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平清盛 第4話「殿上の闇討ち」

 平清盛の祖父・平正盛の代に白河法皇(第72代天皇)の引き立てによって中央政界へ進出した伊勢平氏は、清盛の父・平忠盛の代には鳥羽法皇(第74代天皇)の側近として脇を固め、さらに、得長寿院をはじめとする寺院を寄進するなどして忠勤にはげみ、清盛がが15歳となった長承元年(1132年)、忠盛は初めて武士として内昇殿を許された。内昇殿とは、天皇の居所である清涼殿の殿上の間に上ることを許されることで、貴族にとって非常に名誉なことであった。ましてや、武士である忠盛がこれを許されるのは破格の待遇であり、当時の貴族の日記のなかには「未曽有の事なり」と記した者もいたほどであった。

 殿上人となった忠盛に貴族たちが向ける視線は当然厳しかった。「出る杭は打たれる」のはいつの世も同じで、新参者の出世を快く思わない風潮はどんな社会にもあるものだが、平安時代末期のこの頃は、古参の公家たちが、新たに内昇殿を許された者に恥辱を加えるという、悪しき風習が蔓延っていたという。とくに、毎年11月に朝廷で行われる豊明節会の夜に、古参の公家が新たに内昇殿を許された者を罵倒嘲笑したり、暗闇に乗じてリンチするといった行為が頻発していたと伝えられる。当然、武家出身者としてはじめて内昇殿を許された忠盛に対してはいつも以上に情け容赦のない行為が計画されたはずで、そのことについてよく示しているのが、『平家物語』巻一の「殿上闇討」である。

 長承元年(1132年)11月の豊明節会の夜、陰湿かつ苛烈な「闇討ち」行為を予想した忠盛は、木刀を腰に差して節会へ参加すると共に、秘かに側近・平家貞を御所の小庭に待機させた。「闇討ち」などというと暗殺を想像してしまうが、この場合せいぜい乱暴狼藉をはたらく程度のことで、いってみれば集団リンチのようなもの。もっとも、殺人を生業とする武士の、しかもその棟梁である忠盛を集団リンチしようというのだから見上げたものだが、その程度の嫌がらせしかできないところに、斜陽の貴族階級と新興勢力である武士の違いを見ることができる。

 「闇討ち」を企てた古参の公家たちだったが、忠盛が懐に忍ばせた刀を抜き放ったため度肝を抜かれ、さらに家臣の家貞が小庭に潜んでいたことも知れたため、公家たちは「闇討ち」を断念せざるを得なかった。結果として忠盛の作戦勝ちといったところだが、気が治まらない公家たちは、直後の宴席でさらに卑劣な嫌がらせ行為を実行する。天皇の命により忠盛が得意のを披露していたところ、伴奏していた公家たちが急に拍子を変えたかと思うと、「伊勢平氏はすがめなりけり」とはやし立てたのである。「すがめ」とは、斜視のことで、忠盛は生まれつき斜視だったという。伊勢平氏の忠盛が斜視(すがめ)であったことと、伊勢国産の瓶子(へいし)が粗悪で酢瓶(すがめ)にしか使えないことをかけて、このように嘲笑したのである。人の肉体的欠陥をついて誂うという小学生レベルの行為から見ても、当時の貴族階級がいかに末期症状であったかがわかるというものである。

 公衆の面前で恥をかかされ怒りに震える忠盛であったが、宮中の酒席ではいかんともしがたく、悔しさを押し殺しながら早々に退出するしかなかった。その際、差していた刀を女官に預けて帰った。これが、後に思わぬかたちで忠盛の役に立つ。

 後日、公家たちは忠盛にしてやられた腹いせに、帯刀して節会へ参加した点と、無断で家臣を小庭に潜ませた点を捉え、忠盛に厳重な処分を下すよう鳥羽院に訴えた。これに対して忠盛は、預けていた刀を取り寄せてその場で抜いて見せた。その刀は先に述べたとおり木刀で、しかも本物に見せかけるように銀箔を貼ったものだった。これを知った鳥羽院は忠盛の機転に大いに感心し、家臣が小庭に潜んでいた件も、家貞が機転をきかせて独断で行ったものであることが判明し、結局はまったく罪に問われなかった。そればかりか、忠盛といい家貞といい、武士の機転と用意周到さに感心した鳥羽院は、これまで以上に忠盛を信頼するようになったという。

 というのが『平家物語』にある「殿上闇討」のくだりで、今話のストーリーはこの逸話を下敷きにしたドラマのオリジナルストーリーだと思われる。ドラマでは、忠盛を「闇討ち」しようとしたのは源為義となっていた。まあ、出典元の『平家物語』も読み物として書かれた物語である以上、そこに記された逸話も作り話である可能性も高く、ドラマでオリジナルの設定に作り変えるのは一向にかまわないと思うのだが、ただ少々、為義に気の毒な気がしないでもなかった。ドラマでは、あくまで平氏VS源氏という構図で展開されていくようである。

 「為義殿、斬り合いとならば源氏も平氏もここで終わりぞ。源氏と平氏どちらが強いか、それはまた先にとっておくことはできぬか。その勝負、武士が朝廷に対し、十分な力を得てからでもよいのではないか。」

 その勝負は、二人の息子、平清盛源義朝の代まで待たねばならない。


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by sakanoueno-kumo | 2012-01-30 01:56 | 平清盛 | Trackback(5) | Comments(4)  

ダルビッシュ有投手のメジャー移籍会見に思う、サムライ不在の日本球界

先頃、MLBテキサス・レンジャーズへの入団が決まったダルビッシュ有投手が、7年間過ごした古巣・北海道日本ハムファイターズの本拠地・札幌ドームで退団会見を行い、集まった1万人以上のファンにメジャーリーグ挑戦の経緯を語っていましたよね。
そもそも、ダルビッシュ投手は以前からメジャーには興味がないと語っていましたし、数年前には「メジャーに行くぐらいならば野球を辞める」とまで断言したこともありました。
そんな彼がメジャーに行く気になった理由として、
「野球選手として相手を倒すのが仕事だが、最近は試合前から相手に『このカードで投げないでくれ』とか『絶対に打てないよ』と言われるようになった。冗談と聞いていても、これではフェアな挑戦ができなくなる」
と、日本球界への憤りともいえる心中を語り、さらには、
「僕は勝負をしたかったけど、それは相手にダルビッシュを打ってやるぞという気持ちがあって初めて成立するもの。それがなくなってきているので、野球をやるうえでモチベーションを保つのが難しくなってきた」
と、日本球界に自らの居場所が無くなってしまったことを告白していました。
私はこの言葉を聞いて、日本プロ野球の人気低迷の要因を見たような気がしましたね。
かつて、イチロー選手が日本球界にいた最後の方でも、敬遠ばかりでマトモに勝負してもらえない存在となってしまい、そのことがメジャー行きを決意した理由のひとつだったと聞きましたが、投手が打者を敬遠するのはルール上ある話ですが、打者が投手を敬遠するなんて、話にならないですね。
それだけダルビッシュ投手の力が突出していたといえばそれまでですが、ライバル不在の日本球界に物足りなさを感じてしまう気持ちも当然なんじゃないでしょうか。

野球がチームプレーの競技である以上、チームの勝利が最優先なのは大前提ではありますが、そんな中でも、個人と個人の1対1の対決の妙味というのも、野球ファンにとっては楽しみのひとつでしたし、一流の選手ならば一流の相手と対決したいと思うものなんじゃないでしょうか。
その意味では、今の日本球界に一流打者がいないということかもしれませんね。
それとも、勝利至上でデータ重視の今のプロ野球のスタイルが、1対1のライバル対決という不合理な勝負を生み出さない環境を作ってしまったのかもしれません。
考えてみれば、マー君のライバルは?・・・おかわり君の好敵手は?・・・・と考えてみても、これといって思い当たりませんもんね。

以前、3代目ミスタータイガース掛布雅之氏が、ライバルだったジャイアンツの江川卓投手との対決について語っていましたが、絶頂期の江川投手は今のダルビッシュ投手のようなもので、どのチームの主力打者でも手も足も出ない、まさに怪物的存在でした。
とくに高めのストレートの威力はハンパじゃなく、江川投手と対戦するゲーム前のミーティングでは、いつも、「高めの直球には手を出すな」という“お達し”が全選手に出ていたそうです。
ところが、そのミーティングが終わった後、当時の阪神の監督・安藤統男氏が掛布選手だけを呼び出して、「お前はあの高めの直球が打ちたいんだろう?・・・だったら、お前だけは狙っていけ!」といわれたそうです。
安藤監督にしてみれば、掛布は四番打者なんだから江川を打ち崩してもらわなければ困る、といった意味もあったのでしょうが、当時はそういった1対1の対決というものが許される時代だった、と掛布氏はいいます。
相手投手の失投を待つのではなく、その投手の最も得意とする球を打ちに行く・・・。
まさに一流と一流の、こだわりの対決ですね。

掛布選手と江川投手の対決のように、かつては村山実投手と長嶋茂雄選手、江夏豊投手と王貞治投手など、自他ともに認めるライバル関係というものがあり、勝敗とは別のところで野球ファンを楽しませてくれたものです。
近年の選手で、そういった1対1の対決に拘っていた選手といえば、清原和博選手ぐらいじゃないでしょうか。
宮本武蔵佐々木小次郎じゃないですが、そもそも日本人はそういったライバル関係が好きで、そんな武士道を愛する日本人気質に野球というアメリカ生まれの球技が受け入れられたのは、団体競技でありながら、そういった武士道的な1対1の対決があったからだと思います。
攻守入り乱れるサッカーのような競技には、あり得ない勝負ですからね。
WBCの日本代表を“サムライジャパン”なんて呼んでいましたが、ダルビッシュ投手の言葉を聞けば、今の日本球界には“サムライ”はいなくなったようにも思えます。
これは、ともすれば日本プロ野球の衰退を意味するのではないでしょうか。

ダルビッシュ投手がこれまで「メジャーには行かない」といっていた理由は、「自分は日本人であり、日本のプロ野球を観て野球が好きになったから」ということを言っていたと記憶しています。
いうまでもなく、ダルビッシュ投手は日本とイランのハーフで、そのことで少年時代はいじめられたりもしたそうです。
その彼が、自分は日本人だから日本のプロ野球に残りたい・・・といっていたわけで、その思いは純血の日本人よりもはるかに日本人らしい姿ではないでしょうか。
ちょっと活躍したらすぐにメジャー志向に走りたがる昨今の日本人選手に、深くかみしめて聞いてほしい言葉ですね。
彼が海を渡るのは、「夢を叶えたい」とか「自分を試したい」といった旅行気分の甘っちょろい理由ではなく、ライバルを求めてより高いレベルを模索した結果、答えはメジャー行きしかなかったわけで、彼はメジャーに憧れて移籍するのではなく、日本人としてアメリカに戦いに行くのです。
だから、日本一の投手が世界で2番や3番になるようでは行く意味がなく、世界一の投手になると宣言していましたね。
彼は日本球界唯一の“サムライ”だったのかもしれません。


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by sakanoueno-kumo | 2012-01-26 00:18 | プロ野球 | Trackback(1) | Comments(2)  

平清盛 第3話「源平の御曹司」

 平清盛の前半生のライバル(という設定)だったのが、のちに清和源氏の棟梁となる源義朝。彼は、崇徳天皇(第75代天皇)が即位した保安4年(1123年)に源為義の長男として生まれる。清盛が生まれたのは元永元年(1118年)だから、義朝は清盛より5歳下ということになる。前話の岩清水臨時祭で舞を奉納した清盛は数えで12歳なので、その姿を見ていた義朝は7歳。今話はそれから3年経った設定だったので、清盛15歳で義朝10歳、今で言えば、中学2年生と小学4年生の二人である。どう見ても大人にしか見えない・・・なんて無粋なツッコミはやめて、鷹揚に観ていくことにしよう(笑)。つまり、今話は子供同士の喧嘩の話で、もちろん創作である。

 清盛の家系、義朝の家系は本拠をおいた国にちなみ、それぞれ伊勢平氏河内源氏と呼ばれてきた。清盛が生まれた当時の伊勢平氏は、祖父・平正盛、父・平忠盛の不断の努力が実を結び、隆盛の一途を辿っていた。清盛は比較的恵まれた環境で、まさしく御曹司として育ったといっていいだろう。一方で、義朝が生まれた当時の河内源氏は、様々な理由から衰退気味だった。そもそも清和源氏の中でも河内源氏は、源頼信源頼義源義家の三代の活躍により、中央政界でも確固たる地位を築いていた。しかし、天任元年(1108年)に義家の嫡子だった源義親(義朝の祖父)が出雲で叛乱を起こした。その義親の追討を朝廷が命じたのが、清盛の祖父・正盛だった。正盛は見事に義親を討ち取り京に凱旋、朝廷より恩賞が授けられ、義親は梟首とされた。これをきっかけに河内源氏では内紛が起こり凋落、代わって中央政界では伊勢平氏が台頭する。清盛と義朝の因縁は、お互いの祖父である正盛と義親の時代に始まったといっていい。

 ちなみに、義親討伐については諸説あって、剛勇で知られた義親が、それまでさしたる武功のなかった正盛に簡単に討たれたことを疑問視する声が当時からあったようで、一説には、正盛が別人を討ち取り、その首を義親のものとして披露したという説もある。おそらく邪説だろうとは思うが、もし事実ならば、正盛も義親以上に悪人である。ただ、無名の人物ならともかく、義親の顔は中央政界にも知れ渡っていたはずで、偽首を押し通すのは無理がある話ではあるが・・・。いずれにせよ、これを境に平氏と源氏の立場は逆転し、その息子、忠盛と為義の代になるとその差はいっそう開いた。その息子である清盛と義朝では、スタートラインから大きく違っていたのである。義朝は清盛に対してライバル心を抱いていたかもしれないが、清盛にとっては5歳下で官位もずっと下の義朝は、たいして眼中になかったかもしれない。ましてや、遠い将来、その義朝の子である源頼朝の手で伊勢平氏が滅ぼされることになろうとは、夢にも思わなかったことだろう。

 「3代目にして家は潰れる」なんて言葉をよく耳にするが、伊勢平氏にしても河内源氏にしても、3代4代と繁栄し続けることがいかに難しいことであるかは歴史の知るところである。まさしく、「おごる平家は久しからず」ですよね?・・・大王製紙さん。


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by sakanoueno-kumo | 2012-01-23 23:44 | 平清盛 | Trackback(3) | Comments(2)  

大河ドラマ『平清盛』における「王家問題」について。

 今年のNHK大河ドラマ『平清盛』で、院政時代の天皇家のことを「王家」と呼んでおり、そのことで物議をかもしているよいうですね。時間が経てば批判の声も静まってくるかと思っていたのですが、一向にその気配は見られず、むしろ、さらにエキサイトし始めている感さえあります。この「王家」という呼称を抗議する人たちの声としては、

「王」とは「天皇」よりも下の位であり、「天皇」=「王」という解釈は間違いである。現に韓国人が天皇のことを「日王」と蔑む意味で呼んでいるように、「天皇家」「皇室」と呼べばいいものを、あえて「王家」と呼ぶのは天皇家を侮辱する行為である。

というもの。これに対してNHKの反論及び、それを擁護する人の声としては、

「王家」という呼称は中世を扱う歴史学では主流となっている用語で、当時の史料の中にも見られる言葉である。むしろ、「天皇」という呼称は当時からあったものの、「天皇家」「皇室」といった用語は近代になって作られたもので、この時代の物語に使用するのは不適切である。

ということだそうです。ドラマが始まって俄に聞こえてきた声だと思っていましたが、実は昨年夏に同ドラマのHPが公開されたときから騒がれていたようですね。まったく知りませんでした。正直、私はこの種の知識に明るくなく、そんな素人の私がここで迂闊な私見を述べて、当ブログを炎上の危機に晒すよりも、黙って騒動が終わるのを見ている方が得策だとは思いますが、ドラマ放送開始早々、思いのほか視聴率がとれていない理由までもが、この「王家問題」のせいだといった記事も見かけられ、それは違うんじゃないかという思いから、少しだけこの件にふれてみたいと思います。

 「王家」という呼称が歴史学的に正しいのかどうかは、私にはよくわかりません。たしかに、日本史の中では聞きなれない用語ではありますよね。ただ、この用語が、批判する方々のいう「天皇家を侮辱する」といった意味で意図的に使われているとは、少なくとも第1話と2話を観る限りでは感じられませんでした。むしろ、天皇家こそが国家の中枢と見なす歴史観に則った描かれ方だったのではないでしょうか。そして清盛たち武家は、その天皇家に仕える武力担当にすぎなかったという解釈です。劇中でいう「王家」とは、広い意味での王権を掌握している「家」を指すもので、地位を指すものではないと思われます。劇中、清盛たち武家のことを「王家の犬」という言葉で表現していましたが、これをもし「天皇家の犬」なんて台詞で表現していれば、それこそ抗議が殺到したんじゃないでしょうか。

 別の用語として、「朝廷」とか「朝家」といった呼称もあります。おそらく、こちらが最も無難な用語で、これを使っていればおそらく大きな騒ぎにはならなかったでしょう。でも、「朝廷」とは藤原摂関家なども含めた公卿全体を指すものだと思いますし、私の勝手なイメージなので間違っているかもしれませんが、「朝廷」という言葉は現代で言うところの「政府」のようなもので、政を司る公的機関を表した言葉のように感じます。ですから、「朝廷の犬」なんて言われてもピンとこないですよね。つまり、天皇家に仕える身に過ぎなかった武士が、平清盛という人物の出現によって自分たちの実力に気づき、武家政権という新たな王権を作った・・・という物語の設定上、「王家」という用語が一番シックリくるという判断のもとに使われたのでしょう。

 そうしたドラマの内容を論じることなく、ただ「王家」という呼称だけをとらえて、ドラマ開始前から、やれ「反日」だの「自虐史観」だのと批判する声には、正直寒いものを感じます。純粋にドラマを楽しみたいと思っている者にとっては、ドラマにイデオロギー論争を持ち込まれても「またか・・・」といった感じでウンザリします。っていうか、昨年夏から騒がれているということからみれば、批判する人にドラマは関係ないわけで・・・。もとより大河ドラマなんて観ない人までもが騒いでるわけでしょ。純粋な大河ファンにとっては迷惑な話です。先日、「画面が汚い」などと的外れな批判をしてバッシングを受けていた何処かの県の知事さんがいましたが、あっちの方がまだマシです。大河ドラマを観光PR用のものと勘違いしたような発言ではありましたが、少なくとも、ちゃんとドラマを視聴した上での個人的感想ですから(知事という立場でそのような私見を述べるべきかどうかは別として)。

 私が危惧するのは、今回の騒動がきっかけとなって、また、天皇家をドラマに出すことに遠慮が出来ることです。実際、今年で大河ドラマは51作目だそうですが、その内、戦国期・江戸期・幕末維新期を舞台にした作品が40作以上を占めており、中世を舞台にした作品はこの度の『平清盛』を含めて5作品しかありません。これは、戦国期や幕末期がそれだけ人気が高いという理由もあるでしょうが、中世を描くとなると、どうしても天皇家を描かざるを得ず、非常にデリケートな部分に踏み込まなければならないから、といった理由もあるように思います。そこに久々にチャレンジした今回の作品でしたが、案の定、放送開始前からバッシングの嵐となってしまいました。これを見たドラマ制作者の方々が、今後この時代を題材にすることを躊躇するようなったとしたら、たいへん残念な話です。

 ちなみに、劇中で源頼朝に対して「殿」という敬称で呼んでいましたが、この時代、「殿」は摂政関白を指す言葉で、武家の主君が「殿」と呼ばれるようになったのは戦国後期から。この時代の武士の主君の呼び方は「お舘様」が正解でしょう。「王家」の呼称が批判されるなら、この「殿」にも批判が集まってよさそうなものですが、こちらはあまり聞こえてきません。「殿」でも「お舘様」でもイデオロギー的には何の問題もありませんからね。そんなところを見ても、この度の批判が歴史とは関係のないところで叫ばれているということがわかります。

 ちなみにちなみに、放送開始早々の視聴率が悪かったのは、「王家問題」とはまったく関係なく、昨年の『江~姫たちの戦国』の後半の視聴率低迷の余波にすぎないと思います。今年の作品が面白ければ、徐々に数字は上がって来るでしょう。むしろ、出だしの視聴率が低かったことで、軟化して批判の声に負けるようなことがあれば、そのほうが本来の大河ファンが離れていく結果を呼ぶでしょう。ぜひとも姿勢を貫いて欲しいと思います。


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by sakanoueno-kumo | 2012-01-20 15:19 | 平清盛 | Trackback(1) | Comments(8)  

阪神・淡路大震災から17年、今思うこと。

本日、1月17日は私の誕生日
そして今日は、私たち神戸市民には忘れることの出来ない、『阪神・淡路大震災』の発生した日でもあります。
1995年の震災の日が28歳の誕生日だった私も、今日で45歳になりました。
その当時生まれて間もなかったわが愚息も、現在高校2年生になります。
当ブログを始めて以来、毎年この日は震災で亡くなった6434人の追悼の意味も込めて、当時のことを振り返って自身の経験談などを紹介していましたが、今年は昨年までとは思いが違います。
いうまでもなく昨年の3月11日、その『阪神・淡路大震災』をはるかに凌駕する大規模な地震災害がわが国を襲いました。
その被害は地震そのものの被害にとどまらず、津波による災害、そして今なお終息を観ない原発事故など、犠牲者・被災者の数、被災地の範囲の広さと、どれをとっても阪神のそれをはるかに上回る傷痕を残しました。
『阪神・淡路大震災』は、戦後2番目に大きな災害に“格下げ”となってしまったのです。

昨年の今日までは、戦後最大の震災の経験者として、当時のことやその後の神戸のことを語ってきました。
でも、震災後十数年も経って、いつまでも震災の話をするはクドイんじゃないかという思いもなきにしもあらずでした。
それはちょうど、お年寄りがいつまでも先の戦争の話をするようなもので、戦争を知らない私たちにしてみれば大昔の出来事でしかなく、いくら話を聞いても実感できるものではありません。
私たち神戸市民の中でも、震災を知っている世代と知らない世代では明らかに温度差があり、もうそろそろ、『阪神・淡路大震災』の話題も賞味期限切れかな、と思ったりもしていました。
でも、それは間違いでしたね。

お年寄りがいつまでも先の戦争の話をするのは、それ以降、わが国で戦争が起きてないから。
もし、その後の歴史に日本がまた戦争に参加するような事態が起きていたら、太平洋戦争の位置づけは大きく変わっていたことでしょう。
70年近く経った今でも太平洋戦争のことを昨日のことのように話せるのは、実はとても幸せなことなんですね。
『阪神・淡路大震災』が戦後最大の災害として語られていた間は、幸せだったということです。
それが、戦後2番目に大きな災害に“格下げ”になってしまいました。
しかも、たった16年という短さで・・・。
これは、とっても不幸なことだということを思い知りました。

震災から17年経った神戸の町は、表面上はかつての傷痕は見られなくなりましたが、当時とは違った問題が見え始めています。
震災直後に神戸市は、住宅復興を急ぐ観点から、民間住宅を借り上げて公営住宅として被災者に賃貸する方式を取ってきました。
いわゆる「また貸し」ですね。
つまり、家主と市が契約関係を結び、市が被災者に通常より安く貸しているわけですが、家主と市との賃貸契約満了期間が20年間となっていたそうで、あと3年しか残っていません。
神戸市は現在、入居者に対して転居を要請し始めているそうですが、入居者の多くは高齢者で、「住み替えは困難」と答えている方がたくさんいるとか。
震災から十数年を経て、ようやく生活も落ち着き、周囲の人間関係も築いてきた被災者が、再び大きな困難・不安に直面している現実があります。
神戸経済の低迷も相変わらず深刻で、就業率は5大都市の中では最下位、全国で見ても平均値をはるかに下回っています。
震災直後の地震そのものによる打撃は、いってみればある日突然、予想もしていなかったカウンターパンチをくらって一発KOされたようなもので、衝撃は大きかったものの、気持ちを切り替えて立ち上がることができた人が多かったと思います(周りが全て被災者でしたから、自分だけが不幸なわけじゃないという妙な安心感もありましたしね)。
ところが、年月が経ってジワジワとボディーブローのように繰り出される二次災害の打撃は、一撃でKOされるほどの強打ではないにしても、少しずつ足腰や内蔵にダメージが蓄積し、気がつけば再起不能になるまで打ちのめされていたというような、そんな苦しさがあります。
神戸の内包する課題は、『東日本大震災』の被災地の将来を映す鏡でもあると思います。
その意味でも、まだまだ『阪神』を語る必要はあるのかもしれません。

戦後2番目に大きな災害に“格下げ”となった『阪神・淡路大震災』。
何の根拠もありませんが、私の生きている間に『阪神』を超える地震災害が起きるとは思っていませんでした。
でも、考えてみれば、地震大国日本でそんな保証があるはずがないんですよね。
ということは、近い将来、『東日本』を超える災害が発生する可能性だって否定できないわけです。
そうあって欲しくないのは当然ですが、こればかりは人間の力ではどうにもなりませんからね。
おびえていては生きていけませんが、認識して準備をしておく必要はあると思います。
そういった意味では、過去を顧みる節目として、今日のような日は必要なのでしょう。

ありがたいことに、私は自身の誕生日と震災記念日が重なったことで、歳をとる度に震災のことを思い出すことができます。
これは、喉元過ぎれば熱さを忘れがちな私に、神が与えた課題なのかもしれません。
神戸の町が一日も早く震災前の姿を取り戻すように、そして東北の被災地が、神戸が抱える問題を教訓にしてより良い復興を遂げられるように、心から願っています。
そして、願わくば、『東日本大震災』が戦後最大の災害であり続けてくれることを祈るばかりです。

震災から14年。そして私の誕生日。今、思うこと。
今日は私の誕生日。そして阪神・淡路大震災から15年。
誕生日に思う。~阪神・淡路大震災から16年。


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http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120117-00000037-jij-soci

by sakanoueno-kumo | 2012-01-17 22:13 | 日常 | Trackback | Comments(0)  

平清盛 第2話「無頼の高平太」

 現代の日本に生きる私たちは、生まれたときに命名された名前を原則として一生使い続けるが、明治維新以前の武家社会ではそうではなかった。武家の男子の場合は生まれるとすぐに幼名が付けられ、成人(元服)すると諱(いみな)と呼ばれる実名を名乗るようになる。また、幼名や諱の他に通称も用いたが、上級の武士の場合は朝廷から官職受領と呼ばれる公式な職、職名を拝領し、それを名乗った。さらに、雅号などを名乗る場合もあり、また出家して法名を称する場合などもあり、ひとりの人物でも生涯で複数の呼び名があって実にややこしい。ゆえに、小説やドラマなどでは、せいぜい幼名と諱の2種類くらいで通してしまう場合が多い。

 平清盛の場合、“清盛”というのはいうまでもなく諱で、祖父は正盛、父は忠盛、弟は家盛、経盛、教盛、頼盛と、“盛”という字を使った諱を名乗っていた。武士の家では特定の一字を諱に使用する風習があり、これを“通字”といった。清盛ら伊勢平氏が“盛”の一字を通字として織り込んでいたのは、きっと家運の隆盛を祈ってのことだったのだろう。他に、忠盛・清盛父子は腹心の家臣に“盛”の一字を与え、平盛国平盛俊などと名乗らせている。こういった風習を「偏諱(へんき)を賜う」、もしくは「一字拝領」といった。

 “清盛”という名の由来について、『平家物語』の中に次のような逸話がある。前話の稿でも述べたが、『平家物語』では清盛は白河法皇(第72代天皇)のご落胤説となっている。忠盛のもとで平家の子として育てられることになった皇子だったが、白河院はそれとはなく皇子のことを気にかけていた。あるとき、皇子の夜泣きがあまりに激しいと聞いた白河院は、次の歌を忠盛に贈った。
 「夜なきすとたゞもりたてよ末の世にきよくさかふることもこそあれ」
 (その子が夜泣きをしても大切に育ててくれ、忠盛よ。将来、平家を繁栄させてくれることもあるかもしれないのだから)

 そして、この歌の下の句にある「きよくさかふる(清く盛ふる)」から、清盛と名付けられたという。おそらくは物語の創作だろうが、よくできた話ではある。ドラマの白河院とは、随分とイメージが違うようだが・・・。

 清盛の幼名については、正確にわかっていない。“平太”というドラマでの幼名は、おそらく『平家物語』に出てくる「六波羅のふかすみの高平太」というあだ名からきたものだろう。「ふかすみ」は墨黒の馬という意味で、「高平太」は高足駄を履いた平氏の太郎(長男)という意味。これは、清盛の姿を侮辱したあだ名だという。また、『源平盛衰記』では、京童に「高平太」といって笑われた清盛は、恥ずかしく思ったのか、扇で顔を隠したが扇の骨の間から鼻が見えていたので、京童は「高平太殿が扇に鼻を挟んだぞ」といって、その後は「鼻平太」と呼んで罵ったという。この逸話も、物語の中の創作かもしれないが、当時の京都や貴族社会には、そうした平家を侮るような雰囲気があったのは事実だろう。このよな屈辱を受けるたびに清盛は、いつか貴族たちを見返してやりたいという思いを抱いたかもしれない。

 大治4年(1129年)1月に元服した清盛は、従五位下・左兵衛佐に任じられ貴族の仲間入りを果たした。父・忠盛は白河院からあつい信頼を寄せられていたものの、その頃は内裏への昇殿すら許されていない一介の地方官に過ぎなかったが、清盛の任官は一般の武士に比べて格段に優遇されていた。武士の子どもが朝廷の武官に任じられる場合、三等官である「尉(じょう)」から始まるのが通例であったが、清盛は二等官である「佐」からのスタートだった。しかも、兵衛佐という官職は上流貴族が任じられるものであり、内裏清涼殿への昇殿が許される殿上人への最短コースだった。事実、この人事は貴族たちを大いに驚かせ、「人耳目を驚かす」と日記に記した貴族もいたほどだった。同年3月、12歳の清盛は岩清水臨時祭で舞を奉納した。舞人に選ばれた貴族の少年たちの中で、清盛の雄姿はひときわ注目を浴びたという。ここから、清盛の出世街道が始まる。


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by sakanoueno-kumo | 2012-01-16 02:14 | 平清盛 | Trackback(3) | Comments(2)  

江~姫たちの戦国~ 総評

 2011年のNHK大河ドラマ『江〜姫たちの戦国〜』が終わって1ヵ月以上が過ぎてしまいました。毎年、最終回のあとに締めくくりとして“総評”のレビューを起稿していたのですが、昨年の11月から12月にかけて例年になく多忙を極めていたため時間がとれず、そうこうしているうちにNHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』が始まってそちらのレビューに追われる12月となり、気がつけば最終回から随分と時間が経ってしまっていて、「もう、いいっか!」と思っていたのですが、先日、今年の大河ドラマ『平清盛』の第1話のレビューを投稿したあと、そのまま放置状態になっている『江』ことが気になりはじめ、やはりちゃんと落とし前は着けておこうと思い至りました。今さら、ではありますが、少しばかりお付き合いください。

 大河ドラマ50作目の節目として臨んだ作品でしたが、巷では放送開始早々からかなりの酷評が飛び交っていましたよね。史実云々という毎年お決まりの批判はもちろん、主人公・お江の幼少期を上野樹里さんが演じたことによる矛盾や、大河ドラマらしからぬ台詞や演出などについて、「ファンタジー大河」などと揶揄する声も少なくありませんでした。そんな中、私はそういった声に惑わされないように幼稚な酷評ブログなどは読まないようにし、当ブログではできるだけ肯定的なレビューに徹してきました。大河ドラマファンや歴史フリークを自称する人たちにとって、批判するのは簡単なことです。しかし、一旦批判に走りだすと、批判するための粗探しでしかドラマを観れなくなります。自分で自分に先入観を与えて、無理に面白くなくなるよう視聴しているようなもので、ただでさえ忙しい日曜日の夜を、そんなくだらない時間に使いたくはない。せっかく観るんだから楽しみたいじゃないですか。でも、大河は1年間という長丁場で、楽しむには観る側にもそれなりの根気が必要です。途中で、「このドラマ面白くない」と思ってしまったらもう続きません。だから、私はできるだけ途中での批判はしたくはないんです。ただ、全てを観終えた今なら、正直な感想を言ってもいいだろう、というわけで、ここからは言いたいことをいわせていただきます。

 まず、今までも何度か申し上げてきましたが、私は史実との相違云々について批判するのは好きではありません。そもそも史実とは歴史の断片に過ぎません。その断片を繋ぎあわせて見えてくるのが「史観」であり、そこには当然、見る人の主観が入りますから様々な解釈が生まれます。さらに、そこに想像の世界を肉付けしたものが、小説であったりドラマであったりするわけで、いろんな視点の物語があって当然でしょう。それを、重箱の隅をつつくように「史実と違う!」と揚げ足を取る批判にはウンザリしますし、そういった声を発する人というのは、大概は浅薄な知識をひけらかしたいだけの人で、本当に歴史が好きな人ではないと思っています。それでは、節操無く創作してかまわないのか、という意見になりますが、そこは一般通常人としての常識の範囲内か否か、ということになるでしょう。作り手のセンスが問われるところでもありますね。私は、この『江』がこれまでの大河ドラマに比べて特に創作範囲が多かったとは思いません。過去、名作といわれる作品でも、フィクション性の強いものもあります。史実との相違云々については、どの作品も大同小異ではないでしょうか。

 次に、現代の価値観で歴史ドラマを描くな、という意見があります。これも、今回の作品に限らず聞こえてくる声ですが、とりわけこの『江』に対してはこの批判の声が多かったように思います。たしかに、戦国時代の女性らしからぬ言動や行動が多々見られ、私も少々眉をしかめる場面もありましたが、では、戦国女性の価値観とはどのようなものでしょう。おそらく、正確に答えられる人はいないんじゃないでしょうか。よく、昔の大河ドラマファンの人で、「戦国武将とはこうだ!」などと言い切る人がいますが、大きな勘違いだと私は思います。それは結局、昭和の時代に描かれた昭和の価値観の戦国武将の姿に過ぎません。歴史とは、その歴史を見る時代の価値観によって、いかようにも変わるものだと思います。たとえば、豊臣秀吉像を例にいえば、戦前と戦後、昭和と平成でもずいぶんと描かれ方が変わってきてますよね。昔は、「今太閤」なんて言葉もあったように、立身出世の象徴として英雄のように描かれることが多かった秀吉ですが、現代ではどちらかと言えばダーティーな部分が強調されることが多くなりました。これはまさに、昭和と平成の時代背景の違いからくる価値観の違いといえるでしょう。

 イギリスの歴史家E.H.カーの言葉に、「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話である」というものがあります。歴史を書いたのは後世の歴史家であり、ゆえに、歴史は歴史家を離れては存在しない。その歴史家の生きた時代背景、思想、宗教などにすべからく影響している、ということ。つまり歴史解釈とは、後世の価値観によって変わるもので、歴史ドラマや小説などは尚更でしょう。あとは、その価値観に共感できるか否かで、「これこそが戦国の価値観だ!」などと断定できるような不変の歴史など存在しないと私は思います。

 あと、女性目線のドラマという声もありますが、これについては私も否定はしません。2002年の『利家とまつ』のヒット以降、どうも、女性ファンを意識した作品が増えた観は否めませんね。ひと昔前までは、朝のNHK連続テレビ小説が女性向けのドラマで、大河ドラマはわれわれオッサン向けのものだったと思うのですが、この辺りは世の流れには逆らえないといったところでしょうか。ただ、それ以前に女性目線の作品がまったくなかったかといえば、そうでもないんですね。先日、大河ドラマアーカイブで放送していたのをたまたま観たのですが、大河創成期の1967年に製作された『三姉妹』という作品は、幕末の時代を女性目線で描いた作品で、しかも主人公の三姉妹は架空の人物だそうです。そんな昔に女性目線の大河作品があったというのも意外でしたし、主人公が架空の人物という設定にも驚きました。女性目線となると、どうしても戦のシーンが少なくなりますし、色恋話が多くなります。しかし、それでも私は、2008年の『篤姫』などは名作だと思っていますし、女性目線の作品だからダメという意見は違うように思います。要は、好むか好まざるかではないでしょうか。

 では、私にとって『江〜姫たちの戦国〜』はどうだったか・・・。残念ながら失敗作だと思っています。その理由は、ファンタジー大河だからでも現代価値観だからでも女性目線だからでもありません。単純に、ストーリーが面白くなかった・・・理由はそれだけです。一生懸命、いいところを見つけようと頑張りましたが、最後まで見つけることができませんでした。1話1話でいえば、面白い回もあったのですが、全体で見れば何も印象に残っていない・・・というのが正直な感想です。上述したように、私は2008年の『篤姫』を高く評価しています。その『篤姫』と同じ田渕久美子さんの作品ということで期待していたのですが、見事に期待を裏切られましたね。同じ作者とはとても思えない内容でした。

 まず、お江という女性を通して、何が描きたかったのかさっぱり伝わってきませんでした。『姫たちの戦国』というサブタイトルですから、彼女たち三姉妹を通して通常の戦国史とは違った女たちの戦国物語が描かれるのかと思っていたのですが、結局は既成の秀吉、家康の物語に過ぎず、お江という女性を主役にした意味もわかりませんでした。『篤姫』では、天璋院篤姫という女性に「大奥を閉じる役割を与えられた女性」という意味を見出し、物語全体を通して「歴史上の役割」というテーマを描き、それが最後までブレませんでした。見事な設定だったと思います。だから、創作部分も多く史実歪曲といった批判の声を受けながらも、『篤姫』は多くの人に支持されたのでしょう。

 『江』のテーマとは、いったい何だったんでしょう。父の顔を知らずに育ったお江は、幼少期に叔父である織田信長を父のように慕い、その後の人生に大きな影響を受けた・・・この部分も「そんな事実はない!」といった無粋な批判が多かったようですが、私はこの発想は良かったと思います。問題はその後。信長から受け継いだ思想は「思うがままに生きよ!」・・・正直???ですよね。『篤姫』の「歴史上の役割」という、非常に具体的でしかも深いテーマとは違い、なんとも具体性に乏しく浅いテーマ。別に信長である必要性も感じられません。事実、その後の物語とこのテーマがさほどリンクしません。作者はいったい何が描きたかったのでしょう。

 二度の落城により父と母を失った浅井三姉妹は、時の権力者たちに人生を翻弄され、波乱に満ちた生涯を送る。そんな中、天下人の想い人となり、その子を生みながらも歴史の中に葬り去られてしまった長女・お茶々と、三度の結婚を重ねながらも最後は将軍家御台所となり、浅井家織田家の血脈を将軍家のみならず天皇家にまで繋げ、歴史上に大きな存在感を残した三女・お江。同じ境遇にありながら両極に対峙してしまった姉妹の運命。こうして考えてみても、もっと面白いストーリーがいかようにも作れたんじゃないでしょうか。これだけいい素材でありながら、テーマも浅ければストーリーも軽薄で意味不明、何度もいいますが、『篤姫』と同じ作者だとはとても思えない作品でした。

 なぜそうなってしまったか・・・と考えたときに、私は作者である田渕さんの歴史に対する知識不足が要因だと思いました。詳しくは知りませんが、おそらくこの方は戦国時代にも、というか歴史そのものをあまり知らず、執筆依頼があってからにわか知識を放り込み、その程度の知識で作品を書かれたんじゃないでしょうか。だとしたら、依頼したNHKも依頼を受けた田渕さんも大失態ですし、重罪ですね。歴史ドラマを嘗めていたとしか思えません。上述したように、私は史実云々を批判するのは嫌いですし、物語である以上、フィクションは当然だと思っています。ですがそれは、作り手のセンスが問われるところだとも言いました。歴史に不勉強な人が歴史ドラマを書くと、フィクションも的外れでトンチンカンなものになると私は思います。ピカソは、写実画を極めた上であの画風に行き着いたのです。デッサン力のない者が抽象画を書いても、ただの下手な絵でしかありません。歴史をしっかりと勉強した人にしかフィクションの歴史は書けないのではないでしょうか。

 『篤姫』が成功したのは、宮尾登美子さんの原作小説がちゃんとあって、田渕さんはあくまで脚本家としての執筆だったからではないでしょうか。私はその原作を読んでないのでわかりませんが、読んだ人にいわせれば、原型を留めてなかったとも聞きます。ですが、それでもベースとなる原作はあった。ここ数年、ドラマのための書き下ろし作品がずっと続いてますよね。しかし残念ながら、そのどれもが良い作品だとは言い難いものばかりです。私は物書きのシステムがよくわかりませんが、想像するに、おそらくドラマのための書き下ろし作品というのは、主人公となる人物が先に決まっていて、そのあと作家さんに依頼するものなんじゃないでしょうか。しかも、最初からドラマの尺を意識して物語が構成される。それに対して小説の場合は、そういう縛りが一切ない。小説家が書きたい題材を十分な準備のもとに執筆するものだと思います。逆にいえば、その小説をドラマに作りなおす脚本家さんというのは、ある意味小説家以上の職人技とも言えるように思えますが、脚本家が原作を書き下ろすというのは、歴史ドラマの場合難しいんじゃないでしょうか。やっぱり餅は餅屋です。『篤姫』と『江~姫たちの戦国〜』という田渕さんの2作品のあまりの出来の違いから見て、そういう結論に落ち着かざるを得ません。

 NHKも田渕さんも、おそらく今回の作品が名作だとは思っていないでしょうし、駄作を作ってしまったことに気がついているはずです(気づいていなければ救いようのないKYです)。この失敗を教訓に、今後の作品に生かしていって欲しいと切に願います。最後の最後に、かなり辛口のレビューとなってしまいました。このレビューを読んで気分を害した方がおられましたら、お許しください。最後まで真剣にいいところを見つけようと努力して視聴していた者だからこそ、発言する権利がある言葉だと受け止めていただければ嬉しく思います。こんなことを言いながらも、私は大河ドラマが好きですし、これからも観続けると思います。11ヶ月間、ありがとうございました。

●1年間の主要参考書籍
『お江と徳川秀忠101」の謎』 川口素生
『日本の歴史11~戦国大名』 杉山博
『日本の歴史12~天下一統』 林屋辰三郎



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by sakanoueno-kumo | 2012-01-12 02:08 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback | Comments(14)  

平清盛 第1話「ふたりの父」

 平清盛は永久6年(元永元年)(1118年)に生まれた。平家が日の出の勢いで力を伸ばしていたときである。清盛の祖父、平正盛は、白河法皇(第72代天皇)の北面の武士(法皇の身辺を守る武士のことで、院御所の北側の部屋に詰めている武士のこと)として武力で法皇に仕えるとともに、数カ国の受領(国守)を歴任し、清盛出生当時は西国の大国である肥前守を務めていた。受領は税の徴収を行うため、やり方によっては莫大な収入を得ることができる。清盛は富裕な貴族の跡取りとして、比較的恵まれた環境で育ったようである。

 清盛の出生については、古くから清盛は白河法皇のご落胤だったという説がある。『平家物語』「祇園女御」の巻に、次のような話がある。白河法皇が寵愛する女性に祇園女御と呼ばれる女性がいた。彼女は正式な女御ではなかったが、法皇のあまりの寵愛ぶりからそう呼ばれていた。白河法皇がいつものようにこの女性のもとへ通っていたある夜、女御の邸の近くで不気味な光を発する鬼のようなものに出くわした。驚いた法皇は、北面の武士として警護にあたっていた平忠盛「あの鬼を成敗せよ」と命じた。忠盛は、鬼というのはおそらく法皇の見間違いであろうと考え、即座に弓を引かずに近づいて確認したところ、鬼と見えたのは麦わらをかぶり明りを手にした老法師だった。それを知った白河法皇は「あの者を殺してしまっていたらどれほど後悔したであろう。弓矢取る身(武士)とは感心なものよ」と、忠盛の沈着冷静な行動を褒めて、寵愛の深い祇園女御を忠盛の妻に与えたという。このとき彼女の腹には法皇の皇子が宿っており、それこそが、ほかならぬ清盛だったというのである。

 ご落胤伝説というと、たいていは根も葉もない噂話にすぎないものが多いが、清盛の場合は少し事情が違う。というのも、現在でもこのご落胤説を指示している歴史学者の方々が、数多くおられるのである。清盛の尋常でない出世のスピードを見ると、天皇家の血筋でなければ説明がつかないというのである。清盛は大治4年(1129年)、12歳という異例の若さで従五位下・左兵衛佐に任官を果たし、その2年後に従五位上、その4年後には正五位下、従四位下、その翌年には中務大輔、さらにその翌年には肥後守、その3年後には従四位上と、超スピード出世を重ねた。これは、当時の慣例からして、天皇家との血縁関係なくしては考えられないといわれている。もちろん、血縁関係のことだけに断言できる証拠はない。あるいは、清盛の異例の出世への妬みやっかみの噂話として、このご落胤説が生まれたのかもしれない。しかし、武士の子である清盛の順調な出世は、当時の公家たちを大いに驚かせる人事だったことは事実のようで、その真偽はともかく、清盛は皇胤であるという噂話が当時の貴族の間にあったというのも、間違いなさそうである。もし、この説が事実だったとすれば、清盛にとってそれは“誇り”だっただろうか。それとも、“恥”と感じただろうか。高貴な天皇家の血筋と現実の武士としての境遇のギャップに、きっと悩んだことだろう。

 では、清盛の生母はどのような女性だったのだろうか。保安元年(1120年)、忠盛の妻が亡くなっている。清盛3歳のときである。年齢から考えて、この女性が清盛の母であることは間違いなさそうである。どのような女性だったかは分かっていない。唯一伝わっているのは、白河院の身辺に仕えていた女房だったということだけだそうである。『平家物語』にみる清盛の生母が祇園女御であるという説は、彼女は保安元年以降も生き続けているので間違いのようである。では、祇園女御が清盛とまったく関係なかったかといえば、そうともいえない。清盛の生母は、祇園女御の実妹であったという説があるのだ。これは『仏舎利相承系図』という史料を根拠とする説で、これによれば、祇園女御の妹が白河院の子を身ごもり、忠盛に嫁いだ後に生まれたのが清盛であり、その女性の死後、清盛は祇園女御の猶子となり、彼女の後見を受けていたという。こちらは、あながち否定できない面もある。正盛・忠盛父子は白河院に仕える一方で、その寵姫である祇園女御にも奉仕しており、清盛が生まれる何年も前から、平家と祇園女御は密接な間柄にあった。そんな祇園女御の妹を妻としてもらい受け、その妹の死後、その子を猶子として祇園女御が後見していたとしても、何ら不思議ではない。幼少期の清盛の出世は、祇園女御の引き立てによるところも大きかったかもしれない。

 ドラマでの清盛の生母は祇園女御でもその妹でもなく、祇園女御が妹のように可愛がっていた白拍子・舞子という設定。彼女は白河上皇の子を身ごもりながらも、陰陽師「王家に災いする赤子」というお告げの為、命を追われる身に。その舞子を匿ったのが忠盛だった。しかし、結局は上皇の知るところとなり、祇園女御の助命嘆願によって赤子の命は助けられるも、舞子は御所の警護兵の矢によって壮絶な死を遂げる。死の直前、舞子から赤子を託された忠盛は、その子を平太と名付け、平家の子として育てる決意をする。すべて、ドラマのオリジナルストーリーだが、白川院の人物像や当時の天皇家の位置づけ、忠盛たち当時の武士たちの立場がとてもよくわかるストーリーだった。

 「己にとって生きるとはいかなることか。それを見つけたとき、心の軸ができる。心の軸が体を支え、体の軸が心を支えるのだ。」
 忠盛が幼い平太(清盛)にいった言葉。清盛の父・忠盛は武力のみならず、和歌などにも造詣の深い教養人だったという。
「父上は強うござりまするな。私もなりとうございまする。父上のような立派な武士に。」
「では、その気持ちを、心の軸にせよ。その軸を支えられるよう、しっかり体を鍛えよ。」

 この時代、武士は天皇家に仕える番犬のような地位にすぎなかった。彼らの望みは、朝廷のために働き、あわよくば功をあげて恩賞を得ることでしかなかったのである。正盛も忠盛も、天下を取るなど考えたこともなかっただろう。武士たちが自分たちの実力に気づくには、もう少し、清盛の成長を待たねばならなかった。

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by sakanoueno-kumo | 2012-01-09 18:42 | 平清盛 | Trackback(3) | Comments(10)  

平清盛 キャスト

 2012年の大河ドラマは『平清盛』です。桓武平氏(伊勢平氏)の棟梁の家に生まれ、平安時代末期を生きた平清盛は、わが国最初の武家政権を樹立した人物として後世にその名を残しました。以後、わが国では鎌倉幕府、室町幕府、豊臣政権、江戸幕府と、700年以上もの間ほぼ継続して武家政権が続きました。そんな新しい時代の幕を切って落とした人物として現在では高く評価されながらも、なぜか後世にあまり人気がない清盛。それは、「平氏にあらずんば人にあらず」のことばでも知られるように、専制君主のイメージが強いことと、貴族の世を終わらせたために公家から憎まれ、源氏の仇として鎌倉時代以降の武家からも嫌われ、後世の書物で常に悪人として描かれてきたことが大きいと思われます。

 一般には専制君主のイメージが強い清盛ですが、一方で情にほだされやすく、涙もろいという人間味あふれる人柄の人物だったともいわれます。よく知られているように、平治元年(1159年)の平治の乱後に池禅尼の嘆願を入れ、源頼朝を助命した点などからも、傍若無人な人物ではなかったことがうかがえます。「平氏にあらずんば人にあらず」も、裏をかえせばそれだけ一族、一門を大切にしていたともとれるでしょう。

 「驕る平家は久しからず」を代表する人物として、悪人として描かれることが多かった平清盛。今回のドラマでは、どのような人物像で描かれるのでしょうか。楽しみですね。さて、第1話の放送開始を目前にして、ここでキャストの紹介をしておきます。

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平家一門
平氏一族
平 清盛・・・・・・・・・・・・・・・・松山ケンイチ(幼少期:前田旺志郎)
平 忠盛・・・・・・・・・・・・・・・・中井貴一
平 正盛・・・・・・・・・・・・・・・・中村敦夫
平 忠正・・・・・・・・・・・・・・・・豊原功補
平 家盛・・・・・・・・・・・・・・・・大東駿介
平 頼盛・・・・・・・・・・・・・・・・西島隆弘
平 時忠・・・・・・・・・・・・・・・・森田 剛
女性たち
時子・・・・・・・・・・・・・・・・・・深田恭子
明子・・・・・・・・・・・・・・・・・・加藤あい
宗子・・・・・・・・・・・・・・・・・・和久井映見
滋子・・・・・・・・・・・・・・・・・・成海璃子
秀子・・・・・・・・・・・・・・・・・・海老瀬はな
須磨・・・・・・・・・・・・・・・・・・駒塚由衣
平家家臣
平 家貞・・・・・・・・・・・・・・・・中村梅雀
平 盛国・・・・・・・・・・・・・・・・上川隆也(幼少期:小林廉)
伊藤忠清・・・・・・・・・・・・・・・・藤本隆宏
平 盛康・・・・・・・・・・・・・・・・佐戸井けん太
平 維綱・・・・・・・・・・・・・・・・尾美としのり
源氏一門
源氏一族
源 義朝・・・・・・・・・・・・・・・・玉木 宏
源 為義・・・・・・・・・・・・・・・・小日向文世
由良御前・・・・・・・・・・・・・・・・田中麗奈
常盤御前・・・・・・・・・・・・・・・・武井 咲
源氏家臣
鎌田通清・・・・・・・・・・・・・・・・金田明夫
鎌田正清・・・・・・・・・・・・・・・・趙珉和
頼朝関係
源 頼朝・・・・・・・・・・・・・・・・岡田将生
政子・・・・・・・・・・・・・・・・・・杏
朝廷
白河院関係
白河法皇・・・・・・・・・・・・・・・・伊東四朗
舞子・・・・・・・・・・・・・・・・・・吹石一恵
祇園女御/乙前・・・・・・・・・・・・・松田聖子
鳥羽・後白河院関係
鳥羽上皇・・・・・・・・・・・・・・・・三上博史
後白河天皇・・・・・・・・・・・・・・・松田翔太
崇徳天皇・・・・・・・・・・・・・・・・井浦 新(幼少期:桑代貴明)
璋子・・・・・・・・・・・・・・・・・・檀 れい
堀河局・・・・・・・・・・・・・・・・・りょう
得子・・・・・・・・・・・・・・・・・・松雪泰子
御影・・・・・・・・・・・・・・・・・・横山めぐみ
藤原摂関家
藤原忠実・・・・・・・・・・・・・・・・國村 隼
藤原忠通・・・・・・・・・・・・・・・・堀部圭亮
藤原頼長・・・・・・・・・・・・・・・・山本耕史
その他の貴族
信西・・・・・・・・・・・・・・・・・・阿部サダヲ
藤原家保・・・・・・・・・・・・・・・・渡辺 哲
藤原家成・・・・・・・・・・・・・・・・佐藤二朗
藤原長実・・・・・・・・・・・・・・・・国広富之
高階基章・・・・・・・・・・・・・・・・平田 満
藤原季範・・・・・・・・・・・・・・・・山口良一
その他
西行・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤木直人
兎丸・・・・・・・・・・・・・・・・・・加藤浩次(幼少期:前田航基)
朧月・・・・・・・・・・・・・・・・・・隆 大介
滝次・・・・・・・・・・・・・・・・・・河原崎建三
国松・・・・・・・・・・・・・・・・・・白倉裕二
時松・・・・・・・・・・・・・・・・・・内野謙太
蟬松・・・・・・・・・・・・・・・・・・原 勇弥
荒丹波・・・・・・・・・・・・・・・・・八田浩司
麒麟太夫・・・・・・・・・・・・・・・・須加尾由二
資遠・・・・・・・・・・・・・・・・・・真島公平
***********************************************************************

 清盛役の松山ケンイチさんはもちろん、脇を固める方々も皆さん演技派揃いの豪華キャストですよね。中井貴一さん、中村梅雀さん、上川隆也さんといった大河常連の方々がしっかりと重要な役柄を固めてくれていますし、白河法皇役の伊東四朗さんなんて、何となく想像できて笑っちゃいます。清盛のライバル・源義朝役の玉木宏さん、藤原頼長役の山本耕史さん、信西(藤原通憲)役の阿部サダヲさんも楽しみですね。あと、この物語は源頼朝の視点を通して描いているそうで、その語り部となる頼朝役の岡田将生さんは大河ドラマ史上最年少の語り担当となるそうで、こちらも注目したいところです。あと、個人的に楽しみなのは、祇園女御役の松田聖子さん。昔好きだったもので・・・(笑)。

 さて、当ブログでは、『天地人』『龍馬伝』『江~姫たちの戦国~』『坂の上の雲』と、毎週かならずレビューを起稿してきましたが、今年は正直いって迷っています。ていうか、毎週起稿する自信がありません。その理由のひとつは、平清盛とその時代に私はそれほど詳しくなく、毎週レビューできるほどの材料を持ちあわせていないということ(十数年前に吉川英治著『新・平家物語』は読みましたが、ほとんど忘れちゃってますし、今からあの長編を読み返す勇気は毛頭ありません)。あと、もうひとつの理由は、『龍馬伝』『坂の上の雲』は、得意分野ということもあって楽しんでレビューできましたが、昨年の『江~姫たちの戦国~』のレビューは正直後半苦痛でした。それは、個人的に忙しくてリアルタイムで観ることが少なかったというのもあるのですが、やはり、作品自体に魅力を感じなかったというのも大きいでしょう。それでも、最後は意地で何とか挫折せずに続けられましたが、趣味でやっていることに縛られて苦痛を感じていたら何の意味もありません。

 でも、せっかくここまで続けてきたんだから、やめてしまうのも勿体無い・・・というわけで、今年からは必ず毎週起稿するといった縛りを作らず、書きたいと思った回は書く、忙しいときは無理をしない、というスタイルで、肩の力を抜いていきたいと思います。そんな気まぐれブログですが、よろしければまた覗いてやってください。今年もよろしくお願いします。


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by sakanoueno-kumo | 2012-01-07 01:21 | 平清盛 | Comments(2)  

赤穂四十七義士を祀る大石神社に初詣。

というわけで、元旦の稿でも申し上げましたが、今年の正月は播州赤穂で過ごしまして、となれば当然、初詣も赤穂の神社に参ることとなり、同市中心部にある大石神社に参拝してまいりました。
この大石神社の「大石」は、いうまでもなく大石内蔵助良雄からきたもので、ここ大石神社には内蔵助ら四十七義士と中途で自害した萱野三平が合祀されています。

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正門を入ると、いきなり四十七義士全員の等身大の石像が左右に並んで迎えてくれます。
参道の左右に、吉良邸討ち入りの際の表門隊裏門隊に分けて並んでいました。
こちらが、内蔵助が率いた表門隊。↓↓↓
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こちらが、内蔵助の嫡男・大石主税良金を大将とし、吉田忠左衛門堀部安兵衛が支えた裏門隊です。↓↓↓
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このとき主税は若干15歳(かぞえ)、今でいえば中2か中3です。
内蔵助がこの裏門隊に、もっとも信頼していた吉田忠左衛門と、一番の剣客とされた堀部安兵衛をつけた親心がわかるような気がします。

大石内蔵助良雄と大石主税良金父子の石像は向かい合うように立っていました。↓↓↓
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そして主税を支えた裏門隊の堀部安兵衛と吉田忠左衛門。↓↓↓
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一応、四十七義士すべての写真を撮ったのですが、ここで全部紹介するのはさすがに大変なのでやめておきます。

赤穂市は人口5万人ほどの決して大きいとはいえない町ですが、この日の大石神社は市内の人口がすべて集結したような賑わいでした。
ここ大石神社は、主君の仇討ちという大願を果たした祭神に因んで、「大願成就」の御利益があるとされ、受験生の合格祈願などで人気があるようです。
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境内にも内蔵助の像がありました。
こちらは結構古いもののようです。↓↓↓
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記念撮影用の忠臣蔵大絵馬です。
右を見ても左を見ても、内蔵助だらけです(笑)。
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この大石神社が建てられたのは大正元年のことですが、元禄赤穂事件以降、義士を称揚する人々によって旧赤穂城内の大石邸内に小さな祠が設けられ密かに祀られていたそうで、明治になって「大石神社」として神社を創建することが政府から許可され、今に至るそうです。
この元禄赤穂事件、いわゆる『忠臣蔵』ですが、一般に私たちが知る『忠臣蔵』の物語は、事件発生から約半世紀ほど過ぎた時代に書かれた歌舞伎人形浄瑠璃がベースとなっており、脚色された部分がたくさんあるといわれています。
でも、それにしても日本人はいつまでも『忠臣蔵』が好きですよね。
現在でも、討ち入りが行われた12月14日あたりになると毎年どこかの局でテレビドラマが制作・放送され、それなりの高視聴率が取れる鉄板物のようです(この正月も確か6時間ほどの長丁場でやってましたよね。一応録画はしていますが、なんせ長すぎるため、はたして観る時間が作れるかどうか・・・苦笑)。
自らの命を捨て、幕府の不公平な判決を自分たちの手で解消し、主君への忠誠を果たした彼ら赤穂義士の行動に日本人的ロマンを感じ、もはやこの物語に関していえば、実話か虚構かなんて無粋なことはどうでもいいことなのかもしれません。
ただ、この逸話で完全に悪役の汚名を着せられてしまった吉良上野介義央には、少々気の毒な気がしないでもないですが・・・。

ここ大石神社のすぐ側には赤穂城跡があり、他にも内蔵助をはじめ義士宅跡などの史跡が数多くあるのですが、この日は家族と一緒だったため神社への参拝のみ。
また今度、あらためて時間を作ってゆっくり訪れたいと思います。


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by sakanoueno-kumo | 2012-01-05 02:53 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(8)