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江~姫たちの戦国~ 第20話「茶々の恋」

 天正15年(1587年)10月1日、九州征伐から帰った豊臣秀吉は、九州平定と聚楽第の完成を祝い、京都の北野天満宮において大茶会を催す。この会は、豊臣政権膝下の大名や公家はもちろん、町人でも百姓でも、身分は問わず、服装のチェックもなく、茶碗さえあれば誰でも参加することが許され、勝手に茶席を設けてもかまわないという、いかにも庶民感覚を持った秀吉らしいイベントだった。

 「茶湯執心においては、また若党、町人、百姓以下によらず、釜一つ、つるべ一つ、呑物一つ、茶なきものは焦がしにても苦しからず」(定御茶湯之事)

 「茶の湯好きの者なら町人も農民もみな参加せよ。誰にでも秀吉の点前でお茶がくだされるであろう。」といったおふれのもと、秀吉みずからの点前にあずかれるとあって人々が殺到。一説には800席とも1500席ともいわれる茶席が設けられたという。茶席が立ったのは、北野天満宮門前の松原の中。一席あたりの広さは畳二畳分といわれ、道の両脇には、思い思いの茶席がびっしりと並んでいたという。茶席の中心は北野天満宮の拝殿。ここに大坂城から持ち込んだ秀吉自慢の黄金の茶室が置かれ、その左右に黄金の茶道具も飾られた。そこで秀吉自ら亭主を務め、800人の家臣に自ら茶を点じたと伝えられる。茶会は当然、大盛況。当初は10日間の予定で開催されたこの茶会だったが、何故かこの日1日で閉会(一説には、佐々成政の領国、肥後国で国人一揆が発生したため、といわれる)。たった1日のイベントだったが、「豊臣政権」のPRキャンペーンとしては、1日でも充分すぎるくらいだった。

 織田信長の時代、“茶の湯”は、貴族社会のみに許された特権的な嗜みだった。秀吉はそれを、武士階級から庶民まで、容易に触れられるパブリックなものとした。当時の人々にとっては、新しく誕生した「豊臣政権」に、今までにない新鮮な期待感を抱いたに違いない。さすがは、“人たらし”といわれた秀吉。PR費用は相当なものだったと想像するが、このキャンペーンによって、豊臣政権人気は絶頂期を迎えたといっていいだろう。しかし、必要以上に高い支持率を受けた政権というのは、あとは失墜の一途を辿るのが常。それは、平成の現代を見ても、変わらないようである。

 お茶々が秀吉の側室となった時期は、正確にはわかっていない。天正15年(1587年)に妹・お初の結婚、同年9月、聚楽第竣工、10月に「北野大茶会」で、この翌々年の天正17年(1589年)には秀吉との最初の子・鶴松(お捨)を生んでいるので、おそらく茶会後のこの時期と考えて、遜色ないように思われる。母・お市の方が落命して秀吉庇護のもとで暮らし始めてから4年、お茶々は18歳になっていた。このとき秀吉は50歳。現代の感覚でいえば「援助交際」のような年齢差だが、この時代、娘より若い側女を持つ武将は、特に珍しくはなかった。とはいえ、人生50年の時代と考えれば、このときの秀吉は現代の50歳よりもはるかにじーさんだったわけで、お茶々にとってドラマのような恋愛感情を抱ける相手であったかどうかは、甚だ疑問ではある。しかし、ドラマの台詞でもあったように、権力をかさに無理矢理手篭めにしようと思えば、4年もかけずとも可能だったはず。お茶々からみれば秀吉は、信長の命令であった父・浅井長政の件はともかく、母・お市の方を死に追いやったであることは間違いなく、ドラマのように「秀吉憎し」の感情があったとしても何ら不思議ではない。その感情を癒すのに4年という年月を費やした・・・そう考えれば、秀吉もなかなかなジェントルマンである。

 「お茶々様には、何としてもお幸せになっていただきたいと存じますれば。それが父上と母上を殺めた男のせめてもの償いかと存じまする。」

 晩年の秀吉の寵愛を一身に受けたお茶々こと淀殿。豊臣家の継嗣を生み、秀吉の死後も、事実上、豊臣家のトップとして君臨した彼女のその生涯は、果たして幸せだったといえるかどうか・・・後世の私たちには、想像の世界でしかない。


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by sakanoueno-kumo | 2011-05-30 19:46 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(2) | Comments(4)  

JIN -仁-(完結編) 第6話

 物語の本筋とは別に、このドラマのもうひとつの魅力は、なんといっても内野聖陽さん演じる坂本龍馬だろう。昨年の大河ドラマ「龍馬伝」でみた福山雅治さんのスマートで優等生の龍馬とは違って、いわゆる無骨で骨太な、脂ぎった龍馬像である。福山さんの龍馬も、あれはあれで新しい龍馬像として悪くはなかったが、私のような古い龍馬ファンにとっては、やはり内野龍馬のほうがしっくりくる。というか、今まで見てきた数々の役者さん演ずる龍馬の中でも、ひょっとしたら一番じゃないかとすら思っている。龍馬の持つイメージといえば、明るく、楽天的で、濶達で、気取りがなく、粗野に見えるところもあるが、陰険さがまったく感じられないので、とにかく好感が持てる。それでいて、眼の奥にはギラついた高い志がある。そんな往年の龍馬像を、内野さんが見事に演じてくれている。

e0158128_22291285.jpg 今話で長崎を訪れた南方仁先生が、龍馬と一緒に撮影していた写真は、幕末の写真家、上野彦馬が撮影したと言われる有名な龍馬の立ち写真。龍馬ファンでなくとも、一度は見たことがある写真だろう。もちろん、本物には仁先生は映っていないが(笑)、あまりにも似ていたので、ちと拝借して比べてみた。いや~、完璧じゃないですかね?

 このドラマでの龍馬の魅力のもうひとつは、その人物像の描かれ方だ。当ブログの昨年の「龍馬伝」の稿でも再三発言してきたが、私は、坂本龍馬は決して巷でイメージされているような、平和主義の非戦論者ではなかったと思っている<参照:坂本龍馬の「大政奉還論」と、中岡慎太郎の「武力倒幕論」(前編)(後編)>。周知のとおり、龍馬は幕末のギリギリのタイミングで、「大政奉還」という平和革命の道を選んだわけだが、そのことだけを捉えて、しばしば龍馬を「反戦、平和主義の象徴」のように描いた作品を見かける(昨年の「龍馬伝」もそうだった)。しかし、それでは今話の時期の龍馬の行動の説明がつかない。ドラマのとおり、薩長同盟を成立させた龍馬は、薩摩藩名義で武器と弾薬、軍艦を購入して長州へ流し、自らもその軍艦に乗って「四境戦争」に参戦している。さらにのち、自藩の土佐藩にも新式ライフル銃1000挺を送りつけ、討幕の準備を進めた。その上で、「船中八策」を考案し、「大政奉還論」を推したのである。

「まずは力を得んと、言いたいことも言えん。」

 仁先生に龍馬がいった台詞だが、この言葉通り、龍馬が目指したのは戦も辞さない姿勢を示した上での、無血革命コースだった。それは、平和主義からきたものではない。革命後の「富国強兵」のためである。そのためには、できるだけ内乱は少なく収めたい。それが、坂本龍馬の考えの最終的な到達点だったと私は思う。

 そんな坂本龍馬像が、このドラマでは実に上手く描かれていると思う。今話で龍馬は、仁先生の言葉によって新たな道を見つけ出したようだったが、実際の龍馬も、無血革命コースを模索し始めたのはこの四境戦争後のことだったと私も思う。今後も、内野龍馬から目が離せない。


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by sakanoueno-kumo | 2011-05-24 22:43 | その他ドラマ | Trackback(3) | Comments(0)  

江~姫たちの戦国~ 第19話「初の縁談」

 豊臣秀吉九州征伐から帰った天正15年(1587年)、浅井三姉妹の次女・お初は、のちに近江大津城主となる京極高次にもとに嫁いだ。高次は、秀吉の側室である松の丸殿(京極龍子)の弟(もしくは兄)で、二人の母、京極マリアはお初たち三姉妹の父、浅井長政の姉(もしくは妹、一説には叔母とも)であるため、お初と高次は従兄妹関係にあたる。お江の一度目の結婚相手、佐治一成も従兄妹関係だったが、一成の母、お犬の方は、お江たちの母、お市の方の妹で、つまり、お江は母方の従兄妹と、お初は父方の従兄妹と結婚した、というわけである。

 京極家は、鎌倉時代、室町時代を通して近江など数カ国の守護を世襲してきた名族で、かつては浅井家も京極家に仕える立場だった。しかし、これより半世紀ほど前、京極家に内紛が起こり、その機に乗じて家臣であった浅井家に実権を奪われ、零落してしまっていた。高次の父、京極高吉の時代に織田信長から近江奥島5000石を与えられていた京極家だったが、「本能寺の変」で信長が討たれると、高次は戦況を見誤り、姉、龍子が嫁いでいた若狭の武田元明と共に明智光秀に味方し、当時の秀吉の居城・近江長浜城を攻撃してしまう。しかし、周知のとおり光秀軍は「山崎の戦い」で秀吉軍に惨敗。龍子の夫、元明は自害する。敗走した高次は初め美濃、そして若狭の武田領へと逃れ、一時はお初たちの義父、柴田勝家に匿われていたようで、ひょっとしたらそのとき、お初たち三姉妹とも何らかの接触があったかもしれない。

 しかし、その勝家までもが秀吉に敗れてしまい、高次はいよいよ身体窮まってしまう。この窮地を助けたのが、姉の龍子だった。龍子は夫の元明の死後、秀吉の側室となっており、その姉の嘆願によって高次は赦免され、秀吉に仕えることとなる。天正12年(1584年)には近江国高島郡で2500石を与えられ、その翌々年に5000石へと加増され、さらに同年の九州攻めでは敵方の城を攻め落とすという戦功を上げ、一躍、江高島郡で大溝1万石の大名に取り立てられ、大溝城の城主となった。九州攻めでの功は高次の武将としての能力ともいえるが、そもそもは秀吉に二度までも楯突いた身。本来ならその時点でお取りつぶしになっていてもおかしくはなく、高次が大名になれたのは姉のおかげといっても言い過ぎではない。そして大名となった高次は、今度は信長の姪であるお初と結婚。姉や妻の七光りで出世したとされたことから、「蛍大名」と揶揄された。

 お初がどういう経緯で高次に嫁ぐことになったかはわからないが、ドラマのようなラブストーリーではなかっただろう。おそらく姉の松の丸殿(京極龍子)のとりなしがあっての結婚だとは想像できるが、ドラマでの松の丸殿の台詞にもあったように、亡き信長公の姪であるお初には、もっと政治的利用価値があったはず。実際に、お江がのちに徳川家康の三男・徳川秀忠に嫁いでいることを思えば、いくら鎌倉時代から続く名家とはいえ、このときの京極家は秀吉からみれば格下の格下で、お初を嫁がせてまで深い関係を築くべき相手ではない。いってみれば、側室である松の丸殿と高次が姉弟という関係があれば、京極家が秀吉に楯突くことはまず考えられず、それだけで十分なわけである(秀吉の死後、高次は豊臣家に弓引くことになるのだが)。であれば、なぜ秀吉は格下の高次にお初を嫁がせたのか・・・。想像するに、松の丸殿の熱心な介在(いわゆる、おねだり)があったと思われ、そう考えれば、高次がお初を熱烈に見初めた・・・なんて話も、案外あったかもしれない。

 お江が三度の結婚をしたのに対し、お初と高次は生涯添い遂げた。しかし、二人の間に子どもはできず、のちに側室との間に長男、忠高が生まれてからは、夫婦仲はあまり良くなかったといわれる(のちにこの忠高に、お江と徳川秀忠の娘、初姫を妻合わせるが、ここにも子どもができなかった)。しかし、のちに二人してキリシタンになったことを思えば、夫婦仲はそれほど悪くはなかったのかもしれない。

 お初が嫁いでしまったので、ドラマではしばらくお菓子を頬張る彼女の姿は観られなくなりそう。後年、お初は、豊臣と徳川に分かれた姉・妹の間に挟まれ、「大坂の陣」の際には両家の和睦交渉の使者に駆り立てられることになるのだが、それはこの物語のずっと後の話である。


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by sakanoueno-kumo | 2011-05-23 16:22 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(1) | Comments(0)  

JIN -仁-(完結編) 第5話

 鉛中毒で廃人となった歌舞伎役者の坂東吉十郎と、その一人息子の与吉の父子物語。命を救うには手足を切断するしかないという南方仁先生に対し、なんとかもう一度、舞台に立たせてやってほしいと頼む、同じ役者仲間の澤村田之助
 「兄さんにとって、手足を切って生きながらえることなんて、なんの意味もないのさ。」
 極道三昧で生きてきた吉十郎にとって、死を目前にして息子に残してやれるものは、自分が最も輝いている姿を見せることだけ・・・使い古されたテーマではあるが、息子を持つ親としては、正直、このテの話には条件反射のように涙腺が緩む(苦笑)。
 「命の値打ちってのは、長さだけなのかい?」
 考えさせられる台詞だった。

 未来からタイムスリップしてきた自分という異物を抱え込みながらも、歴史は史実通りに進んでいるという歴史の修正力に直面して、自分がしていることは、束の間の延命に過ぎないのではないか・・・と思い悩む仁先生に、が言った台詞。
 「延命だけではいけないのですか? 全ての医術は所詮、延命にしか過ぎぬのではございませぬか? 未来がいかに進んだ世かは存じませぬが、人はやはり死ぬのでございましょう?」
 そう、人はいずれ必ず死ぬ。どれだけ医学が進んでも、おそらくそれは変わらないことだろう。医療とは、所詮は延命に過ぎないのである。むしろ、医学が進んだことによって、本来、医療の持つ意味を忘れてしまっているのかもしれない。医学が進んだことによって、「ただ生きているだけ」という人をたくさん生み出している21世紀の現代。「命こそが、最も尊いもの」「命を救うことこそが、優れた医療」というのが現代の医学の到達点となっている。しかし、はたしてそうだろうか。「命の価値」とは、ひとりひとり違うものなんじゃないだろうか。医療とは、その人の人生の手助けをするものであって、その方法は、人によって違うものなんじゃないだろうか。医学が発達していない時代の医療のほうが、その本来持つ意味を知っていたのではないだろうか。そんなことを思った今話だった。

 「束の間の延命。もしかしたら延命にすらなっていないのかもしれない。こうしたことで命を縮めた可能性すらある。だけど、この瞬間には長さでは語れない命の意味がある。残された時間を輝かせるという医療の意味がある。世代を超え、受け継がれていく芸のように世の営みを超えていくもの、歴史の修正力に抗えるものを俺も残したい」

 大切なのは、「どれだけ生きたか」ではなく、「どう生きたか」ということ。私も、この先どれだけ生きられるかわからないが、与えられた命をどれだけ悔い無く生きられるか・・・私の愛する子供たちに、何を残してやれるだろうか・・・いつか自分の死期に直面したとき、自分の「命の価値」を自分で見出すことができるだろうか・・・そんなことを考えさせられた吉十郎の最後だった。

 坂東吉十郎という人物は、実在の人物だろうか? 坂東玉三郎と関係ある? 知ってる方がいれば、教えてください。


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by sakanoueno-kumo | 2011-05-18 23:03 | その他ドラマ | Trackback(2) | Comments(0)  

江~姫たちの戦国~ 第18話「恋しくて」

 天正14年(1586年)9月9日、羽柴秀吉正親町天皇より“豊臣姓”を下賜され、12月には太政大臣に就任した。秀吉は、この前年の7月、関白に就任するにあたって五摂家近衛家(藤原氏)の猶子になっているため、この頃から、“羽柴”という名を使用しなくなっていた。ただ、一般によく思われている、“羽柴”から“豊臣”に改めたというのは誤りで、“藤原”から“豊臣”に改めたというのが正しい。“羽柴”は名字(苗字)であり、“豊臣”は氏(うじ)であるから、互いにまったく異質のものである。簡単にいえば、名字とは家名のことで、氏とは本姓のこと。明治時代になって名字と氏の区別がなくなるまで、武家にはこの二つの姓があった。たとえば、源氏と称していた家康でいえば、名字が“徳川”で、氏が“源”となり、平氏の末裔と称していた信長は、名字が“織田”で、氏は“平”となる。秀吉の場合、はじめは主君である信長に倣って平氏を称しており、氏でいえば、「平→藤原→豊臣」と変わっていき、名字は「木下→羽柴」と変わったのみ。つまり、豊臣姓を賜って使用しなくなっただけで、終生、羽柴秀吉であることに変わりはなかった。

 豊臣氏は、これまであった源平藤橘の4氏にならぶ、第5の氏として下賜されたもので、これ以後、日本史に新しい氏が誕生することはなく、豊臣氏が日本で最も新しい氏となる。ちなみに、氏には“~の"をつけ、名字にはつけないという説がある。“みなもと−の−よりとも”“たいら−の−まさかど”“ふじわら−の−みちなが”、とくれば、“とよとみ−の−ひでよし”と読むべきで、“とよとみひでよし”という読みは誤りだというのである。これについは現在でも様々な議論があるようで、結論をみていない。

 秀吉が豊臣姓を賜った際、その氏に見合った偽の家系伝説を創ったというのも実話のようである。しかし、秀吉が卑賤の出であることは、この時代の誰もが知るところ。いってみれば、形式上のものだったわけで、その家系伝説を家臣たちに本気で信じさせようとは思っていなかっただろう。ただ、これも秀吉に限ったわけではなく、家康にしても信長にしても、概ね戦国大名は皆、数代遡ればその出自は定かではなく、どこかで改ざんされた家系である場合がほとんどだといっていい。秀吉の場合、彼一代で地ベタから頂点まで伸し上がったこともあって、家系改ざんもあまりにも露骨な白々しさであっただろうと想像でき、周囲も苦笑せざるを得なかっただろう。そのデタラメな家系伝説を必至に納得させようとするドラマ中の石田三成。生真面目な三成だけにありそうな滑稽な姿で、テレビを観ている私も、思わず苦笑してしまった(苦笑)。

 さて、今話は三姉妹のそれぞれの恋物語。仇であるはずの秀吉に心を揺れ動かされ始める長女・お茶々。のちに夫となる京極高次と運命的な出会いを感じる次女・お初。数年後、二人目の夫となる秀吉の甥、羽柴(豊臣)秀勝に、自分でもわからない不思議な感情を覚え始めた三女・お江。当然、ドラマにあったような甘いラブストーリーは創作であって、このような恋物語はあろうはずはないわけだが(男側から見染めたという話なら、あったかもしれない)、そもそも男女の馴れ初めに関する史料などあるはずもなく、そんなところに目くじらを立てて否定するのは無粋というもの。三姉妹が、どのようにして運命の人と結ばれていくのか、あくまで物語として見ていきたいと思う(もっとも、江の場合はこれが最後の出会いではないが・・・)。そんなわけで、今話のオールフォクションの内容に補足するウンチクもないので、今週は豊臣姓について少しふれてみた(短くてスミマセン)。

 京極高次、羽柴(豊臣)秀勝については、また、次話以降、折を見て・・・。



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by sakanoueno-kumo | 2011-05-17 00:58 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(3) | Comments(0)  

名将、尾藤公氏の逝去を悼む。~野球は人生の縮図、社会の縮図~

 東日本大震災発生の5日前の3月6日、和歌山県立箕島高校野球部元監督の尾藤公氏が、膀胱ガンの為、68歳で亡くなられました。実は、この稿は尾藤氏が亡くなられた5日後の3月11日に起稿しようと思い、途中まで書きかけたところで東北の地震の報道が飛び込んできたため中断したものです。その後、地震のほとぼりが冷めてから起稿しようと思っていたのですが、そのタイミングを失ったまま2ヵ月以上が過ぎてしまいました。遅ればせばがら、本日、追悼の思いを込めて、起稿させていただきます。
 
 高校野球ファンにとっては、今さら尾藤さんの功績を語るまでもないとは思いますが、箕島高校の監督として、春8回夏6回、甲子園に出場、公立高校としては唯一の春夏連覇を含む、春3回夏1回の全国優勝に導いた、昭和の名将です。私たちの世代にとっては、既に亡くなられた徳島県立池田高校の蔦文也元監督と並んで、間違いなく『甲子園の顔』でした。

 しかし、そんな輝かしい記録よりも、私たちの脳裏に焼き付いているのは、『尾藤スマイル』といわれたベンチでの笑顔。それまで、“しごき”“鬼監督”といったイメージが強かった高校野球に、ベンチで笑顔を絶やさない“のびのび野球”を提唱した、最初の監督だったのではないでしょうか。守備を終えてグランドから走ってベンチに帰ってくる選手たちを、立ち上がって笑顔で向かえる尾藤監督の姿からは、心から選手を愛し、野球を愛していた尾藤さんの人柄が伝わってきたものです。

 そんな尾藤さんも、若い頃はスパルタ指導の“鬼監督”だったそうですが、1970年春に全国制覇を成し遂げた後、成績が振るわず、信任投票によって監督退任に追い込まれたそうです。その後、ボーリング場に勤務し、そこで接客を学んだことによって、これまでの指導方針を考え直し、再び監督に復帰してからは、練習の厳しさは変わらないものの、試合中は常に笑顔で接するようになったそうです。そこから、あの箕島黄金時代が始まったんですね。本番までは徹底的に鍛え上げ、ひとたび戦いが始まったら、選手たちを信頼して余計なプレッシャーを感じさせない。野球のみならず、人を使う人を育てる立場にいる者にとっては、お手本のような指導者像でした。

 尾藤さんを語るに、なんといっても外せないのは、1979年の夏大会3回戦、『神が創った試合』と語り継がれる、箕島対星稜戦の延長18回の激闘でしょう。私にとってあの試合は、高校野球史上最高の試合だと思っています。

 星稜 000 100 000 001 000 100 3

 箕島 000 100 000 001 000 101 4

 
 延長戦の名勝負という意味では、高校野球史には他にもいくつかあります。古くは1958年の板東英二投手と村椿輝雄投手の投げ合いや、1969年の三沢高校・太田幸司投手の力投、近年では、ハンカチ王子こと斎藤佑樹投手と田中将大投手の投げ合いなどが、記憶に新しいところです。しかし、これらの試合はすべて、高校生離れした投手の力投がクローズアップされた試合。それに対して箕島対星稜戦は、プロ注目といった選手がひとりもおらず、まさに全員野球での延長18回でした。それゆえに、高校生らしいミスがたくさん起きます。しかし、箕島の選手たちはそのミスで意気消沈することなく、逆にそこから一意奮闘して挽回します。それは、尾藤監督がすべてを選手たちに任せていた、選手たちを信頼していたからこそ成し得たことでしょう。何度も“万事休す”の局面になりながら、最後まで決して諦めることなく、最後は神をも味方につけた尾藤箕島。高校野球史に永遠に語り継がれるであろうこの戦いは、同時に、尾藤公という名を名将として歴史に刻んだ戦いでもありました。

 後年、延長18回の対戦相手だった星稜高校元監督の山下智茂氏は「尾藤さんの笑顔を見ていると、この人は“待つ”“信ずる”“許す”ということが出来る人なのだと思った。僕にはそれが出来なかった。その未熟さを自分で研究して野球観を変えた。」と言っておられました。それ以後、山下監督も笑顔を絶やさないスタイルに変えたといいます。

 監督勇退後は高校野球の実況解説者として活躍されていました。その解説も、決してネガティブなことをいわない、いつも選手の側に立った解説で、聞いている私たちを清々しい気持ちにさせてくれるものでした。何年もの間、「決勝戦の解説は尾藤さん」というのが定番でしたね。特に印象的だったのは、2006年夏の決勝戦の、斎藤佑樹投手と田中将大投手と投げ合いで引き分け再試合となった早稲田実業対駒大苫小牧戦の2試合のラジオ解説が、奇しくも27年前に延長18回の熱闘を繰り広げた山下智茂氏尾藤さんとのダブル解説だったこと。歴史に残る戦いを演じた二人が、時を超えて、歴史に残る戦いの解説席に並んで座っていた・・・。なんとも、不思議な巡りあわせだと感じました。

 7年ほど前からに侵され、闘病生活を余儀なくされた尾藤さんでしたが、3度の難しい手術を経験しながらも、「自分は何度か死んだようなもの。でも命の延長戦に終わりはない。人生をあきらめてはいけない。だから最後まで楽しみたい。」と語り、常に前向きだったといいます。昨年9月に甲子園球場で行われた、延長18回を戦った箕島・星稜のOB戦には、鎮痛剤を投与し、気力を振り絞って車椅子で参加されている姿をTVで観ました。そのときの言葉だったと思いますが、「命のほうは延長16回くらいまできているようだ。」と言っておられたと思います。これは一見、弱気な言葉に聞こえますが、延長16回といえば箕島・星稜戦で最大の奇跡が起きた回。星稜1点リードで迎えた16回裏の箕島の攻撃。2死ランナー無しの場面で、2年生の森川選手の打った打球は1塁ファールグランドへのポップフライ。誰もが星稜の勝利を確信した瞬間でしたが、ファーストを守っていた星稜の加藤選手が、グランドの土と人工芝の間に足を取られて転倒、ボールを取ることが出来ませんでした。命拾いをした箕島・森川選手は、その後、レフトへホームラン。土壇場で箕島は3−3の同点に追いつきます。このとき実況アナウンサーは「奇跡としかいいようがありません。」と叫んでいたのを今でも覚えています。打った森川選手は、それまで公式戦はおろか、練習試合でもホームランを打った経験がなかったそうです。まさに、神を味方につけた16回裏の攻撃。ご自身の闘病生活を、延長16回に擬えた尾藤さんの言葉は、もう一度、奇跡が起きることを信じていた言葉だったのではないでしょうか。

 その思いも虚しく、3月6日に尾藤公さんはこの世を去りました。残念ながら尾藤さんの人生の延長戦は終わってしまいましたが、しかし、彼に影響を受けた他校の監督が今でもたくさん活躍しておられること思えば、尾藤スピリッツの延長戦は、まだまだ甲子園に生き続けているといえるでしょう。それは、終わりのない延長戦です。

 最後に、私が好きな尾藤さんの言葉を記します。
 「野球というのは素晴らしいスポーツですよ。球技で、人間が得点するのは野球だけ。サッカーの場合はボールだし、ラグビーはボールと人の両方。でも、野球は人間だけ。だからこそ、人間臭いドラマが生まれる。野球というのは人生の縮図、社会の縮図ですよ。」(『高校野球熱闘の世紀。』より)

 謹んで、ご冥福をお祈り申し上げます。


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by sakanoueno-kumo | 2011-05-14 00:03 | 高校野球 | Trackback | Comments(0)  

浜岡原発停止に思う。

 東日本大震災発生から2ヵ月足らずの5月6日、菅直人首相は、静岡県にある浜岡原子力発電所の現在運転中の4号機、5号機の運転を停止するよう、中部電力に要請したと発表しました。理由は、この浜岡原発のある地域が、過去100年〜150年ごとに繰り返し発生している東海地震の震源域に立地し、今後30年以内にマグニチュード8クラスの大地震が発生する可能性が87%と、極めて高い確率だからだそうです。この確率については、専門家の方々からも異論が出てきていないようですから、信憑性のある数字とみていいのでしょう。であれば、何でそんな危険な場所に原発を建てたのか・・・という話になりますが、その話はひとまず横に置いて、今すぐ浜岡原発を停止することが、私たちの生活にどのような影響を及ぼすのかを考えてみます。

 この度の菅首相の要請は、地元自治体や中部電力への根回しも無いままの唐突な全面停止要請だったと聞きます。経済産業省原子力安全保安院によると、今回の浜岡原発の停止は、津波対策の強化などに必要な概ね2年程度とのことですが、政府からは、その間の具体的な電力需給の方法や、その影響の考査といったものが全く示されていません。

 そこで、懸念される事態を考えてみると、最も危惧されるのが、電力需要ですよね。中部電力は今年の夏の電力需要のピークを2560万キロワットと見込んでいるそうですが、原発の運転停止によって、このままでは供給力の余力がほとんど無くなってしまうそうです。代替エネルギーの確保を早急に進めざるを得ないとともに、福島原発事故後、東京電力東北電力に支援してきた約40万キロワットの電力の供給も難しくなるそうです。そうなると、また、“節電”“計画停電”などという言葉を避けて通れなくなります。これ以上、節電の必要性を迫られれば、ただでさえ電力不足による自粛ムードで停滞しがちな経済に、さらに追い打ちをかけるようなマイナス作用がはたらくことは避けられないでしょう。中部電力から電力供給を受ける中部地方は、トヨタ自動車をはじめ日本を代表する製造業の集積地です。計画停電などの大幅な節電を強いられることになれば、生産への打撃は避けられません。さらに、震災の影響で東日本での生産を西日本に移すなどしていた企業にもまた混乱を生じさせることになります。経済の冷え込みは国力の低下に繋がり、結局は復興を遅らせることにもなるのです。

 さらに、今回の要請を受け、全国で反原発運動が活性化し、ドミノ式に原発が停止していく可能性もあります。これについて菅首相は、浜岡原発以外の原子炉については、巨大地震に見舞われる可能性が低いとして、停止を要請する考えはないと名言していたようですが、それで他の原発地域に住む方々が納得できるとは思えません。福島原発事故の現状を見れば、一刻も早く自分たちの地域の原発も停止してほしいと考えるのは、当然のことでしょう。では、すべての原発を今すぐ停止することが、果たして可能なことなのかどうか、残念ながら素人の私にはその判断材料がありません。仮に可能だったとして、原発に変わるエネルギー源を火力発電水力発電に頼ることになるのでしょうが、当然、コストの問題が生じます。中部電力によると、今回の浜岡原発停止で、原発分を火力で代替すると、発電コストが1日7億円年間約2500億円増える見通しだとか。これが日本全国となると・・・途方も無い金額になるでしょうね。当然それは、“電気代”という形で、私たちの生活にはね返ってくることが想像できます。それは単純に一般家庭の生活費がアップするというだけではなく、企業の生産コストアップにも繋がり、また、経済の冷え込みに拍車がかかることになるでしょう。原発廃止が物理的に可能だとしても、国民の生活に大打撃を与えることは避けられないように思えます。

 とはいえ、いつ東海地震が起きても不思議ではないという状況で、福島原発事故によって明らかになった国と東京電力の安全管理の杜撰さを見れば、浜岡原発の停止は当然という意見もわかります。もし、数ヵ月後にも巨大地震が発生したら、今回の菅首相の判断は“大英断”ということになるのでしょう。しかし、今回の要請について、菅首相が日本全体の電力不足や経済への影響、国民の生活に配慮した形跡は、どうも見受けられません。“菅降ろし”の気運が与野党ともに高まる中、起死回生の政権浮揚を狙った、破れかぶれのパフォーマンスとも思えます。政府は、国民や企業が納得のいく説明と対策を示すべきではないでしょうか。

 勘違いしないでほしいのは、私も、将来的には原発に頼らない社会を目指すべきだとは思っていますし、そのために、人類が持てる英知を結集すべきだとも思います。しかし、福島原発事故で日本中が神経質になっている今、その煽りを受けて足早に原発廃止を進めることが、はたして国民にとっていいことなのか・・・と思うのです。「戦後最大の国難」といわれる今だからこそ、冷静になって考えるべきではないでしょうか。


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by sakanoueno-kumo | 2011-05-11 18:20 | 時事問題 | Trackback | Comments(7)  

JIN -仁-(完結編) 第4話

 手術中の失血による死亡を避けるために、輸血が必要と考えた南方仁先生は、血液型を判定するための道具・遠心分離機を作った。しかし、輸血には副作用など様々な危険があるため、失血死の危険があるときのみ行うとのこと。しかし考えて見れば、切れば必ず出血する外科手術において、輸血は欠かせない医療行為。タイムスリップして幕末にきてから4年間、ずっと輸血なしで手術をしてきたことのほうが驚き・・・と思ってしまったのは私だけだろうか(笑)。

 血液型が発見されたのは、ドラマのこの時期より14年後の1900年、オーストリアの医師・カール・ラントシュタイナーABO血液型を発見したことに始まり、10年後の1910年には4番目の血液型AB型が発見され、現在の形となったらしい(今調べました・・・笑)。さらにラントシュタイナーは1914年に、血液にクエン酸ナトリウムを加えれば、血液が固まらないことを発見し、これが抗凝固剤となり、これにより輸血という医療行為が可能になったらしい(これも今調べました・・・笑)。この発見によってラントシュタイナーは、1930年にノーベル生理学医学賞を受賞している。ちなみに抗生物質・ペニシリンを発見したイギリスの細菌学者、アレクサンダー・フレミングも、1945年にノーベル生理学医学賞を受賞しており、仁先生がこのままこの時代に生き続ければ、ノーベル賞の受賞は間違いなさそうだ(笑)。と、同時に、ラントシュタイナーとフレミングの受賞はなくなるわけで(ていうか、仁先生が未来に帰ったとしても、ペニシリンや輸血を登場させてしまった時点で二人の受賞はなくなるわけで)、これって仁先生がずっと心配してきた、歴史を変える行為ではないだろうか・・・(笑)。

 血液型の存在を知らなかったこの時代の人たちにとって、親兄弟のものならまだしも、他人の血を自分の身体に入れるという行為には、私たちが想像する以上に大きな抵抗があっただろう。「血縁」「血筋」「血族」「血統」「血脈」「血の繋がり」などの日本語が今も残っていることから見ても、遺伝子の存在がわかっていない時代の人たちにとっては、「血」こそが、先祖から継承され繋がってきたものだと信じられていたことがわかる。特に、「武家」「公家」など身分の高い者にとっては血筋こそ命。自分より身分の低い者の血を身体に入れるなんて、先祖から受け継いだ血脈を汚す行為、と思って当然だっただろう。輸血が日本で初めて行われたのは、大正8年(1919年)に東京帝国大学教授の塩田広重医師によってだそうだが(これもまた、今調べました・・・笑)、初めて輸血を受けた患者さんは、相当肝の座った人物だったのだろうと想像する。

 ドラマに出てきた恵姫は実在の人物で、武蔵川越藩の第7代藩主・松平直克の正室。コブの話はドラマのオリジナルだが、子宝に恵まれなかったというのは本当の話で、徳川家康から続く血筋は彼女の代で途絶えてしまったとか。今話のキーである「輸血」に、高貴な人物の「血筋」のこだわりを絡めた設定は、実によく考えられたストーリーだったと思う。

 ドラマの裏主役ともいえる坂本龍馬が、いよいよ「薩長同盟」を成立させたようだ。このあたりの龍馬のエピソードと、ドラマの本筋との重ねあわせ方が実に上手い。本堂蘭方医学“架け橋”になろうとする仁先生。薩摩長州“架け橋”になろうとする龍馬。咲と恵姫の“意地”。薩摩と長州の“意地”。ストーリーに無理に龍馬を絡めてくるわけではなく、ちゃんと通説に沿った行動をさせながら、フィクションの物語とも深く繋がっているという見事な設定。近年の某国営放送のドラマ製作者の方々にも、見習ってほしいものだ。

 「薩長同盟」「寺田屋事件」については、昨年の大河ドラマ『龍馬伝』の稿で詳しく触れているので、よければ一読ください。
 (参照:龍馬伝 第35話「薩長同盟ぜよ」第36話「寺田屋騒動」

 さて、物語は仁先生と何らかの縁がありそうな少女・お初の登場で、急展開を見せ始めた模様。不慮の事故で重症を負ったお初の治療中、仁先生の身体が消え始めた。この娘は仁先生の先祖?・・・いやいやそれならなおさら助けないと仁先生は生まれてこないことになる。となると、この娘を生かしておくと、仁先生の先祖と何らかの関わりを持ち、仁先生が生まれてこなくなるということ?・・・予告では、またタイムスリップをするようなシーンがあったけど、一度未来に帰っちゃうの?・・・これは来週も観ないわけにはいかない。制作サイドの思惑に、見事にハマってしまっている私です(笑)。


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by sakanoueno-kumo | 2011-05-10 19:09 | その他ドラマ | Trackback(2) | Comments(2)  

江~姫たちの戦国~ 第17話「家康の花嫁」

 「小牧・長久手の戦」以来、徳川家康に対しての再三に渡っての上洛要請を無視され続けた羽柴秀吉は、実妹の朝日(旭)姫継室として家康に差し出す。家康は、これより7年前の天正7年(1579年)に、織田信長の命令により正室・築山殿を死に追いやって以来(参照:江~姫たちの戦国~ 第3話「信長の秘密」)、正室を置いていなかった。そこに付け込んだ秀吉の懐柔策。家康としては、元は卑賤の出である秀吉の妹とはいえ、今をときめく関白殿下の妹君との縁談とあっては、断る理由が見当たるはずがなかった。このとき朝日姫は、姫とは名ばかりの40歳過ぎ。平成の現代ならまだまだ“女ざかり”といえるが(私としては十分ストライクゾーン・・・笑)、人生50年のこの時代では“老桜”といってもいい年齢。新妻とはとてもいい難く、後世の誰がどの角度から見ても、人質以外の何ものでもない形式だけの輿入れだった。

 このとき朝日姫には、夫がいたといわれ、秀吉に無理やり離縁させられたと伝わる。夫の名は佐治日向守という名と副田甚兵衛という名の二つの説が伝わっており、前者の佐治日向守説では、朝日と離縁させられたことを悲憤慷慨して自刃した・・・と伝わり、後者の副田甚兵衛説では、秀吉から離縁の条件として出された5万石の加増を蹴って出奔した・・・と伝わる。また、佐治日向守の死亡後、副田甚兵衛と再婚したとする説や、副田甚兵衛の別名が佐治日向守だったとする説もあり、結局のところどの説も決め手はないようである。ただ、こうして複数の伝承が残っていることからみても、朝日姫が家康に輿入れする際、秀吉に前夫と離縁させられたという逸話は、どうやら正しいように思える。朝日姫にしてみれば、兄が天下人となったがために降りかかった不幸。平成の現代でも、普通の人生を送るはずだった凡人が、異常な出世を遂げた優秀な兄弟を持ったばかりに、凡才の兄弟の生活まで翻弄され、逆に不幸な人生となってしまう・・・そんな話、珍しくないのではないだろうか。

 そんな秀吉の懐柔策も虚しく、家康は尚も上洛しようとしなかった。それでも諦めない秀吉は、とうとう次なる手として、「嫁いだ娘の病気見舞い」という名目で、実母である大政所を人質として送り込む。これに根負けした家康は、ようやく重い腰を上げ、上洛を決意する。お互い、「海千山千」のこの二人の駆け引きは、これまでも多くの物語で描かれてきた見応えのあるエピソードである。家康にしてみれば、すでに九州を除く西国諸侯を統一していた秀吉に勝ち目はなく、いずれは上洛して臣下の礼を取らなければならないのは明白だったが、九州征伐に向けて兵力を温存したい秀吉の心中を逆手にとっての引き伸ばし策だった。この策により家康は、しびれを切らした秀吉に妹どころか母親まで差し出させ、自分を高く売ることに成功した。「関白秀吉にそこまでさせた家康」という畏怖心を、周囲の諸侯に植えつけたわけである。一方で、関白が妹・母親まで差し出しているのに尚も挨拶に出ていかなければ、「家康は臆病者」との悪評が立つ恐れもある・・・秀吉にしてみれば、それを見越した作戦だったといえよう。権謀術数の限りを尽くした、まさに「狐と狸の化かし合い」だった。

 上洛した家康と秀吉の狂言の逸話は、実話とされている。天正14年(1586年)10月、上洛した家康が秀吉の弟・羽柴秀長の屋敷に入ったところ、待ちかねた秀吉は、少しの供回りだけを連れてその夜のうちに丸腰で家康を訪ね、二人だけで杯を交わしたという(もちろん、江が同席したという話はない・・・笑)。その際、秀吉は家康に対し、「いくら関白という位になったとは言え、自分が元は卑賤の出で、信長さまによって引き立てられた経緯は万人が知るところ。表面で従ってはいても、諸侯は腹の底では侮っている。そこで、明日の大坂城での謁見の際には、是非とも家康殿が自分に従うさまを、皆の前で見せてほしい。この秀吉が真の天下人となれるかどうかは、家康殿のお心ひとつ・・・。」と、口説いたという。関白となった秀吉にここまでいわれては、家康としては苦笑いするしかなかっただろう。“人たらし”といわれた秀吉ならではの、根回し作戦だった。

 翌日、家康は大坂城で秀吉に正式に謁見し、前夜の約束どおり臣下の礼をとった。ドラマで家康が秀吉の着用していた陣羽織を所望するシーンがあったが、この話はこのときより後日のことである。一説には、これも秀吉が事前に仕組んだシナリオだったとも。すでにこの時期、家康の言動が諸侯に与える影響大だったということがわかるエピソードである。そんな家康を臣下に組み入れたことにより、秀吉の天下統一への体制は磐石となった。ちょうどこのときとほぼ同じころ、秀吉は正親町天皇より豊臣姓を下賜され、12月には太政大臣に就任した。豊臣政権の誕生である。「本能寺の変」で天下統一を目前にした織田信長が落命してから、4年半という年月が過ぎていた。


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by sakanoueno-kumo | 2011-05-09 22:30 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(4) | Comments(0)  

JIN -仁-(完結編) 第2話・第3話

 江戸時代、江戸のまちでは富裕層の間で玄米にかえて精米された白米を食べる習慣が広まり、将軍をはじめ富裕層に脚気患者が多かったという。当時、脚気のことを別名、「江戸患い」といったらしい。その脚気に効く食べ物として仁友堂が考案・開発した「安道名津(あんドーナツ)」が江戸で瞬く間に評判となり、それを耳にした医学所頭取の松本良順が、ある高貴な人物が脚気を患っており、安道名津を献上して欲しいと、南方仁に耳打ちをする。その高貴な人物とは、孝明天皇の妹にして第14代将軍・徳川家茂の正室、皇女・和宮だった。

 和宮は仁孝天皇の第8皇女として生まれ、孝明天皇とは異母兄妹だった。一時は有栖川宮熾仁親王と婚約をしていたものの、安政5年(1858年)の安政の大獄によって亀裂が生じていた朝廷幕府の関係を修復するため、宮との婚約を破棄し、「公武合体」の証として家茂の正室となる。いわゆる「皇女降嫁」である。彼女は、2008年の大河ドラマ『篤姫』の主役だった天璋院(篤姫)とは嫁と姑の関係にあり、幕府瓦解後はともに江戸無血開城に尽力した。波乱に満ちた生涯から「悲劇の皇女」として知られる。

 良順から懇願された仁は、歴史に対する影響力を考慮して献上を躊躇するものの、仁友堂の逼迫した台所事情などを知り、少しでも皆の暮らしの足しになればと、献上を決意する。そして咲とともに和宮の元に赴いた仁だったが、何者かの陰謀によって、献上した安道名津を口にした和宮が突然倒れるという事態が起こり、仁は一転、罪人として捕らえられてしまう・・・というのが第2話、3話のストーリー。

 ここで、幕府の医療形態について少しだけ。幕府将軍付の医師のことを、「奥医師」といった。ドラマに出てくる「本道」とは、漢方医のことで、古くからの伝統的な東洋医学で漢方薬などを用いての治療のこと。一方、「蘭方」とは、江戸時代にオランダから伝わった西洋医学のこと。この言葉でもわかるように、「漢方=本道」で、「蘭方=邪道」というのが江戸時代の一般的な見方だったが、幕末のこの時期、邪道だった蘭方が信用されはじめ、将軍付の奥医師も、本道・蘭方 双方が仕えており対立していたという。

 ドラマでいうところの「医学館」は本道(漢方)、「西洋医学所」は蘭方が仕切っていた。登場人物でいえば、多紀元琰福田玄孝などは本道、松本良順伊東玄朴、それに一昨年の1作目で死んだ緒方洪庵などが蘭方医である。本道VS蘭方の対立もさることながら、今話で和宮にヒ素を盛った(かもしれない)伊東玄朴は、もともと「西洋医学所」の取締役でありながら松本良順の弾劾により失脚した人物。同じ蘭方医の間でも、地位を巡った争いがあったであろうことは、想像に難しくない。そんな対立に仁を絡めたのが、2話3話の設定である。しかし、このような話はこの時代に限らず、現代の大学病院大病院などでも、似たような話がありそうだと思ってしまうのだが、いかがなものだろう。

 結局、本堂である「医学館」の多紀元琰の尽力によって濡れ衣を着せられずにすんだ仁。そのお礼にペニシリンの製法を記した虎の巻を持って「医学館」に訪れた仁だったが、それを渡された多紀は、「しかしこれは仁友堂の秘伝の妙薬では」と、たいそう驚く。この時代、特に漢方医にとっては薬の処方が生命線。他流派には絶対に教えられない秘伝・口伝のものだった。技術を公正に公開し、医療全体の向上に繋げる・・・といった考え方はなかった時代である。仁の行いに対して多紀が驚くのは、当然のことだった。しかし、形は違えど現代でも、新薬保険制度に認定するか否かの判断は、多分に製薬会社と行政の利権が関係している(といわれている)。権力争いにしても利権争いにしても、人命救助や医療向上が二の次になっている状況は、今も昔も変わらないようである。

 前作からここまでドラマを見てきて何となく見えてきたこと。自分が歴史上の人物と関わることで、歴史を変えてしまうかもしれないと懸念する仁だが、今話の最後で坂本龍馬薩長同盟を模索し始めたところを見ても、どうやら歴史の大筋は正しい方向へ進んでいるようである。考えて見れば、今話で助けた皇女・和宮も、1話で助けた西郷隆盛も、史実でいえばまだ死んではいけない人物である。逆に前作の緒方洪庵や1話での佐久間象山など、歴史上そこで死ぬべき人物は助けることは出来なかった。歴史は狂ってはいない・・・というよりも、西郷や和宮の例でみれば、狂い始めた歴史を軌道修正しているようにも思える。そのあたりが、今後の物語の展開の重要なポイントのように思えるが、いかがなものだろう。原作の漫画を読んでいないので、的外れな見方だったらゴメンナサイ。


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by sakanoueno-kumo | 2011-05-04 21:28 | その他ドラマ | Trackback(2) | Comments(2)