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江~姫たちの戦国~ 第33話「徳川の嫁」

 ここまであまり描かれていなかったため、いささか唐突な展開になってしまったが、朝鮮出兵を境に豊臣家家臣団の分裂が始まっていた。一般に文治派武断派の対立といわれ、その文治派といわれる代表的な人物が石田三成小西行長大谷吉継などで、武断派の代表は福島正則加藤清正など。天下統一を果たすまでは、武勇に優れた武断派が重宝されたが、秀吉が統一政権を形成するにつれ、政務を担う文治派の権限は次第に拡大していった。そのため五奉行に選ばれた人材は文治派の者が多く、武断派は不満を抱えていた。もともと文治派は近江出身の者が多かったのに対し、武断派は尾張出身者が多く、そんなことからも両者はそりが合わなかったという。そしてその対立を決定的にしたのが「朝鮮の役(文禄・慶長の役)」だった。

 過酷な戦いとなった「朝鮮の役」において武断派は常に前線で戦う一方、軍監として従軍していた文治派は、その戦いの様子を逐一秀吉に報告。武断派はその報告に偏りがあると感じ、自分たちの働きが秀吉の耳に正確に伝わっていないのではないかと疑念をおぼえ、その憤懣は、この軍監を人選した石田三成に向けられていた。その三成が、「朝鮮の役」の休戦講和に尽力し、戦後の論功行賞に大きな影響力を及ぼした。大陸に渡り、辛酸をなめつつ奮闘した武断派の彼らにしてみれば、その間、秀吉の側にいてずっとデスクワークをしていた三成に、働きぶりを評価されるというだけでも面白くないことだったが、そんな三成が下した福島正則や加藤清正らの武功の評価は、彼らが受け入れがたいほど低いものだったという。生真面目な三成にしてみれば、その評価は決して間違ってはいなかったのかもしれない。だが、正則や清正にしてみれば面白いはずもなく、前述した三成への感情も加わって、やがては憎悪となっていった。現代でもよく耳にする、現場と事務方の対立の構図である。

 そんな一触即発の関係でありながらも、なんとか導火線に引火せずにここまでいられたのは、秀吉の旧友で五大老のひとりでもある前田利家が、両者の間に上手く入っていたからであった。それだけでなく利家は、徳川家康の行動を牽制する立場でもあった。しかし、慶長4年(1599年)閏3月3日、その前田利家が病没してしまう。その直後、利家の死を待っていたかの如く武断派の加藤清正福島正則藤堂高虎黒田長政浅野幸長細川忠興脇坂安治の七将が暴発。大坂の前田屋敷に滞在していた石田三成を殺害すべく襲撃した(石田三成襲撃事件)。しかし、この動きを事前に察知した三成は、佐竹義宣の協力を得て屋敷を逃げ出し、伏見城に逃げ込む。この騒動を収拾したのが、徳川家康だった。家康は武断派を説得して鉾を収めさせ、襲撃した武断派が三成の身柄引き渡しを要求したため、三成を蟄居にすることで手を打たせる。そして閏3月10日、三成は家康の次男・結城秀康の警護のもと佐和山城に戻り、謹慎生活となった。こうして三成は政治の表舞台から遠のくこととなる。

 なお、今回のドラマでもそうだったように、物語では欠かせないこの事件の一説として、三成が敵である家康に助けを求め、単身で家康の向島屋敷に入り難を逃れたという逸話があるが、最近ではこの説は否定的な見方が多いようである。その理由としては、これらの典拠となっている史料は明治以降のもので、江戸期に成立した史料に三成が家康屋敷に赴いたことを示すものはないからだとか。しかし、江戸期に作られた三成の史料ほど信頼できないものはなく(江戸時代には三成は悪人と見なされた)、それをもって否定するのも早計な気がする。史料には残っていないが、伝承レベルで残っていたものが明治以降に記述された・・・と考えられなくもない。この逸話は、いってみれば石田三成の豪胆さを示す貴重なエピソードで、この逸話をもってして三成が好きになったという人も多いはず。現在、否定的な見方が多いこの説だが、私は、信じたいと思っている。

 いずれにせよ、この事件を収拾したことにより徳川家康はその影響力を拡大し、一方で石田三成は失脚した。一説には、家康自身がこの事件の黒幕だった・・・なんて俗説もあるが、それは穿ち過ぎとしても、武断派と文治派の対立が家康にとって有利にはたらいたことは間違いない。これ以降、豊臣政権の政務は家康が一手に握ることとなる。

 本来なら3話ぐらいに分けてもよかったほどの内容を1話にまとめて、さらにタイトルにある『徳川の嫁』の話も進め、かなり詰め込み感満載となってしまった今話だったが、あくまで主役はお江の物語だから、これも仕方がないといったところだろうか。


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by sakanoueno-kumo | 2011-08-31 00:25 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(3) | Comments(0)  

島田紳助さんの引退=失脚騒動に思う。

島田紳助さんの突然の引退発表で今週は大騒ぎだったようですね。
現状、テレビ界のトップといっていい人物の、想像だにしなかった“引退”・・・引退と聞けば聞こえはいいですが、実質“失脚”ですから、当然の騒ぎといえるでしょう。
かつて、紳助さんが最も尊敬する先輩で師匠的存在だった上岡龍太郎さんが、惜しまれつつ芸能界を引退したのが55歳でしたが、奇しくも師匠と同じ55歳で芸能界を去ることとなった紳助さんの場合は、師匠のような勇退ではなく、なんとも後味の悪い“失脚”となりました。
彼の記者会見の話を信じれば、何も引退までしなくても・・・と思うんですけどね。
昔は、芸能界や相撲界のような興行の業界裏の世界との関係は表裏一体で、非常に深い繋がりがあったと聞きますし、紳助さんが所属する吉本興業などは、そんなダークサイドな噂はたくさんあったと思うのですが、今はそんな時代ではないということなんでしょうね。
でも、ヤクザ社会と芸能界の関わりがそれほどまでにタブーなんだったら、今でも頻繁に描かれている美化されたヤクザ像のドラマや映画も、即刻やめるべきなんじゃないですか?
彼は記者会見の中で、「この程度のことで」という言葉を使っていましたが、まさしく私も、「その程度のことで」と思ってしまいます。
別に犯罪を犯したわけでもなく、実際に犯罪を犯した人でも、何年か過ぎたら復帰できるのが芸能界ですから、それを思えばこの度のことなど、まさしく、「その程度のこと」なわけで・・・。
まあ、実際には私たちの知らない、「その程度」ではすまされない理由が別にあるのかもしれませんから、迂闊なことはいえませんが・・・。

今回のことは、ただただ「残念」の一言に尽きますね。
理由はどうあれ、もう彼のあの辛辣なトークが聞けなくなるわけですから。
元より好き嫌いの激しいタレントさんでしたから、ネット上などでは批判的な声もたくさん飛び交っているようですが、好き嫌いは別にして、私は紳助さんを“天才”だと思っています(素人が生意気なことをいうようですが)。
なかにはこの機に乗じて新聞までもが、「島田紳助には芸がなかった」などと評した記事を載せていたそうですが、どこを見てそのような評価になるのかは知りませんが、的外れも甚だしいでしょう。
私は、島田紳助明石家さんまは、バラエティー界が生んだ最高傑作だと思っています。
かつても、クレイジーキャッツドリフターズ萩本欽一桂三枝と、一時代を築いたバラエティータレントはたくさんいましたが、紳助さんとさんまさんほど、何十年にも渡ってずっとトップの座に座り続け、視聴者から支持されてきたタレントさんがいたでしょうか?
とんねるずダウンタウンなど、彼らの後にも才能ある後輩たちは出てきましたが、彼らを引きずり下ろすまでには至りませんでした。
さんまさんなんて、30代の頃にも、40代の頃にも、「明石家さんまの時代はもうすぐ終わる」なんて言われましたが、ぜんぜん終わらないじゃないですか。
紳助さんに至っては、50歳を過ぎてますます油が乗ってきたといった感じでしたからね。

上述したかつてのバラエティータレントさんたちは、コントを主体としていた方たちばかりでしたから、台本作家、手の込んだセットが必要で、その分、多額の予算も必要だったでしょうが、紳助さんとさんまさんの場合、放送作家いらずで台本もなしでマイクだけつけて、ひな壇に適当にタレントさんを並べておけば、2時間でも3時間でも番組を作っちゃえるわけですから、制作者サイドとしてはこれほど楽なタレントさんはいないでしょう。
現在では、他のMCで似たような番組がたくさんありますが、やはりそのスタイルのパイオニアである二人には、到底及びませんよね。
それをワンパターンだと批判する人もいますが、でもそのしゃべりだけで視聴率を取っちゃうわけですから、飽きられてないということでしょう。
「芸がない」なんてとんでもなく的外れな批評で、それが、彼らが確立した「テレビ芸」なわけで、しかも台本じゃなくその場の感性で作っていくわけですから、天才にしかできない芸だと思います。

かつては紳助・竜介という漫才コンビだった紳助さんですが、その漫才をやめた理由として、「ダウンタウンの漫才を見て自分たちの漫才は終わったと思った」と語っていましたが、その紳助・竜介が出てきた当初も、それまでの既存の漫才の概念を覆すもので、当時の先輩芸人たちにショックを与えたといいます。
漫才作家で関西お笑い界の生き字引といわれた故・香川登志緒翁もその著書の中で、その時代時代の天才漫才師として、エンタツ・アチャコやすし・きよし紳助・竜介ダウンタウンの名をあげています。
その場の感性で作るテレビ芸だけではなく、漫才という伝統芸の世界でも、紳助さんは天才と評されていたのです。
香川氏をはじめ業界の玄人が紳助さんの才能を高く評価しているのに、ど素人のブン屋ごときが、「芸がない」などとよく言えたものです。
今回の騒動と、島田紳助という芸人の才能の評価とは、まったく別問題だと思います。

「どんなにその会社に必要な人物でも、3ヵ月休めば居場所はなくなる。」などとよくいいますが、たしかにそのとおりで、紳助さんが芸能界から姿を消しても、そのうち誰かがその穴を埋めて、やがては忘れられていくでしょう。
ですが、才能ある誰かに引きすり下ろされたわけではないですから、彼と同じレベル、同じクオリティでの穴埋めとはいかないでしょうね。
上手い人はたくさんいますが、天才は、そうはいませんから。
本当に惜しい人を亡くしました・・・合掌(笑)。

ちなみに、来週は民主党の代表選挙があるようですが、完全に霞んじゃいましたね。
巷では、ポスト菅直人よりも、ポスト島田紳助の方が注目のようです(笑)。


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by sakanoueno-kumo | 2011-08-27 01:18 | 芸能 | Trackback | Comments(6)  

江~姫たちの戦国~ 第32話「江戸の鬼」

 死を目前にした豊臣秀吉が、徳川家康前田利家の次に、大老でも奉行でもない徳川秀忠に遺言したことを不快だという石田三成。実際に秀吉が秀忠に直に面会して遺言したかどうかはわからないが、秀吉の側近が整理した遺言11箇条3番目に、秀忠の名前が出てくる。その内容は、江戸中納言(徳川秀忠)は、秀頼の御姑になるので、内府(家康)が歳を取っても、秀頼をよく助力いただきたい、といったもので、秀忠を豊臣秀頼の将来の義父として重んじようとしている様子が伺える。

 そもそも、お江を秀忠のもとに輿入れさせた理由は、淀殿の実妹で秀頼の叔母に当たるお江を嫁がせることによって、のちの徳川家後継者である秀忠を味方につけようとしたものだっただろうし、その二人の間に生まれた娘・千姫と秀頼が婚約したとなれば、ますます秀忠と豊臣家の縁は深いものとなったわけで、秀吉としてはどうしても家康に信頼をおけない分、秀忠に対する期待は相当なものがあっただろうと想像できる。その意味では、大老でも奉行でもない秀忠の名前が3番目に出てくるのも当然のことで、それを不快に思う三成の方が見当違いな話である。もっとも、実際の石田三成は、そんなことは百も承知のことだっただろうし、そんなことに嫉妬するような偏狭な人物ではなかっただろうが・・・。

 それにしても、お江。ドラマはずっと秀吉に反抗してきた彼女だったが、秀忠との結婚といい、その後の千姫の出産といい、結局は秀吉の期待以上の貢献をしているところが面白い。3度の結婚などから考えても、秀吉にとっては最も役に立つ女性だったかもしれない。

 徳川家康暗殺の噂は、実際に秀吉の死後、何度となく流布したらしい。その企画者は、石田三成だったり、前田利長だったり、浅野長政だったり。しかし、現実に実行されることはなく、結局はただの噂に過ぎなかったことから、噂を流したのは家康自身だったのではないかという推測もあり、その説をとった小説やドラマもたくさんある。本当のところがどうだったかはわからないが、噂になった前田利長や浅野長政はそのせいで失脚させられたのは事実で、家康がその噂を上手く利用したのは間違いなさそう。家康はその噂を聞いた諸侯の動向を観察しながら、近い将来訪れるかもしれない豊臣家との戦に際して、敵と味方を見極めていたともいわれる。後世に『たぬき親父』と評される家康像は、この頃から見え始める。

 さて、江戸に下ったお江と秀忠夫婦。タイトルの「江戸の鬼」というのは、どうやら秀忠の乳母の大姥局という女性のことだったようである。残念ながら私はこの大姥局のことを知らないので、ここで何もウンチクができない。また、時間があるときに調べておきます。

 追伸
 現在、公私共に多忙を極めており、起稿が遅れがちになっています。何卒、ご容赦ください。



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by sakanoueno-kumo | 2011-08-25 02:11 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(1) | Comments(0)  

豊臣秀吉は6本指で、ひとつの眼球にふたつの瞳があった?

 豊臣秀吉6本指だった、という逸話があるのはご存知だろうか。これは、よくある偉人の超人的伝承とはちがって(たとえば、聖徳太子が一度に複数の人の話を聞き分けた・・・とか)、それなりの根拠をもった逸話である。この説の起こりは、織田信長時代にキリスト教布教活動のため来日していたポルトガル人の宣教師、ルイス・フロイスが編纂した『日本史』によるもので、その中に次のような記述がある。

 ルイス・フロイス『日本史』豊臣秀吉編 I 第16章
「優秀な武将で戦闘に熟練していたが、気品に欠けていた。身長が低く、醜悪な容貌の持ち主だった。片手には六本の指があった。眼がとび出ており、支那人のように鬚が少なかった。極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺していた。抜け目なき策略家であった。」


 これ以降、海外では、この「6本指説」が広く信じられてきたが、日本では、フロイス以外にこの点にふれる史料がないことや、フロイスの記述には多分に私怨が含まれているという理由から否定的な意見が多く、“邪説”とされてきた。

e0158128_03078.jpg しかし、私はこの説を信じている。たしかにフロイスの記述をみれば酷い言いようで、彼が秀吉に好感を持っていなかったことがわかるが、だからといって、6本指を作り話とする理由にはならないように思う。フロイスの残した安土城の記述などを読めば、彼は自分の目で見たことを執拗なまでに詳細に記しており、秀吉の6本指も、フロイスには強烈なインパクトとして映り、記録に残したものと考えられる。
(← 6本あるようには見えないが・・・。)

 そのフロイスの記述を裏付ける史料として、秀吉の旧友、前田利家が記した回想録が、近年になって見つかっている。その内容は次のとおり。

 前田利家『国祖遺言』
「大閤様は右之手おやゆひ一ツ多六御座候然時蒲生飛 生飛弾殿肥前様金森法印御三人しゆらく(聚楽)にて大納言様へ御出入ませす御居間のそは四畳半敷御かこいにて夜半迄御 咄候其時上様ほとの御人成か御若キ時六ツゆひを御きりすて候ハん事にて候ヲ左なく事ニ候信長公大こう様ヲ異名に六ツめかな とゝ御意候由御物語共候色々御物語然之事」


 この利家の談話からわかるのは、秀吉は右手の親指が1本多かったということ。要訳すると、「上様(秀吉)ほどのお人ならば、若いときに6本目の指をお切りなればよかったのに、そうされないので信長公は“六ツめ”と異名されていた。」と語っているもので、この談話を信じれば、フロイスの記述が“邪説”でないということになる。

 生まれつき手足の指が多い人のことを「多指症」というそうだが、これはそれほど珍しいことではないらしい。主にアフリカやヨーロッパに多いそうだが、東アジアでも1000人に1人ぐらいの割合で生まれるそうだ。ということは、戦国時代(織豊時代)の我が国の人口は約1200万人と言われるから、単純計算で1万人程度は「多指症」の人がいたということになる。ただ、戦国時代でも現代でも多指症に生まれた場合、幼児の間に切断して5本指にするのが一般的で(通常6本目の指は役に立たない場合が多いらしい)、その意味では、秀吉のように6本指のまま大人になった例は、当時としても珍しかったのかもしれない。

 では何故、秀吉は6本指のままだったのか・・・。ここからは私の想像だが、6本目の指を幼い頃に切り落とす慣習は、武士階級や、ある程度の身分の者に限られていたのではないだろうか。農民の家に生まれた秀吉は6本指のまま成長し、その後、武士となったことから、武家社会では珍しい存在となった。成長してから切り落とすことも出来たかもしれないが、彼はあえてそれをせず、周囲から奇異な目で見られることを逆に反骨心にして、天下人への出世街道を上っていったのではないだろうか・・・と。

e0158128_0351879.jpg しかし、天下人となってからの秀吉は、肖像画を右手の親指を隠す姿で描かせたり、どうも、6本指の事実を歴史上の記録から抹消しようとしたきらいがある。
(たしかに、この肖像画の右手の描き方も、少々不自然な気がしないでもない。 →)
“猿”“禿げ鼠”とあだ名されたことが、これほどまで後世に伝わっているのに対し、利家の談話にある“六ツめ”というあだ名は、現在でもあまり知られていない。これを逆に考えると、秀吉が“六ツめ”というあだ名を歴史の記録から削除するために、あえて、 “猿”“禿げ鼠”というあだ名が後世に伝わるように操作した・・・と考えるのは、穿ち過ぎだろうか。(あえて猿顔に肖像画を描かせた、なんてことはないと思うが。)秀吉にとって一番のコンプレックスは、卑賤の出自でも醜悪な容貌でもなく、6本指だったのでは・・・と。

 作家・司馬遼太郎氏が、小学校の教科書向けに書いた文章『洪庵のたいまつ』の中で、生まれつき病弱だった緒方洪庵について、こう述べている。
 「人間は、人なみでない部分をもつということは、すばらしいことなのである。そのことが、ものを考えるばねになる。」
 たしかにそのとおりで、たとえば野口英世は、1歳のときの火傷で左手の5本の指がくっついてしまい、その後13歳のときに指を切り離す手術を受けるも、生涯、左手の指は自由に動かなかった、という話は有名。発明王のトーマス・エジソンは生まれつきの難聴障害に苦しんだというし、ヘレン・ケラーにいたっては視力・聴力ともに失った人。そうしたハンデキャップを克服して名を成した偉人というのは歴史上たくさんいて、子供向けの伝記などでは、そんな逸話が大いにクローズアップされるものである。

 しかし、秀吉の「6本指説」にふれた伝記は少ない。近年まで邪説とされてきたこともあり、しかも6本指にまつわるエピソードや史料が少ないことを考えれば、これまでは当然だったかもしれないが、現在では真説と考える歴史家も多く、もっとスポットを当てていいのではないだろうか。6本指のコンプレックスをバネにして、天下人になった豊臣秀吉・・・と。

 ちなみに、秀吉にはもうひとつ、一つの眼球に二つの瞳があった(重瞳)という説もある。もっとも、これについての信憑性はきわめて薄く、まともに論じられることはめったにない。重瞳については、古代中国の伝説上の聖王であるが重瞳であったという伝承があり、日本においても重瞳は貴人の相と考えられていたらしく、おそらく秀吉のそれは、天下人となったあとの権威付けのためか、もしくは後の世に作られた伝承と考えてよさそうである。

 6本指にしても重瞳にしても、事実であれ虚像であれ、そんな常人とは異なった身体的特徴の伝承が残っていること自体が、豊臣秀吉という人物の歴史上の存在感の大きさといえるだろう。


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by sakanoueno-kumo | 2011-08-19 00:53 | 歴史考察 | Trackback(1) | Comments(10)  

江~姫たちの戦国~ 第31話「秀吉死す」

 慶長3年(1598年)3月15日、豊臣秀吉は京都の醍醐寺において、盛大な花見の宴を催した。後世に名高い「醍醐の花見」である。醍醐寺は京の都の南東に位置する由緒ある名刹。秀吉のこのイベントにかける思いは並々ならぬものがあったようで、花見の責任者に奉行の前田玄以を任命し、早くから寺観の整備に務めさせた。そして自らも下見のために醍醐寺へ足繁く通い、殿舎の造営庭園の改修を指揮。さらに、醍醐山の山腹にいたるまで、伽藍全体に700本の桜を植樹した。当日は嫡子の豊臣秀頼をはじめ、北政所淀殿ら近親の者、さらには配下の武将とその家族など約1300人が招かれたと伝わる。当時としては、最大規模にして最も豪華な花見で、この「醍醐の花見」が、その後の日本に花見の習慣を根付かせたともいわれる。

 参加した女性たちには2回の衣装替えが命じられており、そのきらびやかな衣装は秀吉の目を喜ばせた。ドラマでは描かれていなかったが、この花見の際に、側室の序列をめぐって淀殿松の丸殿(京極龍子)の間で争いがあったという話は有名。記録に残された当日の輿入れの順は、1番・北政所、2番・淀殿、3番・松の丸殿、4番・三の丸殿、5番・加賀殿、そのあとに、北政所が若い頃から親しくしていた、前田利家の正室・まつが続いた。正室である北政所が1番なのは当然として、秀吉は秀頼の生母としての淀殿の地位を重んじ、次席に据えた。ところが、この序列に面子を潰されたのが、淀殿より古くから秀吉の寵愛を受けていた松の丸殿。酒席で秀吉から杯を受ける際に、松の丸殿は序列を無視して淀殿の前に無理やり割り込み、二人の争いになった。この「杯争い」を、間に入って取り収めたのは秀吉ではなく、客人の立場であった前田利家の正室・まつだったとか。こういった場合、当事者の男は為す術を持たないのは、今も昔も同じようである。(このドラマでの淀殿と松の丸殿は、とてもそんな争いをしそうな二人ではないが・・・。)

 この浮世離れのイベントで秀吉たちが夢見心地なひとときを過ごしていたとき、朝鮮半島では激しい戦闘が続いていた。そもそも、この「醍醐の花見」が企画されたのは、朝鮮出兵で苦戦を強いられていた豊臣政権に漂う暗いムードを払拭したいという狙いがあったといわれ、また、自らの死期を感じ始めて精神的にも不安定な状態に陥っていた、秀吉自身の“気晴らし”という側面もあっただろう。会場となった醍醐寺の周辺は弓・槍・鉄砲を持った警備兵が囲み、そのものものしい警護も秀吉最後の宴に暗い影を落としていた。

 「醍醐の花見」からわずか5か月後に、秀吉は没する。秀吉はこの直後に病に倒れ、6月の終わりには赤痢のような症状に陥り、7月には、さすがに死期を悟ったのか、五大老・五奉行の制度を定め、任命者から起請文を提出させるなど、自身の死後の体制固めを懸命に行う。8月に入ると病状はますます悪化。この時点で、秀吉にとっての気がかりは、ただただ、まだ6歳秀頼の前途のみだった。

 「秀より事 なりたち候やうに 此かきつけのしゆ(衆)としてたのミ申し候 なに事も 此不かにはおもいのこす事なく候 かしく 八月五日 秀吉印」
 「いへやす(徳川家康) ちくせん(前田利家) てるもと(毛利輝元) かけかつ(上杉景勝) 秀いえ(宇喜多秀家) 万いる 返々秀より事 たのミ申し候五人の志ゆ(衆)たのミ申し候 いさい五人物ニ申わたし候 なこりおしく候 以上」


 五大老に向けた秀吉の遺言状である。とにかく秀頼のことをよろしく頼むと、手を合わせるようにして五大老らに頼み続けている。天下人の最後のメッセージとしては、あまりにも無様で哀れな内容だが、幼子を残して逝く親の心中としては、少なからず共感できなくもない。むろん、戦国時代の中で戦い抜いて天下人となった秀吉は、主家である織田信長の子に対して自らのとった仕打ちを思えば、誓紙口約束など何の役にも立たないことはわかっていただろう。わかってはいても、そうするしかなかった。そこが、秀吉の最後の悲痛さである。

 慶長3年(1598年)8月18日、豊臣秀吉はその劇的な生涯に幕を閉じる。享年62歳。
 その辞世の句は、

 つゆとをち つゆときへにし わがみかな なにわの事も ゆめの又ゆめ
 (露と落ち 露と消へにし 我が身かな 浪速のことは 夢の又夢)


 出来すぎといっていいほど見事な辞世だと私は思う。日本史上最大の成功者が最後に辿りついた境地が、「なにもかもが夢であった。今となってはな・・・。(手前勝手意訳)」であったというところに、感動させられる。まるで、物語のような人生であったと・・・。しかしその前の、この世に未練いっぱいの悲痛な遺言状とは、およそ異質なもののように思えるのは、私だけではないだろう。はたして、この辞世の句と遺言状は、同時期に作られたものなのだろうか。もしそうであれば、どちらが本当の秀吉の心中だったのだろうか。この辞世は、本当に秀吉が作ったものなのだろうか。そんな疑問を抱かずにはいられないほど、あまりにも落差のある、二つの文章である。

 秀吉の最後は、豪壮華麗伏見城での臨終だった。数限りない武将を戦場で無念の死に追いやってきた男は、誠に平和で安らかな臨終を迎えられる立場に恵まれながら、人を信じられず、我が子の行く末を案じ、最後は狂乱状態であったともいわれる。志半ばで戦場に散った武将たちと、財も位も権力も昇りきれるところまで昇りつめた豊臣秀吉の、どちらが幸せな死に際であったか・・・。あらためて、人生の難しさを感じずにはいられない。

 お江と秀吉の関係については、すべてドラマの創作であることはいうまでもない。実際に、秀吉にとってお江という女性が、どの程度の気に留める存在であったかは想像でしかない。しかし、少なくともお江にとって秀吉は、自身の25年間の人生から切っても切り離せない存在であったことは間違いないだろう。秀吉の死の報にふれたお江は、きっと、感慨深い思いだったに違いない。その意味では、最後のお江の涙は、決してフィクションとはいえないだろう。


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by sakanoueno-kumo | 2011-08-17 22:19 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(2) | Comments(0)  

ドラマ『それでも、生きてゆく』に思い出す、14年前のあの事件。

『それでも、生きてゆく』というTVドラマにハマっています。
少年犯罪被害者家族加害者家族の物語で、第1話は観逃したのですが、なんの気なしに観た第2話に引き込まれてしまい、以後、録画してでも観ています。
ドラマはフィクションと謳ってはいますが、加害者が14歳の少年で、被害者が小学生の幼女で、ハンマーで殴る手口や、その凶器を自宅屋根裏に隠していた描写など、明らかに、1997年に日本中を震撼させた、あの神戸連続児童殺傷事件、いわゆる“酒鬼薔薇聖斗事件”を下敷きにしていると見ていいのでしょう。
脚本は坂元裕二さんで、主題歌は小田和正さんという、往年の『東京ラブストーリー』コンビ。
物語の舞台は、事件から15年が過ぎた現在で、名前を変えて人里離れた農園で働きながらひっそり暮らす元少年Aと、転職、引越しを繰り返しながら隠れるように生きてきた加害者家族、娘を殺されたことで夫婦間にヒビが入り、家族がバラバラになってしまった被害者家族と、それぞれの苦悩が真摯に描かれています。
瑛太さん演じる被害者の兄と、満島ひかりさん演じる加害者の妹が、「禁断の愛」となりそうな予感がして、それはさすがにどうよ!・・・と思わなくもないですが・・・。
だって、フィクションとはいえあまりにも現実にあった事件とラップし過ぎていますからね。
当事者が観られたら、どう思うのかと・・・。

“酒鬼薔薇聖斗事件”といえば、私たち神戸市民にとっては忘れることのできない暗い記憶です。
事件が起きた1997年とは、「阪神・淡路大震災」が起きた2年後のことで、表面的には復興が進んでいたものの、その復興の波に乗れた人と乗りそこねた人の格差が生じ始め、震災による経済的な二次災害がボディーブローのように効き始めた頃でもあり、神戸全体が震災直後とはまた違った意味での、殺伐とした空気に包まれていた頃でした。
そんな折り、またも日本中の人が神戸に注目することになった出来事が、あの“酒鬼薔薇聖斗事件”でした。
当時、神戸はもはや人の住める街ではないんじゃないか?・・・なんて、他の地域に住む知人からいわれたものです。

私の住まいは、あのおぞましい出来事があった学校や、有名になった“タンク山”などから車で10分ほどのところで、買い物などで頻繁に通る場所です。
見慣れた景色が全国ネットの報道番組で、毎日毎日流れるというのは、なんとも妙な気分でした。
当時の街の物々しい雰囲気も忘れられませんね。
事件が起きてから加害者の少年が逮捕されるまで、小中学生はすべて集団登下校が強制され、街には石を投げれば当たるほど警察官が立ち、巡回しているパトカーは兵庫県警のものだけではなく、近隣の県からかなりの応援部隊が神戸に集結していたようで、まさしく、人の住むべき街ではないような物々しさでした。

当時、加害者逮捕前の報道では、犯人は黒いワンボックスカーに乗った30歳代の長身の男などといわれてましたが(私の知人で黒いワンボックスカーに乗った30歳代の長身の男性は迷惑がってましたが・・・笑)、私はあの犯行声明文からみて絶対に未成年か、せいぜい20歳ぐらいの若者の犯行だと思ってましたよ(当時、妻や職場の同僚たちにもそう豪語してましたし)。
当時のテレビに出てくる専門家の見解では、文中に「積年の恨み」など古い言い回しが使われていることなどから30歳代以上の中年世代と分析していましたが、絶対そんなことないと思ってました。
そもそも学校や義務教育に向けた恨みつらみなんて動機自体、卒業して間もない若者の抱く感情であって、卒業して何十年も持ち続ける感情でもないでしょうし、たとえ恨みが残っていたとしても、報復の矛先が違うように思います。
さすがに14歳と知ったときは驚きましたが、こういった事件での学者の分析なんて、結構的外れなものだなあ・・・と思ったものです。

当時、私は2歳の息子を持つ新米親父で、どう間違えたらこのような凶悪犯が育つのか、これから子供を育てていく上で非常に恐怖を覚え、ゆえに興味深くもありました。
で、何年かのちに加害者の両親が書いた手記『「少年A」この子を生んで・・・』も読みました。
正直、かなり後味の悪い本で、読まなきゃよかったと思いましたね。
手記を読んでわかったのは、犯行の原因は育った環境や育て方ではなく、「少年A」が生まれ持った異常な性癖が原因であること。
言ってみれば、究極のサディストだったわけで、これはある意味どう仕様もないこと。
彼はこの世に生まれてくるべきじゃなかった人間だと思います。
ただ、その異常性を気付いてやれるかどうかが、親として最も重要な務めなのでしょうが、この「少年A」の両親は、少年がある時期から異常な信号を発していたにも関わらず、気付いてあげることが出来なかったんですね。
でも、これってこの両親に限ったことではなんじゃないかと思います。
ほとんどの親は、自分の子が異常だとは思わないでしょうから・・・。
親は自分の子供のことは一番よく見えていると思いがちですが、それは大きな間違いで、親であるからこそ見えないことがたくさんあるということを知らなければなりませんね。

このドラマをキッカケに、当時のことを思い出しました。
当時2歳だった私の息子ももうすぐ17歳になり、その後に生まれた娘も9歳になった今、改めて親の気持ちになって、被害者の親加害者の親と、究極の選択でどちらになりたくないかと妻に質問したところ、妻は迷わず被害者の親と答え、私は加害者の親といいました。
これは、男と女の違いかもしれず、父親と母親の違いかもしれません。
当然ですが、どちらにもなりたくないという答えが正解ですけどね。

このドラマで印象的なのは、加害者家族の方が曲がりなりにも家族として結束していて、被害者家族の方が夫婦兄弟ともにバラバラになってしまっていたこと。
普通は逆に思いがちですけどね。
現実にはどうかはわかりませんが、あながち的外れでもないのかもしれません。
ドラマは第5話が過ぎたとこで、これからが核心部分に入っていくのでしょう。
どんな着地点が用意されているのか、今後も目が離せません。


ゴメンナサイ・・・時代劇ではありませんが・・・。
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by sakanoueno-kumo | 2011-08-11 20:09 | その他ドラマ | Trackback | Comments(8)  

江~姫たちの戦国~ 第30話「愛しき人よ」

 「夫婦になることを望んだほうが負け」
 という、よくわからない意地の張り合いで始まったお江徳川秀忠の新婚生活。その我慢比べは、結局1年近くにも及んだそうな。二人が結婚したのは文禄4年(1595年)9月のことで、こののち二人の間に最初の子・千姫が生まれるのが、慶長2年(1597年)4月のことだから、設定としてはギリギリない話ではない。いうまでもなく二人の結婚は、豊臣家徳川家の関係をより強固にするための縁組だっただろうが、当の本人たちは本意であったかといえば、ドラマのとおり二人とも乗り気ではなかったかもしれない。前夫・豊臣秀勝との死別から3年しか経っておらず、しかも愛娘・完子を豊臣に残してまで嫁いできたお江にしてみれば、6歳年下の秀忠は頼りなく思えただろうし、秀忠にしてみれば、初婚の相手がバツ2子持ち年増(23歳だが)となれば、妻として素直に受け入れ難い思いもあっただろう。そんな二人がお互いを理解しあって本当の意味での夫婦になるまでには、1年近くの月日を要した・・・ということが描きたかった今話だったのだろうと、鷹揚に受け止めることにしよう(笑)。

 夫である京極高次側室の間に子供が生まれていたことを知り、嘆くお初。高次とお初が結婚したのは天正15年(1587年)で、側室が世継ぎ(のちの京極忠高)を産んだのは文禄2年(1593年)のこと。6年間も子宝に恵まれなければ、側室に向かうのは当然のことで、むしろ妻の側から側室を推めるべきことであった。しかし、そうはいっても、その側室がスンナリと懐妊したと聞けば、子を授からない原因が妻にあることが立証されることになり、正室の立場としては心穏やかではなかっただろう。このときお初24歳。まだまだ出産を諦める年齢ではなく、お茶々の懐妊を知ったときの北政所のようにはいかなかっただろう。しかし、こののちもお初と高次の間に子が出来ることはなかった。

 「どんどん子を産んでひとり私にくれ!」
 お初がお江に言ったメチャメチャ単刀直入な台詞だが、実際にこの言葉は現実のものとなる。お江はこののち秀忠との間に二男五女の子宝を授かることになるが、この時期より7年後の慶長7年(1602年)に生まれたお江の四女・初姫を、お初の養女として京極家に迎え入れ、側室の産んだ継嗣・忠高と娶せた。一説には、お江が伏見で女児を出産すると、祝いに訪れたお初がその場でこの女児を養女に欲しいと懇願し、お江が同意するとお初はそのままこの子を連れて帰ってしまったとも伝えられる。初姫という名前からみても、生まれた子が女児ならお初の養女として譲ることが、出産前からの約束だったのかもしれない。お初にしてみれば、京極家での自身の立場を守るためにも、姪にあたるお江の娘がどうしても欲しかったのだろう。出産というのは、女性にとってはであった。

 お号と秀忠の結婚から1年近くが過ぎた頃、二人の居所・伏見徳川屋敷火事が起こり、そのことをきっかけにお江は秀忠の心根を知ることとなり、二人の意地の張り合いは終わったという今話。先週の予告編を観たとき、この火事はおそらく、慶長元年閏7月13日に近畿地方で起きた、「慶長伏見地震」と呼ばれるマグニチュード7以上の大地震が原因だと思っていた。この地震で指月伏見城は天守閣が倒壊し、城内だけで500人もの死者が出たという。2006年の大河ドラマ『功名が辻』山内一豊千代の娘が死んだ、あの地震である。震源は淡路島断層地帯といわれ、1995年に起きたあの「阪神・淡路大震災」に非常によく似た地震だったとか。この地震がちょうどドラマのこの時期であり、おそらくそれが原因の火事だろうと思った視聴者は、私だけではなかったのではないだろうか。

 ところが、設定では「単なる不始末による火事」だったようである。なんともシックリ来ない設定だが、私が思うに、元々は「慶長伏見地震」を絡ませる設定だったところが、今年3月11日に「東日本大震災」が起きたため、被災地の視聴者への配慮から、このような設定に変えたのではないだろうか(私は原作小説を読んでいないので、間違っていたらゴメンナサイ)。だとすれば、この唐突な火事騒動の設定も納得できなくもないが、しかし残念でもある。ドラマで歴史的事実である地震を描かないことが、被災者のためになるとも思えないし、描くことが不謹慎だとも思えない。むしろ、戦国時代にもこのような大地震があって、その苦境を乗り越えてきた人たちを描くほうが、逆に今必要な気がする。ドラマに限らず、どうも震災以降、的外れな“自粛”が蔓延しているように思えてならない。

 さて、次週はいよいよ豊臣秀吉の死が描かれる。


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by sakanoueno-kumo | 2011-08-08 20:43 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(2) | Comments(4)  

なでしこジャパンの国民栄誉賞授与に思う。

サッカー女子ワールドカップで優勝した日本代表チーム「なでしこジャパン」に、国民栄誉賞が授与されることが正式に決まったそうですね。
団体での受賞は今回が初めてだとか。
たしかに、男女通じての初のW杯制覇という快挙を成し遂げ、東日本大震災以降テンションが下がりっぱなしだった国民に、立ち上がる勇気と希望を与えてくれた彼女たちの活躍は素晴らしいもので、後の世に語り継がれるべき偉業だと思います。
ですが、国民栄誉賞といわれると、少々違和感を持ってしまうのは、私だけでしょうか。

そもそも国民栄誉賞の選考基準の曖昧さはこれまでもいわれてきたことですが、そのわりには他の勲章などよりも知名度が極めて高いのが、この賞の特徴です。
というのも、過去に受賞された18組の方々が、誰もが認める錚々たる顔ぶれだからでしょう。
最初の国民栄誉賞受賞者となった王貞治氏は、その受賞理由となった本塁打世界記録樹立の実績以上に、国民栄誉賞に選ばれたという事実が、王貞治氏の功績を確固たる地位に押し上げたといっても過言ではありません。
その後の受賞者をみても、たしかに選考基準の曖昧さは否定できませんが、「なぜ、この人物が受賞できないのか?」という批判はあっても、「なぜ、この人物が受賞するのか?」という声は、あまり聞こえてこなかったように思います。
そのことからも、いかにこの賞が権威のある賞であるかが見て取れます。

私が思うこの賞の受賞条件は、王貞治氏が受賞して長嶋茂雄氏が受賞していないことや、渥美清氏が受賞して石原裕次郎氏が受賞していないこと、長谷川町子氏が受賞して手塚治虫氏が受賞していないことなどからみるに、“記憶”だけではなく“記録”を残していることが重要な条件だと思われます。
それも、短期間の記録ではなく、長年に渡って積み重ねてきた記録や実績が必要で、たとえ大変な偉業であったとしても、一瞬の輝きだけでは評価されないものだと解釈できますし、おそらくこの賞の設立当初はそうだったと思います。
ところが、その定義に当てはまらない受賞者が出たのは、2000年のシドニー五輪・女子マラソンで金メダルに輝いた高橋尚子氏の受賞でした。
たしかに彼女の偉業はこの度の「なでしこ」たちと同じで、日本女子陸上界初の金メダルを、オリンピックの花形であるマラソンの舞台で、しかも当時のオリンピック新記録という快挙まで成し遂げての獲得という点でいえば、伝説のランナーとして後世に語り継がれるアスリートであることは間違いないでしょう。
ですが、「長年に渡って積み重ねてきた記録や実績」という観点でいえば、それまでの受賞者と比べて明らかに異色なものでした。
高橋尚子氏の受賞がありなら、たしかに今回の「なでしこ」たちの受賞もありですよね。
でも、であれば、長嶋さんや手塚さんなど、他にも受賞できる人がたくさんいるようにも思えます。

かつてシアトルマリナーズのイチロー選手が、メジャーリーグで日本人選手史上初となる首位打者を獲得したとき、小泉純一郎内閣から授与を打診されましたが、「国民栄誉賞をいただくことは光栄だが、まだ現役で発展途上の選手なので、もし賞をいただけるのなら現役を引退した時にいただきたい。」と固辞しました。
さらにイチロー選手は、のちにメジャーリーグのシーズン最多安打記録を樹立した際にも授与を打診されましたが、このときも同じ理由で固辞しています。
彼は、時の内閣の方々以上に、この賞の重みを知っていたのでしょう。

元阪急ブレーブスの福本豊氏は、当時の世界記録となる通算939盗塁を達成した際に、当時の中曽根康弘内閣から授与を打診されたそうですが、「そんなんもろたら立ちションもでけへんようになる。」といって固辞したそうです。
いかにも福本氏らしい断り方ですが(賞にかかわらず立ちションはいけませんが・・・笑)、ある意味、真理だと思います。
受賞すれば、国が認める国民の英雄となるわけですから、その地位に相応しい生き方をせねばならず、その後の人生が大変かもしれません。

高橋尚子氏は、この国民栄誉賞受賞以降、そのプレッシャーからか成績も振るわなくなりました。
彼女についていえば、もし国民栄誉賞など貰っていなかったら、五輪2連覇もあったんじゃないかと思ってしまいます。
美空ひばり氏や長谷川町子氏が受賞したとき、「なぜ存命のうちに授与しないのか」という批判の声が多く聞こえましたが、私はそれでいいんじゃないかと思うんですよ。
スポーツ選手は引退してから、文化人は死んでから、現役中に受賞するものじゃないんじゃないかと・・・。
この度の「なでしこ」たちの受賞で、女子サッカーの頂点がこの2011年W杯になってしまわないことを祈ります。


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by sakanoueno-kumo | 2011-08-05 19:52 | 他スポーツ | Trackback(1) | Comments(6)  

松井秀喜選手の5打席連続敬遠を指示した馬淵史郎監督のインタビュー記事に思う。

もうすぐ夏の高校野球甲子園大会が始まりますが、昔の高校野球ネタで大変興味深い記事を見つけたので、本日はその記事について、わたしの思うところを述べさせていただきたいと思います。
先日、日米通算500本塁打を達成した、現・MLBアスレチックスの松井秀喜選手が1992年夏の高校野球甲子園大会で、5打席連続で敬遠されたというエピソードはあまりにも有名ですが、その敬遠を指示した明徳義塾馬淵史郎監督が、そのときの采配について語ったインタビュー記事です。
まずは、記事本文をそのまま記載します。
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松井秀喜5連続敬遠指示の監督 「人を敬うからこそ敬遠」
まもなく今年も高校野球の甲子園大会が始まるが、高知の明徳義塾・馬淵史郎監督は今年で監督生活21年。計21度の甲子園出場で通算36勝20敗。2002年夏には優勝旗を取った高校球界きっての名将をインタビューした。

──馬淵監督といえば、1992年大会の対星稜(石川)戦の「松井秀喜5連続敬遠」を語らずにはいられません。
「そやね。おかげさまで有名になりました。私は今でも間違った作戦だったとは思っていない。あの年の星稜は、高校球児の中に1人だけプロがいるようなものだった。あれ以前も、あれ以降も、松井くんほどの大打者と僕は出会っていません。甲子園で勝つための練習をやってきて、その甲子園で負けるための作戦を立てる監督なんておらんでしょ? 勝つためには松井くんを打たせてはいかんかった」

──高校野球ファンの心理を逆撫でしたのは、7回表2死無走者の場面でさえ、松井選手を歩かせたことでした。
「その時点で3-2だったでしょ。これが2点差だったら、ホームラン打たせてやりましたよ。しかし、1点差だった。もしホームランを打たれたら同点になるわけですよ。たとえヒットで終わったとしても、松井くんが打つことによって他の選手が勢いづく。そういう波及効果も恐れていました。僅少差の展開では、たとえ2死であっても歩かせることのリスクは大きいんですよ。敬遠は逃げじゃない。そこは理解してもらいたい。ただ、選手は監督の作戦に従っただけなんだから、子供たちへのバッシングはかわいそうだった。子供たちに申し訳ないことをしたと思っています」

──当時のナインに対する負い目があるということですか。
「それはない。負い目があったら監督を続けていません。あんな作戦を取って負けていたら監督を辞めていたでしょうが、勝ったわけやからね。
そもそも私は野球のルールを犯したわけやない。松井くんと勝負して抑えられるとしたら、インコースの高めしか打ち取る方法はなかったはずです。だけど胸元だけを攻めて、デッドボールを当ててケガでもさせてしまった方がよっぽど汚い野球だと思いますよ。
 野球では『盗塁』とか『刺殺』というように、盗むとか殺すといった不謹慎な言葉が使われている。その中でキレイな言葉といったら『敬遠』ぐらいのものですよ。人を敬うからこそ敬遠なわけです」

※週刊ポスト2011年8月12日号
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いろんな考え方があって然りだとは思いますが、私はこのインタビュー記事を読んで、馬淵監督は最も大切なことを忘れていると思わずにいられませんでした。
それは、高校野球は“勝負ごと”である以前に部活動であり、“教育の一環”であるということ。
高校球児はプロ野球選手のように、勝敗や成績がすべてではありません。
もちろん“勝負ごと”である以上、勝利を目標にして戦うわけですが、“教育の一環”である以上、勝つためのプロセスが重要だと思います。
勝負ごとに勝つための“指揮官”としての馬淵氏は、なるほど優れたスキルを持った方なのかもしれませんが、社会に出る前の子どもたちを指導する“教育者”としては、申し訳ありませんが、およそ相応しくない方だと思えてなりません。。

>勝つためには松井くんを打たせてはいかんかった

たしかに松井選手との勝負を避けたことで、明徳はこの試合に勝つことができました。
しかし、明徳ナインはこの試合で何を学び、何を得たのでしょう。
得たものといえば、世間からのバッシングだけだったのでは?
たしか、次の試合では世間からの白眼視に硬直して力を発揮できず、結果はボロ負けだったと記憶しています。
高校生の彼らにとっては、あの世論はあまりにも重荷だったと思います。
社会に出れば、上手くいく可能性の極めて低い事柄に、あえて挑まなければならない場面がままあります。
松井選手とて、勝負したからといって5打席連続本塁打ということは、たぶんなかったでしょう。
たとえ1打席でも松井選手を抑えることができたら、彼らの勲章になったでしょうし、勝負したことで試合に負けたとしても、そこから学び得ることはたくさんあったと思います。

>そもそも私は野球のルールを犯したわけやない

たしかにルールには反していませんが、倫理には反していると思います。
そもそも、ルールに反していなければ何をやってもいいという考え方が、指導者、教育者としていかがなものでしょう。
「法を犯したわけじゃない」といって、時間外取引という裏技を使ってニッポン放送株を買収しまくった若い実業家もいましたよね。
あれと同じです。

というのも、この5打席連続敬遠に限らず、馬淵野球にはそういった手段を選ばない倫理に反した行為が多く見られます。
たとえば、昨夏の沖縄代表興南高校と対戦した2回戦、相手投手が投球モーションに入ろうとすると打者はバッターボックスを外すといった遅延行為を再三繰り返し、主審から注意を受けていました。
おそらく、大会ナンバーワン左腕の島袋洋奨投手を容易には打ち崩せないだろうとみて、島袋投手をイラつかせるための心理作戦だったのでしょう。

他にも同試合では、明徳のブルペン(高校野球の場合、ファールグランド)で投球練習をしている捕手が落球して、そのボールがフィールド内に転がり込んだため試合が中断するといった場面も何度かありました。
これも、おそらく故意だと思います(少年野球ならともかく、甲子園に出場するような高校球児が、1試合の中でそう何度もミスをするとは思えません)。
こんな姑息な心理作戦は、今どきプロでもやりません。
でも、馬淵さんはそんな姑息な手段を高校生に教えているわけですよ。
このように、ルールに反していなければ何をやってもいいといった考え方が、教育の場である部活動に持ち込まれるのは、わたしは賛成できません。

とはいっても、私は馬淵史郎監督と面識があるわけではありませんので、あくまで氏の野球観からみた個人的意見です。
実際には、どんな方かは知りません。
ただ、スポーツにおける指揮官の采配というのは、その方のものの考え方が映しだされるものだと思いますけどね。

>人を敬うからこそ敬遠

なるほど、上手いこと言ったなと思ってしまいそうになりますが、本来の“敬遠”という言葉の持つ意味を辞書で調べてみると、「表面では敬うような態度で、実際には関わりを持たないようにする」とあります。
決して馬淵さんのいわれるような、キレイな言葉ではありません。
本当に心から敬う気持ちがあるならば、その人と関わりを持ちたいと思うのが人間でしょう。

後年、ビッグになった松井秀喜選手は、「あの敬遠で自分に箔がついた」と語っていましたが、松井選手にとってはそうだったかもしれませんが、あのとき敬遠した明徳の河野和洋投手は、「松井を5打席連続で敬遠した投手」というレッテルがいつまでもついてまわり、その後の野球生活では辛い思いをしたと聞きます。
馬淵監督がいう、勝つために必要だった作戦は、そんな代償を払っての勝利だったということです。
それでも、「今でも間違った作戦だったとは思っていない」と語る馬淵史郎監督の野球観は、私はどうにも好きになれません。




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by sakanoueno-kumo | 2011-08-03 22:02 | 高校野球 | Trackback(2) | Comments(55)  

江~姫たちの戦国~ 第29話「最悪の夫」

 お江豊臣秀吉の命により、徳川家康の三男・徳川秀忠のもとに輿入れしたのは、文禄4年(1595年)9月。前夫である豊臣秀勝の死から3年後のことであった。このとき、お江23歳、秀忠17歳。同時代の武将、大名が年上の正室を迎えた事例は皆無ではないが、お江のように6歳も年上の正室というのは稀といっていい。現代の感覚でいえば、4年制大学を卒業したOL1年生の大人の女性と、まだ子供っぽさが拭いきれない高校2年生の少年の夫婦である。実際には、もっと歳の差が感じられたかもしれない。23歳といってもお江は、バツ2子持ちである。これまで彼女が歩んできた波乱の人生からいっても、現代の23歳とは比べものにならないほどの人生経験を積んできており、17歳の秀忠とでは完全に大人と子供の関係だったかもしれない。そんなこともあってか、秀忠は恐妻家であったと後世に伝わる。あながち的外れでもないように思う。

 しかし、ここで少しだけお江を擁護しておくと、過去に結婚歴があるのはお江だけではなく、秀忠も実はバツ1であった(婚約だけだったという説もあるが)。お相手は織田信長の次男・織田信雄の娘で秀吉の養女でもあった小姫(春昌院)。信雄とお江は従兄妹にあたるから、小姫とお江も血縁関係(いとこ半)ということになる。ときはお江との結婚の5年前の天正18年1月、秀忠12歳、小姫6歳であったと伝わる。ところが同年8月、信雄が秀吉からの関東への転封(国替え)命令に難色を示したため除封(お取りつぶし)となり、そのため小姫も離縁された。

 まあ、12歳と6歳の夫婦と聞けば、多分にかたちだけの結婚であったことが想像でき、秀忠をバツ1といってしまうには少々気の毒な気がしないでもないが、それでも結婚歴には違いない。いってみればお江の初婚・佐治一成との結婚も、小姫ほどではないにしても12歳という幼さで、実際に同居していたという史料も残っておらず、秀忠と小姫同様、かたちだけの結婚だったのかもしれない。ドラマ中、“政略結婚”という言葉が頻繁に使われるが、そう聞けば何かダーティーな魂胆を想像しがちになるが、つまりは家と家との同盟の証ということで、だから年齢などどうでもよく、かたちだけに意味があった。だから、簡単に引っ付いたり離れたりする。現代のバツ2とは、少し違うようである。

 ちなみに徳川家を離縁された小姫は、その1年後に死去したという説もあれば、織田家に復籍したのち佐々一義と再婚したという説もあり、他には、生涯独身を貫いたという説もある。もし、最後の説が正しかったとするならば、お江にとっては夫の前妻とはいえ“いとこ半”の間柄でもある小姫のことを、その後も気にかけていたことだろう。

 愛娘・完子を豊臣家に残して嫁ぐことになったお江(完子のその後については、以前の稿で詳しくふれているのでそちらを一読ください<参照:第27話「秀勝の遺言」>)。ドラマでは、今生の別れのように描かれていたが、実際にはその後も会うことは可能であった。言うまでもなく、徳川家の居城は武蔵江戸城だが、この頃の秀忠は上方にいることがほとんどで、大坂城内か伏見城のどちらかに起居していたと思われ、新婚当初の秀忠・お江夫妻が住んだのもどちらかの城内であったと思われる。つまり、お江と完子はその後も同じ城内で暮らしていたかもしれないということ。こののち、関ヶ原の戦いを経て江戸幕府が開かれたのちも、秀忠が多くの時間を上方で過ごしていた関係で、お江、さらにはお江と秀忠の間に生まれた子どもたちも、伏見城で暮らしていたようである。のちにお江は江戸城本丸の大奥に移り住むことになるが、完子の幼少期はお江もほとんど上方で暮らしていたようで、完子が13歳で嫁ぐ慶長9年(1604年)の時点でも、お江はまだ上方にいたかもしれない。豊臣家と徳川家の隔たりはあったものの、案外、頻繁に会う機会があったのではないだろうか。

 豊臣秀吉の養女同様の存在であるお江を正室に迎えたことで、徳川家の世子(次期当主)としての地位が一層強固なものとなった徳川秀忠。これまでの秀忠像とは随分と違った描かれ方のこの度の秀忠が、気の強い姉さん女房のお江とどんなふうに夫婦の絆を築いていくか、今後の展開を楽しみにしたい。


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by sakanoueno-kumo | 2011-08-01 22:02 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(2) | Comments(2)