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江~姫たちの戦国~ 第8話「初めての父」

 お江たち三姉妹の新たな父、柴田勝家は、大永2年(1522年)、尾張国愛知郡上社村で尾張国守護斯波氏の流れをくむ柴田勝義の子として生まれたと伝わる。しかし、諸説あり定かではない。織田信長の父・織田信秀の家臣として仕え頭角を現し、信秀の没後は、嫡子の信長ではなくその弟の織田信行に家老として仕えた。やがて勝家は、信長を排除し信行を織田家後継者にしようと画策するも、弘治2年(1556年)8月、信長との戦いに敗れ、剃髪して降伏した。その後、信行が再び謀反を企てた際には、勝家はこれを信長に通報、信行は自刃に追いやられた。

 信行の死後、勝家は信長の家臣となる。しかし、一度は信長に刃を向けた身、最初は警戒され、主だった戦には参戦できない時期を過ごす。そんな中、与えられた少ないチャンスに勝家はすべて先鋒として武功をあげ、その勇猛さから次第に信長の信頼を得るところとなり、いつしか信長の天下統一に向けての片腕となっていった。そして朝倉氏滅亡後、信長麾下の佐々成政不破光治佐久間盛政前田利家らを率いて、長きにわたって越前を支配していた加賀一向一揆を平定。その功により、越前国北ノ庄(現在の福井県福井市)を与えられ、織田家中で最も多くの領土を有するようになる。能力重視の信長配下の中で、最も代表的なサクセスストーリーとして誰もが羽柴秀吉を思い浮かべるが、勝家とて決して平坦な道だったわけではなく、努力で掴んだ織田家筆頭家老の地位だった。

 柴田勝家といえば、“鬼柴田”と異名からも想像するように、武骨な武闘派の武将をイメージしがちだが、統治能力にも長けた人物だったようで、善政を敷き、領地をよく治めたといわれる。だからこそ、織田家で最も多くの領地を与えられたとも考えられているらしい。また、最初に刀狩をしたのは秀吉ではなく、勝家だったという説もあるとか。勝家は回収した刀を、新しい農具や釘などに代えていた、などという話も残っている。武勇においても、行政面においても、信長の天下統一に欠かせない人物だったようだ。

 信長の死後、勝家は明智光秀討伐に参戦できなかったこともあり、前話の清洲会議では羽柴秀吉にイニシアティブをとられ、織田家筆頭の地位を秀吉に奪われることとなる。一般に、それ以前から勝家と秀吉は性格が合わなかったともいわれ、小説などでは信長の生前から二人の不仲が描かれることが多い。しかし実際にはそれを裏付ける史料は残されていない。そもそも木下藤吉郎という名で活動していた秀吉が、天正元年(1573年)頃から名乗った“羽柴”という姓は、柴田勝家の“柴”と、もうひとりの重臣・丹羽長秀“羽”を一文字ずつもらったものだといわれている。少なくともこの頃はまだ、秀吉にとって勝家は大先輩にあたる人物で、尊敬する存在だったのではないだろうか。勝家にしても、まさか将来、名字の一文字を与えた人物と対峙することになろうとは、夢々思わなかったことだろう。そしてそれが、自身の最後の戦になろうとも・・・。

 そんな勝家のもとに嫁いだ、お市の方。前話の稿でも述べたとおり、この結婚は信長の三男・織田信孝の仲介だったという説や、近年では秀吉の仲介だったという説が有力になっているそうだが、結婚の理由については、どれも想像の域をでない。勝家にはこのとき正室はいなかった。お市が初めての正室だったという説もあるが、これも定かではない。正室はいなかったものの側室は複数いたという話もあるが、これも明確ではないようだ。武勇にも行政面にも優れた勝家だったが、そっち方面は不器用な男だったのだろうか。

 いずれにしても勝家にとっては60歳を過ぎてからの結婚。理由はどうあれ、彼にとって美貌で知れたお市とのこの結婚は、信長の横死の知らせ以上に「青天の霹靂」だったのではないかと想像する。彼は、二回り以上離れた新妻と3人の娘たちをたいそう大切にしたとか。勝家にとってお市は、“眩いほどの奥さん”だったのだろう。
 「多少なりとも、それがしに、想いを寄せてもらいたいのでございます。」
 このような台詞を勝家に吐かせたのは、いかにも女性脚本家らしいメロドラマの世界ではあるが、とはいえ、私がもし勝家の立場なら、天下の情勢など忘れて、妻と残り少ない余生を穏やかに過ごせたら・・・などと思ったかもしれない。60歳といえば、人生50年の当時でいえば明らかに余生。武勇で知れた勝家といえども、わずかでも、そんな想いが心をよぎっていたとしても、何ら不思議ではない。

 しかし、そんな想いを世情は許すはずがなかった。
 勝家とお市の穏やかな日々は、1年と続くことはなかった。


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by sakanoueno-kumo | 2011-02-28 02:32 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(7) | Comments(2)  

斎藤佑樹投手の将来性に思う、一流投手の資質の考察。

 北海道日本ハムファイターズのゴールデンルーキー、佑ちゃんこと斎藤佑樹投手の話題が、連日のようにマスコミを賑わわせていますね(さすがにハンカチ王子という愛称は消えたようですが)。まるで今年のルーキーは斎藤投手しかいないかのような過熱報道ぶりです。ここまで注目を浴びたルーキーといえば、あの松坂大輔投手以来じゃないでしょうか。朝から晩まで四六時中カメラが張り付きっぱなしで、あれじゃ迂闊に股間もかけやしない(笑)。先日はとうとう腹痛でダウンしたとか・・・。少々気の毒な気がしないでもないですが、これもスター選手の宿命、慣れてもらうしか仕方がないでしょうね。

 一方で、斎藤投手の将来性を不安視する声も、ちらほら聞こえてきます。人気先行で騒がれてはいるものの、あの程度の直球や変化球を投げる投手は、プロ野球界にはゴロゴロいる・・・というのがその理由で、特に専門家といわれる方々の間で辛口の評価が多いようですね。同じくゴールデンルーキーとして騒がれた松坂大輔投手などは、当時そういった声はほとんど聞こえてきませんでしたから、そう考えれば、専門家の目というのはあながち否定出来ないのかもしれません。

 しかし、私の根拠のない素人意見を述べさせてもらうと、斎藤投手は大投手に成り得る器だと思っています。そもそもプロ野球ドラフト1位で指名されるような選手は皆、身体能力においては少なからずその天分を持ち合わせていると思うんですね。その中で、一流選手になるかならないかの違いは、最終的には“ハート”だと思います。というと、よくある精神論じゃないか!・・・といわれるかもしれませんが、実際に大投手になる天分を持ち合わせていたにも関わらず、ハートが二流だったために埋もれていった選手は星の数ほどいるわけで・・・。よくいるじゃないですか・・・練習ではコーチが惚れ惚れするようなピッチングをするのに、いざ試合になると別人になってしまうブルペンエースといわれる投手や、試合途中まで完璧なピッチングをしながら、一度ピンチを背負うとガタガタに崩れていくメンタル面の弱い投手が。彼らは皆、一流の投手になる天分を持っていながらも、ハートが二流のため大成できない典型例で、このタイプの選手が大化けすることは“稀”といってもいいでしょう(野村再生工場で時折大化けする選手もいましたが・・・)。

 その論でいえば、上述した松坂大輔投手などは、ルーキー時代から技術もハートも完成品だったと思えますし、田中将大投手も、技術面こそ発展途上でしたが、ハートは松坂投手に勝るとも劣らないものを持っていたように感じました。ダルビッシュ有投手のルーキー時代は、先に述べた2人より少し精神面に劣っていたような気もしますが、彼の場合、類まれなる身体能力がそれをカバーしていた、数少ない例といえるでしょうか。プロの投手である以上、皆、調子が良いときは素晴らしいピッチングが出来るはずで、一流か二流かの違いは、調子が悪いとき、ピンチを背負ったときにどんなピッチングが出来るかで、その真価が問われるものだと思います。それを司るものは、テクニック云々もあるでしょうが、一番はやはり“精神力”なわけで・・・。

 で、佑ちゃんですが、彼はその一流のハートを存分に持ち合わせていると思います。彼を語るにどうしても切り離せないのは、2006年夏の甲子園大会で見せた田中将大投手との投げ合いだと思いますが、あのとき世間一般に与えた2人の印象は、闘志むき出しの野性味あふれる田中投手と、常に沈着冷静で虎視眈々と投げる斎藤投手の姿だったと思います。それはそれで間違ってはいないでしょうが、“闘士”という観点でいうと、私はむしろ斎藤投手のほうが一枚上だったように感じました。平生はたしかにクールで感情を表に出さない彼ですが、“ここ一番”というところでは、彼はハートで投げているように見えました。奪三振の数でいえば、田中投手の方が勝っていましたが、ピンチでの奪三振率は、斎藤投手は異常に高かったように思います。

 以前、昭和の大投手・江夏豊氏が、「投手と打者の対戦は、どちらがどちらを飲むかで9割がた勝負が決まる。」という旨のことをいっておられました。まあ、これは江夏氏だからこそいえる言葉かもしれませんが(たぶん、ほとんどの対戦で相手を飲んでかかっていたでしょうから)、これは使い古された精神論ではなく、プロである以上最も重要なことのように思います。お互い卓越した技術と技術がぶつかり合うわけですから、その軍配を決めるのは、最終的には“気迫”なんですね。投手でいえば、「打てるもんなら打ってみろ!」的な気迫のこもった渾身の球を、“ここ一番”で投げられるか投げられないか・・・が、一流か二流かを分ける最大のポイントではないでしょうか。もちろん、ある程度の技術があってのことですけどね。私は、今現役のプロ野球投手の中で一番のハートの持ち主は、田中将大投手だと思っています。その田中投手に勝る気迫を、18歳の時点で持っていた斎藤投手は、大投手に成り得る器だと私は思うのですが、いかがでしょうか?

 斎藤佑樹投手と同学年のルーキーは、ジャイアンツの澤村拓一投手や、ライオンズの大石達也投手、カープの福井優也投手と、いずれも将来を期待される逸材揃いで、すでにプロ野球で活躍している選手を見ても、上述した楽天の田中将大投手を筆頭に、昨年、沢村賞を受賞したカープの前田健太投手やジャイアンツの坂本勇人内野手など、今やチームの顔になりつつある選手が揃っています。まさに一時代を築きそうな勢いの同級生たちですが、似たような例でいえば、松坂世代イチロー世代桑田・清原世代などがあげられるように、同学年に一流選手が集まるという例は珍しくありません。これは単なる偶然ではなく、ひとりの突出した選手の登場により、同世代の選手たちがその突出した選手を追いかけるように向上した、相乗効果だといえるでしょう。その意味では、この昭和最後の年に生まれた彼らの世代は、間違いなく佑ちゃんマーくんが火をつけたわけで、「マエケン世代」でも「坂本世代」でもなく、明らかに「斎藤・田中世代」だと思うのです。

 専門家の方々の目も節穴ではないでしょうから、現段階では、技術的に見て初年度からいきなりの大活躍というわけにはいかないのかもしれません。でも、技術は鍛錬によって向上できるものですよね。でも、ハートは教えられるものじゃないんですよ。一流になる資質というのは、突き詰めればそこだと思うんですね。

 そういうわけで、仮に今年、期待ほどの活躍が見られなかったとしても、気長に応援しましょうよ。彼はきっと「野球界の宝」になってくれると思いますよ。


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by sakanoueno-kumo | 2011-02-23 01:34 | プロ野球 | Trackback | Comments(3)  

江~姫たちの戦国~ 第7話「母の再婚」

 「中国大返し」という奇跡を起こした羽柴秀吉が、主君・織田信長の仇である明智光秀を打ち負かした「山崎の戦い」から半月後の、天正10年(1582年)6月27日、尾張・清洲城において織田家後継者ならびに遺領の分配を決めるための、織田家家臣重役会議が開かれる。世にいう「清洲会議」である。

 会議の列席者は、柴田勝家羽柴秀吉丹羽長秀池田恒興。もうひとりの重臣である滝川一益も本来ならば列席すべきだったものの、関東での北条氏との戦いに敗れ、敗走中のため会議に間に合わなかった。また、後継者候補の当事者である信長の次男・織田信雄、三男・織田信孝も、この時すでに、お互い後継者候補と自負して対立は表面化していたようで、清洲城には来ていたものの、この会議には列席していなかったらしい。

 会議に臨むそれぞれの立場をいうと、柴田勝家は「本能寺の変」が起こったとき北陸で上杉家と対峙しており、信長の弔い合戦には参加できなかった。羽柴秀吉は上述したとおり明智討伐の功労者。丹羽長秀や池田恒興は織田家の尾張統一以前からの古参の家臣で、秀吉と共に明智討伐に参戦していた。勝家は織田家筆頭家老という立場であったものの、ひとり明智討伐の功がない、不利な立場にあった。

 その勝家は、「山崎の戦い」の総大将だったことを理由に信孝を後継者に推した。しかし、秀吉がこれに反論。三男の信孝が次男の信雄を差し置いて後継者となるのは問題があるとし、さらに、信雄はすでに北畠氏へ養嗣に、信孝も神戸氏へ養嗣に出されていることもあり、信長と共に落命した嫡男・織田信忠の忘れ形見で信長の嫡孫でもある、三法師(後の秀信)を推した。これに池田恒興、丹羽長秀共に賛同。一説には、秀吉は長秀や恒興を事前に根回しして抱き込んでいたともいうが、その真偽はわからない。しかし、根回しがなくとも秀吉の主張は筋が通っていた。そもそも織田家の家督は、信長存命中にすでに長男の信忠が継いでおり、その嫡男である三法師が後継者となることは、当然の道理だったのである。それでも勝家は、三法師が幼いということを理由に信孝を推し続けたが、秀吉には明智討伐の功という強みもあり、結局は秀吉の前に屈し、後継者は数え3歳の三法師で決定、信雄と信孝の二人はその後見役として決着を見る。会議が終わって新しい“上様”に拝礼ということになり、三法師を抱いた秀吉の前に、ひとりひとりが来て平伏した。秀吉は軽く頷いて礼を返していたが、それはあたかも、秀吉が礼を受けているようだったという。

 こうして会議は、秀吉の思い通りに進んだ。「本能寺の変」から「中国大返し」、「山崎の戦い」までは、天が秀吉の天下取りに味方した偶然ともいえるが、ここからはまぎれもなく、秀吉の知略謀略を尽くした天下取りが始まる。

 この「清洲会議」以降、織田家における秀吉と勝家の立場が逆転した。信長の弔い合戦に遅れを取り、後継者争いに負け、さらに会議のもうひとつの議題であった信長の遺領配分においても、河内や丹波、山城を増領した秀吉に対し、勝家は北近江3郡の長浜城を得るにとどまり、事実上、織田筆頭の座を秀吉に奪われたかたちとなった。しかしこの後、そんな勝家のもとに、信長の妹・お市の方が嫁ぐことになったのである。

 ドラマ第1話の「小谷城落城」で、お市の夫・浅井長政が落命したのが天正元年(1573年)。通常、この時代は、主人亡き後は出家して夫を弔うことがほとんどだったが、まだ若かったお市は出家ぜず、9年間、3人の娘と信長の庇護のもと暮らしていたという。そのお市に着目した信孝が、織田家における秀吉の発言力が増すことを抑えるために、勝家との間を仲介した、というのがこれまで言われてきた説で、今回のドラマでもその説をとっていた。秀吉はお市に思慕していたものの、お市は「小谷城落城」以来、秀吉を毛嫌いしており、秀吉牽制のため勝家に嫁ぐことを決意した・・・と。このことによって、秀吉の「勝家憎し」の感情が、さらに増した・・・とも。

 しかし近年では、秀吉の仲介を伺わせる書状が見つかったことから、勝家とお市の結婚は秀吉が仲介したものという説が有力となっているらしい。となれば、上記のお市の決意も秀吉の感情もすべて否定され、結婚の理由も???となる。秀吉はなぜ、自身にとっては不利となるような結婚を仲介したのだろうか・・・。また、お市はなぜ、9年間も再婚することのなかった我が身を、このタイミングで勝家に捧げたのだろうか・・・。

 理由はいろいろ想像できる。信長の妹を嫁がせることによって、勝家の反秀吉の強硬姿勢を緩めるための懐柔策・・・いわゆる、手土産のようなもの・・・とか、もしくは、後継者争いや遺領配分など、あまりにも秀吉の思い通りにことを運びすぎたことにより、織田家内での反感を買うことを懸念し、彼の支持基盤を固めるためのカムフラージュ・・・とか、あるいは、秀吉が力を持つことを快く思っていないお市を、いずれは衝突することになるであろう勝家のもとに嫁がせ、一緒に葬り去ってしまおうと画策した・・・などなど。どれもこれも憶測の域をでないが、お市の側にしてみれば、いくら女性に結婚の自由がなかった時代とはいえ、旧主君の妹君。断ろうと思えば断れたはず。このタイミングで嫁ぐ決意をしたのは、織田家の行く末を案じた上で、勝家という人物が最も信頼できると判断したから・・・と、考えるのが一番合点がいく。そして、秀吉の台頭を快く思っていなかったという話も、案外本当のことだったのではないだろうか。

 そんな政略結婚だったにも関わらず、お市と3人の娘にとっては意外にも幸せな日々が待っていた。しかしそれは、ほんの束の間にすぎなかった・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2011-02-21 02:11 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(6) | Comments(4)  

映画 「SPACE BATTLESHIP ヤマト」 鑑賞記

 先日、遅ればせながら映画『SPACE BATTLESHIP ヤマト』を観てきました。以前、拙ブログの別稿でも述べましたが(参照:宇宙戦艦ヤマトに思う、「世界統一国家」という夢)、私は小学生の頃、ヤマトファンクラブに加入していたほどアニメ『宇宙戦艦ヤマト』が好きでしたから、この度の実写版映画は、何としても劇場で観ておかねばという使命感(?)に駆られていた次第で、なんとか公開終了間際に足を運ぶことができて安堵しています。で、本日はその鑑賞記です。多少のネタバレを含みますので、まだ観られていない方で今後鑑賞予定の方は、この先はご遠慮下さい。

 ストーリーを簡単にいえば、謎の侵略者・ガミラスの攻撃により滅亡の危機に瀕していた地球人の最後の希望を載せて、はるか14万8千光年離れたイスカンダルに向けて旅立つ、アニメ1作目の『宇宙戦艦ヤマト』と、惑星テレザートテレサから発信されたSOSを受けて、宇宙全体の平和と秩序を守るために白色彗星帝国と戦った、劇場版映画2作目『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』をミックスしたような作品となっていました。アニメ作品は、その後3作目、4作目と続きますが、古いヤマトファンの共通の意見として、「ヤマトは2作目まで」という声が多く、今作品はその名作2作を合体させた作りとなったのでしょう。私と同じくアニメ・ヤマト世代である山崎貴監督ですから、おそらく同じ思いだったのだろうと思います。

  

 で、私の意見を述べさせてもらうと、アニメ1作目と2作目はまったく別の作品。ミックスすべきではなかったと思います。太平洋戦争末期の1945年、片道分だけの燃料を積んで玉砕戦に旅立ち、東シナ海に眠った戦艦大和。それから250年後の世に再び蘇ったヤマトは、滅亡寸前の人類の最後の希望を乗せた往復航海を終え、無事帰還して地球を救う・・・というのが1作目のストーリーで、そこでは、ヤマトだけでなく主要な乗組員たちも皆、「目的を果たして生還」するところが重要なポイントだったと思います。2作目の劇場版アニメでは、『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』のタイトルどおり、「宇宙愛」をテーマに、愛する人のため、愛する祖国のため、乗組員たちのほとんどが死んでいきます。そこでの世界観は、まさに祖国防衛玉砕戦。それはそれで、この作品としては良かったのですが、1作目と2作目では主旨がまったく違っていたわけです。

 ここまで言ってしまうと、ほとんどネタバレの観はありますが、そうです、今作品では、主要乗組員の多くが死んでいきます。ストーリーの大筋は1作目でありながら、結末は2作目という、私としては受け入れがたい展開となっていました。オリジナルと違うから駄目だと言っているわけではありません。1作目と2作目では、そもそもストーリーに求められるテーマが違うのです。人類の「希望」を乗せたヤマトは、「生還」してこその「希望」であって、「希望」が玉砕してはいけないと思うのです。古代進「特攻」は、ヤマト艦長となったアニメ2作目でこそあり得たわけで、1作目のストーリーでそれをやってしまうと、沖田艦長の存在の意味がなくなってしまいます。

 アニメ作品では、敵方ガミラス人にも侵略行為をしなければならない理由がありました。ガミラス星の、星としての寿命が尽きようとしていた状況下で、移住する星を求めて標的となったのが地球。つまり、ガミラス人にとっても生きるための侵略行為だったわけです。その辺りの事情が今作品では伝わってきませんでした。アニメの中で、ガミラス星での最終決戦にヤマトが勝利したあと、壊滅したガミラスの廃墟を見つめながら古代進がこんな台詞を吐きます。
 「我々がしなければならなかったのは、戦うことじゃない。愛しあうことだった!」と。
 少々クサイ台詞ではありますが、この台詞がヤマト全編を通してのテーマで、このテーマ無くしてヤマトは語れません。ガミラス人は自分たちが生き延びるために地球人を滅ぼそうとしました。そんなガミラス人を地球人は憎んでいました。しかし、結局地球人がしたことは・・・そうです。ガミラスと同じことをしたのです。つまり、自分たちが生き延びるために他の星を滅ぼしたのです。ガミラスを滅ぼして初めてそのことに気づいた・・・そのときの台詞が、上記の言葉です。今作品では、そのテーマが抜け落ちていました。ただ、人類の危機に際して立ち上がった、勇敢な戦士たちの姿を描いていただけで・・・。

   (古代進の名台詞のシーンです。故・富山敬さんは、やっぱ名声優ですね。)
                    ↓↓↓
  

 2作目の劇場版アニメ『さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち』では、古代進をはじめほとんどの登場人物が死んでいくわけですが、映画公開翌年にTVシリーズ化された『宇宙戦艦ヤマト2』では、ストーリーを変更して、古代たちは生き延びる結末となります。これについては当時、続編制作のために設定を変えたなどと批判されたりもしましたが、実際には、制作者のひとりである松本零士氏が、特攻を美化するような2作目の結末に難色を示し、プロデューサーの西崎義展氏に対して「戦争で若者を死なせてはいけない。」と苦言を呈したことから・・・というのが、古いヤマトファンの中では周知のところだと思います。そういった経緯から考えても、今回も松本氏の意向を尊重してほしかったと思うのですが、いかがでしょうか。

 と、厳しいことばかり述べてきましたが、良かった部分もありました。まずはガミラスとイスカンダルの解釈。なるほどな・・・と。アニメのように、青塗りの顔をした役者さんがデスラーを演じて、地球人と日本語で会話をするというのは、アニメの世界では有りでしょうが、実写版でそれをやってしまうと、あまりにも現実離れしてしまって興ざめしそうです。そのあたりの設定は、おそらく苦慮されたことでしょう。どうやって地球人と会話させるか・・・上手く考えていたと思います。スターシャは、アニメ2作目のテレサのような扱いになっていました。デスラーは伊武雅刀さん、スターシャは上田みゆきさんでしたね。このあたりにも、往年のヤマトファンの心をくすぐる配慮がなされていました。

 古代進島大介の設定も良かったですね。アニメでは、2人とも19歳の設定でしたから、制作発表で木村拓哉さん、緒形直人さんと聞いたときは少々抵抗がありましたが、考えてみれば、アニメのように訓練生あがりの若造がいきなり戦闘隊長航海長の任務に就くほうがおかしいわけで、今回の設定はスンナリ受け入れられました。

 VFXも見事でした。ブラックタイガーコスモゼロの戦闘シーンも見応えが有りましたね。ヤマト発進のシーンは事前に宣伝の映像で知っていましたが、スクリーンで観ると迫力倍増でした。日本映画もついにここまできたかと。中でも、最も良かったのは、波動砲発射のシーン。オリジナルアニメに忠実でありながら、迫力はアニメを超えていたと思います。さすが制作費40億円もかけただけのことはありました。
 「ターゲットスコープオープン、電影クロスゲージ明度20、エネルギー充填120%、発射10秒前、対ショック、対閃光防御、5、4、3、2、1・・・波動砲発射!」
 この台詞、子供の頃、何度真似したことか(笑)。木村拓哉さんも、きっと快感だったことでしょう。ただ、細かいことをいえば、発射までの時間に、もうちょっと間を作って欲しかった。あの焦れったい間で、緊迫感が伝わってくるんですけどね。

 日本映画が初めて手がけたSF超大作映画『宇宙戦艦ヤマト』が選ばれたのは、往年のヤマトファンとしては嬉しい限りです。タイトルを『SPACE BATTLESHIPヤマト』としたのは、海外進出を視野に入れてのことだとか。既に台湾では公開されているそうで、続いて香港・タイ・シンガポール・フランス・ドイツ他13カ国での公開が予定されているそうです。なるほど、映像技術などは、世界に出しても決して恥ずかしくない作品となっていますが、ストーリーはというと、やはり日本人向けの作品のような気がします。戦艦大和に込められたスピリッツは、「大和魂」ですから・・・。

 この作品で初めてヤマトの世界を知った若い人には、ぜひとも往年のアニメ作品を観て欲しいですね。



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by sakanoueno-kumo | 2011-02-16 17:29 | 映画・小説・漫画 | Trackback | Comments(34)  

心に残る名曲 No.6 『雪の華』 中島美嘉

 今年は、例年になく冬らしい冬ですね。私の住む神戸でも今日は珍しく1日中の降雪で、家々の屋根は白く雪化粧をしています。先週末の3連休は全国的に積雪だったようで、関西でも高速道路の通行止めや交通機関の混乱が相次いでいたようです。連休を利用して旅行などを計画していた方々は、ホント、お気の毒でした。私は、降雪で少年野球の練習が中止になったおかげで、久々にのんびりした連休を過ごせました。平日の降雪、積雪は勘弁願いたいですが、休日にこうして自宅待機を余儀なくされるというのも、たまにはいいものですね。それにしても、たった数センチの積雪で大騒ぎしている姿というのは、きっと雪国の方々にしてみれば何とも滑稽に映っていることでしょう。

 でも、そんな神戸でも私が子供の頃の冬は、もっと寒かったような気がします。積雪による休校というのも、毎年一度や二度はあったように思いますし、校庭で雪合戦をしたり雪だるまを作った記憶もあります。私の子どもたちは、スキー場以外でそんな経験はおそらくないでしょう。昔は冬といえば、吐く息が真っ白で、耳がちぎれそうな寒さが常だったように思うのですが、近年ではそんな厳しい寒さの日が少ないような・・・。これも、地球温暖化とか高温化とかが関係しているのでしょうか・・・。そう考えれば、今年のような冬らしい冬は、歓迎すべきことなのかもしれませんね。年々寒さに弱くなってきた気がする中年オヤジとしては、ちと辛いもんがありますが(笑)。

 で、久々に「心に残る名曲」を紹介したいと思いますが、せっかく雪が積もっているので、何か雪の曲をと思い、この曲を選びました。中島美嘉さんの『雪の華』です。



 中年オヤジにしては、えらく最近の曲じゃないか、という声が聞こえてきそうですが、そのとおり、ちょっと若ぶっちゃいました(笑)。現在44歳の私にとって、この曲がヒットしたときはすでに40歳前、当然ながら、ラブソングに浸るような歳ではありませんでしたが、どういうわけかこの曲は耳に残っていて、雪が降ると自然に口ずさんでいるのはこの歌です。といっても、中島美嘉さんの他の曲はまったく知らないんですけどね。

 先日、北海道は「さっぽろ雪まつり」の開催を前にして、第一興商から雪の歌カラオケリクエストランキングが発表されたという記事を目にしました。結果は下記の通り。

◆雪の歌カラオケリクエストランキングTOP10
 1  「粉雪」 レミオロメン
 2  「雪の華」 中島美嘉
 3  「なごり雪」 イルカ
 4  「雪國」 吉幾三
 5  「雪椿」 小林幸子
 6  「越前 雪の宿」 真咲よう子
 7  「細雪」 五木ひろし
 8  「氷雨」 佳山明生
 9  「氷雨」 日野美歌
10  「雪は、バラードのように・・・」 チェウニ


 「雪の華」は2位だそうです。今や雪の定番曲となっているようですね。昔は雪の定番曲といえば「なごり雪」だったのだろうと思いますが、3位になっちゃってるようです。世代別だとまた違う結果になるのでしょうが、たしかに上位2曲は、オジサン世代でも受け入れやすい曲だと思います。この結果を見ると、雪の季節はバラード演歌が合う・・・ということのようですね。中年も若者も、深々と降り積もる雪の中では、しんみりとした気分に浸りたいものなのでしょうか。

 てなことを言っている間に、窓の外の雪はやんだようです。おそらく明日の朝には、積もった雪もとけてしまっていることでしょう。


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by sakanoueno-kumo | 2011-02-14 23:12 | 音楽 | Trackback(1) | Comments(4)  

江~姫たちの戦国~ 第6話「光秀の天下」

 天正10年(1582年)6月2日、明智光秀の起こした「本能寺の変」によって織田信長は、天下統一を目前に業火の中で灰燼に帰した。このとき、信長配下の武将たちは京を遠く離れ、それぞれの戦地に赴いていた。織田家筆頭家老の柴田勝家は北陸で上杉家と対峙し、滝川一益は関東で北条家と交戦中、丹羽長秀は信長の三男・織田信孝と共に四国攻めに向かうため大坂にいた。そして中国攻めを任されていた羽柴秀吉は、備中高松城水攻めという奇策を用いて攻め、落城目前という戦況にあった。この有力武将たちの中で誰が信長の弔い合戦の先頭に立つか・・・それは同時に、のちの世の天下人を意味していた。

 「本能寺の変」の報を備中高松城攻めの陣中で知った羽柴秀吉は、配下の黒田官兵衛や弟の羽柴秀長らと協議の上、明智光秀討伐へ向かうことを決意。それには、この高松城攻めを早々に終わらせねばならず、さらにそれには、信長落命の事実を敵方の毛利軍に知られてはならない。秀吉は、情報が漏洩しないよう備前・備中への道を完全に遮断し、毛利方の使者・安国寺恵瓊と黒田官兵衛との間で交渉を行わせ、高松城主・清水宗治の切腹を条件に和睦を決める。そして「本能寺の変」の2日後の6月4日、宗治の切腹を見届けた秀吉軍は、6月6日夕刻より兵の退却を開始、昼夜兼行で走り続け、70km離れた播磨国姫路城に8日の朝入城。ここで約1日の休養をとり再び進軍。明石、尼崎を経て12日には富田に着陣した。5日間の全走行距離、約200km。のちの世にいう「中国大返し」である。

 1日平均約40km。少人数ならともかく、これを総勢25,000人ともいわれる兵が強行したわけだ。今のようにアスファルトで舗装された道でもなければ、ジョギングシューズを履いているわけでもない。これには、間寛平さんもビックリといったところだろう。これほどの奇跡を実行し得た、秀吉軍のエネルギーは何だったのか。それは、明智光秀討伐への道は、同時に「天下への道」だったから・・・などといったら、格好良すぎるだろうか。しかし、まぎれもなくその道は秀吉にとって「天下への道」だった。

 本能寺にて信長を討った明智光秀は、まず、信長の居城だった安土城に入城。さらに、長浜城佐和山城を攻略し、近江一帯を手中に収める。そして、自身の実娘・玉(ガラシャ)の嫁ぎ先である丹後国の細川幽斎(藤孝)・細川忠興父子をはじめ、大和の筒井順慶など、かねてから昵懇の諸将に援軍要請の書状を送った。しかし彼らはこの要請をことごとく拒否。光秀は自ら京へ上洛し、朝廷を味方につけようとするも、これも思うようにことが運ばず、誤算に次ぐ誤算といった状況に陥る。さらに、光秀にとって最も誤算だったのは、秀吉軍が信じられないスピードで戻ってきたこと。明智軍は、孤立無援の状態で秀吉軍を迎え撃たざるを得なかった。

 6月13日、天王山と淀川に挟まれた山崎にて戦いの火蓋が切って落とされた。世にいう「山崎の戦い」である。「天王山の決戦」ともいう。明智軍1万5千。一方の秀吉軍は、3万数千~4万に及ぶ軍勢を集めていたという。双方にとって最も重要だった天王山を占領した秀吉軍は、明智軍を次々と打ち破り、戦闘開始からおよそ1時間後、辺りが夕闇に紛れる頃に戦いは終わった。秀吉軍の圧勝だった。敗れた光秀は勝龍寺城に入ったが、夜に紛れて城を捨て、本拠地である近江坂本城に向かった。しかし、その途中の山科は小栗栖(おぐるす)で落ち武者狩りに遭い、命を落とした。享年、55歳。「本能寺の変」から、たった11日後のことである。

 のちの世は、これを「明智光秀の三日天下」と名づけて嘲笑する。謀反に至った経緯は同情に値するものの、その企てはあまりにも無謀で計画性がなく、結局は秀吉の天下への踏み台でしかなかったことに対して、せせら笑うのである。しかし、はたして彼の行動は本当に後世に嘲笑されるようなものだったのだろうか。

 上記、秀吉軍の高松城攻めのおり毛利軍の交渉役を務めた安国寺恵瓊は、織田信長の死から遡ること10年前に、「信長之代、五年三年者持たるべく候。明年辺者、公家などに成 さるべく候かと見及び 申し候。左候て後、高ころびにあをのけに ころばれ候ずると見え申し候。藤吉郎 さりとてはの者にて候。」と、信長の恐怖政治の限界を論じるとともに、それに取って代わる人物は木下藤吉郎(羽柴秀吉)だと予言している。これは恵瓊の慧眼を示す逸話として知られるものだが、私が思うに、秀吉の才を見抜いたそれは別にして、信長の転落を予想していたのは、恵瓊だけではなかったのではないだろうか。つまり、「本能寺の変」は歴史の必然。もし、「本能寺の変」がなかったら・・・などとよく言われるが、私は、もし光秀が謀反を起こさなくても、他の誰かが結局は光秀と同じような行動を起こし、どうあれ信長の天下は訪れなかったのではないか・・・と思うのである。光秀は、たまたま歴史にその役を任されたにすぎなかった・・・と。

 明智光秀、辞世の句
 「心しらぬ 人は何とも言はばいへ 身をも惜まじ 名をも惜まじ」


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by sakanoueno-kumo | 2011-02-13 23:56 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(2) | Comments(9)  

歴史小説 「黒田家三代~戦国を駆け抜けた男達の野望」 読記

<平太郎独白録:性懲りもなく「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」告知>

e0158128_0314633.jpg 昨年末に刊行された歴史小説「黒田家三代~戦国を駆け抜けた男達の野望」を読んだ。著者は、当ブログもリンクしていただいているブログ「平太郎独白録 親愛なるアッティクスへ」のブログ主でもあられる、池田平太郎氏。同氏にとっては3作目の作品となる。一昨年よりブログを楽しませていただいていて、この度の出版を知り、歴史小説好きの私としては迷わず購入し、先日完読した。で、身の程知らずにも、著者の目に触れるであろうことを承知の上で、ここで感想文を記すという暴挙にでようと思う。

 黒田家とは、ご承知のとおり、筑前福岡藩52万石の領主で、江戸時代の265年を通して12代続いた名家。物語では、同家の創成期である戦国時代を舞台に、初代・黒田官兵衛、二代目・黒田長政、三代目・黒田忠之を軸に展開する。

 黒田官兵衛孝高。出家後の号は如水。播磨国は姫路の豪族、小寺氏の筆頭家老の家に生まれた官兵衛は、織田信長が天下に勢力を伸ばしつつあった当時、毛利氏征伐を命じられた羽柴秀吉のもとに仕え、その才覚を見出された。一時は、信長に叛旗を翻した荒木村重の手によって摂津有岡城内に1年以上も幽閉されるという挫折を味わうが、九死に一生を得た官兵衛は、その後、秀吉の頭脳として数々の功績をあげ、信長の死後は、秀吉の天下統一に向けて重要な役割を果たし、早世した竹中半兵衛と並び、秀吉の名参謀としてその名を残した。しかし、天下人となった秀吉は、官兵衛の智謀・謀才を恐れ始め、貢献に見合った報酬を与えようとしなかった。秀吉から警戒されていることを敏感に察知した官兵衛は隠居を申し出、出家して如水と号す。だが、隠居はしたが領国に引っ込むことは許されず、秀吉の側に仕え続けた。

 黒田吉兵衛長政。幼名は松寿丸。官兵衛の嫡男として播磨国で生まれた長政は、幼少時代を織田家の人質として羽柴秀吉の居城・近江長浜城で過ごす。上記、荒木村重の謀反によって父・官兵衛が幽閉されたとき、「官兵衛が裏切った。」と勘違いした織田信長は、秀吉に長政(当時は松寿丸)の殺害を命じる。しかし、官兵衛を信じていた秀吉と相談した竹中半兵衛の機転によって美濃菩提山城に匿われ、一命を助けられた。信長の死後、父と共に秀吉配下に入った長政は、智謀・謀才の父とは違い、勇猛な武人として頭角を現し、官兵衛より家督を譲られ、豊前中津12万3千石の大名となる。しかし、秀吉が没すると一転して策士としての才を現し徳川家康に接近。関ヶ原の戦いに際しては、豊臣恩顧の大名の切り崩し工作に貢献し、その功あって戦後、家康より筑前国52万石を賜り、福岡藩初代藩主となった。物語では、父・官兵衛の重臣で兄弟子とも言うべき、後藤又兵衛との確執が描かれる。

 黒田忠之。幼名は万徳丸。長政の嫡男として福岡で生まれた忠之は、父の死去により家督を継ぎ、筑前福岡藩第2代藩主となる。天下泰平の世に生まれ、祖父や父の苦労を知らずに育った忠之は、我がままで愚鈍な、典型的ドラ息子だったとして伝わる。父である長政も忠之の甘さを心配して、一時は廃嫡して三男の長興を後継者にすることも検討したが、家老の栗山大膳の助言により結局は2代目藩主になった。長政は死を目前にして、「大膳の言葉を自分の言葉だと思って従うように」と遺言したものの、家督を受け継いだ忠之は大膳を始めとする口うるさい古参の重臣たちを敬遠し、やがてそれが「黒田騒動」という黒田家改易の危機にまで発展する。しかし、この物語の中で著者は、この忠之暗愚説に疑問を呈している。

 黒田官兵衛黒田長政黒田忠之の3世代を描いたこの物語は、従来の戦国物に見られるような戦場の描写は少なく、3世代それぞれの時代の、お家経営の奮闘を軸に描かれている。片田舎の個人商店から身を起こして上場企業に成長するまでのプロセス、下請け企業ゆえ石高を過少申告して実利を得ることができた官兵衛の時代、成長したがゆえ石高を水増しして粉飾決算しなければならなかった長政の時代、そのツケをまわされて大幅リストラに踏み切らねばならなかった忠之の時代と、それぞれの立場でのお家経営者としての苦悩がわかりやすく描かれていて、実に面白い。

 その他、後継者選びにおける世襲制の利や、世襲後継者と優秀な番頭との確執、経営者と技術者(武闘派の家臣)の方向性の違いなど、どれをとってみても、現代の企業経営と変わらない姿がそこにはある。昨年ベストセラーとなった「もしドラ」ではないが、この物語も、戦国時代の藩経営を通してみる、良質のビジネス読本といっても差し支えないかもしれない。

 私が日本史を愛し、歴史小説を好んで読む理由は、現代の私たちの生きるヒントがそこに隠されているような気がするからである。日本の歴史を知ることは、日本人を知ることでもあり、ひいては自分を知ることにもつながる。先人たちの人生の中には、私たちが今、直面している問題や、今後迎えるかもしれない課題が、克明に描かれているような、そんな気がするからである。書店に足を運べば、ビジネスの手引書や意識改革・自己啓発の読本、人生のハウツー本などが数多く並んでいるが、私にとってはその類の本を読むよりも、歴史小説を読んで先人たちの足跡から学び得ることのほうが、はるかに大きいと思えるのである。

 そんな私のニーズに見事に答えてくれた、この作品だった。それは、著者の歴史に向き合う主眼が、おこがましくも私と近いところにあるような、そんなふうに思えたからである。文章も平易でわかりやすく、歴史小説に慣れていない人でも抵抗なく入れそうだ。是非、ご一読あれ。


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by sakanoueno-kumo | 2011-02-09 00:27 | 歴史考察 | Trackback(3) | Comments(15)  

江~姫たちの戦国~ 第5話「本能寺の変」

 「皆の者、これより東へ向かい桂川を渡る。めざすは本能寺なり!明智日向守光秀、天に代わりて織田信長を成敗いたす。天下布武の美名のもと、罪も無き民を殺戮し、神仏を虐げしのみならず、ふらちにも自らを神に祭り上げ、あまつさえ帝をも己の下におかんとする所業の数々、許しがたし。よってこれを誅罰するこそ、天の義、人の道にかなうものなり。」
 「敵は本能寺にあり。」
 天正10年(1582年)6月2日、日本の歴史を大きく変えることとなった事件が起きる。天下統一を目前にした戦国の覇王、織田信長が、家臣の明智光秀の謀反によって、殺害された。いわゆる「本能寺の変」である。

 天正10年(1582年)年5月、備中高松城を攻めていた羽柴秀吉は、安土城にいる織田信長に援軍を要請。信長は堀秀政細川忠興池田恒興高山右近中川清秀らに援軍を命じ、安土城に来ていた徳川家康の饗応役を命じられていた明智光秀にも出陣を命じた。光秀は5月17日に坂本城、26日に亀山城に移り、27日には愛宕山に参詣、連歌師・里村紹巴と連歌会・愛宕百韻を催した。信長は5月29日に安土城を進発し、京都の本能寺を宿所とした。

 6月1日夜半、亀山城を進発した光秀軍は老ノ坂を東へ向かい、沓掛で全軍を小休止。そこで、斎藤利三ら重臣に本能寺襲撃計画を打ち明ける。重臣の中には反対意見もあったが、結局は全軍に「信長公が京で閲兵を望んでいる」と伝え、進路を京都に向かって東に取った。そして桂川を渡る頃、全軍に本能寺襲撃を下知する。

 6月2日早暁、明智軍1万3千は本能寺を襲撃。信長は弓と槍で奮戦したが、森蘭丸をはじめ、わずかな供廻りの小姓たちの殆どが討死。信長も肘に槍傷を受けて退き、観念した彼は女達を退出させた後、殿舎に火を放たせ、炎の中で自刃した。嫡子・織田信忠は妙覚寺に投宿しており、変を知って討って出ようとしたが村井貞勝らがこれを止め、信忠は隣接する二条御所に立て籠ったが、光秀軍は御所に隣接する近衛前久邸の屋上から矢・鉄砲を撃ち掛け、信忠も抗戦敵わず自刃した。

 明智光秀が何故この謀反に至ったのか、いつ謀反を企てたのかは、いまもって歴史の謎である。天下取りの野望説黒幕説朝廷守護説謀略説など様々な見解があるが、どれも憶測の域をでない。小説やドラマなどでは、最もわかりやすい怨恨説で描かれることが多い。私も、この怨恨説に、最も単純ゆえに信憑性を感じる。もともと江戸時代から明治、大正を通じて、信長からの度重なる理不尽な行為が原因とするこの怨恨説が主流だった。しかし、そうした話はすべて「言い伝え」であり、歴史的根拠のない説として、近年では実証史学に基づいた研究により様々な説が浮上してきたそうである。しかし、これほどの歴史的事件の「言い伝え」が、はたして信頼のおけないものなのだろうか・・・と素人ながら私は思う。むしろ、近年浮上してきた数々の学説のほうが、無理やり歴史を難しく解釈しているように思えてならない。史実とは、案外単純なもののような気がする。

 光秀は、本能寺の変の直前である5月27日、愛宕山に参詣したおりに愛宕百韻という連歌会を催した。そのとき光秀が詠んだ句が、彼の謀反の決意を表したものだといわれている。
 「時は今 雨が下しる 五月哉」
 「時」を「土岐」、「雨が下しる」を「天が下知る」と意味し、「土岐氏の一族の出身であるこの光秀が、天下に号令する」という意味合いを込めた句であるという。これをこじつけととるか否かは様々だが、謀反決行の4日前の句としては、あまりにも出来すぎている。すでにこのとき、光秀の心中は決まっていたと考えていいのかもしれない。

 日本史に興味がない人でも、この「本能寺の変」を知らない人はいないだろう。人はこの出来事を400年もの長きにわたって語り継ぎ、人間の持つ「おごり」「恨み辛み」を学び得てきた。人の上に立つ者の、有能であるがゆえに見失いがちな、下の者に対する労りの心。私たちのまわりでも、信長と光秀の関係は少なからず目にするところである。光秀の起こした行動は、その後の時代に生きるすべての人々の道徳教科書として、大きな意味を持った歴史の必然だったようにも思える。ほとんどの人が、大なり小なり光秀の気持ちになったことがあるだろう。そして場合によっては、誰しも信長になってしまう心を、持ちあわせているように思えるのである。そうした人間の心の戒めとして語り継がれてきたのが、この「本能寺の変」だと私は思うのである。

 「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり、ひとたび生を得て滅せぬもののあるべきか。」
 (人間の一生は所詮五十年に過ぎない。天上世界の時間の流れに比べたらまるで夢や幻のようなものであり、命あるものはすべて滅びてしまうものなのだ。)

 奇しくも織田信長の生涯は、人間五十年に1年届かずの、享年49歳だった。


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by sakanoueno-kumo | 2011-02-07 02:16 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(2) | Comments(0)  

大相撲八百長問題に思う、伝統継承怠慢の愚。

相撲協会がまた騒ぎになっているようだ。
昨年の野球賭博問題が落ち着いてきたと思ったら、今度は八百長相撲問題
なんでも、発端は野球賭博事件の取調べ時に警視庁が押収した携帯電話から、八百長を打ち合わせしたとみられるメールが数十件ほど見つかったらしい。
この件について菅直人首相は、「八百長があったとすれば、大変重大な国民に対する背信行為だ。」と述べ、枝野幸男官房長官によれば、「八百長がまん延している法人なら、公益認定を得るのは難しいと言わざるを得ない」という。

そんな一連の報道を聞いて私個人の意見をいえば、「何をいまさら!」という感じだ。
そんなことは相撲ファンならほとんどがわかっていること。
7勝7敗の力士と、8勝6敗の力士が千秋楽で顔合わせした場合、8割以上前者が勝利するというのは誰もが知るところで、それが角番の大関の場合はほぼ10割に近い勝率。
むしろ、そうでない結果になった場合のほうが、「おや?この力士は八百長しないんだ!」と驚いてしまうほどだ。
そんなことは暗黙の了解の中で、ファンは相撲観戦を楽しんでいる。
「背信行為」とは、菅さん、むしろ国民の期待を裏切り続けているあなた達、民主党政権の方じゃないんですか?

私はむしろ、そのような打ち合わせがメールでやりとりされていたという点に驚きを覚える。
発覚した携帯電話の持ち主は、十両千代白鵬と元前頭春日錦竹縄親方だそうだが、この軽率さは、浅はかとしか言いようがないだろう。
今回の八百長発覚で放駒理事長「大変憤りを感じ、心苦しく思っている」とコメントを述べたそうだが、本心を代弁すると、「今まで証拠がないのでとぼけていられたのに、こんな証拠を晒されては弁解のしようがないじゃないか!」と言いたいところだろう。
文書や記録を残さないようにするのが密室談合であって、ましてやメールなんて、開いた口がふさがらない。

相撲界には「申し合い」という言葉がある。
稽古相手を指名する「申し合い稽古」がそうで、同等の実力を持つ力士たちが勝ち抜き形式で対戦する稽古のことをそういうのだが、これはガチンコ勝負ではなく、ある程度の取り組みの流れやかける技を“申し合わせた”上で、組み合う稽古だそうだ。
他の部屋に出向いて行う「出稽古」でも、同じように「申し合い」が行われる場合もある。
当然そこには文書などあるはずもないし、メールで申し合わせることもない。
一流の力士になれば、それを互いの目と目の呼吸だけでやってしまうらしい。
ここまでくれば、「申し合い」も一流の“技”といってもいいだろう。

相撲界には「注射=八百長」「中盆=八百長の仲介者」などの八百長に関する隠語も多く存在する。
「注射」にお金が動く場合、この「中盆」が仲介に入ってことを進めたそうだ。
つまり、八百長行為にも、継承されてきた伝統の形式があるということ。
今回の行為も、メールなんかじゃなく伝統の形式に基づいて行なっていれば、こんな問題にはならなかったというわけだ。

不祥事が後を絶たない角界。
いずれも、伝統を正しく継承することを怠ってきたため、悪いところだけが残ってしまった結果だと思える。
今回の件も、正しい八百長行為(?)を怠った結果・・・というと、語弊があるだろうか。
いずれにせよ、伝統が崩壊して膿ばかりが露呈する大相撲は、もはや「国技」とはいえないようである。
やはり一度解散して、新たに立て直す必要がありそうだ。


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by sakanoueno-kumo | 2011-02-04 19:36 | 他スポーツ | Trackback(1) | Comments(9)  

江~姫たちの戦国~ 第4話「本能寺へ」

 「天下布武」
 訓読すれば「天の下、武を布く」となる。「武力を持って天下を取る」という風に解釈されることが多いが、近年の研究では「武家の政権を以て天下を支配する」という意味に取ることが多い。織田信長がこの印を用い始めたのは、美濃平定後の永祿10年(1567年)、居所を「岐阜」と改名した頃からである。岐阜の命名は古代中国の周の文王(ぶんおう)岐山(きざん)に拠って天下を臨んだことにちなんでおり(阜は丘の意味)、自身も文王にならって日本全国を統一したいという志がうかがわれる。
 「天下布武とは、武力で世を統一する意味にあらず。公家、寺家、武家とある中で、武家こそが要となり、天下をまとめようとするものじゃ。」
 ドラマ中、信長がお市にいった台詞だが、これは上述した近年の解釈のとおりである。日本の中世での権力は、公家、寺家、武家が複雑に絡み合っており、信長の志した「天下布武」とは、その公家、寺家を廃して本格的な武家政権を作るという意味をもっていたと考えられている。その実現のために寺家対策として、一向一揆を叩き、本願寺の顕如らを石山合戦で破った・・・と。またこの解釈では、室町幕府は京都にあるという地理的条件からも公家との結びつきが強く、そのために足利義昭を追放したとも考えられている。

 織田信長は神になろうとしていた・・・と描かれることがよくあるが、これは、当時キリスト教布教活動のため来日していたポルトガル人の宣教師、ルイス・フロイスがのちに執筆した『日本史』の一文からくるものである。その中でフロイスは、
 「日本においては神の宮には通常神体と称する石がある。神体は神の心または本質をいふことであるが、安土山の寺院には神体はなく、信長は己自らが神体であり、生きた神仏である。世界には他の主なく、彼の上に万物の創造主もないと言い、地上において崇拝されんことを望んだ」
と記している。また信長は、安土城内に「盆山の間」を設け、諸国の神社から神体を集めその上に盆山と称する石を置き、それを自分の神体として祀らせ、自らの誕生日を聖日と定めて参詣することを命じたという。誕生日に参詣すれば功徳と利益があると、高札に列挙したとも。いわゆる「生神」というわけだ。

 本当に信長自身が己の神格化を望んだかどうかはわからないが、少なくとも神に仕える身であるフロイスの目にはそう映ったようで、根も葉もない話でもなさそうである。同時代の城の敷地内に寺院を建てた例など他にはなく、そう考えれば、あるいは信長は、実際に自らを「神」と称していたのかもしれない。または、神仏の存在を信じて疑わなかった当時の人々の中で、あらゆる神仏を否定し、自分なりの信念を持った信長の姿は異質なもので、その姿が、フロイスの目には「自分なりの神=自身が神」と映ったのではないか・・・とも考えられる。いずれにせよ、既存の神仏を否定し、帝をも操ろうとしていたこの時期の信長は、自身が望もうとも望まざろうとも、事実上、日本の「神」的存在になろうとしていた。

 とにかく「旧きもの」の不合理を忌み嫌い、徹底的に排除を計った織田信長。そんな信長の姿に、力では屈服しても、心情的には辟易たる思いがあった人物として描かれるのが明智光秀。彼は神仏を尊び、朝廷を重んじる、いわゆる当時の教養人常識人だった。光秀は、元亀2年(1571年)の「比叡山焼き討ち」による武功で、信長より近江国の滋賀郡を与えられ坂本城城主となったが、その際焼失した西教寺の復興にその後尽力したという。城持ち大名となったといえども、彼にとってこの武功は本意ではなく、不名誉なものだったのだろう。一説には、この比叡山焼き討ちに際して、光秀は信長に諌言したという記録もある(「光秀縷々諌を上りて云う」:比叡山延暦寺『天台座主記』)。信長より6歳年長だった光秀。神仏を忌み嫌い、帝すら軽んじ始めていた信長に対して、ドラマのように、光秀が耐え切れず諫言することもあったかもしれない。信長も光秀の能力は認めていたものの、そういう光秀の常識人的な態度が疎ましく、今風にいえば、「ウザい」存在となっていったのだろう。

 「その分別面が鼻につくのじゃ!」
 あるいは信長は光秀に対して、自身が最も忌み嫌った「旧きもの」を見ていたのかもしれない。


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by sakanoueno-kumo | 2011-02-02 20:04 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(3) | Comments(6)