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龍馬伝 第48話(最終回)「龍の魂」

 「龍馬、人がみんなぁ自分のように、新しい世の中を望んじゅう思うたら大間違いぜよ。口ではどう言うとったちいざ扉が開いたら、戸惑い、怖気づく者は山のようにおるがじゃき。」
 「龍馬、人の気持ちは、それほど割り切れるもんではないがぜよ。」

 弥太郎と慎太郎の言葉どおり、龍馬が選んだ革命の道は、必ずしも皆が望んだ道ではなかった。
 「世の人は 我を何とも言わば言え 我が成す事は 我のみぞ知る」
 龍馬が16歳のときに詠んだといわれるこの句のとおり、慶応3年のこの時期の彼の理解者は龍馬自身だけだったのかもしれない。

 大政奉還の偉業を成し遂げた坂本龍馬は、来たるべき新時代の政府の組織作りにとりかかった。三条家家士の戸田雅楽(尾崎三良)の協力を得て、「新官制議定書」と称する新政府組織案が出来たのは慶応3年(1867年)10月16日のことだった。その内容は、関白、内大臣、議奏、参議などの職制からなり、公卿、大名、諸藩士の名が適所に配置された見事な草案だった。ところが、新政府樹立の功労者が列挙されたその名簿の中に、肝心の龍馬自身の名がなかったという。それを見た西郷隆盛が龍馬の名がないことに気づき理由を尋ねたところ、「自分は役人にはなりたくないので新政府に入閣するつもりはない。」と答えたという。龍馬の魅力を語る上で、欠かせないエピソードである。龍馬の懐の大きさが感じられるエピソードだが、これひとつみてもまさに、「我が成す事は我のみぞ知る」の言葉どおりだった。

 そして11月、その仕上げともいえる「新政府網領八策」を作成する。その内容は同年6月に作成した「船中八策」と大きな違いはなかったが、この策をどのように実現させるかを記した結びの文が違っていた。
 「右、預メ二三明眼士ト議定シ、諸侯会盟ノ日ヲ待ツテ云々。○○○自ラ盟主ト為リ、此ヲ以テ朝廷ニ奉リ、始テ天下万民ニ公布云々。強抗非礼、公儀ニ違フ者ハ断然征伐ス。権門貴族モ貸借スル事ナシ。」
 ここで問題となるのが、「○○○」と伏せ字にされた盟主の名前だ。ドラマの龍馬は、ここに入るのは「皆」だと言っていたが、そんな民主的な発想がこの頃の龍馬にあったとはさすがに思えず、やはりここには、実名を表しては差し障りがある人物の名が入ると考えたほうが正しいだろう。となれば、やはり思い浮かぶのは、徳川慶喜だろう。龍馬は、上記の「新官制議定書」に見る関白の次の内大臣の職に、大政奉還を断行した慶喜こそふさわしいと考えていたといわれている。龍馬は、朝廷を中心に薩摩、長州、土佐などの雄藩に加え、徳川家も入れた新政府の樹立を考えていた。大政奉還の成立で肩すかしをくらった武力討幕派の薩長は、この「○○○」の伏せ字で、さらに龍馬への不信感を覚えたであろうことは容易に想像がつく。もはや龍馬は、誰からも理解されない人物になっていた。まさに、「我が成す事は我のみぞ知る」だった。

 慶応3年11月15日、その日は朝から雨だった。前日から龍馬は風邪気味だったため、それまで潜んでいた近江屋のはなれの土蔵から、母屋の2階に移っていた。寒さが厳しいので、龍馬は真綿の胴着に舶来絹の綿入れをかさね、その上に黒羽二重の羽織をひっかけていたという。夕刻、中岡慎太郎が訪ねてきた。用件はわからない。このとき近江屋2階には、龍馬の下僕・藤吉と、書店菊屋の息子・峯吉がいた。やがて土佐藩下横目の岡本健三郎も訪れ、しばらく雑談を交わしていると、龍馬が峯吉に「腹がすいたから軍鶏を買ってこい」と命じた。峯吉が使いに出るとき、岡本も一緒に部屋をでた。峯吉が軍鶏を買い戻ってくるまでの時間がおよそ二、三十分。その間に事件は起きた。

 近江屋入口を叩く音に藤吉が応対に出ると、「拙者は十津川の者、坂本先生ご在宿ならば、御意を得たい。」と名刺を差し出す。十津川郷士には龍馬も慎太郎も知己が多いので、藤吉は別に怪しまず龍馬に名刺を渡し、部屋から戻ってきたところを尾行していた3人の男のうちのひとりが斬りつけた。その物音を聞いた龍馬は奥から「ほたえな!」と大喝した。藤吉が客人とふざけていると思ったのだろう。そして藤吉の持ってきた名刺を眺めていた龍馬と慎太郎のところへ、電光石火の如く飛び込んできた刺客2名は、あっという間もなく龍馬たちに斬りかかった。そのひとりが「こなくそ!」と叫んで慎太郎の後頭部を斬り、もうひとりは龍馬の前額部を横にはらった。龍馬は床の間に置いてあった刀を取ろうと身をひねったところを、右肩先から左背骨への二の太刀を受けた。続いての三の太刀は立ち上がりざま鞘で受け止めたが、鞘を割られ、刀身を削り、その勢いでまたも龍馬の前額はなぎはらわれた。脳漿が吹き出すほどの重傷をうけた龍馬は、そのまま倒れた。慎太郎も刀を屏風の後ろに置いてあったため、短刀を抜き応戦したものの、龍馬以上に数創の太刀を受け倒れた。刺客たちは止めの太刀を入れることなく、「もうよい、もうよい」との言葉を残して立ち去った。この刺客たちの、ほとんど間髪を入れないわざに、腕には覚えのあった龍馬も慎太郎も完全に立ち向かうすきがなかった。

 龍馬は間もなく正気を取り戻し、刀を抜いて行灯に照らしながら無念げに慎太郎に向かって「石川(慎太郎の変名)、手はきくか。」とたずねた。慎太郎が「手はきく」と答えるのを聞きながし、行灯をさげて隣の六畳間へにじり寄り、階段上から家人を呼び医者を求めたが、そのときは既に精根が尽きていた。 「俺は脳をやられた。もういかん。」とかすかに言って、うつぶしたまま龍馬は絶命した。その血は欄干から下の座敷までしたたり落ちていたという。

 坂本龍馬、享年33歳。奇しくもこの日、彼の33回目の誕生日であった。

 慎太郎は蘇生し、2日間生き延び、一時は焼き飯を食べるほどの元気を取り戻していたというが、その後容態は悪化、17日に死去した。中岡慎太郎、享年30歳。現在に伝わる襲撃時の様子は、蘇生した慎太郎が語ったものだといわれている。

 龍馬は大政奉還後ほとんど何も出来ぬままにこの世を去った。龍馬が明治の世まで生きていれば・・・後世の私たちは、幕末の英雄となった坂本龍馬についついそんなことを思う。しかし、同時代に生きる者たちにとっては、龍馬はむしろ疎ましい存在になっていた。繰り返し言うが、龍馬の最期は、誰からも理解されない境地に身を置いていた。彼の持つ、明るく、楽天的で、濶達な、愛すべき人物像とは裏腹に、土佐からも、薩摩からも、長州からも、幕府からも理解されることのない、孤立した存在となっていた龍馬。小説やドラマで颯爽としている龍馬からは想像もつかない、本当はどうしようもなく孤独な面をたえず持ち歩かねばならなかった、龍馬の晩年だったのではないかと私は思う。

 しかし、そんな孤独の中でも、きっと彼はこう言って笑っていたに違いない。
 「世の人は 我を何とも言わば言え 我が成す事は 我のみぞ知る」・・・と。



 「龍馬伝」全48話が終わりました。毎週読んでいただいた方、ときどきご訪問いただいた方、どなた様もこのような素人のとりとめのない稚文にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。今週中に「龍馬伝」総括を起稿したいと思いますので、よろしければまた、そちらにもお越しいただければ嬉しく思います。


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by sakanoueno-kumo | 2010-11-29 03:40 | 龍馬伝 | Trackback(3) | Comments(8)  

坂本龍馬の人物像についての考察。

 NHK大河ドラマ「龍馬伝」が、次回で最終回を向かえる。毎週ドラマの進行に沿いながら、史実・通説との対比や私見を述べさせてもらってきたが、最終回を向かえるにあたって、今更ながら坂本龍馬の人物像についてふれてみたいと思う。

e0158128_14402415.jpg 坂本龍馬といえば、人々の中に強い一定のイメージが存在する。明るく、楽天的で、濶達で、気取りがない。粗野に見えるところもあるが、陰険さがまったく感じられないので、とにかく好感がもてる。同時代に生きる「志士」たちのイメージといえば、激情家で、眉をつり上げ、とらわれた精神の持ち主という、いわば悲憤慷慨型の人物を連想しがちだが、龍馬にはそういった気負いがまったく感じられず、良くも悪しくも自然体の自由人といったイメージだ。

 では、そうした龍馬像はいつごろから定着したのだろうか。龍馬をあつかった小説として司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』は決定的で、私たちの持つ龍馬像はこの作品によって作られたと言われることに異論はないが、では、その司馬・龍馬像は、どのようにして出来たのだろうか。歴史家の故・飛鳥井雅道氏はその著書の中で、龍馬の人物像は明治、大正、昭和の時代背景に応じて段階的に形成されていったと説く。

e0158128_144152100.jpg 最初に龍馬が脚光をあびたのは、明治16年(1883年)に高知の土陽新聞で連載された「汗血千里の駒」という小説だった。著者は自由民権運動家で小説家の坂崎紫瀾。自由民権運動の激化の中で、悪は薩長にありとのキャンペーンが民権派の中に浸透されていく過程でのことだった。民権運動の中で育った若き坂崎紫瀾は、維新前、土佐を二分していた上士と下士の対立をそのまま藩閥対民党の対立にかぶせ合わせて話を展開していった。維新に際して土佐藩は完全に薩長の後塵を拝し、征韓論以来、政府の片隅に追いやられてしまっていた土佐派が、板垣退助後藤象二郎をはじめとして、なんとか土佐の役割を復権したいと模索していた時期だっただけに、この小説の影響力は大きかった。板垣はこのころから、「自分の今日あるは坂本龍馬先生のおかげである」などと好んで言い始めていたという。龍馬の復活は死後十数年経った明治中期、まずは民権派の源流としてであった。

e0158128_14424896.jpg 次に龍馬の名が世間に轟いたのは、明治37年(1904年)2月、近代日本の二度目の大博打たる日露戦争の戦端が開かれ、国民の中に憂色が立ち込めていた時期だった。そんなおり、新聞各紙は突然、「皇后の奇夢」と題したセンセーショナルな記事を発表する。日本がロシアと国交を断絶した2月6日、皇后の夢に白装の武士があらわれ、「微臣は維新前、国事のために身を致したる南海の坂本龍馬と申す者に候。海軍のことは当時より熱心に心掛けたるところにござれば、このたび露国とのこと、身は亡き数に入り候えども魂魄は御国の海軍にとどまり、いささかの力を尽すべく候。勝敗のことご安堵あらまほしく。」と語ったという。そして翌日の晩も再び皇后の夢枕に立ったという念の入りようだった。皇后が怪しんで側近にこの夢を語り、当時の宮内大臣で往年の陸援隊副隊長だった田中光顕が龍馬の写真を見せたところ、「容貌風采、この写真に寸分違ひなしと仰せられた」とあっては、龍馬ブームが爆発的に広がっていく理由としては十分すぎただろう。龍馬の墓の横には新たな碑が建てられ、「死して護国の鬼となる」とうたわれた。ここでの龍馬は、亀山社中のリーダーから海援隊の隊長にとどまらず、大日本帝国海軍の守護神にまで高められたのである。もちろん、この夢はおそらく作り話だろう。陸軍は長州閥、海軍は薩摩閥にその実権をにぎられ、二流の閑職かせいぜい皇后宮関係などの無難な場所に追いやられていた土佐派にとって、この龍馬の幽霊は大きな意味があった。演出者はほぼ想像がつく。龍馬の二度目の復活は、こうした背景の中、海軍の先駆者としてであった。

 「皇后の奇夢」から20年ほどが過ぎた大正末から昭和初年にかけて、立憲主義をとなえた大正デモクラシーが華やかに展開されていた。この立場によれば、明治維新は「万機公論ニ決スベシ」という「五箇条の御誓文」の精神にそってとらえなおすべきであり、藩閥政府は維新本来の精神に反しているという論だった。こうした「デモクラシー歴史観」の中で再び注目されたのが、龍馬の「船中八策」ならびに「新政府綱領八策」であったという。 「万機宜シク公議ニ決スベキ事」「外国ノ交際広ク公議ヲ採リ」など、この案では「公」が激しく強調されており、デモクラシー史観からは、この龍馬の案が「デモクラシー」の先駆的思考と考えられた。強く日本の変革を求めつつも、ボルシェヴィキ革命のような流血をさけたいとする民本主義者たちにとって、公儀を原則とする「大政奉還」、つまり平和革命コースはもっとも理想的な革命のモデルだった。こうした背景の中、龍馬の三度目の復活は、大正デモクラシーの源流、平和革命論者としてであった。

 こうして坂本龍馬は、「自由民権運動の祖」「大日本帝国海軍の祖」「大正デモクラシー的平和革命の祖」と、時代時代に合わせてその姿を変え、語り継がれてきた、と飛鳥井雅道氏はいう。だが、この龍馬の持つ3つの顔は、きわめて政治的な背景が生んだ虚像であることは言うまでもない。では、本来の龍馬像はどのようなものだったのだろう、という観点から生まれたのが、司馬遼太郎氏の小説『竜馬がゆく』であった。e0158128_1446159.jpg司馬氏は、それまでの龍馬が持つ政治的な匂いを払拭し、人々が抱き始めていた愛すべき龍馬像を司馬氏的に大きく拡大し定着することに成功したことで、戦後の龍馬像の決定版を作れたのだ。土佐にとらわれず、薩長にもとらわれず、さらには幕臣の勝海舟から貪欲に知見をむさぼりつくした自由人・坂本龍馬・・・と。この司馬氏的龍馬像も、司馬氏が作り出した虚像だといわれれば、そうかもしれない。事実、小説である以上、多分にフィクションが盛り込まれている。しかし、少なくとも司馬氏の龍馬像は、上記に見る政治的、思想的に都合よく利用されてきた龍馬像ではない。明治、大正、昭和と政治的に利用され、思想的に拡大解釈されてきた龍馬像は、死後100年が過ぎ、司馬氏の手によってようやく本来の龍馬像に近づき得たと私は思っている。

 今年また、大河ドラマの影響で5度目の龍馬ブームが起こった。ドラマに見る龍馬像については、最終回終了後の稿にゆずることにしたい。ただ、一言だけいえば、司馬氏的龍馬像を超える龍馬像はまだ生まれていない。


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by sakanoueno-kumo | 2010-11-25 22:51 | 歴史考察 | Trackback | Comments(4)  

龍馬伝 第47話「大政奉還」

 慶応3年(1867年)10月3日、土佐藩参政・後藤象二郎は、「大政奉還建白書」を二条城ににいる15代将軍・徳川慶喜のもとに提出した。土佐に帰国していた坂本龍馬が京都入りしたのは、その直後である。幕府ではこれを採用するか否か、議論百出のおりだった。もしこれを拒否すれば、薩摩、長州、芸州の連合軍の砲門が直ちに開かれるだろう。もしこれを受け入れれば、260年続いた徳川政権の終焉を意味する。慶喜は迷っていた。

 そんな時期、龍馬は土佐藩参政・福岡藤次の紹介で、在京中の幕府大目付・永井玄蕃頭尚志のもとを頻繁に訪ね、しきりに建白書の採用をすすめていたという。龍馬も必死だった。あるとき龍馬は永井に対して、「甚だ露骨な質問であるが、貴下は幕府の兵力をはかって能く、薩長連合軍を制しうると思われるか。」と問いかけたところ、永井は少し考え込んで「遺憾ながら勝利を保し難い」と答え、すかさず龍馬は「しからば今日、建白を採用なされるよりほかにとるべき道がないではないか。」とせまり、永井を沈黙させたという。永井尚志はのちに人に向かって、「福岡は真面目な人物」と評し、「後藤は確実正直」と語り、そして龍馬を評して、「後藤よりもいっそう高大にて、説くところもおもしろし」と言ったという。京での建白運動の表面に立っていたのは後藤象二郎だったが、その黒幕として龍馬がいかに重きをなしていたかが、永井の評からうかがい知ることができる。

 徳川慶喜は、10月13日に二条城に在京諸藩の重臣を招集して会議を開くと発表した。龍馬はこの時期、後藤に向けて二度手紙を送っている。一度目の手紙は、10月10日頃に送られたと思われるもの。
 「幕中の人情に行はれざるもの一ヶ条これあり候。其義は江戸の銀座を京師に移し候事なり。此一ヶ条さへ行はれ候へバ、かへりて将軍職は其まゝにても、名ありて実なれば、恐るゝにたらず奉存候。」
 大政奉還を将軍が受け入れようが受け入れまいが、江戸にある造幣局をすぐに京都に移せという。逆に造幣局さえ移してしまえば、将軍職などそのままにしていてもかまわない・・・と。つまり、徳川家から日本の経済権を一気に奪い取れというのだった。造幣権さえ奪ってしまえば、幕府は貨幣を作ることが出来ず、すぐに財政は破綻してしまう。幕府財政の破綻はそのまま幕府の崩壊に繋がり、有名無実のものとなる。そうなれば、大政奉還など成されなくとも、幕府は実体を失う・・・というものである。血で血を争う武力討幕よりも、はるかに先見性がある龍馬の経済眼。このあたりにも、龍馬の政治センスがうかがえる。

 二通目の手紙は、二条城登城の当日に送った手紙。その内容は、後藤象二郎の覚悟を促すための激励状とも脅迫状ともいえるものだった。
 「御相談被遣候建白之儀、万一行ハれざれば固(もと)より必死の御覚悟故、御下城無之時は、海援隊一手を以て大樹参内の道路ニ待受、社稷(しゃしょく)の為、不戴天の讐(あだ)を報じ、事の成否ニ論なく、先生ニ地下ニ御面会仕候。○草案中ニ一切政刑を挙て朝廷ニ帰還し云々、此一句他日幕府よりの謝表中ニ万一遺漏有之歟(か)、或ハ此一句之前後を交錯し、政刑を帰還するの実行を阻障せしむるか、従来上件ハ鎌倉已来武門ニ帰せる大権を解かしむる之重事なれバ、幕府に於てハいかにも難断(だんじがたき)の儀なり。是故に営中の儀論の目的唯此一欸已耳(のみに)あり。万一先生(後藤象二郎)一身失策の為に天下の大機会を失せバ、其罪天地ニ容るべからず。果して然らバ小弟亦、薩長二藩の督責を免れず。豈(あに)徒(いたずら)ニ天地の間に立べけんや。  誠恐誠懼
十月十三日  龍馬
後藤先生」

 もし、大政奉還が成らなかったときは、下城する慶喜公の列に海援隊を率いて斬り込み、慶喜を殺して自分も死ぬ、というのだ。龍馬は決死の覚悟だった。この10ヵ月前、姉・乙女に宛てた手紙の中で、「人と言ものハ、短気してめつたニ死ぬものでなく、又人おころすものでなし」といっていた龍馬とは別人のようだ。それだけ、龍馬にとってこの日は、自身が推し進めてきた仕事の最大のヤマ場だったのである。

 この日、海援隊士および在京の同志たちは、皆、龍馬の下宿に集まっていた。後藤からの連絡はなかなか届かない。龍馬はイライラしながら待った。そしてその夜、ようやく後藤からの一報が入る。
 「大樹公、政権を朝廷ニ帰スの号令を示せり。」 龍馬は慶喜の英断に感動した。このときの龍馬の言動を最初に筆したのは、坂崎紫欄が明治27年に著した容堂伝『鯨海酔候 』で、 「坂本は何に思ひけん、傍なる中島作太郎に向ひて、慶喜公が今日の心中左こそと察し申す、龍馬は誓て此人の為めに、一命を捨つべきぞと、覚えず大息したり。」と記されており、また、渋沢栄一が編纂し大正7年に刊行された『徳川慶喜公伝』では、「将軍家今日の御心中さこそと察し奉る、よくも断じ給へるものかな、よくも断じ給へるものかな、余は誓つて此公の為に一命を捨てんと、覚えず大息したり。」という。時代が進むにつれ、多少オーバーになってきているようだが、少なからずこれに似た言葉を龍馬は言ったようだ。

 徳川慶喜が大政奉還にふみ切った理由については、様々な見方がある。内乱を避けるために一旦は政権を返上するも、朝廷はこれをもてあまし、結局は徳川家の手に戻ってくるという計算だったという説もある。そうだったかもしれない。しかし、少なくとも龍馬はそうは思っていなかったことが、上記の言動でもわかる。このときの龍馬の感情を、司馬遼太郎氏は小説『竜馬がゆく』の中でこう記す。
 「この男のこのときの感動ほど複雑で、しかも単純なものはなかったといっていい。日本は慶喜の自己犠牲によって救われた、と竜馬は思ったのであろう。この自己犠牲をやってのけた慶喜に、竜馬はほとんど奇蹟を感じた。その慶喜の心中の激痛は、この案の企画者である竜馬以外に理解者はいない。いまや、慶喜と竜馬は、日本史のこの時点でたった二人の同志であった。」
 
 大政奉還は、坂本龍馬と徳川慶喜の合作だったといっていいだろう。


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by sakanoueno-kumo | 2010-11-22 02:38 | 龍馬伝 | Trackback(4) | Comments(0)  

龍馬伝 第46話「土佐の大勝負」

 下関でお龍と別れた坂本龍馬は、慶応3年(1867年)9月24日、土佐・浦戸に入港した。2ヵ月前に「英艦イカルス号事件」の談判のため帰国した際は、藩内佐幕派をはばかり上陸することはなかった龍馬だったが、この度は上陸して浦戸沿岸の種崎の民家に潜んだ。ドラマでは、龍馬と後藤象二郎が直々に山内容堂に会い、大政奉還建白書を書くよう説得する内容だったが、通説では既に容堂は大政奉還を土佐藩の藩論とする意向を固めており、9月上旬には建白書を書いて後藤を上京させている。龍馬が土佐入りしたこの時期は既に後藤は京にいて、大政奉還の周旋活動をしていた。

 龍馬が容堂に会ったという事実はもちろんない。龍馬は帰国後すぐに藩参政・渡辺弥久馬、大目付・本山只一郎、同じく大目付・森権利次らと会合し、武力討幕に向け薩長の活動が活発化している緊迫した情勢を伝えた。龍馬の談ずるところを聞いた3人はことごとく感服して引き上げ、彼らの周旋によって事態を悟った土佐藩は、龍馬が持参したライフル銃1000挺を全て買い入れることに合意した。つまり、このとき龍馬が帰国した理由は、大政奉還を藩論として幕府に訴えながらも、それが受け容れっられないときには薩長の推し進める武力討幕に参戦せよ、と説得しにきたのだ。

 私は、しばしば龍馬が“平和主義の象徴”のように描かれることに不満を覚える。先日の拙稿でも述べたが<参照:坂本龍馬の「大政奉還論」と、中岡慎太郎の「武力倒幕論」(前編)(後編)>、龍馬は決して平和主義の非戦論者ではなかった。この一月ほど前に長府にいる三吉慎蔵に宛てた手紙の中で、「幕府との開戦のあかつきには、薩、長、土三藩の連合艦隊を編成し、強大な幕府海軍に対抗したい。」と述べており、また、土佐に向かう直前に木戸孝允(桂小五郎)に宛てた手紙でも、「後藤が用兵を躊躇するならば、むしろ後藤を見限って乾退助を動かす。」という旨を述べている。平成の現代の価値観で、「歴史の英雄・坂本龍馬は、常に平和的解決を望む素晴らしい人物だった」といった虚像を描き、視聴者に植え付けるのはいかがなものだろうか。

 思惑どおりに事が運んだ龍馬は、藩役人らのはからいもあって、家族の住む実家を訪ねた。文久2年(1862年)3月に脱藩して以来、約5年半ぶりの帰省だった。そのときの様子を、「維新土佐勤王史」では次のように伝えている。
 「今度こそは我家をも訪ふて、兄姉と一宵の歓を尽さやばと、そのまさに発せんとする前一夕、京侍の戸田雅楽を伴ひて、己が生長せる本丁兄権平の宅を叩きて、姉の乙女とも、絶えて久しき対面に及び、神祭に醸せし土佐の白酒に、うましうましと下打ち鳴らし、主客ともに談笑のうちに語り明かしぬ。」
 龍馬に同行して土佐を訪れていた同志・戸田雅楽を引き連れて、坂本家に帰ったらしい。家族がいかに龍馬の突然の帰省を歓迎していたかが手に取るように伝わってくる。このときの様子を伝える史料として、もうひとつ、龍馬に同行して土佐に入った海援隊士・岡内俊太郎が、佐々木高行に宛てた手紙の中では、
 「さて龍馬、高知へ旅人となりて滞留中、夜中密かに上町の自宅に参り、実兄権平、姉乙女、姪春猪たちと五年ぶりにて面会、旧を語り、戸田雅楽も参り、権平より鍔を貰ひ大いに喜び申候。」
 と記されている。兄・権平から刀の鍔を貰い受けたようで、大そう喜んでいた龍馬の様子を伝えている。黙って家出していった薄情な弟に対するこの歓迎ぶりはどうだろう。末っ子の龍馬が、いかに兄・姉から愛されていたかがうかがえる史料だ。このとき坂本家の人々は、これが龍馬と今生の別れになるとは知る由もなく・・・。

 「答えや!坂本。武士も大名ものうなってしもうた世の中に何が残る。何が残るがじゃ!」
 ドラマ中、大政奉還建白書を書くよう説得する龍馬に対して容堂が言った台詞。
 そして龍馬が答える。
 「日本人です。異国と堂々と渡り合える日本人が、残るがです。」

 この時期の龍馬は、まぎれもなく「日本人」だった。土佐藩士ではなく、「日本人」だったのだ。この時代に生きる人々のいう国は、「藩」だった。あの西郷隆盛ですら、最期まで「薩摩人」から脱却できなかった。木戸孝允もまた然り。そんな志士たちの中で、龍馬ただ独り「日本人」たり得たことが、後世に英雄視される所以だが、それはかなり危険な思想でもあった。平成の現代において、「世界平和のためなら日本一国など無くなってもいい」などと言ったら、これはよほど危険な考えだということがわかるだろう。龍馬のいう「大政奉還」「船中八策」とは、つまりはそういうことなのである。土佐も薩摩も長州も幕府もない、日本という国を作る・・・山内容堂や後藤象二郎が、それをどこまで理解していたかはわからないが、龍馬が「日本人」たり得たことが、彼の寿命を短くした所以だといっても、言いすぎではないだろう。


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by sakanoueno-kumo | 2010-11-19 01:46 | 龍馬伝 | Trackback(2) | Comments(6)  

中岡慎太郎の命日に訪れる、坂本龍馬、中岡慎太郎、遭難の地。

 本日、11月17日(旧暦)は中岡慎太郎の命日。前稿でも記述したとおり(参照:坂本龍馬の命日に再考する、龍馬と中岡慎太郎の暗殺犯の諸説。)、1867年(慶応3年)11月15日、京都・近江屋において坂本龍馬と中岡慎太郎が何者かの手によって暗殺された。龍馬はほぼ即死。慎太郎は蘇生し、2日間生き延び、一時は焼き飯を食べるほどの元気を取り戻していたというが、その後容態は悪化、17日に死去した。享年30歳。現在に伝わる襲撃時の様子は、蘇生した慎太郎が語ったものだといわれている。

 本日朝から、急な打ち合わせの仕事が入り、京都を訪れていた。せっかく京都に来たのだから、ちょうど中岡慎太郎の命日ということもあり、二人の受難の地・近江屋跡まで足を伸ばした。二人が暗殺された近江屋は、土佐藩邸用達の醤油商。京都市中京区河原町通四条にあった近江屋は現在は残っておらず、京都市内一番の繁華街となった四条河原町に、石碑がひっそりと立っている。

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 ここを訪れるのは今年2度目。2月に訪れたときも、拙ブログにて紹介させてもらった(参照:坂本龍馬、中岡慎太郎 遭難の地)。本日、訪れてみると、おそらく一昨日の龍馬の命日に誰かが供えたであろう献花が、石碑の横にあった。突然思いつきで訪れた私は何の用意もしておらず、ただ手を合わせただけだったが・・・。

 近江屋跡は、今はコンビニエンスストアになっている。店の中には当然、龍馬グッズの販売コーナーがあった。前回訪れたときはマグカップを衝動買いしてしまったが、今回もまた、衝動買いをしてしまった。

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 龍馬伝のボールペンシャーペン。せっかく来たのだから、何か買って帰らないといけないような衝動に駆られてしまうのは、その昔、観光地などで販売されていた記念ペナントと同じようなもので、金を捨てるようなものなのだが、わかっていてもまんまと店の思惑にハマって買ってしまう幼稚な私です。それにしても、龍馬グッズばかりで慎太郎のグッズがないのが不憫だ。

 以前も述べたことだが、ここは龍馬ファンにとっては聖地のひとつであるものの、京都市一番の繁華街に埋もれ、気づかずに通り過ぎてしまいそうな場所。私が写真撮影をしていると、通行人が初めて気づいた様子で石碑に目をやっていた。いくら市内繁華街のど真ん中とはいえ、龍馬暗殺の場所がコンビニというのはどうだろう。行政が買い取って保護することは出来なかったのだろうか。幕末の英雄・坂本龍馬の落命の地としては、あまりにも粗末な扱いに憤懣を感じる。何とかならないものだろうか・・・。

 とにもかくにも、大河ドラマ「龍馬伝」も、もうすぐ最終回を向かえる。


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by sakanoueno-kumo | 2010-11-17 16:53 | 京都の史跡・観光 | Trackback(1) | Comments(4)  

坂本龍馬の命日に再考する、龍馬と中岡慎太郎の暗殺犯の諸説。

 本日、11月15日(旧暦)は坂本龍馬の命日。今から143年前の1867年(慶応3年)11月15日、京都・近江屋において坂本龍馬と中岡慎太郎が何者かの手によって暗殺された。奇しくもこの日は、龍馬の33回目の誕生日でもあった。事件当日の内容は、2週後の大河ドラマ「龍馬伝」の最終回の稿に譲るとして、命日の今日は、未だ歴史の謎とされている暗殺犯の諸説、その代表的なものを簡単にまとめてみた。

■ 新選組説
 事件後、最初に疑われたのは新選組だった。彼らは言わずと知れた佐幕派の警察組織で、殺人集団ある。龍馬を襲う動機は十分にあり、また事件現場に証拠となる下駄刀の鞘が残っていたことが、疑いの発端となった。下駄は新選組がよく出入する料亭「瓢亭」のもので、鞘は新選組隊士・原田左之助のものであると、元新選組隊士であった高台寺党の伊東甲子太郎が証言している。この左之助説については、事件後2日間生き延びた中岡慎太郎が、刺客の中に「こなくそ」という伊予弁を使う人物がいたと証言したことで、伊予出身であるの原田左之助への疑いが強まった。以後明治に入るまでこの説が最も有力とされ、実際に新選組隊士・大石鍬次郎などはその疑いで処刑されている。しかし、その物証については後世の研究で矛盾点が立証され、また、慎太郎の証言についても信憑性を欠く部分が多く、現在では、この説を支持する人はほとんどない。

■ 見廻組説 
 この見廻組説が、現在もっとも定説とされているものである。上記、新選組の大石鍬次郎が官軍に捕えられたとき、龍馬暗殺の実行犯を「見廻組の今井信郎らの仕業だという話を聞いた。」と供述した。見廻組は幕府が設置した特殊治安部隊で、浪士結社の新選組に対して幕臣をもって組織された隊で、その任務は同じである。明治3年、函館の旧幕軍が降伏し、その降軍の中に今井信郎を発見、明治新政府の手によって捕えられた。今井はほどなく犯行を自供。供述によれば刺客団は隊長の佐々木唯三郎を頭に、今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎の7人。しかし、今井自身はあくまで見張り役をしただけで、直接手を下してはいないという。真実はわからないが、結局今井は禁錮刑という軽い刑ですみ、明治5年(1872年)、特赦によって釈放されている。その後28年経った明治33年(1900年)、今井信郎自身が雑誌「近畿評論」「坂本龍馬を自らが斬った」と発表し、物議を醸した。さらに、それから15年後の大正4年(1915年)、渡辺篤という老人が自身の死を目前にして、坂本龍馬を殺したのは自分だと告白している。この老人が上記、渡辺吉太郎かどうかは定かではない。ただ、この渡辺の告白と今井の供述は、刺客の人数や名前など食い違う点が多く、その点はよくわからないが、二人とも襲撃時の供述内容は具体的な部分でも一致する点が多く、ほぼ信頼できる説となっている。しかし、上記、今井の減刑については何らかの政治的圧力があったといわれており、また、今井の自白があったにもかかわらず、見廻組が実行犯という説は明治政府上層部のみに知られる事実として、なぜか世間には公表されず、そのため新選組説がその後も長く信じられることとなったことから、現在でも研究者の間で様々な推論がる。

■ 紀州藩説
 この説は、動機としてはもっともわかりやすい。慶応3年4月、海援隊が搭乗していた船・いろは丸と紀州藩の船・明光丸が衝突した、いわゆる「いろは丸事件」によって紀州藩は賠償金8万3千両を支払うこととなった。我が国最初の「海難裁判」といわれるこの事件で、大藩の紀州相手に龍馬率いる浪士集団が勝った。このとき紀州代表として交渉にあたったのが三浦休太郎という人物で、以後、龍馬に対して恨みを抱いていたという。その報復による暗殺というのがこの説。実際、この「いろは丸事件」の談判中、龍馬暗殺を企てていたという話もある。龍馬の死後、海援隊の番頭格だった陸奥陽之助などは紀州藩を疑い、海援隊・陸援隊士ら16名で三浦を襲撃している(天満屋事件)。しかし、新選組に護衛を依頼していた三浦休太郎は軽傷のみで終わり、以後明治43年(1910年)まで長寿している。動機としては、もっとも単純で説得力もあり、陸奥が疑ったのも無理はないように思うが、この説にはこれといった証拠もなく、憶測の域を出ない。

■土佐藩黒幕説
 龍馬の所属藩であるはずの土佐藩だが、藩内での龍馬の身分は低く、しかもこの1年ほど前までは脱藩の罪で追われていた罪人の立場。この時期、天下の名士として名を轟かせていた龍馬だったが、他藩である薩摩や長州から懇意にされるほど土佐人からは重視されず、むしろ疎ましく思う者たちがいたであろうことも容易に想像できる。「大政奉還」という藩論を掲げて手を結んだ土佐藩参政・後藤象二郎と龍馬だったが、その信頼関係はどこまで築かれていたかはわからない。龍馬が起草したといわれる「船中八策」の案を後藤が自分の手柄にするため龍馬を殺したという説があるが、この論でいくと龍馬の秘書官であった海援隊士・長岡謙吉なども殺さねばならず、少し無理がある推論だ。他、土佐藩にも薩摩藩と同じ武力倒幕を推す派もおり、その代表格である谷干城の仕業という説。谷は龍馬の暗殺現場に真っ先に駆けつけた人物。事件後2日間生き延びた中岡慎太郎の証言は、この谷によって語られたものだ。現場の遺留品なども彼が発見したものであり、上記・新選組説を強く信じていて、局長・近藤勇を斬首に処したのも谷である。見方を変えれば、その新選組説を作ったのが谷だったとも言えるわけだが、これも少々深読みし過ぎの観は否めない。谷は生涯を通して龍馬の暗殺犯を追ったという。

■薩摩藩黒幕説
 土佐藩説に比べて、こちらはリアリティーがある。龍馬と親交の深かった薩摩藩だったが、この時期に来てその関係は変わってくる。龍馬の推し進める「大政奉還」に表面では賛同しながらも、実際には武力倒幕の準備を着々と進めていた薩摩藩にとっては、平和改革路線を主張する龍馬は目障りな存在になりつつあった。革命成就後の地位確保のために、龍馬を消したというのがこの説の推論。実行犯は中村半次郎(桐野利秋)という説もあるが、暗殺未遂の場合を想定すると、他藩に顔の売れた中村ではリスクが大きく考え難い。直接薩摩藩士が手を下さず、黒幕として足が付かない刺客を送ったと考えるのが妥当だろう。とすれば、この時期薩摩藩を動かしていたのは、西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀の3人で、このうちの誰かが下命したと考えられる。西郷と小松は龍馬と昵懇だったが、大久保と龍馬の関係はあまり伝わっていないことから大久保を黒幕とする説があるが、逆に大久保は龍馬という人物をそれほど重視していた様子はうかがえず、また、事件後、大久保は龍馬や慎太郎と親交の深かった岩倉具視宛の手紙の中で、二人の死について驚きと遺憾の意を記しており、これを信じれば大久保は事件とは無関係ということになる。その手紙すら、味方をも欺くための偽文書と疑うこともできるが、そこまでいくと深読みしすぎのようにも思える。一方で西郷を黒幕とする説。上記見廻組説で実行犯のひとりとされた今井信郎の減刑に、西郷の口添えがあったという説がある。西郷と今井に面識はなかった。この話が事実だとすれば、西郷がなぜ面識のない今井の助命運動に疾走したのか、という疑問になり、そのことで、龍馬暗殺と西郷の何らかの関わりを想像できるが、この西郷の口添え説を裏付ける史料は残っておらず、憶測の域を出ない。ただ、後世の小説などにあるような、西郷と龍馬の間に信頼関係があったかどうかは疑わしく、また、もしそのような信頼関係があったとしても、幕末きってのマキャヴェリスト西郷にとって、武力倒幕を断行するにあたって目障りな存在となった龍馬を消すことなど、ためらいの余地もなかっただろう。大久保説は、のちの明治政府での政争で後世に与えた不人気なイメージが作り出したもので、客観的に見れば、黒幕は西郷と考えるほうが、説得力があるように私は思う。

 他にも俗説は多々あるが、上記が主だったものである。私個人的には、実行犯は通説となっている見廻組とみてほぼ間違いないのではないかと思う。そこに黒幕がいたとすれば、これも現在通説となっている薩摩藩、その中でも西郷隆盛説にもっとも真実味を感じる。しかし武力倒幕を進めるにあたって、殺さねばならないほど薩摩が龍馬を重要視していたかという点では首を傾げるし、武力派にとっていわば同志である中岡慎太郎の死は薩摩にとって痛手だったはずで、そういった疑問は残る。その点で考えれば、単純に見廻組単独犯説というのも捨てきれない。実際に龍馬は前年の「寺田屋事件」以降、捕り方を殺害した罪で幕府から追われる身となっていた。「大政奉還」は幕府延命の妙案であり、それが龍馬によって推進されていることも幕府上層部の一部には知られていたものの、末端の知るところではなく、この時期でもまだ、坂本龍馬は幕府にとっての危険人物という認識だった。濡れ衣を着せられた新選組も同様の認識だったようだ。事実、今井は、「上からの命令」と供述しており、事件当日の昼間に堂々と近江屋に訪れ龍馬の不在を確認している事実から考えれば、見廻組にとっては正当な警察権の行使だった可能性は否定できない。

 こうして見ても、どの説にしても決定的な論証はなく、この先新しい史料が見つかる可能性も低く、永遠に歴史の謎だろう。通常、犯人探しのセオリーは、「恨みを抱いていたのは誰か?」「目障りに思っていたのは誰か?」「得をしたのは誰か?」という着眼点で絞り込むものだが、龍馬の場合その条件に該当する者が多数いて、そのことが諸説を生む要因だといえる。後世の私たちから見れば愛すべき人物像の坂本龍馬だが、同時代に生きる者たちにとっては、必ずしもそうではなかったようだ。
 龍馬の語録にこんな言葉がある。
 「義理などは夢にも思ふことなかれ。身をしばらるるものなり。」
 「薄情の道、不人情の道、わするることなかれ。」

 大事を成すためには、義理や情を捨てよ、という意味。儒教的な道徳が支配していたこの時代において、龍馬のこの言葉はあまりにも非常識な言葉だ。これは国事に疾走するための自戒の念を込めた言葉で、本当に龍馬がこの言葉どおり生きていたかはわからないが、彼の濶達な生き方は、ときに人の恨みをかったり目障りな存在となったであろうことは容易に想像できる。 「敷居をまたげば、男には七人の敵がいる。」という言葉があるが、志を遂げるためにその何十倍もの敵を作ったであろう晩年の龍馬にとって、非業の最後は、避けられない必然だったのかもしれない。


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by sakanoueno-kumo | 2010-11-15 21:55 | 歴史考察 | Trackback(2) | Comments(9)  

坂本龍馬の「大政奉還論」と、中岡慎太郎の「武力倒幕論」(後編)

 坂本龍馬大政奉還の周旋に動き始めた慶応2年(1866年)末、中岡慎太郎は、「窃(ひそか)に知己に示す論」(慶応2年10月執筆)、「愚論 窃に知己の人に示す」(同年11月執筆)という二つの論文を記している。
e0158128_1555366.jpg 「徳川を助くる今日の策は他無し。政権を朝廷に返上し、自ら退いて道を治め、臣子の分を尽すにあり。強て自から威を張らんとせば、則ち必滅疑無。諸侯若し信あらば、今日暴威を助けて自滅に至らんよりは、早く忠告し、一大諸侯となり、永久の基を立てしむべし。」
 この慎太郎の記した「窃に知己に示す論」の結論を見ると、龍馬の大政奉還論と根本的に一致していることがわかる。前年に記した「時勢論」の、「戦の一字」の名文が一人歩きし、武力倒幕一辺倒のイメージでとられがちな彼だが、この論文を見ると決してそうではなかったことがうかがえる。また、「愚論 窃に知己の人に示す」ではこうも記している。
 「窃に思ふに、大に開かんとすれば、其の船の仕法肝要なる故に、大坂辺の豪商と結び、洋商公会の法に習ひ商会を結び、下ノ関、大坂、長崎、上海、香港等へ其の局内の者を出し、大に国財を養ひたらば、海軍の助になるべし。」
 土佐の藩政改革を論及したものだが、ここでも龍馬の発想に接近していることは明らかだ。龍馬から得た経済眼だったと考えてもいいかもしれない。慎太郎は、龍馬のいう大政奉還論や経済感覚を、完全に肯定するまでには至らずとも、ひとつの手段として認めていたことがうかがえる。

 龍馬はどうだろう。慎太郎のいう武力倒幕論を全く認めない、平和主義非戦論者だったのだろうか。私は違うと思っている。たしかに彼は、慶応3年(1867年)5月、京における四侯会議がまとまらず、薩長がもはや武力討幕しかないと考え始めていたとき、「船中八策」後藤象二郎に説き、大政奉還を土佐の藩論とするよう促した。彼はこの時期、「いろは丸沈没事件」の談判で無駄な日々を費やしており、京の情勢に疎くなっていたという歴史家もいる。それも違うと思う。龍馬は現実を見据え、もっとも可能性の高い道を探していたのだと私は思う。

e0158128_1563989.jpg 長州は、前年の四境戦争で幕軍を追い払うだけの実力があることは証明された。薩摩も同等の力はあるだろう。しかし、徳川慶喜の率いる幕府直属軍も、フランス陸軍の援助のもとに軍制改革が強化されており、四境戦争のときよりかなり質が高まってきていることは、薩長とて知らないはずはない。薩長が事を起こすとしても、この5月、6月の段階ではまだ準備不足で、必ず勝てる保障などどこにもなかった。そんな博打のような革命路線で多くの無駄な命を亡くすことは、龍馬は避けたかったのだろう。龍馬が起案した「大政奉還」への道筋は、もし、幕府がこれを受け入れればそれでよし、受け入れずとも、この案を土佐藩が藩論として幕府に促している間に、武力討幕の準備も同時進行で進めるといった、両道の、いわば引き伸ばし策でもあったのではないだろうか。ここでも、あらゆる可能性を考えて策を施す、龍馬の現実的な政治手腕がうかがえる。後藤がこれを、まったくの平和路線と考え、これで武力討幕派を抑えて土佐藩がイニシアティブをとれると思ったことは間違いないだろう。しかし、龍馬は武力倒幕の道を完全否定しているわけではなかった。

 つまり私が言いたいのは、中岡慎太郎の武力討幕論に対して、坂本龍馬は大政奉還論平和革命コースという常識は、必ずしもそうとはいえないということだ。たしかに言論だけ見ていけば、慎太郎の方が武力倒幕論一本でまとまっている。しかし、実際の行動を見ると、慎太郎は龍馬の海援隊に呼応する陸援隊を作ったものの、現実には小銃の買い入れさえ上手く進んでいなかったのに対し、龍馬は新式ライフル銃1300挺を買い入れ、そのうち1000挺を土佐に送りつけるなど、はるかに具体的な討幕の準備を進めていた。言論で促すよりも、1000挺のライフル銃を土佐がどう始末するか、龍馬流の土佐藩に対する脅しだったのではないだろうか。龍馬と慎太郎は、決して相反する考えだったわけではなく、間違いなく同志だった。龍馬は、武力倒幕の準備を全力をあげて行った上で、薩摩、長州、土佐がまだその実力を持てない状況を見据え、もうひとつの道、「大政奉還」の案をいまひと押ししようとしたのだろうと私は思う。

 前編の冒頭で述べたように、もともと大政奉還論は、幕府側から出たものである。その大政奉還を、龍馬はかたちを変えてぎりぎりのタイミングで幕府に投げ返した。この政治的センスの良さは坂本龍馬の大きな魅力のひとつで、高く評価していいのではないだろうか。

坂本龍馬の「大政奉還論」と、中岡慎太郎の「武力倒幕論」(前編)


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by sakanoueno-kumo | 2010-11-11 23:59 | 歴史考察 | Trackback | Comments(2)  

坂本龍馬の「大政奉還論」と、中岡慎太郎の「武力倒幕論」(前編)

 「大政奉還論」は、もちろん坂本龍馬が考えたものではない。最初に提唱したのは、幕閣の大久保一翁だった。一翁は文久2年(1862年)、幕府の衰退が甚だしい情勢から、政権を朝廷に返上して、徳川家も駿河一体の一大名になるべきだと城中で説いた。このとき幕府内では誰も賛同する者はいなかったが、その後、越前藩主・松平春嶽も同年10月13日付の政治総裁職辞任願で同意見を記し、翌年1月18日には勝海舟も江戸城大広間で将軍職辞退を発言している。ただ、この頃の大政奉還論は、後年の龍馬のそれとはニュアンスが少し違う。嘉永6年(1853年)の黒船来航から、幕府は鎖国が不可能であることを認識していた。しかし、当時の孝明天皇は開国に反対し、攘夷を求め続けていた。一翁たちのいう大政奉還論は、開国の必要性を朝廷に認識させ、それと引き換えに政権を返上する、といった意味での論だった。幕府の政権はあくまでも天皇から委任されたものであり、日本の第一主権者は天皇であることは歴史的にも明白であったが、鎌倉幕府以来600年以上も続いていた武家政権の中、朝廷に政権担当能力などなかった。攘夷、攘夷と簡単にいうが、では政権を返すから、やれるものならやってみろ、といった露骨な批判の意味を込めた大政奉還論だった。幕府側から出た大政奉還論は、つきつめれば低意はそこにあった。

e0158128_1524677.jpg 坂本龍馬が大政奉還論を初めて口にした記録は、慶応2年(1866年)8月、四境戦争で幕府が長州に敗れたのちだった。長崎にいた龍馬を訪ねてきた越前藩士・下山尚に、幕府はもうだめだ、親藩の春嶽公なら何とかなるから、「政権奉還ノ策ヲ速ヤカニ春嶽公ニ告ゲ、公一身之レニ当ラバ、幸ニ済スベキアラン」と語っている。春嶽が大政奉還の意見だったことは海舟から聞いていたことだろう。下山尚は越前への帰途、横井小楠に面会してこの龍馬の意見を告げると、小楠は「手ヲ拍シテ歎シタ」という。大政奉還論はもともと小楠からの発想でもあったからだ。越前に戻った下山は、直ちにこの意見を春嶽に伝えた。しかし、春嶽は難色を示した。彼がこの意見を述べた4年前とは情勢が変わっていたからである。4年前のそれは、朝廷はたとえ政権返上案を突きつけられても、のめるはずがないことが分かっていての、いわば脅しの意味のそれだった。今は違う。大政奉還は、徳川政権の終焉を意味する。春嶽にそれほどの意欲はなかった。彼は賢公ではあったが、所詮、実行の人ではなかった。

e0158128_1533825.jpg この時期より少し前の慶応元年末、中岡慎太郎は独自の論法で倒幕への見通しをたてた論文を記している。有名な「時勢論」である。封建の害の克服を目指して書かれたこの論の主眼は、龍馬とは違い武力そのものに集中していた。
 「夫れ国に兵権有て然る後、可和、可戦、可開、可鎖、皆権は我に在りて、而して其兵権なるものは武備に在り。其の気は士気にあり、故に卓見者の言に曰く、富国強兵と云うものは、戦の一字にあり、是れ実に大卓見にして千載の高議、確乎として不可抜、則も知能の事に処する者、且和し、且戦い、終始変化無窮極る者なり。」
 のちに伝説的に伝えられることになる「戦の一字」なのだが、この武力に集中した慎太郎の発想は、二度も朝廷の「賊」として追われた長州激派と共に行動してきた経験から引き出された信念だったといえる。彼はこの中で、死んだ久坂玄瑞の言葉を借りてこう記す。
 「西洋諸国と雖、魯王のペートル、米利堅のワシントン師の如き、国を興す者の事業を見るに、是非共百戦中より英傑起り、議論に定りたる者に非らざれば、役に立たざるもの也。是非共早く一旦戦争を始めざれば、議論計りになりて事業は何時迄も運び不申」
 ロシアのペートル大帝を見ても、アメリカのワシントン大統領を見ても、戦争なくして革命は成立しないといった慎太郎の論は、決して的外れではなかった。

 歴史家の中には、この時期の龍馬の行動について、大政奉還の周旋を春嶽に依頼したことなどをあげて、「龍馬が主張する大政奉還論は、中岡の場合と違って現実の厳しい諸勢力の対立をかなり安易に判断しているとみなければならない。」と、手厳しい評価を下しているものもあるが、私はそうは思わない。薩摩も長州もまだ具体的な討幕の計画が出されていない慶応2年8月、大政奉還論というひとつの手段を、かねてから知り合いだった春嶽に促してみただけで、春嶽が動けばそれはそれで結構なことで、やらなければまた別の方法を考えればよしといった程度のものだったのではないだろうか。あらゆる可能性の種を一応は蒔いて布石を打っておくこと、これこそ龍馬の能力ではないだろうか。

坂本龍馬の「大政奉還論」と、中岡慎太郎の「武力倒幕論」(後編)


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by sakanoueno-kumo | 2010-11-10 23:59 | 歴史考察 | Trackback | Comments(0)  

龍馬伝 第45話「龍馬の休日」

 前話の「英艦イカルス号事件」に一応の決着を見た坂本龍馬は、慶応3年(1867年)9月18日、芸州藩汽船・震天丸を借用して長崎を出航した。今話で登場した佐々木高行(三四郎)と相談して購入したライフル銃1000挺を土佐に届けるためだった。同月20日、震天丸は下関に寄港する。滞在は2日間、22日には下関を出帆して土佐へ向う。これが、お龍との永訣となった。

 このときより7ヵ月ほど遡った慶応3年(1867年)2月10日、龍馬はお龍を連れて下関を訪れ、豪商・伊藤助太夫の家の一室を借り受け、そこを「自然堂(じねんどう)」と名付け、夫婦の生活の場とした。「自然堂」とは龍馬の号。号とは文人などの雅名のことで、今風に言うとペンネーム。慶応元年(1865年)以来親交があったとされる伊藤助太夫は、このときしばしば龍馬夫妻を歌会へ誘ったと伝えられており、「自然堂」の号はその際に使用していたものと思われるが、現存する龍馬の書簡では、龍馬暗殺の1ヵ月前に陸奥宗光に宛てた手紙で使用されているだけである。
自然堂・・・いかにも自然体なイメージの龍馬らしい号だ。

 龍馬は2月27日から病気になり、「いろは丸事件」が起こる少し前の3月下旬まで自然堂でお龍と2人の時間を過ごした。前年の幕長戦争以降、休む間もなく働き通しだった龍馬にとっては、夫婦水入らずの、ひとときの安らぎの期間だった。

 伊藤家で催された春の歌会で、龍馬が詠んで第2位となった歌。
 「こころから のどけくもあるか 野辺ハ猶 雪げながらの 春風ぞ吹く」
 そして、お龍の歌。
 「薄墨の 雲と見る間に 筆の山 門司の浦はに そそぐ夕立」
 楽しい時間だったことが感じられる。この歌会には三吉慎蔵も参加していたらしい。龍馬、お龍、三吉・・・このときより約1年前、寺田屋の修羅場で生死を共にしたこの3人が、1年後にこうしてのどかに歌会に参加している姿など、事件当夜にはまさか想像だにしなかっただろう。

 ドラマにあった、龍馬の朝帰りのエピソードもこのときである。ある日、龍馬は稲荷町の遊郭で遊び朝帰りをした。お龍は怒って責め立てた。ピストルを突き付けたかどうかはわからないが・・・。その現場をたまたま訪ねてきた長府藩士・梶山鼎介に目撃されてしまう。よほどバツが悪かったのか、龍馬は三味線を爪弾きながら即興で俚謡を歌った。
 「こい(恋)わ 志はん(思案)の ほかとやら あなと(穴戸・長門)のせとの いなりまち(稲荷町)ねこ(猫)も しゃくし(杓子)も おもしろふ あそぶ くるわ(廓)の はるげしき こゝに ひとりの さるまハし たぬきいっぴき ふりすてゝ ぎ利(義理)も なさけも なきなみだ(涙)ほかにこゝろハ あるまいと かけてちかいし山の神 うちにいるのに こゝろのやみぢ(闇路)さぐりさぐりて いでゝ行」
 歌詞に出てくる「猿回し」とは龍馬自身のこと。「たぬき」はお龍。自分の心はいつもお龍にある・・・としながらも、でもたまには遊びたい・・・といった意味の歌で、この歌を聞いてさすがのお龍も破顔して許してくれたという。龍馬自筆の俚謡は梶山鼎介がその場で貰い、現在は長府博物館にあるそうだ。私も朝帰りした際、ギターを弾いて歌ってみたら、妻は許してくれるだろうか・・・。おそらく逆効果になるに違いない(笑)。この対処法は、薩長同盟と同じく龍馬にしかできない芸当だ(笑)。

 思えば二人が夫婦として一緒に時を過ごしたのは、「寺田屋事件」後の闘病生活から薩摩旅行のときと、この自然堂での1ヵ月半ほどの間だけだった。伊藤家での生活は、龍馬の死後40年も生きたお龍にとって、忘れ難い思い出の地となったことだろう。


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by sakanoueno-kumo | 2010-11-09 01:37 | 龍馬伝 | Trackback(2) | Comments(0)  

千葉ロッテマリーンズの下剋上日本一に思う、日本シリーズの価値。

プロ野球、日本シリーズは、千葉ロッテマリーンズ5年ぶり4回目の日本一で幕を閉じました。
7戦目までもつれ込んだ今回のシリーズは、24年ぶりの引き分け再試合を含む3度の延長戦、ロッテが王手をかけてから昨日今日と2夜連続の延長戦という稀にみる熱戦でした。
昨日今日と度重なるチャンスを作りながらも、あと一本の決定打に欠けた中日ドラゴンズ
逆に、再三ピンチを背負いながらも、最後まで粘り強かった千葉ロッテマリーンズ。
そこが勝敗を分けたと思います。
まさに、筆舌に尽くし難い内容の日本シリーズでした。

と、シリーズだけを見れば絶賛したくなる内容だったわけですが、忘れてはならないのが、ペナントレース3位のチームがシリーズを制したということです。
本当にこれを日本一といっていいのでしょうか・・・。
巷では、「史上最高の下剋上」と盛り上がっているようですが、じゃあ、ペナントレース144試合は何だったの?・・・・と。
これはクライマックスシリーズが始まって以来ずっと言われ続けてきたことですが、なんだかんだ言ってもこれまではシーズン1位のチームが日本一になっていたため(2位のチームも2度ほどありましたが)、議論も有耶無耶になっていたと思います。
今回はとうとう、シーズン3位のチームが日本一になりました。
今回、セ・リーグは1位の中日がシリーズ出場を決めましたが、この制度を続けていく限り、いずれは3位同志の日本シリーズというのもあり得るでしょうし、もっと言えば、勝率5割に満たないチーム同士の日本シリーズ・・・なんてことも考えられるわけです。
これはとても日本シリーズとはいえないと思いませんか?

そもそも今回の千葉ロッテと中日を見ても、シーズン終盤に調子が上がったチームですよね。
つまり、クライマックスシリーズは、シーズン終盤の勢いが確実に追い風になるわけです。
長いペナントレースでは、優勝するチームでも調子を落とす時期もあり、逆に最下位のチームでも連勝する時期があるわけで、それを押し並べてもっとも高い勝率を残したチームが優勝するわけです。
優勝チームでも、先行逃げ切り型のチームもあれば、後半追い込み型のチームもあります。
春先に大量に貯金を作って、後半失速しながらも、からくも逃げ切ったという内容でも優勝には違いないわけで、しかし、おそらくそういった優勝チームはクライマックスシリーズでは勝てないでしょう。
それよりも、前半Bクラスに甘んじながらも、夏以降調子を上げて3位に滑り込んだチームの方が、確実にクライマックスシリーズでは有利でしょうね。
これでは、ペナントレースの戦い方が変わってしまいます。

そもそも大リーグのワールドシリーズをお手本に始まった日本シリーズですが、あちらのそれと日本のそれとは、ずいぶんと価値が違うように思います。
というのは、レベルの違いではなく、選手たちやファンの熱の入り方の違いです。
大リーグでは、あくまでペナントレースはワールドシリーズの出場権を得るための予選リーグといった空気があり、いくら地区優勝を決めてもシリーズで負ければ意味がないといった観がありますよね。
一方で日本のプロ野球では、あくまでペナントレースの優勝ありきで、日本シリーズはそのあとの「お祭り」といった観が強く、シリーズで負けてもリーグ優勝の価値は下がりません。
実際にプロ野球ファンの私も、過去リーグ優勝のチームはセ・パ両リーグともだいたい覚えているものの、シリーズの覇者となると、調べないとわからないことがままあります。
日本シリーズは「おまけ」なんですよね。
シーズン144試合の長丁場の、山あり谷ありの繰り返しに一喜一憂しながら、じっくりとペナントレースを楽しむほうが、きっと日本人気質に合っているのでしょう。
だから、クライマックスシリーズ制度でそのリーグ優勝の価値が下がるようなシステムは、どうしても受け入れ難いわけです。

そんなわけで、今回、下剋上優勝を達成した千葉ロッテマリーンズのファンの方々には申し訳ないですが、私は一刻も早いクライマックスシリーズ制度の廃止を望みます。
日本シリーズとリーグ優勝の、どちらの価値も下げないために・・・です。
もしどうしても、優勝チーム以外にも目標を作ってプロ野球を盛り上げたいというならば、日本シリーズは日本シリーズとして、他に別のイベントを企画したらどうでしょうか?
たとえばサッカーの天皇杯のように、ペナントの順位でシード権を与えたトーナメント大会を催し、出来ればそこに大学リーグ独立リーグ社会人野球リーグの覇者たちも交えて、野球界全体の活性化をはかる大会などを作ってみれば、きっと盛り上がると思いますよ。
日本シリーズは、あくまでリーグ優勝チームのみに与えられたステージであってほしいものです。


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by sakanoueno-kumo | 2010-11-08 01:48 | プロ野球 | Trackback | Comments(8)