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坂の上の雲 第2部まとめ

 第2部全4話が終了した。舞台は日清戦争後の臥薪嘗胆の時代から、日露戦争開戦に至るまで。昨年の第1部では、主人公である秋山真之・秋山好古・正岡子規の3人の明るく楽しい青少年期を軸に展開していたが、この第2部から物語は大きく変わってくる。日露戦争に至るまでの政府要人たちの苦悩や、日清戦争時とは違い重責を担うようになった秋山兄弟の葛藤、さらには日本を取り巻く国際情勢の暗雲と、物語は「戦争」を主軸に展開していく。

 第1部のまとめでも述べたとおり、この小説の著者・司馬遼太郎氏は生前、この作品の映像化を頑なに拒み続けていた。その理由は「ミリタリズム(軍国主義)を鼓吹しているように誤解される。」というもので、実際にこの作品を否定する方々の見解に立脚すれば、「戦争賛美の物語」となるからである。日露戦争を描いた作品というのは、そういった批判を受けやすい。例をあげれば、1980年に公開された映画「二百三高地」は、日本が勝利した戦争の物語というだけで、一部の教育者や政治団体から「軍国主義賛美映画」「右翼映画」などと内容を論ずることなく決めつけられ攻撃された。同映画は、戦場で戦う末端の将兵の思いや葛藤を主軸にした物語で、「戦争賛美」と批判される要素はどこにも見当たらない作品だったが、この「坂の上の雲」は、たしかにそういう要素がある。当時の戦争指導者たちとエリート将校たちの有能さを描き、のちの昭和の大戦とは違って、日清・日露戦争はやむをえない「祖国防衛戦争」だったというのがこの作品の立場で、司馬氏の懸念するとおり誤解されがちな物語である。第2部以降、どこまで司馬氏の原作の主観を変えずに描けるかが興味深かった。

 感想をいえば、思った以上に原作の立場を忠実に描いていたと私は思う。ナレーションの内容は、ほぼ司馬氏の言葉をそのまま引用していたし、日露戦争に向けての政治的な立場の描き方も、ドラマ故割愛されていた部分もあったが、概ね主眼はずれていなかった。逆にいえば、昨今の日本を取り巻くアジアの情勢を鑑みれば、よくこんな作品を今の時期に放送できたものだ・・・とも思った。今年の大河ドラマ「龍馬伝」が、韓国での放送が決まったそうだが、この「坂の上の雲」は間違っても近隣諸国に受け入れられることはないだろう。まあ、伊藤博文が出ている時点であり得ないだろうけど・・・。

 それでも、やはり多少はオブラートに包んだ描き方になっていた部分もあった。しかし、これは仕方がないことだろうとは思う。司馬氏がこの作品を書いたのは、昭和43年から47年にかけてで、世界は東西冷戦の時代だった。その後、世界の戦争に対する価値観は変わってきている。旧ソ連の崩壊「冷戦」の終結という激動を経て、「一国覇権主義」となったアメリカがイラク戦争をめぐってヨーロッパの同盟国からさえ孤立し、北朝鮮問題での「六カ国協議」など、国際秩序の考え方も変わってきつつある。そういう中で、100年以上前の戦争での日本人の「優れた能力」を誇りのように肯定的に描いた作品を今になって映像化するのは、時代錯誤といえるかもしれない。司馬氏自身も、この作品の執筆後の作品やコラムなどで、考え方が変わってきている旨の発言も見られた。だから私はあくまで、明治という時代とその時代に懸命に生きた先人たちの姿だけを、このドラマでは見ていきたいと思う。

 ドラマとしての出来栄えについては、素晴らしいの一言につきる。莫大な予算をかけたスケールの大きさもそうだが、ストーリーがしっかりしているところに一番の見応えがあった。主人公たちの場面だけでなく、それ以外の登場人物の場面もきめ細やかに作りこまれているため、息を抜くところがなかった。たとえば、第6話の「日英同盟」の回などは、話の展開上、主人公の3人がほとんど登場していない。にも関わらず、まったく中弛みしなかったのは、それだけストーリーがしっかりしているからだろう。作り手の作品に対する自信がうかがえる。

 原作にはないオリジナルの話も多かった。司馬氏はこの作品を書くにあったて、「フィクションを禁じて書くことにした。」と語っており、必然的に原作では女性の登場人物が極めて少ない。子規の妹・も、原作では子規の死の際に少し登場する程度で、真之の妻・李子にいたっては、数行程度出てくるだけである。故に、彼女たちのエピソードは全てドラマのオリジナルなのだが、そのことについて「原作と違う」といった批判の声も多く聞かれたが、私はこれはこれで良いと思っている。小説ならともかく、男だけのドラマなど味気ないものだ。物語の本筋には関わらない部分なのだから、むしろ息継ぎの役割として良いのではないだろうか。そんなふうに思えるのもまた、ストーリーがしっかりしているからだろう。

 さて、また11ヵ月のインターバルを挟んで、来年の12月はいよいよ第3部となる。全13話中9話が終了したわけだが、実は原作でいうと、文庫本全8巻中まだ3巻の途中でしかない。残り4話で、原作5巻分を描かねばならないわけだ。描ききれるのだろうか・・・。このあと小説では、陸・海軍の作戦、戦術、攻防の叙述、そして作者の主観をまじえた語りが主要な柱となって展開される。つまり、原作どおりに描けば、ナレーションだらけになってしまうわけだ。そこをどう上手く描くかが興味深い。子規の死後、原作では次の章の冒頭で作者はこう述べている。
 「この小説をどう書こうかということを、まだ悩んでいる。子規は死んだ。好古と真之は、やがて日露戦争のなかに入っていくであろう。できることならかれらをたえず軸にしながら日露戦争そのものをえがいてゆきたいが、しかし対象は漠然として大きく、そういうものを十分にとらえることができるほど、小説というものは便利なものではない。」
 さらに第4巻のあとがきでは、こうも述べている。
 「この作品は、小説であるかどうかじつに疑わしい。ひとつには事実に拘束されることが百パーセントに近いからであり、いまひとつは・・・どうにも小説にならない主題をえらんでしまっている。」
 「日露戦争を接点として当時の日本人というものの能力を考えてみたいというのがこの作品の主題だが、こういう主題ではやはり小説にはなりにくく、なりにくいままで小説が進行している。」

 どうやら司馬氏自身、子規の死後、戦争の描写のみになってしまった物語に懐疑的になりながら、その迷いの中、2000ページ以上の紙数を費やしたようだ。迷いながら書いたから、2000ページ以上もの紙数になってしまったのかもしれない。その2000ページを集約すれば、実は4話ほどで事足りるのかもしれない。いずれにしても、第3部の4話は、冒頭で述べた「ミリタリズムの鼓吹という誤解」がこの第2部以上に懸念されるところでもある。どういうふうに描くか・・・来年に注目したいところだ。

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 本年の起稿はこれでおそらく最終となります。今年は大河ドラマ「龍馬伝」や、この「坂の上の雲」と、私にとっては力の入る大河ドラマ年で、拙い文章ながら毎週意欲的にブログ更新に取り組んできました。来年の大河ドラマ「江~姫たちの戦国」も、これまでどおり毎回起稿するつもりではいますが、なにぶんにも同作品については今年ほどの知識も私見もありませんので、少し肩の力を抜こうと思います。逆に、今年は龍馬関係に力を入れすぎて他の話題をあまり出来なかったので、来年は歴史物以外の稿を増やせたらと思っております。また来年も覗きにきていただければ光栄です。どうぞ、良いお年をお迎えください


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by sakanoueno-kumo | 2010-12-30 03:48 | 坂の上の雲 | Comments(6)  

坂の上の雲 第9話「広瀬、死す」

 日本がロシアに対して国交断絶を通告したのは、明治37年(1904年)2月6日。日本の宣戦布告は同月10日だったが、すでにそれ以前に砲門は開かれた。「宣戦布告なき先制攻撃」だったわけだが、後年の「真珠湾攻撃」の場合のそれとは違う。「この時代、必ずしも宣戦布告は必要ではなかった」とナレーションで語られていたように、開戦に先立って宣戦布告が義務づけられたのは、日露戦争終戦後の明治40年(1907年)のハーグで成立した「開戦に関する条約」からである。したがって、ドラマであったように、ロシア極東総督アレクセーエフが国際世論を味方に付けるために、わざと奇襲攻撃をさせたような設定は成り立たないし、原作にもそういう話はない。アレクセーエフは、単純に日本を侮っていた。「猿に戦争ができるわけがない。」と。

 日本の海軍は、ワンセットの艦隊しか持たないのに対し、ロシア軍はツーセットの艦隊を持っていた。ひとつは極東(旅順・ウラジオストック)にあり、もうひとつは本国(バルチック艦隊)にある。この二つが合わされば、日本海軍は到底勝ち目はない。故に、日本軍としては、バルチック艦隊が来る前にどうしてもワンセットを全滅させておく必要があった。それも、自軍の艦は一隻も沈めずに・・・である。それには奇襲しかなかった。日本の戦略の主眼は、できるだけ短期間で華やかな戦果を上げ、そのあとは外交で和平に持ち込むというものであり、この主眼を外してこの戦争はまったく成り立たないというのが、政府要人の一致した考えだった。そのため、この奇襲攻撃にかける日本の思いは並々ならぬものがあった。

 日本の奇襲は、作戦としては成功した。ロシア軍がまったく油断していたのだから当然だった。成功はしたが、思ったような戦果をあげることはできなかった。全部で18本の魚雷を射ちながら、戦艦2、巡洋艦1を大破させただけで、しかも3艦とも2カ月の修理で戦列に復帰できる程度の手傷だった。その好条件からいえば、考えられないほどの貧しい戦果である。連合艦隊司令長官・東郷平八郎は、「敵の巨艦三隻に損害をあたえたり」という電報を東京に送ったが、この奇襲で、できるだけ敵艦の数を減らしておきたかった日本政府としては、期待はずれの報告だった。

 奇襲作戦には当然、二度目はない。日本艦隊は、旅順港に引きこもってしまったロシア艦隊を、どう攻撃するか頭を悩ませた。鉄壁の要塞に守られた旅順港には、容易に踏み込むことはできない。洋上の軍艦は、陸上の要塞砲と砲戦を交わしても到底太刀打ちできないというのが常識だった。日本軍としては、ロシア艦を旅順港口外に誘き出して撃つしかなく、たびたび挑発行為に出るが、ロシア軍はその挑発にはのることはなく、港内深くに引きこもったままひたすら消極作戦をとった。本国からのバルチック艦隊の到着を待つためである。日本軍としては、なんとしてもそれまでに旅順艦隊をなきものにしなければならない。そこで浮上したのが旅順港口閉塞作戦、港口に汽船を沈めてフタをしてしまうというものだった。出口を塞いでしまえば、中にいる艦隊は何の役にも立たない。敵を生きたまま、その力を封じ込めてしまう作戦だった。

 閉塞作戦を最初に立案したのは秋山真之だった。しかし、そのときは東郷に一蹴された。理由は、「実施部隊の生還が期しがたい。」というものだった。一度は廃案となったこの作戦が、ことここに及んで再び浮上したのは、もはや日本軍の作戦が行き詰っていたからだろう。しかし、このときこの非常作戦を言い出したのは、真之ではない。彼は、旅順要塞の実情がわかってくるにつれ、この作戦に消極的になっていた。しかし、日本海軍は結局、この無謀ともいえる非常作戦の実施を決する。強く推したのは、参謀のひとりである有馬良橘中佐と、戦艦朝日の水雷長である広瀬武夫少佐だった。

 広瀬はこの作戦で死を覚悟していたと思われる。彼は、一度目の閉塞船・報国丸の艦長室で二通の手紙を書いている。一通は、彼が生涯でただひとり愛したといわれる、ロシア駐在時代の恋人、アリアズナ・ウラジーミロヴナ・コヴァレフスカヤに宛てた手紙だった。その手紙の文面は、今は知るすべもない。もう一通は、同じくロシア駐在時代の友人、ボリス・ヴィルキッキ−少尉に宛てたものである。ヴィルキッキ−が旅順にいることは、彼からの手紙で知っていた。広瀬とヴィルキッキ−は、広瀬がロシアを去る際、戦争になっても互いの居場所を知らせようと約束していた。そのヴィルキッキ−に、今広瀬は返事の手紙を書いていた。この手紙の内容は、わかっている。たまたま手紙を書いているときに訪れた同僚に、その内容を話したらしい。
 「いま不幸にして貴国と砲火を交わす関係になったことはまことに残念である。しかしわれわれはそれぞれ祖国のために働くのであり、個人としての友情には少しも変わりはない。私はすでに去る九日、軍艦朝日にあって貴国艦隊を熱心に砲撃した。それさえ、互いの友情からみれば尋常ではないが、いままた閉塞船報国丸を指揮し、旅順港口を閉塞しようとしてその途上にある。わが親しき友よ、健やかなれ。」
 この手紙は通信艇に託され、数ヶ月のちに中立国経由でヴィルキッキ−の手に届いた。

 続いて広瀬は、閉塞船の船橋に横断幕を張り、そこにペンキでロシア文字を書いた。原文は残っていないが、報国丸が沈んだあとにこれを読んだロシア海軍大佐ブーブノフの記憶によると、
 「尊敬すべきロシア海軍軍人諸君。請う、余を記憶せよ。余は日本の海軍少佐広瀬武夫なり。報国丸をもってここにきたる。さらにまた幾回か来らんとす。」
 といった内容だったという。広瀬がわざわざこれを書いたのは、おそらくヴィルキッキ−をはじめとするロシア時代の友人・知人の目にとまることを想定してのものだったのだろう。そして願わくばこのメッセージがペテルブルグに伝わり、アリアズナの耳に入ることも願って・・・。

 この閉塞作戦は2度行われるが、結果は失敗に終わった。理由は夜間に行ったため正確な港口の位置をつかめなかったためとも言われるが、日中に行なっていればそれ以前に要塞砲の餌食になって、港口にたどり着くまでもなく全滅していたかもしれず、結局は無謀な作戦だったということだろう。しかし、真之が強く推したように、夜間に行ったため犠牲者の数は少なくすんだ。少なくすんだが、その少ない中に、広瀬武夫がいた。広瀬の死に様はドラマのとおり、身体ごと吹っ飛ぶ壮絶な最期だった。

 広瀬武夫は死後、日本初の「軍神」となった。「軍神」とは、軍事・戦争を司る神で、壮烈な戦死を遂げた軍人が神格化されたもの。決死的任務を敢行し、また自らの危険を顧みず、部下の杉野孫七の生命を案じて退避が遅れ戦死を遂げたことから、新聞各紙がこのことを大きく取り上げ、「軍神」と讃えた。広瀬神話は瞬く間に日本全国に広がり、国民の英雄となった。終戦後の明治45年(1914年)には、文部省認定尋常小学唱歌『広瀬少佐の歌』が採用され、その歌詞では、燃え盛る閉塞船・福井丸の中で行方不明となった杉野孫七を捜索する姿をたたえ、「杉野は何処、杉野は居ずや」と歌われた(※後記参照)。さらに昭和に入ってからは、出身地である大分県竹田市に広瀬を祀る「広瀬神社」が創建され、崇められた。

 なぜ、少佐というさほど高くない階級の広瀬が、それほどまでに英雄扱いされたのか。これにはいろんな見方があるようで、一説には、ロシアとの戦争に消極的だった世論を、政府が新聞各紙を使って操作した、ともいわれている。日本が大国ロシアに立ち向かうためには、国民一体となった戦いが必要だった。その象徴として、一般国民に近い、さほど階級の高くない広瀬武夫を神格化して崇め、国民参加の戦争という世論を植えつけた・・・などといわれている。真実はわからないが、広瀬が「軍神」と崇められたことにより、国民と軍の関係が密接になったことは事実のようだ。しかし、この話は原作小説の中にはない。

 尋常小学唱歌 第四学年用 『廣瀬少佐の歌』

 1. 轟く砲音(つつおと)、飛来る弾丸(だんがん)。
   荒波洗ふ デッキの上に、
   闇を貫く 中佐の叫び。
   「杉野は何処(いずこ)、杉野は居ずや」。

 2. 船内隈なく 尋ぬる三度(みたび)、
   呼べど答へず、さがせど見へず、
   船は次第に 波間に沈み、
   敵弾いよいよあたりに繁し。

 3. 今はとボートに 移れる中佐、
   飛来る弾丸(たま)に 忽ち失せて、
   旅順港外 恨みぞ深き、
   軍神廣瀬と その名残れど


 広瀬武夫。享年36歳。我が国の「軍神」第一号である。


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by sakanoueno-kumo | 2010-12-28 03:38 | 坂の上の雲 | Comments(4)  

心に残る名曲 No.5 『Kissin' Christmas(クリスマスだからじゃない)』   桑田佳祐&His Friends

 クリスマスウイークですね。街はきらびやかなイルミネーションと華やかなクリスマス装飾でいっぱい・・・と、いいたいところですが、長きに渡る不況の風はそんなところにも影響しているようで、年々寂しくなっているような気がします。こんなときだからこそ、明るく華やかに彩ってほしいものですけどね。

 中年のオジサンである私にとっては、クリスマスといっても何か特別な行事があるわけもなく、単に年末の仕事の追い込みの時期でしかないのですが、せっかくだからせめてクリスマスソングでも聴いて、クリスマス気分を味わいたいと思います。クリスマスソングといえば、スタンダードな曲はたくさんありますが、今回はレコード化およびCD化されていない知る人ぞ知る名曲を紹介したいと思います。

 古い話になりますが、1986年と87年の2回だけ、12月24日のイブの夜に日本テレビで「Merry Xmas Show」という音楽番組が放送されたのをご存知でしょうか? この番組は桑田佳祐さんの企画・プロデュースで、当時の一線で活躍するミュージシャンたちが一同に集結した非常にクオリティの高い音楽番組でした。普段あまりテレビでは見れなかったアーチストも多数参加していて、現在30歳代後半から40歳代前半の世代の人にとっては伝説の番組でもあります。その番組のエンディングテーマで、番組のみのオリジナルとして作られた、作詞:松任谷由実、作曲:桑田佳祐という当時としては夢の共演の曲、
『Kissin' Christmas (クリスマスだからじゃない) が、本日の曲です。



 実に7分を超える壮大な曲です。この曲が番組内で発表された直後、レコード化を願う声が殺到したそうですが、桑田さんとユーミンの強い希望で、その後もレコード化されることはありませんでした。「商品化しないからいいんです!」と、当時ユーミンが言っていましたが、そのとおりで、レコードやCDとして残っていないからこそ、20年以上経った今でも私の心のなかに強烈に残っているのかもしれません。当時、私もビデオテープに録画して残していましたが、何年か前に久々に観てみると、映像が劣化して観れたもんじゃありませんでした(泣)。今はこうして“You Tube”などで簡単に観れるんですね。便利になったものです。

 有線やラジオでは今でも流れることがありますが、そちらは番組での音源ではなく、リード・ボーカルを桑田佳祐さんがひとりで全編を担当していて、ハーモニーにユーミンの声が入っているというもので、音質としてはそちらのほうが良いのですが、今回は番組内で生で歌ったものを選びました。亡くなった忌野清志郎さんもいますし・・・。

 それでは皆様、良いクリスマスの週末をお過ごしください。
 Merry Christmas!


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by sakanoueno-kumo | 2010-12-23 00:46 | 音楽 | Comments(4)  

坂の上の雲 第8話「日露開戦」

 兄・秋山好古と同じく独身主義だった秋山真之も、明治36年(1903年)6月、ついに年貢の納めどきとなった。相手は愛知県豊田市出身の宮内省御用掛・稲生真履(まふみ)の三女・秋山李子(すえこ)。華族女学校に通う才媛である。仲をとりもったのは、ドラマのとおり八代六郎大佐だったらしい。真之36歳、李子21歳のときだった。媒酌人は侯爵・佐々木高行。兄・好古に影響された真之は、「家庭を持てば研究心が衰える」と常々人に語っており、このとき祝いの手紙をくれた友人の山屋他人中佐にも、次のような手紙を送っている。
 「日頃より軍神の化身と自身せる小弟が物騒なる昨今の時節に急に思立たる妻定めは別段平和と見せて敵方に油断させる大計略にも無御座。 唯この一生の大道楽の中途における、ほんのウサ晴らしにて候。しかしこの入道が偶然にも女房持つ気になった事はこの頃北天の一隅に現れたる彗星と共に少しは異変の沙汰とも申し、天下太平の吉兆か将また大乱の徴候か時に取っての判じ物に候。」
 自分のことを仏門にでも入った気分で「入道」ととなえ、結婚する気になった理由については、対露戦の気配が日本の政府当局恐露病によって回避の方向へと動いていることに憤慨し、「高輪の仮寓にて昼寝をむさぼる」つもりで家庭を持った、という。本心なのか照れ隠しなのか、いずれにせよ戦術の天才・秋山真之も、女性攻略戦術のほうは不器用だったようである。

 明治36年(1903年)4月、清国から帰ってきた秋山好古は騎兵第一旅団長となっていた。好古が清国の任務を解かれて帰国したのは、日本陸軍が取りつつあった対露戦に向けての臨戦体制の表れだった。いざ、開戦となれば、日本騎兵を率いて世界一を誇るロシア騎兵にあたり得る者は、好古の他ないというのが、すでに定評だった。同年9月、好古はロシア陸軍の演習に招待され、ウラジオストックを経て、ロシア陸軍の演習地ニコリスクに渡った。ロシア陸軍が、わざわざ日本人の武官に大演習を見せようとしたのは、その実力を見せることによって、日本人にとてもかなわないという気をおこさせ、対露戦へ容易にふみ切らせないようにする意図があった。これは特にロシア皇帝自身の指示によるものであったという。
 「猿が驚くだろう。」と、つぶやいたことであろう。

 好古はロシア騎兵将校たちによほど気に入られたようで、旧知の友のように慕われ、互いに火酒を酌み交わした。騎兵は歩兵と違い、その性質が特異なだけに、国境を超えて互いに戦友のような思いがあったようだ。現代でいえば、同じ種目のスポーツ選手のような感覚だろうか。しかし戦争はスポーツではない。やがて彼らは戦場において殺し合う運命にあるわけだが、まるで戦場という競技場で相まみえるかのように、互いにフェアプレイを望んだ。
 「ロシアにもまだ騎士道は残っていたし、好古にも武士道が残っている。日露ともに戦場での勇敢さを美とみる美的信仰をもっていたし、自分が美であるとともに、敵もまた美であってほしいと望む心を、論理的習慣としてつねにもっている。そういう習慣の、この当時は最後の時代であった。」
と、作者・司馬遼太郎氏はいう。

 司馬氏が小説の中で絶賛する二人の高官。山本権兵衛児玉源太郎
 「山本権兵衛は海軍建設者としては世界の海軍史上、最大の男の一人であることは紛れもない。彼はほとんど無に近いところから、新海軍を設計し、建設した。」
と、司馬氏が評する山本は、日清戦争後の10年で世界五大海軍の末端に名を連ねるまでの大海軍を創り上げた人物だが、それ以前に、彼のやった最大の仕事は、海軍省の老朽、無能幹部の大量リストラだった。維新の功績や薩摩藩出身というだけでそれなりの階級に座っていた者を容赦なく切り捨て、藩閥にとらわれず、正規の兵学校教育を受けた有能な若い士官を充当し、実力海軍を作り上げた。ドラマ中、東郷平八郎日高壮之丞の首をすげ替える際にも、「個人の友情を国家の大事に代えることはできない。」と言っていたが、彼の改革はまさに言葉どおり、国家の大事を最優先としていた。おそらくこの当時、彼を恨んでいた者は数えきれなかったのではないだろうか。司馬氏はいう。
 「明治史という場合、海軍にかぎっては山本権兵衛ひとりのはたらきをよほど過大にみても、見すぎることはないようである。」と。

 児玉源太郎は現役の陸軍中将ながら、その政治的才腕を買われて畑違いの分野も主管した。台湾総督陸軍大臣を経て、日露戦争前のこの時期には内務大臣文部大臣を兼任していた。日露戦争開戦を前に、日本陸軍にとって重大な事態がおこった。参謀本部次長・田村怡与造が病死してしまったのである。田村は対露戦の研究の権威だった。参謀総長は大山巌だったが、総長はいわば最高責任者で、実務のいっさいは次長がやる慣例になっていた。日本陸軍はたちまち後任に頭を悩ました。対露戦が目前である以上、誰でもいいというわけにはいかない。この次長職に児玉は自ら手を上げた。能力からいえば、児玉は田村より数段上だった。が、児玉は次朝職につくには偉くなりすぎてしまっている。ちなみに死んだ田村は少将。児玉は陸軍大臣までやった古参の中将で、来年は大将に昇進する予定でもあり、現在内務大臣でもある人物が本来なら少将がやる次長職に就くというのは異例の職階降下だった。しかし児玉は生来そういうことには頓着しない人柄で、見渡したところ、対露戦の作戦をたてうるのは前陸軍で自分以外にはないとみると、さっさとそう決意した。司馬氏は児玉源太郎をこう評する。
 「性格が陽気で屈託がなく、しかも作戦家であるほかに経綸の才があり、さらには無欲であるがためにその政治的才能は同時代のたれよりもすぐれていた。」と。
 児玉の作戦家としての名はすでに各国に聞こえていたから、この人事が公表されたとき、「日本は対露戦を決意した。」という情報が、駐日各国公使館からそれぞれの本国に打電されたという。

 明治の軍人たちは、山本権兵衛や児玉源太郎のように客観的に事実をとらえ、常に物理性を重んじ、合理的だった。のちの昭和期の日本軍人が、敵国と時刻の軍隊の力をはかる上で、秤にもかけられない忠誠心精神力を、最初から日本が絶大であるとして大きな計算要素にしたということと、まるで違っている、と司馬氏はいう。

 日露戦争に日本が勝利した影の立役者、明石元二郎が登場。ロシア駐在武官の明石は、山県有朋の意をうけて、ひそかにロシアの革命工作を展開する。つまり、ロシアを内側から崩壊させようという作戦だった。当時の国家予算は2億3000万円ほどだった中、明石に支給された工作資金は、当時の金額で100万円(今の価値では400億円以上)だったというから驚きである。その金を明石は主にヨーロッパ全土の反帝政組織にばら撒き、暴動やストライキを煽ったという。叛乱が頻発したロシアでは、やがて血の日曜日事件が起こり、そこから10年以上かけて帝政崩壊につながっていくわけだが、それは日露戦後のこと。しかし明石の行った工作活動はロシアの政情不安を招き、対日戦の継戦を困難にさせたことは間違いないといわれている。陸軍参謀本部参謀次長・長岡外史は、「明石の活躍は陸10個師団に相当する」と評し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている。」と言って称えたと紹介する文献もあるそうだ。

 山県有朋が影の工作員として明石をロシアに送った同じころ、伊藤博文はアメリカに外交工作をはかるべく、金子堅太郎を特使として送った。伊藤が金子に託した策は、アメリカ大統領とアメリカ国民の同情を煽り、ほどよいところでアメリカの好意的な仲介で停戦講和に持ち込む、というものだった。金子は書生時代、ハーヴァード大学に留学しており、そのときの同窓が、この時期のアメリカ大統領・セオドル・ルーズベルトだった。ルーズベルト大統領は新渡戸稲造「武士道」をこよなく愛した日本びいきの大統領だったという。金子は日露開戦に至った経緯をアメリカの政治家や経済人を集めた会合で理路整然と説明し、アメリカの世論を味方につけることに成功した。金子堅太郎もまた、明石元二郎と同じく影の立役者だった。

 ここで注目したいのは、伊藤博文をはじめとする日露戦争時の指導者たちは、開戦前から戦争を終わらせることを考えていたことだ。そのことだけみても、彼らは日本の国力を実に客観的にとらえ、なによりも日本を守ろうとしていたことがわかる。のちの昭和期の指導者たちは、はたしてどうだったか・・・。一億玉砕・・・どう考えても、戦争を終わらせることを考えていたとは思えないし、日本を守ろうとしていたとも思えない。

 明治37年(1904年)2月4日、最後の御前会議で明治天皇聖断を下された。

 秋山真之、秋山好古、山本権兵衛、児玉源太郎、明石元二郎、金子堅太郎、伊藤博文、東郷平八郎・・・それぞれの日露戦争が始まろうとしている。


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by sakanoueno-kumo | 2010-12-21 00:54 | 坂の上の雲 | Comments(2)  

龍馬伝最終回の、配慮に欠けた速報テロップの風刺漫画に笑う。

 旬ネタをすぎた観はありますが・・・。先日、全話が終了した大河ドラマ「龍馬伝」ですが、その最終回の坂本龍馬中岡慎太郎が刺客に襲われ暗殺されるという最も重要なシーンに、ニュース速報のテロップが出てNHKに抗議の電話が殺到したという話題がありましたね。たしかに、あれには私も少々興ざめしてしまいました。いってみれば、11ヶ月の物語の集大成のようなシーンでしたからね。しかも、一刻を争う災害の速報などならともかく、愛媛県知事選の当確速報という、言っちゃあ悪いですが、他府県民にしてみればどうでもいい報道なわけで・・・。愛媛県民の人であっても、それを知るのが10分遅れたからといって、文句をいう人はいないんじゃないですか? 私なんて全話保存版のつもりで録画してましたから、抗議の電話こそしませんでしたが、ちょっとムカつきました。見ている側もそうですが、熱演してる福山雅治さんや上川隆也さんにも失礼ですよね。この件について、NHKは「不幸な偶然」といっていたそうですが、配慮が欠けていたといわれても仕方ないでしょうね。

 で、なぜ今頃になってそんな旬をすぎた話をするかというと、この速報テロップを流したNHKを皮肉った4コマ漫画が高知新聞に掲載されていたらしく、その漫画が面白いということで、「2ちゃんねる」などで話題になっているそうです。それが、これ。↓↓↓

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 ねっ・・・面白いでしょう? 私も久々に4コマ漫画で爆笑してしまいました(笑)。時事風刺の4コマ漫画はめずらしくありませんが、なるほどこれは話題になるはずですね。NHKさんは見たでしょうか(笑)。

 この件に関して、NHKは配慮に欠けていると批難されていましたが、私が思うに、そんなことわからなかったはずはないと思うんですけどね。放送局内部では、報道部が他のどの制作部よりも力を持ってる、などという話を聞いたことがあります。ましてや天下の国営放送の報道部ですからね。「なに?大河ドラマだ~?そんな娯楽番組より速報の方が優先だろ!」ってな具合でスゴまれたら、他の部所の人間は何もいえなかったりするんじゃないでしょうか・・・。あくまで想像ですが・・・。だって、ちょっと考えたらわかりそうなもんでしょ?抗議の電話が殺到しそうなことも・・・。

 もしそうだとしたら、NHKの報道部の皆さん、この漫画をもう一度読んでみてください。ニュース速報は大切ですが、入れる場面を間違えると、邪魔でしかないってことがわかるでしょう?


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by sakanoueno-kumo | 2010-12-17 22:34 | 龍馬伝 | Comments(6)  

宇宙戦艦ヤマトに思う、「世界統一国家」という夢。

 宇宙戦艦ヤマトの実写版映画「SPACE BATTLESHIP YAMATO」が話題になっていますね。私は小学生の頃、ヤマトファンクラブに入っていたぐらい好きでしたから、何とか時間を作って観に行きたいと思っているのですが、師走の多忙の中、まだ実行できていません。アニメの実写化というと、大概は残念な仕上がりになっている場合が多いのですが、この度のこの作品は、観てきた方々のブログなどを読むと高い評価の声が多いようで・・・。早く観てみたいものです。

 ヤマトといえば、未来の宇宙を舞台とした戦争物語ですが、子供の頃の私にとってはそれよりも、14万8千光年の彼方にある未知の星イスカンダルへ旅する、いわゆる冒険ストーリーというとらえ方でした。アポロ11号月面着陸して間もない時代でしたから、宇宙開発は当時の子供にとって大きな憧れであり、大人になったら誰でも簡単に宇宙旅行が出来るようになると本気で信じていました。(学研の科学にもそう書いていましたし・・・笑)。ところが西暦2010年の現在、人類はまだお隣りの火星にも降り立っていませんし、先日の金星探査機「あかつき」の金星周回軌道投入失敗などを見ても、まだまだイスカンダルは遠いようです(笑)。

 で、そのイスカンダル(もちろん架空の星って知ってますよ!)のある14万8千光年という距離は、どれほど遠いのかというのをちょっと調べてみました。1光年とは、現代科学(相対性理論)ではこれ以上の速度はないと言われている光速(秒速約30万km)で1年かかる距離で、約10兆kmだそうです。14万8千光年というと、光速で14万8千年かかる距離ですから、148京km。数字で表すと、1,480,000,000,000,000,000kmとなります。私たちホモ・サピエンスが地球上に生息し始めた頃に放たれた光が、いまやっと届くぐらいの距離ということです。見当もつきませんね。

 では、この距離を現時点での人類の最先端技術であるスペースシャトルで目指したとすると、スペースシャトルの速度は時速3万kmといわれますから・・・え~っと・・・な、なんと約60億年かかっちゃいます。つまり地球の歴史とほぼ同じ時間です。余計にわかんなくなっちゃいましたね(笑)。そんな途方もない距離を、ヤマトは1年間で往復しちゃうわけです。宇宙戦艦ヤマトの舞台は西暦2199年ですから、いまからたった約190年後のこと。どう考えても「ありえね~!」わけですが、ではなぜ西暦5000年とか10000年とかに設定しなかったのかと考えれば、宇宙戦艦ヤマトが企画制作された1970年代当時、宇宙開発は未来永劫、飛躍的に進歩するはずだと、誰もが信じていたということでしょう。(学研の科学にもそう書いていましたし・・・笑)。

(スキャット「無限に広がる大宇宙」です。ヤマトといえば、やはりこのメロディでしょう。)
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 そんなわけで(どんなわけやねん!)、イスカンダルへの道はまだまだ難しそうですが、それよりもっとあり得ない未来がヤマトの中にはありました。子供の頃は何の違和感もなく観ていましたが、宇宙戦艦ヤマトの舞台である西暦2199年には、「世界統一国家」が誕生しているということです。アメリカも中国も日本もない、「地球」という名の国家です。そこには地球の大統領がいて、地球防衛軍があります(なぜかそれらが皆、日本人なんですが・・・笑)。これって、戦艦が宇宙を航海することよりも、人類が14万8千光年離れた星に行くことよりも、実はあり得ないことなんじゃないでしょうか。いまだ着地点が見つからない中東問題や、昨今の日本を取り巻くアジアの情勢などを見ても、「世界統一国家」はおろか、世界各国が皆手を結んだ戦争のない平和な地球の実現すら、何千年の時を経ても訪れそうにありません。宇宙戦艦ヤマトは、宇宙開発という夢以上の大きな夢のまた夢を、実は描いていたのです。

 では、どうなれば地球は「世界統一国家」となり得るか。宇宙戦艦ヤマトの舞台での地球は、ガミラス星からの無差別な侵略攻撃を受け、降伏か全滅かの瀬戸際でした。つまり、全世界共通の敵が現れたわけです。地球外からの外圧を受けたことにより、人類は初めて「地球人」というナショナリズムを持ち得た・・・と。かつて三百諸藩の連邦国のようなかたちだった江戸時代の我が国が、黒船来航という外圧を受けたことにより、「日本人」というナショナリズムが生まれ、明治維新を経て日本という国が出来たように・・・です。宇宙戦艦ヤマトの舞台での「世界統一国家」は必然だったわけですね。実際にガミラスが攻めて来たら、世界は明日にでも手を結ぶのではないでしょうか。逆にそんなことでもなければ、「世界統一国家」など夢のまた夢でしょうね。でも結局それも、地球内の戦争から宇宙戦争に変わるだけで・・・。そう考えれば、私たち人間というのはつくづく、「戦争によって進歩してきた愚かな生物」だということでしょう。

 世界平和のために、この辺で一度ガミラスに攻めてきてもらいますか・・・(笑)。


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by sakanoueno-kumo | 2010-12-14 17:46 | 映画・小説・漫画 | Comments(4)  

坂の上の雲 第7話「子規、逝く」

 秋山真之が外国勤務を解かれて帰国したのは、明治33年(1900年)秋のことだった。翌34年には海軍少佐に昇進した。この頃彼は、いよいよ海軍戦術の研究に熱中していたらしく、その熱心さを人に感心されると、やや照れ隠しもあってか「一生の道楽」といっていたという。軍人も官僚である以上、そういうことをしなくても日々の任務を真面目に勤めていればちゃんと昇進していける。そういう意味では、彼の戦術研究は「道楽」であったかもしれない。この当時、日本海軍には戦術家と自他ともに認められている人物は、驚くほど少なかったという。自然、真之は全てを自分でやらねばならず、中国の兵書の「孫子」「呉子」をはじめ、欧米の戦史、戦術書はもちろん、日本の戦国時代の軍書から水軍(海賊)古法まで、あらゆる兵学・軍学書をことごとく読んだ。あるとき人から、真之の戦法は古来の水軍のようだと笑いながら指摘されると、彼は無愛想に「白砂糖は、黒砂糖から出来るのだ。」と答えたという。真之が、いわゆる「秋山軍学」を作り上げてゆくプロセスは、これだったのだろう。

 明治35年(1902年)7月、海軍大学校戦術講座が設けられ、真之はその初代教官に選ばれた。「秋山以外に適任とすべき者はいない。」というのが、海軍内部の定評だった。海軍大学校の校長・坂本俊篤がアメリカ勤務時代の真之にワシントンで会ったとき、「君は海軍大学校に入らんのかね?」と聞いたところ、真之は不思議そうな顔をして「私に教える教官がいるのでしょうか?」と反問したという。なんとも太々しい答えだが、真之にしてみれば自惚れでもなんでもなく、当然の答えだった。坂本は素直に納得して、「これは学生というより教官だ。」と思い直し、考慮するまでもなく戦術講座の初代教官に指名したという。

 真之の講義は、不朽といわれるほどの名講義だったらしい。彼自身が組織して体系化した海軍軍学を教えただけでなく、それをどのようにして組織しえたかという秘訣を繰り返し教えた。彼が兵学校の学生だったころの教官・八代六郎も、選科の受講生として入校し、真之の講義を熱心に聞いた。豪傑をもって知られた八代は、疑問に思うところは容赦なく質問し、しばしば講義の壇上と壇下で喧嘩のような議論になった。あるとき双方譲らず、ついに真之はこのかつての恩師に対して、「愚劣きわまる。八代という人はもっとえらい人かと思っていたが、これしきのことがわからぬとは、驚き入ったことだ。」と罵った。翌日、目を真っ赤にした八代が真之のもとを訪れ、「秋山。君のほうが正しかった。」と、教室の中で大声であやまった。昨夜寝ずに考えたという。普通なら上級者が折れて恥じ入っている場合、下級者としては答えようがあるように思うが、真之は「そうでしょう。」と、にべもなくいったという。愛嬌もなにもない。「どうも天才だが、人徳がない。」と、一部ではこの応対を見て思う者もいたようだが、真之にいわせれば、「戦術に愛嬌がいるか。」ということであった。

 そんな愛嬌もくそもない合理的な現実主義者の秋山真之の講義を受けた学生たちが、日露戦争で各戦隊の参謀として配置され、真之の指示のもとに秋山戦法を個々に実施し、このため、作戦面ではほとんど一糸乱れずに全軍が動く結果を得ることになる。

 原作小説では、正岡子規の死は驚くほどあっさりと書かれている。その原作の記述を大筋でしっかり守りながら、ドラマならではの演出で見事に見せてくれた。
 「子規は自分の死期が近いことを悲しむというふうなところはなかった。」
と、作者は小説の中で語っているが、志半ばでその生涯を終えることは無念だったに違いない。
 「まだまだええ句がうかんできよるんじゃあ・・・。」
 ドラマ中、見舞いに訪れた真之に言った子規の言葉が、まだまだ死にたくないという彼の心の叫びだった。

 6年余りの病床生活を経て、子規の病態はいよいよ悪化し、耐え難い苦痛が彼を苦しめていた。死の直前の明治35年(1902年)9月12日から14日にかけての「病牀六尺」には、そんな苦痛の声が記されている。
 「百二十三 支那や朝鮮では今でも拷問をするそうだが、自分はきのう以来昼夜の別なく、五体なしといふ拷問を受けた。誠に話にならぬ苦しさである。」(9月12日)
 「百二十四 人間の苦痛はよほど極度へまで想像せられるが、しかしそんなに極度にまで想像したやうな苦痛が自分のこの身に来るとはちょっと想像せられぬ事である。」(9月13日)
 「百二十五 足あり、仁王の足の如し。足あり、他人の足の如し。足あり、大般若の如し。僅に指頭を以てこの脚頭に触るれば天地震動、草木号叫、女媧氏いまだこの足を断じ去って、五色の石を作らず。」(9月14日)
 しかし子規は、そんな苦痛の中にあっても文学者としての感受性を失わなかった。死の前日の9月18日には、庭先の糸瓜を写生するべく、傍らの画板に三首の句を書いた。

 「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」
 「をととひの糸瓜の水も取らざりき」
 「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」


 これが子規の絶筆となった。

 正岡子規がこの世を去ったのは、明治35年(1902年)9月19日の午前1時。ドラマのとおり、誰にも看取られずに静かに逝った。子規の病床を献身的に看病していた高浜虚子が、わずかに眠っていたあいだだった。子規の母・八重がふと蚊帳の中が気になりのぞいてみると、子規はもう呼吸をしていなかった。虚子は、近くに住む河東碧梧桐らに知らせるため外に出た。この日は旧暦の十七夜だった。虚子が外に出ると、十七夜の月が、子規の生前も死後も変わりなく輝いている。
 「子規逝くや十七日の月明に」
と、虚子が口ずさんだのはこのときであった。生前の正岡子規は、「俳句とは写生だ。」と、その文学的生命をかけてやかましく言った。その写生を、虚子はいま行ったつもりだった。

 正岡子規。享年35歳。
 彼は辞世の句を作らなかったが、彼の35年の生涯を表しているような一首がある。
 「世の人は四国猿とぞ笑ふなる 四国の猿の子 猿ぞわれは」
 子規は、自分が田舎者であることをひそかに卑下していたが、その田舎者が日本の俳句と和歌を革命したぞという叫びたくなるような誇りを、この歌にこめている。
 「正岡子規はとんでもない楽天家であった。明治というオプティミズム(楽天主義)の時代にもっとも適合した人間であったといえる。」
 作者・司馬遼太郎氏はそう評しているが、そんな彼だけに、誰よりも坂の上の雲を見つめながら、ついには頂上まで上り得なかった切なさがある。


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by sakanoueno-kumo | 2010-12-13 03:04 | 坂の上の雲 | Comments(9)  

坂の上の雲 第6話「日英同盟」

 「まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている。」
 第1部と同様のオープニングで、「坂の上の雲」第2部が始まった。舞台は日清戦争後の明治の日本である。

 日清戦争に勝利した日本は、その勝利で得た遼東半島を、ロシア・フランス・ドイツの「三国干渉」により清国に返還せざるを得なかった。満州や朝鮮半島におけるロシアの脅威を痛感した日本政府は、それ以後、「臥薪嘗胆」をスローガンに、軍事費を拡大していく。

 日清戦争の戦時下にあった明治28年(1895年)の日本の総歳出は9600万円だった。翌29年(1896年)は平和のなかにある。当然民力を休めねばならないのに、この年の総歳出は2億円を超えた。戦時下の倍以上だった。そのうち軍事費の占める割合は、28年は32%だったのに対し、海軍の建艦十カ年計画が開始された翌29年は48%に飛躍、さらに翌30年には55%に達した。現代では考えられない数字で、当然、税金から還元されるべき福祉や保障の類はほとんどなかったわけだが、不思議なことにこの時期の日本人には、これについての不満の声がほとんどなかったという。

 日清戦争時の日本海軍は、海軍とは名ばかりの、ボロ汽船に大砲を積んだだけといった船がほとんどで、当然、軍艦などもなかった。ところが戦後10年の日露戦争開戦直前には巨大海軍といえるものを作り上げ、世界五大海軍国の末端に連なるまでに至った。他国から見れば驚異的な進歩だったわけだが、さして産業のない日本がこれだけの軍事費を費やしたのだから、当然、国民生活は貧困にならざるを得ない。この戦争準備予算そのものが奇蹟なのだが、それに耐えた明治の国民のほうがむしろ奇蹟だった。

 「日本人は、大げさにいえば飲まず食わずでつくった。」と、作者はいう。

 飲まず食わずで戦争の準備をする・・・現代に生きる私たちには理解し難いことだが、それほど日清戦争後の「臥薪嘗胆」のリベンジ精神は、国家全体を覆っていたのだろう。

 明治34年(1901年)、親英派である桂太郎が総理に就任すると、同じく親英派の小村寿太郎を外相に起用し、ロシアを仮想敵国としたイギリスとの軍事同盟を推し進めた。しかし、当時元勲元老として存在していた伊藤博文山縣有朋井上馨などの賛同を得ることは容易ではなかった。特に日露同盟論者でる伊藤の説得が難事だった。彼は、イギリスが極東の田舎国である日本と対等な立場での同盟に応じるはずがないと見ていた。その点ロシアは世界最強の陸軍を持つとはいえ、文明的には西欧諸国に比べて後進状態にあり、日本と比べてもそう格差はない。加えてロシアは日本からみた直接的な脅威の対象であり、それと直接談判することで、戦争を回避できると伊藤は考えた。そして一旦は元老として正式に対英交渉に賛同したものの、政府とは別に伊藤個人で対露交渉に望むべくロシアに向かうのである。結局、伊藤の計画はドラマのとおり失敗に終わるのだが、この伊藤の勝手な個人行動が、対英交渉を進める日本政府をどれだけ困惑させたかは言うまでもないだろう。この間のことを、小村寿太郎がのちに、「外交というものは本来、外交よりも内交のほうが難しいものなのだ。」といったそうだが、まさしくそのとおりだろう。昨今でいえば、鳩山由紀夫前内閣の普天間基地移設問題などに例えられるだろうか。外交に臨む前段階の内交がいかに難しいものかということは、100年前も今も変わらないようだ。

 明治35年(1902年)に日英同盟は締結されるが、同盟が結ばれるに際し、駐日イギリス公使・クロード・マクドナルドの積極的な活動が大きく寄与している。彼がなぜ、日本との同盟が望ましいと思ったのか。それはドラマ中でも少しだけ紹介されていた北清事変(義和団の乱)がきっかけだった。動乱発生時、彼はイギリス公使として北京に駐在していた。八ヶ国連合軍が北京に侵攻するまでの間、諸外国公使たちと中国人クリスチャンは公使館区域で籠城し、連日の義和団・清国軍隊の攻撃から決死の防衛戦を繰り広げ、連合軍到着まで耐え忍んでいた。この籠城戦の総指揮官だったクロード・マクドナルドは、そこで日本の駐在武官・柴五郎中佐と出会う。柴中佐と配下の日本将兵は誰よりも勇敢に戦い、その勇気と礼儀正しさは諸外国の賞賛を浴びたという。のちに柴は欧米各国からも勲章授与が相継ぎ、彼の名は欧米でも広く知られるところとなった。この体験により、マクドナルドは非白人であるアジアの小国の日本を、同盟を結ぶに足る信頼出来る国と高く評価し、日英同盟を熱心に推進していった。柴五郎は事実上、日英同盟のきっかけを作った影の立役者だった。この話はドラマにも原作の小説にも出てこないが、北清事変の際の日本の軍人は掠奪行為などは一切行わず、あくまで行儀がよかったと作者は伝えている。

 海軍少佐・広瀬武夫のロシア駐在は足かけ5年にも及び、その間多くの海軍武官とつきあったが、広瀬はかれらの間で最も人気のある外国人武官だったという。海軍士官だけでなく、宮廷の婦人たちにも人気があり、そのなかで、当時ペテルブルグの貴族の中できっての美人といわれたアリアズナ・ウラジーミロヴナ・コヴァレフスカヤという娘から熱烈な求愛を受けたという。生涯独身主義だった広瀬だが、彼も彼女にたいしてただならぬ感情を抱いていたことは、残っている往復書簡でもうかがえるらしい。アリアズナは文学的教養の高い娘で、彼女がロシア語で詩を書いて送り、広瀬がそれに対し漢詩で返事をし、ロシア語の訳をつけたりしたという。結局二人の恋は、広瀬の帰国とともに終わるのだが、帰途のイルクーツクから広瀬は彼女に最後の手紙を書き、「永遠に愛おしい御身の上に神の恩寵のあらんことを」という言葉で結んでいる。

 日英同盟の締結によって、歴史は日露戦争へ向かって足を速めはじめた。物語の舞台であるこの時代、地球は列強の陰謀と戦争の舞台でしかない。謀略だけが他国への意志であり、侵略だけが国家の欲望だった。作者はいう。
 「19世紀からこの時期にかけて、世界の国家や地域は、他国の植民地になるか、それが嫌なら産業を興して軍事力をもち、帝国主義の仲間入りをするか、その二通りの道しかなかった。」
 ナレーションではここまでだったが、原作ではさらにこのあと作者の言葉は続く。
 「後世の人が幻想して侵さず侵されず、人類の平和のみを国是とする国こそ当時のあるべき姿とし、その幻想国家の架空の基準を当時の国家と国際基準に割りこませて国家のありかたの正邪を決めるというのは、歴史は粘土細工の粘土にすぎなくなる。」と。


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by sakanoueno-kumo | 2010-12-09 21:47 | 坂の上の雲 | Comments(2)  

龍馬伝 総評

 「薩長連合、大政奉還、あれァ、ぜんぶ龍馬ひとりがやったことさ。」と、後年の勝海舟がいったそうです。もちろん、歴史とはそんな簡単なものではなく、龍馬ひとりで出来るはずはないのですが、何の後ろ盾もない下級武士の彼が、薩摩、長州という大藩の間を渡り歩き、もし龍馬がいなければ、歴史はまた違ったものになっていたかもしれないと思えるような大仕事をやってのけた彼に、後世の私たちは痛快さをおぼえ、魅了されてしまうのです。そんな坂本龍馬の物語が、2010年の大河ドラマ「龍馬伝」でした。

 全48話が終わりました。毎週ドラマの進行に沿いながら、史実・通説との対比や私見、感想を綴ってきましたが、ようやく最後を向えました。一昨年、「龍馬伝」の制作発表があって以降、ずっと私のテンションは上がりっぱなしでした。坂本龍馬は私にとって幕末史の入口。大河ドラマは毎年観ていますが、1968年に放送された「竜馬がゆく」を知らない世代の私としては、坂本龍馬を主役とする初めての大河作品だったわけで、期待するなといわれても無理な話。2008年11月に始めた当ブログの第1稿目が、龍馬役が福山雅治さんと発表された記事で、考えてみれば、当ブログは「龍馬伝」と共に歩んできたといってもいいようです。最終回の稿を終えたものの、まだまだ言いたかったことやドラマではなかったエピソードなどが尽きないのですが、ひとまず区切りとして「総評」をここに記したいと思います。

 まずは映像としての「龍馬伝」。これは素晴らしい仕上がりだったと思います。年末の特別大河ドラマ「坂の上の雲」と同様フィルム撮影のような質感で作られた深みのある画面は、まるで歴史ドキュメントを見ているようで、そこにスタッフの存在を匂わせない臨場感あふれる映像世界を作り出していました。わざと手ぶれさせているのか、躍動感のあるカメラワークも見ている私を映像の世界へ引きずり込みまたし、照明も自然でリアリティーがありました。夜は暗く、昼間でも決して俳優の正面から光を当てず、光源は常に斜め上か真後ろ。だから、ときには逆光となって、役者の顔がまったく見えなくなったりもします。時代劇といえば、俳優さんはドウランをテカテカに塗って、照明は常に俳優さんの顔に当たるというのが当たり前でしたが、「龍馬伝」はその常識を覆しました。たとえば室内のシーンで、縁側の向こうにある庭に強力な光を当てて、逆に室内は暗くし、その庭を背景に座った人物たちはシルエットだけが浮かび上がる・・・このような手法が用いられたシーンがたくさんあり、この照明効果も、「龍馬伝」を深みのある映像に仕上げた大きな理由だったと思います。

 そしてリアリティーといえば、なんといってもセットの演出でしょう。庶民に近い下士階級の武士たちが中心の「龍馬伝」。物語前半の土佐の町のホコリっぽさや、男ばかりが集った武市道場の汗臭さ。同じ道場でも江戸の千葉道場は垢抜けていて清潔感がありました。女性の登場人物も、江戸の佐那さんと南国である土佐の阪本家の女性たちとでは、肌の色も差をつけていました。弥太郎は汚すぎるという声も多かったようですが(笑)。セット、服装、メイクともに、極め細やかなこだわりが感じられました。

 次に、配役で見た「龍馬伝」。一昨年、坂本龍馬役の福山雅治さんが発表になったときは、ガッカリしたというのが正直なところでした。福山さんの持つクールで清潔感のあるイメージと、私の持つ龍馬のイメージとはかけ離れていたというのがその理由でした。福山さんが、時代劇は初めてというのも不安材料のひとつでした。で、全48話を観終わってみて思うのは、素人が生意気なことをいうようですが、役が役者を育てるんだなぁ・・・というのが今の率直な感想です。第3部あたりからは本当に龍馬に見えてきました。私の持つ龍馬像は後述しますが、ともあれ「龍馬伝」における龍馬像を見事に演じておられたと思います。大河ドラマの主役を1年間演じきって、福山さんの役者としての幅が広がったんじゃないでしょうか。

 脇を固める俳優さんは一流の方々ばかりだったので、どの方も文句のつけようがなかったのですが、とりわけ岩崎弥太郎役の香川照之さんは見事でしたね。「坂の上の雲」では少年のように純粋で無邪気な正岡子規役で、こちらでは、傲慢でひねくれ者の岩崎弥太郎役という、まったく違うタイプの人物をほぼ同時期に演じた香川さんは、今の日本の同世代の俳優さんの中では群を抜いているように思います。あと、武市半平太役の大森南朋さんも物語前半を引っ張ってくれましたし、勝海舟役の武田鉄也さんもさすがは、といった感想、桂小五郎(木戸孝允)役の谷原章介さんもイメージぴったりでした。西郷隆盛役の高橋克実さんがちょっとね・・・。でもこれは高橋さんが悪いわけではなく、西郷どんは固定イメージが強すぎて、適した俳優さんがいないというのが理由だと思います。女優さんでは、千葉佐那役の貫地谷しほりさんが良かったですね。お龍さん役の真木よう子さんも良かったのですが、気の強いキャラだけが誇張されすぎていて、もうちょっとなんとかならなかったかなぁ・・・とは思います。これも真木さんのせいではないですけど。

 最後に脚本としての「龍馬伝」。こちらは少々辛口な評価にならざるを得ません。一言でいえば、「残念」という言葉が当てはまる作品となりました。何度か当ブログでも述べましたが、私は史実云々という揚げ足取りのような批判はあまりしたくないと思っています。過去、名作といわれる作品の中にも、フィクション性の強い作品は見られました。物語である以上、フィクションありきで構成されるのは当然で、どこまで作り話が許されてどこからが許されないかの規制などないわけですから、史実と違うという批判自体ナンセンスだと思うんですね。ただ、フィクションにする以上、面白くなければ意味がないとは思います。これだったら、史実・通説どおりに描いた方が良かったのに・・・では、フィクションにする意味がないですよね。そこが歴史物の難しいところでしょう。よほどのストーリーを作らなければ、「事実は小説より奇なり」ですから。

 まずは主人公である坂本龍馬の人物像です。すでに多くの人が感じていると思いますが、必要以上に「良い人」すぎるんですよね。これは「龍馬伝」に限らず、近年の大河作品すべてに共通していえることだと思います。人の気持ちがよくわかる心優しい好人物。歴史上の偉人の魅力というのは、そんなところではないですよね。良くも悪しくも常識を逸脱しているからこそ偉人になり得たわけで、「良い人」だけでは偉人にはなり得ません。信長、秀吉然りですよね。偉人の偉人たるべきあくの強さはあまり描かれず、偉人たるもの万人から尊敬される人物でなければならないという描き方が、かえってその人物の偉人としての魅力を下げていると思えてならないのです。「龍馬伝」の坂本龍馬も、本来持つ彼の魅力を結局は描けていなかったと思います。岩崎弥太郎のあくの強いキャラが好評だったのは、そういった点からではないでしょうか。

 次に、主人公を必要以上に「活躍」させすぎるというところです。これも「龍馬伝」のみならずですね。本作でいえば、池田屋事件武市半平太の死に際などがそうでした。本来龍馬が関わっていない事件ですし、無理やり絡める必要はなかったように思います。主役が登場しない話が多く続くと、制作サイドとしては不安なのでしょうか。私は主役が出ない回があってもいいのではないかと思うのですが・・・。すべてのエピソードに主役を絡めて活躍させることで、これもまた、かえって本来の活躍の場が薄れてしまっているように思えてなりません。

 主役である龍馬以外の登場人物が、あまりにも「小者」に描かれていたところも残念でした。本作では、西郷隆盛後藤象二郎徳川慶喜も皆、小者でしたね。そう描かないと、龍馬の魅力が伝わらないと思っているのでしょうか。主人公は「良い人」で、脇役は「小者」という極端な描き方は、かえってウソくささを感じてしまいます。

 あと、説明的な台詞が多かったのも残念でした。観る側に考える余地を与えてくれず、登場人物に全部語らせてしまうことが多かったように思います。たとえば最終回の、刺客の今井信郎に弥太郎が詰め寄る場面で、「坂本龍馬は徳川に忠義を尽くす我ら侍を愚弄した。我らの全てを無にしたんだ!」という台詞を今井に言わせてましたが、あの台詞って必要だったでしょうか。あのような台詞がなくとも、大政奉還後の幕府側の侍たちの胸中は理解できますし、あの台詞を吐いたことによって、刺客たちの迫力や不気味さが削がれてしまったように思えてなりません。言葉にしないからこそ伝わるものもあると思うんです。そういうシーンが全話にわたって多く見られました。もっと、視聴者を信頼してほしかったですね。

 ドラマでの龍馬は、とにかく「友」を大切にし、「命」を重んじる人物でした。現代のドラマでは、どうしてもあのように描かなければならないのかもしれませんが、残念ながらこの時代はそんな時代ではありませんでした。「命」が簡単に捨てられた時代です。無理やり現代の価値観に当てはめて描くと、どうしても違和感が生じます。それでも、どうしても「友情」を描きたいのであれば、軽々しく「友」という言葉を龍馬に言わせるのは、かえって安っぽく思えるだけでしたし、「命の大切さ」を伝えたいのであれば、龍馬にそれを台詞として言わせるのではなく、いとも簡単に人が死んでいった事実と、その時代に生きた人々の死に対する考え方を忠実に描く方が、結果的に「命の大切さ」を伝えることができたのではないでしょうか。

 ここまで私は文中で「残念」という言葉を多用しました。心の底から「残念」だと思うのです。映像や演出、音楽などは素晴らしく、俳優陣も一流の方々ばかりで、上手く作れば「名作」となり得た作品だったと思うからです。制作サイドは本作品で「新しい龍馬像」を謳っていました。作り手というのはいつもオリジナリティを求めたがります。しかし残念ながら歴史物というのは、オリジナリティは必要ないのです。少なくとも観る側はそれを求めてはいません。定番は定番であってほしいのです。定番を知らない人は、それ自体が新鮮なものとなりますし、定番を知っている人も、新しい映像技術と、新しい役者さんで定番ストーリーを観ることが、実はとても新しいのです。歴史上の偉人そのものが魅力を持っているのですから、新しい人物像を作ることは、結局その人物の魅力をなくしてしまうことになるということに気づいてほしいと思います。「龍馬伝」は、「名作となる可能性を脚本で潰してしまった惜しまれる作品」というのが私の素直な感想です。

 これまで酷評はしてこなかった私でしたが、最後の最後できわめて辛口な発言になってしまいました。読まれて気分を害された方がおられましたら、深くお詫び申し上げます。私にとって「龍馬伝」は、それだけ思い入れの強い作品だったということでご容赦ください。毎週読んでいただいた方、ときどきご訪問いただいた方、コメントをいただいた方、TBをいただいた方、アクセスカウントの足跡のみ残していただいた方、皆様のおかげで最後まで完走できました。「龍馬伝」という括りでの稿はこれで区切りとさせていただきますが、なにぶんにも龍馬オタク、幕末オタクの私としてはまだまだ飽きたらず、折を見てまた、紹介しきれなかったエピソードや登場人物のその後など起稿できればと思っております。11ヶ月間、本当にありがとうございました。


■11ヶ月間の参考書籍
歴史書

『龍馬のすべて』平尾道雄(1966年)
『坂本龍馬 海援隊始末記』平尾道雄(1968年)
『中岡慎太郎 陸援隊始末記』平尾道雄(1977年)
『坂本龍馬読本』平尾道雄(1985年)
『坂本龍馬』飛鳥井雅道(1975年)
『龍馬暗殺完結篇』菊地明(2000年)
『龍馬暗殺 最後の謎』菊地明(2009年)
『坂本龍馬101の謎』菊地明、伊東成郎、山村竜也(2009年)
『日本の歴史 開国と攘夷』小西四郎(2006年)

小説
『竜馬がゆく』司馬遼太郎
『真龍馬伝 現代語訳 汗血千里駒』 金谷 俊一郎 (訳)・ 坂崎 紫瀾 (著)
『岩崎弥太郎』村上元三
『勝海舟』村上元三


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by sakanoueno-kumo | 2010-12-02 01:09 | 龍馬伝 | Comments(43)