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江~姫たちの戦国~ 第24話「利休切腹」

 天正19年(1591年)1月22日、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長が病没した。秀長は、秀吉が木下藤吉郎と名乗っていた時代から兄の片腕として働き、秀吉が天下人となってからは、陰から豊臣政権を支えた。そんな秀長を、秀吉は誰よりも信頼していたという。まさに、「縁の下の力持ち」という言葉が相応しい人物だった。秀長は兄以上に千利休との親交も深く、「公儀のことは秀長、内々のことは宗易(利休)」という言葉からも伺えるように、豊臣政権下、豊臣秀長と千利休はまさに豊臣政権という車の両輪だった。特に秀長の場合、ときにはブレーキ役でもあっただろう。そんな秀長の死に伴って、豊臣政権の両輪補佐体制は崩壊、同時にブレーキも失った車は、暴走し始める。

 ドラマでは、秀長の死によって秀吉の愛児・鶴松の病が治ったという話になっていたが、史料によれば鶴松が病になったのは秀長の死の翌月、閏1月3日となっている。鶴松は生まれつき虚弱で、床に伏すことが多かったとか。ただ、このときの病状はよほど深刻だったようで、秀吉は寺社に祈祷を命じ、自らも紫野大徳寺へ参詣している。そのとき、ドラマで石田三成がいっていた、利休の等身大の休像を見つけた。木像は山門の上から見下ろすように置かれており、これに激怒した秀吉は、利休に蟄居を命じた。そして2月28日、秀吉の命により利休は切腹する。享年69歳。その首は、大徳寺山門から引き摺り下ろされて磔にされた木像に踏ませる形で晒されたと伝わる。

 利休が切腹の前日に詠んだといわれる辞世の句。
 人生七十 力囲希咄 吾這寶剣 祖佛共殺 堤る我得具足の一太刀 今此時ぞ天に抛
 意味は・・・難しくて私にはわからない(苦笑)。

 豊臣秀吉が千利休を切腹させたことは歴史上の事実として、過去、多くの小説やドラマで描かれてきた。しかし、その理由については定かではなく、すべては作家独自の想像の世界である。というのも、利休という人物が注目され始めたのは意外にも最近のことで、昭和11年に海音寺潮五郎氏が直木賞を受賞した作品、『天正女合戦』の中で、初めて秀吉との関係が描かれたそうである。現在では、千利休=芸術界の巨人という認識は常識だが、海音寺氏が発掘する以前は、単なる茶坊主としか見られていなかったらしい。この『天正女合戦』の構想をさらに発展させた作品が、昭和15年に刊行された同氏の『茶道太閤記』という作品で、これは秀吉と利休の対立を中心に描かれた物語だそうだが、この作品の連載当時には、「国民的英雄の豊臣秀吉と一茶坊主の千利休を対等の立場で描くとは何事だ!」という批判が多く寄せられたらしい。「千利休英雄説」が定着するまでには、それなりの困難があったようである。

 海音寺氏によって描かれた秀吉と利休の対立の構図は、その後、今東光氏の『お吟さま』野上彌生子氏の『秀吉と利休』井上靖氏の『本覚坊遺文』など、多くの一流作家の作品に継承され、描かれてきた。その中でも、秀吉が利休に切腹を言い渡した理由については様々で、既述した大徳寺木像事件や、二人の茶道に対する考え方の違いからの確執・・・とか、利休が安価の茶器類を高額で売り私腹を肥やしているという疑い・・・とか、利休の政治介入を快く思っていなかった石田三成の陰謀・・・など、どの説にもそれなりの信憑性はあるが、どれも決定力に欠ける。のちの朝鮮出兵豊臣秀次を切腹させた秀吉の愚行からみて、利休の切腹が秀吉の狂気の狼煙のように描かれる場合が多いが、はたしてそうだったのだろうか。秀長の死から2ヵ月余りで、もうひとりの補佐役であったはずの利休を死罪に追いやるには、もっと重大な、死罪に値する理由があったのでは・・・と考えたりもする(たとえば、予てから秀吉に憤懣を抱いていた利休が、秀長が死んだことによって豊臣政権を見限り、諸大名を扇動して謀反を企てていた・・・とか)。利休の切腹は秀吉の狂気だったのか、はたまた、やむを得ない死罪だったのかは今となってはわからないが、いずれにしても、秀長と利休という両輪を短期間で失った秀吉は、孤独な独裁者となっていった。

 「甘いことしか言わん者より、耳に痛いことを言うてくれる者を、信じるんじゃぞ・・・」
 秀長が死に際にいった忠告は、秀吉には届かなかった。いや、届いていたけど、秀吉の関白としての意地が、それを許さなかったのかもしれない。人間、歳をとればとるほど、上にいけばいくほど、耳に痛いことをいってくれる者はいなくなる。それは、現代に生きる私たちとて同じである。利休の死を最も惜しんだのは、切腹を命じた秀吉自身だったのではないだろうか。


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by sakanoueno-kumo | 2011-06-30 01:18 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(1) | Comments(8)  

JIN -仁-(完結編) 第11話(最終章・後編)

 毎週、起稿してきたドラマ「JIN-仁-(完結編)」の鑑賞記。最終回を観終え、あまりの感動のため言葉を失った。私がここで何をいっても安っぽい言葉にしか聞こえず、感動を表す文章が見当たらないまま今日まで起稿が遅れた。人間、想像以上の感動を覚えると、言葉を失うようである。しかし、咲の手紙ではないが、この思いを忘れないように、やはり書き留めておきたいと思う。ゆえに、稚文、乱文はご容赦いただきたい。

 まず始めに、「結末は映画にて・・・」なんて終わり方ではなく、ちゃんと完結させてくれたことに感謝したい。結末は、村上もとか氏の原作とは違っていたそうだが、原作を知らない私としては、充分に満足いく結末だった。原作を知っている人の感想では、不満の声が聞かれるようだが、おそらく私がこのあと原作を読んだとしても、きっとドラマの結末のほうが良かったと思うだろう。原作には原作の良さがあり、ドラマにはドラマの上手さがあり、要は、どちらを先に見たか・・・ではないだろうか。私にとっては、このドラマの結末が、この物語の結末になった。

 彰義隊とは、徳川慶喜側近の旧幕臣を中心として結成した有志隊。「鳥羽・伏見の戦い」に敗れた慶喜は、江戸城に戻ると朝廷に対して恭順謹慎を表した。その慶喜の護衛江戸警備の名目で結成されたのが彰義隊である。頭取には渋沢成一郎、副頭取には天野八郎が投票によって選出され、幹事には本多敏三郎伴門五郎が就いた。隊士には旧幕臣のみならず、町人や博徒侠客も参加し、千人を越える規模になった。

 慶応4年(1868年)4月11日、新政府軍の参謀・西郷隆盛と、旧幕府軍の陸軍総裁・勝海舟との歴史的会談が行われ、江戸城は無血開城されることになり、慶喜も水戸に謹慎することで決着。しかし、それに不満を持った彰義隊は、徹底抗戦を主張。上野寛永寺に立てこもり、江戸の各地において新政府軍と衝突を起こす。そしてとうとう5月15日、上野に結集した彰義隊3千人に対して、新政府軍2万人が総攻撃を開始。その圧倒的な戦力の差から、開戦から1日も経たずに彰義隊は壊滅した。旧幕臣の彼らにとっては、結末は最初からわかっていた、いってみれば、死に場所を求めた決起だったのだろう。橘恭太郎が参戦した上野戦争というのは、そういった戦だった。

 「くだらぬ私が、ただ一つ誇れることがあるとするならば、それは最後まで、徳川の家臣として忠節を尽くしたということのみでございます。」
 そんな恭太郎の言葉に、ひとつだけ大きな勘違いをしていると諭す南方仁
 「恭太郎さんが命がけで守ってきたのは、徳川じゃなく、橘の家なんじゃないですか?」・・・と。

 江戸期の封建社会に生きる武士たちにとって、最も大切なものは、“家名”だった。その家名を汚すことないよう努め、家名を絶やすことのないよう家族、親族を大切にした。昭和期、民主主義社会となった日本は、高度経済成長を経て核家族化が進み、平成の現代では少子化未婚化が社会問題となっている。人は就きたい職業に就くことができ、住みたい場所に住めるようになった。一方で、親戚づきあいなどを疎んじ、家族を持つことさえ煩わしいといった人間が増えた。はたしてどちらが人間らしい社会なのだろう・・・。そんなことを考えさせられた、仁先生の言葉だった。

 それにしても、ときどきしか出てこなかったにも関わらず、強い印象を残してくれたのは、恭太郎と咲の母、気丈な母親像。子どもの前では決して弱音を吐かず、溢れんばかりの愛情を注ぎながらも決して甘やかさない。おそらく、武家の母親というのは、きっと栄のような人が殆どだったのだろう。私が思うに、昭和期にはまだ栄のような母親がたくさんいたように思う。平成の現代の、モンスターペアレントといわれる自己中心的な母親や、行き過ぎた愛情で過保護な母親、逆に子どもに愛情を持てずに虐待育児放棄を繰り返す幼稚な母親などが、なぜ増えてきたのだろう・・・と考えたときに、これも、核家族化などの進歩による弊害といえるかもしれない。坂本龍馬たちの奔走によって自由を手に入れた私たちは、大切な何かを忘れてきたようである。

 「戻るぜよ・・・あん世界へ!」
 全編を通して流れていた龍馬のこの言葉は、銃弾を受けた傷口から緑膿菌に感染したを救うための言葉だった。その声に導かれるように、元の世に戻った仁。そして、前編の第1話に繋がる。咲を救うために必要なホスミシンという薬を取りに、一旦、平成の世に戻った仁だったが、そうなれば当然、6年前と同じことが繰り返されるわけで、非常階段から落ちてタイムスリップしたのは、6年前の仁のほうだった。行き先はおそらく文久2年(1862年)、過去から戻ってきた仁が再び、生死をさまよう咲が待つ慶応4年(1868年)に戻ることはなかった。

 ここからは、答え合わせのストーリー。仁がタイムスリップした世界はパラレルワールド(平行世界)で、少しずつ違った時間軸の歴史に飛んだ、無限ループだったんじゃないかと。胎児性腫瘍の正体はバニシング・ツインといわれるもので、龍馬の声が聞こえた理由は、仁が龍馬の血を浴びたことで、その胎児性腫瘍に龍馬の人格が移った・・・と。しかし、これらはすべて、無理矢理科学的に理由付けしただけに過ぎず、本当のことはわからない。ただ、ひとつだけわかっているのは、仁が戻ってきた世界は、仁がタイムスリップしたことによって修正された世界で、仁が生きた歴史の延長線上にあること。だから当然、仁の元恋人の友永未来の存在もなかった。

 仁友堂の存在など、仁が幕末の時代に生きた痕跡は残されていたものの、幕末の歴史上に南方仁という存在は消えていた。すべては無に帰した・・・まるで夢を見ていたかのような虚しい結末・・・と思いきや、その虚しさは、橘家の子孫だと思われる女性・橘未来との出会いによって救われる。そこで知ったのは、仁が現代に取りにかえったホスミシンという薬が、何らかのかたちで恭太郎の手にわたり、咲が助かったこと。その後、咲は橘醫院を設立し、女医として天寿を全うしたこと。仁が龍馬に助言した保険制度の確立に、恭太郎が尽力したこと。そして何よりも感動したのは、野風が生んだ女児・安寿を、野風の死後、咲が養女として育て、その末裔が橘未来という女性であり、仁とめぐり合ったこと。
 「ずっと、あなたを待っていた気がします。」
 自分の子孫が未来で仁とめぐり合うことを願っていた野風の思いと、仁を想い続けたまま添い遂げることはなかった咲の想いと、幕末に心を置いたまま現代に戻ってしまった仁とが、ここに、歴史という一本の線で結ばれた。この結末はおそらく原作とは違ったものだろうと思うが、私は、このストーリーを考えた作家さんに感謝したい。

 そう、歴史とは、一本の太い線だと私は思う。学校の授業で習った歴史や史実といわれるものは、所詮は歴史の断片に過ぎない。学術的には、鎌倉時代室町時代江戸時代と、その節目節目でわかりやすく色分けしているが、実際の歴史というものは、そうやって簡単に区分できるものではなく、その時代に生きたすべての人の数だけ歴史があり、その人々の思いが次世代へと引き継がれ、かたちを変え、現代の私たちに繋がっている。野風と咲の思いが仁と繋がったように、私たちが先祖から受け継いだものは、単に遺伝子だけではなく、彼らが未来に託した“心”を受け継いでいるのである。歴史とは、“心の継承の足跡”といってもいい。そんな当たり前のことを、教えてくれた物語だった。このドラマを、歴史スペクタルと見るか、医療ドラマと見るか、SFファンタジーと見るかは様々だと思うが、私にとっては、まぎれもなく歴史ドラマだった。

 最後に、この物語のすべてだといってもいい、第1話冒頭のナレーションを記したい。このナレーションは、前偏後編では少し違っている。前偏では、詠み人は仁の元恋人・友永未来だった。

私たちは当り前だと思っている。
思い立てば地球の裏側でも行けることを。
いつでも想いを伝えることができることを。
平凡だが満ち足りた日々が続くであろうことを。
昼も夜も忘れてしまったかのような世界を。
でも、もしある日突然、その全てを失ってしまったら、鳥のような自由を、満たされた生活を、明るい夜空を、失ってしまったら。
闇ばかりの夜に、たった一人放り込まれてしまったら。
あなたはそこで光を見つけることができるだろうか。
その光をつかもうとするだろうか。
それとも、光なき世界に、光を与えようとするだろうか。
あなたのその手で。


 そして完結編の1話では、詠み人は仁に変わり、未来の問いかけに答えた連歌のように語る。

僕たちは当たり前だと思っている。
思い立てば地球の裏側に行けることを。
いつでも想いを伝えることができることを。
平凡だが満ち足りた日々が続くであろうことを。
昼も夜も忘れてしまった世界を。
けれど、それはすべて与えられたものだ。
誰もが歴史の中で戦い、もがき苦しみ、命を落とし、生き抜き、勝ち取ってきた結晶だ。
だから僕たちは、更なる光を与えなくてはならない。
僕たちのこの手で・・・。


 そして最終回のラストシーン咲の残した手紙を読んだ仁は、こう心に誓った。

この思いをいつまでも忘れまい、と思った。
けれど、俺の記憶もまた、全て、時の狭間に消えていくのかもしれない。
歴史の「修正力」によって・・・。
それでも、俺はもう忘れることはないだろう。
この日の美しさを。
当たり前のこの世界は、誰もが戦い、もがき苦しみ、命を落とし、勝ち取ってきた、無数の奇跡によって編み上げられていることを。
俺は忘れないだろう。
そして、新たな光を与えよう。
今度は、俺が未来のために、この手で・・・。
 

 未来の歴史は、私たちの手で作っていかねばならない・・・。まさしく、戦後最大の国難といわれる、今の日本に相応しい言葉かもしれない。でも、きっと明るい未来は訪れる。
神は乗り越えられる試練しか与えない・・・のだから・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2011-06-28 15:44 | その他ドラマ | Trackback(4) | Comments(2)  

ホリエモンこと堀江貴文受刑者の収監に思う。

一時は“時代の寵児”などともてはやされた、ホリエモンこと堀江貴文元ライブドア社長が収監されましたね。
これにより、堀江被告から堀江受刑者となり、2年6ヵ月の臭い飯を食うことになります。
一方で、相変わらず熱烈なホリエモンファンが多いようで、収監前の記者団の取材やインタビューやらでかなり盛り上がっていたようです。
「人生をリセットして見つめ直す。」
そんなコメントを残して出頭した堀江受刑者ですが、出頭する出で立ちはモヒカン頭で、Tシャツには“Go to Jail(刑務所に入れ)”という文字と、過去、粉飾決算などの問題があった企業のロゴを印刷するなど、見つめ直す姿勢など微塵にも感じられない悪ノリぶりでした。
考えてみれば、彼の名が一躍有名になったプロ野球・近鉄バファローズ買収劇の折り、GパンとTシャツ姿で記者会見に臨んで世間からバッシングを受けた頃と、何も変わっていないようです。
マスコミにしてみれば、最後まで注目を集めるパフォーマンスをしてくれてありがとう・・・といったところでしょうか。

それにしても、ホリエモン人気というのは特に若い人の間では今も健在のようで、4月の実刑確定後も、彼を擁護する人たちの声があとを絶たなかったようです。
たしかに頭のいい男で弁もたちますから、TVに彼の姿を見かけると、「こいつ、何を喋るんだろう」と、ついついチャンネルを止めて観たくなる気持ちは、私も同じでした。
でも、彼を支持する人たちがいうようなカリスマ人物とは思えないんですよね。
彼の人気というのは、おそらく、プロ野球への新規参入をめぐる、いわゆる“守旧派”との争いや、ニッポン放送買収問題のときのフジテレビとの争いなど、彼の怖いもの知らずの攻撃的な生き方に、「旧来の悪しき慣習と闘う新鋭の実業家」という虚像を見ていただけのように思います。

当時、彼を「起業家」「実業家」と位置付けて、孫正義氏や三木谷浩史氏と同格扱いする向きがありましたが、私の思うホリエモンは、後者の二人には程遠い、単なるマネーゲーム屋「究極の成金」としか写りませんでした。
単なるパソコンオタクの学生の企業ごっこが、折しもインターネットの黎明期という時代背景に乗っかって、巨万の富を得てしまった・・・。
ところが、もともと社会経験のない子どもだからその富をどう活用していいかわからず、バーチャルゲームのように企業買収ごっこを繰り返していた・・・そんなところだったんじゃないでしょうか。
貧乏人が宝くじを当てると、人格がかわって人生を狂わす・・・なんていいますが、それの超大型版のようなもので・・・。
まあ、ニッポン放送の買収劇は、野次馬の私たちには面白かったですけどね。
株をしない私は、「時間外取引」なんてものの存在も知りませんでしたし、分刻みで買収されていく推移の報道などは、安物の映画を観るより見応えがありました。

「起業家」「実業家」というのは、“仕事”を生み出し、“需要”を作り出すことが出来る人のことを、そう呼ぶのだと思います。
その意味では、ホリエモンが何か新しいものを作り出したり生み出したりしたとは、とても思えません(そういった批判を避けるために、宇宙開発事業などを始めたりはしていましたが、本気で取り組んでいたとはとても思えず・・・)。
彼がやってき“仕事”というのは、赤字続きのポータルサイト・ライブドアを、表面上利益を生んでいるように見せるために、株式分割企業買収を繰り返すことで帳簿上の利益を出して、また新しい出資者を得て株価を上げるという、いってみれば豊田商事のような詐欺まがいの手法で成長していっただけで・・・。
業を起こした、業を実らせた人とは、とても言い難いのではないでしょうか。

日本の社会というのは根本的に「出る杭は打たれる」社会で、新しい才能が生まれ難い社会・・・などとよくいわれますが、正しくは、「分不相応な出る杭は打たれる」社会だと私は思います。
誰もが認める有能な出る杭は、決して打たれたりはしません。
つまり、まがい物は通用しない、本物志向の国民性ということで、その精神が、世界に誇れる技術大国日本を作り出したといえるのではないでしょうか。
その意味で、「分不相応な出る杭」だったホリエモン。
今回の証券取引法違反という罪がなくとも、遅かれ早かれ、失脚は避けられない結末だったんじゃないでしょうか。

ところで、ライブドアの粉飾決算事件によって株価が下落したとして、株主らがLDH(旧ライブドア)やホリエモンらを相手に損害賠償を求めた訴訟は、概ね和解が成立しているそうですね。
なんでも、その和解金は208億円だとか・・・。
貧乏人には見当もつきません(苦笑)。
今回の収監前のパフォーマンスを、「被害者心理を逆撫でした行為」と批判する声もありましたが、とりあえずは和解しているということで、「立つ鳥跡を濁さず」ということは知っていたようです。
本来頭のいい男だとは思いますから、人生をリセットして見つめ直したのち、どういった姿を見せてくれるか、楽しみにしたいと思います。
今度は、「打たれない出る杭」としての復活を期待します。


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by sakanoueno-kumo | 2011-06-22 20:50 | 時事問題 | Trackback(1) | Comments(0)  

JIN -仁-(完結編) 第10話(最終章・前編)

 坂本龍馬暗殺予定日の慶応3年(1867年)11月15日になって、ようやく龍馬と会うことができた南方仁は、龍馬を助けるべく居場所を四条・近江屋から伏見・寺田屋に移したものの、日が変わった16日未明、龍馬は史実通りに前頭部を横に斬られて倒れる。しかし、史実とは違って龍馬を斬った人物は、龍馬の護衛に付いていた長州藩士・東修介(架空の人物)だった。
 「私の兄は貴方に切られたんです。貴方が久坂さんと会った帰りに。貴方は私の敵なんです。そのつもりで貴方に近づきました。」

 この時代、仇討(敵討)合法な行為だった。武士階級のみに許されたもので、範囲は父母や兄など尊属の親族が殺害された場合に限られ、卑属(妻子や弟・妹を含む)に対するものは基本的に認められない。その仇討をした相手に対して復讐をする重仇討は禁止されていた。本来は仇討をする場合、主君の免状を受け、他国へわたる場合には奉行所への届出が必要で、町奉行所の敵討帳に記載され、謄本を受け取るという手続きが必要。しかし、無許可であっても、現地の役人が調査して仇討であると認められれば、大目に見られ、場合によっては賞賛された。逆に父母や兄が殺されたにも関わらず仇討しないことは武士として恥ずべきことで、場合によっては家名お取り潰しになったりもした。

 つまり、東の龍馬に対する仇討の企ては、逆恨みでも何でもなく、武士として当然の、あるべき姿だったのである。仇討のために龍馬に近づくも、龍馬の考え方に感銘し、尊敬すらし始めていた東。しかし、仇討を断念するは武士の恥。そんな葛藤に苦しんでいた東だったのだろう。
 「私の兄は志士で、やはり志半ばで倒れました。兄の代わりに果たしたいことがひとつあったのですが、坂本さんの大政奉還の建白を読んだ時に、もう良いのではないかと思ったのです。」
 前話でそう言っていた東が、この局面で龍馬に刃を向けたのは、武士の誉である仇討だったのか、それとも、咲が言うように龍馬の生き方を守るためだったのか・・・。

 これより6年後の明治6年(1873年)、明治政府の司法卿・江藤新平らによる司法制度の整備により、仇討は禁止される。それ以後、当然だが現在でも仇討は許されていない。しかし、肉親や大切な人が殺害された場合、その相手を殺したいほど憎む思いは今も同じだろう(肉親を殺された経験はないが)。現代の、どれだけ凶悪な殺人鬼であっても人権が守られる法制度が、果たして正しいものなのだろうか・・・なんて、昨今の裁判の報道などを見てときどき思ったりする。昔のほうが、被害者に優しい血の通った秩序だったんじゃないかと・・・。

 仁先生たちの懸命な治療により、一時的に意識を取り戻した龍馬と仁先生の会話。
 「先生には、この時代はどう見えたがじゃ?愚かなことも山ほどあったろう?」
 「教わる事だらけでした。未来は夜でもそこらじゅうで灯りがついていて、昼みたいに歩けるんです。でも、ここでは提灯を提げないと夜も歩くこともできないし、提灯の火が消えたら、誰かに貰わなきゃいけなくて・・・。一人で生きていけるなんて、文明が作った幻想だなあとか。離れてしまったら、手紙しか頼る方法ないし、ちゃんと届いたかどうかもわからないし・・・。人生って、ホント、一期一会だなあとか・・・。あと、笑った人が多いです。ここの人たちは、笑うのが上手です。」

 文明ってなんだろう・・・と、私もときどき思う。不便を便利にするために発達した文明に、結局私たちは縛られている。携帯電話なんてなかった十数年前までは、相手とすぐに連絡が取れないことが当たり前だった。今は、携帯が繋がらないと、私も含め人はすぐにイライラする。休日でも出先でも、いつでもつかまえられることが当たり前。逆に自分もつかまえてもらう体勢でいなければ、相手に不快感を与えてしまう。便利であるはずの文明に、縛られている。原発が止まって電力が滞ると、都市機能は麻痺し、経済すら滞る。提灯から提灯へ火を譲ったように、電力を国民皆で分け合わなければならない今、人々はそれぞれの立場で好き勝手なことを言い、混沌とした政治はこの期に及んでまだ国民の側を向うとしない。文明って、本当に人を幸せにしたのだろうか・・・と。

 「先生・・・わしゃ、先生の生まれた国を作れたかのぉ?・・・先生のように、優しゅうて、馬鹿正直な人間が、笑うて生きていける国を・・・。」

 坂本龍馬たち幕末の志士たちが命を賭けて目指した未来の国家像は、今のようなものだったのだろうか・・・。もし、彼らが現代の日本と日本人の姿を見たら、どう思うだろうか・・・。

 「こりゃぁ、もういっぺん日本を洗濯する必要がありそうじゃき!」
 そんな龍馬の言葉が聞こえてきそうだ。


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by sakanoueno-kumo | 2011-06-21 19:12 | その他ドラマ | Trackback(3) | Comments(3)  

江~姫たちの戦国~ 第23話「人質秀忠」

 豊臣秀吉は、徳川家康を通じて北条氏政北条氏直父子に対し再三上洛を求めていたが、北条氏は一向に従おうとしなかった。徳川氏と北条氏は、家康の次女の督姫を氏直に嫁がせ、同盟関係にあった。天正16年(1588年)、九州平定を終えた秀吉は後陽成天皇聚楽第に招き、諸大名の起請文をとった。これが北条氏への圧力となり、同年8月22日に北条氏規(氏政の弟)が上洛し、秀吉の謁見をうけた。氏規は懸案の上野沼田領問題が解決すれば、兄氏政も上京するといい、秀吉はともかく氏政を上京させよと要求した。沼田領問題とは、徳川・北条の両氏が和議した際、沼田領は北条氏の所領にすると決まっていたものを、家康家臣の信濃上田城を本拠とする真田昌幸が、沼田城の対岸には先祖代々の墓があるという理由で、この地から手を引かず、両者の間でもめていた問題のこと。このとき秀吉は、沼田領の三分の二を北条氏の領地とし、名胡桃(なぐるみ)の地は真田氏のものとすると裁定した。

 ところが翌年の天正17年(1589年)10月、沼田城の北条勢が、真田領の名胡桃城を攻略してしまう。これを聞いた秀吉は豊臣政権への反逆と見なし、11月、家康を通じて最後通達を氏直に送りつけた。これを受けた氏直は地位の確保・上洛の延期など強気な態度を示した。名胡桃城攻略は、秀吉が発した「惣無事令」に背いており、北条征伐の大義名分となる。もはや豊臣政権と北条氏の激突は避けられない状況にあった。

 そんな緊迫した状況下の天正18年(1590年)1月、家康の三男・徳川秀忠(竹千代)が上洛した。理由はドラマのとおり、北条征伐の準備が着々と進むなか、徳川家は娘の督姫を嫁がせるなど北条氏と同盟関係にあったため、豊臣家に誠意を見せるため、いわば“人質”として送り出されたもの。秀忠は、井伊直政酒井忠世内藤清成青山忠成を共に1月3日に駿府を立ち、13日に入京。その翌日の14日には、秀吉の実妹で家康の継室だった朝日姫が聚楽第にて病没しているので、ドラマのように臨終に立ち会ったかもしれない。その翌日の15日に、秀忠の元服の儀が行われたのもドラマのとおり。このとき秀吉の実母・大政所が直々に秀忠の髪を結ったというのも実話である。娘の死の悲しみも覚めやらぬ翌日に、政治的大役を任された大政所の心中は、どのような思いだっただろうか。

 この秀忠の上洛は、結局5日間という短さだった。秀吉にしてみれば、家康の誠意さえ確認できれば十分、秀忠を無事に帰国させることで、自身の心の広さを諸大名に知らしめることのほうが、この場合、効果的だったのだろう。家康も、そんな秀吉の性格をわかった上での秀忠上洛だったのかもしれない。5日間だけの人質・・・まさに、ドラマ中の秀忠の台詞どおり、「猿芝居」だった。

 めずらしく通説どおりの展開だった今話だが、ただ1点違うのは、肝心のお江は、この時期すでに豊臣秀勝再婚していたと思われる。したがって朝日姫の臨終に立ちあってもいなければ、秀忠と出会うこともなかった。このとき、お江17歳、秀忠11歳。二人が夫婦となるのはこの5年後、お江22歳、秀忠16歳のときである。一般に、温厚で従順な人物だったと伝わる秀忠だが、ドラマでの秀忠は、言いたいことをズケズケと口に出す少々弄れた男のようだ。お互いの第一印象は良くなさそうなお江と秀忠。今後の展開を楽しみにしたい。

 2月10日、北条征伐の先鋒を命じられた徳川家康は2万5千の東海道軍を率いて駿府城を出発、上杉景勝前田利家も東海道軍と連携する形で信濃から北条領国へ進行した。3月には秀吉自身も聚楽第を出陣、20日に駿河で家康と合流し、29日には松田康長山中城豊臣秀次率いる2万の軍勢で攻め掛かり落城、その後、足柄城・新城など次々に落城させ、小田原城包囲の体制を整えるべく石垣山に城を築いて本陣とした。

 有名な「小田原の一夜城」として知られる石垣山城は、小田原城を眼下に見下ろす笠懸山の上に、約80日間で築かれたと伝えられる。その名の通り石垣を用いた本格的な城で、本丸、二の丸、西曲輪、馬出し曲輪などを備えていたという。ただし、天守閣まであったかどうかは定かではない。秀吉は小田原城攻めを急がず、余裕を見せつけるかのように、千利休淀殿ら愛妾を呼んで大茶会などを連日開いた。一方、上杉・前田の北陸軍も各諸城を撃破し、5月には河越城鉢形城が落城した。5月24日には氏規の韮山城も落ち、北条方の主要な支城は落城した。援軍も望めず孤立した小田原城中の籠城兵は、石垣山城を眼前に豊臣勢の強大さを思い知らされ、なし崩し的に内部崩壊。7月6日ついに小田原城は開城し、氏政・氏照兄弟は切腹、氏直は家康の嘆願もあり高野山へ送られた。これにより、北条早雲以来、五代・百年に渡って関東に覇を唱えた北条氏は滅んだ。

 ここに、豊臣秀吉の天下統一は完全なものとなった。しかし、磐石なものとはならなかったことは、後世の知るところである。


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by sakanoueno-kumo | 2011-06-20 17:50 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(3) | Comments(2)  

岩瀬仁紀投手に日本記録達成にみる、先駆者・江夏豊投手の存在。

中日ドラゴンズ岩瀬仁紀投手が、通算287セーブ日本最多記録を達成しました。
プロ13年目、通算705試合目の登板での記録達成だそうです。
前記録保持者は、元ヤクルトスワローズのストッパー・高津臣吾投手。
ただ、これはあくまでNPB(日本プロ野球)での数字で、高津投手は途中MLB(メジャーリーグ)でも27セーブ、日本球界引退後はKBO(韓国野球)でも8セーブ、CPBL(台湾野球)でも26セーブを記録していますので、通算でいえば347セーブになります。
その上には、元横浜ベイスターズ佐々木主浩投手が、NPBで252セーブ、MLBで129セーブの、日米通算381セーブという驚異的記録があります。
特に佐々木投手の場合、横浜ベイスターズとシアトルマリナーズという、いってみれば弱小チームに在籍し、ストッパーは基本的にリードした展開でしか登板しないということを考えれば、彼の記録がいかにスゴイかがわかります(実際に登板試合数は、岩瀬投手や高津投手より少ない、667試合)。
いや、別に岩瀬投手の記録に文句をいうつもりじゃないですけどね。
ただ、「次は前人未到の300セーブだ!」なんて新聞記事を見ると、なんだかなぁ・・・と。

上記の3人や、現在、阪神タイガースで活躍中の藤川球児投手などは、比較的若い時期からストッパー(クローザーともいいますね)のポジションを務めていますが、一昔前までは“抑え投手”というと、先発で通用しなくなった投手のポジションという観が否めませんでした。
そのため活躍年数も少なく、当然、彼らのような記録の達成は不可能だったわけです。
もっと昔でいうと、“抑え投手”という考え方自体が存在せず、先発投手が崩れたあとは、後ろへ行けば行くほど質が下がっていったもの。
そんな日本のプロ野球界に、最初に“抑え投手”のシステムを確立したのは、かの野村克也氏、そして江夏豊投手でした。

江夏豊投手といえば、阪神タイガース時代、2度の最多勝利と5度の最多完封勝利、6年連続の最多奪三振と、まさに球界のエース的存在でした(たしか、20世紀のベストナインにも選ばれていましたよね)。
そんな彼でしたが、30歳が見え始めたあたりから肘・肩の故障に苦しみ、成績は下降、南海ホークスに移った1年目も、血行障害心臓疾患などで長いイニングを投げられず、思うような成績が残せませんでした。
そこに目をつけたのが、当時、南海ホークスのプレイングマネージャーだった野村克也氏。
衰えたとはいえ抜群の制球力は健在で、短いイニングならまだまだ通用すると考えた野村監督は、何度も江夏投手にリリーフへの転向を打診したそうです。

当時、既にメジャーリーグではストッパーという役割が出来始めていたそうですが、日本のプロ野球には、“八時半の男”といわれたリリーフ(救援投手)はあったものの、先発投手に比べてリリーフ投手の地位は低く、ストッパーという役割も認知されていませんでした。
そのため、プライドの高い江夏投手は、頑なに拒み続けていたそうです。
そんな江夏投手の心を動かした野村監督の言葉。
「大リーグのように、これからのピッチャーは、絶対に分業制になる。おまえは、リリーフの分野で先駆者として、日本の野球に革命を起こしてみんか。」
この、“革命”という言葉に江夏投手はたいそう感動したそうで、リリーフ転向を決意、その後、日本ハムファイターズ広島東洋カープと渡り歩き、5度のセーブ王、2度のMVPに輝き、通算193セーブをあげ、日ハムと広島では優勝にも貢献、“優勝請負人”とも呼ばれました。
野村監督の言葉は、まさに“殺し文句”だったわけですね。

リリーフエース江夏の成功によって、各球団とも次々にストッパー制度を導入していきましたが、当時の日本にはリリーフ専門投手の調整法というものが確立されておらず、ずっとベンチに座って待機していることが腰痛持ちの江夏投手には辛かったことから、メジャーリーグでのリリーフ投手の調整法などを独自に調べ、自己流の調整を始めたそうです。
試合が始まっても5回までベンチに入らず、ロッカールームでマッサージを受けたり睡眠を取ったりする調整法は、当時チーム内や球界で非難を浴びたとか。
しかし、今日ではこの調整法が、リリーフ投手のコンディション維持方法として定着しているそうです。
やるからには、自分の仕事に誇りを持って臨み、研究し、その先駆者となった江夏豊投手。
野村監督の言葉どおり“革命”を起こしたわけです。
岩瀬投手や高津投手、佐々木投手の活躍も、江夏投手あってのことといっても過言ではないように思います。

江夏豊投手・・・記録にも記憶にも残る、偉大なストッパーです。


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by sakanoueno-kumo | 2011-06-17 17:47 | プロ野球 | Trackback | Comments(4)  

ダルビッシュ有投手の連続イニング無失点記録が46回2/3でストップ!

北海道日本ハムファイターズダルビッシュ有投手が続けていた連続イニング無失点記録が、46回2/3でストップしました。
それも、2死3塁からの“暴投”という、なんとも悔いが残る幕切れ。
この記録はプロ野球歴代11位の記録だそうです。
もっと続くと思ったんですけどねぇ・・・。
無失点記録の凄さもさることながら、圧巻なのは、この46回の間に与えた四球がたったの3つだったこと。
彼ほどの投手から連打というのはそうそう出来るものではなく、四球や失策が絡まないと、なかなか点を取れるものではありません(今回も、センターの糸井嘉男選手の失策がなければ、失点には繋がらなかったかもしれませんね)。
46回で四球が3つという、精密なコントロールを持つダルビッシュ投手の記録の幕切れが“暴投”というのは、なんとも皮肉な結果です。
ちなみに、現役投手の連続イニング無失点記録は、現・阪神タイガースの守護神・藤川球児投手が2006年に記録した47回2/3ですが、藤川投手の記録がストップしたのも、たしか“暴投”だったと記憶しています。
あのときの藤川投手も、打ち崩すのはほぼ不可能といった感があり、やはりこういった記録の幕切れというのは、このような形になるものなんでしょうね。

その藤川球児投手の記録に、あと1イニング及ばなかったダルビッシュ有投手ですが、価値の高さでいうと、ダルビッシュ投手に軍配をあげざるを得ません(阪神ファンの私としては、ほんとうは球児の記録の価値を下げるようなことは言いたくはないのですが・・・)。
クローザーの藤川投手は、この記録に要した試合数は38試合
ほとんどの登板は1イニング限定ですから、ほぼ全力投球で打者と戦います。
一方のダルビッシュ投手は、今回の記録を3試合連続完封を含む6試合で達成しています。
先発投手というのは、最低でも6~7イニングを投げる想定で登板しますから、当然、全打者に対して全力投球とはいかず、ペース配分を考えながらの投球になるわけです。
もちろん、クローザーは連日のように登板しなければならない難しさはあると思いますが、点を与えないのが仕事といってもいいクローザーと、7イニング2~3失点は覚悟して臨む先発投手では、連続イニング無失点を続ける難易度でいえば、明らかに先発投手の方が難しいわけです。

今更私が声を荒らげていうことではありませんが、ダルビッシュ有投手は、間違いなく球史に残る大投手になりましたね。
正直、高校野球やルーキー時代には、これほどの投手になるとは思っていませんでした。
松坂大輔投手の若い頃に比べて、メンタル面の脆さを感じていましたから・・・。
以前の稿でも述べましたが(参照:斎藤佑樹投手の将来性に思う、一流投手の資質の考察。)、私が思う大投手の条件は、身体能力や技術よりも、精神面だと思っています。
調子がいいときにいいピッチングをするのは当たり前、調子が悪いとき、ピンチを背負ったときにどんなピッチングが出来るか・・・が、一流投手の条件だと思うのです。
その面で、少し脆いところがあった若い頃のダルビッシュ投手でしたが、最近でも時々マウンドでイラついてる素振りが見られることもありますが、それ以上に、揺るぎない自信が感じられます。
見ていて、崩れる気がしないですもんね。
今回、記録は途絶えてしまいましたが、現役を続けている限り、また、記録樹立のチャンスがあるんじゃないでしょうか。

ちなみに、連続イニング無失点のプロ野球記録は、通算400勝投手の金田正一投手が1958年にマークした64回1/3
4試合連続を含む5度の完封に加え、4度のリリーフで積み重ねた記録だそうです。
他にもカネやんは、1965年にも42回1/3の連続無失点を記録しているとか。
時代が違うとはいえ、バケモノですね(笑)。
でも、このバケモノのような記録も、ダルビッシュ投手なら決して不可能じゃないような気がします。


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by sakanoueno-kumo | 2011-06-16 16:22 | プロ野球 | Trackback | Comments(0)  

JIN -仁-(完結編) 第9話

何の根拠もないけれど、俺は信じようとしていた。
自分は龍馬さんを救うためにここに来たのだと。
龍馬さんが・・・坂本龍馬が死なない歴史をつくるために、ここにやって来たのだと。
ただ、ひたすらに信じようとしていた。


 坂本龍馬中岡慎太郎暗殺された慶応3年(1867年)11月15日の京都は、朝から雨が降っていたはずだが、ドラマでは晴れていたようだった。仁先生が歴史に関わったことで、天気まで変わってしまったのか?・・・なんて無粋なツッコミはやめて(笑)、歴史の修正力に立ち向うべく龍馬暗殺を阻止しに京に訪れた南方仁先生たち。暗殺予定日になってようやく龍馬と会うことができた仁は、即刻、京を離れることを忠告、居場所を四条・近江屋から伏見・寺田屋に移した。寺田屋に移っても史実どおり軍鶏鍋を食す龍馬。これも、歴史の修正力なのだろうか(笑)。日付が変わって16日となり、ホッと胸を撫で下ろす仁だったが、本当に歴史の修正力というものがはたらくならば、1話の佐久間象山などの例をみても、日付や場所を変えたからといって免れられるものではない。案の定、史実と違ったストーリーで、龍馬も慎太郎も刃に倒れた。

 龍馬暗殺当日の詳細については、昨年の大河ドラマ『龍馬伝』の稿(参照:龍馬伝 第48話(最終回)「龍の魂」)で紹介しているので、そちらを一読ください。また、龍馬暗殺の実行犯および黒幕の諸説についても、以前の稿(参照:坂本龍馬の命日に再考する、龍馬と中岡慎太郎の暗殺犯の諸説。)をよければ・・・。

 それにしても、仁先生は坂本龍馬と一緒に中岡慎太郎も暗殺されるという史実を知らなさそうだ(可哀想な慎太郎・・・笑)。ていうか、中岡慎太郎という人物自体、知らないのでは?・・・と思ったり。まあ、仁先生が歴史オンチだという設定が、この物語の面白さだとは思うが・・・。

 大政奉還後に龍馬が作った新政府人事案に、大政奉還の立役者たる龍馬の名前が記されていないことを不審に思った西郷隆盛が、そのことを龍馬に尋ねると、龍馬は役人をやらずに「世界の海援隊」をやる旨、返答したというエピソード。この話は、司馬遼太郎氏の小説『竜馬がゆく』をはじめ、多くの物語で描かれてきた逸話で、龍馬の魅力を語るに欠かせないエピソードといっていいだろう。ただ、この逸話については、歴史家の間でも実話か否かの様々な論争があるようだ。というのも、この「新官制擬定書」といわれる新政府の人事案の史料は全部で5種類存在し、その中に龍馬の名が記載されているものと記載されていないものがあり、否定派の主張では、龍馬の名が記載されていないものは後世に作られたもので、龍馬には新政府に入る意志があったという。専門家ではない私にはその真偽はわからないが、龍馬ファンの私としては、この「世界の海援隊」説を信じたい。私の思う龍馬ならば、きっと、そう言ったんじゃないかと・・・。

 この西郷との会見に同席していたといわれる、海援隊出身で、のちの明治政府で「カミソリ大臣」として辣腕をふるった外務大臣・陸奥宗光は、このときの龍馬について後年こう語っている。

 「龍馬あらば、今の薩長人などは青菜に塩。維新前、新政府の役割を定めたる際、龍馬は世界の海援隊云々と言へり。此の時、龍馬は西郷より一層大人物のやうに思はれき。」

 このときの龍馬は、西郷よりも一層大人物に思えた・・・と。この談話も陸奥の虚言だといわれれば、反論する材料を私は持ちあわせていないが、明治政府で薩長閥に後塵を拝していた土佐派が、龍馬の虚像を作って政治利用しようとした例とは違い(参照:坂本龍馬の人物像についての考察)、伊藤博文に重用されて外務大臣にまで栄達した陸奥が、龍馬を過大評価して政治利用する理由はどこにもないように思う。さらに陸奥は、このようにも語っている。

 「坂本は近世史上の一大傑物にして、その融通変化の才に富める、その識見、議論の高き、その他人を遊説、感得するの能に富める、同時の人、能く彼の右に出るものあらざりき。後藤伯がその得意の地にありながらその旧敵坂本を求めたるは、もとより彼が常人に卓越したる所以にして坂本と相見たる彼は、さらに坂本の勧誘力に動かされて、まず国内を統一和合して、而して薩長の間に均勢を制せざるべからざるの必要を覚りぬ。
・・・中略・・・
薩長二藩の間を連合せしめ土佐を以て之に加わり、三角同盟を作らんとしたるは坂本の策略にして彼は維新史中の魯粛よりも更に多くの事を為さんとしたるもの也。彼の魯粛は情実、行がかり個人的思想を打破して呉蜀の二帝を同盟せしめたるに止まる、坂本に至りては、一方に於て薩長土の間に蟠りたる恩怨を融解せしめて、幕府に対抗する一大勢力を起こさんとすると同時に直ちに幕府の内閣につき、平和無事の間に政権を京都に奉還せしめ、幕府をして諸候を率いて朝廷に朝し、事実において太政大臣たらしめ、名において緒候を平等の臣族たらしめ、もって無血の革命を遂げんと企てぬ。彼、もとより土佐藩の一浪士のみ」


 めったに人を褒めなかったといわれる陸奥宗光にして、最大級の賛辞である。たしかに、現在私たちが抱いている魅力的な龍馬像というのは、後世に色付けされた部分も多々あるとは思うが、全てを虚像だといってしまうのは、少々、穿ち過ぎではないだろうか。メッキであれば、研究が進むにつれ剥がれるものである。

 さて、ドラマはいよいよ最終章へ。来週、再来週と2話を残すのみとなった。刃に倒れた龍馬を、仁は救うことができるのだろうか・・・。とすれば、龍馬が死なない歴史というのは、どう展開されていくのか・・・。仁がタイムスリップした理由は・・・。あの胎児の真相は・・・。原作を知っている人は、どうか教えないでください(笑)。


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by sakanoueno-kumo | 2011-06-14 00:39 | その他ドラマ | Trackback(3) | Comments(0)  

江~姫たちの戦国~ 第22話「父母の肖像」

 若い頃から多くの美女を閨に侍らせたといわれる豊臣秀吉だが、子宝に恵まれず、最晩年になってようやく淀殿(お茶々)との間に鶴松秀頼を授かった・・・と、多くの物語で描かれている。しかし、実はこれより20年ほど前の長浜城時代に、側室・南殿との間に一男一女がいたという説もある。女児の名は不明だが、男児の名は秀勝。秀勝といっても、その後、お江の2番目の夫となる秀勝(小吉)とは当然違い、織田信長の実子を養子に貰い受けた秀勝(於次丸)とも当然違う。その由来は、琵琶湖上の竹生島にある宝厳寺に伝わる古書「竹生島奉加帳」に、石松丸という男児の名と南殿の記載があり、この石松丸が秀吉の子である秀勝であり、南殿がその生母だと推定されている。ただし、南殿と秀勝(石松丸)の存在が取り沙汰されたのは近代に入ってからのことで、南殿の経歴については全く不明である。その秀勝(石松丸)は、天正四年(1576)に7歳で病没し、長浜城下の妙法寺に埋葬されたと伝わる。

 その話が実話だとしても、その後20年もの間、秀吉は多くの側室を置きながらも実子に恵まれなかったことも事実で、にもかかわらず、淀殿ひとりが二度も妊娠し、長男・鶴松、次男・秀頼の二児を出産したという事実を、訝しいと考えるのも不思議ではない。実際に、この当時にも淀殿の懐妊は秀吉の子種ではないのではないか・・・という噂は存在していたようで、当時キリスト教布教活動のため来日していたポルトガル人の宣教師、ルイス・フロイスがのちに執筆した『日本史』の中にもそういった記述がある。そして、鶴松出産の3ヵ月前には、聚楽第の南鉄門に、こんな落首が貼りだされた。

 大仏の功徳もあれや槍かたな 釘かすがいは 子宝めぐむ
 ささ絶えて茶々生い茂る内野原 今日は傾城 香をきそいける


 つまり、子種がなかったはずの秀吉が、大仏の功徳で子宝に恵まれた・・・と。これに激怒した秀吉は、門番の17人を処刑し、他にも本願寺に逃げた者を捕らえ、関わった者の居宅も焼き払い、総計113人を処罰したと伝わる。門番17人の処刑は、まず鼻をそぎ落とし、翌日には耳をそぎ落とし、さらに翌日には逆さに磔して処刑という、残忍極まりないものだったという。このあたりから、晩年のトチ狂った秀吉の人格が現れはじめたようだ。

 第二子・秀頼についても、巷では「秀頼の実父は秀吉ではない」という噂が蔓延っていたようで、たとえば、山城伏見城外に幽閉されていた李氏朝鮮の文人・姜沆なども、その噂を耳にしたと語っている。つまり、若い淀殿が空閨に耐えられず不倫した結果、生まれたのが鶴松、秀頼だと・・・。今回のドラマの淀殿は、とてもそんな“ふしだら”な女性ではなさそうだが(笑)、多くの物語で描かれているような“悪女”のイメージの淀殿であれば、ない話でもなさそうだ。その真偽はともかく、淀殿の浮気相手と名指しされてきたのは、大野治長木村重成名護屋山三郎という、いずれも戦国時代を代表する美男子3人である。秀吉が生前にこの3人の噂を知っていたかどうかはわからないが、猿顔の、しかも50歳を超えた秀吉にとって、この美男子3人との不倫の噂は、たとえそれが紛れもない嘘であっても、きっと穏やかではいられなかったのではないだろうか。

 今話のタイトルの「父母の肖像」は、高野山の持明院に現在でも残されている。このうち、母・お市の方の肖像は大変素晴らしい仕上がりだとか。絵画作品に添えられた説明文のことを“賛”というが、父・浅井長政の肖像の賛には、この肖像画が「有人(あるひと)」の発意によって制作され、持明院に寄進されたと記されている。確証はないが、この「有人」は淀殿であるとみる説が、今日では有力のようである。秀吉の側室となったのちも、父母の供養に熱心だった淀殿。上記の不倫疑惑でみるような、“悪女”の淀殿とは違った、親思いの心優しい長女・お茶々の姿が、そこには見えるようである。


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by sakanoueno-kumo | 2011-06-13 01:32 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(2) | Comments(6)  

東日本大震災発生から3ヵ月、今、思うこと。

東日本大震災から3ヵ月が経ちました。
「人の噂も七十五日」という言葉もありますが、90日を過ぎた今も、震災の話題が尽きることはありません。
それも当然、出口が見えない福島原発事故放射能漏れ問題をはじめ、今なお10万人近くおられる避難所生活を余儀なくされている方々や、未だ8千人余りいる行方不明者の捜索、被災地の復旧・復興作業に従事する方々など、まだまだ震災は現在進行形だからでしょう。

16年前の阪神・淡路大震災のときは、地震発生から2ヵ月余りが過ぎたとき、東京であのオウム真理教による「地下鉄サリン事件」が起こったため、世間の関心は一斉にそちらに移り、マスコミからも震災の話題がフェードアウトしていきました。
まさに、「人の噂も七十五日」だったと記憶しています。
神戸市民の私は、当時、世間のあまりの変り身の速さに、白々した思いを抱いたものです。
しかし、今、思い返してみれば、あれはあれで良かったんじゃないかと思っています。
あそこからが、本当の復興の始まりだったんじゃないかと・・・。

震災以降、この未曽有の大災害を、決して風化させてはいけない・・・忘れてはいけない・・・といった声を多く耳にします。
たしかに、今後また起こりうる災害に向けての危機管理教訓といった観点でいえば、忘れずに語り継ぎ、風化させない努力が必要でしょう。
しかし、人間、“忘れる”ことも必要なときがあると私は思います。
「のど元過ぎれば熱さ忘れる」なんて言葉もありますが、人は、忘れるから生きていけるともいえるのではないでしょうか。
どんなに辛いことがあっても、その苦しみを忘れることができなければ、立ち上がることはできません。
どんなに大切な人を失っても、いつまでも悲しみに暮れていたら、心が病んでしまうでしょう。
どんなに怖い思いをしても、その恐怖を忘れることができなければ、一生トラウマとなってしまいます。
心が壊れてしまえば、人は生きていけません。

しかし、コンピューターとは違って人間の脳は、“忘れる”ようにできています。
苦しみ、悲しみ、痛み、恐怖、ついでに怒りや憤り・・・こういったネガティブな心も、だんだんと薄れていくようにプログラムされているんですね。
“忘れる”とは、神が人間に与えた、生きていくために必要な能力なんじゃないかと・・・。
“忘れる”ことが、次へのステップに繋がるのではないでしょうか。

とはいえ、この度の危機的状況はあまりにも重く、とてもそんな境地には達せられないというご意見もあろうかと思います。
それも、もっともだと思います。
でも、どこかで忘れなければ、前には進めないと思うのです。

一日も早く、“忘れる”ことができる日が訪れることを、願ってやみません。


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by sakanoueno-kumo | 2011-06-11 01:49 | 時事問題 | Trackback(1) | Comments(3)