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それぞれの道 私たち 歩いて行くんですね。

 乳がんのため21日に55歳で亡くなった、元キャンディーズスーちゃんこと女優の田中好子さんの葬儀・告別式が25日、東京・青山葬儀所で営まれ、同じく元キャンディーズのランちゃんこと女優の伊藤蘭さんと、芸能界を引退したミキちゃんこと藤村(現・尾身)美樹さんが、“お別れの言葉”として弔辞を送られました。33年前の解散以来、決して公の場で3人が揃うことはなかったキャンディーズ。私たちファンにとって、夢にまで見た公の場でのスリーショットが、まさかこのような悲しい形で実現しようとは、思いもしませんでした。そして弔辞を捧げた2人の言葉のみならず、亡くなったスーちゃんの肉声まで聞くことになろうとは・・・。今日は、その記録として、3人の言葉を記します。

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 藤村美樹さん弔辞全文
 スーさん、何でそんなに早く逝っちゃったの? おばあさんになるまで恒例の集合写真をたくさん撮りたかったのに。スーさんがいないなんて寂しいよ。
 数年前、スーさんからがんと聞かされたときは本当にショックでした。でも、『信頼できるお医者様が付いているから大丈夫』といって、そのことを前向きに受け止めていて、私たちを一時、安心させてくれましたね。
 その後も、会うたびに変わらぬ笑顔で、いつも決まって深夜遅くまでお菓子を食べ、お茶を飲みながらおしゃべりをしたよね。心から楽しかった。あのときをずっと忘れないよ。
 家族や周りの人には心配を掛けたくないとの思い、で病気のことを隠して必死に走り続けた数年間、本当によくがんばりましたね。スーさんのことだから、すごくつらいときにも優しい心配りで、周りの人たちをなごやかにさせ、その場の雰囲気をぱあっと明るく変えたのではないかと想像できます。
 最後まで頑張り通したスーさん。惜しくも亡くなる当日も、本当によく頑張ってくれましたね。ありがとう。私も蘭さんも、もう間に合わないかと思ったけど、3人がそろってからのあの数時間は奇跡でした。
 いつもなら絶対に集まることが不可能な人も、親族も、みんなが勢揃いし、スーさんを取り囲んでお話をしたり、代わる代わる声を掛けたり、手をさすったりしました。その、柔らかい手の感触を今でも思い出します。
 スーさんは一足先に天国に行ってしまうけど、天国はそれはそれは素晴らしいとこらしいですね。スーさん、どうですか? おばあちゃんとおじいちゃん、かずちゃんやお母さん、まさこちゃんにも会えましたか?
 神様は、この世のお役目を果たした人をそちらへ呼んでしまうようです。スーさんはもうお許しが出たのですね。これは神様からのプレゼントだってこと。新たな命をいただいて、そちらで幸せに暮らして下さい。
 どうやら私たちは神様からお許しがまだ出ないので、スーさんの分まで明るく前向きに一生懸命、誠実に1日1日を生きます。私たちもいずれそちらに行きますので、そちらで待っていてね。また3人で歌いましょう。
 本当にキャンディーズは楽しかった。本当に私たちはスーさんと出会えて幸せでした。私たちは永遠にキャンディーズだからね。お揃いのものも大切にするよ。
 ありがとう。スーさん。愛してるよ。
 平成23年4月25日 ミキ

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 伊藤蘭さん弔辞全文
 スーさん、あなたが旅立つときに一人で寂しくないように、美樹さんと一緒に名前を何度も呼びました。私たちの声はちゃんと届いていましたか? 時間がたって、大切な人を亡くした寂しさがこみ上げてきて、私たちは困惑しています。
 お互い幼い中学生の時に出会い、その後キャンディーズで喜びも苦しみも共にし、素晴らしい青春時代を過ごすことができました。いつも春のように優しいほほ笑みで、私たちを包んでくれました。その後も、女優としていい仕事をたくさんして、多くの人に感動を与えてくれました。
 体のことを打ち明けられたときは、「なぜスーさんが」と悔しい気持ちでいっぱいでした。本当はつらいはずなのに、いつも3人で会う時は「笑うときが一番の薬なのよ」と言って、明るく楽しい時間を過ごし、反対に私たちの方が励まされていたような気がします。
 3人の中では一番年下で甘えん坊だったスーさんが、いつの間にか強く、頼もしく、心豊かな女性になっていたことに驚かされました。お見舞いに行った時も、体調が思わしくないのにもかかわらず、私たちを気遣い、いつものようにユーモアを忘れない、本当にかわいいスーさんでしたね。
 愛情いっぱいのご主人(小達)一雄さんや、スーさんが一番気にかけていたお父さん、お姉さん、そのご家族、いつもそばに寄り添っていたマネジャーの丸尾さんのお気持ちを思うと、とても胸が痛みます。
 私たちはみんな、大好きなあなたの笑顔を、そして最後まで病気と闘い、立派に生き抜いたその勇気を決して忘れることはありません。それを支えになんとか頑張って生きていかなければ、と自分に言い聞かせています。どうぞ私たちのことを見守っていてくださいね。
 ただ、もう一度だけでいいから3人で会いたかったです。約束していたのに果たされなかったのが残念でなりません。だから、今はまださよならは言わずにおきますね。いつか会えるときまでもう少しだけ待っていてね。これからは、今までの心配や不安から解き放たれて、どうかゆっくり休んでほしいと思います。
 美樹さんと私にとって、いつまでも特別な存在のスーさん。心から感謝しています。ありがとう、スーさん。ずっとずっと愛しています。
 平成23年4月25日 伊藤蘭

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 そして、亡くなる3週間ほど前の3月29日に、死期を悟ったスーちゃんが最後の力を振り絞って録音された、肉声メッセージが流されました。
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 田中好子さん生前肉声メッセージ全文
 こんにちは。田中好子です。きょうは3月29日、東日本大震災から2週間経ちました。被災された皆様のことを思うと心が破裂するような、破裂するように痛み、ただただ亡くなられた方々のご冥福をお祈りするばかりです。
 私も一生懸命病気と闘ってきましたが、もしかすると負けてしまうかもしれません。でもそのときは、必ず天国で被災された方のお役に立ちたいと思います。それが私の勤めと思っています。
 キャンディーズでデビューして以来、本当に長い間お世話になりました。幸せな、幸せな人生でした。特に蘭さん、美樹さん、ありがとう。2人が大好きでした。
 映画にもっと出たかった。テレビでもっと演じたかった。もっともっと女優を続けたかった。お礼の言葉をいつまでもいつまでも伝えたいのですが、息苦しくなってきました。
 いつの日か、妹、夏目雅子のように、支えて下さったみなさまに、社会に、少しでも恩返しができるように復活したいと思います。かずさん、よろしくね。その日まで、さようなら。

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 スーちゃん本人からのメッセージには驚かされました。私はこのメッセージで、彼女の無念な心の叫びを感じました。ランちゃんの弔辞の中で、「3人の中では一番年下で甘えん坊だったスーさんが、いつの間にか強く、頼もしく、心豊かな女性になっていた」と言っておられましたが、でもやっぱり、本当のスーちゃんは、甘えん坊で、寂しがり屋だったのだろうと・・・。自分が死んで、忘れ去られてしまうのが辛かったのだろうと・・・。「私のことを忘れないで!」・・・このメッセージを聞いて、そんなスーちゃんの叫び声が聞こえてきたような気がしました。

 キャンディーズが3人揃うことは、この世では2度とありませんが、私たちファンがスーちゃんを忘れることは決してありません。だから、安心して安らかにお眠りください

 最後に、数あるキャンディーズの名曲の中で、この歌ほど今日に相応しい歌はないと思います。

  

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by sakanoueno-kumo | 2011-04-26 00:02 | 芸能 | Trackback | Comments(4)  

江~姫たちの戦国~ 第15話「猿の正体」

 「小牧・長久手の戦い」で予想外の敗北を喫したものの、その後、巧みな政治手腕によって結果的に徳川家康を臣従させた羽柴秀吉は、翌、天正13年(1585年)3月には「紀州攻め」に成功し、そして同年6月には「四国攻め」を開始した。この「四国攻め」とは、同年3月に四国統一を成し遂げていた長宗我部元親との戦いのこと。天下統一を目指す秀吉は、重要な航路と考える瀬戸内海を完全に掌握するためには、四国全土を領地にしていた長宗我部氏は目障りな存在、そこで四国出兵を考えるようになったという。当初は、秀吉・元親とも交渉による和解を模索していたといわれるが、領土配分を巡る対立を解消できず、交渉は決裂した。

 この戦いに、秀吉は参戦していない。一般には病気だったといわれているが、越中の佐々成政が不穏な動きを見せていたためとの説もある。その真意はわからないが、秀吉が大坂城に残ったため、弟の羽柴秀長を総大将とし、甥の羽柴秀次を副将としての出陣だった。羽柴軍10万に対して長宗我部軍4万。圧倒的な兵力差によって秀吉軍は優位に戦いを進め、讃岐、伊予、阿波と、次々に要地を失い孤立化した長宗我部元親は、やむなく8月に降伏した。この戦役で、「小牧・長久手の戦い」「紀州攻め」と、自軍に大きな損害を与えて秀吉から叱責を受けていた秀次も、数々の戦功をあげたという。ドラマのように、秀次を独り立ちさせるための“仮病”だったかどうかはわからないが、秀次を羽柴家の跡取りと考えていた秀吉は、さぞや胸を撫でおろしたことだろう。

 秀次を独り立ちさせるにはどうすればいいかと、江に尋ねた秀吉。もちろん、この話はドラマのオリジナルだが、秀吉は家臣たちの意見をよく聞き、尊重したという。このあたりが、信長とはまったく違うリーダーシップだった。こんな話がある。秀吉は、軍議を開くにあたって、必ず家臣たちに意見させたという。しかし、秀吉の中では既に答えはあった。しかし、自分の考えを言わず、家臣たちに考えさせる。そして一人ずつ意見させ、誰かが自分と同じ考えを述べると、「なるほど、よう申した。考えも及ばなんだ名案じゃ。この件、そちに任す。励め。」と激励する。そう言われた家臣は、気分が悪いはずがない。自分の意見が採用されたという喜びと、自分が任されたという責任感で、飲まず食わず働き、120%の力を発揮したという。

 いかにも「人たらし」といわれた秀吉らしいエピソードだが、これはなかなか出来ることではない。私たちの社会を見渡してみると、明敏な頭脳を持っていればいる者ほど、往々にして人の意見を聞かないものである。自分の中に答えがあるのだから、人の意見を聞く必要がない。どうせ的外れな意見しかないと、端から聞く耳を持たないか、仮に自分と同じ考えを述べる者がいたとしても、「そんなことはお前に言われなくともわかっている!」となってしまう場合がほとんどだろう。いってみれば、織田信長がそうだった。おそらく同時代において、彼ほどの頭脳を持った人物は他にいなかったであろうことを思えば、信長にとって信ずるのは自分だけ、自分以外の人間の意見を聞く必要がなかった。故に、信長にとって家臣は道具でしかなかった。自分の頭脳を生かすための道具であればよかったのである。しかし、心を持った人間は、道具ではなかった。それが、「本能寺の変」を招いたといえる。

 秀吉は信長ほどの天才ではなかった・・・と思う。秀吉がやったことは、信長がやろうとしていたことの延長線上で、より具体化したに過ぎない。しかし、秀吉が信長に勝っていた才能・・・それが、“人使い”だった。彼は持ち前の明るさで人々を魅了し、ときには人を操るため馬鹿にもなった。武家の嫡男として生まれた信長と、卑賤の身から成り上がった秀吉の生い立ちの違いといえばそれまでだが、秀吉には、天性の「人の上に立つ者の資質」があったからこそ、成り上がったのだと私は思う。後年、独裁者となった晩年の秀吉は、その資質をどこかで失ってしまうが、それまでの秀吉は紛れもなく「人使いの天才」だった。

 「猿は大嘘つきです。でも、その大嘘の中に“まこと”があるのです。その“まこと”に、人は心を動かされてしまうのです。」
 「人たらし」と異名をとる羽柴秀吉。しかし、八方美人的な上辺だけの「人たらし」では、人は心からは動かされない。彼は、良きにせよ悪しきにせよ、相手に自分を曝け出せた人物だったのではないかと思う。近年、ダーティーに描かれることが多い秀吉で、たしかに彼の政治力というのは、調略や懐柔など寝技的な手法が目立ち、いってみれば現代の小沢一郎のようなものだが、なぜか後世に人気の高い秀吉。その理由は、彼の持つ“陽気”なイメージに他ならない。作家・司馬遼太郎氏は、小説「新史太閤記」の中で秀吉の人気の高さについてこう述べている。
 「陰気な舞手は、たとえ巧みに舞ってもひとびとはその巧みさよりもその欠点に目がゆく。逆に陽気な舞手ならば、少々下手に舞っても、観衆はその陽気にまどわされ、つい欠点に目がゆかず、長所にのみ目がゆく。」
 人間社会において、“陽気”さは最大の武器かもしれない。小沢さんには・・・どうやらそこが、最も欠けているようである。


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by sakanoueno-kumo | 2011-04-25 03:00 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(2) | Comments(7)  

キャンディーズのスーちゃんこと、田中好子さんの逝去を悼む。

キャンディーズスーちゃんこと、女優の田中好子さんが、21日午後、亡くなられました。
享年55歳、乳がんだったそうです。

驚きました・・・・大変ショックです。
以前、名曲紹介の稿でも述べたとおり(参照:心に残る名曲 No.3 『つばさ』 キャンディーズ)、私は小学生の頃キャンディーズの大ファンでした。
初めて自分の小遣いで買ったレコードもキャンディーズでしたし、初めて部屋にポスターを貼ったのもキャンディーズでした。
今でも、たまに思い出して、You Tubeなどで歌を聴くことがあります。
それほど好きだったにもかかわらず、スーちゃんが闘病生活を送っておられたことは、この度の訃報を聞くまでまったく知りませんでした。
聞けば、1992年に一度、乳がんを発病していたそうで、それがまた、昨年、再発してしまったとか。
つい最近も、ドラマに出演している姿を見たように思っていたのですが・・・。

e0158128_9363981.jpgキャンディーズといえば、センターボーカルは一番人気があったランちゃんこと伊藤蘭さんのイメージが強いと思いますが、実はデビュー当初はスーちゃんがセンターボーカルだったことは、あまり知られていません。
今でもときどき流れるキャンディーズの映像は、ほどんどがランちゃんがセンターの映像ですからね。(↑の写真もそうですし)
1973年のデビュー曲「あなたに夢中」から、4曲目の「なみだの季節」までは、スーちゃんがセンターでメインボーカルを歌っていたのですが、残念ながらヒットに恵まれず、5曲目でランちゃんにセンターを譲った「年下の男の子」が大ヒットしたため、それ以後、ランちゃんがメインボーカルを担当し、スーちゃんは向かって右の立ち位置でコーラスを担当するようになりました。
3人の中で、ひとりだけ2歳年下だったスーちゃんでしたから、当時はいろいろと気遣いがあったのかもしれません。
しかし、デビュー時にリードボーカルだったという事実からもわかるように、3人の中で最も歌唱力が高かったのは、スーちゃんでした。

解散後は、3人の中でスーちゃんが最も出世したといっていいと思います。
女優として、数々の映画やドラマで活躍され、1989年の映画『黒い雨』では日本アカデミー賞最優秀主演女優賞も受賞されました。
最近では、お母さん役としてシリアスな役からコミカルな役どころまで幅広くこなされ、女優としての円熟味を感じさせてくれていたのですが・・・。
残念でなりません。

キャンディーズは解散後一度も再結成をしていません。
当時の芸能界を激震させた解散宣言に始まり、最高の状態で解散したこと、そしてその後は決して安易に再結成しない潔さで、単なる「過去のアイドル」の枠を超えて、30年以上経った現在では半ば伝説化・神格化されつつありました。
残念ですが、キャンディーズはこれで永遠に「伝説のグループ」となってしまいました。

謹んで、ご冥福をお祈りします。


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下記、時事通信社記事本文引用
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田中好子さん死去=元キャンディーズ、女優としても活躍
 元キャンディーズのメンバーで「スーちゃん」の愛称で親しまれた女優の田中好子さん(たなか・よしこ、本名小達好子=おだて・よしこ)が21日午後7時4分、乳がんのため東京都港区の病院で亡くなった。55歳だった。東京都出身。25日に都内で告別式を行う予定。喪主は夫の小達一雄(おだて・かずお)氏。
 スクールメイツを経て、テレビの歌謡ショーのオーディションで合格した伊藤蘭さん、藤村美樹さんとともにキャンディーズを結成。1973年の「あなたに夢中」でデビューした。「年下の男の子」「春一番」「やさしい悪魔」「微笑がえし」などのヒットを連発したが、78年に「普通の女の子に戻りたい」との名言を残し、グループを解散。最後のコンサートとなったファイナルカーニバルは、会場の後楽園球場に入場できないファンがあふれるほどの伝説的コンサートとなった。
 グループ解散後はソロ歌手、女優として活躍。出演作に映画「鉄道員(ぽっぽや)」「ゴジラvsビオランテ」「明日への遺言」、テレビ「おんな太閤記」「おしん」「ちゅらさん」「家なき子」など。89年の「黒い雨」では原爆症に苦しむ女性を熱演し、日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞した。
 このほか、作詞作曲を手掛けたり、墨彩画を描いたりするなど、多方面で才能を発揮。福祉活動にも熱心で、厚生省の公衆衛生審議会委員や日本エイズストップ基金運営委員なども務めた。
 21日会見した夫の小達さんによると、田中さんは30代で乳がんを発症。手術を受けたものの、その後も再発を繰り返し、今年2月に症状が悪化したという。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110421-00000619-san-ent
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by sakanoueno-kumo | 2011-04-21 23:59 | 芸能 | Trackback(6) | Comments(4)  

金本知憲選手の連続試合出場ストップに思う。

 先日、阪神タイガース金本知憲選手の連続試合出場が、1766試合で止まりましたね。この記録は、元・広島東洋カープ衣笠祥雄氏が持つ2215試合に次ぐ歴代2位の記録です。まあ、衣笠氏の記録を塗り替えるには、まだあと3年強ありましたから、現在43歳の金本選手には普通に考えて無理がある話で、どのみちどこかでピリオドが打たれ、歴代2位となるのは誰しもがわかっていたことでした。ただ、その終わり方があまりにもあっけない幕切れでした。敵地での中日戦で今季初めて先発を外れ、8回2死一塁から代打で出場。しかし、一塁走者の俊介選手が盗塁失敗。打席を完了せず、直後の守備に就かなかったことで、足掛け14年に渡って続けてきた大記録に終止符が打たれた、というわけです。“ルールの盲点”をつかれる思わぬ形になり、球界やファンの間で波紋が広がっているようです。

 この終わり方について、私は最高の着地点だったんじゃないかと思っています。正直いって、金本選手の連続出場に無理があることは、ファンの間では周知のところでした。そのことは、ご本人が一番わかっていたことだと思います。しかし、積み重ねてきた数字があまりにも偉大すぎて、監督を含め周囲が必要以上に気を使っているという状況だったと想像します。昨年4月、連続フルイニング出場の世界記録1492試合でピリオドを打ったのは、右肩痛に苦しんでいた金本選手自らの決断によるものでした(参照:金本知憲選手の決断)。あの時点で連続出場記録にも終止符を打つべきだったと私は思うのですが、その後も真弓明信監督は金本選手を代打で使い続けました。真弓監督にしてみれば、それは人情だったのでしょうが、しかしその後の金本選手も、決して使い続けるべき状態には見えませんでした。金本選手も、無理に記録を伸ばすことは本意ではなく、「無理して出すのはやめてください。あまり気にしないでください。」と常にいっていたそうです。しかし、真弓監督にしてみれば、その引導を渡す決断は、なかなか出来なかったのでしょう。金本選手にしても、真弓監督の気持ちを無碍に出来ないという思いもあったんじゃないでしょうか。

 そんな状況の中での今回の終止符。誰の決断でもなく、野球のルールによって終止符が打たれたわけです。金本選手にしてみれば、広陵高校の後輩である俊介選手の果敢なプレー(セオリーでいうと、あそこでの盗塁はいただけませんが)によってもたらされた結果ですから、ある意味、本望なんじゃないでしょうか。こんな終わり方は誰にも想像がつきませんでしたが、金本選手も正直ホッとしているところがあるかもしれません。一番ホッとしているのは、真弓監督かもしれませんが・・・。

 この1766試合連続出場という数字は偉大だと思いますが、正直いって、ここ数年は無理に記録を伸ばした観は否めませんね。金本選手の記録を否定するわけではありませんが、続けることに意味があるとは私は思いません。常に100%の力を出せる状態での連続出場であれば価値があると思いますが、続けることによってパフォーマンスが落ちるなら、続けるべきではないと私は思います。“皆勤賞”を高く評価し、少々体調が悪くても無理して働くことを美徳とするのは日本人の国民性ですが、それは所詮、一流半以下の場合だと思います。本当の一流なら、休まず働いて80%しか力が出せないよりも、適度に休息をとって100%の力を発揮するほうが、結果的に会社のため、チームのためになるのではないでしょうか。一流選手は、そうすることが許される立場なわけですから。

 プロ野球は興業でもありますから、エンターテイメントという観点で見れば、人気選手は出場し続けることに価値があるともいえるかもしれません。球場に足を運んで、ひいきの選手が休んでいたらファンはガッカリするでしょう。その意味では、プロ意識が強いといえるかもしれませんが、しかし、ファンにとってはひいきの選手の“活躍”を見たいわけで、活躍できない状態にあるのなら、出るべきではないと思います。好きな歌手のコンサートに行って、風邪ひいて声が出ない状態だったら、「金返せ!」と言いたくなりますよね。プロのエンターティナーである以上、最高のパフォーマンスが出来るよう体調管理すべきで、それに失敗したときは、人前に出るべきではないと私は思います。

 金本選手は、自身の著書『覚悟のすすめ』の中で、「自分が連続出場を続けてきたのは、自分が主力選手ではなかったからだ。」と述べています。自分は広島時代、レギュラーに定着した選手ではなかったから、少々体調が悪くとも与えられたチャンスを逃したくはなかった・・・休んだら、次は使ってもらえないかもしれない・・・その思いで出続けていたら、いつの間にか記録となっていた・・・と。それは正直な言葉だと思います。スポーツのみならず、どんな世界でもそうですが、認めてもらうまでは、少々無理してでも与えられたチャンスにしがみつかなければ、一流にはなり得ません。その意味では、当初の連続出場は“必要な無理”だったのでしょう。しかし、後半の金本選手は誰しもが認める超一流選手。であれば、満身創痍の状態で尚も無理をする必要はなかったのでは・・・と思わざるを得ません。いつの頃からか、記録のための連続出場になっていたのではないでしょうか。

 てなことを言ってきましたが、金本選手の野球に対する取り組みや考え方は素晴らしいと思っています。その真摯な姿勢が、この連続出場の数字になったともいえるでしょう。ただ、後半はその数字が彼を縛っていたようにも思えました。今回、記録が途絶えたことで、その呪縛から解き放たれて、また違った金本選手が見られるような気がします。43歳とはいえまだまだ阪神にとっては金本選手は必要。これからは適度な休息をとりながら、ここ一番のところで100%のパフォーマンスを見せてほしいと思います。そして出来れば後輩たちに、こういってほしい。
 「俺の記録を目標にするな。一流になったら、休める選手になれ。」・・・と。


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by sakanoueno-kumo | 2011-04-20 21:41 | プロ野球 | Trackback | Comments(0)  

JIN -仁-(完結編) 第1話

 一昨年に大ヒットした、TBSドラマ『JIN -仁-』の続編、『JIN -仁-(完結編)』が始まった。幕末史が大好きな私としては、当然、楽しみにしていたわけだが、といってもドラマは漫画を原作としたオールフィクションの物語。毎週、大河ドラマのレビューを起稿しているように、ここで私が歴史についてのウンチクを垂れるのも無粋なことだと思い、純粋にドラマを娯楽として楽しむため、このドラマについて起稿するつもりではなかった。・・・が、あまりにも面白すぎて、気が変わった。毎回起稿するかどうかはわからないが、とりあえず第1話について、少しだけ私のウンチク話にお付き合い願います。

 ドラマの舞台となっていたのは、元治元年(1864年)7月19日に京都の町で起きた「禁門の変」。別名、「蛤御門の変」ともいわれるこの事件は、前年の「八月十八日の政変」(参照:「八月十八日の政変」と、幕末における長州藩の役割。)で京都を追放されていた長州藩が、尊皇攘夷派の勢力を取り戻そうと挙兵し、幕府(会津藩・桑名藩)薩摩藩の連合軍を相手に、御所の近くの蛤御門付近で交戦した事件のこと。結果は長州軍の惨敗に終わり、同藩は久坂玄瑞をはじめ多くの有能な人材を失うこととなる。この戦いはわずか1日で終わったが、落ち延びる長州勢とそれを追う幕府勢の放った火で、晴天続きで乾燥状態にあった京都の町は、たちまち火の海となった。その戦火は3日に渡って燃え続け、堀川と鴨川の間、一条通と七条通の3分の2が焼き尽くされた。「甲子兵燹図」に描かれたそのさまは地獄絵図のようで、命からがら逃げおおせた人々も,山中から呆然と市中の火の海を眺めるばかりであったという。焼失戸数は4万2千戸ともいわれ、上記、「禁門の変」「蛤御門の変」といった呼び名は、のちの明治政府がこの戦いをなるべく小さくみせるためにつけた名称で、当時の呼び方では、干支をとって「甲子(きのえぬ)の戦争」といわれたそうである。ドラマの主人公・南方仁が訪れた京都のまちは、そんなときだった。

 長州藩きっての秀才であり、過激な尊皇攘夷論者だったとされる久坂玄瑞。しかし、ドラマのとおり、この戦いには自重論だったという。しかし、同藩・来島又兵衛をはじめ進発論に押し切られてやむなく兵を率い、一時は好戦するものの力及ばず、最後は寺島忠三郎と共に鷹司邸内で自刃する。享年25歳。

 ドラマ中、死を覚悟した久坂が、思いとどまらせようとする坂本龍馬に言った台詞。
 「攘夷などクソくらえだ。攘夷など本気で信じとる奴がいたらアホじゃ。長州はアホの集まりじゃ。私はこの国をひとつにしたかっただけじゃ。日本は外敵に狙われている。外国に真に立ち向かうためには、まずこの国が一つにならなければならぬ。でなければ太刀打ちなど出来ぬ。それを乗り越え、ひとつに出来るものが、尊王であり、攘夷であると思った。ひとつになり得るきっかけでさえあれば良かったのだ。・・・だが長州は、熱くなりすぎた・・・。」
 攘夷はこの国をひとつにするための手段だったという。この考えは、当時の“攘夷論”を掲げた指導者の共通した見識だったと私も思う。おそらく久坂ほどの明敏な頭脳の持ち主であれば、攘夷が現実的でないことはわかっていただろう。しかし、人を束ねるには目的意識が必要だった。それも、できるだけ勇ましく過激な目的の方が、人はついてくる。それが、“尊皇攘夷論”だった。しかし、下級層の志士たちにとっては、“尊皇攘夷論”はあまりにも麻薬性が強すぎた。やがて彼らは、無謀な自爆行為へと突き進んでいく。それが、久坂の言う「熱くなりすぎた」である。

 昨年の大河ドラマ『龍馬伝』では、そのあたりが上手く描かれておらず、攘夷論者は純粋に攘夷の実現を信じる盲目思想家といった描かれ方でしかなかった。そこが私は不満だった。本ドラマでは、死を覚悟した久坂が龍馬に諭す。「お前は間違えるなよ・・・」と。もちろん、久坂の死に龍馬が立ち会った話などないが、この台詞は、死んでいく攘夷指導者の本心だったように思う。正直、NHK大河ドラマが民放のオールフォクションドラマに負けた・・・と思った。

 史実では、この戦いの8日前の7月11日、同じく京都は三条木屋町で前田伊右衛門河上彦斎等の手によって暗殺された佐久間象山。翌朝、三条河原に首を晒されたといわれているが、その首が実は偽物で、実は瀕死の重傷を負いながらも生きながらえていた・・・というのが今回のドラマの設定。その象山の生命を救うために京都に上った仁先生だったが、意識を取り戻した象山から驚愕の事実を知る。なんと象山は、少年時代に平成の未来にタイムスリップした経験があるというのである。

 佐久間象山は、この時代の日本における、洋学の第一人者だった。彼は自信過剰で傲慢なところがあり、それ故に敵が多かったと伝わる。しかし、彼の持つ知識や思想はこの時代に生きる者たちの中では数段先に進んでいたといわれ、彼の門弟からはのちの日本を担う人物たちが数多く育った。そんな彼を、140年後の未来を見てきた男という設定にしたのが実に面白い。南方仁が、何らかの使命を神に与えられ、江戸末期に送り込まれた人物とするならば、象山は、何らかの使命を神に与えられ、未来を見せられた人物・・・と。

 そんな象山に、仁は自分がしていることは、歴史を変えてしまう行為ではないかという、この時代にタイムスリップしてきてからずっと悩み続けてきた思いを語る。すると象山はいう。
 「お前は歴史を変えてしまうことを恐れている。裏を返せばそれは、自分が歴史を変えてしまえるかもしれないと思っているからだろ?・・・相当な自信家だ・・・。もし、お前のやったことが意にそぐわぬことであったら、神は容赦なくお前のやったことを取り消す。神は、それほど甘くはない。」
 実に深い台詞である。

 私はこの台詞の中の“神”を、“自然”と解釈したい。そして人間の歴史も自然現象の一部。生きとし生けるものは、すべて“自然”によって操られ、生かされているのである。その“自然”を、自然の一部である人間が変えよう、操ろうなど、思い上がりも甚だしい。“自然”がもし、自然の一部である人間の行いを不要だと思ったら、自然の力をもって人間を排除する・・・。“自然”は、それほど甘くはない・・・と。

 今、日本は“自然”の力によって、これまでにない危機を向かえている。“自然”の力を利用してエネルギーに変え、“自然”を操っていると自惚れていた私たちは、“自然”によってその思い上がりを容赦なく打ち消された。“自然”という名の神は、人間を疎ましく思い始めているのかもしれない。こんな娯楽ドラマを見ながら、そんなことを思わされた台詞だった。

 ただ、同時にこの物語では、一貫したテーマとしてこう言っている。
 「神は乗り越えられる試練しか与えない」・・・と。
 日本が今、直面している危機も、乗り越えられる試練として、神が与えたものなのだ・・・と、そう思っていいのだろうか・・・。いや、必ずそうだと思わなければ、きっと乗り越えられないのだろう。だから私たちは、自分たちも自然の一部であるということを自覚し、自然に淘汰されないよう生きる道を探さねばならない。そうすれば、きっと乗り越えられる試練だと、神は言っているのかもしれない。


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by sakanoueno-kumo | 2011-04-19 01:32 | その他ドラマ | Trackback(6) | Comments(101)  

江~姫たちの戦国~ 第14話「離縁せよ」

 お江佐治一成のもとへ輿入れした天正12年(1584年)、一成の主君である織田信雄徳川家康と同盟し、東海各地で羽柴秀吉軍と対峙した。この1年前の秀吉と柴田勝家が対峙した賤ヶ岳の戦いの際には、実弟・神戸信孝(織田信孝)との後継者争いもあって秀吉方に属していた信勝だったが、勝家、信孝の死後、日増しに勢力を強め始めた秀吉に不満を抱いていた。そこで信勝は、秀吉に通じていたと疑いのある重臣、津川義冬岡田重孝浅井長時を殺害し、父・織田信長と同盟関係にあった実力者、徳川家康に応援を頼む。同じく秀吉の台頭を快く思っていなかった家康は、信勝の応援要請で秀吉を叩く大義名分を得ることができ、これを好機とばかりに兵を挙げた。後年、小牧・長久手の戦いと呼ばれるこの戦は、こうして火蓋が切られる。

 秀吉軍10万、信雄・家康軍1万5千といわれるこの戦は、数の上では圧倒的有利に思えた秀吉方だったが、思わぬ苦戦を強いられることになる。家康・信雄軍は秀吉包囲戦を展開し、3月15日には尾張の小牧山に本陣を構え、17日には羽黒に陣していた森長可を撃破した。これに対し大坂を出陣した秀吉軍は、29日に楽田に本陣を置き対峙した。羽黒で敗北した長可と池田恒興は、家康を小牧に釘付けにして三河を攻撃する後方攪乱を秀吉に提議し、秀吉の甥である羽柴秀次を大将として侵入した。しかし、事前に情報が漏れて、4月9日、長久手において家康軍の奇襲を受けて惨敗し、長可・恒興をはじめ2500の兵を失い、命からがら敗走する。戦は家康方の完勝に終わった。このため秀次は、秀吉から激しい叱責を受けたという。

 その後、秀吉軍は撤退し、6月には家康も清洲に戻った。予想外の敗北を喫した秀吉だったが、ここからが秀吉の本領発揮。信雄をあの手この手で懐柔し、家康に無断で信雄との単独講和に成功する。家康にしてみれば、自分に断りなく信雄が単独講和してしまったため、戦うための大義名分を失ってしまった。やむなく、11月に浜松城に引き揚げようとするが、知多半島大野川で渡し船が見当たらずに困窮してしまった。このとき、この辺りの領主である、お江の夫・佐治一成が渡し船を用意し、家康の引き揚げに協力したという。水軍を指揮下に置く一成としては、渡し船の用意などわけないことで、しかも、家康が主君・信雄の同盟者であったことを思えば、一成の行為は至極当たり前のことだった。

 しかし、これを知った秀吉は、一成が家康に便宜をはかった点を自身に対する背信行為とみなした。すぐさま、「長姉のお茶々が病気のため、見舞いに来るように」との偽手紙を送ってお江を上方へ呼び寄せ、彼女が上方へ着くや否や結婚したばかりの二人の仲を引き裂き、一成を大野城から退去させた。お江と一成の結婚生活は、一年にも満たなかったのである。16歳の一成と12歳のお江の夫婦関係が、はたして名実ともに夫婦になり得ていたかは知る由もないが、お江にとってこの結婚は、秀吉の都合に始まり秀吉の都合で終わった、あまりにも短い結婚生活。ドラマのように、秀吉に直接怒りをぶつけたかどうかはわからないが、大きな心の傷になったことは間違いないだろう。

 上記のエピソードから想定すると、お江が呼び戻されたのは天正12年(1584年)の暮れと考えられるが、他の説としては、この5年後の淀殿(お茶々)妊娠した天正17年(1589年)とする説や、秀吉が別の理由で二人の仲を裂いたとする説もあるらしい。5年後の説では、お江は一成との間に二人の娘をもうけ、お江が離縁となった後、一人は悲嘆のあまりに入水し、もう一人は盲目となって出家し、京都の嵯峨野に庵を結んで暮らしたといわれる。また、お江との仲を裂かれた一成は、秀吉の仕打ちに憤り、武将の座を捨てて僧侶になったという説や、あるいは憤りの余り切腹して果てたといった説もあるようだが、これらの話は秀吉の妹・朝日姫の夫だった副田甚兵衛の行動と混同されてできた説とみるのが正しいようである。

 実際の一成は、伊勢安濃津城主の織田信包に仕えて5千石を知行し、家老として活躍したことがわかっている。慶長3年(1598年)に信包が丹波柏原城主に転封となった際にも一成は従い、寛永11年(1634年)に66歳で病没した。54歳で江が死去した8年後のことである。幼いながら、ほんの一瞬でも夫婦だったお江と一成。のちに徳川将軍御台所となったお江を、丹波の田舎侍となった一成はどのような思いで見ていたのだろうか。それは、今となっては知る術はない。


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by sakanoueno-kumo | 2011-04-18 03:00 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(3) | Comments(2)  

心に残る名曲 No.7 『しあわせ運べるように』 震災復興の願いを込めて

 16年前の「阪神・淡路大震災」のあと、神戸でずっと歌い継がれてきた歌があります。神戸市の小学校の音楽教師である臼井真先生が作詞・作曲した『しあわせ運べるように』という歌です。震災以降、神戸では、震災慰霊式典はもちろん、ルミナリエの点灯式やイベント、学校の音楽会や卒業式などでずっとこの歌が歌い継がれてきました。私たち神戸市民は、16年間この歌に勇気づけられながら、復興の道を歩んできたといってもいい歌です。

 「東日本大震災」が起きて以降、どこかでこの歌を紹介したいと思っていたのですが、“復興”などという言葉がまだまだ見えてこない現状、なかなかそのタイミングを見つけられずにいました。先日の新聞で、この歌の歌詞の中にある「神戸」の部分を「東北」に変えて被災地に贈ったという記事を見つけ、ならば拙ブログでも紹介しようと思い至りました。今のタイミングで相応しい歌かどうかはわかりませんが、もし被災者の方の目にとまって、16年前の私たちのように勇気づけられることがあれば・・・という思いからです。

 

 You Tubeには他にもプロのシンガーが歌ったものもありましたが、私にとってはこの歌はやはり、子どもたちの歌声が一番心に残っており、この映像を選びました。作詞、作曲された臼井さんは、ご自身も自宅が全壊の被害を受け、親類宅に身を寄せながら避難所になった学校に通勤する生活の中で、この歌を作られたそうです(参照:http://www.kobegakkou-blog.com/blog/2010/01/post-8374.html)。私がこの歌を初めて耳にしたのは、震災の数ヵ月後のテレビからで、自然と涙が溢れてきたのを今でも覚えています。

 「しあわせ運べるように」  作詞/作曲  臼井 真

 1.地震にも負けない 強い心をもって
   亡くなった方々のぶんも 毎日を大切に生きてゆこう

   傷ついた神戸を 元の姿にもどそう
   支え合う心と明日への 希望を胸に

   響き渡れぼくたちの歌 生まれ変わる神戸のまちに
   届けたい私たちの歌 しあわせ運べるように

 2.地震にも負けない 強い絆をつくり
   亡くなった方々のぶんも 毎日を大切に生きてゆこう

   傷ついた神戸を 元の姿にもどそう
   やさしい春の光のような 未来を夢み

   響き渡れぼくたちの歌 生まれ変わる神戸のまちに
   届けたい私たちの歌 しあわせ運べるように
   届けたい私たちの歌 しあわせ運べるように


 16年前に臼井さんが作られたのは、この“2番”までですが、今回この歌を紹介するにあたってネットで調べていると、この歌には“続き”があるということを知りました。震災10年の年に、神戸市立夢野中学校の生徒たちが、自分たちの思いを込めた“3番”を新たに創作し、合唱コンクールで披露したそうです。

 3.地震から10年 苦しい事ものりこえ
   当たり前のようにすぎていく 毎日を大切に生きてゆこう

   これからの神戸を ぼくたちが支えてゆこう
   次はぼくらが支えて行く 神戸のまちを

   響き渡れぼくたちの歌 生まれ変わる神戸のまちに
   届けたい私たちの歌 しあわせ運べるように
   届けたい私たちの歌 しあわせ運べるように


 今、東北の被災者の方々は、先が見えない不安な毎日を送っておられると思います。“復興に向けて”と、言葉では簡単にいえても、実際にはそれがどれだけ大変なことか、「阪神・淡路大震災」を知っている私たち神戸市民は知っています。失意の底から立ち上がることが、どれほどエネルギーのいることかと・・・。しかし、月並みな言葉かもしれませんが、必ず今が過去になる日がやってきます。この歌の3番の歌詞のように、次の世代が、新しい東北のまちを支えてくれる若い世代が、必ず育ってきます。その日のために、どうか今を精一杯生きてほしい。10年後の子どもたちに、しあわせ運べるように・・・


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by sakanoueno-kumo | 2011-04-14 11:18 | 音楽 | Trackback | Comments(6)  

東日本大震災発生から1ヵ月、今、思うこと。

東日本大震災から1ヵ月が過ぎた。
震災による現時点の死者、行方不明者は2万7000人を超え、今も15万人以上の方たちが避難生活を余儀なくされている。
津波の被害を受けた被災地の映像は目を覆うばかりで、1ヵ月経った今も手付かずの状態。
行方不明者の捜索も難航している状況が伺え、いまだ瓦礫の下に眠る方たちのことを思えば、胸が苦しくなる。
身元確認された遺体も、棺も写真も墓標もなく“土葬”される映像を見ていると、ただ心を痛めるしかなく、語る言葉が見つからない。
被災地支援の動きは活発になり始めてはいるものの、今なお大きな余震が頻繁に続いており、被災地の不安な生活は、一向に変わっていない。
福島原発事故も依然として予断を許さない状況が続いており、今日、経済産業省原子力安全・保安院が、チェルノブイリ原発事故と並ぶ国際原子力事故評価尺度(INES)で最も深刻なレベル7と暫定評価したらしい。
原発に関しては、とにかく出口が見えない。

本当に、悪夢のような1ヵ月だった。

この1ヶ月、自分に何ができるか自問自答の毎日だった。
西日本に住む私にとっては、現状、間接的な震災の影響が多少はあるものの、特に生活が変わるような事態には至っていない。
東日本の方々のことを思えば、普通に暮らしていることに後ろめたさを感じたりもする。
ならば、被災地のために何かをしているかといえば、何もしていない。
東北の惨状を横目で見ながら、自分自身の目の前にある仕事で精一杯の毎日である。
そうすることが、間接的に被災地のためになる・・・という意見もある。
直接被害を受けてない地域の私たちは、今までどおりに生活して経済を回すことが、結局は被災地のためになるのだ・・・と。
それは私もそう思う・・・が、それだけでいいのか?・・・という思いもある。
普通に仕事をしているだけで復興に向かえるような、そんな生やさしいものじゃないだろう?この度の震災は・・・と思えるのだ。
ならば何をすればいいのか・・・その答えを私は持たない。

16年前の「阪神・淡路大震災」から見事に復興を遂げた、私の住む街、神戸
しかし、それは外見上の話で、低迷する市民の就業率や神戸を拠点とする企業の衰退の現状を見ると、震災の爪あとは今以て消えてはいない。
明らかに、16年前の震災以降、神戸は元気をなくした。
今回の震災は、16年前のそれの比ではない。
被災地の範囲の広さはもちろん、原発事故による風評被害による諸外国の輸入規制が経済に与える打撃は計り知れず、2年後、3年後には、日本全国が元気をなくしてしまっている姿が素人でも容易に想像できるような、とてつもない国難である。
10年後の日本が、はたして日本でいられるのだろうか・・・とさえ思う。
考えれば考えるほど、本当の悪夢はこれからではないのか・・・と思ってしまうのだ。

そんな悲観的なことをいうな!・・・と、お叱りを受けるかもしれない。
世間では、「がんばろう!日本」をスローガンに、復興に向けて前向きに動き出したところだ。
本来なら、被災地ではない地域に住む私たちは、復興に向けて元気がでるような発言をすべきなのだろうが、震災から1ヵ月という節目で、今の正直な思いを少しだけ綴らせてもらったことを、お許し願いたい。

とにかく、震災は起きてしまった。
これは悪夢でもなんでもなく、現実なのだ。
ならばその現実を直視し、なんとかしなければならない。
出口の見えない迷路のような道のりかもしれないが、必ず復興する、させなければならない。
そのために自分に何ができるか、何をしなければならないか、これからも自問自答し続けていくしかない。
私の子供たちが大人になったときに、日本が日本であるために・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2011-04-12 21:52 | 時事問題 | Trackback(1) | Comments(7)  

江~姫たちの戦国~ 第13話「花嫁の決意」

 天正12年(1584年)、12歳となったお江は、羽柴秀吉の命により尾張大野城主の佐治一成のもとへ輿入れする。一成はお江より4歳年上で、このとき16歳。父は佐治信方、母は織田信長の妹・お犬の方で、彼女はお江の母であるお市の方の妹(異説あり)でもあることから、一成とお江は従兄妹という間柄にあたる。当時、一成は尾張清洲城主の織田信雄(信長の次男)の家臣で、領地も5万石ほどしかなかったものの、佐治家は代々の当主が知多半島の水軍を支配下に置く家柄でもあった。また、佐治家が近江甲賀出身で、甲賀忍者の系譜に属するとする説もあるらしい。そういった関係もあってか、生前の織田信長は佐治家を重要視し、妹のお犬の方を佐治信方に嫁がせていたという。

 一成の父、信方は、これより10年ほど前に信長の嫡男・織田信忠に従って、伊勢長島攻め(長島一向一揆)に加わり、討死している。その後、母・お犬の方は織田家に引き取られ、改めて細川昭元(細川信良)のもとへ嫁がされており、一成は幼くして家督を相続し当主となるものの、父を失い、母とも引き離され、孤独な少年時代を過ごした。幼くして両親を失ったという意味では、お江とは似たもの同士だったわけである。

 秀吉が12歳のお江を16歳の一成に嫁がせたのは、一成の主君である信雄を懐柔し、知多半島の水軍を掌中に収めたかったからだと推測されている。一方で、お江を一成に嫁がせたいと提案したのは、信雄側からだったという説もあるらしい。信雄にしてみれば、秀吉の庇護のもとにあるとはいえお江は織田家の血を引く者。お江と一成が夫婦になることによって、織田家と佐治家の関係をより強固なものにしたいという思惑からである。秀吉側はそれを承知で、あわよくば一成の寝返りを期待した同意だったとも。いずれにしても、幼いお江と一成の知る由もないところで、それぞれの政治的な思惑が交差した婚儀だった。

 なぜ三姉妹の中で、お江が最初に嫁がされたかについてはわかっていない。一説には、長女・お茶々を見初めた秀吉が、彼女を側室にするため邪魔な妹たちを先に片付けていった・・・などとも言われるが、であれば、順番からいえば次女のお初が先に嫁がされていたほうが納得がいく。理由は他にあったと考えるほうがいいだろう。12歳といえば、現代でいえば小学6年生。この時代、この歳で嫁ぐというのは特に珍しい話ではないが、母と死に別れて1年足らずで姉たちと別れることは、この上なく心細かったに違いない。ドラマでは、自分の意志で嫁ぐ決意をしたお江だったが、実際には、そこに彼女の意思など存在しなかっただろうから・・・。

 二度の政略結婚の末、37歳という若さでこの世を去ったお市の方の血を引くお江は、はからずも僅か12歳という若さで政略結婚の道具となった。願わくば、これが幸せな結婚となれば救われるのだが、母とは違った形の不幸を背負うことになる。お江と一成の夫婦生活は、ほんの数ヶ月に過ぎなかった。


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by sakanoueno-kumo | 2011-04-11 01:45 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(5) | Comments(4)  

心癒される桜の木の下で思う、野球ができることの幸せ。

 昨日に引き続いて今日も桜観賞。といっても、今日の本来の目的は桜ではなく、少年野球の試合観戦のついでです。今日は私の指導している少年野球チームの春の大会の1回戦で、本来ならばユニフォームを着てベンチに入るところだったのですが、如何せん先日の怪我のため今日も松葉杖状態で、ならば子供たちの写真を撮ろうとカメラを持参して観戦に足を運んだ次第です。

 で、行ってみると、試合会場に隣接する公園の桜がとても綺麗で、思わず今日もシャッターを切りました。いつも大会の度に通る公園なんですが、野球の戦闘モードで行っているときは目に入らないんですよね。今日も、もしユニフォーム姿で行っていたら、きっと桜どころではなかったと思います。そう考えれば、たまには怪我をしてみるのもいいもんです(苦笑)。

 ここは神戸市垂水区の海岸沿いにある平磯公園。桜の木の向こうに見えるグランドが、少年野球試合会場の垂水スポーツガーデンです。
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 今日の神戸は春らしいうららかな陽気で、まさに花見日和でした。
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 夜桜も綺麗ですが、私はやっぱり青空の下の桜が好きです。
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 白い花びらの桜です。詳しくないので、品種はわかりません。
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 少年野球の試合も、青空の下、いい試合ができました。東北地方にも、きっと野球少年はたくさんいるのでしょうが、今はそれどころじゃないでしょうね。直接の被災地ではなくとも、野球場や運動施設にはこれから仮設住宅が建設され、子供たちの野球ができる環境に戻るのは、何年も先になることでしょう。16年前の阪神大震災の神戸も、野球の試合などできる広場はありませんでした。こうして桜観賞や野球ができることが、如何に幸せなことであるか、あらためて思わされます。もちろん、衣食住もままならない被災地の現状で、野球の話なんてどうでもいいことといえばそうなんですが、今日、おもいっきりプレーしている子供たちを見ていて、ふと、そんな思いになりました。東北の野球小僧たちも、きっと野球がしたいだろうなぁ・・・と。そう思えば、こうして穏やかな休日を過ごさせてもらっていることに、感謝せずにはいられません。


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by sakanoueno-kumo | 2011-04-10 19:07 | 神戸の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)