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平清盛 第8話「宋銭と内大臣」

 9世紀末に藤原道真の建議によって遣唐使が廃止されて以来、わが国の外国との正式な国交は途絶えていた。京の貴族の間では、中国文化の影響から離れたわが国独自の国風文化が発展する一方で、外国をケガレの対象と見るようになり、国際社会に対する無関心や外国人に対する排外思想が広まっていった。平清盛が生きたこの物語の時代より200年以上前の宇多天皇(第59代天皇)の時代には、「天皇が外人と面会しなければならない場合は簾の中から見よ」と皇子に対して戒めており、そんな海外に対する忌避感は、実現不可能な攘夷を主張し続けた幕末の孝明天皇(第121代天皇)まで、実に1000年近く続くのである。

 しかし、遣唐使が廃止された後も、日本と中国との交流が完全になくなったわけではなかった。対外貿易は九州の大宰府が一元管理していたが、やがて国禁を破って海外に渡り大陸の文物を輸入する商人が現れ、日宋貿易はかえって活発化していった。そして12世紀半ばには、太宰府による管理貿易とは別に、九州沿岸の有力な荘園領主による密貿易も行われるようになる。清盛の父・平忠盛もそのひとりだった。

 公家・源師時の日記『長秋記』によると、長承2年(1133年)に鎮西(九州)へ宋国の商船が来航した際、太宰府の役人が商船と交渉して取引を始めようとしたが、荘園を管理していた忠盛が下文を作成し、院宣と称して役人たちを追い払ってしまった。宋船が来着した場所は神埼荘の飛地で、当時の神埼荘は鳥羽上皇(第74代天皇)の直轄領であり、忠盛は院の命令により荘園を管理する立場にあった。その特権を利用して、大胆にも鳥羽院の院宣を偽造して貿易を独占したのである。現代ならば、公文書偽造の罪に問われかねない行為だが、当時の忠盛は鳥羽院から重用されており、院宣が偽物であることを気づいていた大宰府や院庁の面々も、忠盛の行為を不問に付すほかはなかったのだろう。

 忠盛が日宋貿易に目をつけたのは、海賊討伐によって配下となった海賊や西国の在地領主から貿易の知識を得ていたからだろう。また、忠盛はこれより10年以上前に越前守に任じられていたときがあり、この頃から既に貿易にかかわっていたという推測もあるようである。宋商人は太宰府のほか、ときには日本海の敦賀へ来て交易を行う場合もあったらしい。敦賀は越前守の管轄下にあり、このとき貿易のメリットを実感したのかもしれない。そう考えれば、神埼荘の管理も、端から密貿易をするために鳥羽院に頼んで許されたものだったのかもしれない。そんな忠盛の日宋貿易に対する熱心さは、やがて息子の清盛に引き継がれ、さらに活発化していくこととなる。

 「内大臣になった暁には、徹底して粛清致いたします」
 と、ただならぬ威圧感で不気味な笑みを浮かべていたのは、当時、「日本一の大学生(だいがくしょう)」と称されていた藤原頼長。「大学生」とは学者という意味で、その学識の高さは当時の貴族の中では右にでる者はなかったとか。父は白河院(第72代天皇)時代の関白で藤原忠実、兄も鳥羽院の関白となる藤原忠通である。父・忠実は、白河院の養女・璋子と忠通の縁談を破談にしたことや(参照:第5話)、娘・勲子(のちの泰子)の鳥羽院への入内にまつわる行いが白河院の怒りを買うところとなり、関白職を罷免され宇治で10年に及ぶ謹慎生活を余儀なくされる。この謹慎中に生まれたのが頼長だった。幼き頃から聡明努力家だった頼長は、忠実の期待を一身に受けて育ち、若干17才で内大臣となり、やがて、実質的に朝廷内の執政を握ることとなる。

 そんなエリートを絵に描いたような頼長だったが、一方で、何事にも妥協を知らない完璧主義者で、わずかな落ち度も許さないといった冷厳な性格の持ち主だった。自他ともに厳しい性格は役人向きといえなくもないが、その厳格さは苛烈を極め、一説には、公務に遅刻した同僚の家を燃やしてしまったという逸話も残されているほどである。ドラマで、たった一本の枝の切り残しを見つけ、その庭師を即座にクビにするという場面があったが、あながちフィクションでもないかもしれない。後年、左大臣まで昇り詰めた頼長を、人々は「悪左府」と呼んで恐れたという。

 ちなみに、「悪左府」以外にも、「悪源太義平」「悪七兵衛景清」など官名や人名の接頭語として「悪」という文字が使われている例が見られるが、これは現代語で意味するところの「悪人」とは少しニュアンスが違っていて、人並み外れた能力や厳しさ、猛々しさに対する畏敬の念をこめた言葉だそうである。つまり頼長の異名「悪左府」を訳せば、「尋常でない才覚を持った左大臣」といったところだろうか。もっとも、遅刻したくらいで家を燃やしてしまうような過激な逸話をみれば、現代語で意味するところの「悪人」といってもいいような気がしないでもないが・・・(笑)。

 さて、次週は雅仁親王、のちの後白河法皇(第77代天皇)が登場するようだ。ようやく保元・平治の乱の役者が揃ってきたが、保元の乱が起こるのはこれより20年ほど先の話。物語はまだまだプロローグである。


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by sakanoueno-kumo | 2012-02-27 19:50 | 平清盛 | Trackback(5) | Comments(2)  

橋下徹大阪市長の義務教育留年制度導入案にちょっと待った!

連日のように斬新な改革案を打ち出して注目を浴びている橋下徹大阪市長ですが、今度は義務教育である小中学生の留年制度の導入を検討するよう市教委に要請して話題を呼んでいますよね。
橋下さんの教育改革に対する意気込みというのは府知事時代から折り紙つきで、大阪都構想と並んで橋下市政の柱といってもいいのでしょう。
しかし、教育委員会制度の改革や教職員人事考課制度改革は、少々過激ではあるものの頷ける部分もたくさんあったのですが、この度の留年制度の導入という話にはさすがに抵抗を感じずにはいられません。
橋下さん曰く「義務教育で本当に必要なのは、目標レベルに達するまで面倒を見ること。子供のためにもなると思う」ということですが、はたしてそうでしょうか。
私には「子供の学習意欲をそいでしまう」という市教育委員の意見のほうが的を射ているように思えますねどね。

私も、教育の理想は習得主義だと思いますが、義務教育の場合は、学齢主義履修主義でやむを得ないんじゃないかと思います。
そもそも義務教育の定義は、保護者に課せられた「教育を受けさせる義務」であって、どんな子供でも日本国民である以上、9年間は教育を受ける権利があるということですよね。
その昔は、読み書きそろばん自費で学んでいたもので、貧乏人は独学するしかなかったものを、9年間は公費で面倒みますよ、というありがたい制度なわけです。
だから、同じ地域同じ年齢の子供たちが、同じ教室同じ勉強同じスピードで学ぶというのが義務教育のあり方で、それ以上のレベルの学問を求める者は、私学なり学習塾などに通うなどして自費で学んでもらうしかないですし、そのレベルに達しない者も、公費で面倒みてもらえるのは9年間と定めるのが公平なんじゃないでしょうか。
「小学校で九九ができなければ、留年させてでも面倒をみる」といいますが、小学校の6年間で九九ができない子は、たぶん一生かかっても小学校を卒業できないですよ。
ずっとエリート街道を歩んでこられたであろう橋下さんにはわからないと思いますが、どうしても学問に向いてないヤツってのはいるんです。
そういう子には、学問とは違う分野で社会を生きていく術を探してあげるのが教育であり、学問に向いてない子を10年も15年も強制的に勉強させることが、子供のためになるとは思いませんし、税金の無駄遣いじゃないでしょうか。
あっ、別に落ちこぼれを切り捨てろと言ってるわけではありませんよ。
人には“向き不向き”“得手不得手”があるということが言いたいわけで・・・。

留年制度の導入は、ただでさえ社会問題となっている「不登校問題」に拍車をかけることになる可能性が高く、かえって勉強についていけない子を切り捨てる結果になるんじゃないでしょうか。
「今のクラスがしんどいとなったら、ちょっと下行ってこいと言える風土にしたい」と橋下さんは言っていましたが、仮に小中学生の留年が当たり前となり、留年が恥ずかしいことではない世の中になれば、あるいは橋下さんの言うように学力の底上げになるかもしれませんが、そうなるには大変な年月が必要でしょうし、その過渡期の子供たちはどうなるのでしょう。
「分からない授業を延々受けさせるとグレる」とも言っていましたが、友達は中学生になったのに自分はまだ小学生のままという方が、グレちゃうと私は思いますけどね。
それに、留年しないための学習塾通いが加熱するようになれば、それこそ本末転倒な話です。
いろんな意味で、今回の提案は無理がありそうですね。
学力の底上げを図るという趣旨は悪いことではないと思いますが、何も留年制度まで飛躍しなくても、教科によって学力別のクラス編成にするとか、方法は他にもあるように思います。

あいかわらず橋下徹市長の人気は高いようで、私も彼の行動力と信念には期待したいと思っているひとりですが、ここに来て、少々突っ走り過ぎの感がなきにしもあらずに思えます。
ちょっとスピードの出しすぎじゃないですか?
「そんなこと言ってたら改革なんてできない!」と言われそうですが、こうも次から次へと新しいことを言われても、なかなか私のような凡人の頭ではそう簡単に判断がつきません。
とくに、教育制度の改革については、『ゆとり教育』の例でもわかるように、何年か過ぎてみないと答えが見えにくいもの。
でも、教育は人間を作っていく制度ですから、何年か経って「やっぱり失敗でした」では困るんですよね(私の息子なんて、小学校入学時に「ゆとり」が始まって、中学校卒業時に終わりましたからね。誰が責任とってくれるんだ?・・・と)。
現状を壊さないと発展はない、というのは分かるんですが、壊せばいいというものでもないでしょう。
どうも彼の眼鏡では、普通のものまで普通に見えなくなっているように思えてなりません。
「策士、策に溺れる」とならなければいいのですが・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2012-02-24 21:11 | 政治 | Trackback | Comments(4)  

光市母子殺害事件の終結に思う、犯罪が起こった時点で、皆、敗者。

今週、山口県光市母子殺害事件の差し戻し上告審で被告側の上告が棄却され、犯行当時18歳1ヵ月だった元少年の死刑が確定、事件発生から13年という長きに渡って審議されてきた同事件の裁判は、一応の決着を見たようです。
私はこの判決の是非について語れるほどの材料を持ちあわせていないので、ここで軽々に私見を述べるのは控えますが、心情的には大方の皆さんと同じ思いです。
ただ、決着といっても亡くなった方の命が戻ってくるわけもなく、この種の事件はおそらくどんな判決が下ったとしても、「これにて一件落着」といったスッキリとする着地点などあり得ないものなのでしょうね。
それはまさしく、遺族の本村洋さんが記者会見で語っておられた、
「この判決に勝者なんていない。犯罪が起こった時点で、みんな敗者だ」
という言葉が、何より言い得ているように思います。

それにしても、理路整然とマスコミに応対する本村洋さんの会見を見ていると、13年の歳月とその間に交わされた議論の厚みを感じずにはいられません。
彼の魂のこもった弁舌に、私はこの13年間しばしば感動させられてきました。
思い出されるのは、たしか第一審で無期懲役の判決が下ったときだったと思いますが、「ニュースステーション」に出演されて発言された言葉。
「司法が彼を死刑にしないのなら、今すぐ彼を釈放してほしい。私がこの手で殺します。」
と、愛する者の命を奪われた遺族としての悲痛な胸のうちを晒したあと、
「死刑は廃止してはならないと思います。死刑の意味は、殺人の罪を犯した人間が、自らの罪と向き合い、犯行を悔い、心から反省をして、許されれば残りの人生を贖罪と社会貢献に捧げようと決心して、そこまで純粋で真面目な人間に生まれ変わったのに、その生まれ変わった人間の命を社会が残酷に奪い取ることです。その非業さと残酷さを思い知ることで等価だという真実の裏返しで、初めて奪われた人の命の重さと尊さを知る、人の命の尊厳を社会が知る、だから死刑が存在する意義があると思うのです。」
といった内容の持論を語られていました(ネット上で探して参照したものですので、一字一句正確ではありません)。
単に犯人へ向けた憎悪の言葉ではなく、論理的で、哲学的で、社会の中の命の尊厳命の価値にまで踏み込んだこの刑罰論を、たかだか24・5歳の若者が語る姿に、あの久米宏さんが言葉を失って聞き入っていたのを今でも覚えています。
もともと頭がよく弁の立つ方ではあったのでしょうが、もし、このような事件に遭遇していなければ、また、あらゆるテクニックを駆使して死刑判決を回避しようとする弁護団がいなければ、この難しい問題についてここまでの意見を持ち得ることもなかったでしょう。
彼でなければ、この事件がここまで世間の注目を浴びることもなかったかもしれません。
もちろん、ご本人はこのように称賛されることを望んではいなかったでしょうが・・・。

死刑確定後の先日の会見で本村さんは、「事件からずっと死刑を科すことを考え、悩んだ13年間だった。」と言っておられましたね。
また、「反省の情があれば死刑にならなかったと思う。」とも・・・。
かつては「万死に値する」とまで訴えていた彼の毅然とした主張からみれば、少々トーンダウンした最後の会見でした。
でも、それもまた自然な胸の内なんでしょうね。
これまで信念を持って戦ってきたものの、いざ望みが叶ったとき、今度は本当にこれでよかったのかと自問自答する。
これはいたって正直な心境だと思いますし、人間らしい感情だと思います。
たとえ極悪非道な殺人鬼の命であっても、いざその命を奪うとなると、決して心穏やかではいられない、つまりは、彼がずっと訴えてきたとおり、それだけ人の命とは重いものだということでしょう。
このたび死刑囚となった元少年にも、死ぬ前にそのことを噛み締めてほしいと思います。
君のような外道の命でも、その命を生かすか殺すかで13年もの長い年月を費やし議論され、悩み苦しんだ人たちがいるんだよ・・・と。

最後に、この13年間の締めくくりといってもいい先日の会見での本村さんの言葉を記します。
「判決は被告のものだけでなく、被害者遺族、何よりも社会に対して裁判所が言っていること。少年であっても身勝手な理由で人を殺害したら死刑を科すという強い価値規範を社会に示したことを社会全体で受け止めてもらいたい。私も極刑を求めてきたものとして厳粛に受け止める。」

あらためて、13年前に亡くなられたお二人のご冥福を心よりお祈りします。
そして、本村洋さんの今後の人生が穏やかであるよう願っています。


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by sakanoueno-kumo | 2012-02-22 16:17 | 時事問題 | Trackback | Comments(0)  

平清盛 第7話「光らない君」

 海賊討伐の凱旋パレードから間もなく、平忠盛に朝廷より恩賞が与えられ、その“譲り”によって息子である平清盛の位階が従四位下に上がり、翌年4月には中務大輔(天皇への近侍や勅命の起草・伝達を行う中務省の次官)に任じられた。このとき清盛18歳。祖父・平正盛が但馬や丹後といった大国の受領に任じられながらも五位止まりだったことを思えば、18歳にしてやすやすと五位から四位の壁を超えたことは、改めて平家の躍進を当時の人々に印象づけたに違いない。と同時に、妬みやっかみ的な視線も、新興勢力である平家と清盛に注がれていたことだろう。

 この頃、清盛は最初の妻を迎えていたようである。相手は、高階基章という廷臣の娘だったといわれている。ドラマでは明子という名前だが、実際には正確な名はわかっていない。清盛が中務大輔に就任した保延2年(1136年)、基章も右近衛将監に任じられており、そこでおそらく知己となり、その娘との結婚に至ったというのが通説である。右近衛将監という官職は宮中の警衛や行幸の供奉にあたる近衛府の三等官で、職務上清盛が務める中務省と関係する部分も多いとか。ただ、右近衛将監は位でいえば正六位程度の者が就く職務で、従四位下となった清盛よりはずいぶんと家格が下で身分がつりあわない。二人の結婚は、今でいえば“格差婚”だった。飛ぶ鳥を落とす勢いで出世していたこの頃の清盛にとって、この“格差婚”は政治的なメリットが何ら見られず、理由は謎とされている。何のメリットもないのに正式な妻として迎えていることを思えば、案外ドラマのとおり、清盛が見初めて妻にしたのかもしれない。とすれば、きっとたいそう美しい女性だったのだろうと・・・(笑)。

 ちなみに清盛の2番目の妻である時子が、書物によって「正室」と書かれたり「継室」と記されたりしているのは、名前もわからない身分違いの最初の妻を「正室」と見るか否かが、歴史家の中でも意見が分かれているためである。

 生涯、清盛の側近として仕え、清盛の最後も看取ったとされる平盛国。清盛の死後も滅びゆく平家と運命を共にし、その死際は敵方の将である源頼朝も称賛したと伝わる。ドラマでは、清盛の幼馴染で元漁師の鱸丸が、清盛の傅役(という設定)だった平盛康の養子となり、平盛国と名乗ることとなったという設定だが、これはドラマの創作であり、実際の盛国の出自は正確にはわかっていない。ただ、この「鱸丸」という名前から思い浮かぶのは、『平家物語』巻一の「鱸」の章だ。そこに出てくる逸話では、清盛が安芸守だった頃、伊勢から船で熊野へ詣でる途中、その船の上に一匹の大きな鱸が飛び込んできた。これを見た清盛は「昔、周の武王の船に白魚が踊りこんできたという。これは吉事である」といって早速調理し、殺生や肉食が禁じられた精進潔斎の旅であったにもかかわらず、一門や郎等に食べさせたという。このご利益によって平家はますます繁栄し、やがて清盛は太政大臣にまで上り詰めた・・・と。つまり、鱸は平家にとって出世魚だったようである(実際の鱸もセイゴ→フッコ→スズキと成長する出世魚で、縁起がいい魚とされている)。ドラマの「鱸丸」という名前の由来はおそらくここからきたものだと思われ、つまり、鱸丸=盛国が清盛の出世を支えた、盛国がいたから清盛は出世した、という設定なのだろうか。今後の展開を見てみたい。

 さて、「光源氏」ならぬ「光らない君」といわれてしまった大河の清盛。たしかに中務大輔に任官したにもかかわらず、あいかわらず埃まみれの汚い姿のままで、このままでは「光らない」どころか、また某県の知事にイチャモンをつけられそうである。そんなやんちゃ坊主の清盛だが、妻を娶り、そろそろ青春編も終わりといったところだろうか。


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by sakanoueno-kumo | 2012-02-20 21:35 | 平清盛 | Trackback(4) | Comments(0)  

ホイットニー・ヒューストンの急逝を悼む。

ホイットニー・ヒューストンの突然の訃報から3日が過ぎました。
その死因についていろんな報道があるようですが、正確なことはわかっていないようですね。
これまでも彼女は、離婚アルコール依存症薬物中毒など様々な問題が取り沙汰されていましたから、巷で下世話な憶測が飛び交うのもやむを得ないかもしれません。

ホイットニー・ヒューストンといえば、92年の主演映画「ボディガード」のテーマ曲「オールウェイズ・ラブ・ユー」が驚異的なヒットとなり、今や全世界で世代を超えて歌い継がれる名曲となっていますね。
たしか、日本で一番売れた洋楽だったと記憶しています(その後塗り替えられたかもしれませんが)。
当時私は、洋楽にかぶれていた80年代を過ぎ、社会人となった90年代は少し洋楽に疎くなり始めていた頃でしたが、さすがにあの曲の入ったアルバムは聞いてましたね(レンタルですけど・・・苦笑)。
ホイットニーといえば、どうしても「オールウェイズ・ラブ・ユー」が代表曲となりますから、この3日間テレビやラジオでもこの曲ばかりかかっていますが、私個人的には、その数年前にヒットした「セービング・オール・マイ・ラヴ・フォー・ユー」の方が好きだったんですよね。
あのスケールの大きい荘厳な歌声は衝撃的でしたよね。
あの当時、彼女はまさしく「歌姫」という言葉が最も似合うシンガーでしたが、その後しばらくして、マライア・キャリーセリーヌ・ディオンの出現によって、そのお株を奪われた観は否めませんでした。
どんな世界でもそうですが、天才の出現というのは往々にして連続するもので・・・。
彼女の晩年の荒んだ私生活は、そんな後発の天才たちの追撃による心の葛藤も関係していたのでしょうか・・・。

それにしても、アメリカのビッグなアーチストは何故こうも生きいそぐのでしょうね。
ジャニス・ジョプリンジミ・ヘンドリックスジム・モリソンエルビス・プレスリーカレン・カーペンター、そしてマイケル・ジャクソン
ミュージシャンじゃないけど、謎の死という意味ではマリリン・モンローもそうですね。
アメリカンドリームを実現した人というのは、それだけ人生の密度が濃かったということでしょうか・・・。

またひとり、偉大なアーチストを失いました。
心よりご冥福をお祈りします。


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by sakanoueno-kumo | 2012-02-14 20:04 | 芸能 | Trackback(1) | Comments(2)  

平清盛 第6話「西海の海賊王」

 保延元年(1135年)4月、平清盛の父・平忠盛に瀬戸内海に荒らしていた海賊討伐の命が鳥羽上皇(第74代天皇)より下った。この当時、瀬戸内海では海賊がはびこり、数十艘の船を操って輸送船を襲い、乗員を殺害して貨物を略奪していた。のちに西国では“水軍”と呼ばれる武力集団が生まれるが、その前身がこの頃から形成されつつあったのである。

 忠盛はこの6年前の大治4年(1129年)にも一度、山陽・南海道の海賊討伐を命じられており、おそらく、このときの手腕が買われたのだろう。公卿たちの忠盛の人選の理由は「西海に勢力を有する」というものだった。このとき、もうひとりの候補としてあげられていたのが源義朝の父・源為義である。公卿たちが最終的な判断を鳥羽院に委ねたところ、「為義では追討使が進む路次の国々が滅亡してしまうので忠盛がよいであろう」という指示があったため、忠盛の派遣が決定されたという。為義では国々が“滅亡”してしまうというのは、西国に地盤のない追討使を派遣することで、かえって混乱を生じるかもしれないといった懸念からだったのであろう。その点、忠盛はすでに伯耆や備前などの西国の受領を歴任し、6年前の海賊追捕の実績もあった。源氏一門は、またしても伊勢平氏の後塵を拝すことになったのである。

 清盛がこの追討に参加したかどうかは記録が残っていないのでわからない。ただ、当時清盛は18歳であり、父に従って参戦していたと考えるのが妥当であるかもしれない。平氏にとって海賊討伐は、瀬戸内海の水軍や在地武士を組織して西国に幅広く平氏の勢力を拡大するためのものでもあった。時期棟梁である清盛の姿を、西国衆に披露する良い機会にもなったはずである。ドラマのとおり、清盛にとってこれが初めての実戦経験だったかもしれない。

 まるで、映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』ジョニー・デップが演じているジャック・スパロウのような扮装で登場した西海の海賊王・兎丸だったが、彼はドラマオリジナルの架空の人物。おそらくドラマでは、この兎丸が清盛の水軍形成の柱となっていくのだろう。だた、実際にも海賊討伐の際に、こうして能力のある人材と主従関係を結んで、平氏の勢力の拡大をはかっていたとしてもおかしくはない。その意味では、清盛にとってこの初陣は、武勇を磨く以上の意味があったといっていいだろう。

 鳥羽院から海賊追討を命じられてからわずか4ヵ月、捕虜にした海賊たちを引き連れて、忠盛率いる平氏軍が京に凱旋した。これにより、京における平氏の武威はいやが上にも高まっただろう。だが、華やかな凱旋パレードの影では、黒い噂が囁かれてもいたのである。忠盛が京に連行してきた海賊たちは、日高禅師をはじめとする70人であったとされるが、そのうち28人が検非違使に引き渡されたものの、忠盛の家人ではない手下を「賊虜」と称して引き渡したに過ぎないというのである。忠盛にとっての海賊討伐は、西国の武士との主従関係を強める機会であったとともに、平氏の武勇を京の人々に示すためのパフォーマンスでもあったようである。


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by sakanoueno-kumo | 2012-02-13 01:08 | 平清盛 | Trackback(5) | Comments(0)  

大平シローさんの急逝を悼む。

元漫才師の大平シローさんの急逝の報に驚いています。
私は、昭和の漫才ブームが中学生の頃で、『THE MANZAI』にどっぷりハマった世代です。
太平サブロー・シローといえば、同時代の紳助竜介ツービートB&Bザ・ぼんちのりおよしおなどの漫才ブームのメーバーの中では一番若手で、少し遅れて出てきたコンビだったと記憶しています。
どちらかと言えば、当時のメンバーの中では地味な存在だった印象がありますが、しかしそれは上述した他のメンバーがあまりにも強烈なインパクトを持ったコンビたちが揃っていたからで(おさむちゃんやのりおさんなんて、ほとんどインパクトだけと言ってもいいかも)、“上手さ”という点でいえば、サブシロが一番だったように思います。
ツービートの「コマネチ」やB&Bの「もみじまんじゅう」のような定番ギャグというものをほとんど使用せず、純粋に“しゃべくり”だけで笑いを取っていた数少ない正統派のコンビだったといえるのではないでしょうか(強いてサブシロのギャグをあげるとすれば「ちょっと田中は〜ん」ぐらいでしょうか・・・笑)。
実際、上述した他のコンビがブームが去るやいなや尽く漫才コンビを解散していったのに対し、サブシロの漫才はブームが去ってからもさらに支持され、上方漫才大賞をはじめ数々の賞を受賞していることからも、彼らの漫才がいかにクオリティの高いものであったかがわかります。
あのまま吉本興業に所属していたら・・・と、今さらではありますが、惜しまれる思いです。

以前、相方の大平サブローさんがテレビで言っていましたが、シローさんは基本的に漫才の台本を書かなかったそうで、出番当日に「俺が酔っぱらいやるから、サブやんはそれに絡まれる役をやってくれ」とだけ言われて、それだけで漫才をやってしまうことがほとんどだったそうです。
また、台本があるネタをやる場合も、シローさんはアドリブで台本をドンドン離れていこうとし、サブローさんは必死でそれを戻そうとするといった感じで、毎回どんな仕上がりになるかサブローさんにはまったく予想がつかなかったと語っていました。
そんな、ほとんどネタ合わせなしで簡単な打合せだけで会場を大爆笑させてしまう彼らの才能に、オール阪神・巨人島田紳助さんなどの仲間たちは舌を巻いたとか。
しかし、そんな天才肌のシローさんのやり方についていくサブローさんは必死だったようで、自分とシローさんの才能の違いに毎回悩んだそうです。
観ている私たちにしてみれば、完成された名人芸に思えましたが、やってる彼らはいつも戦いだったんですね。
後年、喧嘩別れして絶縁状態になったといわれる二人ですが、サブローさんはシローさんという天才芸人と一緒にやれたことで今の自分があると語っていました。
もう一度見たかったですね。



吉本興業に反旗を翻したことで干されたかたちとなり、売れっ子の座から転落してしまった二人でしたが、その後コンビ解散したのちにサブローさんだけが吉本興業に復帰。
その際、明石家さんまさんや島田紳助さん、オール巨人さんに伴われて吉本に謝罪したという話は有名ですね。
一方のシローさんは、自身が率先して啖呵を切って飛び出したという経緯や、天才であるがゆえのプライドが邪魔して謝罪を頑なに拒んでいたそうですが、その才能を惜しんだ島田紳助さんが吉本に掛け合ったといわれ、サブローさんに送れること6年後に吉本に復帰しました。
しかし、復帰したシローさんには残念ながら以前のようなキレはなく、紳助さんの番組に出演していたシローさんを観たことがありましたが、見ていてツライものがありました。
一方のサブローさんは、天才シローさんの相方として鍛えた経験が生きてか、やしきたかじんさんや上沼恵美子さんなど関西の大物MCの脇を固めるスーパーサブとして、関西のテレビではほぼ毎日見る顔となっています。
東京でいえば、関根勤さんのようなポジションといっていいでしょうか。
天才といわれたシローさんが芸能界から姿を消し、凡才(というと失礼かもしれませんが、本人がそう言っているのであえてそう言わせていただきます)だったサブローさんが今も売れっ子として活躍しているというのは何とも皮肉な話で、人生とはわからないものですね。

ちなみに、私の青春時代は『オレたちひょうきん族』と共にあったといっても過言ではない世代です。
シローさんのデーモン小暮マドンナのモノマネは、抱腹絶倒ものでした。
雁之助はんのモノマネにいたっては、当時学校でみんな真似してましたよ(笑)。
「いやっ、えらいとこ見つかってしもうたわ!」・・・(笑)。
ユーチューブで探してみたけど見つかりませんでした。

55歳は早すぎますね。
心よりご冥福をお祈りします。


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by sakanoueno-kumo | 2012-02-10 22:51 | 芸能 | Trackback | Comments(0)  

ドラマ『運命の人』にみる、「国民の知る権利」の危険性。

今、『運命の人』という連続ドラマをやってますよね。
『白い巨塔』『華麗なる一族』『沈まぬ太陽』などで知られる山崎豊子氏の原作小説のドラマ化で、今から約40年前の沖縄返還密約をめぐり元新聞記者が逮捕されたという実際の事件を下敷きにした物語です。
当時、私は5歳でしたからこの事件を知るはずもなく、原作小説も読んでいないので何の予備知識もありませんが、さすがは数々の名作を世におくりだした巨匠の作品、第一話を見逃したにもかかわらずハマっております。
物語も引きこまれますが、当時の政治家さんたちを演じられる俳優さんたちのキャスティングがハマり過ぎてて笑っちゃうほどなんですよね。
田中角栄元総理をモデルとした田淵角造役の不破万作さんや大平正芳元総理をモデルとした小平正良役の柄本明さんなど、いずれも「上手いな〜」と感心してしまいますし、福田赳夫元総理をモデルとした福出武夫役の笹野高史さんなんて、はっきり言ってそのまんまですよ(笑)! 
佐藤栄作元総理をモデルとした佐橋総理役の北大路欣也さんは少々カッコよすぎる気がしないでもないですが、これは物語の役どころ上、仕方がないでしょうね(まあ、実際の佐藤栄作氏もダンディーな人でしたけどね)。

で、先日第4話を観ましたが、物語は本木雅弘さん演じる主人公の弓成記者が、外務省の機密文書漏洩に際して、真木よう子さん演じる外務省勤務の女性事務官に機密文書を持ち出すようそそのかした罪で逮捕されてしまいます。
一方その頃、弓成記者が所属する毎朝新聞社では「報道の自由を守ろう」という気運が高まり、他の新聞社も巻き込んで「国民の知る権利」をうたった一大キャンペーンが展開され、逮捕拘束中の弓成記者は一躍世論によって英雄視され、釈放に至ったとう話でした。

実際のこの事件のときもドラマのような世論だったのかは、当時5歳だった私は知るはずもありませんが、ドラマ中やたらと連呼されていた「国民の知る権利」という言葉は、私たちも記憶に新しい言葉ですよね。
そう、一昨年の尖閣諸島沖漁船衝突事件の折り、当時の菅直人内閣が公開していなかった衝突事件の一部始終が撮影された動画を、「sengoku38」なる登録名を名乗った現職の海上保安官が無断でYouTube上に投稿した、あの尖閣ビデオ流出事件の際です。
あのときの世論も「国民の知る権利」が声高にうたわれ、sengoku38氏の行動を「よくやった!」と支持するといった声が大半を締め、一躍時の人として英雄扱いされていました。
でも、当時は言うと袋叩きに合いそうな雰囲気だったので発言しませんでしたが、私は正直言って彼を英雄扱いする空気は危険極まりないと思っていましたけどね。

たしかに映像を見れば、国家機密に値するような内容だとはとても思えず、政府が何を頑なに秘匿しているのか理解に苦しむものでしたが、だからといって、政府が国家機密としているものを、国家公務員の末端の一兵卒である海上保安官が独断で公開するなどあってはならないことで、そこが崩れたら国家は成り立たなくなるんじゃないでしょうか。
「国民の知る権利」はたしかに大切ですが、その前に公務員には守らなければならない秘匿義務があり、この行動を許せば、第二第三のsengoku38氏を生むことになり、それはともすれば国家の秩序を破綻させることで、その先に見えるのは国の破滅といっても大げさではないと思えるわけで・・・。
にもかかわらず、sengoku38氏の行動は「愛国心に燃えた憂国の士だ」などと擁護され、半ば世論に負けるようなかたちで不起訴処分となり、海上保安官という職は自主退職というかたちで辞めることになったものの、その後、著書を出版したり、コメンテーターとしてテレビやラジオに出演したりと、ちょっと勘違いしていませんか?・・・と言いたくなるようなご活躍ぶりです。

このドラマの主人公のモデルである元新聞記者の西山太吉氏は、公務員でもないのに国家公務員法違反の罪を問われ、当時の国家権力によって葬り去られた人物といっていいのでしょう。
一方、本来ならば国家公務員法違反の罪を問われても仕方がなかったsengoku38こと一色正春氏は、今やまるでウィキリークスの創設者、ジュリアン・アサンジ氏のような英雄扱いです。
この違いは、この三十余年でそれだけ日本は進歩した良い国になったということでしょうか?
私には、その逆に思えてならないですけどね。

話をドラマに戻しますが、主人公の弓成記者のライバルで、大森南朋さん演じる読日新聞政治部の山部記者のモデルは、ナベツネさんこと渡邉恒夫氏だそうですね。
何ともカッコよすぎる配役ですが、あろうことか、ご本人がその人物像にクレームをつけているそうで・・・。
なんでも、料亭で政治家(田中角栄のモデル)にペコペコしながらごちそうになったり、買収される下等な「たかり記者」のように描かれていることを、そんな事実はないとして激怒しているとか。
いつものことながら、態度はデカイけど度量は小さい人ですね、このジイさんは・・・。
ムキになって怒ったほうが、かえって図星なんじゃない?・・・と思われちゃいますよ。


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by sakanoueno-kumo | 2012-02-09 20:42 | その他ドラマ | Trackback(1) | Comments(4)  

平清盛 第5話「海賊討伐」

 「おまえは人ではない・・・“もののけ”だ。」
と、ドラマでは、およそ人の気持ちがわからない天然系の悪女として描かれている待賢門院璋子。たしかにあれでは、鳥羽院が“もののけ”と罵りたくなるのも無理はない。ある意味、歴史を大きく動かしたといえる彼女。実際にはどんな女性だったのだろうか。

 鳥羽法皇(第74代天皇)の后妃として知られる待賢門院(藤原璋子)美福門院(藤原得子)。もちろん、他にも后妃はいたようだが、天皇の生母となったのはこの二人だけである。この時代、天皇に複数の皇后がいた場合、そのうちの一人を中宮と呼んだが、武家の正室と側室とは違って、中宮と皇后との間には待遇などの面で大差はなかったようである。待賢門院璋子は崇徳上皇(第75代天皇)、後白河法皇(第77代天皇)の生母で、美福門院得子は近衛天皇(第76代天皇)の生母となった。

 待賢門院璋子は、藤原北家の傍流である閑院流当主・藤原公実光子(隆方の娘)の間の末娘として、康和元年(1101年)にこの世に生を受けた。生母・光子は鳥羽院、堀河天皇(第73代天皇)の乳母をつとめた女性だったというが、その縁あってか、璋子は白河法皇(第72代天皇)の寵妃であった祇園女御の養女となったとされている。さらに璋子はその祇園女御の縁で、白河院にもことのほか可愛がられて育ったという。

 2人の愛情を受けて美しい女性に成長した璋子は、16歳となった永久5年(1117年)に白河院の孫である鳥羽帝の後宮に入内させられ、翌年、皇后の宣旨を受け中宮となる。当時、鳥羽帝は14歳。璋子は絶世の美女だったといわれ、14歳の鳥羽院にしてみれば、2歳年上の璋子の美しさに心を奪われるには、さして時間はいらなかっただろう。ただ、14歳と16歳のカップルで、現代で言えば、夫・中学2年生と妻・高校1年生。心身ともに夫婦となり得ていたかは微妙なところで、この翌年に生まれた第一皇子(崇徳帝)が、鳥羽帝のではないのでは・・・といった醜聞が飛び交うのも無理はなかった。しかも、その胤の主が、鳥羽帝の祖父であり璋子の養父でもある白河院だというのである。

 実際に白河院の璋子に対する溺愛ぶりは尋常ではなかったようで、たとえば『今鏡』によれば、幼いながらの類稀なる美貌の持ち主だった璋子を、白河院は毎夜懐に抱いて就寝した、と記されているらしい。また、白河院は適齢期となった璋子を、最初は関白・藤原忠実の嫡男・藤原忠通との縁組を進めようとするが、忠実の猛烈な反対により破談となり、やむなく孫の鳥羽院に入内させた、という逸話もある。この辺りの経緯は忠実の日記『殿暦』に詳細に記されているそうで、璋子が生んだ第一皇子が白河院の胤であるとの記述も、この日記に認められるそうである。真実は定かではないが、忠実・忠通はこの縁談話の破談によりしばらく中央政界から失脚させられており、そんなリスクを負ってまで破談に持ち込んだ事実を思えば、事実か否かはともかく白河院と璋子の不埒な噂というのは当時からあったのだろう。忠実はこの日記の中で璋子のことを、「奇怪不可思議の女御」と評している。

 そんな白河院と璋子の乱淫な噂を鳥羽帝も知っていたようで、崇徳帝のことを「叔父子」と呼んで冷遇したと伝えられる。実際にどちらの胤であったかは璋子しか知る由もないが、鳥羽帝がそう信じて疑わなかったところを見れば、鳥羽帝には男としての身に覚えがなかったのかもしれない。自身の嫁さんと祖父が密通していたなんて、男としてこの上ない屈辱だと思うが、にもかかわらず白河院、鳥羽帝、璋子の三人の関係は壊れることなく、三人仲良く連れ立って紀伊熊野参詣に赴くことも一度や二度ではなかったとか。現代の感覚では理解しがたい三角関係である。その後も璋子は鳥羽帝との間に五男二女も儲ける。白河院に逆らえなかったという理由もあっただろうが、璋子はよほど魅力的な女性だったのだろう。

 白河院と鳥羽院の二代を手玉に取った魔性の女・待賢門院璋子。ドラマでは、デリカシーの欠片もない天然キャラに描かれているが、男は往々にしてこの種の悪女に弱いものである(もちろん美人であることが大前提だが・・・笑)。これが計算された悪女なら男次第で変わりようもあるが、天然だから余計にタチが悪い。そんな“もののけ”・・・“奇怪不可思議の女御”に危うくハマりかけた男性は、現代でも結構いるのでは・・・? 


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by sakanoueno-kumo | 2012-02-06 20:48 | 平清盛 | Trackback(3) | Comments(2)  

やしきたかじんさんに見る、“東京嫌い”を痛快に思う関西人。

今週、歌手でタレントのやしきたかじんさんが初期の食道がんであることが判明、治療のためにしばらく芸能活動を休止するという発表がありましたね。
やしきたかじんさんといえば、言わずと知れた関西芸能界のドン的存在で、テレビの高視聴率番組を複数かかえる“浪速の視聴率男”の全番組降板にテレビ局は混乱しているようです。
関西以外の地域に住む方々にどれほど知名度があるかはわかりませんが、私たち関西人にとっては、昨年の島田紳助さんの突然の引退に匹敵するほどの衝撃・・・といえば、たかじんさんが関西でどれほどの格のタレントさんであるかがおわかりいただけるかと思います。
ここ2日ほど、関西発のテレビやラジオではこの話題でもちきりですが、東京発のワイドショーなどではほとんど取り上げられていなかったようですね。
どこの地方にもご当地タレントさんというのはいるでしょうが、たかじんさんほど極端な例は珍しいのではないでしょうか。

その理由は、たかじんさんの極端な“東京嫌い”によるものだというのは、関西では周知のところですね。
かつては、引退した上岡龍太郎さんも同じ理由で東京行きを嫌っていましたし、若き日の笑福亭鶴瓶さんも、東京の芸能界は性に合わないといって頑なに関西を動かなかった時期がありましたが、いずれものちに東京進出を果たし、それぞれに確固たる地位を築かれました。
たかじんさんも20年ほど前に一度東京進出したこともあったのですが、その際、東京キー局の番組が利権しがらみのために制約が多いことや、すぐ掌を返す体質や極端に横柄な態度が気に入らず、自分のやり方を否定するプロデューサーやディレクターを殴ったりしたそうで、半年ほどで関西に帰ってきました。
まあ、そもそも彼の東京に対する偏った先入観から、「何かあったらいつでも喧嘩してやる」といった攻撃的な気構えが招いた結果だったように思えますが、それ以後、たかじんさんの“東京嫌い”はさらに筋金入りとなり、今では関西発の彼の番組が東京で放送されることすら拒否する始末で・・・。
実際、彼の現在の人気番組『たかじんのそこまで言って委員会』は日本テレビからゴールデンタイムでの全国ネット化を熱望されたそうで、制作元の大阪読売テレビもこれを望んでいたそうですが、肝心のたかじんさんが「関東には絶対流させない」「関東で放送するくらいならこの番組を辞めさせてもらう」と頑なに拒否し、圧力をかけ、結果、日本テレビ側にネットを断念させたそうです。
東京と大阪ではタレントさんのギャランティーの額が一桁違うなんて話も聞きますし、関西以外の方にしてみれば、何故そこまで頑ななのか理解に苦しむかもしれませんが、関西人はこのたかじんさんのこだわりに呆れることはあっても冷笑する人はほとんどなく、むしろ、そんな彼の言動を痛快に感じる空気さえあります。
それはちょうど、阪神ファンが阪神の勝利よりも巨人の敗戦に快感を覚えるのと同じで・・・。
この空気感は、関西人にしかわからないでしょうね。

関西人(この場合、主に大阪人を指すと思いますが)の東京に対する敵対心は、いつ頃から始まったのでしょう。
古くは、徳川家豊臣家の確執がそのまま江戸対大坂の敵対心を生み、それが400年後の現在にも残っていると分析する声もありますし、実際、当時の大坂の人たちにしてみれば、豊臣家の滅亡によって関西の経済は一気に冷え込んだでしょうから、新政権の徳川幕府をスンナリ受け入れられない空気はあったでしょう。
さらに京都の人たちにとっては、都人としてのプライドもあったでしょうしね。
しかし、平成の現代では東京が日本の中心であることは動かし難い事実で、大阪人が東京を嫌うのはコンプレックス以外の何ものでもないようにも思えます(実際、阪神ファンはアンチ巨人ですが、その逆はあまり聞きませんもんね)。

江戸時代、大坂には藩主がおらず、代官のみが居る幕府の直轄地でした。
一説には、江戸時代中期の大坂の人口は、町人14万人に対して侍900人ほどしかいなかったといわれ、その比率から考えれば、街を侍が歩いている光景など殆どなかったに等しいといっても過言ではないでしょう。
一方江戸は、参勤交代で常に地方から来た侍たちでごった返していました。
つまり、大坂は庶民のまち、江戸は侍(エリート)のまちだったわけです。
「東京は理屈のまち、大阪は情のまち」などとよく言われますが、こうして両町の歴史的成立過程をみても、頷けるような気がします。
大坂のような庶民のまちでは理屈はあまり通用せず、コネがモノを言う。
エリートが集まる江戸のような町では、自然と体面世間体が重視される。
そうして形成されてきた両者の価値観が、21世紀になったとはいえ、そう簡単に理解し合えるとは思えませんね。
ただ、こっち(大阪)があっち(東京)を敵視しているほど、あっちはこっちを意識していないというところに、既に勝負はついている気はしないでもないですけどね。

ちなみに、やしきたかじんという人を知らない関東方面にお住まいの方に簡単に紹介すると、本業は歌手でありながら、若い頃からその話術は一流の芸人さんたちも一目置くレベルで、今では“関西最後の大物司会者”といわれるほどの人物です。
私の高校時代(30年近く前)にはラジオの深夜放送『MBSヤングタウン』でメインパーソナリティを務め、あの明石家さんまさんがそのサブパーソナリティだった頃もあったほどで(当時さんまさんはすでにブラックデビルなどで人気を博していた頃です)、当時のさんまさんのギャグの中には、たかじんさんのネタを盗んだものもたくさんあったほどです。
笑福亭鶴瓶さんとはお互いに食えない時代からの親友で、東京に進出して間もない頃の鶴瓶さんはたかじんさんを自身の“最後の砦”だと言っていました(自身が芸能界でいよいよ沈みかけたときには、たかじんと一緒に仕事をしたいという意味)。
その他、桂三枝さん、上岡龍太郎さん、島田紳助さんと、超一流の芸人さんたちが揃って一目置く存在で、単なる地方タレントのレベルではないということがわかっていただけるでしょうか。
まあ、素人の私が必死になって説明することではないんですねどね(笑)。
つまり、東京に“行けない”のではなく“行かない”んだということが言いたいわけで・・・。

ちなみに、そんなやしきたかじんさんの歌手としての最大のヒット曲が『東京』というタイトルの楽曲だというのが、なんとも滑稽な話ですね(笑)。



ご快復を心よりお祈りいたします。
ま、早期発見だそうですから、大丈夫でしょう!


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http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120202-00000091-spnannex-ent

by sakanoueno-kumo | 2012-02-03 17:45 | 芸能 | Trackback | Comments(31)