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心に残る名曲 No.4 『ホテル・カリフォルニア』 イーグルス

 1970年代から80年代、当時の若者にとって音楽の情報源はラジオの深夜放送でした。それはテスト勉強の友であったり、眠れない夜の子守唄替わりであったりと、人によって思い出は様々だと思いますが、現在40歳代から50歳代の人は少なからずお世話になった時期があるのではないでしょうか。私も小学生の頃から、早く寝なさいという親に隠れてイヤホンで聴いていました。といっも子どもですから、大概、途中で眠っちゃうんですけどね(苦笑)。私が育った関西では、当時、「MBSヤングタウン」と、「ABCヤングリクエスト」という2大深夜放送があって、「ヤンタン」は芸人DJによるトーク番組、「ヤンリク」はハガキリクエストによる音楽番組でした。小学生ですからそうそうレコードを買えるはずもなく、この深夜放送で流行りの歌謡曲をカセットテープに録音して聴くというのが、私の音楽の入口でした。

 好きな歌手の新曲が発売されると、録音するため「ヤンリク」を聴くのですが、お目当ての曲がいつ流れるかわからないですよね。必死でかまえていても流れない場合もままあるわけで・・・。小学生ですから、目当ては当然、流行りの歌謡曲だったわけですが、「ヤンリク」という番組は邦楽と洋楽が交互にかかるんですね。だから目当ての曲を聴くためには、1回おきにワケのわからない外人さんの英語の曲を聴かなければならないわけです。その外人さんの曲にも当然よく流れる曲があって、何度か耳にしているうちに歌詞の意味はわからないまでも好きな曲が出来てくるわけで、そんな中で出会った曲が、イーグルス「ホテル・カリフォルニア」でした。



 名曲ですね。このギターソロは、歌謡曲しか知らなかった私にはあまりも衝撃的でした。どれくらい衝撃的だったかというと、小学生の私が、将来ギターを練習してバンドを組むぞ!と誓ったほどの衝撃でした。アコースティックな前奏で始まり、哀愁を感じさせるドン・ヘンリーのボーカル、そしてドン・フェルダージョー・ウォルシュの巧みなツインギターソロで終わる。素晴らしい完成度ですよね。この曲が入ったアルバム「Hotel California」は、アメリカンロック史上最高傑作という人も多いようです。アルバムは知らなくとも、タイトル曲であるこの曲は、聴いたことがないという人はいないんじゃないでしょうか。

 1976年、アメリカ合衆国は独立200年に沸いていました。しかし、そんな年にヒットしたこの曲は、祖国の建国200年を祝うものではなく、むしろ社会を憂いた悲観的な歌です。歌詞の内容はミニストーリー仕立てで、日本人には理解しづらい比喩の世界ですが、その意訳は、産業ロックに囚われた自分たちを憂いたもの・・・だとか、アメリカの堕ちゆく未来を歌っている・・・とか、解釈は様々です。アルバムを通して見えるコンセプトも、「望みなき未来」を歌っています。当時小学生だった私は、当然そんな歌詞の意味を知る由もなかったわけですが、でもあの哀愁ただようメロディーを聴けば、なんとなく切ない気持ちになったものです。今でもこの曲のギターソロを聴くと鳥肌がたってメロメロになる、オジサン、オバサンはたくさんいるんじゃないでしょうか。

 今回は、私が初めて好きになった「洋楽」でした。


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by sakanoueno-kumo | 2010-10-28 18:16 | 音楽 | Trackback | Comments(8)  

龍馬伝 第43話「船中八策」

 「いろは丸事件」の談判のため、坂本龍馬が長崎で足どめされている間に、京では四侯会議が開かれていた。四侯とは、薩摩藩・島津久光、土佐藩・山内容堂、越前藩・松平春嶽、宇和島藩・伊達宗城の賢侯4人である。これは、前年の慶応2年(1866年)に正式に将軍となった徳川慶喜の独裁を許さず、政治のイニシアティブを幕府から雄藩連合に移そうと、西郷隆盛が周旋したものだった。西郷は自分の主君である久光を本心では軽蔑しきっていたし、容堂のことも宗城のことも信用はしていなかったが、それでも彼は、高知へ足をはこび、宇和島へまわり、彼らをおだてて上京を約束させた。それも、「家康の再来」などと言われた慶喜の足をひっぱり、幕権の巻き返しを許さないためだった。容堂を説得するにいたって西郷は、今度こそは中途半端で帰ってもらっては困ると念を押した。「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄された容堂。事の成り行き次第では、容堂は途中で逃げ出してしまうのではないかという懸念が西郷には拭いきれなかった。容堂は答えた。「このたびは、東山の土となるつもりぞ。」と。

 しかし結局は、慶喜の巧みな政局操作の前に、4人束になっても敵わなかった。四侯会議の議題は兵庫開港勅許長州処分案。彼ら4人には開港を止められるはずはなかった。そもそも、4人とも開港派だったのだから。それを幕府が行うのことがいけないとは、この時点ではまだ政権を保持していた幕府に対して、筋の通る論ではなかった。しかもまずいことに、四藩とも安政以来、慶喜の「英明さ」をもって将軍にしようと尽力してきた藩だった。4人は慶喜に圧倒された。そして4人の足並みがそろわないうちに、慶喜は兵庫開港勅許を朝廷から取り付けたのである。勅が出てしまえば慶喜の行動は正当化される。四賢侯といわれた4人は、慶喜の政治力の前に完敗した。

 容堂は帰国した。つまり、逃げたのだ。「東山の土となる」とまで言った容堂だったが、彼が京にいたのは半月余りだった。帰国した理由は、虫歯だった。歯茎が膿んで口もきけないという。これは事実だったようだが、しかし実に子供じみた理由だ。容堂が逃げ去った京で、人々はこのうように歌ったという。
 「ゆんべ見たみた四条の橋で 丸に柏の尾が見えた」
 丸に柏の三ツ葉は、山内家の紋だった。

 容堂と入れ違いに、「いろは丸事件」の決着をつけた坂本龍馬後藤象二郎が京に入った。二人を乗せた夕顔丸が長崎を出港したのは慶応3年(1867年)6月9日、兵庫に入港したのが12日、大坂を経て京に入ったのが15日、この船中で龍馬が考案し、後藤に説き聞かせたといわれているのが、大政奉還とその後の政策を示した八カ条の条文、有名な「船中八策」と呼ばれるものである。

 船中八策
一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事。
一、上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事。
一、有材の公卿・諸侯及天下の人材を顧問に備へ、官爵を賜ひ、宜しく従来有名無実の官を除くべき事。
一、外国の交際広く公議を採り、新に至当の規約を立つべき事。
一、古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を撰定すべき事。
一、海軍宜しく拡張すべき事。
一、御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事。
一、金銀物貨宜しく外国と平均の法を設くべき事。
 以上八策は、方今天下の形勢を察し、之を宇内(うだい)万国に徴するに、之を捨てて他に済時の急務あるべし。苟(いやしく)も此数策を断行せば、皇運を挽回し、国勢を拡張し、万国と並立するも亦敢て難しとせず。伏て願くは公明正大の道理に基き、一大英断を以て天下と更始一新せん。


 この「船中八策」は、その後の「薩土両藩盟約」の主要条項となり、ひいては土佐藩が建白した「大政奉還建白」の基案となり、大政奉還後に龍馬の手で「新政府綱領八策」と更に具体化され、やがては龍馬の死後、明治元年の「五箇条の御誓文」にも引き継がれる、幕末維新史上、もっとも注目すべき文書とされている。

 第一条は朝廷への政権の奉還、第二条は二院制議会の設置、第三条は人材登用と朝廷の内部刷新。「船中八策」とは、実はこの三条項がすべてだといってもいい。第四条から八条までは、開国に向けての規約の立法、法制度の確立、海軍の拡充、親兵の設立、諸外国との不平等条約の改定など、いわば日本国の近代化案で、これらは現徳川政権のままでも可能なことである。第一条から第三条までの三条項が、現政権と現秩序を否定する、いわば龍馬の倒幕論だった。

 ドラマでは、八カ条のひとつひとつが、これまで出会ってきた人たちから学び得てきたものとされていた。私もそうだっただろうと思う。勝海舟松平春嶽横井小楠河田小龍、ドラマには出ていないが、幕臣・大久保一翁から得たものも影響していたに違いない。グラバーからの入れ知恵もあったかもしれない。幕臣、学者、商人と相手を選ばずに学んだ、固定観念にとらわれない龍馬の「やわらか頭」が、この奇跡の条文を作り出したのだろう。私は、一般にイメージされているような、龍馬が平和主義の非戦論者だったとは思っていない。幕府が大政奉還を受け入れないときは、武力討幕も辞さない考えを龍馬も持っていたと私は思っている。ただ、誰もが不可能だと思った「薩長同盟」を成立させたように、ものごとをひとつの角度から見ずに、あらゆる可能性を模索する、つまりは既成の概念に執着しない龍馬の「やわらか頭」が、大政奉還という一見現実味がなさそうな道に向かわせたのだろう。そこが、坂本龍馬の最大の魅力だと私は思う。

 後世の私たちには魅力的に思えるその龍馬の行動は、同時代に生きる者にとっては必ずしも魅力的ではなかった。そのことによって龍馬は多くの敵を作り、孤立していったことは間違いない。


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by sakanoueno-kumo | 2010-10-25 01:29 | 龍馬伝 | Trackback(7) | Comments(8)  

奄美大島で記録的な豪雨。

奄美大島が大変なことになっているようです。
19日、20日、21日と、ニュースで見る限り信じられない量の雨が降っているようで、浸水や土砂崩れなどの被害が相次ぎ、これまでに2人が死亡、1人が行方不明になっています。
奄美市の中心部、名瀬では昨日までの3日間で総雨量が760ミリを超えており、これは平年10月の一ヶ月の3倍の雨量を超えているそうです。
特に昨日、20日の雨量は観測史上最高の648ミリで、「過去に例のない記録的な大雨」となっています。
一ヶ月分の3倍の量の雨が1日や2日で一気に降ったのだから、これは尋常な雨ではないことが容易に想像できます。
単純に考えて、760ミリの雨量ということは76センチの水が奄美大島に溜まったのとおなじことで、当然の如く水は高いところから低いところに流れるわけですから、山が多い奄美大島では、一瞬のうちに数メートルの雨水が溜まったということが想像できます。
実際にニュースなどで、建物内にとり残されてしまった人の話を聞いても、「あっという間の出来事で避難する時間がなかった。」と言っていました。
これは本当に怖いことです。

私にとって奄美大島は、亡き親父の生まれ育ったところで、子供の頃には何度も行ったことのある特別な地です。
昨年夏には家族を連れて、私自身も十数年ぶりに同島を訪れました。
そのときの旅行記です。
   ↓↓↓
奄美大島旅行記 その1
奄美大島旅行記 その2 
奄美大島旅行記 その3
奄美大島旅行記 その4
奄美大島旅行記 その5
奄美大島旅行記 その6
最も浸水の被害が大きいと報道されている住用町は、上記「奄美大島旅行記 その2」で紹介しているマングローブ原生林があるところです。
この度の浸水で、この原生林も何らかの被害を受けているかもしれませんね。
他にも島には手つかずの自然が多く残されており、今回の災害によってその美しい自然が破壊されてしまうのではないかと思うと、残念でなりません。
しかし、自然が自然の力によってかたちを変えるというのは、これもまた自然の摂理といえるでしょうか。
なんとか、軽度の被害に留まってほしいものです。

現在、同島には私の叔父、叔母、従兄弟などが住んでおり、一昨日から電話も携帯もつながらず、メールを送っても返事がありません。
ニュースによれば、被災地は電話も携帯もすべて不通になっているらしく、復旧を待つしかないようで、死傷者などの報道には名前がありませんから、その点は大丈夫だろうと思っているのですが、生活環境がどうなっているのか気がかりです。
同島の4市町村では、1286世帯2669人に対する避難指示や避難勧告が続いているそうです。
奄美大島は沖縄と同じく台風の通り道に位置していますから、島民の人たちは普段から風雨に対する危機管理意識は強いはずなのですが、今回の雨は想定外の豪雨だったのでしょうね。
雨がやんだとしても地盤は相当緩んでいるはずで、二次災害の危険もまだまだ続きますし、また河川の修復や泥の除去、家屋などの修繕と大変なことが山ほど待ち受けています。
これからもまだまだ大変なことが続くであろうことが想像され、気の毒としか言いようがありません。
私も阪神・淡路大震災の経験者ですから、被災後の生活の大変さは身にしみてわかります。
今はただ、島民の方々が一日も早く通常の生活を取り戻せるよう、心から祈るばかりです。


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下記、記事本文引用
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奄美豪雨 停電や断水など復旧の見通しなく
 鹿児島県によると、奄美大島の国道・県道は最大時39カ所で全面通行止めだったが22日午前9時半現在、21カ所に減った。島を縦断する国道58号は緊急車両に限り、市中心部の名瀬地区から被害が最も大きい同市住用町まで通行可能となった。
 九電鹿児島支店によると、島内で最大1万1100戸が停電した。22日午前9時現在、約4600戸で停電している。復旧作業を進めているが、新たに停電する場所もあり、完全復旧の見込みはたたないという。
 NTT西日本鹿児島支店によると、午前9時現在、奄美市住用町の743回線のほか、同市笠利町や瀬戸内町、龍郷町の約6000回線が不通。携帯電話もつながりにくい状態が続いている。同社は21日、避難所の同市住用町の奄美体験交流館に衛星回線を使った公衆電話10台を臨時設置。今後、同市笠利町や龍郷町などにも設置予定。無料で利用できるという。
 また、奄美市水道課によると、住用町では水道管の破損による漏水で全世帯で断水。全面復旧の見通しはたたないという。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101022-00000014-maip-soci
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by sakanoueno-kumo | 2010-10-22 16:19 | 時事問題 | Trackback(1) | Comments(2)  

龍馬伝 第42話「いろは丸事件」

 慶応3年(1867年)4月19日、坂本龍馬率いる海援隊は、伊予大州藩の出資によって購入した「いろは丸」に乗って、土佐藩の帰属として初めての航海に出発した。
 「今日をはじめと乗り出す船は 稽古始めのいろは丸」
 こんな舟歌を水夫たちに歌わせながら、いろは丸は積荷を満載にして瀬戸内海を大坂に向かっていた。約1年前に持船・ワイルウェフ号が沈没し、さらにその2ヵ月後にユニオン号を長州藩に返して以来船がなかった彼らにとって、この航海はまさに「水を得た魚」のように心が昂っていたことだろう。しかし、瀬戸内海を東へ進むいろは丸は、同月23日午後11時頃、讃岐沖で紀州藩汽船・明光丸と衝突する。いろは丸は160トン、明光丸は880トン、軽自動車と大型トラックの衝突のようなものだった。

 いろは丸の当夜の当番士官・佐柳高次は明光丸の幻灯に気付き、すぐに左転してこれを避けようとしたが、なおも明光丸は右旋しながら猛進を続け、いろは丸の右舷にふれ機関室を破壊したという。佐柳は船中に事故を伝え、さらに明光丸に向かって救助を求めるも返答がなく、やむなく機関士・腰越次郎が救命船の錨をとって明光丸に投げかけ、素早くよじのぼって明光丸の甲板に上がり、そこで同船の乗組員を詰責したが、お互いにあわてて要領を得ない。そうしているうちに明光丸は一旦、五十間(約90メートル)ほど後退した後、また前進して今度はいろは丸の船腹を完全に衝いてしまったため、いろは丸は大破、沈没した。

 龍馬と明光丸船長・高柳楠之助との合議によって、事故の善後策を決するため同夜のうちに明光丸を備後の鞆の浦に入港させた。翌24日から龍馬は明光丸側と交渉に入り、まずは「事件解決まで明光丸の出港をひかえられたい。」と要求したが、高柳は首を縦にふらない。業を煮やした龍馬は、「もし主用やむを得なければ、われわれの応急の難を救うために1万両貸せ」と持ちかけ、「お申し出のとおり1万両は出すが、返済期限を立てられたい。」という紀州側に対し龍馬は、「弁償金の一部として受け取るので、返済期限を立つべき性質のものではない。」と、はね返したという。結局談判は思うように進まず、龍馬は「この上は長崎において正式の談判にかけ、公論によって正否を決する」ということで物別れに終わった。このとき龍馬の憤激は頂点に達していたようだ。

 龍馬は大藩・紀州藩を相手に、なにがなんでも泣き寝入りするつもりはなかったようだ。ようやく手に入れた船を明らかに相手の過失で失うこととなり、その悔しさは想像するに余りあるものだっただろう。万国公法の引用を考えたのもこのときだった。しかし、そのことによって自身の身の危険も覚悟した龍馬は、万一の場合、自分の死後は妻・お龍を故郷の土佐に送り届けるよう、寺田屋事件で生死を共にした三吉慎蔵に手紙を送っている。
 
 5月15日、長崎での談判が開始された。出席者は海援隊から龍馬をはじめ、長岡謙吉、小谷耕蔵、渡辺剛八、佐柳高次、腰越次郎、土佐藩から森田晋三、橋本麒之助の8名。岩崎弥太郎はいない。ついでにいうと、前話でいろは丸購入に際しても弥太郎の尽力となっていたが、実際にはこの件にも弥太郎は関わっていない。金の工面には協力したかもしれないが・・・。どうしてもドラマでは弥太郎を絡めたいようだ。

 談判の席上、互いに航海日誌を交換し、双方の言い分を検証した結果、ついに紀州側が次の事実を容認した。
 「衝突之際或士官等、彼甲板上に上りし時一人の士官あるを見ず、是一ヶ条。」
 「衝突之後彼自ら船を退事凡五十間計、再前進来つて我船の右艫を衝く。是二ヶ条。」

 ドラマ中、弥太郎が言っていた二ヶ条、すなわち、衝突時に明光丸には見張り役がいなかったこと、一度ならず二度に渡っていろは丸に衝突したことを認めたのである。この証文によって事故の理非曲直がほぼ明確になったわけだが、しかしそれでも紀州側は完全に負けを認めず、幕府御三家の立場をかさに、長崎奉行所を味方につけ海援隊側を威圧する策に出た。しかし龍馬も負けてはいなかった。奇策を用い、巧みに世論操作をしたのだ。
 「♪ 船を沈めてその償いに 金を取らずに国を取る 国を取ったらミカン食う ♪」
 このような歌を作り、長崎丸山の妓楼で歌わせた。これは交渉の結果を歌ったもので、当然その前に、事故の事情も歌同様に広められていたに違いない。この歌はたちまち巷間に流行し、長崎市民の同情はいずれも海援隊に集まった。さすがの紀州藩もこの龍馬の策には閉口しただろう。

 そしてもうひとつの龍馬の策は、交渉の席に後藤象二郎を引っ張り出し、一海運業者対紀州藩の事件を、土佐藩対紀州藩という、同等の立場での、いわば政治的な談判としたことだ。藩同志の談判となれば、紀州側はもはや脅しのような交渉は出来ない。後藤は、「汽船衝突の件は、我が国では準拠すべき判例がないので、現在来航中の英国水師提督に万国の比例を尋ね、然るべき裁定を請う。」と提案し、さらには「貴藩のこれまでの仕打ちは甚だ冷酷だ。向後の出様によってはどのような結果となるかも知れぬ。よく心得ておいてもらいたい。」とまで述べた。もはや勝算なしと見た紀州藩は、薩摩藩士・五代才助に調停を頼み、その裁定で紀州藩は賠償金8万3千両を海援隊に支払うという条件で、ようやくこの「いろは丸沈没事件」は決着がついたのであった。

 龍馬の巧みな世論操作、そして後藤を使って政治問題にすり替えた強かさ、さらには大藩相手に怯まない龍馬の腹の据わったリーダーシップ。どれをとっても、一級品の外交手腕がうかがえる。尖閣諸島沖衝突事件で右往左往している現代の政治家さんたちに見習ってほしいものだ。

 世情は刻々と討幕への道を進めていたこの時期、龍馬にとっては1ヵ月以上もの間、足止めをくうこととなったこの「いろは丸事件」だった。しかし、そんな中でも利益だったのは、長崎で後藤象二郎と語り合う時間が持て、後藤を政治的に教育することが不十分ながらもできたことだった。


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by sakanoueno-kumo | 2010-10-18 01:32 | 龍馬伝 | Trackback(4) | Comments(10)  

龍馬伝にみる、幕末ドラマのキャスティングの難しさ。

 NHK大河ドラマ「龍馬伝」もいよいよ佳境に入りましたね。主要な人物も概ね登場し終わったんじゃないでしょうか。ここまで見終えて、この度のドラマのキャスティングは、皆さんはどうだったでしょうか?幕末物といえば、戦国物などと違い写真などが残っている人物が多いですから、見る側にとっても確固たるイメージがあって、演じる役者さんも難しいでしょうね。それ以前に、キャスティングする際の役者さん選びも、あまりにもイメージと違う人は選べないわけで、ただ単に演技力や人気度だけではキャスティング出来ない難しさがあるでしょう。イメージが強ければ強いほど、悩まされるんじゃないでしょうか。

 ドラマはもうすぐ終わろうとしてるわけですが、ここでちょっと過去の作品なども顧みながら、私好みの手前勝手なキャスティングをしてみたいと思います。

e0158128_2332086.jpg まず初めは坂本龍馬。決して二枚目とはいえない龍馬のイメージですから、今回の福山雅治さんは、最初に発表を聞いたときは少し違和感がありました。で、実際にドラマを見始めてからは、思ったよりも良かったという印象ですが、でもやっぱり福山さんの龍馬はカッコよすぎですね。もっとワイルドな汗臭いイメージが私にはあって、福山龍馬は外見も内面も清潔すぎるような・・・。1968年の大河ドラマ「竜馬がゆく」では北大路欣也さんが演じたそうですが、当時2歳の私が覚えているはずもなく、私が見た中では、1997年にTBSで制作された「竜馬がゆく」での上川隆也さんが一番イメージに近い龍馬でした。でも、私の中で最もイメージしていた役者さんは、江口洋介さんです。おそらく同じように思っている人、多いんじゃないでしょうか。彼が役者として世に出てきたとき、将来大河ドラマで龍馬を演じるのはこの人しかいない・・・と思ったんですけどね。2004年の大河ドラマ「新選組!」で、江口さんが龍馬を演じてましたが、脇役の龍馬ではなく、主役としての江口龍馬を見てみたかったんですけど・・・もう、ちょっと年齢的に無理でしょうね。残念です。

e0158128_06107.jpg 次に、龍馬の盟友・武市半平太。この度の大森南朋さん、結構ハマってましたよね。龍馬とは正反対の、二枚目で聡明で清潔感のあるイメージの半平太なので、福山さんとは逆に美形とはいえない大森さん(ファンの方スミマセン)と半平太のイメージが最初は結びつきませんでしたが、謹厳実直な半平太像を見事に演じておられたと思います。途中から二枚目に見えてきました(笑)。でも、私の中の半平太像は、1989年にTBSで制作された「坂本龍馬」(龍馬役:真田広之)での、三浦友和さんです。このときの武市半平太は私の思っていたとおりの半平太でした。外見も、演じるところの人物像も申し分なかった・・・。以後私は、小説など読んで半平太が登場するといつも三浦さんを思い浮かべ、テレビで三浦さんを見るといつも半平太を思い出します。それぐらい、私の中ではハマり役でした。

e0158128_0312051.jpg 続いて、もう一人の土佐藩を代表する志士・中岡慎太郎。今回、上川隆也さんが演じておられますが、演技は上手な上川さんですが、外見から受けるイメージはちょっと違いますよね。武市半平太と同じくインテリ志士の慎太郎ですが、半平太とは違って武骨な侍のイメージがあります。その点で考えれば、体育会系の爽やかな役者さんが良いと思うのですが、過去、慎太郎を演じた役者さんを思い出しても、この人という方がいません。で、体育会系という観点から私なりに考えたんですが、山本太郎さんなんてどうでしょう? 結構似てると思うんですけどね。ちょっと知的なイメージに欠けるかな?・・・しっ、失礼!

e0158128_0504318.jpg 長州藩に目を移して桂小五郎(木戸孝允)。この度のドラマの谷原章介さん、結構ハマってると思いませんか? 美形で聡明で、しかしどこか陰のイメージがある桂に谷原さんはピッタリだと思います。剣の達人として知られる桂は、すばしっこく小柄で女性的なイメージがあるのですが、実は身長175cmほどの大柄だったようで、その面からも谷原さんはバッチリですね。今後、私の中での桂小五郎は谷原さんになりそうです。過去、あり得ないキャスティングでは、1986年に武田鉄也さんが龍馬を演じた映画「Ronin」の中での桂役・川谷拓三さん。左の写真のどこを見ても、川谷さんと重なるところが見当たりません(笑)。あの配役はヒドかった・・・。

e0158128_1182583.jpg 長州藩のもう一人の英雄・高杉晋作。今回の伊勢谷友介さんは、あまりにもカッコよすぎでしょ。生き方はカッコイイ高杉ですが、外見は右の写真のとおりお世辞にも二枚目とはいえません。過去、私が見た中では、2000年にNHKで制作された「蒼天の夢 松陰と晋作・新世紀への挑戦」での野村萬斎さんが結構良かったですね。高杉の持つ“天才か奇才か”というイメージにも、同じく奇才型と思える野村さんがピッタリでした。でも、右の写真だけで考えると、お笑い芸人のモンキッキー(旧名:おさる)がピッタリだと思うのは私だけでしょうか・・・(笑)。伊勢谷さんとモンキッキーではあまりにも違いすぎますね。

e0158128_1394161.jpg 幕府側に目を転じて、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜。この度のドラマの田中哲司さん、あれはちょっとヒドすぎやしませんか? 英邁で聞こえた慶喜ですが、田中さん演じるところの慶喜は知性の欠片も感じられないばかりか、外見もヒドイものです。左の写真でもわかるように、結構色男ですよね。その点でいえば、1998年の大河ドラマ「徳川慶喜」での本木雅弘さんは良かったんじゃないでしょうか。私が見た中では、上記、三浦友和さんが武市半平太役を演じていたドラマ「坂本龍馬」のときの中条きよしさんがあまりにもソックリで笑っちゃいました。だって、左の写真そのまんまだったんですから・・・(笑)。

e0158128_158131.jpg 次に、幕臣であり龍馬の師匠でもあった勝海舟。小柄な人物だったようで、この度の武田鉄也さんはありなんでしょうけど、ちょっと歳食いすぎてましたね。この時期の海舟は、40歳前だったわけですから・・・。まあ、龍馬の福山さんが41歳ですから、仕方がないといったところでしょうか。1974年の大河ドラマ「勝海舟」では渡哲也さんが演じたそうですけど、私は幼くて覚えていませんが、べらんめぇ口調の渡さんなんてちょっと想像つかないですね。で、いろいろ思い浮かべてみたんですが、橋爪功さんなんてどうでしょう? えっ?・・・橋爪さんも歳食ってるって?じゃあ、堺正章さんでは?・・・やっぱり歳食ってる?・・・結局、海舟の貫録を出そうと思ったら、ある程度年齢を重ねた役者さんでないと無理ということですね。納得。

e0158128_352333.jpg 次に、新選組局長の近藤勇。この度はネプチューンの原田泰造さんですが、初登場のときの無言の近藤はなかなか迫力があって良かったのですが、しゃべるとやっぱ、原田泰造さんでした(笑)。えらの張った顔立ちは似てるんですけどね。でも、2004年の大河ドラマ「新選組!」での香取慎吾さんよりはマシだと思いますよ。あんなソフトでナイーブな近藤はないですよね。えらの張った四角い顔という点では、香取さんもそうなんですけど・・・。近藤といえば、武骨な武闘派のイメージ。そのイメージで選ぶと的場浩二さんなんてどうでしょうか? 迫力ある近藤になると思いません? でも、もっと近藤にそっくりな方を最近見つけました。先のサッカーワールドカップの日本代表のゴールキーパー、川島永嗣選手です。左の写真に似てると思いませんか?・・・(笑)。

e0158128_3275623.jpg 同じく新選組の副長、土方歳三。この度のドラマでは影が薄く、誰が演じているのか知りません。同じく2004年の大河ドラマ「新選組!」では山本耕史さんが演じておられましたね。あの土方は私の中ではお気に入りです。最後の方には土方にしか見えなかったですよ。乗り移ってるって気がしましたね。過去の作品では、1990年にテレビ東京で制作された「燃えよ剣」での役所広司さんが良かったですね。女たらしなところがまたハマり役でした。でも、演じたことがあるかどうか知りませんが、私の中での土方像は、ズバリ、佐藤浩市さんです。クールな色男のイメージが、佐藤さんにピッタリだと思いませんか?

e0158128_342414.jpg そして最後に、幕末の象徴、ミスター幕末維新こと西郷隆盛。おそらくこの人の配役が一番難しいのではないでしょうか。巨漢で雄大な存在感のあるこの人物に見合った役者さんはそうそういるものではありません。この度の高橋克実さんは、存在感ある演技力は認めますが、どうしても外見が見劣りしますよね。2008年の大河ドラマ「篤姫」での小澤征悦さんも良かったですが、迫力には欠けました。1990年の大河ドラマ「翔ぶが如く」での西田敏行さんは素晴らしい演技で、顔だけ見てると西郷どんにしか見えなかったのですが、残念ながら背が低いというのが辛かったですね。他にも、1987年の日本テレビ制作「田原坂」での里見浩太朗さんや、1989年のTBS制作「坂本龍馬」での松方弘樹さんなどもそれなりに良かったのですが、ピッタリのイメージというには至りません。で、私が見た中で一番イメージに近い西郷どんは、2004年の大河ドラマ「新選組!」での宇梶剛士さんでしたね。背が高く、顔の作りも大きく、目が大きく眼光が鋭く迫力もありました。西郷どんといえば肥満体の印象がありますが、肥満したのは明治になってからのことで、この時期島流しから戻ってきたばかりの西郷どんですから、案外、宇梶さんのような体型だったかもしれません。ただ、宇梶さんの西郷どんは、あくまで脇役だったのが残念ですけどね。そしてもう一人、外見だけでいうと西郷どんにピッタリの人物がいます。大相撲元横綱の武蔵丸関です(笑)。ただ、アメリカ人の武蔵丸と幕末の象徴である西郷隆盛が似てるというのは、なんとも複雑な気分ではありますが・・・。だいたい、演じられるわけないか(笑)。

 とまあ、手前勝手な意見を長々と述べさせてもらいましたが、皆さんの思う配役はどんな方々でしょうか? 一度アンケートをとってキャスティングしてみたら、きっと素晴らしいドラマが出来るんじゃないでしょうかね。夢の豪華キャストの幕末ドラマを見てみたいものです。素人が勝手なことを述べましたが、それだけ見る側に確固たるイメージがある幕末の偉人たち・・・キャスティングする制作者も、演じる役者さんも大変なプレッシャーでしょうね。今年の大河ドラマも残すところあと7話。撮影も先日クランクアップしたようです。なんだかんだいっても、毎週、福山龍馬を楽しみにしています。


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by sakanoueno-kumo | 2010-10-16 04:28 | 龍馬伝 | Trackback(2) | Comments(7)  

龍馬伝 第41話「さらば高杉晋作」

 幕末の風雲児・坂本龍馬と、幕末の革命児・高杉晋作。幕末の志士たちの中でもとりわけ人気の高いこの二人だが、実はこの二人に面識があったと立証できる史料はない。長州藩の外交面を担当していた桂小五郎(木戸孝允)は長州を留守にすることが多く、龍馬とも深く関わっていたことがわかる書簡が数多く残っているが、主に藩の内政面を担当していた高杉晋作は長州を出ることが少なく、当然、他藩の志士たちと接する機会も少なかった。唯一、龍馬と高杉の接点をうかがわせるものとして、高杉が龍馬に護身用のピストルを贈ったという有名なエピソードがあるが、これも、龍馬が国許に宛てた手紙に記しているのみで、高杉側の史料にはない。いつ、どこで譲り受けたのか、また、高杉本人から受け取ったのか、人を介して譲り受けたのかもわからないのである。もちろん、だからと言って面識がなかったとするのは安直で、幕長戦争の際には会う機会が十分にあったし、それ以前に面識があったとしても何ら不思議ではない。しかし、多くの物語にあるような二人に友情関係があったかといえば、それは想像の域を出ない。

 では、なぜドラマや小説などではこの二人を結びつけたがるのか。それはおそらく、二人に同じ匂いを感じるからだろう。どちらも既成概念にとらわれない、闊達で天才型の自由人というイメージがある。同時代の他の志士たちには、思想家・政治家としてのイメージが色濃く感じられるが、この二人にはその匂いがまったく感じられない。龍馬については、誰もが感じるところの「商人」としての匂いが、そして高杉については、「幕末ではなく平和な時代に生まれていれば、有名な詩人になっていただろう。」と、作家・司馬遼太郎氏が小説「世に棲む日々」の中で述べているように、「詩人」としての匂いがある。どれほどの知り合いだったかはわからない二人だが、坂本龍馬と高杉晋作の二人の関係がドラマチックに描かれるのは、同じ時代に生きたこの二人の型破りな天才がもし出会っていれば、きっと意気投合して語り合っただろうという、作家さんたちの願望が作りだした二人の友情関係だろう。

 「お龍。人はどうして死んでしまうがじゃろうか・・・。天がおまんの役目はもう終わったと思われちゅうきじゃろうか・・・。」
 ドラマ中、龍馬がお龍に問いかけた言葉だが、その言葉どおり、高杉晋作は「奇兵隊」という封建社会をひっくり返すような革命的軍隊を創設し、更には幕長戦争において幕府軍を倒し、慶応3年4月、その役目を終えたかのようにこの世を去る。享年29歳。辞世の句とされているのは、
 「面白き こともなき世に おもしろく すみなすものは 心なりけり」
 逸話によれば、死の床にあった高杉が辞世の句を詠もうと筆を取り、「面白き こともなき世に おもしろく」と上の句を認めたところでついに力尽き、その様子を見ていた尼僧・野村望東尼「すみなすものは心なりけり」と続けたところ、高杉は「おもしろいのう・・・」と、かすかに言って息を引取ったと伝えられるが、実話かどうかは定かでない。また、死の直前の高杉が、「よしだへ・・・」とうわ言のようにつぶやき、息をひきとったという逸話もあり、この一言故、高杉の遺体は奇兵隊本陣のあった吉田村に埋葬されたが、これも当時、奇兵隊のリーダーだった山縣有朋が、奇兵隊に箔を付けるために創作した作り話だとも言われている。

 辞世の句ではないが、 「東行庵」と言われた療養の小屋で、病床の中詠んだ歌がある。
 「里人の しらぬもむべや 谷間なる ふかき渕瀬に 潜む心を」
 世の中から必要とされなくなった自身の、強烈な悲哀の歌である。高杉自身は、己が世の役割を終えたなどと思っていなかったに違いない。戦場で命を落とす覚悟はあったであろうが、新時代を目の前にして、病に倒れねばならないことは、さぞかし無念の極みであっただろう。

 龍馬の問いかけに、お龍はこう答えた。
 「そうかもしれませんね。そやかて、人の死というものは終わりだけではないと思います。その人の役目を、志を受け継ぐ者にとっては、始まりどすさかい。」
 歴史の役割というのは、その人物の死をもって完結するわけではない。その人物の受け持つパートが終わるだけである。そのバトンは次のパートへと引き継がれ、やがては現代の私たちに繋がっている。高杉の繋いだバトンも、そしてもうすぐ歴史の役目を終える龍馬のバトンも・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2010-10-11 01:38 | 龍馬伝 | Trackback(2) | Comments(6)  

心に残る名曲 No.3 『つばさ』 キャンディーズ

 私が人生最初に、女性アイドルというものに熱を上げたのが、キャンディーズでした。小学生の頃です。南海キャンディーズじゃないですよ(笑)。ランちゃん、スーちゃん、ミキちゃんの、いわゆる「普通の女の子に戻りたい!」のキャンディーズです。彼女たちが活躍したのは1973年から78年の4年半ほどで、解散したとき私は小学校5年生でした。今思えばマセガキだったなと・・・。本来、キャンディーズのファン層は私より少し上の人たちで、私の世代は圧倒的にピンクレディー世代なんですが、4歳上の従兄弟の影響もあって私はキャンディーズが大好きでした。特にランちゃんがホント、カワイかったんですよ〜・・・って、小学生のガキがひとまわりも年上の女性に言うことじゃないですけどね。彼女たちから見れば、ずいぶんと「年下の男の子」だったわけで・・・。

 で、今回紹介する曲は、1978年4月4日の解散コンサート、後楽園球場ファイナルカーニバルでの最後の最後の歌、『つばさ』です。
 そう、いわゆる「本当に・・・私たちは・・・幸せでした!」で有名なあの歌です。



 この歌は、先に解散を知った全国キャンディーズ連盟の有志が作った「3つのキャンディー」という歌への返歌として作られたもので、作詞はランちゃんこと伊藤蘭、作曲は元ザ・ワイルドワンズ渡辺茂樹。コンサート時のみの曲として作られたものでしたが、解散後、彼女たちの意向を無視してシングルリリースされたといわれています。当時私は小学生ですから、当然コンサートなどに行けるはずもなく、解散コンサートも何日か後にTV放送された短縮版を観て、のちに発売されたこの解散コンサートの3枚組のLIVEアルバム「キャンディーズファイナルカーニバル」を翌年のお年玉で買い、何度も何度も聞いたものです。今はこうしてネットで簡単に映像を見られるわけですが、当時は家庭用ビデオもない時代ですから、たった1回のTV放送を食い入るように観て、あとはレコードの音声のみだったわけで、それでも今こうして30年前の映像を見てみても、私の脳裏に焼き付いている映像と寸分の違いもありません。ビデオもDVDもない時代の人の脳の録画機能は、きっとブルーレイ以上だったのでしょうね。

 ピンクレディーは何度も再結成をしていますが、キャンディーズは解散後一度も再結成をしていません。当時の芸能界を激震させた解散宣言に始まり、最高の状態で解散したこと、そしてその後は決して安易に再結成しない潔さで、単なる「過去のアイドル」の枠を超えて、30年以上経った現在では半ば伝説化・神格化されつつあります。彼女たちの歌をのちにカバーしたアーチストもたくさんいますよね。最近では、いきものがかり「春一番」をカバーしていたと思います。ここでも、単なるアイドルではなく、その楽曲においても、音楽性が高かったことがわかります。今回紹介した「つばさ」は主にユニゾンの歌ですが、他の歌ではハイレベルのハーモニーを主とした歌がたくさんあるんですね。それはまた、別の機会で紹介することにします。

 今回は、自身の小学生時代に戻ってみました。もう大昔ですね・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2010-10-06 16:42 | 音楽 | Trackback(1) | Comments(6)  

龍馬伝 第40話「清風亭の対決」

 慶応2年(1866年)6月、幕長戦争に参戦した坂本龍馬は、同年8月以降、ずっと長崎にいて亀山社中の面倒をみていた。この時期、社中は経営難に陥っていた。同年5月に唯一の持船だったワイルウェフ号が暴風のため沈没し、さらにもともと長州の船であるユニオン号も同藩に返し、船を失った彼らは為す術もなかった。水夫たちに給金も払えなくなり、龍馬はこの時期、社中の解散も考えていたという。

 土佐藩参政家老・後藤象二郎が長崎を訪れたのは、慶応2年(1866年)7月のこと。象二郎は同年2月、高知城下に開成館を設立し、勧業、貨殖、捕鯨、軍艦などの分課をおいて藩の財政振興につとめていた。そして長崎には貨殖局出張所として土佐商会を設け、和紙、樟脳、鯨油など土佐産物の輸出業務をつかさどり、戦艦、武器などの買い入れを行っていた。おそらくこのとき、長崎の商人たちから龍馬たち亀山社中の活躍ぶりを耳にしていただろう。そして、出来れば彼らの力を利用したい・・・そう考えたに違いない。

 しかし、ほとんどが土佐脱藩の下士たちで形成されていた亀山社中の面々にとって後藤象二郎は、土佐勤王党弾圧の際に大観察として徹底的な拷問を指示し、多くの同志たちを獄死させ、直接武市半平太に切腹の申しつけを行った憎き仇である。象二郎が長崎に出てきたことを知った社中の者たちは、「後藤こそ武市先生に腹を切らせた仇。出会いしだい叩き斬ってくれる。」と息巻いていた。しかし龍馬は、いきり立つ壮士たちを固く制した。龍馬は同年12月に姉・乙女に宛てた手紙で「人と言ものハ、短気してめつたニ死ぬものでなく、又人おころすものでなし」と述べているように、まだ土佐は変わるかもしれないと思っていた。龍馬もまた、彼らの力を利用したい・・・そう考えたようだ。

 年が明けた慶応3年(1867年)1月12日ごろ、坂本龍馬と後藤象二郎の会見が実現した。場所は長崎の料亭・清風亭で、仲介したのは岩崎弥太郎ではなく、土佐商会要員・松井周助と、若き日の龍馬が江戸へ剣術修行に出たときに同行した溝淵広之丞(ピエール瀧の役)の二人だった。(弥太郎と龍馬が接点を持つのは、前話の第39話「馬関の奇跡」の稿でも述べたとおり、この会見の後のことである。)その席に後藤は、龍馬の馴染みの芸者・お元を呼ぶという心配りをしている。後藤サイドが、この会見をいかに成功させたい思いで臨んでいたかがうかがえる。この段階で、この会談はすでに成功を約束されていたといっていいかもしれない。会談の具体的内容は不明だが、おそらく土佐藩の武器購入の話から時局論まで、腹を割って語り合ったことだろう。亀山社中や土佐商会の今後の運営にまで話は及んだかもしれない。会談を終え社中に帰ってきた龍馬に、社中の者たちは口々に、象二郎の様子や人物を尋ねたという。龍馬の返事は「えらいやつだ。あれを利用するとうまく仕事ができる」と答え、さらに、「後藤とは、承知のとおり仇敵の仲だ。しかるに彼は一言も過去を語らず、ただ前途の大局を話す、人物でなければできない境地である。」と答えた。そして酒席の話をいつも自分が中心になるように配慮していたと、土佐下士の生き残りたちが編纂して大正元年(1912年)に刊行された「維新土佐勤王史」は伝えている。

 龍馬と象二郎が手を結んだことは、地元土佐に残る者たちにとっては、上士・下士に関わらず衝撃的なニュースだったようだ。特に、武市半平太亡きあと龍馬を旗頭と考えていた下士たちは、「龍馬は奸物にだまされた。」と攻撃する声が高まり、また、姉・乙女も龍馬を非難し忠告の手紙を書いていた。その手紙に対する返事と思われる、乙女に宛てた手紙がある。商売に夢中になって、天下国家をお忘れのように見受けられるとか、奸物役人にだまされているのではないか、という忠告はありがたいが・・・と前置きして、龍馬は反論している。利益を求めるのは、社中の50人ほどを養うためであり、後藤象二郎と手を結んだのは、彼を人物と見込んでのことだと。そして龍馬は、自分の心情を書き付けた。
 「私一人ニて五百人や七百人の人お引て、天下の御為するより廿四万石を引て、天下国家の御為致すが甚よろしく、おそれながらそれらの所ニハ、乙様の御心がおよぶまいかと存じ候。」
 数百人の手勢を率いて何かを成すよりも、土佐二十四万石をバックに事を成す方が、はるかに効果的だと龍馬はいう。これは挙藩勤王論だ。数年前まで武市半平太が主張し、最期まで捨てることが出来なかった一藩勤王論を、この時期になって龍馬が説いている。前年には経営難から亀山社中の解散まで考えていた龍馬は、バックを持たない浪人としての限界を感じていたのかもしれない。

 坂本龍馬と後藤象二郎の、そのどちらがどちらを利用したかというと、見方によってどちらにもとれる。しかし、大藩の参政の立場にある象二郎と、同藩脱藩浪人である龍馬が、対等な立場で利用し利用されるという、いわばギブアンドテイクの関係が成立したことは、龍馬ファンにしてみれば痛快だ。いずれにせよ、二人が手を結んだことが、幕末の歴史を大きく変えることになるのはいうまでもない。


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by sakanoueno-kumo | 2010-10-04 01:56 | 龍馬伝 | Trackback(4) | Comments(7)