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江~姫たちの戦国~ 第46話(最終回)「希望」

 元和2年(1616年)、徳川家康が死去したのちの徳川秀忠は、将軍親政を開始し、酒井忠世土井利勝安藤重信といった重臣に支えられ、幕府権力の強化に努めた。具体的には、法令違反などのあった大名を相次いで除封(おとり潰し)とする一方で、キリスト教禁教を一層徹底させた。秀忠に除封に追い込まれた大名は、福島正則(広島50万石)、田中忠政(筑後柳川32万石)、最上義俊(山形57万石)、蒲生忠郷(会津若松60万石)などの有力な外様大名をはじめ、譜代で家康の側近中の側近だった本多正純や、秀忠の実弟の松平忠輝、秀忠・お江夫妻の三女・勝姫の娘婿で、秀忠から見れば甥にもあたる松平忠直にも及んだ。正純は諫言が過ぎたこと、忠直は不行跡を重ねたことが除封の表向きの理由だったが、正純の場合は同じく幕閣の大久保忠隣暗闘を重ねていたことが、除封につながったものとみられる。最終的に、秀忠が隠居して大御所となってからのものも含めると、除封された大名は外様23家、親藩・譜代16家にもおよび、これは徳川15代将軍の中でもトップの数。親藩・譜代であろうが外様であろうが容赦なく処分するという姿勢を示すことで、大名統制を行い、幕府権力を強固にしていった。

 元和6年(1620年)6月18日、秀忠・お江夫妻の五女である和子(まさこ)ことのちの東福門院は、京都御所の内裏に女御として入内し、元和9年(1623年)には第108代・後水尾天皇との間に興子内親王(第109代・明正天皇/女帝)をもうけた。これにより、徳川家は天皇家の外戚という地位を手に入れ、徳川家の権威は一層増すこととなった。しかし、明正天皇は女帝であったためその後の天皇にその血が繋がることはなく、徳川家が天皇の外戚となったのもこの明正天皇のときだけだった。

 秀忠が女中のお静の方を寵愛して産ませたという幸松丸。お静の方は江戸郊外の領民、もしくは大工の娘であったといわれ、大奥の中ではもっとも下のクラスの女中であった。通常、侍妾の選定には正室の許可が必要で、下級女中の場合には出自を整える手続も必要であったにもかかわらず、お静の方の場合にはそうした手続きを取ることを秀忠が怠ったため、江戸城外での出産となり、その後も正式に側室となることはなく、幸松丸は譜代大名の保科正光の養子・保科正之として育てられた。ドラマでは、隠し子の存在を知ったお江が幸松丸を呼び出して面会していたが、実際には、秀忠はお江の生前に公式の場で正之を実子と認めることはなかったという。秀忠が正之と面会したのはお江の死後で、正之が秀忠の子であることを公式に発表したのは、秀忠の死後、徳川家光の代になってからのことである。家光は正之を重用し、家光の死後はその遺命により、第4代将軍となった徳川家綱の補佐役となり、幕政の安定に寄与していくこととなる。

 紆余曲折の末、秀忠の後継者には長男の家光が据えられ、元和9年(1623年)7月27日、秀忠が隠居し、将軍職徳川家当主の座を家光に譲り、同じ年の12月には公卿の鷹司信房の娘・孝子を正室に迎えた。徳川三代将軍家光の時代が始まる。一方の弟・徳川忠長は、元和2年(1616年)あるいは元和4年(1618年)に甲府藩23万8千石を拝領し、甲府藩主となる(しかし、元服前で幼少の忠長が実際に入甲することはなく、多分に形式上の藩主だった。ただ、このことによって、秀忠の後継者争いが家光に決定したのがこの時期であったことを窺うことができる)。その後、家光の将軍宣下に際して駿河国と遠江国の一部を加増され、駿遠甲の計55万石を領有し、将軍の弟として強い権力を有した。しかし、寛永3年(1626年)の母・お江の病没を境に、秀忠・家光父子の忠長に対する処遇が変わり始め、寛永8年(1631年)には不行跡を理由に蟄居を命じられ、翌寛永9年(1632年)の秀忠の死後、除封処分となり、最終的には切腹に追い込まれる。享年28歳。忠長を溺愛し、秀忠の後継者に忠長を推していたといわれるお江。まるで母に守られていたかの如く、彼女の生前と死後で立場が一変してしまった忠長。このあたりに、お江の実子は忠長だけで、家光の実母はお江ではなかった・・・という説が生まれた背景がある。事実はどうだったか・・・、今となっては憶測の域を出ない。

 さて、晩年のお江について。ドラマでは、大奥制度の計画を秀忠から任されていたお江だったが、実際にはお江が関わっていたという記録は残っていない。大奥制度を作ったのは、ほかならぬ秀忠であった。秀忠は元和4年(1618年)、女中以外の出入りを原則として禁止するなど、6カ条法度を大奥に発し、さらに元和9年(1623年)には8カ条からなる「大奥法度」を定めた。そこに、正室であるお江の意向が取り入れられていたとしても何ら不自然ではないが、その翌年の寛永元年(1624年)には、秀忠の隠居に伴いお江も西の丸に移っていたと思われ、これと入れ違いに三代将軍となっていた家光が本丸に移り、このとき春日局も本丸の大奥に入ったと思われるため、よくドラマの「大奥シリーズ」などで描かれているような、大奥の運営方法をめぐってお江と春日局との間で熾烈な女の闘いがあったといったエピソードは、実際には存在しなかった可能性が高い。やがて、本丸の大奥のすべての女中を指揮下に置いた春日局は、「大奥法度」に基づいて大奥を運営した。大奥制度は、秀忠が立ち上げて春日局が軌道に乗せたもので、お江は、直接的には深く関わっていないようである。

 お江がその波乱に満ちた生涯に幕を下ろしたのは、寛永3年(1626年)9月15日、秀忠・家光ともに上洛中で、江戸城を不在にしていたときだった。徳川幕府の正史である『徳川実紀』には、このときの上洛行列の規模や上洛中の行動はこと細かく記されているものの、大御所や将軍が不在の江戸城内の出来事については、極めて簡単な記述しか見出せないため、お江の病臥についても記載されておらず、死因についても詳しくはわかっていない。上洛中の秀忠たちのもとに、お江危篤の知らせが届いたのは9月11日。しかし、秀忠・家光父子は動くことなく上洛の日程をこなし、忠長だけが江戸城に向かった。忠長は側近が落伍するほどの猛スピードで江戸城を目指したが、結局は臨終に立ち会うことはできなかった。享年54歳。

 お江は、徳川家の歴代将軍と御台所の中では、唯一例外的に荼毘(火葬)に付されている。この時代、疫病などで死んだ場合をのぞいて土葬が主流で、とくに身分の高い人は土葬が常識だった。お江が荼毘(火葬)に付された理由は今もってで、それに加えて、その死が突然だったこと、死去の際、秀忠・家光が不在中だったこと、危篤の報に接して駆けつけたのが忠長だけだったことなどから、毒殺説などの諸説を生む要因となっている。しかし、そのどれもが憶測の域を出ず、いずれも「歴史ミステリー」的な発想に過ぎない。晩年のお江が、殺されるほどの重要な存在であったかどうかを考えれば、答えは簡単な気がする。

 浅井三姉妹の三女・お江という女性を中心とした、姫たちの戦国物語が終わった。実父叔父に殺され、実母をのちの養父に殺され、実姉に殺されるという、それが戦国の慣らいとはいえ大変な運命に翻弄されたお江。その波乱に満ちた生涯を強いられた浅井三姉妹の中で、末妹の彼女だけが、後世にその血脈を残した。徳川将軍家に引き継がれたお江の血筋は、残念ながら第7代将軍・徳川家継がわずか6歳で夭逝したため途絶えてしまったが、お江の二度目の夫・豊臣秀勝との間に生まれた完子が公家の九条家に嫁ぎ、その子孫は代々関白を歴任し、大正天皇の正妻となる貞明皇后に続いている。貞明皇后は言うまでもなく昭和天皇の母君であり、つまり、今上天皇ならびに親王・内親王など現在の皇室の方々はすべて、お江の子孫ということになる。織田家浅井家の血を引き、徳川家豊臣家の子を産み、現在の天皇にも繋がるお江。彼女の物語を観終えて、あらためてお江という女性の歴史上の存在感の大きさを感じずにはいられない。


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by sakanoueno-kumo | 2011-11-28 23:44 | 江~姫たちの戦国~ | Comments(0)  

江~姫たちの戦国~ 第45話「息子よ」

 徳川家康がこの世を去ったのは、大坂夏の陣から1年足らずの元和2年(1616年)4月17日。同年1月、鷹狩に出た先で倒れ、その後容態は好転することなく、4月17日巳の刻(午前10時頃)に駿府城において薨去したと『徳川実紀』は伝える。享年75歳。死因は諸説あって、よく知られるのは、とある京都の富豪が流行の食べ物として「鯛の天ぷら」を勧めて、その鯛にあたって亡くなったという食中毒説で、この説の出典は、家康の死の100年ほど後に大道寺友山が書いたとされる『駿河土産』の中に記されたエピソードである。しかし、素材が鯛であることや、天ぷらとして加熱した調理であったことなどから、死ぬほどの食中毒になるとは考えづらく、また、家康が鯛の天ぷらを食べたのは1月21日のことで、亡くなったのが4月17日と、食中毒とするには日数がかかり過ぎていることから、現在では食中毒説は否定的にみられている。『徳川実記』では家康の病状を「見る間に痩せていき、吐血と黒い便、腹にできた大きなシコリは、手で触って確認できるくらいだった」と記載があり、また、家康の侍医の片山宗哲という医師が残した書物には、「大権現様、御腹中に塊ありて、時々痛みたもう」と記されており、それらの症状から考えて、死因は“胃がん”だったという説が現在では主流である。

 また別の説では、家康は自分の腹の具合が悪い原因は寄生虫のサナダムシだと思いこみ、手製の虫下しを服用したため薬が合わずに死期を速めたという話もある。サナダムシの名称の由来は、真田紐に形状が似ていたことからそう名付けられたもので、真田紐とは、関ヶ原の戦いで西軍に与したため高野山に配流になった真田昌幸・信繁(幸村)父子が、生活の糧として生産した平らな紐のことで、各地で行商人が「真田の作った強い紐」と言って売り歩いたことから名付けられたといわれている。当時、徳川の天下が成立したものの地方の庶民にはまだまだ反徳川的風潮が根強く、最後まで徳川に苦汁をなめさせた真田を支持・美化する動きがあり、真田紐を一つの象徴とする様になったといわれている。そんな真田紐を語源としたサナダムシに最後まで家康が苦しめられていたとすれば、死してなお家康を苦しめた真田父子の執念・・・なんて考えたくもなるが、残念ながらサナダムシという名が付いたのは後世のことで、この当時はこの寄生虫のことを「寸白(すばく)」とよんでいたらしい。ひとつのエピソードとしては面白くはあるが。

 家康の病状を憂慮した徳川秀忠は、2月1日辰の刻(午前8時頃)に江戸を発ち、昼夜兼行して2日戌の刻(午後8時頃)に駿府に到着、父の病床を見舞った。この頃から、直参はもちろん諸大名や公卿衆など見舞い客が引きも切らさず、秀忠も毎日必ず病床を訪れたという。

「これからは徳川の世を継ぐことが、そなたの役目と心得よ。さすれば泰平の世は何代も続くであろう。それはそなた次第。秀忠にはそれが出来ると見込んだのじゃ。」
「父としてはどうなのですか。将軍としてではなく1人の子として私をどう見ておいでなのですか。」
「かわいいのよ。かわゆうてかわゆうてならぬゆえ、迷いもした。将軍とすることも、わしの世継ぎとすることも・・・。ようやく言えたがや・・・死ぬ前に。」
「私はこれまで父上が死んでくれればと何度も願いました。されど今、父上を失うのが恐ろしゅうございます。」
「いや、そなたはもう立派な将軍じゃ。」
「いえ、私もひとりの子として申しております。父上を失いたくないと。私もようやく言えました。」
「互いに不器用よのう。」
「親子ですゆえ。」

 かつては長男の松平信康を、織田信長の命令とはいえ切腹に追いやった家康だったが、自らの死期を悟った家康は、ドラマのように息子を愛する普通の老人となっていたかもしれない。偉大な父を持った息子にとっては、父親の存在とはときに目障りなもので、「父上が死んでくれればと何度も願った」といった秀忠の思いは、あながち的外れでもなかっただろう。実際の秀忠はドラマと違って、およそ父に刃向かうことなどなかった人物と伝わるが、それだけに、偉大すぎる父親の重圧に対する苦悩は、ドラマ以上だったように思える。豊臣家を滅ぼし徳川政権を磐石のものとし、すべてを整えてから逝った徳川家康。その見事すぎる父の最期に、息子・秀忠は何を思っただろうか。

 兎にも角にも、徳川家康は死んだ。19歳のときの桶狭間の戦いに始まり、死の前年の大坂夏の陣に至るまで半世紀余り、彼の生涯はほぼ“戦”だった。幼少期には2度の人質生活を耐えしのぎ、織豊時代を生き抜き、ついには天下人となり、戦国の世にピリオドを打ってこの世を去った。かれの人生そのものが戦国時代であり、まさにミスター戦国といってもいいだろう。長い日本史の中の、大きな大きなひとつの時代が終わった。

 辞世の句
 「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」
 「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」



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by sakanoueno-kumo | 2011-11-22 19:16 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(4) | Comments(0)  

時空の広場で徹夜なう。

062.gifケータイからの投稿です。

e0158128_673751.jpgこちら天空の城ラピュタ・・・ではなく、時空の広場にいます。
今年5月に生まれ変わったJR大阪駅の駅舎ビル、いわゆる大阪ステーションシティ内にある施設で、ノースゲートビルとサウスゲートビルを繋ぐ橋の役割のスペースですが、橋といってもそこは広場となっており、ここでいろんなイベントが開催されたり、市民の待ち合わせ場所に活用されたりと、大坂の新しい顔となっている場所です。
「時空」と書いて「とき」と読みます。
鉄道の象徴である「時」を刻む、金時計・銀時計の塔が建っていて(写真は金時計の塔。ケータイでの撮影なので画像の粗さはご容赦ください)、真下を見下ろせば大阪駅を鉄道のジオラマのように眺めらます。
少し前から、そのジオラマが動き始めたようです。
ただいま午前6時、昨夜はここで徹夜でした。

e0158128_042962.jpg仕事がら毎年この季節は忙しく、徹夜残業も珍しくはないんですが、30歳代の頃とは違ってだんだん徹夜が堪えるようになってきました。
このご時世に忙しくさせてもらっているのは幸せなことだとは思うのですが、とはいえそれも身体あってのことで・・・。
事務所での徹夜はまだいいのですが、現場での徹夜はさすがに辛い。
昨夜の徹夜現場の時空の広場は、大阪駅プラットホームの上を跨いだ半屋外の場所で、天井はあるもののオープンスペースのため風がびゅーびゅー吹きっさらしで、寒いのなんのって!!!
大阪ステーションシティがオープンして初めての冬を向かえますが、ここ時空の広場は冬の待ち合わせスポットには適してないようですね。
(写真はアトリウム広場に設置されていた高さ9.2メートルのジャンボ雪だるまです。私の徹夜とは何ら関係ありませんが、目を引いたので撮影しました。このときは夜中なので消えていましたが、営業時間にはブルーに輝くようです。)

徹夜明けの今日は久々の休日。
関西地区は朝からあいにくの雨ですが、この雨で今日は少年野球のコーチも休みになりそうで、私にとっては恵みの雨となりそうです。
帰ったら爆睡します!


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by sakanoueno-kumo | 2011-11-19 06:07 | 大阪の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

江~姫たちの戦国~ 第44話「江戸城騒乱」

 豊臣秀頼と正室・千姫の間に子供はいなかったが、秀頼は側室・伊茶との間に一男一女をもうけていた。慶長13年(1608年)生まれの長男は名を国松といい(偶然か否か徳川秀忠お江の間に生まれた次男と同名で、歳も近いのでややこしい)、慶長14年(1609年)生まれの長女は、名を奈阿姫という(彼女は別の側室・小石の方の生んだ子という説も)。もっとも、この二人の存在は淀殿をはじめ、ごく一部の者しか知らされていなかったようで、正室の千姫も大坂冬の陣以前は二人の存在を知らなかったともいわれる。慶長8年(1603年)、数えの7歳で秀頼のもとに輿入れした千姫は国松が生まれたときでもまだ13歳。側室や子供の存在を知らされてなかったとしても、頷ける話である。

 といっても秀頼と千姫が形だけの夫婦だったわけでもなさそうで、子供が生まれなかっただけで、仲睦まじい夫婦だったといわれている。千姫が16歳のとき、秀頼が女性の黒髪を揃える儀式「鬢削(びんそぎ)」を千姫にしている姿を侍女が目撃した、という逸話も残されている。考えてみれば、秀頼は11歳から23歳、千姫は7歳から19歳までを二人で共に過ごしたわけで、その関係は夫婦というより幼馴染兄妹のようなもので、特に千姫にとっては徳川家で母・お江と共に過ごした日々よりはるかに長く、ほぼ人生の全てといってもいいほど。19歳の千姫にとっては、秀頼はかけがえのない存在だっただろう。

 そんな秀頼が大坂夏の陣自刃し、千姫は徳川方に救出されて生き延びることとなった。彼女自身が生きる道を望んだかどうかはわからないが、正室としてその最期を共にで出来なかったことに、きっと罪悪感を感じたことだろう。秀頼落命後、その長男・国松は徳川方に捕らえられ、市中引き回しのすえ斬首されたが(享年8歳)、長女の奈阿姫は千姫の懸命な助命嘆願が功を奏し、出家して子を残さないことを条件に生を許される。この当時、男子は父親のもの、女子は母親のものという考え方があった。父の正室のことを嫡母といい、秀頼の正室である千姫は奈阿姫の嫡母。その嫡母の千姫が母親代わりとなることを主張されれば、秀忠らも許さざるを得なかっただろうと想像する。当然、淀殿の孫で織田家浅井家の血を引く奈阿姫の助命は、お江も切望するところだったに違いない。

 その後、しばらくの間千姫と共に過ごした奈阿姫だったが、翌年に千姫が本多忠刻のもとに再び輿入れすると、彼女は相模鎌倉の東慶寺での修行生活に入り、天秀尼と名乗った。東慶寺は臨済宗の尼寺で、弘安8年(1285年)に覚山志道尼が開山した格式高い尼寺だった。そんな天秀尼と東慶寺に、その後も千姫は色々と庇護を加えたという。のちに天秀尼は第20世の住持(住職)となり、東慶寺の発展に功績を残す。東慶寺は離婚を希望する女性の駆込寺としても有名だが、千姫の庇護を受けていた天秀尼は江戸幕府と交渉しつつ、寺法の整備不幸な女性の保護に尽力した。しかし、出家した尼であるため生涯結婚することなく、正保2年(1645年)に37歳の若さで病没する。彼女の死によって、豊臣秀吉の直系は断絶した。長く母親がわりをつとめた千姫は、天秀尼病没の報に接して、きっと嘆き悲しんだことだろう。

 20歳で本多忠刻と再婚した千姫は、一男一女をもうけ束の間の幸せを取り戻したものの、千姫30歳のときに忠刻が病没して再び未亡人に。同じ年、実母であるお江も病没するなど不幸が続き、娘の勝姫と共に本多家を出て江戸城に入る。江戸にもどった千姫は落飾して天寿院と号し、弟の三代将軍徳川家光を陰から支えながら、70歳までの長い余生を竹橋の邸で静かに送った。

 織田家徳川家の血を引き、豊臣家と契りを結んだ戦国最期の姫君・千姫。その長い人生の最期を迎えたとき、半世紀以上前の秀頼との生活を顧みて何を思っただろうか。残念ながら彼女の心を後世に伝えるものは、何も残されていない。


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by sakanoueno-kumo | 2011-11-16 11:56 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(2) | Comments(0)  

ブログ開設3周年のご報告。〜石の上にも三年〜

立冬が過ぎて暦の上では冬に突入。
今年も夏が長く、秋がなかなか訪れませんでしたが、さすがに今週に入って、急に肌寒く感じるようになりました。
今年もまた、短い秋になりそうですね。

ところで、手前味噌なご報告で恐縮ですが、去る11月6日の日曜日に、おかげさまをもちまして当ブログも満3周年を迎えることが出来ました。
この間に起稿した拙文数は479件、いただいたコメント数は1,430件(このうち約半分は自身の返答ですが)、トラックバック数は535件でした。
3年間にアクセスいただいた数は下の画像にもあるように144,390件(6日午後11時頃の時点)、これはユニークユーザー数なので、同じパソコンから1日に何度アクセスいただいてもカウントは1ということになります。
1年前の2周年の時点でのアクセス数が82,998件でしたから(参照:ブログ開設2周年記念)、この1年間で6万件以上ものアクセスをいただいたことになります。
どなた様も、素人のとりとめもない駄文にお付き合いいただき、まことにありがとうございました。

    ●2011年11月6日 23時過ぎのレポートデータ↓
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記事をカテゴリ別に見てみると、最も多いのは毎週起稿している「大河ドラマ」の記事で169件、次に「プロ野球」の記事が66件、続いて時事ネタを集めた「世情」62件、以降、「歴史」「政治」「日常」と続きます。
ただ、この「大河ドラマ」の記事のように毎週必ず起稿するというのは結構キツいもので、ときには苦痛にさえ思うこともあります(別に誰かに強要されているわけではなく、自分で勝手に続けているだけなんですけどね・・・苦笑)。
じゃあ、書きたいときだけ書けばいいのに・・・とも思うんですが、起稿が遅れたときでも月曜日には必ずアクセス数が伸びており、それを見ると、こんな素人の稚文を毎週のぞきに来てくれている人がいるということがちょっとばかり快感でもあり、そんなこんなで忙しくても毎週続けている次第です。
来年以降はどうするかまだ決めていませんが、少なくとも今年いっぱいは「大河ドラマ」ネタを続けるつもりでいますので、ひきつづきお付き合いください。

3年といえば、ひとつの節目ですよね。
 「石の上にも三年」
 「三日三月三年」
 「顎振り三年」
 「商い三年」
 「首振り三年ころ八年」
 「桃栗三年柿八年」

などなど、「三年」という言葉がついたことわざや格言はたくさんあり、そのどれもが、何ごとも3年続けば何かが見えてくるという意味で、とりあえずは一人前ということです。
私もこれでようやく一人前のブロガーになれたということでしょうか(笑)。
正直なところ、まさかこんなに続くとは思っていませんでした。
ていうか、「ブログとは何ぞや?」てな感じで気まぐれに始めたブログなので、「坂の上のサインボード」というブログ名も、sakanoueno-kumoというハンドルネームも、深い意味もなく思いつきで付けたもので、今にして思えば、こんなに続くんだったらもっと真剣に考えればよかったと後悔しているほどで・・・。

ブログをネット上の日記のように考えている人もいますが、不特定多数の人に公開している以上、日記ではなく記事ですよね。
文章を書く仕事ではない私にとって、自分の書いたものを他人さんに読んでもらうなんてことは今までの人生になかったことで、それが結構楽しくて3年も続けているのですが、公開記事である以上いい加減なことは発言できないわけで、ブログを始めてからいろんなことを調べたり、メモを取ったりするようになりました。
学生時代より勉強しているかもしれません(笑)。
で、3年続けてみて、書けば書くほど作文の難しさを実感しています。
それでも、ブログを始めた当初の文章を読み直すとどれも恥ずかしいものばかりで、そう考えれば少しは成長しているのかなあと・・・・。
だとしたら、これもひとえに皆々様のご厚情あってのことで、あらためて厚く御礼申し上げます。
今のところまだまだ続けていくつもりでおりますので、今後もよろしくお願いします。

というわけで、またとりとめもない文になってしまいましたが、要するに3周年のご報告でした。


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by sakanoueno-kumo | 2011-11-09 22:26 | コネタ | Trackback | Comments(2)  

江~姫たちの戦国~ 第43話「淀、散る」

 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、真田信繁(幸村)後藤基次(又兵衛)らの健闘が目立った豊臣方だったが、老獪な徳川家康は和睦の後に大坂城の堀をすべて埋め立ててしまう。家康は何がなんでも豊臣秀頼淀殿の命を奪い、豊臣家の息の根を止める考えだった。堀を失い、裸城となった大坂城にもはや防禦力は無いに等しく、幸村、基次らは慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では城外に打って出る作戦に転じた。しかし、頼みとしていた木村重成(長門守)、基次が相次いで討死を遂げ、秀頼、淀殿が籠もる大坂城に対する徳川方の包囲も日を追って厳重になっていった。

 5月6日夜、包囲をより厳重にした徳川方は7日、大坂城に向けて総攻撃を敢行した。大坂城の北側は淀川などの諸河があるため攻撃は困難、これを踏まえ、家康、そして徳川秀忠に率いられた徳川方は城の南側に兵力を集中させた。その陣容は、伊達政宗松平忠直井伊直孝藤堂高虎前田利常らが前面に展開し、その後方に家康、さらに秀忠というものであった。

 豊臣秀頼の正室である千姫が秀忠・お江夫妻の長女であることはいうまでもないが、上述した松平忠直の正室である勝姫は秀忠・お江夫妻の三女、さらに前田利常の正室である珠姫は秀忠・お江夫妻の次女である。江戸城で留守を預っていたお江にとっては、夫の秀忠や姉の淀殿のことはもちろん、娘や甥、娘婿たちの身の上の心配もしなければならなかった。ドラマではひたすら写経をしていたお江だったが、実際のお江も、きっと祈り続けていたことだろう。しかし、お江が心配するすべての者が幸せになる道など、あろうはずはなかった。

 城の南側に攻め寄せた徳川方が総攻撃を開始したのは、7日の正午ごろだった。豊臣方では真田信繁(幸村)、毛利勝永明石全登らが打って出て、獅子奮迅の活躍をする。なかでも、全登の援護を受けた幸村は家康の本陣へ肉薄し、家康を討死寸前にまで追い込んだというが、あと少しというところで家康を討ち漏らす。不運にも、幸村は疲労困憊しているところを忠直麾下の鉄砲頭に撃たれて討死を遂げた。この頃になると徳川方の組織だった攻撃は止んでおり、気がつけば大坂城は煙に包まれていた。やむなく、淀殿・秀頼母子と千姫は、大蔵卿局大野長治真田大助といったわずかな側近、侍女たちと共に、城内の山里曲輪の隅櫓に逃れた。

 千姫を大坂城から脱出させるという計画は、千姫の側近と寄せ手の徳川方との間で早い段階で合意が成立していた。しかし、落城ギリギリまで実行されなかったのは、「千姫が城内にいる限り、徳川方は総攻撃を仕掛けてこないに違いない。」と踏んで、淀殿が千姫を放さなかったからだという説もある。また、和睦交渉に際して千姫を持ち駒切り札として使おうと考えていたとも。このため、淀殿は千姫の身体をで縛り、自ら縄を握って放さなかったという逸話もある。それでも、千姫の側近である侍女・刑部卿局はあきらめず、千姫の脱出を画策。機転を利かした彼女は、「秀頼様が負傷されました!」と叫び、これに驚いた淀殿は縄を投げ出して息子の安否確認に走ったため、その一瞬の隙を衝く格好で、侍女に守られた千姫は大坂城を脱出した・・・という説も。ドラマとはずいぶんと違うエピソードだが、いずれにせよ、千姫が城外へ脱出したことにより、徳川方にしてみれば総攻撃を躊躇する理由がなくなったことは間違いない。大野治長は千姫の身柄と引き換えに秀頼の助命を嘆願したというが、豊臣家の息の根を止める決意をしていた家康がそれを受け入れるはずもなく、8日の正午ごろには直孝麾下の鉄砲隊による曲輪への一斉射撃が開始される。これを徳川方の返答だと知った淀殿と秀頼は、自らの命運が尽きたことを悟り、自刃して果てた。文禄2年(1593年)生まれの秀頼は享年23歳、淀殿は永禄12年(1569年)生まれという説にしたがえば、享年49歳だった。その場にいた大野治長や大蔵卿局、侍女ら二十数人も母子に追従、そのほぼ同時に、付近に置かれていた煙硝に炎が引火したため、山里曲輪は大炎上したという。

 家康がいつから豊臣家を滅ぼそうと思ったかはわからないが、慶長16年(1611年)の二条城の会見後あたりから豊臣家への挑発が露骨になり、おそらくその頃からその意思を固めていたと考えてよさそうである。家康は鎌倉時代の正史『吾妻鏡』を熟読していたといわれるが、そこに描かれる平清盛が、情に絆され肉欲に溺れ、源頼朝義経兄弟を助命したばかりに、後年になって平家はその兄弟に攻め滅ぼされたという事実を自身の立場に置き換え、徳川家の天下を永続させるためには、清盛の犯した失敗を決して繰り返してはならないと考えたのかもしれない。豊臣秀頼が若く聡明であったこと、豊臣家の一族、豊臣家恩顧の大名の中に、秀頼に忠誠を誓う者が今なお多いこと、秀頼が浪人の召抱えに躍起になっていること、豊臣の居城・大坂城が難攻不落の堅城であること、「天下は回り持ち」という風潮が巷にあること・・・などを鑑み、家康は慶長10年(1605年)に秀忠に将軍職を譲った上で、秀頼、そして生母の淀殿を攻め滅ぼすことに心血を注ぐようになった。お江が何度、淀殿・秀頼親子の助命嘆願を行ったとしても、家康はそれを受け入れることはなかっただろう。

 「はなもまた 君のためにとさきいでて 世にならびなき 春にあふらし」
 「あひおひの 松も桜も八千代へ 君がみゆきのけふをはじめに」
 「とてもないて 眺めにあかし深雪山 帰るさ惜しき 花の面影」


 豊臣秀吉が没する半年前の慶長3年(1598年)3月に行われた「醍醐の花見」の席で、淀殿が詠んだ歌である。歌の中に出てくる「君」は秀吉のことだと考えるのが一般的だが、秀頼のことだともとれなくもない。思えば波乱に満ちた彼女の人生の中で、秀頼の生母として秀吉の側にあったこの束の間の時間が最も幸せだった時期で、これ以前もこれ以後も、一刻として心休まるときはなかった。この歌には、そんな幸せな今を噛み締めながら、これからもこの幸せが続いて欲しいと願う思いと、この先を案ずる不安な思いとが入り交じっているようである。この歌から17年後に、彼女はその波乱の人生の幕を閉じた。それは同時に、戦国時代の終焉でもあった。


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by sakanoueno-kumo | 2011-11-07 17:00 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(4) | Comments(2)  

世界人口70億人突破について思うこと。

今週の月曜日、世界人口が70億人に達したそうですね。
これを受けて、国連人口基金(UNFPA)では10月31日生まれの赤ちゃんに「70億人目の赤ちゃんの一人」とする認定証を発行するそうです。
この日生まれた新生児は、国内では3000人弱、世界では約21万人だとか。
偶然とはいえ、そんな記念すべき日に出産が重なったご両親は、二重の喜びだったことでしょう。

しかしながら、この話題は地球規模で考えると、決して喜ばしいことではありませんよね。
食料の供給はもちろん、生きていく上に必要な資源など、衣食住すべてにおいて人口増に追いついて行かないという深刻な問題が見えてきます。
人類の数は地球の許容量をとっくに超えてしまっているという学者さんもいますが、それが本当かどうかはわかりませんが、今のペースで増え続けると13年後には80億人を超え、半世紀以内には100億人を突破するのは確実のようで、どこかで容量オーバーを向かえることは間違いありません。

人口増加を牽引しているのはインドをはじめ途上国が主で、日本を含む先進国の人口は減少傾向にあります。
農業主体の途上国の産業構造では、家族が多いほうが生産力が増え、労働力の拡大という側面として人口増があるのでしょう。
そう考えれば、世界はまだまだ人力に頼る農業国が大半を占めているということなんですね。

今から2000年以上前のイエス・キリストが生まれたとされる西暦元年、中国では前漢が滅亡して後漢が成立した時代ですが、その頃の世界人口は約3億人ほどだったといいます(日本は弥生時代で、推定60万人ほどだったとか)。
そこから長い年月をかけて緩やかに増えていき、人口が10億人に達したのは、ナポレオン・ボナパルトがフランス皇帝に就任した1804年、日本でいえば享和4年で、徳川11代将軍・徳川家斉の時代です(この時代の日本の人口は約3000万人)。
その後、1927年(昭和2年)に20億人、そしてそのわずか32年後の1959年(昭和34年)には30億人、そして2000年(平成12年)には、その50年前の1950年(昭和25年)の人口の2.5倍にあたる推計61億人に達しました。
下の図で見てもわかるように、20世紀の100年間で人類がどれだけ急増したかがわかります。

e0158128_0483869.jpg

    【世界人口の推移(推計値)】  国連人口基金HPより転載

人口の増加と聞けば、単純に新しい生命の誕生を連想しがちですが、この20世紀の人口増加は出生率のせいばかりではなく、医療の進歩も大きな要因のひとつでしょう。
外科手術医薬品の発達によって治療できる病気が格段に増えたことはいうまでもありませんし、予防接種の発達によって感染症から身を守ることが出来るようになったことも大きかったでしょう。
昔ならとっくに死んでいた人が死なないわけですから、人口が急増するのは当然といえますよね。
人命を助けるために進歩してきた医療によって、人類は共存の危機に直面することになったともいえるわけで、なんとも皮肉な話です。

以前、何かの本で読んだことがありますが、地球上の生物の中でヒト科に属する生物は私たちホモサピエンスの1種だけですが、これは極めて異常なことで、生物学的にいえばよろしくない状況だといいます。
元々の人類は16種ほどいたそうですが、そのほとんどのヒトは絶滅していき、約2万年前にネアンデルタール人が滅んでから、私たちホモサピエンスは、いとこも兄弟もいない孤児となってしまいました。
こうなると、敵がいなくなるので増加の一途をたどり、一方で1種しかいないためこれ以上進化しづらくなるそうです。
ひとつの生物だけが偏って増加するというのは自然の摂理からいっても異常な状態なわけで、当然、自然は正常に戻るためにその生物を淘汰しようとするわけで・・・。
そう考えれば、異常に増加して尚且つこれ以上進化しない人間という生物は、そろそろ自然から淘汰される日も近いかもしれません。
22世紀は訪れないかもしれない・・・なんていったら、言いすぎでしょうか。


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by sakanoueno-kumo | 2011-11-03 01:13 | 時事問題 | Trackback(1) | Comments(2)  

続 灘温泉で朝風呂なう!

またまた徹夜仕事になってしまったので、会社近くの温泉に朝風呂に来ています。
今日の湯殿は神戸市灘区にある灘温泉水道筋店で、先日紹介した灘温泉六甲道本店とは姉妹店になります(参照:灘温泉で朝風呂なう)。
e0158128_7182476.jpg六甲道本店の方は、昭和7年(1936年)開業当時の外観をそのままに残したレトロな雰囲気の空間でしたが、ここ水道筋店は、平成15年(2003年)にリニューアルされたいうこともあり、外観も館内も大変綺麗で比較的広々としており、スーパー銭湯のようなゆったりと寛げる空間でした。
開店時間は六甲道店より1時間早い午前5時で、今日私が訪れたのは午前6時過ぎだったのですが、すでに10人以上の入浴客で賑わっていました。
先日の稿のときも思ったことですが、朝から銭湯に通う人って結構いるんですね。

ここ神戸市灘区水道筋は、阪急王子公園駅の東側にある地域で、神戸市で唯一「筋」が付く町名だそうです。
通常「筋」といえば南北を走る道路のことですが、珍しいことにここ水道筋は東西に走ります。
由来は、大正15年(1926年)6月に始まり昭和6年(1931年)5月に完成した神戸市の第二回水道拡張工事の際に通された「神戸水道」の上を道路にしてので、水道筋と呼ばれるようになったとか。
そこに、神戸有数の商店集積地として発展してきた水道筋商店街があります。
e0158128_1523044.jpg昭和6年(1931年)に誕生したこの商店街は、水道筋6丁目商店街、エルナード水道筋商店街、水道筋1丁目商店街、灘センター商店街、灘中央市場、灘中央筋商店街、畑原市場、東畑原市場、畑原東商店街など7つの商店街と3つの市場が縦横につながって組み合わさり、500店以上が集まった大規模なショッピングゾーンで、全国各地で昔ながらの商店街が苦戦している中、この水道筋商店街はちょっと別格の感があります。
(←朝6時半頃の写真なので、店はすべて閉まっていてさすがに人は歩いていません・・・笑)。

写真では寂れた商店街のように見えますが(ケータイの撮影なのでピンボケはご容赦)、昼間は結構活気があるんですよ。
ひと昔前までは、神戸には他にも似たような商店街がたくさんありましたが、その多くが阪神・淡路大震災時に被害を受けて、その後の区画整理再開発で姿を消してしまったところが多く、その意味でもここは貴重な場所です。
そんな水道筋商店街の最東端を出たところに、今回の灘温泉水道筋店があります。
商店街、市場、銭湯・・・昭和ノスタルジーが満載のスポット、水道筋です。

ちなみに、昨夜徹夜仕事になったのは、とある商業施設のクリスマス装飾の現場でした。
11月1日の今日からクリスマス装飾に様変わりするショッピングモールやホテルは数多く、そんな関係で昨夜はてんてこ舞いでした(汗)。
クリスマス商戦といえば、ひと昔前までは11月末あたりからのスタートだったんですが、10年ほど前から年々早くなっていき、近年ではこの11月1日からというところが多いです(早いところは10月20日頃から始めるところもあります)。
早けりゃいいってもんじゃないと思うんですけどねぇ・・・。
ちなみに、今日の神戸市の昼間の気温は25度、半袖でもいいような気候です(苦笑)。


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by sakanoueno-kumo | 2011-11-01 07:18 | 神戸の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)