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寛平ちゃんの浪漫、アースマラソン完走。

マラソンとヨットで地球を1周する「アースマラソン」という壮大な旅に挑戦していた間寛平さんが、先日、みごと完走されました。
2008年12月17日に大阪をスタートしてから766日間、距離にして41,040kmという、とてつもない長い道のりの旅で、まさに前人未到の偉業達成です。
ひたすら東へ東へと走り、ついにスタート地点に帰着・・・これってスゴイことですよね。
普通は、東へ行ったら西へ戻らないと元の地点に帰れないですから。
まさに、地球は丸いということを、身をもって体感されたわけです。
私も、地球が丸いとは聞き及んでいますが、実際に確認したことはなく・・・(笑)。
ゴール後のインタビューで寛平さんは、「ゴールまでの2年間は今考えたら短かったけど、走っている間はめちゃくちゃ長かった。地球はなんでこんなに大きいんや。」というコメントをされたそうですが、おそらく、人生観が変わったでしょうね。
地球の大きさを知る男・・・ですから。

世界で初めて地球一周を果たした人物は、地球が丸いことを証明した人として知られるフェルディナンド・マゼランといわれますが、実は、マゼランは大西洋を経て南アメリカ大陸南端を通り、太平洋を越えて着いたフィリピンの地で王になろうと画策した結果、対峙するイスラム教徒のラプ・ラプ王との戦闘で殺されたため、地球一周は果たせていません。
したがって、寛平さんはマゼランを超えたわけです(笑)。
しかも彼の場合、ヨットとマラソンだけで・・・ですからね。
マゼランもビックリでしょうね。

ゴールしてから関西では、連日テレビもラジオも寛平さんの話題でもちきりですが、ただ、いくら彼の偉業を讃えるコメントを聞いても、それがどれほどスゴイことなのか、達成した充実感たるや、どんなものなのか、体験したことのない私には想像もつきません。
ただただ、「俺にはとても真似できない・・・」と思うだけで・・・。

地球1周の旅と比べるのもおこがましいのですが、私も、はるか遠い昔の高校時代、友人と二人で西日本1周の自転車の旅をしたことがあります。
神戸を出発して一路、西へ、中国地方を瀬戸内海沿いに横断して関門トンネルを抜け、九州を西海岸に沿って南下し鹿児島へ、そして東海岸沿いに北上して大分県別府市より船で四国は愛媛県八幡浜に渡り、四国を西へ横断、鳴門海峡を船で渡り、淡路島を北上、最後の明石海峡を船で渡り、神戸に帰着。
走行距離2,000km弱、半月間で軍資金4万円という旅は、道中すべて野宿
今から思えば、若気の至りとはいえ恐ろしく無謀な旅だったなと・・・。

若き日のこの冒険は、私にとっては一生の財産となっています。
しかし、その後このときの話をあまり人に語ったことがありません。
というのも、この達成感というか何というか、気持ちをどうにも言葉に表せないんですよ。
感想を聞かれても、「とにかく、しんどかった。」と答えるしかなく、「でも、行って良かった。」わけで、何が良かったのかと聞かれても、「とにかく、良かった」としか答えようがなく・・・。
語ってもおそらく理解してもらえないだろうし、言葉にすると安っぽくなるようで、この経験は一緒に旅した友人と二人だけにしかわからない“浪漫”とでもいいますか・・・(スミマセン、ちょっとカッコつけすぎました・・・笑)。
帰国後、寛平さんはテレビなどで、面白おかしく珍道中話をしておられますが、お笑い芸人ゆえというのもあるでしょうが、真面目な感想を語ろうと思っても、彼にしかわからない“浪漫”ですから、きっと言葉に出来ないんでしょうね。

登山家のジョージ・マロリーが、「なぜ、あなたはエベレストを目指すのか」という問いに対して、「そこに山があるから」と答えたという有名な逸話がありますが、おそらくマロリーも、そう答えるほか言葉が見当たらなかったんじゃないでしょうか。
寛平さんにも言ってほしいですね。
「そこに地球があるから」・・・と(笑)。

とにかく、寛平ちゃん、ようやったなぁ。
あんた、ほんまにごっつい男やで!


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by sakanoueno-kumo | 2011-01-27 00:32 | 芸能 | Comments(8)  

江~姫たちの戦国~ 第3話「信長の秘密」

 天正7年(1579)8月29日、徳川家康の正妻・築山殿が家康の命令によって殺害された。そして同年9月15日には、築山殿と家康の間の嫡男・徳川信康も切腹を命じられた。これにより家康は、正室と嫡男を一度に、しかも自らの命で死に追いやったわけだが、通説では、これを指示したのが織田信長だったといわれている。

 築山殿は今川義元の姪にあたり、家康がまだ松平元康という名で今川家の人質として忍従の日々を過ごしていたころ、二人は夫婦となった。弘治3年(1557年)、家康・満14歳、築山殿(瀬名姫)・満15歳のときだった。2年後に嫡男・信康を出産。しかし、その1年後の永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、家康は今川氏の混乱に乗じて独立、信長と同盟を組んだ。築山殿は家康の正室として徳川家に迎え入れられたものの、今川の縁者ということで家康とは別居、惣持尼寺に幽閉された。嫡男・信康は信長の娘である徳姫を妻に娶り、共に9歳の型式夫婦であったが、これにより織田家と徳川家の同盟関係は強固となった。

 しかし、これが築山殿には面白くなかった。彼女は、徳姫がいつまでたっても信康の息子を産まないことを理由に、信康に側室を迎えさせた。この所為かはわからないが、築山殿と徳姫の間柄は、折り合いが悪かったという。現代でも珍しくない、嫁、姑の関係だが、この場合、姑は今川家の血を引くもの、嫁は、同盟関係にある織田家の、しかも信長の娘。背景にある力関係は歴然としていた。

 側室を迎えた信康とも不和になった徳姫は、天正7年(1579年)、父・織田信長に宛てて十二箇条の手紙を書いた。手紙には信康と不仲であること、そして、築山殿は甲斐の武田と内通して家康を倒し、わが子信康をたてて徳姫を排除、武田と連合で仇敵織田を倒さんと画策している・・・という内容だった。この手紙を読んだ信長は激怒し、徳川家に対して、築山殿と信康の殺害を命じた。徳川家中では信康への処断に対して反対する声も強く、織田家との同盟破棄を主張する家臣もあったが、しかし家康は信長の命に従うことを決断、築山殿を家臣によって殺害させ、そして信康には切腹を命ずる。徳川信康、享年20歳。

 というのがほぼ通説となっており、これまでも多くの物語で描かれてきた逸話だが、この事件に関しては様々な疑問点も多く、決定的な説は未だない。そもそも、築山殿の謀反の企てが事実だったのかどうか、仮にそれが事実だったとしても、それに信康が関係していたかどうかなど不明な点が多く、そんなことから、信康と不仲になった徳姫が謀反の話を捏造して信長に報告したという説や、信長が徳川の力を削ぐために優秀な後継者である信康を殺害させたという説、さらに司馬遼太郎氏などは、徳姫の書状を信長に届けた酒井忠次の陰謀説を唱えている。また近年では、この事件に信長は関与しておらず、徳川家自身の事情によるものという説も浮上してきているらしい。事実がどうだったかはわからないが、家康自ら正室・築山殿と嫡男・信康の命を奪ったことは間違いなく、築山殿はともかく信康を死に至らしめた心中は想像を絶する。信康は父・家康をも凌ぐ優秀な武将だったともいわれ、後年、関ヶ原の戦いの際、徳川秀忠が遅参したとき家康は、「信康がいればこんな思いをしなくて済んだ。」といったという話が残っているが、もしそれほどの人物だったとすれば、その信康の切腹は家康にとって身を削られる思いだっただろう。しかし、それが戦国の世であった。

 「信ずるは己だけ。」という信長。後世の私たちからみても、おそらく織田信長という人は、このドラマの台詞どおり、己だけを信じて生きていた人物だったのだろう。
 「人間いうんは力を持てば持つほど独りになります。てっぺんに立たされる者の孤独は、すざまじいものやと思いますわ。そしてあのお方は格別なお方。他の誰にも見えへんもんが見える。誰にも聞こえへんもんが聞こえる。それが織田信長というお人や。」
 信長の真意がわからず尋ねるお江に対して、千宗易(利休)がいった台詞だが、その言葉どおり、人は上に立てば立つほど孤独になっていくのは今の世でも変わらない。誰かに指図され、誰かに命じられるがままに行動するほうが、実は楽であり孤独でもない。誰も自分に指図してくれない、もし自分が間違った道を歩もうとしていても、誰もそれを正してくれない、これほど孤独なことはないと私も思う。しかし、人の上にたてば、大なり小なり皆、その孤独を経験しなければならない。ましてや、信長のように他の誰にも見えないものが見える天才型の人物には、誰からも理解されない孤独を背負っていかねばならない寂しさが、常につきまとうものである。

 己だけを信じてきた信長は、やがて己の力を過信しすぎることになる。そして、その先に待っていたのは、その過信が招いた無念の結末だった。


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by sakanoueno-kumo | 2011-01-24 03:01 | 江~姫たちの戦国~ | Comments(4)  

タイガーマスク現象に思う。

 「タイガーマスク現象」が話題になっていますね。アニメ「タイガーマスク」の主人公・伊達直人を名乗り、全国の児童養護施設や児童相談所などにランドセル文房具の贈り物が相次いでいるという、何とも心温まる話です。実は、あの伊達直人は私なんです・・・と言いたいところですがそれは嘘で(笑)、まったくもって関係ありません(笑)。私も、中央競馬会には毎年ランドセル10個分ぐらいの現金を寄付してるんですが・・・(笑)。

 聞くところによれば、こういった匿名の寄付というのは今年に限らず毎年のようにあったそうで、ただ今まで特に取り上げられることがなかっただけだそうです。いわゆる、昔で言うところの「あしながおじさん」ですね。ところが今年、誰かが伊達直人を名乗ったことでマスコミの注目をあび、すると全国津々浦々のあしながおじさんが伊達直人に改名したようで、さらに、今まであしながおじさんじゃなかった人まで伊達直人運動に参加したようにも思われ、ついには47都道府県すべてに伊達直人が現れるに至りました。マスコミもたまには良いことの役に立つんですね。それにしても、最初に伊達直人を名乗った人物は、よほどのセンスの持ち主だと見ました。おそらく、只者ではないだろうと・・・。

 こういった善意の輪が広がってゆくことは歓迎すべきことのはずなんですが、こうして社会現象のように騒がれると、今度はそれを批判したり否定したりする、心のせま~い輩が出てき始めているようです。その方々の声を紹介すると、
 「優越感に浸りたいだけなんじゃないの。」
 「堂々と名前だせばいいのに。」
 「施設の子供全員にいき渡らないから不公平。」
 「どうせ一過性のもので、来年以降なくなったら余計に可哀想。」

などなど・・・。なかには有識者といわれる方々までが、
 「ボランティア活動や寄付行為とは提供側の発想が「自己満足」等自己の利益に留まっていたのでは、弱者を傷つけるのみの結果しかもたらさない。」
といった旨の意見を述べられ、「偽善」という言葉を使う人もいます。必ず出てくるんですよね・・・こういう話題が盛り上がったときには、この「偽善」という言葉が・・・。

 「優越感」であろうが「自己満足」であろうが、いいじゃないですか・・・それで喜ぶ人がいるんだから。むしろ、他人を喜ばせることで自身も満足できるのなら、なおさら素晴らしいことなんじゃないですか? 仮にそれが何かの宣伝目的だったり、営利目的だったとしても、それでも私は「偽善」だとは思わないですけどね。実際にそれで喜ぶ人がいるんだし、寄付する方もされる方も、どちらも得をするのなら、なおさらイイじゃないですか。寄付やボランティアをする、しないは個人の勝手で、しないからといって狭量だとは思いませんが、寄付したことないのにする人を批判する人は、どんなにもっともらしい理屈を並べていても、狭量な人としか思えません。

 日本は欧米に比べて、寄付が少ないと聞きます。欧米では、ハリウッド俳優から民間企業、一般人に至るまで、寄付は一種のステイタスシンボルだったりするそうですね。だから日本人のように匿名ではなく、ちゃんと実名で寄付する人がほとんどだとか。それに比べて日本人は、こういった行為を隠したがる傾向にありますが、これは、日本人特有の「謙虚さの美徳」もあるでしょう。
 「名乗るほどの者ではござらぬ。」
っていう、あれですね。まあ、それだけ日本人はシャイなんでしょうが、ただ、匿名にするのはそんな美徳からだけではなく、そういった批判を受けることが想像できるから、という理由もあるんじゃないですかね。善意を偽善だと言われたら、立つ瀬がないじゃないですか。

 ということで、私も本当は伊達直人を名乗りたかったのですが、残念ながらちょっとお腹が出てるので、この身体では伊達直人にもタイガーマスクファンにも失礼だと思い、断腸の思いで諦めました(笑)。全国の伊達直人さんには是非とも来年以降も続けてほしいものです。


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by sakanoueno-kumo | 2011-01-20 23:17 | 時事問題 | Comments(11)  

江~姫たちの戦国~ 第2話「父の仇」

 有名な金の髑髏のエピソード。織田信長史として一級史料と評される『信長公記』によれば、越前・朝倉家、近江・浅井家を滅ぼした信長は、討ち取った朝倉義景浅井久政浅井長政の髑髏を薄濃(はくだみ、漆塗りに金粉を施すこと)にし、天正2年(1574年)、自らが主催した正月の宴席において、白木の台に三つ首を御肴として据え置き、皆で謡い遊び酒宴を楽しんだとある。信長の残虐性異常性をうかがわせる狂気の沙汰として、多くの物語で描かれてきた逸話である。一説では、さらにこの髑髏でを作り、これに注いだ酒を家臣に強要した・・・という話もあるが、これについては上記『信長公記』にも記されておらず、出典がわからない。おそらく、後の世の作り話と見るほうが正しいようだ。まあ、金の髑髏を肴に宴を催すというだけでも、同席した家臣たちは腰を抜かすほど恐れおののいたことだろうが・・・。

 ドラマでの信長は、この髑髏を薄濃にした理由を「亡くなりし者への礼節」だという。
 「戦った相手を讃え、その前で酒を酌む。勝者敗者が生ずるのは必定だが、ともあれ戦は終わった。共に着飾り、相打ち解けて、新しき年を迎えようではないか、とな・・・。」
 つまり、死者に敬意を表した行いだったというわけだ。このような説があるのかどうか、ドラマを見た後ネットで調べてみたら、それに近い説があった。供養だというのである。鎌倉時代から伝わり南北朝時代に広がったとされる密教の一派に、立川流密教というものがあり、この宗派はチベット仏教の流れを受け、髑髏を本尊としていたという。これによれば、供養として髑髏に金箔・銀箔を貼る儀式があったらしい。そうして7年間供養すれば、その髑髏は成仏して、討った相手を祟らないと信じられていたようで、特に下克上で主人を殺した武将などが、陰でこっそり行っていたという。表立って公言はしないものの、多くの戦国武将たちが、首実検のあと、立川流密教の技法で討ち取った首を供養していたというのである。

 実際に信長は、浅井長政を高く評価していたともいわれており、小谷城落城のおり、何度も降伏勧告を行い、降伏後は新しく大和へ領地を与えるという、裏切り者を嫌う信長としては破格の案も出されたとか。神仏を否定する信長が、密教の技法を使って敵を供養したというのは少々考えづらいが、「亡くなりし者への礼節」という設定は、あながち否定は出来ないかもしれない。
 「わしが何かをやると、いちいちそうした悪評が立つのよ。」
 髑髏で作った杯のことを尋ねたお江に対して信長がいった台詞だが、そうした悪評を作ったのは、実はこの時代に生きる者たちではなく、信長を狂人としたい後世の者だったのかもしれない。

 天正7年(1579年)、安土城竣工と共に信長のもとを訪れた、お市の方と三人の娘。小谷城落城で浅井長政が死んだのが天正元年(1573年)だから、前話から7年後のことである。つまり、前話で生まれたての赤子だったお江は、満6歳ということである。お茶々が満10歳、お初が満9歳というわけだ。ドラマ中、信長が、森蘭丸・坊丸・力丸の父・森三左衛門可成が死んだ「宇佐山城の戦い」を9年前といっていたから、時代設定も間違ってはいない。つまり今話のお江は、今でいえば小学校1年生というわけだ。これはさすがに無理があった(笑)。精一杯無邪気な女の子を演じておられたが、舞台劇ならともかく、テレビドラマで大人の女優さんが幼女を演じるのは、やはり無理がありすぎただろう。今話はまだ、子役に演じさせたほうが良かったのではないかとも思うが、とはいえ、この3年後の「本能寺の変」のときで江は満9歳、さらにその1年後の「賤ヶ岳の戦い」のときでも満10歳ということを考えれば、子役からの変わりどきがないといえば、確かにそうである。お江という女性の物語である以上、幼少期を長く描かねばならず、その間ずっと子役というのも難しく、苦肉の設定だったのだろう。なるほど、だから幼いイメージのある上野樹里さんがお江の配役だったんだと、妙に納得した今話だった。

 上野さん、頑張ってください(笑)。


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by sakanoueno-kumo | 2011-01-18 22:48 | 江~姫たちの戦国~ | Comments(4)  

誕生日に思う。~阪神・淡路大震災から16年。

 本日、1月17日は私の誕生日です。気分転換にブログタイトルの背景画像を変えてみました。我が愛する町・神戸メリケンパークの夜景です。一番右端のビルがホテル・オークラ、その左横にある白いモニュメントのような建造物は神戸海洋博物館、その左横の赤い塔が神戸港のシンボル・ポートタワー、一番左にある船のような形をした建物はメリケンパークオリエンタルホテルです。絵葉書などでもよく使われている神戸の代表的な景色ですから、訪れたことのない方も目にしたことのある景色ですよね。

 私が子どもの頃は、ポートタワー以外の高層建造物はなかったので、ポートタワーは市内中心部のどこにいても眼に入る「せいたかノッポ」さんでしたが、今ではすっかり高層ビルや高速道路の死角となって、かつての存在感はなくなってしまいました。そんなこともあってか、昨年改修工事が行われ、今までの照明に加えLED7000個によるライトアップが施され、40種類の照明演出で神戸港を彩っています。

 (今後また背景画像を変えるかもしれないので、記事中にも同じ写真をアップしておきます。)
                       ↓↓↓
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 さて、本日1月17日は、私たち神戸市民には忘れることの出来ない、阪神・淡路大震災の発生した日です。平成7年(1995年)1月17日午前5時46分27秒、兵庫県南部に観測史上初の「震度7(激震)」という大規模地震が発生し、一瞬にして町は壊滅、6000人以上の命が奪われました。この日、28歳の誕生日だった私も今日で44歳、16年という年月が過ぎました。あれ以来、私にとって自身の誕生日は、6434人の追悼の日でもあり、震災後の神戸の町や、自分自身を振り返る日でもあります。

 昨年、一昨年の同じ1月17日、地震直後の実体験や身近にあった悲しいエピソードをお話ししましたが(参照:震災から14年。そして私の誕生日。今、思うこと。今日は私の誕生日。そして阪神・淡路大震災から15年。 )、本日は、そんな非日常的な被災地の中で、元気をもらった話を少ししたいと思います。

 私は幸い家も家族も無事でしたが、当時、私の会社は、被災地の中でも特に被害の大きい建物倒壊率99%といわれた地区にありました。高速道路が横倒しになっている光景は印象に強いと思いますが、あの近くです。そんな究極の被災地にある職場ですから一度出社したら4~5日は自宅に帰れず、事務所で寝泊りをする生活を2ヶ月近く続けていました。そのうち1ヶ月近くは、水道もガスも電気もない日々で、真冬のその生活は厳しいものでしたが、住宅地にあった会社の周りに住む人たちのほとんどは、家を失い、避難所もしくは路上生活を余儀なくされた人たちばかりで、石油ストーブを焚いた事務所で寝泊まりできる私は、罪悪感のような気持ちを抱いたものです。

 しかし、避難所の人たちはそんな私たちを仲間のように接してくれました。究極の被災地ですから、店などあるはずもなく、少し離れたコンビニに足を運んでも商品はほとんどなく、食事もままならなかったのですが、避難所の炊き出しのお裾分けをいつも事務所に持ってきてくれました。救援物資で配給される弁当なども分けてくれました。夜には、暖をとるための焚き火場の仲間に入れてもらい、お酒ももらいました。それまで私は、会社の周りの地域の方々とあまり交流がなかったのですが、皮肉にもこの震災をキッカケに深く関わることとなったのです。災害という、周りが皆、不幸を共有する非常事態に陥ったとき、そこには仲間意識が芽生え、人は優しくなれるということを知りました。

 そしてもうひとつ元気をもらったのは、ボランティア活動の人たちでした。いわゆるボランティア団体の方々もそうですが、実はあのとき、最もハリキッて頑張ってくれていたのは、ピアスをしたり金髪タトゥーをしたような若者たちでした。彼らは炊き出しから救援物資の配布、力仕事やお年寄りのお世話など、実に精力的に汗を流していました。もちろん、なんの見返りもない仕事です。若者も捨てたもんじゃないなぁと思いました。彼らは、いってみれば、平時では社会からはみ出してしまった奴らです。それが、あのような非常事態になって、そんな彼らでも役に立つ場所ができたわけです。彼らにとってはボランティアというよりも、むしろ自分たちでも頼りにしてもらえるということに、非常な充実感を覚えていたのでしょう。平時にはコンビニの前でしゃがみ込んでたむろしているはみ出し者の彼らも、本当は、何かの役に立ちたい思いがあるんだということを知りました。こんな言い方をすると語弊があるかもしれませんが、若者は、非常時になるとおそらく『血が騒ぐ』のだろうなと・・・。それは、当時28歳というギリギリ若者といえる年齢だった私には、少しわかるような気がしました。

 震災から16年。今、神戸は、震災によって一時は減ってしまった人口を徐々に取り戻し、そこだけでみれば日本5大都市の一角にまで戻りました。しかし、その5大都市の中で失業率はダントツのトップで、全国でみても平均値をはるかに上回っています。震災の爪跡はまだまだそういうかたちで残っているのです。震災はもう懲り懲りですが、何かの役に立ちたいという若者たちの思いが、少しでも多く叶うような元気な町に、1日も早く戻ってほしいと願うばかりです。

 冒頭でもお話ししましたが、今日、私は44歳になりました。誕生日を向かえるたびに、震災のことを思い出す私です。


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by sakanoueno-kumo | 2011-01-17 01:48 | 日常 | Comments(4)  

難読珍姓珍名の苦渋と、プリンター宛名書きの弊害。

 唐突ですが、私はとても珍しい氏名なんです。名字は、読めないこともないんですが、大概違った読み方をされます。難しい字でもないんですが、どちらかといえば、ファーストネームで馴染みのある文字で、例をあげれば、現阪神タイガース監督・真弓明信氏のような名字といえば、わかりやすいでしょうか。少なくとも私がこれまで生きてきた四十余年の間で、親族以外の同姓の人とまだ会ったことがありません(父方の郷里には、同姓の他家が数軒あるそうですが)。

 珍しい名字というのは、結構厄介なんですよ。たとえば、認印を買おうとしても絶対既製品にはないですから、いちいち注文しなければいけないし、PCや携帯の漢字変換では当然でないですから、わざわざ記憶させないといけないし、電話で名字を名乗ると、必ず何度も聞き返されます。おそらく、そんな名字があるはずがないと思うんでしょうね。もし、親族から犯罪者が出たりでもしたら、おそらく知らぬ存ぜぬでは通せないでしょうね(笑)。そんなことはないことを願いますが・・・。

 ただ、得することも少しはあります。初対面の人には名刺を渡すだけで「珍しい名字ですね〜。ご出身はどちらですか?」といった会話になって、印象に残してもらいやすいようですし、学生時代の同級生なども、おそらく私の名字を覚えていない奴は少ないでしょう。でも、子どもの頃はやっぱ嫌でしたけどね。だって、クラス替えでの自己紹介の度に、「ヘンなみょうじ〜!」って誂われましたからね(苦笑)。もっと普通の名字の家に生まれたかった・・・と思ったものです。

 名字は、先祖代々から引き継いだものですから仕方がないんですが、私の場合、名前も厄介で、こちらの方は物心ついて以来、一度もマトモに読んでもらったことがありません。漢字二文字の名前で、当て字というわけではなく、人名辞典で調べるとちゃんと載ってる読みなんですが、そもそも二文字とも名前にはあまり使われない漢字で(日常的には使われる漢字ですが)、おそらく宇治原史規さんでも宮崎美子さんでも読めないと思います(笑)。

 で、さらに厄介なのが、その名前をひらがなで書くと、特に珍しくもないありふれた名前になるということです。読みも珍しければ逆に覚えてもらえるかもしれませんが、読みがありふれているだけに、かえって漢字を間違えられます。印刷物などで間違った文字を使われたことなど数知れず、ちゃんと大きな字で書いた原稿を渡していても間違えられますからね(笑)。もう慣れっこになってますから、いちいちクレームをつけるのも面倒クサイのでそのまま黙って見過ごしていますが、一番ひどかったのは、表彰状の名前が間違っていたこと。さすがにこれはクレームをつけました(苦笑)。でも、最もクレームをつけたいのは、そんな厄介な名前をつけた両親にですけどね(笑)。

 なぜ、こんな話をするかというと、先日、今年届いた年賀状の整理をしていると、誤字で届いた年賀状が10枚以上あったんですね。それも、ひとつとして同じ間違い方をしたものはなく、一文字だけ間違ったものや二文字とも間違えたもの、間違ってもなお、どう読んで良いかわからないものなど、実にバラエティーにとんだ誤字の数々で・・・(笑)。なかには20年以上の付き合いにも関わらず、未だに間違え続けている奴もいたりして、いい加減覚えてくれよ!・・・と言いたくなるものの、言う機会もなく・・・。ただ、コイツに限らず誤字で届く人のほとんどは、毎年同じ間違いを続けているんですね。その理由は、ひとつには近年急激に増えてきた、PCプリンターによる宛名書きにあると思います。昔は年賀状の宛名書きといえば、前年に届いた年賀状と照らし合わせながら一枚一枚手書きで作ったものですが、私も10年ほど前からプリンターで作るようになりました。前年のデータがバッチリ残っていますから、楽ですもんね。でもこれって、もし初回に気づかず誤字で入力してしまうと、次回からもずっと間違いのままになるわけで・・・。便利になった故の弊害というのは、どんな世界にもあるものですね。おそらく今、誤字の年賀状をいただいている方々は、来年以降も永遠に正されることはないでしょう(笑)。

 そこで思ったのは、ひょっとしたら私も間違って入力している宛名があるんじゃないかということで、早速、今年届いた年賀状をもとに見直してみると、案の定1件見つかりました(汗)。特に変わった名前でも難しい漢字でもないのに、いわゆる誤植ですね。今まで校正したことなどなかったので、この人にはずっと誤字のまま送り続けていたわけで・・・。この場を借りて、お詫び申し上げます(苦笑)。おそらく思われていたでしょうね・・・いい加減覚えてくれよ!・・・と(笑)。

 プリンターで宛名書きをしている方、一度データを見直してみたほうが良いかもしれませんよ!


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by sakanoueno-kumo | 2011-01-14 01:33 | コネタ | Comments(8)  

江~姫たちの戦国~ 第1話「湖国の姫」

 舞台は戦国時代。ときの権力者たちに人生を翻弄され、波乱に満ちた人生を余儀なくされた女性たちの物語が始まった。主人公のお江(ごう)は、のちに徳川二代将軍・秀忠の正室となり、天下泰平の世を願って江戸城大奥の礎を築いていくことになるわけだが、その彼女の半生もまた、波乱に満ちた数奇な運命に左右されることとなる。その数奇な物語を見るには、まずは彼女の実母、お市の方の物語を知っておかねばならない。それが、今話のストーリーである。

 永祿10年(1567年)、織田信長の妹・お市は、近江の浅井長政に輿入れする。これにより、織田家と浅井家は同盟関係となる。織田家が浅井家との同盟を望んだ理由は、天下を視野にとらえた信長が、京に上るにあたって避けては通れない近江を支配する浅井家と敵対したくなかったことと、同じく浅井家と同盟関係にあった越前・朝倉義景を牽制するためでもあった。織田家と朝倉家は仇敵関係のような間柄だったという。その朝倉家と長く友好関係にあった浅井家と同盟を結ぶことで、朝倉家の織田家に対する態度を牽制し、また、いずれは起こるであろう同家との戦を有利に運ぶための布石でもあった。しかし、浅井家は織田家と同盟を結ぶにあたって、「浅井家に無断で朝倉家を攻撃しない。」という条件を出し、約束を交わした。その約束を、信長は破ったのである。長政が苦慮の末、義兄・信長に叛旗を翻し朝倉義景に加担したのも、無理からぬことだった。

 政略結婚として長政のもとに嫁いだお市だったが、二人の夫婦関係はまわりが羨むほど仲睦まじかったという。この場合、浅井家からみればお市の存在は同盟の証である人質であり、織田家側にすれば浅井家に送り込んだスパイとなるわけだが、長政はお市を浅井家の人間として大切にし、お市もそんな長政の妻であろうとした。その証拠に、本来、長政が信長を裏切り両家の友好関係が破断した段階で、人質であるお市は処刑、もしくは離縁となるはずだが、長政はなおもお市を妻として側においた。彼女がもしスパイなら、それは命取りとなる決断でもある。長政がお市を大切にしていたというエピソードは、このことから考えてもおそらく事実だっただろう。お市はといえば、長政が叛旗を翻した際、信長のもとに陣中見舞いとして両側を縛った袋入りの小豆を送り、もはや「袋のネズミ」であるということを伝えた・・・というエピソードが有名だが、この話は後世の作り話だという見方が正しいようで、彼女もまた、兄を敵にまわしてでも浅井家の人間であろうとした・・・と考えたい。

 結局、長政とお市の夫婦生活は6年間で終わった(これについては、お市の輿入れの年が諸説あるため明確ではない)。元亀元年(1570年)、姉川の戦いで朝倉・浅井軍ともに敗走。これにより浅井軍は、小谷城にたてこもることになる。その後、織田軍は一向一揆などに手を焼き、浅井軍にとっては束の間の休戦期間となるものの、天正元年(1573年)、一乗谷城の戦いで朝倉義景を切腹に追いやり南北朝時代から続く朝倉家を滅亡させた信長は、そのまま軍を長政らがたてこもる小谷城に集結させた。もはや長政には反撃する力はなかった。小谷城攻めを任されていた羽柴秀吉は、お市とその子供たちの助命を条件に再三降伏を勧めたが、長政はこれを頑なに拒否し続け、しかしお市と娘三人の命は救うべく、織田軍に引き渡した。お市は浅井家の人間として長政と運命を共にすることを懇願したが、長政に諌められ、三人の娘の、とりわけ乳飲み子であったお江の行く末を案じ、生き延びることを決意する。お市が信長の陣営に帰還する際、織田、浅井両軍とも、一切の攻撃を中止したと伝えられる。その後、長政は残りの手勢を率いて防戦するも、織田軍の猛攻に屈して城兵は玉砕、自身も自害して果てる。享年29歳。

 と、主人公・お江が生まれる前のプロローグを足早に描いた今話だったが、ひとつだけどうしても納得できない部分がある。それは、江たち三姉妹の兄弟にあたる、万福丸の存在が省かれていたことだ。万福丸は長政とお市の間に生まれた嫡男。これについては、お市の生んだ子ではないという説もあるそうだが、ほとんどの物語でお市の実子となっているため、ここでもその説をとりたい。お市と三姉妹は織田軍に引き渡したものの、信長の気性からいって男子である万福丸の命は助けないであろうと見た長政は、家臣をつけて城外へ逃がした。しかし、織田軍の捜索によってほどなく捕らえられる。お市は助命を嘆願したが、生かしておいてはのちの災いになるとして、信長は秀吉に万福丸の処刑を命ずる。万福丸は美濃関ヶ原に処され(串刺しという説もある)、その生涯を閉じた。享年5歳とも10歳とも伝わる。万福丸の死に心を痛めたお市は、兄・信長を恨むわけにもいかず、命令とはいえ直接手を下した秀吉を終生恨み続けたという。

 なぜ、万福丸のエピソードを省いたのだろうか。6年間を足早に描いた今話だから、当然割愛する部分はあって然りなのだが、この話はいってみれば、お市と三姉妹の助命と同等に重要な話で、その後のお市と秀吉の確執にも関係するところであり、お市の悲運話の視点からいっても、外しようのないエピソードではなかっただろうか。戦国の世の非情さ、織田信長という人物の残虐さを伝える意味でも必要な話で、ドラマチックな側面から見ても、涙を誘いたいなら、なおさら描くべき逸話だったのではないか。もし、お市の実子ではないという説をとったとしても、三姉妹にとっては同じ父を持つ兄弟であることには違いないわけで、ドラマではまるで三姉妹のみの設定である。第1話からいきなり批判めいたことを述べたくはなかったが、どうしても省く理由がわからないし、省いてはならないエピソードだったのではないだろうか。

 ドラマとしての出来栄えが良かっただけに、残念でならない。というか、理解できない。


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by sakanoueno-kumo | 2011-01-11 04:04 | 江~姫たちの戦国~ | Comments(16)  

江~姫たちの戦国~ キャスト

 さて、1月9日より2011年NHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」が始まります。主役のお江(ごう)は、あの織田信長の妹・お市の娘であり、豊臣秀吉の側室・淀殿の妹でもあり、さらにはその秀吉と淀殿の間に生まれた嫡男・豊臣秀頼の正室・千姫の実母でもあるという、ミス戦国のような女性。母も姉も娘も波乱の生涯を送っており、彼女も当然例外ではありませんでした。二度の落城により父と母を失った江は、時の権力者たちに人生を翻弄され、三度の結婚を重ねることになります。その三度目で徳川二代将軍・徳川秀忠の正室となった江は、やがて姉・淀と敵味方に分かれて天下を争うことになってしまいます。

 今年もまた毎週、感想やらうんちくを起稿していきたいと思っていますが、昨年の「龍馬伝」ほどの知識はないので、その辺はご了承願います。放送開始に先立って、まずはキャストの紹介から。

***********************************************************************
三姉妹
(江→崇源院)・・・・・・・・・・・上野樹里
(茶々→淀殿)・・・・・・・・・・・宮沢りえ(幼少期:芦田愛菜)
(初→常高院)・・・・・・・・・・・水川あさみ(幼少期:奥田いろは)

浅井家
浅井長政・・・・・・・・・・・・・・・・・時任三郎
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鈴木保奈美
浅井久政・・・・・・・・・・・・・・・・・寺田農
赤尾清綱・・・・・・・・・・・・・・・・・油井昌由樹
侍女たち
須磨(市の乳母)・・・・・・・・・・・左時枝
ヨシ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・宮地雅子
サキ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・伊佐山ひろ子
ウメ(初の乳母)・・・・・・・・・・・・和泉ちぬ

織田家
織田一門
織田信長・・・・・・・・・・・・・・・・・豊川悦司
織田信忠・・・・・・・・・・・・・・・・・谷田歩
織田信雄・・・・・・・・・・・・・・・・・山崎裕太
織田信孝・・・・・・・・・・・・・・・・・金井勇太
織田信包・・・・・・・・・・・・・・・・・小林隆
織田家家臣
佐治一成・・・・・・・・・・・・・・・・・平岳大
柴田勝家・・・・・・・・・・・・・・・・・大地康雄
丹羽長秀・・・・・・・・・・・・・・・・・江達健司
池田恒興・・・・・・・・・・・・・・・・・武田義晴
佐久間盛政・・・・・・・・・・・・・・・山田純大
森蘭丸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・瀬戸康史
森坊丸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・染谷将太
森力丸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・阪本奨悟
佐々成政・・・・・・・・・・・・・・・・・中原裕也
前田利家・・・・・・・・・・・・・・・・・和田啓作

明智家
明智光秀・・・・・・・・・・・・・・・・・市村正親
細川ガラシャ(たま→ガラシャ)・ミムラ
斎藤利三・・・・・・・・・・・・・・・・・神尾佑

細川家
細川忠興・・・・・・・・・・・・・・・・・内倉憲ニ
細川幽斎・・・・・・・・・・・・・・・・・小田豊
清原いと・・・・・・・・・・・・・・・・・・吉田羊

豊臣家
豊臣一門
豊臣秀吉・・・・・・・・・・・・・・・・・岸谷五朗
おね(おね→北政所)・・・・・・・・大竹しのぶ
なか(なか→大政所)・・・・・・・・奈良岡朋子
豊臣秀次・・・・・・・・・・・・・・・・・北村有起哉
豊臣秀長・・・・・・・・・・・・・・・・・袴田吉彦
豊臣家家臣
石田三成・・・・・・・・・・・・・・・・・萩原聖人
黒田官兵衛・・・・・・・・・・・・・・・柴俊夫

京極家
京極高次・・・・・・・・・・・・・・・・・斎藤工
京極龍子(京極龍子→松の丸殿)・・鈴木砂羽

徳川家
徳川一門
徳川秀忠・・・・・・・・・・・・・・・・・向井理(幼少期:嘉数一星)
徳川家康・・・・・・・・・・・・・・・・・北大路欣也
築山殿・・・・・・・・・・・・・・・・・・・麻乃佳世
徳川信康・・・・・・・・・・・・・・・・・木村彰吾
結城秀康・・・・・・・・・・・・・・・・・前田健
徳川家家臣
本多正信・・・・・・・・・・・・・・・・・草刈正雄
本多忠勝・・・・・・・・・・・・・・・・・苅谷俊介
酒井忠次・・・・・・・・・・・・・・・・・桜木健一

その他の武家
足利義昭・・・・・・・・・・・・・・・・・和泉元彌
朝倉義景・・・・・・・・・・・・・・・・・中山仁
武田勝頼・・・・・・・・・・・・・・・・・久松信美

その他
千利休・・・・・・・・・・・・・・・・・・・石坂浩二
与助・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大竹浩一
***********************************************************************

 大河以外のドラマをあまり観ることのない私なので、江役の上野樹里さんのことをあまり知らないのですが、演技力には定評のある女優さんと聞きますから、今から楽しみにしています。姉・淀役は宮沢りえさんですね。淀という女性は、今までたくさんの方が演じてこられた難しい役です。可憐な悲劇のヒロインとして描かれたり、強かな悪女として描かれたり、傲慢でヒステリックな女性に描かれたりと、作品によって様々な姿があります。この度はどのような人物像に描かれるのか楽しみですね。宮沢さんの演技にも期待です。

 織田信長役は豊川悦司さん、豊臣秀吉役は岸谷五朗さん、徳川家康役は北大路欣也さんと、いずれも演技派ぞろいでイメージも申し分ありませんが、北大路さんだけずいぶん年上ですね。実際には三人の中で家康が一番年下なんですが・・・。おそらく家康が一番長く物語に登場するでしょうから、晩年を想定してのキャスティングだと思いますが、若き日の姿を想像すると、信長も秀吉も家康の貫禄に圧倒されそうですね。

 江の三番目の夫、徳川秀忠役は向井理さん。昨年、NHK連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」でヒロインの夫・水木しげる役を演じたのは記憶に新しいところですが、今度は大河ドラマのヒロインの夫役となります。偉大な父・家康とは違い、武勇や知略での評価は低く、温厚な人物だったと言われる秀忠。一説には、恐妻家だったともいわれますが、このドラマではどうでしょうね。

 第1話は75分の拡大版だそうです。当日私は新年会で、その次の週も新年会の予定があり、いきなり2週続けてリアルタイムでは観れそうにありませんが、遅れてでも毎週起稿していきますので、今年も宜しくお願いします。


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by sakanoueno-kumo | 2011-01-06 22:20 | 江~姫たちの戦国~ | Comments(8)  

2011年元旦の昼下がり、新年のご挨拶。

新年あけましておめでとうございます。
旧年中はひとかたならぬご厚情を賜り、誠にありがとうございました。
本年も相変わらず、よろしくお願いいたします。

e0158128_1375091.jpg

我が家から見える、景色です。
画面中央にそびえるのは明石海峡大橋、その向こうに見えるのが淡路島です。
今朝、年賀状を取りに郵便受けを覗きに出た際、撮影しました。
残念ながら少し靄がかかっていますが、快晴の日はもっと綺麗に見えます。
私は毎朝、出勤時に玄関を出て、この景色を目にして1日が始まります。
今年はこの曇り空の景色からスタートとなりましたが、2011年は快晴の1年となってほしいものですね。

昨年、後厄の年だった私でしたが、特に大きな不幸もなく乗り切ることができました。
まあ、公私の「公」の方は、世間さまの例外に及ばすでしたけどね。
これを「厄」のせいだと考えて、今年は飛躍の年としたいものです。

この厄年というのは平安時代にはすでに存在していた風習だそうです。
科学的な根拠も起源も曖昧なものとはいえ、21世紀の今日においても根強く語り継がれていることを思えば、あながち迷信ともいえないようです。
昔は「人間50年」などと言いましたが、やはり40歳を超えると、何かと身体に変調がみえてきますね。
個人的には昨年、新聞の文字が読みづらくなってきた自分にショックを受けました。
これが、有名な「老眼」ってヤツか~!・・・と・・・(苦笑)。
視力が良い人は早く老眼になるとは聞いていましたが、やはりこの「老」という文字は受け入れ難いものがあります。
まだ、老眼鏡をかけるほどには至っていませんが・・・。
このところ急激に白髪が増え始めましたし、残業が続くと疲労回復がとみに遅くなったことを、ひしひしと感じています。
私の父は43歳で亡くなっていますし、やはり昔の人はよく言ったもので、この厄年あたりを境に「老」という言葉を受け入れ、身体を労わることを考えていかねばならない、ということでしょうね。

とはいえ、昔の「人間50年」とは違い、平均寿命が80歳の現代において40歳代半ばといえば、まだまだ社会においても人生においても折り返しをすぎたところ。
まだまだ身体に鞭打っていかねばならない世代でもあります。
眼や髪は衰え始めましたが、心まで衰えないよう自己研鑽していかねばなりませんね。

本年もよろしくお願いします。

平成二十三年元旦


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by sakanoueno-kumo | 2011-01-01 14:34 | 日常 | Comments(11)