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夏休み播磨路紀行 その4 戸倉峠名物「滝流しそうめん」

「暑さ寒さも彼岸まで」とはよくいったもので、先週末あたりから急に朝晩が涼しくなってきました。
今週末には10月、もうですね。
にもかかわらず当ブログでは、未だ夏休みシリーズが続いています(汗)。
なんとか今月中には終わらせたいとは思っているのですが・・・(といっても、あと2日しかありませんが・・・)。

で、先週の続きです。
前回紹介した原不動滝公園から国道29号線を車で30分ほど北上し、兵庫県と鳥取県の県境にある「戸倉峠」まで足を運びました。
この戸倉峠は標高891mの高さに位置し、兵庫県および中国地方の分水嶺では最高地点
古くは播磨国因幡国を結ぶ要地で、播磨国の人々は因幡街道と呼び、因幡国の人々は播州街道と称していたそうです。
戦国時代には、豊臣秀吉の軍勢が姫路城からこの戸倉峠を超えて、鳥取城に攻め込んだ・・・そんな歴史もあります。
一方で、兵庫県および中国地方屈指の豪雪地帯でもあり、古くからの難所でもありました。
昭和30年(1955年)に742mの戸倉峠トンネルが開通したものの、道が狭く屈曲している上、積雪による通行止めに度々悩まされてきたそうですが、平成7年(1995年)になって、戸倉峠トンネルより少し下った標高731mの地点に1730mの新戸倉トンネルが開通し、今ではスムーズな交通が可能になっています。

さて、この日の目的は峠越えではなく、『戸倉峠名物 滝流しそうめん』でした。
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この滝流しそうめんのお店は、夏になると毎年どこかのテレビ番組で紹介されており、地元ではかなり有名なお店です。
この日は夏休み最後の日曜日ということもあって、約1時間待ちの盛況ぶりでした。
店に入ると、明石家さんまさんをはじめ、来店した多くの芸能人・著名人の方の写真やサインが飾ってありました。
看板には「日本でここだけ」と書いてありましたが、本当なんでしょうか・・・?

で、これが驚きの店内の様子です。↓↓↓
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「流しそうめん」というと、大方の人は竹を半分に割った樋を連想すると思うのですが、ここでは写真のとおり、どう見ても塩ビ管です。
風情も何もあったもんじゃない・・・んですが、この樋が渓谷の上をまたいでいて、川のせせらぎの音とそうめんの流れる音が重なって、それはそれで雰囲気がありました。
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でも、とにかく長い!・・・ムダに長い(笑)。
塩ビ管の長さは30m以上ありそうです。
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長い樋を伝って、最後だけはステンレスの樋になっており、流れてきたそうめんをざるで受けます。
このざるが、竹や籐のざるではなく、またプラスチックなんですけどね(苦笑)。
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そうめんが流れる道中は渓谷の上ですから、当然屋根はなく、雨晒しの吹き曝しです。
でも、「樋はちゃんんと掃除してるの?」「衛生上は問題ないの?」なんてことをいうのは無粋というもの。
こういうお店は雰囲気を楽しむものですから・・・(でも、野鳥の糞とか流れてこないのかなあ・・・なんて思わなくもないですが・・・笑)。
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さくらんぼが流れてきたら終了の合図(これが結構可愛い)。
延長はできません(笑)。

ここで使用されているそうめんは、この地域の名産品の手延素麺『揖保乃糸』で、流している水は、このすぐ北にそびえ立つ標高1510mの氷ノ山から湧き出る名水を使用しているそうです。
だから決して雰囲気だけではなく、味も保証付きです(衛生面の保証はしりませんが)。
近くを通った際には、ぜひ一度食してみてはいかがでしょうか?
間違いなく話のネタにはなります(笑)。

あと一回くらい続きます。

夏休み播磨路紀行 その1 「なでしこジャパン」ならぬ「なでしこの湯」
夏休み播磨路紀行 その2 波賀温泉「楓香荘(ふうかそう)」
夏休み播磨路紀行 その3 日本の滝100選「原不動滝」
夏休み播磨路紀行 その5 家原遺跡公園「古代村」



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by sakanoueno-kumo | 2011-09-28 22:43 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

江~姫たちの戦国~ 第37話「千姫の婚礼」

 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに大勝利を収めた徳川家康は、同8年(1603年)2月12日に朝廷より征夷大将軍の職に任ぜられ、事実上、江戸を中心とした武家政権を開始した。一般にこれを「幕府を開く」というが、この時代に「幕府」という言葉はまだ一般的ではなかった。そもそも「幕府」という言葉は、おとなりの中国の戦国時代に、王に代わって指揮を取る出先の将軍が張った陣地を「幕府」と呼んだことに由来する。その「幕府」の名称が、中央政庁の意味を表すようになったのは、「藩」と同じく江戸時代中期以降のことで、朱子学の普及に伴い、中国の戦国時代を研究する儒学者によって唱えられ始めたらしい。よって、「鎌倉幕府」「室町幕府」という言葉は後世の人によって作られた名称で、当時の人々が中央政庁のことを「幕府」と呼んだことはなく、それぞれの初代将軍が「幕府を開く」という宣言を出したこともない。

 征夷大将軍とは朝廷から任命されるもので、簡単にいえば武家の棟梁。もともとは地位ではなく職務を表すもので、常置の官職でもなく、いってみれば軍隊の司令長官のようなものだった。ところが源頼朝が鎌倉幕府を開いて以降、征夷大将軍が天皇に代わって政権を担うことが慣例となり、国家元首はあくまで天皇、そして政を司るのは将軍という、現代でいうところの内閣総理大臣のような立場になった。しかし厳密にいえば、総理大臣に任命されたら直ちに内閣を組閣しなければならないが、征夷大将軍に任命されたからといって、必ずしも幕府を開かなければならないという決まりはなかった。

「あくまで秀頼様が関白におなりあそばすまでのこと。いわば、仮の将軍にございまする。」

 もし将来、豊臣秀頼が関白に就任することあらば、征夷大将軍より地位は上になるわけで、家康のこの白々しい言い訳も、この時点では筋の通らない話ではなかった。しかし、実質的には関ヶ原の戦い以降、徳川家と豊臣家の力関係は逆転しており、この将軍就任の報が豊臣家や諸大名に与えた衝撃は大変なものだったであろう。豊臣恩顧の大名のなかには、純粋に豊臣家の御為と思って関ヶ原の際に徳川方に与した武将もいたわけで、そんな彼らにしてみれば、騙された感に打ちひしがれたことであろう。

 そんな家康の策略だったのか、はたまたドラマのとおり死んだ豊臣秀吉の遺言だったのか、徳川秀忠・お江夫婦の間に生まれた長女・千姫が、豊臣秀頼のもとへ輿入れする。秀頼11歳、千姫7歳のときだった。いうまでもなく、2人は従兄妹関係である。千姫は、祖母のお市の方聡明さと美貌を受け継いだ、たいへん美しい姫君であったという。その千姫の輿入れに、母親のお江が同行したというのは史実にあるとおり。7歳といえば現代の小学1年生で、母親にしてみれば心配するなという方が無理な年齢で、お江が同行してきたのも無理はなかったかもしれない。ただ、これもドラマにあったように、お江はこのとき妊娠8ヵ月の身であった。今のように出産前に性別がわかるわけもなく、この時点では徳川家の跡継となる男児を身篭っているかもしれなかったわけで、そのことを考えれば、よくぞ秀忠はこの妻の長旅を許したものである。そんなことからも、秀忠・お江夫妻が千姫のことをどれほど愛していたか、どれほど案じていたかが感じ取れる。しかし、こののち千姫も、母たち三姉妹に勝るとも劣らない波乱万丈の生涯を送ることになるのだが、それはまた別の機会に・・・。

 このときお江が出産した子も、また女児であった。そしてその娘はドラマのとおり、姉のお初の養女として育てられる。名は養母と同じく、初姫。この初姫のことについては(第30話「愛しき人よ」)の稿で少しふれているので、よければそちらを一読いただきたい。そしてもう一人の姫君、お江と2人目の夫・豊臣秀勝との間に生まれ、お江が徳川家に嫁いで来る際、姉・淀殿のもとに置いてきた娘・完子のことについても、(第27話「秀勝の遺言」)の稿で既述しているので、よければ・・・。

 さて、次週いよいよ春日局が登場するようである。


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by sakanoueno-kumo | 2011-09-26 02:26 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(2) | Comments(2)  

夏休み播磨路紀行 その3 日本の滝100選「原不動滝」

先日からお届けしております自己満足シリーズの続きに今日もお付き合いください。
e0158128_14175185.jpgこの日、宿泊した波賀温泉「楓香荘」は、波賀不動滝公園の玄関口になっています。
その波賀不動滝公園にある「原不動滝」は、日本の滝100選に選ばれている名滝です。
ここから少し北の、兵庫県と鳥取県の県境に聳える氷ノ山を中心としたこの地域は、氷ノ山後山那岐山国定公園に定められており、氷ノ山の周りには、この原不動滝の他にも、天滝猿尾滝雨滝と、4つの日本の滝100選に選ばれている滝があります。
他にも多くの滝があるようで、このあたりはまさしく滝の宝庫と言えるでしょう。

で、せっかくここまで来たのだから、その名滝を見ていかない手はないだろうと、周辺の散策も兼ねて原不動滝に向かいました。
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滝に向かう入口には立派な門があり、しばらく進むと不動尊が祀られています。
不動尊とは・・・スミマセン、興味のある方は下の説明看板を拡大してお読みください(笑)。
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“原不動滝”の名称は、この不動尊に由来するようですね。

険峻な渓谷の上に架けられた吊り橋「かえで橋」を渡ります。

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吊り橋の渡り口には、「橋をゆすらないで下さい」といった注意書きの看板が設置されていましたが、そう言われるとゆすりたくなる幼稚な私です。

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橋の下を流れる清流が、心地よい冷気を運んでくれます。

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道中はアップダウンの激しい山道です。
歩きやすい靴じゃないと、ちょっとしんどいかも・・・。

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そして更に奥へ進み、原不動滝を見るための吊り橋「奥かえで橋」を渡ります。
渡るといっても、この吊り橋は滝を見るために作られた橋のようで、奥は行き止まりです。

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e0158128_1514299.jpg橋から見た原不動滝です。
吊り橋のワイヤーが写っていますが、素人撮影なのでご容赦下さい。
この原不動滝は、男滝女滝からなり、男滝は落差88mと県下最大の高さを誇っています。
女滝は、源流を異にして男滝に寄り添うように同じ滝壺に流れています。

そのことから「幸福の滝」「恋愛成就の滝」とも言われているとか。
まあ、オジサンにはあまり縁のない話ですが(笑)。
この滝の景観は、1969年発売の国定公園シリーズ切手にもなっており、周囲は、原不動滝森林公園の名称でひょうごの森100選にも定められているそうで、紅葉の名所としても有名だそうです。
紅葉狩りなど随分とご無沙汰ですから、ぜひ、今度はそのシーズンに訪れてみたいですね。

滝見物の帰りに、吊り橋の下を流れる清流に下りて、ちょっと子供たちと水遊び

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とにかく、水が冷たくてきれい!
ここは、そうめん「揖保乃糸」の産地で有名な揖保川の支流で、竹呂山(1129m)を源流とする引原川支流の八丈川流域の渓流となります。
この美しい水で、美味しいそうめんが作られているのですね。
この日は水着を持参していませんでしたが、子供連れの方にはぜひとも水着持参をお勧めします。
恰好の川遊び場ですよ。

そんなこんなで、気がつけば、写真だらけの稿となってしまいました。
近日中に、その4につづきます。

夏休み播磨路紀行 その1 「なでしこジャパン」ならぬ「なでしこの湯」
夏休み播磨路紀行 その2 波賀温泉「楓香荘(ふうかそう)」
夏休み播磨路紀行 その4 戸倉峠名物「滝流しそうめん」
夏休み播磨路紀行 その5 家原遺跡公園「古代村」



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by sakanoueno-kumo | 2011-09-22 17:22 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

夏休み播磨路紀行 その2 波賀温泉「楓香荘(ふうかそう)」

8月最後の土日を利用して、兵庫県の中西部にある波賀温泉に行ってきました。
この辺りは、小泉政権時代の市町村合併によって、波賀町山崎町一宮町千種町の宍粟郡4町が合併して宍粟市となりましたが、波賀温泉のある旧波賀町は、国定公園、県立指定自然公園の1000mを越える山々に囲まれた町で、原不動滝赤西渓谷音水渓谷音水湖などの自然美に恵まれた地域です。

e0158128_18204589.jpg歴史的には、因幡国但馬国播磨国南部との交通の要所で、現在の国道29号線と429号線が交わるところに標高458mの小高い山があり、その山頂には波賀城跡が見えます。
この波賀城は、室町時代に、芳賀氏によって築城されたと伝えられており、その後は播磨守護の赤松氏に臣従していた中村氏が代々居城し、1580年(天正8年)の羽柴秀吉播磨攻めの際、南にある長水城とともに落城したと考えられているそうです(明確な史料が残っていないため、定かではないようですが)。

この日は、波賀城史蹟公園には立ち寄ることなく(この日のメンバーで城なんぞに興味があるのは私だけでして)、国道沿いに山城を横目で見ながら北上、波賀温泉のある波賀不動滝公園に向かいました。
この日のメンバーは旧友たち4家族11名
毎年この4家族で夏休みのひとときを共にしているのですが、子供が小中学生ばかりだった数年前までは、毎年この辺りのキャンプ場のコテージを借りて泊まり、野山や渓流で遊ばせ、バーベキュー飯盒炊爨などワイルドな夏休みを過ごしていたのですが、さすがに高校生ともなると部活で忙しかったりで親たちとは遊んでくれず、今年は大人8人と小学生2人に中学生が1人で、高校生以上は不参加となり、大人の数の方が多くなってしまいました。
となれば、ワイルドな宿泊はやめて“上げ膳据え膳”にしよう・・・ということで、この日宿泊したのが波賀不動滝公園の入口にある波賀温泉「楓香荘(ふうかそう)」
e0158128_18352859.jpg自然に囲まれたローカル感満載の良い宿でした。
食事は、一応は例年のワイルド感も残しつつバーベキュープランで、でも指定のバーベキューサイトで食材は全て宿任せの、いわゆる“上げ膳据え膳”バーベキューです。
このほうが楽でいいですね。
しかも、結構安価ですみましたし・・・。

e0158128_14122494.jpg子供たちは、バーベキュー前にアマゴのつかみ取り
もちろん、養殖物の放流ではありますが・・・これが結構難しいもので、大人でも苦労します。
今どきの子供は、動物や昆虫を触れない子が多いと聞きますから、こういった体験は、金を払ってでもさせる価値があるでしょうね。

捕まえたアマゴは、すぐに塩焼きにしてくれます。
自分が食べるためのものを自分で捕る・・・言ってみれば食の原点ですよね。
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さっきまで元気に泳いでいた魚を目の前で焼いて食する・・・これ、一応は命の教育です(笑)。
生き物は皆、他の生き物の命を食べて生きているんだよ・・・と。
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さて、命の教育はそのぐらいにして、オジサンたちはアルコールタイムに入りました。
渓流のせせらぎカワセミの鳴き声を聞きながらのビールは、なんとも風情のあるものです。
でも、三杯目くらいからは聞こえなくなりましたけどね(笑)。
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で、肝心の温泉ですが、このあと酔っ払って入ったためあまり覚えておりません(笑)。
大浴場はパノラマ展望風呂になっていたようですが、景色を観た覚えもなく・・・。
ここは紅葉の名所で、秋になれば、紅葉の景色を楽しみながらの温泉で、風雅な気分を味わえるそうです。
今度来たときは、飲む前に入ることにします(笑)。

てな具合で、気が向いたときの「その3」につづく・・・。

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by sakanoueno-kumo | 2011-09-20 20:34 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(4)  

江~姫たちの戦国~ 第36話「男の覚悟」

 徳川秀忠の生涯最大の大失態といえば、何と言っても慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いにおける大遅参であろう。秀忠にとってこの戦は初陣であった。このとき、父の徳川家康は3万3000の兵とともに東海道を進撃し、9月初めまでに美濃赤坂に到達。一方、約3万8000の大軍を率いた秀忠は、関東から中山道を経由して西方へ進撃する手筈であった。上野から信濃へ進軍した秀忠は、9月2日に信濃上田城主の真田昌幸に対して降伏勧告を行う。この昌幸の次男である真田信繁(幸村)の正室・竹林院は、西軍主将の石田三成の盟友である大谷吉継の娘で、信繁の兄である長男の真田信之の正室・大蓮院(小松姫)は、家康の重臣である本多忠勝の娘であった。そんな関係もあって、昌幸・信繁父子は石田方に与し、信之は徳川方に属していた。

 ところが、昌幸・信繁父子が降伏勧告に応じなかったため、憤った秀忠は、上田城や伊勢崎砦への攻撃を本格化させた。すぐさま、軍師格として従軍していた本田正信が、「上田城攻めは信濃の諸将に委ね、秀忠様は本隊との合流を急ぐべきです。」などと進言した。ところが、同じく従軍していた戸田一西牧野康成らは城攻めに固執し、軍議は紛糾してしまった。この間、籠城している真田軍は、徳川方の兵を可能な限り引きつけた上で、機をみて攻撃するという奇襲戦法を繰り返し、そうとは知らない徳川軍では、康成の麾下の将兵が真田の術中に嵌り、かなりの打撃を受けた。

 以後も、正信が康成を軍令違反などと罵ったり、城攻め続行の是非や、西方への進軍の時期をめぐって榊原康政と正信が対立したりもした。やがて、時間の無駄を痛感した秀忠は上田城を捨て置くことを決意、本隊との合流を目指し、上田を後にする。しかし、山間を縫うように走る中山道を約3万8000もの大軍が進撃するのは容易ではなく、加えて豪雨による川の氾濫などの悪条件も重なって、結局は9月15日の美濃関ヶ原での決戦に間に合わなかった。家康はこの遅参に相当立腹したようで、ようやくたどり着いた秀忠が再三面会を懇願しても、家康はこれに応じなかったという。

 この関ヶ原大遅参という、たった一度の失態によって、徳川秀忠という人物の武将としての評価は低い。しかし、上田城の件に関していえば諸説あって、秀忠の能力とばかりは言えないようである。そもそも、家康は実際には中山道方面軍の総大将である秀忠に、的確な軍事上の指示を出していなかったようである。あるいは、中山道一帯の豊臣方を掃討した上で家康率いる本隊と美濃方面で合流するという、物理的に不可能な指令を秀忠に発していた可能性もある。一説には、あえて兵を関ヶ原に遅参させることで、徳川軍の兵力を温存させるという家康の策略だったのではないかという説もある。その真意はわからないが、結果、秀忠が遅参したことによって、家康は後継者を失うことなく戦に勝つことができたのは事実。
 「この世で最も険しき戦とは、息子を死なせず独り立ちさせることよ。」
 ドラマ中、家康が言った台詞だが、あながち的外れではなかったのかもしれない。

 生涯、お江ひとりを愛したといわれる徳川秀忠。その理由は、お江は夫が側室を置くことを極端に嫌ったからという話も残っており、恐妻家であったともいわれる。この時代の武家では側室を置くのが当たり前であったが、自分ひとりを愛するように夫に迫った正室もいたであろう。

 しかし、秀忠にひとりも側室がいなかったというわけではなかった。実は、慶長6年(1601年)頃、秀忠の長男と思われる長丸という男児が生まれている。長丸の生年には諸説あるが、慶長6年という説にしたがえば、生母はお江でない可能性が高くなる。お江はこの同じ年、三女・勝姫(天崇院)を出産していた。この長丸は、惜しくもわずか二歳で夭折してしまうのだが、徳川将軍家の系譜集である『徳川幕府家譜』にはその生母に関して、「御母公ハ家女」という注記がある。「家女」とは側室のことで、なぜ注記であるかは不明だが、長丸の生母はお江ではなく、側室とみて間違いなさそうである。

 「竹千代という名は、そなたが産んだ子にしか与えぬ。」というお江との約束は後に果たした秀忠であったが、「私は生涯、側室は持たぬ。」という誓いは守っていない。これより10年ほどのち、将軍に就任していた秀忠は、大奥の女中であるお静の方(浄光院)を寵愛し、慶長16年(1611年)に男児・幸松丸を産ませた。お静の方は江戸郊外の領民、もしくは大工の娘であったといわれ、大奥の中ではもっとも下のクラスの女中であった。通常、侍妾の選定には正室の許可が必要で、下級女中の場合には出自を整える手続も必要であったにもかかわらず、お静の方の場合にはそうした手続きを取ることを秀忠が怠ったため、江戸城外での出産となり、その後も正式に側室となることはなく、幸松丸は譜代大名の保科正光の養子・保科正之として育てられた。正式な側室となっていない以上、「生涯、側室は持たぬ。」という誓いを守ったことになるのだろうか(笑)。

 実際にそのような約束を交わしていたかどうかはわからないが、お静の方と幸松丸を江戸城から追い出したかたちになったのは事実。ドラマでは、おなつという架空の女性の設定になっていたが、長丸の生母の存在も正確にはわかっておらず、どちらも正室であるお江に気を使った配慮と考えて無理はない。やはり、恐妻家であったという伝承は正しいのだろうか・・・。秀忠も、大変な女性を正室に迎えたものである。


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by sakanoueno-kumo | 2011-09-19 03:21 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(1) | Comments(2)  

ドラマ『それでも、生きてゆく』にみる、性善説と性悪説。

以前、ハマっているとお話したドラマ『それでも、生きてゆく』の最終回を観ました。
このドラマは以前もお話したように(参照:ドラマ『それでも、生きてゆく』に思い出す、14年前のあの事件。)、14歳の少年が15年前に起こした少女殺害事件を軸に、その被害者家族加害者家族の苦悩を描いた物語で、フィクションと謳ってはいますが、明らかに、1997年に日本中を震撼させた、あの神戸連続児童殺傷事件、いわゆる“酒鬼薔薇聖斗事件”を下敷きにしていると見ていいのでしょう。
それだけに、どのような結末を用意しているのか、大変興味深いところでした。
いくらフィクションとはいえ、現実にあった事件とラップした設定である以上、軽率な落とし所は許されないでしょうから。

で、最終回を観終えての感想は、まあ、あのようにしか描きようがないでしょうね。
結局、何も解決していないような中途半端な状況のままで、溜飲を下げるような結末には至りませんでしたが、そもそも物語のテーマ自体があまりにも重く、そう簡単に着地点など見つかるものではないでしょう。
酒鬼薔薇聖斗を彷彿させる元少年Aの三崎文哉(風間俊介)に、変に同情してしまうような描き方はあってはならないと思いますし、被害者の兄・深見洋貴(瑛太)と加害者の妹・遠山双葉(満島ひかり)が結ばれてハッピーエンドというのも、設定上あり得ないでしょう。
被害者の母の長年の悲しみが、そう簡単に癒えるものでもないでしょうし、加害者の父の苦悩や葛藤が、そう簡単に終わるものでもありません。
つまりは、元少年Aが犯した罪はあまりにも重く、それは被害者家族にとっても加害者家族にとっても一生忘れられるものではなく、その心の傷を死ぬまで抱えながら、『それでも、生きてゆく』んですよね。
だから、最終回はあのようにしか描きようがないと・・・。
ただ、このような難しいテーマに挑んだ制作者の意気込みには、拍手を贈りたいと思います。

私がこのドラマを観てあらためて考えさせられたのは、「性善説」「性悪説」についてです。
人はなぜ罪を犯すのか・・・。
罪を犯した人は悪なのか・・・。
孟子が提唱した「性善説」の立場を取れば、「人間はもともと善なる者として生まれながら、後天的に悪を学習する」ことになり、荀子が提唱した「性悪説」の立場に立脚すれば、「人間はもともと悪なる者として生まれながら、後天的に善を学習する」ことになります。
どちらの説にせよ、人間には善悪両方が備わっており、環境によってどちらにも傾倒するということに変わりはないのでしょうが、子供の教育を考える場合、「性善説」の立場を取るか、「性悪説」の立場を取るかは大問題で、たとえば罪を犯した子供がいた場合、その罪をどう理解するか、それに対して大人はどう対処すべきか、結論が正反対になります。
ドラマや映画などでは、どちらかと言えば「性善説」で描かれる物語が多く、この度のこのドラマも、三崎文哉の心が壊れたのは、目の前で母親が飛び降り自殺をした幼児体験によるもので、いわゆる「性善説」でしたね。
「生まれたときは、何も知らない、可愛い赤ちゃんだったんだ・・・。」と、時任三郎さん演じる加害者の父親が涙を流していましたが、誰しも、生まれたばかりの赤ちゃんを見て“悪”だと思う人はいないでしょう。
日本の少年法も、おそらく「性善説」をベースに作られたものだと思えますし、私も、理想的には「性善説」の立場を信じたいと思っているひとりではあります。
ですが、現実には、人間に欲がある以上、「性悪説」の方が納得いくことが多いのも事実です。
人は、善行をはたらく場合、意識的に行わなければできないような気がしますが、悪行をはたらく場合、本能に任せて無意識に行うものなんじゃないかと・・・。
中国の仏教思想の中では、孟子の「性善説」と荀子の「性悪説」は真っ向から対立して結論は出ていません。
はたして、どちらが正しいのでしょうね・・・。

「性善」「性悪」とは別に、「性癖」というものもありますよね。
これもまた、生まれ持った先天的な性質のことで、善でも悪でもなく、変えようのない「癖」です。
私は、酒鬼薔薇聖斗の両親が書いた手記を読んだとき、これは明らかに「性癖」に起因する犯罪だと思いました。
つまりは、人を殺すことを嗜好とする「性癖」を持って生まれてきた奴なんだと・・・。
なんとも異常で恐ろしい「性癖」ですが、でも、普通の人とは異なる少数派の「性癖」という意味でいえば、同性愛者のそれと何が違うのかなと・・・。
同性愛は合法で、殺人は違法、違いといえばそれだけで、その法律というものも人間が作ったものですし、「この世で最も尊いものは人間の命」という倫理も、近代になって人間が作った比較的新しい道徳なわけで・・・。

ちょっと過激な発言になってしまいましたが、別に殺人を容認しているわけではありません。
何が言いたいかというと、人間には生まれ持った変えようのない「性癖」というものがあり、なかには人間社会の倫理に反した「性癖」の持ち主がいて、そんな人間が現代社会に生きていく以上、その「性癖」を抑えられるほどの「理性」を養うしかなく、そう考えれば、やはり人間の本質は「性悪説」なのかもしれません。
酒鬼薔薇聖斗などは、現代に生まれてくるべき人間ではなかったのかもしれませんね。
『それでも、生きてゆく』のは、彼のような人間にとっては苦しいだけなのではないでしょうか。

そんなことを、あらためて考えさせられたドラマでした。


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by sakanoueno-kumo | 2011-09-16 17:57 | その他ドラマ | Trackback | Comments(0)  

夏休み播磨路紀行 その1 「なでしこジャパン」ならぬ「なでしこの湯」

まだまだ残暑が続いていますが、暦をみれば来週は彼岸入り、もう秋なんですね。
この夏の一番の話題といえば、何と言っても女子サッカー「なでしこジャパン」の乙女たちだったんじゃないでしょうか。
7月に男女を通して日本初のワールドカップ優勝を果たして以降、連日のように彼女たちの動向が報じられ、8月には国民栄誉賞のこれまた史上初の団体受賞が決定し、そんな注目されたプレッシャーの中、先週には中国・済南で開催されていたロンドン五輪アジア予選において、見事1位通過五輪出場権を獲得しました。
そもそもW杯か五輪のときぐらいしかサッカーを観ない私が、彼女たちの名前をほとんど覚えてしまうほどですから、如何にこの2ヵ月間の露出度が高かったかがわかります。
2011年夏の顔は、間違いなく「なでしこジャパン」の乙女たちだったでしょうね。

e0158128_11142892.jpgさて、そんな今年の夏の顔に肖ったわけではありませんが、夏休み中、神戸市西区にある太山寺温泉「なでしこの湯」に宿泊してきました。
「なでしこジャパン」とは、まったく何の関係もありません(笑)。
冒頭の話は、なでしこつながりの枕ということで(笑)。


e0158128_11193698.jpg「なでしこの湯」という名称の由来は、この旅館から歩いて5分の場所にある太山寺からきたもの。
太山寺は、藤原鎌足の孫である藤原宇合が8世紀に建立したと伝わる天台宗の寺院で、本堂は神戸市内で唯一の国宝指定建造物です。
周辺は「太山寺風致地区」として自然景観が保護されているため、境内の内外には原生林が残る深森で、ひょうごの森百選にも選ばれ、春は、秋は紅葉の名所として知られています。

e0158128_11262998.jpgこの日はあいにくの雨で、しかも一緒に宿泊していたのが寺院などには全く興味のない13人の子どもたちで(この日は私がコーチをする少年野球チームの合宿でした)、残念ながら太山寺の散策とはいきませんでしたが、夜には寺までの道で子どもたちの肝だめしを行い、私は重要文化財の山門に潜んで脅かし役をしました。
真っ暗で何も見えず、蚊に刺されに行ったようなものでしたが(苦笑)。
太山寺には、子供の頃に遠足で行った記憶はあるのですが、その後は近くに住みながら訪れたことはなく・・・。
また、昼間に一人で散策してみようかと思っています。
(←入口横には無料の足湯もあります。この日は雨だったので利用客はいませんでしたが、普段は結構賑わっているとか。)

太山寺のほど近くに、「布施畑」という地名の地域があります(最近では、阪神高速と明石海峡大橋を結ぶ布施畑ジャンクションで知られている地名です)。
この辺りは、その昔は摂津国と播磨国の国境に位置しており、幾度となく摂播国境の争論の的になり、豊臣秀吉時代の検知によってようやく決着がついたといわれます。
「布施畑」は、その昔は「野村」という地名でしたが、室町幕府三代将軍・足利義満の側室が眼病に罹った際、太山寺薬師仏に祈り、奥の院の霊泉で目を洗ったところ、たちどころに治癒したので、お布施として太山寺に寄進したことから、「布施畑」という地名になったとか。
現在でも太山寺は、「病気治療・眼病治療・安産・いぼ治療」に御利益があるとして多くの人が訪れているそうです。

e0158128_11351516.jpg翌日は小雨が降る中、屋外バーベキューを強行しました(涙)。
食材や飲み物や、すべて用意してしまってますから、中止するわけにもいかず・・・。
雨の中ビーチパラゾルを何本も立ててバーベキューをしている姿は、他の人から見れば、滑稽な集団に見えたことでしょう(苦笑)。
まあ、そんなこんなもまた、子どもたちにとっては良い思い出になってくれることを期待します。

この夏の「なでしこジャパン」の活躍により、名前つながりで「なでしこの湯」もテレビで紹介されていたようです。
少しは「なでしこ特需」があったかもしれませんね。
「なでしこジャパン」の乙女たちも、マスコミから追っかけまわされて、そろそろ疲れが溜まってきたころではないでしょうか。
五輪出場権も獲得したことですし、ここらで少し骨休みをさせてあげたいですね。
あっ、できれば彼女たちも、「なでしこの湯」で疲れを癒してほしいものです(笑)。

夏休み播磨路紀行 その2 波賀温泉「楓香荘(ふうかそう)」
夏休み播磨路紀行 その3 日本の滝100選「原不動滝」
夏休み播磨路紀行 その4 戸倉峠名物「滝流しそうめん」
夏休み播磨路紀行 その5 家原遺跡公園「古代村」

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by sakanoueno-kumo | 2011-09-15 12:00 | 神戸の史跡・観光 | Trackback(1) | Comments(0)  

江~姫たちの戦国~ 第35話「幻の関ヶ原」

 「天下分け目の関が原」
 で知られる「関ヶ原の戦い」は、慶長5年(1600年)9月15日に、交通上の要衝であった美濃国不破郡関ヶ原で東西両軍約20万以上ともいわれる大軍が雌雄を決した戦いのことを指すが、その本戦を前後して他にも日本各地で東西両陣営による戦いが行われており、その局地戦の中でもとりわけ激しかったといわれるのが、お初の夫・京極高次が大津城に籠城した「大津城の戦い」である。

 会津の上杉討伐を掲げて大阪を発った徳川家康が、その道中で大津城に立ち寄ったのは史実のとおり。その時点で関ヶ原を想定した会談があったかどうかはわからないが、何らかの布石を打つために立ち寄ったことは間違いないだろう。大津は、京都から近江国、更には北陸道や東海道に出る交通上の要地であり、この時点で家康が石田三成との決戦を想定していたならば、何としても抑えておきたいだった。しかし、それは三成とて同じで、その後、挙兵した三成は、氏家行広朽木元綱を介して西軍に与するよう高次に要請する。家康と三成の戦いといっても、実質は徳川と豊臣の戦い。高次は迷ったであろう。彼にしてみれば、義妹・お江の夫である徳川秀忠は義弟となり、義姉・淀殿の子である豊臣秀頼は、義甥となる。高次は、徳川方に実弟の京極高知を同行させ、一方で石田方に味方する証として、嫡子の熊麿(のちの京極忠高)を人質として送った。似たようなかたちで、父子または兄弟が東西に別れて、どちらが勝利しても家名が存続できるように図った諸大名は他にも数多くいたが、京極家においては上記のとおり一層難しい立場にいたわけである。おそらく妻・お初共々、ギリギリまで迷っていたことだろう。

 そんな迷いからきた行動かどうかはわからないが、一旦は西軍に味方することを表明し、9月1日には西軍に従軍して大津城を発った高次だったが、9月3日に突如として兵を返して大津城に舞い戻り籠城、家康率いる東軍に寝返った。この高次の寝返りに驚いた義姉・淀殿は、西軍に味方するよう説得の使者を大津に送るが、高次の決意は固く、再び寝返ることはなかった。この行動を見過ごすわけにはいかない三成は、毛利元康立花宗茂らに命じて大津城を包囲。その数、1万5千とも、3万7千とも、4万ともいわれる。対する京極軍は僅か3千ほどだったとか。高次はその僅かな兵で、約1週間の籠城戦を戦うことになる。

 この高次の行動は、当初からの予定行動だったのか、はたまた、寸前まで迷っていた故の行動だったのか・・・。もし、家康との何らかの約束があっての寝返りだとすれば、あまりにも無計画すぎるようにも思える。具体的にいえば、東軍に寝返るにしても、徳川方の諸将との連携を何ら行わずに大津城に籠城したため、僅かな兵で大軍を迎え撃つはめになり、結果、猛攻を受けるはめになった。そう考えれば、計画的な行動だったとは考え難く、おそらく、迷いに迷った末のギリギリの決断だったのではないかと私は思う。

 ドラマのとおり、お初も懸命に高次の籠城戦を支え、奮闘したと伝わる。彼女にとっては、夫が東西どちらに与しようとも、実姉、実妹のどちらかを敵としなければならない。彼女にしてみればドラマでの台詞のとおり、両方に味方したい気持ちだったであろう。しかし、そんなことが出来るはずもなく、結局は高次の判断に従うしかない。おそらくお初は、高次と運命を共にする覚悟を決めていたことだろう。

 西軍の猛攻は凄まじく、わけても大砲を駆使した攻撃は、城内にいたお初や松の丸殿(京極龍子)の身辺に砲弾が降り注ぐという熾烈なものだったようである。天守に撃ち込まれた砲弾で侍女二人の首が吹き飛び、それを目の当たりにした松の丸殿が失神したという伝承も残っている(ドラマでは、さすがに首が吹っ飛ぶシーンはなかったが)。高次自身も傷を負っていたようで、籠城戦も限界と感じ始めた折り、再び、淀殿と京都の高台寺に隠棲していた高台院(北政所)からの和睦を勧める使者が訪れ、やむなく高次は降伏開城を決し、その日のうちに剃髪して高野山に登る。奇しくもこの日は慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原の戦い当日の朝だった。あと1日頑張っていれば・・・歴史の悪戯である。

 高次は降伏開城したものの、結局は西軍勢を大津で釘付けにして関ヶ原へ向かわせなかったことになり、徳川家康は関ヶ原の戦後、この功績を高く評価した。当初、高次は開城したことを恥じて下山することを拒んでいたが、弟の高知に説得され若狭小浜8万5千石に加封され、翌年には更に7千石を加増されたという。以前は、姉や妻の威光を借りて出世したことから“蛍大名”と揶揄された高次だったが(参照:第19話「初の縁談」)、今回はまぎれもなく自力で手にした地位だった。それは、妻であるお初にとっても、きっと喜ばしいことだったであろう。ただ、一歩間違えれば夫婦共々砲弾の餌食になるところではあったが・・・。

 徳川秀忠と真田昌幸・信繁(幸村)父子との「上田城の戦い」についてもふれようと思っていましたが、すでに多くの行数を費やしてしまっため、またの機会に。


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by sakanoueno-kumo | 2011-09-13 23:59 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(1) | Comments(2)  

世界陸上大邱大会における、フライング一発失格に思う。(後編)

昨日の続きです。
世界陸上大邱(テグ)大会で新たに導入されたフライング一発失格のルール改正により、男子100メートル決勝で世界記録保持者のウサイン・ボルト選手が失格となり、巷では「厳しすぎる」との声が高まっているようです。
私も、少々厳しすぎるような気がしないでもないと昨日は述べましたが、でも、たしかに以前はフライングの続出で競技進行の妨げになるケースが多々あり、それはそれで問題だとは思っていました。
かつては、「同一選手が2度目のフライングをした際に失格」となっていましたが、あまりにもフライングが続出していたずらに体力を消耗し、選手の集中力の維持に支障をきたす事態が続いたため、2003年に「1度フライングがあった後は、誰が違反しても失格」といったルールに改正されました。
しかしこのルールも問題で、敵を揺さぶるため、1回目に故意のフライングをするという心理作戦として悪用する選手が後を絶たず、2009年8月に開かれた国際陸連総会で1回目からの失格が承認され、現行ルールに至ったそうです。
一長一短ではあるものの、やむを得ない改正といったところでしょうか。

フライングで思い出されるのは、織田裕二さんと中井美穂さんのコンビが初めてキャスターを務めた、1997年の世界陸上アテネ大会での女子100メートルの決勝。
レースは当時38歳のベテラン、ジャマイカのマリーン・オッティ選手とアメリカの新星マリオン・ジョーンズ選手の対決に世間の注目が集まっていました。
オッティ選手は常に優勝候補と目されながらも、大きな大会ではいつも3位に終わってしまうことが多く、ブロンズの女王なんて不名誉なあだ名で呼ばれていた選手です。
でも、私はこのオッティ選手が好きだったんですよねぇ。
明るく楽天的なジャマイカ人のイメージとは違い、競技に対して真面目直向きというか、なんとなく日本人っぽくて・・・。
実力がありながら万年3位というところも、なんか日本人っぽくないですか?
ですから、当然このときも、オッティ選手を応援していました。

しかし、勝負はオッティ選手でもジョーンズ選手でもない、第三者のフライングによって明暗を分けることになりました。
このとき、たしかにスタートの鉄砲音とフライングの鉄砲音の間隔が短かったような気がしましたが、スタートを切った全選手の中でオッティ選手だけがフライングに気づかず、他の選手がレースを取り止めているのに彼女だけが70mほど全力疾走してしまいました。
競技はルールにそって、直後の仕切り直しとなるわけですが、70mも全力疾走してしまったオッティ選手は、当然かなりの体力を消耗してしまっています。
そこからゆっくり歩いて時間を稼ぎながら、息を整えてスタートラインに戻りましたが、38歳の肉体がそう簡単に回復するはずもなく、おそらくモチベーションも下がってしまったことでしょう。
結果はジョーンズ選手の優勝、オッティ選手は7位に沈みました。
あのとき、オッティ選手に対する同情の声と、フライングに気付かなかった彼女を責める声とがありましたが、私は、彼女がそれだけ自分の走りに集中していたということの表れだと思いますし、むしろ一流のアスリートとしてあるべき姿だったとさえ思います。
そう考えれば、フライングは自身のみならず、最高のスタートを切ったかもしれない他の選手に対しても罪な行為であり、一発失格もやむを得ないかもしれませんね。

ウサイン・ボルト選手は失格処分後の会見で、「フライングは完全に自分の責任だ。今後の教訓にしたい。」と潔く落度を認めており、また、自身の失格によってこの度のルール改正の見直しも含めた賛否両論の声が上がっていることに対しても、「ルールを変えるべきだとは思わない。」と発言しています。
さすがは、世界最速男の余裕ですね。
来年のロンドン五輪でもこのルールが適用されることはほぼ間違いないでしょうから、今度こそは最高のスタートを決めて、世界新記録を樹立して欲しいものです。

ちなみに上述したマリーン・オッティ選手は、その後もジャマイカからスロベニアに国籍を移してアテネ五輪に出場し、2007年の世界陸上大阪大会には47歳という年齢での出場を果たし、51歳の現在でも現役選手を続けているとか。
2000年に記録した10秒9940歳以上の世界記録で、2010年に記録した11秒6750歳以上の世界記録だそうです。
もし、あのときの不運なフライングがなくレースに勝っていれば、有終の美を飾って引退していたかもしれませんね。
今では「生涯現役」をモットーとしているそうですが、彼女にしてみれば、レースを途中で止めるのは、もう“真っ平御免”といったところかもしれません。
人生のフライングは、やり直しは効きませんから・・・。

マリーン・オッティ選手・・・心に残る、伝説のスプリンターです。

世界陸上大邱大会における、フライング一発失格に思う。(前編)


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by sakanoueno-kumo | 2011-09-10 18:41 | 他スポーツ | Trackback | Comments(0)  

世界陸上大邱大会における、フライング一発失格に思う。(前編)

韓国の大邱(テグ)で開催されていた世界陸上が、今月4日に幕を閉じましたね。
旬ネタを過ぎた感はありますが、遅ればせながら今日はその話題についてお付き合いください。
2年に1度のこの大会を毎回楽しみにしていた私ですが、幸か不幸か今大会中は仕事がメチャメチャ忙しく、ほとんどリアルタイムで観ることができませんでした。
ていうか、お隣りの韓国での開催だと日本との時差が少ないため、働くオジサンたちにとっては、かえって観づらかったりしますよね。
むしろ、欧米で開催してくれていたほうが、眠い目を擦りながらでも深夜に観戦できます。
ゴールデンタイムのテレビなんて、普段から観れる時間に帰宅できる人って、少ないんじゃないでしょうか。

さて、日本人選手では、男子ハンマー投げの室伏広治選手が金メダルを獲得しました。
意外にも世界陸上での金メダルは自身初だったとか。
アテネ五輪で金メダルに輝いたものの、北京五輪では5位に甘んじ、その後もケガなどで苦しんでいたようですが、この度の金で、ロンドン五輪に向けて明るい兆しが見えてきましたね。
なんでも、世界陸上と五輪の二冠達成日本人陸上選手初だとか。
さらに、今回のメダル獲得は世界陸上史上最年長記録(36歳と325日)でもあるそうです。
まあ、“鉄人”と言われたお父さんの室伏重信氏は40歳を過ぎても現役バリバリでしたし、たしか39歳まで自身の持つ日本記録を更新し続けたと記憶していますので、そのDNAを持つ室伏広治選手も、まだまだこれから、といったところでしょうか。
目指すはロンドン五輪の金、そして世界記録ですね。

そんな室伏広治選手が金メダルを獲得したものの、日本人選手のメダルはこの1個のみで、女子マラソンなど期待が大きかった種目でも残念ながら振るいませんでした。
特に残念だったのは、これまで5大会連続で続いていた決勝進出を逃した男子400メートルリレー
3年前の北京五輪で銅メダルを獲得したことを思えば、この度の準決勝敗退は寂しいかぎりです。
まあ、あのときのメンバーは高平慎士選手ひとりしか残っていませんけどね。
でも、北京での銅メダルをフロックと言われないためにも、最低限、決勝進出は果たして欲しかったと思います。

話は変わって、今大会での一番の話題は、なんといっても今回から導入されたフライングの一発失格というルール改正でしたね。
これにより、男子100メートル決勝で世界記録保持者のウサイン・ボルト選手が失格処分となってしまいました。
陸上界最大のスター選手の花形種目での失格処分に、新ルールに対する賛否両論の声が上がっているようです。
女子400メートルリレー中国チームも失格になってましたね。
リレーは自分だけで済まないですからねぇ・・・。
たしかに、ルールとしては極めて明確で、最もフェアともいえますが、少々厳しすぎるような気がしないでもないです。
たとえばテニスのサーブなどでも、1打目のミスが許されているから、一か八かのギリギリを狙ったサーブが打てるわけで、もしフォルトが許されなくなったら、サービスエースの可能性は極めて低くなるでしょう。
スプリンターにとってスタートは命といっても過言ではなく、この度のルール改正によって一か八かのギリギリのスタートは切れなくなるでしょうから、その結果スタートダッシュを鈍らせることになり、高記録が出難くなる懸念があります。
100分の1秒の世界で戦っている彼らにとっては、厳しいルール改正ですね。

そんなフライングで思い出されるエピソードを書きたかったのですが、今日は時間がなくなってしまったので、続きはまた明日ということで・・・。

世界陸上大邱大会における、フライング一発失格に思う。(後編)


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by sakanoueno-kumo | 2011-09-09 19:36 | 他スポーツ | Trackback | Comments(0)