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伊良部秀輝投手の訃報に思う、暗い記憶に残る選手。

 プロ野球のロッテ、阪神、米大リーグのヤンキースなどで活躍した伊良部秀輝さんが27日、 自宅のあるカリフォルニア州ロサンゼルス近郊で亡くなったそうです。報道では、自宅で首をつった状態で見つかったと伝えられており、、おそらく自殺とみていいのでしょう。 驚きました・・・。

 伊良部投手といえば、日本プロ野球史上最速の投手は誰か・・・といった議論の際には必ず名前があがる剛速球投手。1993年に記録した158km/hの自己最速の球速記録は、2010年にヤクルトスワローズの由規投手が161km/hを記録するまで、日本人プロ野球最速記録でした。ロッテ在籍時代には最多勝最多奪三振のタイトルも獲得し、西武ライオンズの清原和博選手との対戦は「平成の名勝負」ともうたわれました。ヤンキース移籍初年度は13勝を挙げてチームの世界一に貢献し、日本人選手として初のチャンピオンリングを獲得。まさに、日本プロ野球史を代表する剛腕投手のひとりです。

  

 しかし、そんな輝かしい実績を“明”とすれば、伊良部投手には常に“暗”のイメージが付きまとう人物でもありました。球団フロントとの確執などから突如、FA権のないままメジャー移籍を直訴し、パドレスを巻き込んだ三角トレードの末、ヤンキースに移籍。いってみれば、立つ鳥あとを濁しまくっての移籍でした。念願叶って入団したヤンキースでは、観客から大ブーイングを受けた際にスタンドへ向けてツバを吐くなどの徹底したヒールぶりで、米メディアからは「太ったヒキガエル」と酷評され、日本人ファンからは「日本プロ野球の恥さらし」と呆れられました。他にも、興奮剤を使用したドーピングの疑いや全身にほどこしたといわれる刺青の話題など、野球での実績よりも“負”の面の印象のほうが強いといった観は否めません。

 2003年に阪神ターガースに入団し、6年ぶりに日本球界に復帰。13勝をあげ、阪神の18年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献しました。私たち阪神ファンは当時、伊良部投手より1歳年上で同時期に阪神に来た金本知憲選手、下柳剛投手とともに、優勝請負人と評して喝采を送りました。全盛期ほどの球速はなかったものの、若い頃の伊良部投手には見られなかったクレバーなピッチングを見せてくれましたね。しかし、残念ながら翌年以降は振るわず2005年に引退。その後、アメリカ独立リーグ四国アイランドリーグに入団したという話題もありましたが、それよりも大きく聞こえてくるのは、事業の失敗や酒場での暴力事件の報道、飲酒運転で逮捕されたという報道など、やはり“負”の面の話題ばかり。金本選手や下柳投手が今も阪神で活躍していることを思えば、「伊良部はいったい何やってんねん!」といった怒声が、阪神ファンの間で起こったのも無理もないでしょう。

 そんな“悪童”ともいえる彼の生き方は、彼の“暗い生い立ち”からくるものもあったでしょう。彼は父親が沖縄駐留のアメリカ人で、しかも幼少期に父親から捨てられるという経験をしており、ヤンキースでの数々の奇行は、アメリカに住む父親に向けてのパフォーマンスだったと当時語っていました。そんな幼少期の経験が、世の中に背を向けた彼の喧嘩腰のスタイルを作っていたのかもしれません。他人に対して、強い不信感を常に持って生きていたのかもしれませんね。しかし、似たような境遇でいえば、同じく沖縄県出身で元・阪神タイガースの仲田幸司投手も同じで、彼の場合はそんな理由で小学校を留年したため虐めにあうなど、もっと暗い幼少期を過ごしたといいます。しかし、仲田投手はそんな自身の境遇に腐ることなく、プロ野球入団後は持ち前の明るさでチームメイトから親しまれ、阪神ファンからも愛されました。伊良部投手の生い立ちには同情はできるものの、だからといって、その後の生き方を理解できるものではありません。今から思えば、伊良部投手の数々の奇行、愚行は、“心の弱さ”からくるものだったのでしょうね。

 その“心の弱さ”からか、42歳という若さで自らこの世を去った伊良部秀輝さん。よく、「記録より記憶に残る選手になれ!」などといわれますが、ある意味、記憶に残る選手ではあったと思います。ただ、このような最後の暗い記憶の残り方は、彼としても本意ではなかったでしょうね。

 謹んで、ご冥福をお祈りします。



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by sakanoueno-kumo | 2011-07-29 20:25 | プロ野球 | Trackback | Comments(6)  

「地デジ化」完了に見る、切り捨てられていく過去。

e0158128_20393968.jpg「地デジ化」こと、地上波デジタルテレビ放送への完全移行が完了しましたね。
これにより、1953年(昭和28年)に始まったアナログテレビ放送は、58年間の歴史に終止符を打ちました。
この移行は、おそらく放送にたずさわる業界の方々にとっては歴史的なことなんでしょうが、私のような一般ピーポーにとっては、テレビを観ることに変わりはなく、特に大騒ぎするようなこともありません。
むしろ、まだまだ使えるテレビと録画機を問答無用で買い換えさせられて、迷惑千万な話とでもいいますか・・・。
まあ、チューナーだけを買って古いテレビを観つづけるという選択肢もありましたが、どうせなら、やっぱハイビジョンで観たいと思いますしね。
で、そのハイビジョンで録画したものを保存しようと思えば、DVDでは役不足だからBRDを買わねばなりません。
以前に比べれば安くなったとはいえまだまだBRDはDVDより高いですからね。
なんか、お金を使うように使うように仕組まれているようで・・・。

今回のように、自分の意志とは関係なく電化製品の買い替えを余儀なくされた事例は、過去にもありましたよね。
かつての「ビデオ戦争」といわれたVHSベータの争いに負けたベータ派は、問答無用でVHSに移行せざるを得ない状況に追いやられましたが、あのとき実は私はベータ派で、泣く泣くVHSに買い替え、虚しく録りだめしたテープをダビングしたのを覚えています。
その後、DVDの時代へと移り、8ミリデジタルテープに保存していた子供の映像などを3年間ほどかけて編集してDVD化し終えたのが4年ほど前。
すると今度は、ハイビジョンが当たり前になり、メディアもBRDの時代になってしまいました。
近い将来、また今後は、DVDが観られなくなるときが来るのでしょうか・・・。
パソコンの世界にいたっては、OSが進む度に過去のソフトウエアフォントが使えなくなったりしますから、着いて行くのも大変ですよね。
自分は今のままで止まっていたくても、周りの環境がそれを許してくれないですからね(最近、スマートフォンも買いました。使い辛いですが、世の流れには逆らえません・・・苦笑)。
進歩するのは大いに結構ですが、切り捨てられていく過去に対して冷たいんじゃないかと思うのは、私だけでしょうか・・・。
進歩のスピードが速いのはやむを得ないとしても、過去を切り捨てるスピードは、もう少し緩やかであってもいいんじゃないかと・・・。

この度のアナログ放送打ち切りに伴い、コールセンターやテレビ局への問い合わせが殺到しているそうですね。
その数、打ち切り初日だけで14万件もあったとか。
この数年間、くどい程に告知されていたにも関わらず、まだ理解していない人がこんなにもいたのかと少々驚きましたが、問い合わせの内容を聞けば、「対応テレビを買っていたが、アンテナ工事をしていなかった。」とか、「チューナーを買ったものの、接続方法がわからない。」などが多かったようで、なるほど・・・という気がしないでもないです。
ひとり暮らしの高齢者などは、テレビさえ買い換えれば、それでデジタル放送が観られると思っていた人が相当数いたんじゃないかと想像しますし、なかには自分の観ているテレビが、アナログかデジタルかもわからなかったお年寄りもいたでしょう。
「ウチのテレビはアナログテレビなんてハイカラなものじゃありません・・・ただのテレビです!」みたいな・・・(笑)。

14万件と聞けば大変な数字に感じますが、割合でいえば、全世帯の0.2%ほどだそうです。
2009年に地デジに完全移行したアメリカでは、当時、2%もの「地デジ難民」が出来たとか。
日本は優秀ですね。
近年のインターネットの普及により、情報源としてのテレビの地位は下がったとはいえ、この度「地デジ難民」になった方々は、おそらくネット環境など持っていない人がほとんどだと思われ、いってみればライフラインを奪われたようなもの。
緊急地震速報などが見られなくなるわけですから・・・。
周知と支援策を提供すれば、あとは自己責任・・・というのは、少々冷たいようにも思えます。
切り捨てるまでの対策も大切ですが、切り捨てたあとのフォローも必要なんじゃないでしょうか。


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by sakanoueno-kumo | 2011-07-27 20:48 | 時事問題 | Trackback | Comments(0)  

江~姫たちの戦国~ 第28話「秀忠に嫁げ」

 文禄2年(1593年)8月3日、豊臣秀吉と側室・淀殿の間に2人目の男児が生まれた。幼名は拾丸。のちの豊臣秀頼である。この2年前に亡くした最初の子の鶴松を、「捨て子は育つ」の格言に従って“棄(すて)”と名付けたのに対して、今度は捨て子を再度拾い上げたという縁起をかついで、“拾(ひろい)”と名付けた。さらに名前だけではなく、家臣に命じて本当に赤子を道ばたに棄てさせ、すぐさまその子を拾って帰るという念の入れようだったとか。そんなエピソードからも、53歳にして授かった鶴松を55歳で亡くした秀吉が、57歳で再び授かった拾にかける思いは並々ならぬものだったことが伺える。当然、その溺愛ぶりも異常を極めた。

 生母・淀殿の拾に対する愛情も相当なものだったようで、ドラマにもあったように、淀殿自身の母乳で育てていたらしいことが、彼女の母乳の出を心配する秀吉の手紙から伺える。当時の慣わしからして、高貴な身分の赤子は乳母の乳によって育てられるもので、拾にも当然、乳母はいたようだが、淀殿にしてみれば、鶴松を亡くした悲しみの分、拾を片時も離したくなかったのかもしれない。ドラマでは秀吉の拾に対する溺愛ぶりに不安を覚える淀殿だったが、実際には、彼女の愛情も異常だったのかもしれない。その深すぎる彼女の愛情が、のちに豊臣家を滅ぼすことになろうなどとは、このときの淀殿は知る由もなかった。

 この拾の誕生により、人生が一変してしまった人物・豊臣秀次。彼は、秀吉の実姉・瑞龍院の長男で、この十数年前に秀吉の養子となっていた。鶴松の死後、自身の年齢から考えてもはや実子は見込めないと考えた秀吉は、秀次を自身の後継者に任命して、関白職も譲った。しかし、幸か不幸かほどなく淀殿が拾を出産。こうなれば、生まれた実子に地位を譲りたいと考えるのは、秀吉のみならずこの時代の武将なら当然の思いだったであろう。ただ、秀吉のその思いはあまりにも露骨すぎた。ここから、後世に悪評を残すこととなった「秀次事件」への道を辿ることとなる。

 秀吉も最初は、拾と秀次の娘を婚約させるなど、「秀次のあと、拾の成人を待って政権移譲」といった方向で進めていた。娘婿に継承というかたちなら、秀次の面目も立ち、悪いようにはしないだろうという秀吉の考えからの融和策だったのであろう。しかし、その頃にはおそらく自分はこの世にいない・・・そう考えると、秀吉はちゃんと秀次が拾を後継者とするか、心配でいたたまれなかったのかもしれない。次第に秀吉は、自分が生きている間に拾を後継者にしたいと考えるようになった。それには、淀殿の希望もあったかもしれない。そしてその思いは、身内に優しかったはずの秀吉を豹変させた。

 そんな秀吉の思いは、当然、秀次も感じ取っていたであろう。次第に秀次は、「秀吉は自分を殺そうとしているのではないか。」という不安と猜疑心を抱き始める。結果を知る後世の私たちからみれば、この時点で秀次は自ら関白職を辞し、拾のために席を空けるべきだった。そうすれば、のちの悲劇は起こらなかったであろう。しかし、残念ながら秀次は、その地位に固執してしまった。そしてその不安と猜疑心は積もる一方で、しばしば奇行をとるようになったとされている。

 秀次の奇行については、夜な夜な町に出没して“千人斬り”と称した辻斬り行為を重ねていた・・・とか、洛中の美女を人妻であろうと見境なく拐わせて、自身の居所である聚楽第に連れ込んだ・・・とか、正親町天皇の諒闇中(喪中)にも関わらず狩り(殺生)をした・・・とか、さらには「人は生まれる前どうなっているのだ」といって妊婦の腹を無理矢理裂いた・・・とか。そしてついには、「殺生関白」という悪名が轟いたと伝えられる。しかし、この奇行話についてはどれも根拠に乏しく、後世の作り話か、当時に流布された秀次を陥れるためのデマと考える向きが多い。ただ、謀反の企てという点でいえば、まったく事実無根とも言い難いようで、秀次は独自に伊達政宗・最上義光・蒲生氏郷・徳川秀忠・山内一豊等と親交を持ち、朝鮮出兵で財政が火の車となった大名に金銭の貸付を行ってもいる。この金貸し行為が、結果として秀吉に対する謀反の根拠のひとつとなったのだが、はたして本当に謀反の企てのための融資だったのか・・・それともこれも、秀吉のこじつけだったのか・・・。

 文禄4年(1595年)7月8日、秀次は関白職を剥奪されて高野山に追放され、出家した。以降、出家した元の関白=禅閤となり、豊臣の姓から豊禅閤(ほうぜんこう)と呼ばれた。そして1週間後の7月15日、切腹して果てる。享年28歳。

 豊臣秀次、辞世。
 磯かげの松のあらしや友ちどり いきてなくねのすみにしの浦

 秀吉の秀次に対する仕置は彼ひとりの命にとどまらず、一族すべての抹殺を命じ、秀次の死から半月後の8月2日、京都三条河原にて梟首された秀次の首の前で、遺児(4男1女)及び正室・側室・侍女ら併せて39名が処刑された。彼女たちは牛車に乗せられて市中を引き回された後、三条河原へと到着。その変わり果てた秀次の首と対面したのち、次々と惨殺されていった。戦国時代の京都三条河原といえば、処刑場の代表地ともいえる場所で、死刑執行処刑見物が日常茶飯事のことでありながら、この時の秀次妻子に対する処刑は見物人の中から卒倒・嘔吐する者が相次いだと伝えられている。彼女たちの死骸はその場に掘られた大穴に次々と放り込まれ、その上に四角推の大きな塚が築かれ、頂上には秀次の首を納めた石櫃が据えられたという。秀吉はこの塚を“畜生塚”と名付け、道行く人たちへの見せしめとしたのだった。

 この秀吉の行いは、当時の日本の倫理観社会常識に照らし合わせても悪逆無道な行為で、この秀次事件が後世に残した影響は計り知れない。この事件で数少ない豊臣一族を処刑してしまったことで、豊臣政権の弱体化を招いたことは確かであり、このとき秀次の謀反の疑いに関与していたとみられた大名たちが、総じて“関ヶ原の戦い”で徳川方に属することとなったのも事実である。わが子・拾の行く末を案ずるあまり、豊臣家の行く末が見えなくなった秀吉。今風にいえば、究極のモンスターペアレントといえるだろうか。晩年の秀吉の愚行の中でも、もっとも陰惨な結末を招いた秀次事件。「年寄りの馬鹿者ほど始末の悪いものはない。」というのは西洋のことわざだったと思うが、この時期の秀吉は、まさにその言葉どおり、始末に終えない愚か者になり下がっていた。そこには、前半生の明るい秀吉の姿は、どこにも見られなかった。


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by sakanoueno-kumo | 2011-07-25 03:27 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(2) | Comments(0)  

遅すぎた松井秀喜選手の日米通算500本塁打に思う。

MLBアスレチックス松井秀喜選手が、日米通算500本塁打を達成しました。
日本プロ野球史上9人目の偉業で、立派といえば立派なんですが、松井選手の持つ本来の力でいえば、遅すぎる500号と思わざるを得ません。
NPB読売ジャイアンツ時代の10年間で332本塁打を記録したことを思えば、メジャー9年目で168本塁打という数字に不満を抱くファンは多いと思います。
打席数から考えて、膝のケガを考慮したとしても、あと60~70本は上にいっていないと・・・(張本勲氏は100本少ないと辛口のコメントをされていました)。
打率や打点、安打数などは、日本時代と比べて遜色ない数字を渡米後も残していますから、明らかに本塁打だけが減ってしまったわけです。
日本一の長距離打者が渡米して中距離打者になってしまった・・・というのでは、日米の実力差を見せつけられているようで、不満を感じてしまうのは私だけでしょうか。



☆日本人通算本塁打ランキング(2011年7月21日時点)
王 貞治  868本
野村克也  657本
門田博光  567本
山本浩二  536本
清原和博  525本
落合博満  510本
張本 勲  504本
衣笠幸雄  504本
松井秀喜  500本
10 大杉勝男  486本

日本時代の松井選手の成績からいえば、世界記録保持者の王貞治氏には及ばないにしても、2位の野村克也氏の記録には届くんじゃないかと期待していた人は多かったんじゃないでしょうか。
その辛口で知られるノムさんも、松井選手の才能はルーキー時代から高く評価していましたし、川上哲治氏や青田昇氏などといった重鎮の評論家でさえも、入団当初から「王貞治より上」と絶賛していました。
その王貞治氏自身も、「自分の記録に迫るとしたら、松井君しかいない。」という旨のことをいっておられたと記憶しています。
野球ファンのみならず、玄人目から見ても高い評価だった松井選手の長距離打者としての才能。
正直、こんなもんじゃないだろう・・・と、いいたくなるのは、私だけではないと思います。
日本一のアベレージヒッターイチロー選手が、誰もが認める世界一のアベレージヒッターになったことを思えば、日本一のホームランバッターの松井選手も、このまま尻すぼみに終わってほしくはないですね。
現在37歳の松井選手ですが、もう一度ホームランにこだわって、あと50本・・・いや、できればあと100本ぐらい、あの弾丸ライナーでスタンドに突き刺さる彼のホームランを見たいですね。


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by sakanoueno-kumo | 2011-07-21 16:38 | プロ野球 | Trackback | Comments(0)  

お医者さんと禁煙しよう。~その2~

禁煙治療を初めて2週間、完全にタバコを断ってから1週間が過ぎました。
このチャンピックスという薬はなるほど優れもので、1日約40本吸っていた私が、薬を服用した初日にいきなり半減して19本になり、以後、8本、5本、7本、5本、4本、3本と着実に減り続け、8日目でゼロに持ち込むことができました。
ただ、薬を飲めば勝手にタバコをやめられるというわけではなく、e0158128_1611527.jpgやはり結局は自分の意志で我慢して減らしていかなければなりません。
でも、この薬のおかげでその我慢がそんなに苦痛じゃないんですね。
このままこの禁煙治療を続けて、完全にタバコのことを忘れることが出来れば禁煙成功なのでしょうが、まだまだそこまではいかず、特にゼロにしてからは頻繁にタバコのことを思い出します。

まるで、別れた恋人への未練を断ち切れない状態の如くで・・・(苦笑)。
ここ3日間ほど連続で、タバコを吸ってしまった夢を見ました。
メンタル面は結構、重症です(笑)。


それにしても、愛煙家への風当たりの強さは、年々増すばかりですね。
たった10年ほど前のTVドラマの再放送などを観ると、不通にオフィスで喫煙しているシーンが出てきますから、この10年で一気に愛煙家は市民権を剥奪されたことがわかります。
昔の二枚目俳優さんは、タバコの吸い方から火の付け方まで鏡に向かって何度も研究し、役柄の性格によって銘柄やライターにも気を配ったと聞きますが、これからはその必要もないでしょうね。
なんか、伊達男のアイテムがひとつなくなったようで、残念に思うのは私だけでしょうか・・・。

e0158128_1622393.jpgタバコの似合う伊達男といえば、私が真っ先に思い浮かべるのは俳優さんではなく、アニメ『ルパン三世』次元大介
“ニヒル”という形容が相応しい次元が嗜好する銘柄は、アメリカの“ポールモール”(たまにマルボロも吸っている)。火種はシルバーのジッポーマッチで、なぜかいつもヨレヨレになったタバコをくわえている・・・これが、カッコいいんですよね(おそらくモデルはハンフリー・ボガードでしょう)。で、私も次元の真似をして、ポールモールを吸ってジッポーを愛用していました。44マグナムは持っていませんが・・・(笑)。

e0158128_163315.jpgルパンが嗜好する銘柄は、黒たばこと呼ばれるフランスの“ジタン・カポラル”。ジタンはゴロワーズと並んで、フランスの代表銘柄ですね。
祖父のアルセーヌ・ルパン、父のルパン二世ともにフランス人で、ルパン三世は日本人とのハーフだったと記憶していますから、父方のフランス煙草が口にあうといったところでしょうか。
その独特な芳香と味わいは、ルパンの個性にピッタリですね。

e0158128_1655531.jpg峰不二子の愛煙する銘柄は、ドイツの“モア・メンソール”“峰”ではありません(笑)。
ただし、ヘビースモーカーのルパンや次元と違い、不二子がタバコ を吸う姿はあまり見られません。
まあ、一応は昭和の日本女性ですから、人前でスパスパとタバコをふかすのは憚られるといったところでしょうか。
でも、やっぱ不二子には、細長いメンソールが似合ってますね。

e0158128_1671139.jpg最後に、とっつぁんこと銭形警部の嗜好するタバコは“しんせい”
さすが、昭和一桁の日本男児です。
ニコチン22mg、タール1.4mgのヘビー級で、両切りフィルターなしの超辛口タバコ
「日本男児たるもの、軟弱なタバコなど飲めるか!」という、銭形のとっつぁんの声が聞こえてきそうです(戦前生まれの人は、タバコを“飲む”と言いますよね)。

ちなみに石川五ェ門はタバコを吸いません。
まあ、ルパンや次元のようなヘビースモーカーと一緒にいますから、副流煙はかなり吸っていると思いますが・・・(笑)。

てな具合に、たかがタバコといっても、昔はそれぞれの性格を描く上での恰好のアイテムだったんですね。
また、タバコを使った演出でも、様々な心情を描くことができます。
灰皿いっぱいになった吸殻だけでも、その人物のイライラ度が計れますし、よれよれのシケモクを咥えて「火貸してくんない?」というだけでも、演じ方次第でいろんな心情を表せるでしょう。
♪折れた煙草の吸い殻で あなたの嘘がわかるのよ♪
なんて歌もありましたしね(笑)。
ところが近年では、タバコは“絶対悪”としてテレビドラマなどではめっきり喫煙シーンを見かけなくなりましたし、近年作られた『ルパン三世』でも、子供も観る作品だからという理由で喫煙シーンを極力減らす傾向にあるとか。
そこまでしないとダメなんですかね・・・。

そんなこんなで、禁煙治療を初めて2週間、タバコのことばかり考えている私です(苦笑)。
あ~、タバコ吸いてぇ!!!

お医者さんと禁煙しよう。~その1~
お医者さんと禁煙しよう。~その3~


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by sakanoueno-kumo | 2011-07-20 16:11 | コネタ | Trackback | Comments(14)  

江~姫たちの戦国~ 第27話「秀勝の遺言」

 お江が二人目の夫・豊臣秀勝の忘れ形見である長女・豊臣完子(さだこ)を産んだのは、ドラマのとおり秀勝の戦病死の報に接した頃と推測されている。かつて天正12年(1584年)に佐治一成と結婚したお江だったが、当時のお江は数えで12歳という少女で、しかも数ヶ月という短期間の結婚生活であったことから、名実ともに夫婦となり得ていたとは考えづらい。しかし、それから8年が経った文禄元年(1592年)当時のお江は成熟した大人の女性で、完子という子宝に恵まれたのは自然といえるだろう。

 その初めての出産の前後に秀勝の戦病死の報に接したお江。夫を戦場に送り出した以上、生きて帰らないかもしれないことは覚悟の上のことだとしても、このタイミングでの秀勝の訃報はあまりにも酷な話。ドラマのように、夫の死の現実をそう簡単に受け入れることはできなかっただろう。出産の喜びとは、夫婦揃っていてこその喜びだと私も思う。夫の死の知らせを受けた直後の出産だったとすれば、どんな思いでその痛みに耐えたか、経験のない人間には想像もつかない。ましてやそれが初めての出産ならば、なおのことである。生まれた完子を抱くことができなかったお江の気持ち・・・何となく、わかるような気がする。

 父の顔を知ることなく育った完子は、この3年後の文禄4年(1595年)に母のお江が徳川秀忠と再々婚をすることになったため、叔母である淀殿に養育されることになる。一般に、悪女という評価が定着している感がある淀殿だが、妹のために一肌脱いだこのエピソードから想像すれば、ドラマのように、少なくとも妹たちには良き姉だったようである。通説では、その後、完子は織田信長の嫡孫である織田秀信と婚約、もしくは結婚したとされてきた。この秀信という人物は信長の嫡子・織田信忠の長男で、天正10年の「清洲会議」の際に豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)が手懐けた、あの三法師のことである。しかし、近年では完子が秀信と婚約、もしくは結婚していたという説に対して、否定的な意見が少なくない。

 そして、慶長9年(1604年)、13歳になった完子は、公家である九条忠栄御簾中(正室)に迎えられることになる。おそらくこの婚儀は、生母であるお江の意向を汲んだものでもあったであろう。お江は完子の他に、秀忠との間に二男五女の子宝に恵まれたが、その多産のDNAを受け継いだ完子も、忠栄との間に九条道房をはじめ四男三女をもうける。九条家は藤原北家流で、五摂家のひとつに数えられる名門中の名門で、古くから朝廷の摂政、関白を務めた人物が数多く存在し、完子の夫となった忠栄も第107代・後陽成天皇と第108代・後水尾天皇の関白を務め、その子の道房も、第110代・後光明天皇の摂政を務めている。忠栄と完子の夫婦仲も仲睦まじかったようで、不幸な出生に始まった完子の人生だったが、思わぬ幸せな人生が待っていた。

 いうまでもなく、お江と徳川秀忠の間に生まれた二男五女と完子は異父兄弟姉妹にあたる。その異父弟の徳川家光が江戸幕府第三代将軍となり、異父妹の東福門院和子は後水尾天皇の女御となって第109代・明正天皇(女帝)を産んだ。将軍や国母(天皇の母)の異父姉であり、「最後の豊臣家の人物」ともいうべき完子が、こうして京都で公家の御簾中として幸せに暮らしたというエピソードは、一般にはあまり知られていない。

 完子は異父弟の家光よりも長生きし、万治元年(1658年)、67歳で病没する。そして、その血脈は歴史の中に生き続けた。完子の子孫は代々関白を歴任し、大正天皇の正妻となる貞明皇后に続いている。つまり、織田家浅井家豊臣家の血を引いた完子の血脈が、昭和天皇、そして今上天皇にも繋がっているというわけである。お江の不幸な出産によって生まれた完子が、歴史上、極めて貴重な、存在感のある女性となったことに、歴史の綾の不思議さ、面白さを感じずにはいられない。


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by sakanoueno-kumo | 2011-07-19 01:42 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(1) | Comments(0)  

心に残る名曲 No.8 『僕と彼女と週末に』 浜田省吾

 福島原発事故から4ヵ月が過ぎました。あいかわらず出口の見えない政府と東電の無為無策の事故対応や、次々に暴かれていくごまかしの事実に憤りを覚える毎日です。この4ヵ月で、原発のおそるべき正体が完全に満天下に暴きだされました。その安全神話が崩れたばかりか、原発は“低コスト”という謳い文句も大嘘だったかもしれず、経済の発展のためには原発は不可欠といった認識さえ、作り話だったかもしれないという、どこまでが本当で、どこからが嘘なのか、何を信じていいのかもわからない事態となってしまいました。どうやら私たちは、長い間、騙されてきたのかもしれません。

 そんな今、ぜひ多くの方に聴いてほしい歌があります。浜田省吾さんが1982年に発表したアルバム『PROMISED LAND』の中の収録曲、『僕と彼女と週末に』です。



 実に9分を超える壮大な曲で、単なるアルバムの収録曲と言ってしまうには存在が大きすぎる、深いメッセージの込められた歌です。広島出身の浜省は、父親が被爆者ということもあって、戦争平和を歌った楽曲が数多くありますが、その中でもこの『僕と彼女と週末に』は、よくある“LOVE&PEAC”をテーマにした楽曲とは少し違い、もっと地球規模の警告とでも言うべきテーマを謳っています。この曲を初めて聴いた当時、高校生だった私は、この歌詞のテーマを漠然と“公害問題”のように捉えていましたが、今になって聴いてみると、まぎれもなく“原発”“核実験”を示唆しているんですね。

 この歌の2番の歌詞の中に、こんな一節があります。

 恐れを知らぬ自惚れた人は
 宇宙の力を悪魔に変えた


 この4ヵ月で、私たちははっきりと理解したはずです。原子力、核エネルギーは、人間の手に負えない「悪魔」であることを。踏み込んではいけない「神の領域」であったことを。その昔、人間は自然の力を恐れ、自然を“神”として崇めてきました。しかし、近代になり、人間は自然を作りかえる知恵を身につけ、自然への尊敬の念がゆらぎました。車が走り、飛行機が飛び、月に降り立ち・・・そうした科学の発展と共に、人間は自然をも司っているという思い上がりの考えが頭をもたげ、自然を恐れなくなっていきまた。そしてついには、核分裂という神の領域に足を踏み入れた・・・。そう、「恐れを知らぬ自惚れた人は、宇宙の力を悪魔に変えた」のです。

 この歌詞の前に浜省は、こんなことも歌っています。

 昨日の絵の具で破れたキャンバスに
 明日を描く愚かな人
 売れるものならどんなものでも売る
 それを支える欲望


 世界で原発が最も多く建設されたのが1970年代後半から80年代にかけて。1982年に浜省がこの楽曲をリリースしたのは、父親が被爆者である彼にとって至極当然のことだったのかもしれません。この曲をテーマにした当時の彼のコンサートで、スクリーンいっぱいに映し出された地球の映像をバックに、この歌を熱唱していた浜省の歌声が、今改めて思い出されます。原発反対派の人も推進派の人もよくわからない人も、約9分間だけ時間を作っていただいて、ぜひこの歌を聴いてみてください。


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by sakanoueno-kumo | 2011-07-13 15:12 | 音楽 | Trackback | Comments(8)  

江~姫たちの戦国~ 第26話「母になる時」

 お江の二人目の夫となった豊臣秀勝は、豊臣秀吉の甥にあたる。秀吉には姉の瑞龍院(智)、弟の豊臣秀長、妹の朝日姫(南明院)という三人の兄弟姉妹がいた。ちなみに、ドラマなどでよくある設定で、瑞龍院と秀吉は木下弥右衛門天瑞院(仲)夫妻の子で、秀長と朝日姫は天瑞院が後夫の筑阿弥とのあいだにもうけた子といわれ、日吉丸こと秀吉は継父・筑阿弥の折檻に耐え切れずに家を飛び出し、放浪の末、蜂須賀小六(正勝)と遭遇した・・・などという説がよく知られるところだが、その大部分はフィクションである。近年は、秀吉たち4人の兄弟姉妹は全員、弥右衛門・天瑞院夫妻の子とみる説が有力である。

 その4兄弟の一番上の瑞龍院は、三好吉房という人物と結婚し、秀次秀勝秀保という3人の息子に恵まれた。そのうち、秀次と秀勝は叔父・秀吉の養子となり、三男の秀保は同じく叔父・秀長の養子となっている。3人の息子に恵まれた瑞龍院とは対照的に、秀吉は最晩年まで子宝に恵まれず、秀長も、娘は2人いたものの、息子はいなかった。朝日姫にも子どもがいたという記録はなく、瑞龍院の3人の息子が秀吉や秀長の養子に迎えられたのは、豊臣家の繁栄のためにも当然のことだった。

 お江の夫となる秀勝が秀吉の養子になったのは天正14年(1586年)ごろ。病死した秀吉の養子・羽柴秀勝から諱(実名)を相続し、領地も相続して丹波国亀山城主となった。ここで、秀吉には秀勝という名の実子・養子が3人もいたので、そのことについてふれておきたい。最初の秀勝は、以前の稿でも紹介したとおり(参照:第22話「父母の肖像」)、これより20年ほど前の長浜城主時代の秀吉と側室・南殿との間に生まれたといわれる実子・石松丸。秀吉にとっては、長男になる。その石松丸秀勝は、天正4年(1576年)に7歳で病没し、長浜城下の妙法寺に埋葬されたと伝わる。

 石松丸秀勝を亡くした秀吉は、その2年後の天正6年(1578年)、主君・織田信長に乞うて、信長の四男・於次丸を養子に貰い受け、早世した石松丸と同じ秀勝という諱を名乗らせた。天正10年の本能寺の変で信長が死んだのち、織田家領の再分配を決めた清洲会議の際には、明智光秀の旧領で京都に近い要地である丹波亀山城を与えられ、秀吉が主導して行った信長の葬儀では喪主を務めた。しかし、その後は臥せりがちとなり、天正13年(1585年)12月10日に病没する。年齢は18歳前後だったとみられている。

 於次丸秀勝が病没した直後の天正14年(1586年)ごろ、秀吉の養子となった甥の小吉が丹波国亀山城主を受け継ぎ、秀勝という諱も受け継いだ。歳も、死んだ於次丸秀勝とほぼ同年代だったと思われる。この三代目秀勝、豊臣小吉秀勝が、お江の二人目の夫となった人物である。2人の結婚の時期については、天正14年(1586年)説と文禄元年(1592年)説とがあり、ドラマでは文禄元年(1592年)説をとっているが、いかがなものだろう。そもそも、お江がなぜ小吉秀勝のもとに嫁がされたかという観点に立ってみると、小吉秀勝が死んだ於次丸秀勝から丹波国亀山城主を受け継いだ際に、そのまま於次丸秀勝の家臣も引き継いだであろうことが想像でき、その場合、家臣たちの反感を買わずに“秀勝”の名を継承するには、於次丸秀勝と同じく織田家の血を引くお江との結婚は効果的だったと思われ(参照:江戸東京万華鏡「江は何故秀勝に嫁すことになったのか?」)、そう考えれば、天正14年(1586年)説のほうが、信憑性があるように思える。とすれば、嫁さんの威光に頼るしかなかった小吉秀勝にとってお江は、頭の上がらない妻だったかもしれない(笑)。

 それにしても、秀吉はこの“秀勝”という諱になぜこれほどまでにこだわったのか・・・。たしかに、“秀でる”“勝る”、あるいは“勝つ”という二つの漢字が織り込まれている“秀勝”という諱は、大変良い諱ともいえなくもない。しかし、それだけの理由で秀吉がこの諱にこだわっていたとも思えない。想像するに、秀吉は最初の秀勝・・・つまり、天正4年に亡くした愛児・石松丸秀勝のことが諦めきれず、7歳で死んだ石松丸秀勝と歳が近い於次丸を養子として秀勝とし、その於次丸秀勝が18歳前後で死ぬと、同じく18歳前後だった小吉を養子として秀勝を継がせ、ずっと早世した実子・秀勝の姿をみていたのではないだろうか。だとすれば、なんとも切ない秀吉の子煩悩な姿だが、しかし、皮肉なことに、於次丸秀勝にしても小吉秀勝にしても、秀勝という諱を名乗ってから6~7年で死去することになる。それは奇しくも、石松丸秀勝の生涯とほぼ同じ長さだった。

 ドラマでは魅力的な男に描かれているお江の夫・豊臣小吉秀勝だが、実際の彼は、生母・瑞龍院に甘やかされて育ったため、わがままな性格だったともいわれる。於次丸から受け継いだ丹波国の領地は、天正15年(1587年)の「九州征伐」の際の論功行賞で知行の不満を訴えたため秀吉の怒りを買い、所領を没収された。その後、武将の座に返り咲き、やがて甲斐甲府城主となるが、瑞龍院の嘆願で岐阜城主に転封となる。少々、マザコン気味の男だったようだ。そんな小吉秀勝のもとに輿入れしたお江は、きっと秀勝に親離れをしてほしいと願っていたことだろう。

 文禄元年(1592年)3月、秀吉の号令のもと第一次朝鮮出兵(文禄の役)が開始され、秀勝も8千人の将兵を率いて出陣した。そして、同年9月9日、秀勝は出陣中の唐島(巨済島)で死去した。享年24歳。死因は戦病死とだけ伝えられている。前後して、お江は秀勝との間の子どもを生んだ。お江と秀勝がどんな夫婦関係だったかはわからないが、どうあれ、お江にとっては初めての出産で、しかもこのとき19歳。夫・秀勝の死を伝え聞いて、嘆き悲しんだことだろう。生まれた子は女児で、完子と名付けられた。お江は、19歳にして2度目の結婚に終止符を打つことになる。今風にいえば、19歳にしてバツ2となった。

 余談だが、後年、豊臣秀頼と側室の間に生まれた長男・豊臣国松は、大坂の陣関係の軍記類には“秀勝”という諱で登場する。秀吉が3人の実子、養子に名付けた“秀勝”という諱は、孫に当たる国松にも名付けられたのかもしれない。


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by sakanoueno-kumo | 2011-07-11 19:10 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(3) | Comments(2)  

お医者さんと禁煙しよう。~その1~

宣言!!
今日から禁煙治療
はじめます。


e0158128_1633396.jpg私は、1日約40本、喫煙歴28年超ヘビースモーカーです。
以前は1日60本ほど吸っていた時期もありました。
吸っているタバコの種類も、ニコチン・タール共に強いマルボロ
おそらく、私の肺はボロボロだと思います。

過去、2度ほど自力の禁煙を試みたこともありましたが、いずれも1ヵ月足らずで挫折
本数が60本から40本に減ったのは、単に喫煙できる環境が減ったからで、自らの意志で減らしたわけではありません。
きっと、体を壊すまで、やめられないだろうと諦めていました。

そんな私が、この度禁煙を試みる気になったのは、知人がこの方法での禁煙に成功したのを目の当たりにしたこと(私ほどヘビーではありませんが)。
治療法は、あの舘ひろしさんがCMしている、病院での薬治療です。
舘さんは喫煙歴40年で1日100本以上の超ヘビだったそうで、そんな舘さんがやめられたのなら、私も可能なんじゃないかと・・・。
あと、実際には、昨年秋の大幅値上げも動機のひとつではありますが・・・(苦笑)。

e0158128_164017.jpg治療薬は、チャンピックスという薬。
難しいことはわかりませんが、タバコを吸ったときに「すっきりする」と感じるのは、タバコのニコチンが脳内にあるニコチン受容体に結合して、その結果快感物質にあたるドーパミンが出て、その作用で「すっきり」した感じになるのだそうで、このチャンピックスという薬は、そのニコチン受容体に結合して、タバコを吸ったときよりやや少なめの快感物質を放出し、タバコを吸った時と同様の「すっきり」が少しだけ感じられるそうです。
また、チャンピックスがニコチン受容体に結合している間は、タバコを吸ってもニコチンが受容体に結合できないため、この薬を飲んでいる間はタバコを吸っても「あまりおいしくない」と感じることになるそうです。

e0158128_16441092.jpgただ、吐き気頭痛めまいといった副作用が出ることも多いそうで、薬に慣れるために、最初の3日間0.5mgを1日1錠だけ服用し、4日目~7日目は同じく0.5mgを1日2錠(朝・夕)服用。
この間は、無理にタバコをやめずに、自然に本数が減るのを観察します。
8日目から、2倍の1mgを1日2錠(朝・夕)服用し、そこから本格的に禁煙を開始するという流れ。
写真のように、禁煙手帳で薬を管理し、喫煙本数、体重を記録していきます。
で、これを12週間続けて、完全に禁煙に成功すれば完了です。

といっても、この薬で魔法のように誰もがピタっとタバコをやめられるわけではなく、あくまで禁煙の補助をしてくれるだけにすぎません。
チャンピックスによる禁煙成功率は、60%ほどだとか・・・。
結局は、禁煙は「医師の力」ではなく「意志の力」なんですね。
はたして、私はその60%に入ることができるか・・・。

とにかく、今日から禁煙治療を始めます。
経過は、また機会をみてご報告します。

お医者さんと禁煙しよう。~その2~
お医者さんと禁煙しよう。~その3~

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by sakanoueno-kumo | 2011-07-06 16:54 | コネタ | Trackback | Comments(2)  

江~姫たちの戦国~ 第25話「愛の嵐」

 千利休の切腹、鶴松の死、朝鮮出兵へ始動、豊臣秀次の関白就任、お江豊臣秀勝の婚儀と、良くいえば盛りだくさんの内容、悪くいえば詰め込み感満載の今話。この天正19年(1591年)という年は、それほど豊臣秀吉にとって目まぐるしい1年だった。1月には最も信頼していた実弟・豊臣秀長を亡くし、2月には、これまた側近の補佐役だった千利休を自らの命によって切腹させ、その半年後の8月には愛息・鶴松を病で失うという、秀吉にとっては厄年のような年だった。

 千利休の切腹に関しては、前話の稿ですべて語ってしまったので、そちらをご一読いただきたい(参照:第24話「利休切腹」

 秀吉と淀殿の愛息・鶴松が死去したのは、天正19年(1591年)8月5日だったと伝わる。鶴松は生まれつき病弱だったといわれ、おそらく死因は病死だったと思われる。享年3歳。このときの秀吉の落胆ぶりは、筆舌に尽くし難いほど痛々しいものだったであろう。そもそも、50歳を過ぎても尚、子宝に恵まれなかった秀吉は、一度は実子を諦め、それゆえ多くの養子を迎え入れていた。そこに、正真正銘自身の血を引く男児が生まれたのである。秀吉が狂喜して即座に鶴松を後継者としたのは、自身の老い先を考えても当然のことだった。ただでさえ歳をとってからの子は可愛いといわれる。それが待望の第一子となれば(石松丸の件は別にして<参照:第22話「父母の肖像」>)、その溺愛ぶりは想像に余りある。そんな鶴松をわずか3歳で亡くしたのだから、そのショックは計り知れない。秀吉は死んだ鶴松のために、法名・祥雲院に因んだ祥雲寺を建て、剃髪し、木像を彫り、細川幽斎とともに亡き愛児を偲ぶ歌を幾つも作った。一般には、この悲しみを紛らわすために、無謀な朝鮮出兵に走ったといわれるほどである。秀吉は、鶴松の死の直後に肥前名護屋城を築き、着々と朝鮮出兵を始めとする外征に専念するようになった。

 この時代、5人中3人は成人することなく死んだといわれ、幼児の死は珍しい話でも何でもなく、鶴松の夭逝は、特に不幸な出来事というわけではなかったのだが、鶴松の死後に始まった「文禄の役」が、この翌々年の秀頼の誕生から和議に向かったことを思えば、鶴松という一人の幼児の死が、外征と内政に与えた影響は決して小さくない。鶴松の死は、豊臣家のみにとっての不幸ではなく、日本の不幸だったといえるかもしれない。

 鶴松の死の時点で55歳だった秀吉は、もはや実子は望めぬと考え、同年12月、甥の豊臣秀次を家督相続の後継者として養子に迎え入れ、関白職を譲った。そして自身は関白の父として太閤と呼ばれるようになる。しかし、そのことによってのちに秀次は、不幸な道を辿ることになる。たった3年間の短い生涯だった鶴松。3年間しか生きていない彼が、歴史上に何かを残したということは当然ないが、彼が生まれたことによって歴史は大きく動いた。たった3年間という短い生涯で、これほど歴史に大きく関わった人物は他にいないだろう。少々大袈裟にいえば、彼はそのために生まれてきたのかもしれない。そう考えれば、人の人生というものは長さではない・・・と、つくづく感じさせられる。

 お江豊臣秀勝の結婚の時期は、鶴松の死後の文禄元年(1592年)という説と、天正14年(1586年)という説があるらしい。前述の説でいえば、同年3月には第一次朝鮮出兵が始まり、秀勝も8千人の将兵を率いて出陣しているので、二人の新婚生活は1ヵ月ほどだったということになる。後述の説でいえば、お江は前夫の佐治一成離縁させられた直後のこととなるが、秀勝が秀吉の養子となった年でもあり、二人の間に女児が生まれていることを思えば、たった1ヵ月の夫婦生活より、6年間連れ添ったと考えるほうが、自然だと思うのだが、いかがなものだろう(といっても、お江が女児を出産したのは、秀勝の死の前後といわれ、文禄元年説でも一応はつじつまが合うのだが)。むしろ、佐治一成と離縁してから8年間も、秀吉がお江を放っておいたというほうが不自然なように思うのだが・・・。

 ドラマでは、文禄元年説をとっている。となれば、1度目の結婚生活と同じく短い結婚生活で終わることになる。しかも今回は、1度目以上に辛い終焉となる。


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by sakanoueno-kumo | 2011-07-04 02:50 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(1) | Comments(4)