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江~姫たちの戦国~ 第42話「大坂冬の陣」

 慶長19年に起こった方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川家と豊臣家は決裂、同じ年の11月、大坂冬の陣が勃発する。豊臣秀頼と生母・淀殿は、福島正則加藤嘉明など豊臣恩顧の大名に檄を飛ばしたが、大坂方に参じる大名はほとんどなく、集まったのは真田信繁(幸村)後藤基次(又兵衛)長宗我部盛親毛利勝永明石全登など、関ヶ原の戦いで改易された元大名や、同じく主家が西軍に与して改易されていた浪人たちばかりだった。浪人たちは士気旺盛ではあったものの、寄せ集めだったため統制が取りにくく、しかも大野治長や淀殿との対立も激しく、所詮は烏合の衆だった。

 そんな烏合の衆ではあったが、籠城戦では大坂城の防御力にもあって徳川軍は苦戦、城内に攻め入ろうにも撃退され、特に真田幸村が城の平野口に構築した出城・真田丸の戦いでは、徳川方が手酷い損害を受ける。ドラマにあったように、幸村は敵を石垣ギリギリまで引きつけておいて、頭上から一斉に銃撃を浴びせかけるという作戦で、徳川方に数千人の被害を与えたという。徳川秀忠が真田丸を攻めると言ったのも逸話にあるとおり。しかし、幸村の奮闘ぶりをみた家康は和議を考えはじめており、秀忠の進言は実行されることはなかった。やがて徳川軍は、大坂城内に心理的圧力をかけるべく、昼夜をとわず砲撃を加え、本丸まで飛来した一発の砲弾は淀殿の居室に着弾し、侍女の身体を粉砕し淀殿を震え上がらせたという。淀殿が和議を決心したのはこのためだとの説もある。

 慶長14年(1609年)に夫・京極高次と死別したお初は、剃髪・出家して常高院と号していた。京極家は関ヶ原の戦後、8万5千石の若狭小浜城主となっていたが、高次の死後に京極家を継いだ嫡男・京極忠高は、お初の子ではなく側室の産んだ子。そんな理由もあってか、高次の死後しばらくしてお初は、実姉・淀殿の居城・大坂城に移り住んでいたようである。そして、この大阪冬の陣の前後から、お初は豊臣方の使者として和睦交渉に当たっていた。

 いうまでもなく、合戦で戦うのは武士と武士男と男だが、合戦前後の降伏勧告、和睦交渉などの際には、武士以外の僧侶商人、あるいは武将の縁者侍女といった女性が駆り出されることも珍しくはなかった。おそらく、お初を使者に指名したのは徳川家康と淀殿の双方であったものと推測できるが、お初自身も相当乗り気だったのではないかと想像する。豊臣家の当主は豊臣秀頼だが、事実上実権を掌握していたのは淀殿だったともいわれ、徳川家と豊臣家の戦いは、いいかえれば家康と淀殿の戦いだった。その淀殿の実妹であり、徳川秀忠の正室・お江実姉であるというお初の立場は、「善意の第三者」として和睦交渉に当たるのにはもってこいの存在であり、きっと、お初自身もそのことを自覚していたに違いない。

 大阪冬の陣の火蓋が切って落とされてからほぼ1ヵ月が過ぎた慶長19年(1614年)12月18日と19日の二日間、徳川方に属していた京極忠高の陣所において和睦交渉が行われた。豊臣方の使者はお初、徳川方の使者は家康の側室・阿茶局(雲光院)だった。冬の陣のような、動員兵力が桁外れに大きな合戦の和睦交渉で、双方ともに女性が使者に指名されたという例は、おそらく日本史上で初めてのことだったに違いない。

 もっとも、家康は本気で豊臣方と和睦する気などは、さらさらなかった。豊臣方の真田信繁(幸村)、後藤基次(又兵衛)らが予想以上に手強かったため、とりあえず和睦交渉で時間を稼ぎ、機を捉えて城の堀をすべて埋めてしまおう・・・そんなふうに考えていたのだろう。この間、家康は淀殿に江戸に来るように・・・いいかえれば、家康の側室になるように・・・と、豊臣方に求めたという話もある。むろん、家康はそんなことが実現するなどとは思っておらず、淀殿を動揺させるための揺さぶりだったのだろう。そんな心理作戦もあってか、交渉2日目で双方は和睦に達した。その講和内容は、豊臣方の条件として、
 一、本丸を残して二の丸、三の丸を破却し、外堀を埋めること。
 一、淀殿を人質としない替わりに大野治長、織田有楽斎より人質を出すこと。

とあり、これに対して徳川方の条件は、
 一、秀頼の身の安全と本領の安堵。
 一、大坂城中諸士についての不問。

というもので、これを約すことで和議は成立した。この城の破却(城割)という条件は、古来より和睦条件において行われてきた方法だが、大抵の場合は堀の一部を埋めたり、土塁の角を崩すといった儀礼的なものだった。しかし、家康はこれを機に徹底的な破壊を実行する。和睦の条件として、城の破却と堀の埋め立ては二の丸が豊臣家、三の丸と外堀は徳川家の持ち分と決められていたにも関わらず、徳川方は20万の軍勢を使ってまたたく間にすべての堀を一斉に埋め立て、大坂城の防御力を一気に削いでしまった。このあたりの家康のやり口も、後世に“たぬき親父”の悪名を着せられる所以ともいえるだろう。方広寺鐘銘事件のときといい今回の和睦条件のことといい、まんまと家康の思惑にハマっていく豊臣秀頼と淀殿。所詮は海千山千の家康の敵ではなかった。

 「善意の第三者」として、この和睦交渉に尽力したお初は、その後のあまりの成り行きを見てきっと狼狽したことだろう。この出来事を契機として、淀殿とお初の信頼関係は一気に崩壊していったともいわれる。事実上、お江を敵にまわし、お初をも信頼できなくなった淀殿は、きっとどうしようもなく孤独だったに違いない。そして、このときから半年も経たない慶長20年(1615年)初夏、淀殿はその波乱の人生の幕を閉じることになる。


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by sakanoueno-kumo | 2011-10-31 01:43 | 江~姫たちの戦国~ | Comments(4)  

江~姫たちの戦国~ 第41話「姉妹激突!」

 二条城で対面した豊臣秀頼の成長ぶりを見て、豊臣家を滅ぼす意思を固めたといわれる徳川家康だったが、何の理由もなく攻めこむわけにもいかない。家康にしてみれば、豊臣家と事を構えるための大義名分が欲しかった。その格好の材料にされたのが、方広寺鐘銘事件である。

 秀頼と淀殿は、豊臣秀吉没後から秀吉の追善供養として畿内を中心に寺社の修復・造営を行った。主なもので東寺金堂・延暦寺横川中堂・熱田神宮・石清水八幡宮・北野天満宮・鞍馬寺毘沙門堂など、85件にものぼった。この事業は家康が勧めたといわれ、その目的は、豊臣家の財力を削ごうという思惑があったといわれる。しかし、逆に豊臣家にしてみれば、今なお、秀吉の時代に劣らぬ力があるということを、世間に知らしめる目的があったともいわれ、家康の勧めとは関係なく、淀殿と秀頼はこの事業を熱心に進めた。

 そんな寺社復興事業の中に、かつて秀吉が建立し、地震で倒れたままになっていた東山方広寺の大仏殿の再建があった。そして慶長19年(1614年)、その修営もほぼ終わり、梵鐘の銘が入れられた7月になって突然、大仏開眼供養を中止するよう家康から申し入れがあった。その理由は、鐘の銘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」という8文字。この言葉は、「国家が安泰で、主君と家臣が共に楽しめますように」といった意味の言葉だったが、家康がいうには、「国家安康」という句は家康の名を切ったものだとし、「君臣豊楽、子孫殷昌」は豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむと解釈、徳川を呪詛して豊臣の繁栄を願うものだと激怒した。

 これはおそらく言いがかりであり、家康が豊臣家から戦を起こさせるために仕組んだ挑発とみていいだろう。この策を仕組んだのは、本多正純以心崇伝といった家康の側近たちだったとされる。この言いがかりに、当然、淀殿は激怒した。事態を重く見た豊臣家の家老・片桐且元は、家康への弁明のために駿府へ向かった。しかし、且元は家康に会うこともできず、ようやく会うことのできた本多正純金地院崇伝といった家康の側近から、「淀殿を人質として江戸へ送るか、秀頼が江戸に参勤するか、大坂城を出て他国に移るか、このうちのどれかを選ぶように」との内意を受けた。且元は即答を避け、大坂への帰路に就いた。

 だが、且元の帰城と前後して、なかなか帰らない且元に業を煮やした淀殿は、側近の大野治長の生母であり淀殿の乳母でもある大蔵卿局を、第2の使者として家康のもとに送った。大蔵卿局が駿府に到着すると、家康は且元の時とは態度を180度変え、機嫌よく彼女と面会し、「秀頼は孫の千姫の婿でもあり、いささかの害心もない。家臣たちが勝手に鐘銘の件で騒いで難儀している」と話したという。それを聞いた大蔵卿局は、狂喜して大坂城へ帰った。淀殿は直接家康に会った彼女の報告を信じ、且元の持ち帰った3ヶ条を信用しないばかりか、「且元が家康と示し合わせて豊臣を陥れようとするものに違いない」と疑った。且元は、戦を避けるために家康に従うよう懸命に説いたが受け入れられず、やがて淀殿の信頼を失った彼は、大坂城を退去するに至る。同時に、且元と同じく非戦論を主張していた者たちも大坂城を追われ、秀頼と淀殿のもとに残ったは、大野治長をはじめとする主戦派の者たちばかりとなった。しかし、これこそが家康の仕掛けた策謀だった。事はすべて、豊臣氏討伐のために描いた家康の筋書き通りに運んでいた。

 というのが通説のストーリーで、ドラマもほぼ通説に沿って描かれていた。だが、本当に方広寺鐘銘事件が家康の仕組んだ言いがかりだったのかはわからない。もしかしたら、本当に家康のいうような理由が、豊臣側にもあったのかもしれない。ただ、事件後も鐘がそのままになっていることから考えると、家康はこの8文字を本当に呪詛の文字だとは考えていなかったとも思われ、やはり通説どおり後付の言いがかりだったと見ていいのかもしれない。片桐且元と大蔵卿局の件にしても、豊臣家中を混乱させるために別々の回答を与えたというの一般的な見方で、家康が後世に狸親父と評される代表的な逸話だが、これももしかしたら、淀殿の疑いのとおり且元が家康と内通していた可能性だって否定できない。結果を知っている後世の私たちは、結果から逆算して最もドラマティックな筋書きを信じそうになるが、史実は意外と単純なものだったりするものである。

 理由はどうあれ、片桐且元はこののちの大阪の陣で徳川方に従軍し、大坂城を攻めることになる。すべてが終わって焼け落ちた大坂城を目の前に、且元は何を思っただろう。その日から20日ほどのち、且元は突如の死を遂げている。享年59歳。この死は病死説もあれば、自責の念からの自決であったともいわれ、これも確かなことはわかっていない。ただ言えることは、且元の寝返りがあろうがなかろうが、もはやこの時点での豊臣家は、牙を剥き出した家康の敵ではなかったということである。


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by sakanoueno-kumo | 2011-10-24 02:24 | 江~姫たちの戦国~ | Comments(2)  

中日ドラゴンズのリーグ優勝の夜に思う、落合博満監督の勝利至上主義。

早々に、今季限りで落合博満監督の契約満了にともなう退任が発表されていた中日ドラゴンズでしたが、そのドラゴンズがリーグ優勝を決めました。
落合監督の退任が発表された先月22日の時点では、2位とはいえ首位と4.5ゲーム差と厳しい位置でしたが、それでも優勝の可能性があるのに思い切った決定だなあと思っていたら、案の定、今月に入って首位を走っていた東京ヤクルトスワローズが失速、ドラゴンズの逆転優勝となりました。
まあ、監督退任が決まったらいきなり勝ち始めるというのは、よくある話ですけどね。
ただ、監督退任発表の後に逆転優勝という例があったかどうかはわかりませんが・・・。
ドラゴンズの優勝は昨年に続いて2年連続で、連覇した監督が退任するのはセ・リーグでは初めてだそうです。
中日ドラゴンズとしては、リーグ連覇は球団史上初だそうで、ペナントレース1位通過で日本シリーズを逃したことのない落合中日ですから、このままクライマックスシリーズを無難に勝ち上がり、落合監督の有終の美の花道として日本シリーズも制してしまいそうな予感がします。

選手時代には3度の三冠王に輝き、4球団を渡り歩いた落合氏ですが、指揮官としてはドラゴンズが初めて。
私は、大昔の選手のことは知りませんが、私の思うプロ野球史上一番の天才打者は、王貞治氏でもイチロー選手でもなく、この落合博満氏だと思っています。
ですが、正直言ってコーチや監督として成功する人だとは思っていませんでした。
「名選手、名監督にあらず」とは私は思いませんが、落合氏の“オレ流”といわれた選手時代のスタイルは、自分の技術だけを信じた“バッティング職人”といった印象で、他人のことにはあまり興味がない“一匹狼”的なイメージが強く、それゆえ、指導者として他人に何かを教えたり、ましてや監督として指揮するなどはおよそ無縁のような、そんな印象を勝手に抱いておりました。

ところが、2004年に監督に就任してから1年目でいきなりリーグ制覇
それ以後、監督としての8年間はすべてAクラス入りで、うちリーグ優勝4回、2位が3回、3位が1回という素晴らしい成績を残しており、2007年にはリーグ2位からCSを勝ち抜き、中日ドラゴンズとしては53年ぶりとなる悲願の日本一にも導きました。
中日ドラゴンズの歴代監督の中ではナンバーワンの名監督であることは間違いありませんが、プロ野球全体の歴史でみても、名立たる名監督たちに勝るとも劣らない戦績です。
私の勝手なイメージでしたが、まさかまさか、あの“一匹狼”の落合氏がこれほどまでの名監督になるとは思ってもみませんでした。

そんな好成績を残しながらも今季で退任が決まったのは、落合監督の掲げる“勝利至上主義”に限界が見え始めたからだとか。
「勝つことが最大のファンサービス」と公言し、守り勝つスタイルで好成績を上げながらも、観客動員数は2008年をピークに減り続け、球団も勝利だけを追求することはできなくなったようです。
落合監督の“勝利至上主義”の象徴的な采配として思い出されるのは、なんといっても2007年の日本シリーズ第5戦での投手交代劇ですね。
8回まで完全試合の快投を演じていた山井大介投手に代え、9回に守護神の岩瀬仁紀投手を起用した采配は、当時の評論家、マスコミの中でも賛否両論でした。
そんな、徹底して守り勝つ落合野球に、「玄人受けはするがファンには地味すぎる。」と批判する声も多かったようです。
また、選手のけがも隠すなど徹底した情報管理を敷き、シーズン終了後恒例のファン感謝デーにも顔を出さないといった姿勢に対し、営業部門など球団内での不満も高まっていたとか。
あぁ、そういえば、2009年のWBCへの出場辞退でも物議を醸しましたね。
やはり、監督としても選手時代と同じく“オレ流”ではあったようです(スポーツ紙などでよくみた“オレ竜”の当て字は、上手いなあと感心したものです)。

プロ野球はスポーツであると共に興業ですから、お客さんに球場に足を運んでもらってナンボの世界ではありますが、ただ、「勝つことが最大のファンサービス」という考え方は、私は間違っていないように思います。
負けてばっかだと、もっと客足は遠のきますよ。
かつて、三原マジックといわれた昭和の名将・三原脩氏は、その日3打数3安打と好成績を残した打者に、「4打席目で安打が出る可能性は低い」とみて代打を送ったという話は有名ですし、巨人を9連覇に導いた川上哲治氏は、10点差で勝っているゲームの終盤でも“送りバント”をさせるという、いわゆる面白味のない堅実野球の監督さんでした。
徹底した管理体制という点でいえば、ヤクルト、西武を日本一に導いた広岡達朗氏が思い出されますし、確立重視という点でいえば、野村克也氏などがそうでしょう。
かつての名監督といわれる人たちも、いってみれば皆、“勝利至上主義”だったと思います。
弱すぎると間違いなく叩かれ、強すぎたら今度は勝ち方に難クセつけられる。
監督さんとはシンドイ商売です。
まあ、ファン感謝デーには顔を出すべきだとは思いますけどね。

私は、どんな監督さんでも、長期化するとマンネリ化してくるものだと思います。
落合監督だって、就任当初は観客動員の要素になってましたからね。
8年といえば、ファンも選手も新鮮味に欠けると感じ始める年月のように思いますし、その意味では、今年の結果に関係なく、そろそろ潮どきだったといえるかもしれません。
かつて10年以上の長きに渡って同一球団の監督を務めた水原茂氏や鶴岡一人氏、川上哲治氏など昭和の名将たちの時代とは違い、平成の名将といわれる監督さんたちは、概ね落合監督と同じぐらいの年月で退任しています(西武の森祇晶監督は9年、ヤクルトの野村克也監督も9年、巨人の第二次長嶋茂雄監督も9年、オリックスの仰木彬監督は8年)。
まだまだ若い落合氏ですから、今後はノムさんのように複数の球団を監督として渡り歩き、落合イズムをプロ野球界に浸透させていって欲しいと思います(ノムさんのID野球だって、最初は叩かれまくってましたから・・・)。

とはいっても、まだCSも日本シリーズも残ってるんですね。
まだまだ、中日ドラゴンズの落合博満監督でした(笑)。


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by sakanoueno-kumo | 2011-10-18 22:45 | プロ野球 | Comments(0)  

江~姫たちの戦国~ 第40話「親の心」

 徳川秀忠・お江夫妻の長男である竹千代こと徳川家光は慶長9年(1604年)生まれ、次男の国松こと徳川忠長は、慶長11年(1606年)生まれの2歳違いの兄弟で、お江にとっては32歳、34歳での出産だった。文禄4年(1595年)に秀忠のもとへ輿入れしてから、長女・千姫、次女・珠姫、三女・勝姫、に四女・初姫と、なかなか男子に恵まれなかったお江にとっては、家光は9年目にして授かった待望の男子だったはずであり、大切な後継ぎとなるはずであった。

 ところが、どういうわけかお江夫妻は、長男の家光よりも次男の忠長を可愛がったという逸話が残っている。江戸幕府の正史である『徳川実紀』の付録巻一には、
「御弟国千代の方は御幼稚並にこえて、聡敏にわたらせ給へば、御母君、崇源院殿にはこと更御錘愈ありて・・・」
などと記されている。国千代とは国松のことで、崇源院とはお江の法名、これによれば、お江は次男の忠長が幼少時から聡明であったため、ことさら溺愛したというのである。一方で、上記の分の少し後には、幼少時代の家光に関して、
「公御幼稚の頃はいと小心におはして、温和のみ見え給ひしが・・・」
と記されている。家光は幼少の頃は小心で温和だけが取り柄であったため、秀忠・お江夫妻は家光に期待しなかったのだろうか。とくに、二度の落城と三度の結婚を経験し、戦国の動乱期を生き抜いてきたお江にとっては、後継者の大切さは秀忠以上に知り抜いていたかもしれず、幼少時から聡明であった忠長に期待したのは当然のことだったのかもしれない。

 また、上記引用文の少し前には、秀忠の父、家光の内祖父である徳川家康が家光を可愛がり、家光も家康に懐いていたという意味の記述がある。あるいは、お江、さらに秀忠は、家康への対抗心から家光ではなく、忠長を溺愛したのかもしれない。やがて、その空気を察した大名・旗本たちが、相次いで忠長に接近するようになったという。竹千代こと幼い家光は、弟が父母の愛情を一身に受けていることに、心を打ちひしがれたに違いない。そんなこともあってか、乳母であるお福こと春日局を、父母以上に慕った。

 ドラマで、春日局が家光を後継ぎに裁定するよう家康に直訴するシーンがあったが、この話は家光死後の貞享3年(1686年)に成立した『春日局略譜』に記されている逸話である。これによれば、秀忠・お江夫妻が忠長を後継者に考えていると察した大名、旗本がこぞって忠長に接近しようとしていた中、幕閣・永井直清だけは家光に忠勤を励んでおり、まずはその父・永井直勝に相談して事態の打開を図ろうとした。ところが、直勝に事態の静観を主張され、思い余った春日局は、すぐさま伊勢神宮へ参詣すると称して西へ向かい、駿河駿府城にいた家康のもとへ駆け込み、秀忠・お江夫妻の動向を伝えて家光の世子としての地位を確認して欲しいと訴えた、と伝わる。

 この春日局の直訴が効いたのかどうか、その後しばらくして、家康の裁定によって世継ぎは家光に確定する。理由は、「嫡子である竹千代を廃し、次男の国松を立てるのは、天下の乱れの原因となる」とのこと。この時代の後継ぎは、必ずしも長男が継ぐとは決まっておらず、ましてや戦国動乱の最中は、有能な主君でなければ家臣が着いてこず、実力で後継者を決めるのが当然であった。ところが家康は、竹千代と国松の後継者争いを長幼の序という形でけりをつけた。これは、戦国動乱の時代の終わりを告げると共に、こののちお家騒動が生じないための策だったとも言われる。ただ、それもこれも、家光より忠長のほうが聡明だったという伝承が正しかったとしてのことではあるが・・・。

 家光を後継ぎに決めるに際して、家康はわざわざお江に書状を送って諭している。この書状は、家光の忠長に対する嫡男としての優位性は絶対であることを、きつく戒めるものだったという。興味深いのは、この訓戒状が秀忠宛てではなくお江宛てであったこと。このことから想像するに、忠長に固執していたのはお江のほうで、秀忠は姉さん女房のお江に追従するかたちで忠長に期待していたのだろう。こんな逸話が残っていることからも、お江はかなり豪胆な一面を持った女性であったことがわかり、秀忠が尻に敷かれていたという説が伝わるのも、無理からぬことである。

病に倒れた大姥局と、見舞いに来た家康とお会話。
大姥局 「若様と一度ゆっくりと話し合われて下さいませ。」
家康  「あやつは、わしに心を開かぬでな・・・。」
大姥局 「それは若様おひとりのせいだと・・・? 大殿様の御心が引いているゆえ、若様がお心を開かれぬのです。親に打ち消されるとわかっていて尚、心を開いて話す子がおりましょうや・・・。」
 この大姥局の台詞は、息子を持つ父親としては身につまされた。たしかにその通りである。親は、当然ながら息子より長く生きており、その分経験も豊富で、答えを知っている。だから、ついつい答え合わせの計算式を息子に求めようとし、違う方法で答えを探そうとする息子に、自分の知っている計算式を教えようとしてしまう。しかし、それは息子の思考を打ち消している行為であり、親の意見が正しければ正しいほど、息子は自分の考えを話さなくなり、自分の思考を持たなくなるかもしれない。そんなことを考えさせられた台詞だった。どんなに愚論であっても、まずは耳を傾ける。そして、決して否定はしない。これ、父子関係のみならず、上司と部下の関係にも言えるかもしれない。


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by sakanoueno-kumo | 2011-10-17 03:21 | 江~姫たちの戦国~ | Comments(2)  

お医者さんと禁煙しよう。~その3~

病院での禁煙治療をはじめてから3ヵ月が経ちました。
大方の皆さんの予想を裏切り、今もって禁煙は続いております。
薬のおかげとはいうものの、やめられる自信があったわけではなく、自分でも驚いています。
ただ、病院での健康保険適用治療12週間で終わりですから、薬の服用をやめた後の、これからが禁煙の本番かもしれません(希望すれば、実費で薬を続けることもできるようですが・・・)。

で、先日、最後の診察に行ったところ、こんなものをいただきました。↓↓↓
e0158128_18451222.jpg

卒煙証書とは、笑っちゃうでしょ(苦笑)!
おそらくこれは、私の掛かっていた病院のオリジナルで、禁煙外来の病院すべてが行なっていることではないでしょうが、なかなかオツなアイデアだなあと(笑)。
ただ、これを受け取るとき、院長先生が文章を読み上げ、整列した看護婦さんたちの拍手のなか授与されましたから、こっ恥ずかしいのなんのって・・・(汗)。
だって、「その勇気ある行動を称え」ですからねぇ(苦笑)。
この禁煙外来治療の成功率は7割ほどだそうで、その中のリバウンド率は1割程度だそうですが、こんなもん貰ったら、その1割に入るわけにはいかないなぁと・・・。
それに、煙草を吸わない人にしてみれば、禁煙で健康保険を使うこと自体否定的な意見が多いでしょうから、その意味でも、この12週間の健康保険料を無駄にするわけにはいきません。

e0158128_15482447.jpg←長年、愛用してきたJIM BEAM(バーボンの銘柄)のジッポーライターと、松坂大輔投手がボストン・レッドソックスに入団したときの記念ジッポーです。
松坂投手のジッポーは未使用で、ずっと居間の棚に飾っていたのですが、煙草をやめた今、これも手放そうかどうか思案しているところです。
ネットオークションで見ると結構高値で売買されているもんで・・・。

1日40本以上のヘビースモーカーだった私の禁煙が周りに与えた影響は結構大きかったようで、私に感化されて禁煙を考え始めた人も数人います。
そんな人たちから、「あれだけたくさん吸ってたのに、もうぜんぜん吸いたいと思わないの?」と、よく聞かれるのですが、答えはNoで、煙草を吸いたいという欲求は今もあります。
私の知人で禁煙歴1年半の人がいますが、その人に聞いても、やはりまだ煙草を欲する気持ちは消えないそうです。
一度身体が覚えてしまった味は、そう簡単に消えるものではないのでしょうね。
美味しい肉の味を覚えたら、何年経っても忘れられないものですから。
ただ、禁煙を始めた当初よりも、煙草のことを思い出す頻度はかなり減りました。
そう考えればこの12週間で、ニコチン依存症(ニコチン中毒ともいいますが)からは脱することが出来た・・・ということなんでしょうね。
これからは、“医師の力”ではなく“意志の力”での禁煙となるのでしょう。
「三日三月三年」なんて言葉もあるように、3ヵ月はひとつの節目。
とりあえずは、そこをクリアしたということで、ちょっと自分を褒めてみたいと思います。
今、少しでも禁煙を考えておられるご同輩は、一度禁煙外来に足を運んでみてはいかがですか?
卒煙証書を貰えるかどうかはわかりませんが(笑)。

お医者さんと禁煙しよう。~その1~
お医者さんと禁煙しよう。~その2~


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by sakanoueno-kumo | 2011-10-12 19:02 | コネタ | Comments(2)  

江~姫たちの戦国~ 第39話「運命の対面」

 徳川秀忠に将軍職を譲った徳川家康は、新首都となる江戸城とその城下町の設計に取り掛かっていた。広大な首府となる江戸の町の地盤を固めるために、家康は前田利長・伊達政宗・加藤清正・結城秀康・松平忠吉・本多忠勝らに命じて神田山を切り崩し、豊島の洲を埋め立てさせた。慶長9年(1604年)8月からは江戸城普請のための石垣工事が始まり、築城の名人とされた藤堂高虎に基本設計を任せ、福島正則・加藤清正・池田輝政・黒田長政・細川忠利といった、遠国に住む豊臣恩顧の大名までもが動員された。家康自身は駿府に移り住むことを決めており、この築城はまぎれもなく二代将軍となった秀忠のためであり、その築城に豊臣恩顧の大名を動員することで、豊臣時代の終焉徳川時代の到来を天下に公言するものでもあった。歴史は着々と、家康の描いたとおりに動き始めていた。

 家康が最初に豊臣秀頼へ上洛要請をしたのは、慶長10年(1605年)5月のことで、秀忠が伏見城で将軍宣下を受けた翌月だった。ドラマにあったように、家康は高台院(おね)を介在して大坂城に居城する秀頼に対し、秀忠の将軍就任を祝うために上洛せよと呼びかけるも、これに激昂した淀殿が、「上洛を強制するならば秀頼と共に自害する。」といって頑なに拒絶したのもドラマにあったとおり。大坂城で秀頼を補佐する淀殿は、徳川家の権力が強大化して実質的な天下の覇者となっても、あくまで徳川家を豊臣家の家臣と見なす見方を変えなかった。いや、変えたくなかったという見方が正しいだろう。このあたりの淀殿に、もしもっと柔軟な思考があったならば、のちの彼女と秀頼の運命も変わっていたかもしれない。

 家康の秀頼に対する二度目の上洛要請は、慶長16年(1611年)3月、後水尾天皇の即位に立ちあうため、駿府城から家康が上洛した際であった。このときも6年前と同じく淀殿は、「主家である秀頼を京に呼びつけるとは何事か。家康のほうこそ大坂に下ってくるのが道理であろう。」と激昂したが、天下の軍事の形勢は完全に徳川に傾いており、秀吉恩顧の加藤清正浅野幸長の懸命な諫言もあって、やむなく秀頼の上洛を同意する。このとき、豊臣秀頼19歳。6年前の上洛要請時と比べれば随分と大人になっており、ドラマのように、自分の意志で上洛を決意したのかもしれない。このときまで、一歩も大坂城の外に出たことがなかったと言われる秀頼だが、これが彼にとっての親離れの瞬間だったといってもいいかもしれない。一方、淀殿は、最後まで子離れができなかった・・・ということだろうか・・・。いってみれば、モンスターペアレントの元祖とでもいうか・・・。

 秀頼の上洛は、「妻の千姫の祖父に挨拶する」という名目で実現した。会見場所は京都二条城。道中は、加藤清正浅野幸長らの厳重な警護のもとに行われ、更には、片桐且元・片桐貞隆・織田有楽・大野治長などの重臣が連れ添った。ドラマでは、家康が上座に着いていたが、これについては物語によって様々である。形式的には、まだ豊臣の家臣である家康が上座に着くのはおかしい、といった見方もあるが、正妻の祖父に挨拶するという名目である以上、家康が上座でも格好がつくともいえる。いずれにせよ、家康の呼び出しに秀頼が答えたかたちには違いなく、公式に豊臣家が徳川家の家臣になったわけではないが、事実上そう解釈した諸大名は多かったであろう。すべては家康の思惑どおりだった。

 しかし、当の家康自身は、この会見で豊臣秀頼という人物の成長ぶりを目の当たりにし、逆に恐怖を覚えたという。秀頼は身の丈6尺5寸(約197cm)の並外れた巨漢であったとされ、それでいて思慮分別に長け、老成人の風格を備えた人物であったと伝わる。家康はこの会見で、秀頼に落ち度があった場合はそれに難癖をつけ、豊臣家を弱体化させる口実にしようと考えていたと言われるが、家康の前に現れた秀頼は、そんな家康を驚かせるほどの立派な若者に成長していたのである。一説には、家康はこのとき秀頼からかもし出されるカリスマ性に恐怖を覚え、豊臣家を滅ぼすことを決意したとも伝わる。真意がどうだったかはわからないが、実質これ以後、家康の豊臣家討伐の姿勢が露骨になっていったのは事実であり、案外、的外れでもないように思う。身の丈6尺5寸は大袈裟としても、家康が恐怖する何かを、秀頼は持っていたのだろう。逆に秀頼がそれほど聡明な人物だったとすれば、このときの家康の心中を察したかもしれない。しかし、いくら秀頼がカリスマ性に富んだ偉丈夫であったとしても、海千山千の家康にまともに対峙してかなうはずもなく、ただ1点、家康に勝てる部分があるとしたら、残された寿命だけであった。

家康 「しかし、母君がよう出されたものじゃな・・・。」
秀頼 「私が望みました。」
家康 「ほう、なにゆえ来ようと?」
秀頼 「・・・詫びを・・・言いたいと・・・。」
家康 「・・・詫び?」
秀頼 「かつては、亡き父、太閤殿下に服従を強いられ、さらには国替えをされ、江戸に追いやられ、積もり積もった恨みもおありでしょう。それでもなお、豊臣のために働いてくださること、ありがたく存じまする。これからも徳川殿と共に・・・徳川殿と共に、泰平の世を築くこと、共に考えてまいりたいと思います。よろしく頼みまする。」

 この会見時の徳川家康、御年70歳。自分の目の黒いうちに、コイツ(秀頼)をなんとかしなければ・・・きっと、そう思ったに違いない。健康には人一倍気を使っていた家康といえども、そう長くは生きられないことは自覚していたはず。大坂冬の陣が起きるのは、この会見から3年後のことである。



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by sakanoueno-kumo | 2011-10-11 00:50 | 江~姫たちの戦国~ | Comments(0)  

灘温泉で朝風呂なう。

e0158128_8303547.jpg徹夜仕事になってしまったので、会社の近くにある灘温泉で朝風呂です。
平日の朝というのに、たくさんの入浴客でにぎわっていました。
徹夜明けでここの風呂に来るのは今日が2度目なんですが、1ヶ月ほど前に初めてここを訪れたとき、一番風呂に入ろうと思って6時の開店と同時にのれんをくぐったにもかかわらず、すでに5〜6人の方が入浴しておられて驚きました。
しかも、皆さん顔見知りのようで、その中でも主のような方がおられて、一見客の私はなんとなく居場所がなく・・・。
「おい!新顔!親分に挨拶しろ!」とは言われませんでしたけどね(笑)。
今日は7時過ぎに訪れたんですが、やはり5人ほど入浴中でした。
朝から銭湯に通う人って、結構いるんですね。

灘温泉は神戸市灘区にある温泉風呂屋で、六甲道本店と水道筋店があります。
ここ六甲道本店は昭和7年(1936年)の開業で、その頃の近代建築そのままだそうで、「レトロ風呂屋」として知られています。
JR六甲道駅のすぐ近くで、このあたりは平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災で大きな被害を受けた地域で、駅前は最開発されて新しい商業ビルが立ち並んでいるのですが、そんな新しい街のど真ん中に、写真のようなクラシックな外観の灘温泉があります。
いってみれば、六甲道の主ですね。

さて、風呂に入ってサッパリしたので仕事に戻ります。
たまには銭湯での朝風呂もいいもんですよ!


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by sakanoueno-kumo | 2011-10-07 08:30 | 神戸の史跡・観光 | Comments(2)  

連続200本安打が途切れたイチロー選手にみる、好打者と衰えの考察。

先頃、MLBシアトル・マリナーズのイチロー選手が続けていた、シーズン200本安打の連続記録が、10年連続で途切れましたね。
今季の安打数は184本にとどまり、打率も2割7分2厘で、オリックス時代の1994年から続けてきた連続3割も、17年でストップしてしまいました。
気がつけばイチロー選手も37歳
過去、どんな一流選手でも“衰え”を見せ始める年齢に差し掛かっているんですね。
こういった継続記録というものは、いつかは途切れるときが訪れるのは当然のことなんですが、イチロー選手の場合、“衰え”なんて言葉はまだまだ先のような、ひょっとしたら永遠に“衰え”なんて訪れないような、そんな錯覚すら抱かせるほどだったんですが・・・やはり、彼も人の子だったということでしょうか。
ただ、今年1年だけを見て衰えたと評するのは早計のような気もしますけどね。

実際に昔と比べて、アスリートのトレーニング方法医療などは格段に進歩しているでしょうし、ストイックなイチロー選手のことですから、身体のケアも人一倍入念に行なっていることでしょう。
彼なら、今までの年齢の常識を覆してくれそうな期待はあります。
ただ、いくら入念にケアを行なっても、どうしても“衰え”を避けられないのは、私は“目”だと思います。
いわゆる“動体視力”というやつですね。
一般に、人間の動体視力は40歳手前から低下が始まり、50歳を超えると急激に下がるといわれています。
老眼も同じような時期ですもんね。
現在44歳の私ですが、まだ老眼鏡のお世話になるまでには至っていないものの、近くから遠くへ、遠くから近くへ視点を変えたときに、ピントが合うまでに要する時間が急激に長くなったことを実感しています。
18.44メートル離れた場所にいる投手の投じたボールが、0.5秒ほどで捕手のミットに収まるわけですから、これにピントを合わせられなくなったら致命傷ですよね。
よく、ベテラン打者が速球を打てなくなるのは、スイングスピードの衰えや反射神経の衰えの場合もあるでしょうが、一番の理由は目の衰えなんでしょう。

イチロー選手の場合、一番打者としては邪道といっていいほど、四球の少ない打者ですよね。
これは選球眼が悪いわけではなく、それだけ彼のストライクゾーンが広いということで、つまりは、ボール球もヒットにしているということです。
「ストライクだけを打てばよいのであれば、4割を打つ自信がある。」と、以前テレビのインタビューで語っていましたが、おそらく彼ならばそうでしょうね。
ストライクだけを打っていれば、毎年、首位打者は簡単だったんじゃないでしょうか。
ただ、それではおそらく、200本安打は不可能だったでしょうね。
バッティングは、ボール球を見逃しストライクだけを打つのが基本で、それができる打者が好打者と評価されるわけですが、イチロー選手はそれを否定し、安打“率”ではなく、安打“数”にこだわったわけです。
考えてみれば、投手は勝利数奪三振数、長距離打者なら本塁打数と、“数”で評価されるタイトルがあるのに対し、イチロー選手のようなタイプの打者は、彼の出現までは“率”で評価されていました。
その概念を変えたのが、イチロー選手の安打“数”へのこだわりですね。
本当の首位打者というのは、“率”ではなく“数”で、そっちのほうがはるかに難しいんだよ・・・と。

たしかに、打率で選ばれる首位打者は規定打席数に達してさえいれば権利がありますから、タイトル争いをしている場合、打率が下がらないようにあえて打席に立たないといった策も出来るわけです。
過去の実例でいえば、1981年に首位打者となった阪神タイガースの藤田平選手は、巨人の篠塚和典選手との首位打者争いの中で、残り打席を計算しながら試合を欠場して、僅かに1厘差で首位打者を獲得したということがありましたし、このとき負けた篠塚選手も、のちに広島カープの正田耕三選手と首位打者争いをしたときに同じことをしています。
そういった例を見ると、打率の価値って微妙ですよね。
その点、イチロー選手のこだわる安打“数”の場合は、まやかしは一切ありませんからね。
打順による打席数の差はありますが、ヒットを打たなければ増えないのが安打数であり(当たり前のことですが)、これこそが真の好打者の証である・・・と、イチロー選手は言いたいんじゃないでしょうか。

しかし、彼ほどの打者になると、相手投手もなかなかストライクゾーンでは勝負してくれません。
日本にいた最後の頃なんて、ほとんどマトモに勝負してもらえてなかったですもんね(敬遠もやたらと多かったと記憶しています)。
そんな中で安打数を伸ばそうと思ったら、ボール球をヒットにするしかない・・・という考えに至ったのでしょう。
ただ、ボール球をヒットにするというのは、普通の打者が見逃す球に手を出して尚且つそれをヒットにするわけですから、当然ながら簡単ではないわけで、それを可能にしていたのは、彼の巧みなバットコントロールと、おそらく人並み外れた“動体視力”だったのでしょう。
その“動体視力”が衰えを見せ始めているとすれば・・・。

今年の成績が衰えによるものかは、実際には彼自身しかわかりませんし、ただ単に不調だっただけで、来年また軽々と200本安打をやってのけるかもしれません。
そうあって欲しいと期待したいところですが、イチロー選手といえども、いつかは加齢による衰えに逆らえないときが必ず訪れます。
かつてイチロー選手は、「50歳まで現役でいたい。」と、テレビのインタビューで多少ジョークまじりに語っていましたが、彼は決して絵空事とは考えていないでしょう。
一方で、「腹が出たら辞める。」とも語っており、つまり彼がいう50歳での現役というのは、満足いくパフォーマンスが出来ての50歳現役であって、ヘロヘロになりながら見苦しく現役にこだわり続けている選手とは違うようです(誰とはいいませんが)。
これからは、イチロー選手の年齢と戦いに注目していきたいですね。

ちなみに、ピート・ローズ選手の持つ通算4256安打の世界記録まで、あと550本
今までのイチロー選手ならば、3年弱でクリアできる数字ですね。
ちなみにちなみに、38歳でのシーズン最多安打は、そのローズが1979年に記録した208本だそうです。
来年38歳のイチロー選手、狙えない数字じゃないですね。
ちなみにちなみにちなみに、来年その記録をイチローが破ったとしたら、必然的に通算11回目の200本安打となり、これまたローズの記録を上回ってメジャー新記録となります。
今回、連続記録が途絶えたというだけで、まだまだ楽しみはたくさんあるんです。
来年もまた、イチロー選手から目が離せませんね。


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by sakanoueno-kumo | 2011-10-05 18:48 | プロ野球 | Comments(13)  

江~姫たちの戦国~ 第38話「最強の乳母」

 慶長9年(1604年)7月17日、徳川秀忠・お江夫妻に待望の男子が生まれた。父、祖父と同じ竹千代という幼名を付けられたこの長男こそ、のちの第三代将軍・徳川家光である。当時、武家では子女が生まれると老練な家臣の中から傅役(養育係)が、出産や育児の経験のある女性の中から乳母が任命された。竹千代こと家光の場合、傅役には青山忠俊酒井忠利内藤清次らが、そして乳母にはお福こと、のちの春日局が選ばれた。忠俊らはいずれも譜代の旗本だったため、傅役への登用は順当な人事といったところだろう。

 一方、世間の耳目を集めたのは、乳母の人事だった。選ばれた春日局は譜代の大名や旗本の出ではなく、父は斎藤利三で、稲葉正成と結婚、離婚をした経験を持っていた。父の斎藤利三は明智光秀の重臣で、山崎の戦いに敗走したのち捕縛され、羽柴秀吉の命によって処刑された。元夫の稲葉正成は備前岡山藩主であった小早川秀秋の元家老で、関ヶ原の戦いの際には徳川家康と内通し、秀秋を東軍に寝返らせた張本人だったと伝わる。しかし、戦後は秀秋と対立して蟄居、そして慶長7年(1602年)に秀秋が死去して小早川家が断絶すると浪人となる。そして、妻が徳川家の乳母に採用されたことをきっかけに離縁したと伝わる。

 春日局が乳母に抜擢された経緯は諸説ある。よく物語などで使われる説は、江戸幕府が京都市中に立てた乳母募集の高札をみて、春日局が乳母に応募したという説。この説によると、春日の局は自ら乳母に応募し、江戸幕府の京都所司代・板倉勝重に採用されたとされる。また、別の説では、春日局は絵師の海北友松、あるいは家康の側室のお亀の方(相応院)の推薦で、乳母に採用されたという説もある。海北友松は父・斎藤利三の親友だった人物で、山崎の戦いの後、利三の首が京都の六条河原に晒された際、夜陰に乗じて首を奪って手厚く葬った、という逸話を持つ人物である。また、友松はその後も困窮していた春日局らに、援助の手を差し伸べたとも伝わる。ドラマでのお福が、「浅井家縁の者に助けられた。」と言っていたのは、おそらくこの友松のことであろう。絵師として知られる友松だが、元は浅井家の家臣であった。そんな友松が、浅井家の三女であるお江に直接、春日局を推薦したというのは考えづらいが、友松が秀忠の元小姓で詩人の石川丈山あたりを介して、彼女を秀忠もしくは板倉勝重に推薦した可能性は否定できない。いずれにせよ、そういった出自経歴の持ち主である春日局が、秀忠の正子の乳母に抜擢されたのは、多くの人々の推薦を得たからに他ならないであろう。

 慶長8年(1603年)2月に征夷大将軍の職に任ぜられた徳川家康であったが、在職わずか2年で秀忠に将軍職を譲ってしまう。天文11年(1542年)生まれの家康は、この当時63歳という高齢となっていたが、しかし自ら薬を調合するなど健康には人一倍注意を払っていたため、特に健康上の問題があったというわけではなかった。にもかかわらず、家康が在職2年で将軍職を退いた理由は、多くの物語などで描かれているように、将軍職を秀忠に世襲したことで、引き続き徳川家が天下人の座に君臨し続けることと、「天下の大権」を大坂城にいる豊臣秀頼に渡す意志が全くないことを、天下に公言するためだったと考えて間違いないであろう。

 関ヶ原の戦いに勝って江戸幕府を開いた時点で、すでに天下人の座は事実上、家康の手に移っており、なにもそこまで豊臣家を警戒する必要はなかったのでは・・・と、結果を知っている後世の私たちは思いがちだが、当時の家康にとっては、決して徳川幕府の行く末は安泰とは思っていなかった。諸国には福島正則加藤清正のような豊臣家の一族の大名が残っており、前田利長山内一豊のような豊臣家恩顧の大名も数多く存在する。そんな大名たちの中には、豊臣秀頼に期待する者が多く、なかには、「秀頼公が成長すれば、家康公は『天下の大権』を返上するに違いない!」と勝手に思い込んでいる者も少なくなかった。ドラマにもあったように、豊国祭での民衆の熱狂ぶりは大変なものだったようで、大坂では未だ衰えをみせない豊臣人気を目の当たりにして、家康の豊臣家に対する警戒心は更に強まったことであろう。同時に、豊国祭の盛況を見た淀殿が、豊臣政権の復活を民衆は待望していると錯覚したのも、無理からぬことであった。

 家康は将軍職を退いたものの、隠居生活に入ったわけではなく、全将軍=大御所として駿河駿府城へ移住し、ここに駿府政権を樹立して引き続き江戸幕府の基礎固め当たった。二代目将軍・徳川秀忠は江戸城に留まり、ここに駿府と江戸との二重政権が発足する。この家康の行動が大坂城の淀殿に与えた動揺は察するに余りあるが、このときのお江の心中はどんなものだったのか・・・知りたいところである。


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by sakanoueno-kumo | 2011-10-03 01:58 | 江~姫たちの戦国~ | Comments(0)  

夏休み播磨路紀行 その5 家原遺跡公園「古代村」

シリーズ最後です。
原不動滝戸倉峠のある波賀町より少し東の一宮町にある、「家原遺跡公園」を訪れました。
波賀町も一宮町も、現在では合併されて同じ宍粟市となっています。
この地は古くより瀬戸内地方と日本海地方を結ぶ交通の要衝として栄えてきた場所で、平成4年(1992年)からの調査では、縄文、弥生、古墳時代の竪穴住居跡、奈良時代の廃棄土坑、平安時代から鎌倉時代の掘建柱建物跡など、縄文から中世に至る大規模な複合遺跡が発掘されました。
この家原遺跡は、この種の遺跡としては、西日本有数の規模だそうです。

e0158128_15164323.jpg発掘された遺構群を忠実に復元し、史跡公園として整備された家原遺跡公園「古代の村」には、縄文時代の竪穴式住居、弥生時代の竪穴式住居、古墳時代の竪穴式住居、高床式倉庫(建物)、中世の掘立柱建物など12棟が復元され、古代から中世へと時代が移り変わっていく様子が分かりやすくなっています。

家原遺跡のある三方盆地地区は、奈良時代に成立した播磨国風土記の中では「宍禾郡(しさわのこおり)・御形里(みかたのさと)」と記されているそうで、遺跡の北方には、室町時代後期の様式や技法を伝える「御形神社(本殿は国指定重要文化財)」が鎮座するなど、豊かな歴史遺産を伝えています。

e0158128_17572568.jpg家原遺跡で見つかった縦穴式住居跡は、長辺6m・短辺4.9~5.5mの角の丸まった四角い形をしています。
右の写真は縄文時代の竪穴式住居。
住居跡の中からは、縄文時代中期末から後期初頭のものとみられる土器類をはじめ、石斧石鏃などが出土しています。

e0158128_15344376.jpg中に入ると、このように床が低くなっています。これって、大雨の際にはすぐに浸水してしまうように思うのですが、実際にはどうだったのでしょうね。入口は、子供でも身体を丸めないと入れない小さなものでした。後ろにある消火栓は、出土品ではありません(笑)。

e0158128_17472954.jpgこちらは弥生時代の竪穴式住居の中です。縄文時代の住居の中にも、床の真中に石で囲んだ炉がありましたが(スミマセン・・・写真とってません)、弥生時代になると写真のように、住居内の一角に立派なカマドがありました。言ってみれば、キッチン付きになったようなもんですね(笑)。両端に写っている柱は、住居を支えている支柱です。

e0158128_1752477.jpg左の写真は住居内上部です。床が下がっていることもあって、外から見るより結構高さがあります。ぶら下がっている電球は、当然ながら遺跡ではありません(笑)。くだらないオヤジギャグを連発するな!という声が聞こえてきそうですが、でも、この裸電球を見た9歳の我が娘からは、「弥生時代の人は、あんな小さな電球で暮らしていたの?」と、マジ顔で聞かれましたから、小さい子供のためには、そんな当たり前の説明も必要のようです。

e0158128_1741135.jpgこの家原遺跡は、最初に縄文時代の竪穴式住居跡が見つかり、発掘を進めていくうちに、様々な時代の遺跡が見つかったそうです。
他にも古墳時代の住居や中世の建物、高床式倉庫などがあったのですが、この日は夕方から訪れたため時間があまりとれず、ゆっくり見学できなかったのが残念です。
e0158128_17441967.jpgただ、写真を見ていただいてもわかるように、かなり大規模な施設にもかかわらず、見学者はほぼ私たちだけでした。
夏休みの日曜ということを考えれば、寂しい話ですね。
交通上の不便さは確かに否定できませんが、兵庫県民の中ですら、この遺跡公園の存在はメジャーではありません。
非常にもったいないですよね。
復元された遺跡も、決して子供だましのようなものではなく、どれも見応えのあるものばかりでしたし、もっと、広報面に力を入れていいのではないかと思います。

家原遺跡公園には、古代遺跡の他にも一宮町の歴史を学ぶことの出来る歴史資料館や、竹わら細工木工細工陶芸などが体験できる工房、日帰り温泉施設、一宮温泉「まほろばの湯」などがあります。
せっかくここまで来たので、この日、子供たちは『勾玉作り』を体験しました。
e0158128_17543371.jpg

講師の先生から作り方を聞き、滑石(かっせき)をサンドペーパーで削ります。
滑石とは一番やわらかい石です。
e0158128_16502249.jpg

やわらかいといっても、子供にとっては思う形に削るのは容易ではありません。
そして形が整ったら、仕上げは水ペーパーで磨いて表面のツヤを出します。
e0158128_1654141.jpg

そして、1時間以上かけて、ようやく完成しました。
子供にとっては良い記念品です。
e0158128_1723022.jpg

最後に工房の前で、この日のメンバー全員で記念撮影です。
e0158128_17554172.jpg

てなわけで、夏休み播磨路紀行シリーズはこれで終わりにします。
気がつけば本日は10月1日、もう秋になってしまいました(苦笑)。
そろそろ長袖の季節ですね。
半袖の間に終わらせることができてホッとしています(笑)。

夏休み播磨路紀行 その1 「なでしこジャパン」ならぬ「なでしこの湯」
夏休み播磨路紀行 その2 波賀温泉「楓香荘(ふうかそう)」
夏休み播磨路紀行 その3 日本の滝100選「原不動滝」
夏休み播磨路紀行 その4 戸倉峠名物「滝流しそうめん」


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by sakanoueno-kumo | 2011-10-01 17:28 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)