもしれない。


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by sakanoueno-kumo | 2010-09-26 00:34 | 時事問題 | Trackback(1) | Comments(12)  

心に残る名曲 No.2 『ラストショー』 浜田省吾

 私がサザンオールスターズに勝るとも劣らないほど好きだったのが、浜田省吾です。ジャンルはサザンとまったく違う“硬派”なロックの浜省ですが、私と同じくサザンが好きな人にこの浜省も好きだという人が多いんですよね。両者のサウンドにはどこにも共通点が見つからないんですが、どこかに同じ場所をくすぐられる何かがあるんでしょうね。私も高校時代から現在に至るまで、両者のアルバムだけはずっと買い続けています。私は若いときからずっと、レイバンのサングラスを愛用しているのですが、これも浜省の影響からです。レイバンのグラザンにバンダナ、TシャツにGジャンの姿がカッコ良かったんですよねぇ~。で、今でも私はそのファッションです。さすがにバンダナはしませんけどね(笑)。

 さて、今回紹介するのは数ある名曲の中で私の最も好きな曲、『ラストショー』です。



 この曲は1981年に発売された、浜省としては13曲目のシングル曲で、アルバムとしては、同じく1981年発売の「愛の世代の前に」のB面の2曲目に収録されています。B面って言葉、死語ですね(笑)。もちろんのちにCD化されてますから、この場合アルバム7曲目と言った方が正しいのかもしれませんが、当時LPレコードを買った私としては、この曲はあくまでB面の2曲目です。

 浜省サウンドはドライブによく合うんですが、とりわけこの曲は車の中で一人で聴くに相応しい曲ですね。歌詞の内容は、恋の終わりを歌うラブソングで、当時の浜省のコメントでは、「若い男の子と女の子のラブストーリーで、胸が痛くなるような、そんな絵が見えるような曲を作ったつもり」と語っているように、まるで映画のように情景が映し出されて見えてきます。1番で、2人が恋人同士としてもっとも輝いていた頃を回想し、2番以降で少しずつすれ違っていく2人の姿を描いています。1番の「星は君のもので月は俺のものだった」なんて気障な台詞は浜省にしか絶対に歌えない(笑)。この気障な歌詞も、彼の独特の声の特権ですね。

 コンサートでも浜省のMCは気障なんですよ。でも何故かそれがイヤミに聞こえないんですよね。それは、私が思うにですが、彼の中でそれはカッコつけてるようなところがまったくなく、自然に出てくる言葉だからなんじゃないでしょうか。カリスマミュージシャンにありがちな力みがまったく感じられない、自然体なイメージの彼から発せられる言葉だから、気障な台詞でもスンナリ受け容れられるんじゃないかと私は思います。長くコンサートに行ってませんが、また行きたくなっちゃいました。

 シングルとしてはまったくヒットしていないこの曲ですが、浜省ファンの中では人気の高いこの曲です。誰でも1度や2度は切ない別れの経験があり、この曲を聴くと、胸が痛くなる・・・そんな思いがあるからでしょうか・・・。 


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by sakanoueno-kumo | 2010-09-23 18:25 | 音楽 | Trackback | Comments(4)  

龍馬伝 第38話「霧島の誓い」

 慶応2年(1866年)3月10日、坂本龍馬と新妻・お龍の二人は西郷隆盛らに同行して薩摩の地に降り立った。「日本初の新婚旅行」といわれる旅である。この新婚旅行のいわれは、明治16年刊行の坂崎紫瀾著「汗血千里駒」の中で、「ホネー、ムーン」と紹介されたことによるもののようだが、本来の目的は、寺田屋事件で受けた手傷の湯治と、同事件でより厳しくなった幕府の監視から身を隠すため、と考えるのが正しいようだ。

 この旅の日程や詳細は、龍馬が姉・乙女に宛てた手紙や、龍馬自筆の手帳に書き残されており、こと細かな足取りが追跡できる。3月10日鹿児島着。鹿児島より海路、浜ノ市港に入り、日当山温泉に一泊。17日より塩浸温泉に11連泊。霧島に向かい、硫黄谷温泉にて小松帯刀と面談し1泊。29日、霧島山に登り霧島神社で1泊。30日、硫黄谷温泉に戻り1連泊。その後また塩浸温泉で連泊して4月11日鹿児島に帰着。特に長く滞在した塩浸温泉でのひとときは、龍馬にとってまさに心洗われる時間だったようで、
「げに、この世の外かと思われるほどのめずらしきところなり。ここに十日ばかりも止まりあそび、谷川の流れにてうおをつり、ピストルをもちて鳥をうつなど、実におもしろかり」
と、乙女に宛てた手紙の中で、子どもが親に語るように無邪気に伝えている。

 霧島山高千穂峰の山頂にある「天の逆鉾」を引き抜いたという有名なエピソード。ドラマでは、龍馬の決意の行動という、えらく大袈裟な設定になっていたが、実際には龍馬とお龍のお茶目な「いたずら」だったようだ。乙女に宛てた手紙では、
「是ハたしかに天狗の面ナリ。両方共ニ其顔がつくり付てある、からかね也。やれやれとこしおたたいて、はるバるのぼりしニ、かよふなるおもいもよらぬ天狗の面、げにおかしきかおつきにて天狗の面があり、大ニ二人りが笑たり。」
と述べ、さらに、
「此サカホコハ、少シうごかして見たれバよくうごくものから、又あまりニも両方へはなが高く候まゝ、両人が両方より、はなおさへて、エイヤと引ぬき候得バ、わづか四五尺計のもの二て候間、又々本の通りおさめたり。からかねにてこしらへたものなり。」
とある。つまり、神の逆鉾といっても簡単にひっこ抜ける、まやかしものだと言っているに等しい。

 この「天の逆鉾」は、天照大御神の孫、邇邇芸命(ににぎのみこと)が突き立てたという伝説のもので、「神のましますしるし」だった。その逆鉾をいたずらで引き抜く行為など、龍馬の盟友・武市半平太を代表とする、皇国観念に酔った志士たちすべてにとって、とてもできることではなかっただろう。この行動から見ても、龍馬がこの当時のいわゆる尊王の志士たちと違う考えを持っていたことがわかる。龍馬は何かのシンボルに頼ることなく、常に現実主義で、自分の力のみを信じていた男だったのだろう。 「信仰」はもちろん「倫理」にも「道徳」にも彼はしばられなかった。そんな龍馬の人間像がうかがえるエピソードである。

 龍馬が薩摩に滞在したのは88日間。この旅に出る前、京の薩摩藩邸で療養していた期間を合わせれば、寺田屋事件から約5ヵ月近くもの間、世の流れから距離を置くこととなった。念願の薩長同盟を締結させ、これから・・・というときのこの療養期間は、龍馬にとっては歯がゆい日々だったに違いない。加えてこの間の5月2日、長州からの兵糧米を薩摩に廻送するユニオン号に同行した、亀山社中唯一の持船・ワイルウェフ号が暴風のため沈没し、同志・池内蔵太黒木小太郎ほか水夫10名が水死するという事故が起こった。自由の利かない自身の身体に加えて、船と同志を一度に失い、この時期の龍馬はやりきれない思いだっただろう。6月、龍馬はユニオン号から名をあらためた桜島丸(乙丑丸)に乗って鹿児島を発ち馬関に向かったが、その際ワイルウェフ号の沈没地点に近い五島にまわり、碑を建てて弔ったという。

 次週から第4部。いよいよ時勢は「倒幕」へと進んでいく。そして龍馬と岩崎弥太郎が深く関わることになるのも、これからである。


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by sakanoueno-kumo | 2010-09-21 01:17 | 龍馬伝 | Trackback(3) | Comments(2)  

携帯電話紛失で真っ青になった、ある日の午後。

今日、不覚にも携帯電話を紛失してしまいました。
明後日、久々にゴルフに行く予定で、そのための買い物をしに自宅から片道2キロほど離れた店まで自転車で出かけた際に、どうやら落としてしまったようです。
普段、自転車など乗りつけないのですが、たまたま息子の自転車があいていたため、珍しく利用したらこの始末です。
馴れないことはするもんじゃないですね。

とにかく焦りました。
電話自体はそろそろ買い換えようかと思っていた古い物でさしたる問題ではないものの、そこに入っているデータは取り返しがつきません。
500件近いアドレスはもちろん、その他悪用されかねない個人情報もたらふく入っていて、いや~真っ青になりましたね。
このブログのID情報も入ってましたしね。
自分は仕方がないにしても、そこに入っている他人さんの情報が悪用されたりしたら、申し訳が立たないですもんね。
とにかくもう一度ゆっくり経路をたどり、くまなく探し回ったものの見つかりません。
結局1時間ほど探しても見つからず、探すのを諦め新しく電話を購入する気になったものの、とりあえず紛失届を出しに警察に行ったところ、なんと届いてたんですよ!
いや~、世の中捨てたもんじゃないなぁと思いましたよ。
それとも私の日ごろの行いが良かったからですかね・・・・(笑)。

警察署に着いて携帯電話の落し物を尋ねたところ、窓口の婦警さんが「ああ、あの坂本龍馬のストラップの分ですね?今流行りですもんね!」と、ニヤッと笑いながら言うんですよ。
「いや、私はにわかファンじゃなく、何年も前から龍馬のストラップです!」と思いながらも言わず、「そう、それです。」と答えたところ、「○○交番所に届いてますのでそちらへ行ってください。」とのこと。
で、そこから車で10分ほどの交番所に行くと、そこでも、 「ああ、坂本龍馬のストラップと待ち受け画面のヤツね。今、旬ですからねぇ。」・・・と。
どうやら流行りを追っかけた「嬉しがり」のオッサンに思われたようです(苦笑)。

こちらがその、「嬉しがり」のオッサンの携帯電話。↓↓↓
e0158128_23385965.jpg

古いでしょ。
もう4年以上も使ってます。
先日、テレビで「さんまの恋のから騒ぎ」を見るともなしに見ていたら、 「この人オジサンだなぁと思うとき」というテーマで、「何年も携帯電話を買い換えてないことを、さも自慢げに言う人」というのがあり、「それって、俺のことやん!」と、今更ながらに自分がオジサンだということを再認識しました(苦笑)。
まあ、オジサンなんですけどね。
そんなこともあって、そろそろ携帯を買い換えようかとは思っていたのですが、このストラップは妹からのプレゼントということもあり、5年以上前から着けてます。
龍馬の待ち受け画面は、ちょっと引かれるかな・・・。

今回この写真を載せた理由は、このたび拾ってくれた方に何かお礼をと思ったのですが、拾い主の方はそれを望んでおられず、落とし主との接触も拒んでおられたということで、警察では氏名も連絡先も教えてもらえなかったことから、この場を借りてお礼申し上げたく思い写真を載せました。
拾い主は中学生だそうで、こんなオジサンのブログを見てくれている可能性は限りなく無に等しいのですが、もし、何らかの偶然で目にすることがあったら、きっと自分のことだとわかるのではないかと思って・・・。
届けていただいて本当にありがとうございました。
オジサンはめちゃめちゃ助かりました。
貴方はきっと、立派な大人になれます(笑)。

今回のことで改めて思ったのは、いかに携帯電話に依存した生活になっているかということ。
仕事はもちろん、プライベートも、趣味も、すべてがこの端末機器の中に詰まっていて、失ってしまうとどうにも身動きが取れなくなる・・・。
紛失したことを公衆電話から妻に知らせようと思っても、妻の携帯番号さえわからない。
これって問題ですよね。
もちろん失くさないことが一番なんですが、もし不注意で失ってしまっても狼狽えずにすむよう、普段から策を講じておかなければなりませんね。

とにかく肝を冷やした休日の午後でした。


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by sakanoueno-kumo | 2010-09-19 01:45 | 日常 | Trackback | Comments(9)  

菅新内閣発足。 脱・小沢色より強固に。

 先日の民主党代表選挙で、小沢一郎候補を破り再選を果たした菅直人総理大臣の、新閣僚名簿が発表された。顔ぶれは下記のとおり。↓↓↓

▽総理・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・菅 直人(衆院・民主党)
▽総務相・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・片山善博(民間)
▽法務相・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・柳田 稔(参院・民主党)
▽外務相・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・前原誠司(衆院・民主党)※ポスト変更
▽財務相・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・野田佳彦(衆院・民主党)※留任
▽文部科学相・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・高木義明(衆院・民主党)
▽厚生労働相・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・細川律夫(衆院・民主党)
▽農林水産相・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鹿野道彦(衆院・民主党)
▽経済産業相・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大畠章宏(参院・民主党)
▽国土交通相・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・馬淵澄夫(衆院・民主党)
▽環境相・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・松本 龍(衆院・民主党)
▽防衛相・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・北沢俊美(参院・民主党)※留任
▽官房長官・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・仙谷由人(衆院・民主党)※留任
▽国家公安委員長 拉致問題担当・・・・・・・・岡崎トミ子(衆院・民主党)
▽郵政・金融担当相・・・・・・・・・・・・・・・・・・・自見庄三郎(参院・国民新党)※留任
▽経済財政担当相・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・海江田万里(衆院・民主党)
▽国家戦略局担当相・・・・・・・・・・・・・・・・・・・玄葉光一郎(衆院・民主党)※ポスト変更
▽行政刷新会議担当相・・・・・・・・・・・・・・・・・蓮   舫(参院・民主党)※留任

 これに加え、民主党幹事長に岡田克也前外相、国会対策委員長には鉢呂吉雄衆院厚生労働委員長、玄葉光一郎政調会長はそのまま留任と、内閣及び党3役ともに、引き続き脱・小沢路線を明確に示した人選となった。原口一博前総務相、山田正彦前農林水産相など小沢氏に投票したであろう実力者の名前がないところを見ると、小沢色排除が前回以上に強固になったと解釈してもよさそうだ。「一兵卒として頑張る」と語った小沢氏だが、「壊し屋」の異名をとる彼が、はてさていつまでおとなしくしているものか見物だ。

 そもそも圧倒的な世論を味方につけて勝利したとされる菅氏だが、果してマスコミが報じていたほど世論は菅氏を支持していたのだろうか。少なくとも私のまわり(非常に狭いが)では、小沢氏支持の声が大きかったし、私自身もそうだった。選挙結果では党員・サポーター票が思った以上の大差となって勝敗を決定づけたが、あの数字も眉ツバもので、小選挙区と同じくポイント制での大差で、実際の票数では菅氏60%小沢氏40%とそう差はない。決して菅氏を支持する声が圧倒的だったわけではないということ。議員票にいたってはまったくの五分だったわけで、「政治と金」のハンデキャップを背負いながらもなお、小沢氏の実力のほどがうかがえる選挙だったと私は思う。

 結果は菅氏の続投が決まり、3ヵ月の短命総理とならずにすんだ。「首相が年単位ではなく月単位で変わる国」と諸外国から揶揄されていたことを思えば、対外的にはそれはそれで良かったのかもしれない。が、国内的には再選決定早々急激な円の高騰など、先行きは不安でいっぱいだ。選挙中の小沢氏と菅氏の討論などを聞いていても、菅氏の述べるところはどれも抽象的な表現ばかりで、小沢氏に比べて大きく具体性に欠けていた。経済無知財政無策などと言われる菅氏だが、果してその手腕はいかがなものか。今回の小沢色排除の人選で、ただでさえ「ねじれ国会」の政局にあって、さらに200人もの党内野党とも対峙していかねばならない。ここは挙党一致で臨まねばならない局面ではなかっただろうか。

 兎にも角にも、まさに内憂外患な菅新内閣の船出だ。


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http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100917-00000988-yom-pol

by sakanoueno-kumo | 2010-09-17 23:59 | 政治 | Trackback | Comments(6)  

心に残る名曲 No.1 『希望の轍』 サザンオールスターズ

 さて、ちょっと趣を変えて音楽ネタでも始めてみようと思います。いつも歴史ネタを中心に時事ネタ、スポーツネタなどをアップしてきましたが、どれも結構疲れるんですよね。特に毎週起稿している大河ドラマに沿った歴史ネタは、書物などで調べたりしながら起稿するためメチャメチャ時間がかかるんですよ。もちろん好きでやってるんですけどね。で、何かほかに、気楽に臨めるネタはないかなぁと考えた末、音楽ネタなら肩に力を入れずに出来そう・・・と思い至りました。
 
 考えてみれば、いつの頃からかゆっくりと音楽を聴くなんて時間が作れていない自分に気づきました。10歳代、20歳代の頃は、生活の中に常に音楽があったのに、気がつけばいつの間にかそんな“ゆとり”がなくなってたんですね。だから最近の曲にはまったく疎いんですが、私の「心に残る名曲」と題して、個人的な主観を交えながら紹介していきたいと思います。

 で、その第1回目のナンバーは、やはり私が大好きなサザンオールスターズの、その中でも一番好きな曲、『希望の轍』です。



 今ではサザンの定番曲となっているこの曲ですが、実はシングル曲ではありません。1990年に公開された、桑田佳祐監督の映画『稲村ジェーン』の挿入歌で、同映画のサウンドトラックアルバム『稲村ジェーン』の2曲目に収録された、いわゆる「企画モノ」の曲なんです。映画自体は、良い作品とはお世辞にもいえないものでしたが(あくまで私の感想です)、このアルバムは絶品でした。1曲目の『稲村ジェーン』という曲が、日本人が作ったとは思えない、いきなりガットギターの情熱的なラテンサウンドから始まるスペイン語の曲で、その不思議なメロディーに浸っていると、2曲目にガラッと雰囲気を変える、透き通った美しいピアノのメロディーのイントロ。初めてこの『希望の轍』のイントロ聴いたとき、「やられた~」と思いました。桑田さんの天才ぶりを思いっきり見せつけられたアルバムです。小林武史氏のアレンジも素晴らしかった。

 一昨年、無期限活動停止となったサザンオールスターズですが、その際、ファンクラブか何かでサザンの曲の人気投票をしていて、その結果1位だったのが、大ヒット曲の『TSUNAMI』『真夏の果実』を抑えて、この『希望の轍』でした。シングル曲じゃないのにです。昔はアルバムの中から名曲が世にたくさん出てるんですよね。たとえば長渕剛『乾杯』や、松山千春『大空と大地の中で』などといった、ファンじゃなくても誰でも口ずさめるスタンダードナンバーが、シングルヒットした曲ではなくアルバムの中から生まれていました。最近のアーチストの曲はシングルヒットした曲しか知りません。これはおそらく、好きな曲だけをダウンロードするという時代になったからでしょうね。今の時代には、アルバムの中から一人歩きして世に出る名曲は生まれないのかもしれません。

 簡単に終わらすつもりが、結局長文になってしまいました(笑)。おもいっきりマスターベーションのシリーズですが、今後も週1回程度で起稿できたらと思ってます。


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by sakanoueno-kumo | 2010-09-16 22:16 | 音楽 | Trackback | Comments(2)  

「風邪は万病のもと」ならぬ、「風邪は災のもと」。

夏風邪をひいてしまいました。
ここ数日前から急に朝晩が涼しくなったせいでしょうか・・・。
日曜日から咳と鼻水が止まらず、昨日はとうとう発熱、早退してトットと寝ました。
本格的に風邪をひいたのは、何年ぶりかわからないぐらい久しぶりのことです。
というのも、普段から風邪には必要以上に注意をしていましたから・・・。

若い頃の私は、「風邪など気力で治る」といった具合の、体育会系にありがちないわゆる「根性論」の持ち主で、熱があっても病院に行こうともせず、薬を飲もうともせず、無理に平気な顔をして自力で治していました。
でも結局それって、薬を飲めば3日で治る病気をわざわざ1週間かけて治しているだけなんですけどね。
今思えば、熱があっても普通に仕事をしているタフな自分に酔っていただけだったなと・・・。
30歳を過ぎたある日、そのことが災いして、まわりに大きな迷惑をかけることになりました。

その日も朝から38度以上の熱があり、しかしどうしても休みたくない仕事があったため、バファリンを飲んで無理矢理熱を下げて出社しました。
夕方頃からまた体調が芳しくないことを感じながらも、なんとかその日の仕事を終え、夜11時頃帰宅するやいなやぶっ倒れました。
熱を計ると40度・・・さすがにこの熱では根性論も歯が立ちません。
「救急車を呼ぼうか?」という妻に対して、「たかが風邪ごときで救急車は大袈裟だろう」と、その日の夜間救急病院を新聞で調べ、寝ている子供を起こし、妻の運転で病院に行きました。
夜間の当直医では大した診察はしてもらえず、解熱剤をもらっただけでした。
その帰路、妻の運転する車が接触事故
その頃の妻は免許は持っていたものの何年も運転はしていない状態で、しかも当時我が家は大きなワンボックスの車に買い換えたばかりで、この日妻は初めてその車のハンドルを握ったのです。
交差点で飛び出してきた車と接触、瞬間妻は急ハンドルをきったようで車は横転、大破しました。
結局、大袈裟といって拒んだ救急車で運ばれるはめに・・・。
幸い私も妻も怪我は大したことありませんでしたが、何よりも安堵したのは、一人で家に寝かせておくわけにもいかず一緒に連れていっていた、当時4歳だった息子がまったくの無傷だったこと。
もしこのとき息子に大怪我をさせていたら・・・今考えてもゾッとします。

病院に運ばれ怪我の治療をして、さらに高熱を下げるための点滴を受け、一晩入院しました。
次の日もその次の日も大切な仕事があったのですが、3日ほど会社を休まざるをえない結果となりました。
私の風邪に対する考えの甘さが、家族にも、会社にも多大な迷惑をかけることとなりました。
300万円のローンで買った車もなくなり・・・。
大きな大きな代償でした。

以後、私は風邪予防には必要以上に神経を使っています。
毎日のうがいは徹底していますし、少しでも喉や鼻に異変を感じたら、すぐに薬を飲んで寝ます。
「♪かかったかな~と思ったら~♪」のCMどおり、ひきはじめが肝心なんですね。
「病は気から」とも言いますが、それはかかってからの根性論ではなく、かかる前の意識の「気」なんですね。
「たかが風邪、されど風邪」です。

そんな私ですが、今回は不覚にも発熱に至ってしまいました。
で、今日はさしたる重要な仕事があるわけでもなかったので休めばよかったのですが、かねてから予約していた「健康診断」が今日だったため、朝から検診に行ってきた次第です。
この体調では「不健康診断」ですけどね(笑)。
まだ熱も下がりきっておらず、相変わらず咳が止まらず、加えて検診時に飲んだバリウムで腹の調子も悪い・・・(苦笑)。
今日も早く帰って寝ます!!!


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by sakanoueno-kumo | 2010-09-14 15:42 | 日常 | Trackback | Comments(2)