<   2012年 03月 ( 9 )   > この月の画像一覧

 

AKB48の前田敦子さんの脱退表明に思う。

AKB48前田敦子さんがグループを脱退する意向を発表したそうですね。
中年オヤジの私も、やっと最近になって主要メンバー5〜6人の顔と名前が一致するようになりましたが、ほんの半年ほど前まではこの前田敦子さんしかわかりませんでしたから、やはりAKBの顔は彼女なんでしょうね。
我が家の小4の娘が彼女の大ファンで、今回の発表にショックを受けているようです(苦笑)。
私は特に興味もないですし、そもそも私は、「総選挙」と言われる彼女たちの序列選びのイベント自体、秋元康氏のシナリオどおりに構成された出来レースだと思っていますから(だいたい、選挙といっても公正に選挙管理委員会を設けて行っているわけではないし、結果なんて主催者の意のままにどうにでも操作できるわけで)、今回の前田さんの突然の脱退表明についても、どこまで本当なんだか疑問に思っています。
まあ、アイドルになりたいなんて思うような性格の女の子をあれだけたくさん集めて、その中で序列選びの人気投票なんて仕組みを作ったわけですから、グループ内で摩擦が起きないはずがないと思いますし、そう考えれば、そのトップを走る前田さんの脱退は当然の結果で、これに関しては秋元氏のシナリオではないのかもしれません。
だとすれば、これは「卒業」ではなく「脱退」だと思いますけどね(AKBの台頭によって影が薄くなってしまったモーニング娘。も、メンバーの脱退が相次いだことから、負のイメージを連想させないために途中から前向きな意味合いの「卒業」という言葉を使い始めたと聞きます)。
これをきっかけにモーニング娘。のように「卒業」が慣例化するかもしれませんが、秋元氏のことですから、それをまたプラスの要素に持っていくのでしょう。

上述したとおり、私のようなオジサンでも前田敦子さんだけは以前から知っていたのですが、彼女が一番可愛いと思っていたかといえば、そういうわけでもないんですね。
でも、印象に残りやすい娘だとは思います。
ただ単に可愛さだけでいえば、彼女と人気を二分する大島優子さんのほうがはるかに上だと思うのですが、印象に残りやすいかどうかでいえば、前田敦子さんの足元にも及ばないような・・・(実際私は、大島優子さんのことをなかなか覚えられませんでした。何度も「この娘、可愛いなあ!なんていう名前?」と聞いて、娘に呆れられましたし(苦笑)。)。
印象に残りやすいかどうかは、タレント性の最も重要な要素だろうと思いますし、そのあたりを見抜いた上で、彼女をAKBの顔に抜擢していたとすれば、さすがは秋元氏の眼力と言わざるを得ません。
脱退後の彼女の活躍を期待したいですね。
ちなみに、私個人的には篠田麻里子さんが好みです(笑)。

余談ですが、中高年になると、若いアイドルタレントさんたちがみんな同じ顔に見えるという声をよく耳にしますが、それは、その対象からそれだけ自分がかけ離れているから、という話を聞いたことがあります。
例えていえば、私たち日本人が黒人を見たとき、みんな同じ顔に見えてしまいますよね。
あれは、自分たちが黒人さんとかけ離れているからだそうで、同じアジア人の見分けが付くのは、それだけ自分たちに近いからだそうです。
幼い子供から見ればお年寄りはみんな同じ顔に見えるし、その逆も然り。
つまり、若いアイドルタレントさんたちの見分けがつかなくなってきたのは、それだけ年食ってきて、アイドルたちとはかけ離れてしまったことの表れだそうです。
みなさんはどうですか?
私?・・・私はもちろん、ちゃんと見分けがついてますよ!(汗)


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by sakanoueno-kumo | 2012-03-29 22:52 | 芸能 | Trackback | Comments(2)  

平清盛 第12話「宿命の再会」

 保延5年(1139年)以降に最初の妻と死別した平清盛は、久安元年(1145年)頃に後妻を迎えた。名は時子。後年、壇の浦の戦いで平家一門が源氏軍に敗北を喫したとき、自らの孫である幼帝・安徳天皇(第81代天皇)を抱いて海中に身を投じたことで有名な、あの女性である。このとき、清盛は27~28歳ごろ。時子の生年は諸説あるので正確なことはわからないが、大治元年(1126年)という説にしたがえば、19~20歳頃のことだった。

 時子の父は平時信という名の中級官僚で、清盛らと同じく桓武平氏である。ただ、清盛と時子を血縁関係とするにはかなり遠い。そもそも、桓武平氏には様々な系統があり、なかでも有力だったのは高棟王(第50代・桓武天皇の孫)の子孫である高棟流の平氏と、高望王(桓武天皇の曾孫)の子孫である伊勢平氏の2系統である。このうち、伊勢平氏は伊勢を本拠として武士の道を歩み、清盛の祖父・平正盛の時代に中央に進出、息子の平忠盛、そしてその息子の清盛の三代の時代に全盛期を迎える。一方、高棟流の平氏は京に留まり、公家の道を歩む。その高棟流の平氏の末裔が時子の実家である。清盛と時子は共に桓武平氏の一族ではあったが、系譜の面ではかなり異なり、遠戚ともいえない間柄だった。

 清盛ら伊勢平氏を武家平氏、時子の実家の高棟流平氏を公家平氏と呼んだりもする。公家平氏は武家平氏よりも家格でいえば上。若き日の最初の妻のときとは違って、野心を持った清盛にとって多分に政略的な意図の縁談だったに違いない。少なくとも、「もうそなたで良い!」なんて無礼極まりない求婚ではなかったはずだと思われる(笑)。

 清盛の前半生のライバルとなる源義朝は、父・源為義のもとを少年期に離れ、相模鎌倉を拠点として東国での勢力伸長を目指していた。一時は勢力伸長を急ぐあまりに、坂東南部の大庭御厨などを侵略して訴えられたりもしたが、徐々に東国の有力な在地豪族を傘下に収め、相模国一帯に強い基盤を作りつつあった。父と違ってかなりのヤリ手だったようだ。

 義朝のヤリ手ぶりは武勇のみならず、艶福家としても名高い。義朝の子女は少なくとも息子が9人、娘が2人いたといわれているが、それらの生母は、長男の源義平(悪源太)が橋本の遊女、次男の源朝長修理大夫範兼の娘(一説には大膳大夫則兼の娘)、三男の源頼朝、五男の源希義(土佐冠者)、長女が藤原季範の娘で正室となる由良御前、六男の源範頼(蒲冠者)が遠江池田宿の遊女、そして七男の阿野全成(醍醐悪禅師)、八男の義円(円成)、九男の源義経が有名な常盤御前である。この他にも、宇都宮朝綱の娘・八田局との間に、八田知家という男子をもうけたという伝承もあり、38歳没という義朝の短い生涯から思えば、大変な絶倫ぶりだ。ドラマでのワイルドなプレイボーイキャラも、結構、的を射ているかもしれない。
 「どうだ? そなたも俺の子を産んでみるか?」
 こんなとんでもない口説き文句で女を落としていたかどうかはわからないが(笑)。

 この時代、ひとかどの武将であれば一夫多妻は当然で、清盛の場合も例外ではなかった。しかし、良質の史料として確認できるのは、既述した正室と継室以外には厳島神社の巫女だったという妾が一人だけ。義朝の側室だった常盤御前を手篭めにしたという逸話は有名だが、それを裏付ける史料は存在せず、近年では懐疑的な意見が主流のようだ。また、『平家物語』に出てくる白拍子の祇王仏御前についても、同物語自体が事実を曲げてまでも清盛を悪人に仕立てようとする性質の物語であるため、どこまで信用できるかあやしいものである。

 ドラマでは宿命のライバルとして描かれている平清盛と源義朝。女にモテたのは、どうやら義朝の方だったようだ。


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by sakanoueno-kumo | 2012-03-27 22:07 | 平清盛 | Trackback(2) | Comments(0)  

武士の起源

 武士はいつ頃、どのようにして歴史に登場してきたのだろうか。従来の説としては、平安時代中期、地方の豪族有力農民の中から領主が生まれ、自分たちの土地を守るために武装して農民を支配したのが武士の起源だと考えられてきた。その中から武士団が形成され、さらに身分の高い桓武平氏清和源氏などに組織されて、やがて平安時代末期の平清盛源頼朝の出現によって、ついに貴族から政権を奪うに至る。武装した農民が徐々に力をつけて、古い貴族政権を倒して新しい武家政権を創りだしたというわけだ。たしか、私の中学・高校時代の日本史で習った武士の起源は、そんな感じだったと思う。

 しかし、在地領主が全て武士となったわけでなないし、この時代、寺院民衆も自分の身を自分で守るために武装するのは当たり前で、農民だけが武力を持とうとしたわけではなかった。むしろ、武士団の棟梁となった平氏や源氏たちのほとんどは中下級の貴族出身で、その源平の武士たちに与した地方の武士たちも、大なり小なり都との繋がりを持って朝廷から官位を得ていた者が少なくなかった。そこで、従来の「在地領主起源説」に対して、近年では武士はむしろ京から起こったとする「職能武士起源説」が主流となりつつあるらしい。この説によれば、武士は朝廷を守る「衛府」という組織から発展したもので、10世紀以降、都の軍事貴族に継承されて武士職ができたというのである。この説における武士観は、朝廷と結びついて農民に君臨する支配者としての側面が強く、農民たちの中のリーダーが自衛のために武力を持ったという従来の武士観とは、ずいぶん異なる。今年の大河ドラマ『平清盛』の中で、武士たちの存在を「王家の犬」と表現していることが話題になっているが、まさしくこの説でいえば、武士は朝廷の用心棒的存在といっていいだろう。

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 武士が武士として認知されるようになったのは、10世紀中頃に起きた平将門藤原純友による「承平・天慶の乱」からだといわれている。この頃、京の貴族社会では家々で世襲する「家業」が定着しはじめていたようで、「承平・天慶の乱」の鎮圧に貢献した者たちやその子孫が武士として認定され、戦闘を家業とする「武家」が誕生したというわけだ。つまり、武芸という職能を持った戦闘の専門職として誕生したのが武士の始まりだったというのである。実際、平清盛の遠祖・平貞盛も、「承平・天慶の乱」の際に平将門の追討に貢献して朝廷から官位を叙せられ、貴族社会への足がかりを得るとともに、その名声を利用して在地支配を強めた。やがて、それを受け継いだ子孫たちが「武家の棟梁」となり、軍事貴族を組織して武士団を形成していったのである。

 また、源平合戦で勝利をおさめた源頼朝の手よって成立した鎌倉幕府についても、武士階級が古い貴族政権を倒して打ち立てたわが国初の封建国家という従来の解釈から、公家や寺社などの諸勢力とともに中世の国家を形作っていた権門のひとつだった、という考え方(権門体制論)が主流となりつつあるらしい。この論によれば、鎌倉幕府は国家の軍事および警察権の担当組織であり、国政全体を掌握するまでには至らなかったというのでる。政権はあくまで朝廷にあって、幕府は公家政権下の軍事権門にすぎなかった・・・と。これまでの武士と幕府を中心とした歴史観は、大きく変わりつつあるようである。


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by sakanoueno-kumo | 2012-03-23 21:32 | 歴史考察 | Trackback(2) | Comments(4)  

平清盛 第11話「もののけの涙」

 平清盛の最初の妻については、高階基章という廷臣の娘だったということと、長男・平重盛、次男・平基盛の二人の男子を産んだということ以外は何もわかっていない。したがって今話の彼女に関するストーリーは全て創作である。重盛が生まれたのは保延4年(1138年)、基盛が生まれたのは保延5年(1139年)とされており、清盛の2番目の妻となる時子が三男・平宗盛を生むのが8年後の久安3年(1147年)のことなので、おそらくはこの間に何らかの理由で死別したものと思われる。清盛と最初の妻との結婚は身分違いの“格差婚”で、出自からいえば2番目の妻である時子の方が上であることから、名前もわからない身分違いの最初の妻を「正室」と見るか否かは歴史家の中でも意見がわかれているらしい。ただ、清盛があくまで重盛を平家の後継者と考えていた様子から見れば、最初の妻を「正室」、時子を「継室」と考えるのが正しいのかもしれない。いずれにせよ、最初の妻と清盛との夫婦生活は、おそらく7~8年で終わったようである。

 永治元年(1141年)、朝廷では崇徳天皇(第75代天皇)が異母弟の体仁親王に譲位。わずか3歳の近衛天皇(第75代天皇)が即位した。崇徳帝が近衛帝への譲位を承諾したのは、近衛帝が自身の「皇太子」の立場で即位すると考えていたからだった。たとえ弟であっても皇太子に位を譲るのだから、崇徳帝は「父」の資格をもって院政を行えると期待していたのである。しかし、譲位の内容を記した宣命には「皇太弟」と書かれており、父権はあくまで鳥羽法皇(第74代天皇)のままだった。騙されたと知った崇徳帝は、鳥羽院を深く恨んだという。天皇の兄では院政は行えないのである。

 ここで鳥羽院と崇徳院の関係を今一度おさらいしておくと、崇徳院は鳥羽院と待賢門院璋子との間に長男として生まれながら、鳥羽院は祖父の白河法皇(第72代天皇)と璋子が密通して出来たのが崇徳院だと信じて疑わず、鳥羽院は終生、崇徳院のことを「叔父子」と呼んで忌み嫌ったと伝えられる。これがもし事実ならば、鳥羽院の白河院に対する恨みは相当なものだっただろう。崇徳帝を排して弟の近衛帝を即位させたのも、白河院の定めた「直系」を排して、自身が決めた「直系」に移行し、鳥羽院の思いどおりの院政が行えるようにしたばかりか、自身の死後も崇徳院に院政の権限を与えないためという意図もあったと思われる。白河院の命によって、わずか5歳の顕仁親王(崇徳院)に天皇の座を譲って以来、鳥羽院はずっとこの日を待っていたのかもしれない。鳥羽院の白河院に対する恨みはわからなくはないものの、崇徳院にしてみればすべて生まれる前の出来事。にもかかわらず、父からは「叔父子」と呼ばれて冷遇され、白河院への恨みをはらす対象となってしまった崇徳院は、少々気の毒な気がしないでもない。すべての悪の元凶は白河院にあった。「もののけ」と言われても仕方がないところである。

 鳥羽院の寵愛を受け、近衛帝の生母であることを背景に、皇后・美福門院得子の勢力は待賢門院璋子を日に日に圧倒していった。ドラマにあった、璋子に仕えていた判官代・源盛行とその妻・津守嶋子が得子を呪詛したという疑いで土佐国に流されたという話は史実で、近衛帝即位の直後の出来事だった。白河院の死後、凋落の一途を辿っていた璋子が、さらに崇徳帝の退位によって国母の座も奪われ、その恨みの矛先を得子に向けて呪詛の指示を出したといわれているが、一方で、これを機に待賢門院璋子とその一派を一掃するために、関白の藤原忠通と美福門院得子がしかけた謀略だったのではないかという見方もある。いずれにせよ、この約1ヶ月後に待賢門院璋子は出家した。おそらく、この呪詛事件に関連しての出家だったであろうことは間違いなさそうである。かつて鳥羽院から「もののけ」と罵られた待賢門院璋子。このとき「もののけ」の目に涙があったかどうかは知る由もないが・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2012-03-21 00:32 | 平清盛 | Trackback(3) | Comments(2)  

院政と上皇について。

 今年の大河ドラマの主役・平清盛が生きた時代、わが国の政治は「院政」によって動かされていた。院政とは、退位した天皇である上皇(太上天皇の略。出家すると法皇になる)が、父権に基づき天皇の上にたって、上皇の家政機関である院庁で行う政治のことである。現代でも、総理大臣の職を退いてなお影響力を行使し続けることを「院政をしく」などというが、それはこの歴史的な政治形態からきたものである。

e0158128_19195149.jpg 清盛が生まれる約30年前までは、摂関家と呼ばれた公家・藤原氏が国政の実権を掌握していた。摂関家とは天皇の代理である摂政、天皇の補佐役である関白とを世襲する家柄のことで、摂関家の繰り広げる政治のことを摂関政治と呼び、その時代を政治史の上では摂関時代と呼ぶ。そんな中、摂関政治に疑問を持った白河法皇(第72代天皇)が、応徳3年(1086年)にまだ8歳の善仁親王(堀河天皇)に譲位したことが、院政の始まりとされる(白河院の父である後三条上皇(第71代天皇)が最初という説もある)。その後、鳥羽法皇(第74代天皇)、後白河法皇(第77代天皇)、後鳥羽法皇(第82代天皇)の政権がその最盛期となった。

 院政は「治天の君」と呼ばれる天皇家の家長が、現役の天皇の父または祖父の立場から政治を主導するものだが、上皇であれば誰でも院政が行えたわけではない。たとえば、鳥羽院の第一皇子である崇徳天皇(第75代天皇)が、永治元年(1141年)に異母弟の体仁親王(近衛天皇)に譲位して上皇になった後も、実権は「治天の君」である鳥羽院が握り続けていたし、承久3年(1221年)に承久の乱が起きたときは、後鳥羽法皇のほかに土御門上皇(第83代天皇)と順徳上皇(第84代天皇)という二人の上皇がいたという例もある。崇徳院の場合、近衛天皇への譲位を承諾したのは、近衛天皇が自身の「皇太子」の立場で即位すると考えていたからだった。たとえ弟であっても、皇太子に位を譲るのだから、崇徳院は「父」の資格をもって院政を行えると期待していたのである。しかし、譲位の内容を記した宣命には「皇太弟」と書かれており、父権はあくまで鳥羽院のままだった。騙されたと知った崇徳院は、鳥羽院を深く恨んだという。天皇の兄では院政は行えないのである。

 そんな強い政治力を有していた上皇たちも、独自の軍事力は持っていなかった。このため、当初は公家の身辺警護などに当たっていた武士のうち、優秀な者が上皇の身辺警護に当たる「北面の武士」に登用される。さらに、盗賊海賊が暗躍した際、大寺院の僧兵たちが強訴を企てた際などに、院は武士を動員さするようになる。そんな院政下で頭角を表したのが、伊勢平氏の平正盛平忠盛平清盛の三代だった。また、院政は「院近臣」という新たな政治勢力を生み出した。富裕な受領や乳母の夫や子、学者や実務官僚など、家柄よりも経済力や学識、院との個人的な繋がりによって取り立てられた人たちである。保元の乱後に実権を握った信西は後白河院の乳母の夫で、出家前は下級貴族だった。また、平治の乱で滅亡した藤原信頼は後白河院の男色相手であり、鹿ケ谷事件で島流しになった平康頼は後白河院の今様の弟子だった。武士も学者も、院近臣としての立場を足がかりにして出世したのである。

 治承3年(1179年)の政変によって政権を掌握した平清盛が政治体制として利用したのも院政だった。孫である安徳天皇(第81代天皇)を即位させた清盛は、外祖父の立場から天下に号令するのではなく、娘婿の高倉上皇(第80代天皇)による院政をとおして清盛の意志を国政に反映させた。その高倉院が崩御したのち、清盛は後白河院に院政の復活を要請するが、この清盛の行動からも、天皇の外祖父という立場だけでは政権運営が難しく、院政という政治形態をいかに必要としていたかが伺える。この時代、天皇という位よりもはるかに上皇の位が上だった。

 この、白河院、鳥羽院、後白河院の三上皇(もしくは後鳥羽院も入れた四上皇)の時代を政治史の面から院政時代と呼ぶ。だが、これ以後院政制度がなくなったわけではなく、鎌倉時代以降は政治史が幕府中心となるため目立たなくなるだけで、朝廷ではこれ以後も連綿と院政が受け継がれ、幕末の光格上皇(第119代天皇・明治天皇の曽祖父)まで続く。現代では光格院が最後の上皇で、明治維新後の憲法では天皇が生前に退位することがなくなった。だが、ご高齢で病の体をおしてまで公務に励まれる今上天皇のお姿を見ていると、先ごろ秋篠宮親王が言及しておられたように、「天皇定年制」を真剣に考える必要があるように思える。天皇は一定の年齢に達すると皇太子に譲位して上皇となる。実に理にかなった制度を、皇室は1000年以上も前から確立していた。昔と違って人間の寿命が延びた今だからこそ必要な制度といえるのではないだろうか。現行のわが国の制度では、それは「院政」ならぬ、ただの「院制」の復活に過ぎないのだから。


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by sakanoueno-kumo | 2012-03-16 18:03 | 歴史考察 | Trackback(1) | Comments(2)  

平清盛 第10話「義清散る」

 のちに歌人・西行となる佐藤義清平清盛と同じ元永元年(1118年)生まれ。祖先は平将門の乱で活躍した藤原秀郷(俵藤太)という武門の家で、代々朝廷に仕え、紀伊田仲荘の預所を務める裕福な家に義清は生まれた。幼い頃に死別した父の後を継いで18歳で兵衛尉(ひょうえのじょう、皇室の警護兵)の官職を得た義清は、清盛と同時期に鳥羽上皇(第74代天皇)の「北面の武士」に任命された。武芸は弓や乗馬が得意で、流鏑馬の達人だったという。また、公家社会の社交スポーツである蹴鞠の名手だったといい、その傍ら、和歌を能くし、有職故実に明るい教養人として知られた。さらに容姿端麗だったというから非の打ち所がない。金持ちのボンボンでルックスもよく、スポーツ万能で教養があって芸術的センスにも長けていたという、同じ男としては絶対合コンに同席したくない実に嫌味な男だったという。

 ところが、そんな義清が保延6年(1140年)、突如として兵衛尉の官職を捨て、頭を丸めて出家してしまった。23歳という若さであったことや、官職を得てから5年しか経っていなかったことなどから、人々はこの出来事を大変驚いたようで、時の内大臣・藤原頼長の日記にも驚きの様子が記されている。同い年で同僚の清盛も、義清の思い切った行動にはきっと驚愕したことだろう。

 義清が出家の道を選んだ理由については、失恋が原因だった、友の急死により人生の無常を悟った、公家社会における政争に嫌気がさした、和歌や故実の研究・創作に没頭しようとしたなど、様々な説が取り沙汰されてきたが、どれも決定的なものはない。そんな中、最初の失恋説が物語にするにはもっとも適していたようで、説話集などにこの説を題材とした話が複数収められており、後年には謡曲落語の題材にもなった。今も昔も、下世話な色恋話のワイドショーネタというのは、人々の興味をそそる格好の題材のようである。そういえば、清盛や西行とほぼ同じ時代を生きた文覚(遠藤盛遠)が出家したのも、邪恋の末に誤って不倫相手の人妻を殺してしまったのが原因だった。ともあれ、恋に悩んだ末に出家する武士がいたのは事実のようだ。

 義清の失恋説の出典は、『源平盛衰記』の中に記された一文からきたものである。
「さても西行発心のおこりを尋ぬれば、源は恋故とぞ承る。申すも畏れある上臈女房を思い懸けまいらせたりけるを、あこぎが浦ぞと云ふ仰せを蒙りて思い切り、官位は春の夜、見果てぬ夢と思いなし、楽しみ栄えは秋の月西へとなずらへて、有為の世の契りを逃れつつ、無為の道にぞ入りにける。」
 義清はある高貴な女性に恋をして一夜を共にしたが、義清が別れ際に今一度と会いたいと尋ねると、その女性は「阿漕の浦ぞ」といって去っていった。「阿漕の浦」とは伊勢の海のことで、そこでは神に誓約して年に一度しか網を引いて漁をすること許されておらず、この「阿漕の浦ぞ」という返事で恋に破れたことを悟った義清は、一夜の想いを胸に頭を丸めた・・・と。その高貴な女性、すなわち「申すも畏れある上臈女房」というのが、鳥羽院の中宮であり崇徳上皇(第75代天皇)と後白河法皇(第77代天皇)の生母である待賢門院璋子だというのである。もちろん、全て憶測の域をでない説ではあるものの、実によくできた話ではある。このとき、佐藤義清23歳。待賢門院璋子40歳。もし、この話が本当のことならば、璋子は大変な美貌の持ち主だったに違いない。熟女の魅力に骨抜きにされて、地位も名声も捨ててしまった若きエリート青年。現代でもありそうな話だ。

 あと、出家の際に義清が娘を蹴り飛ばすシーンがあったが、この話は有名な説話で、出典は『西行物語絵巻』によるものである。
「年ごろさりがたく、いとほしかりける女子、生年四歳になるが、縁に出でむかひて、父御前の来たれるがうれしといひて袖に取りつきたるを、いとほしさたぐひなく、目もくれて覚えけれども、これこそ煩悩の絆よと思ひとり、縁より下へ蹴落したりければ・・・」
 縁側で無邪気に父の袂にまとわりついてきた4歳になるわが娘をみて、心から愛しいと思いながらも、これこそ俗世への煩悩であると考えた義清は、娘を縁側から蹴り落としたという。にわかに信じがたい話で、これこそ、おそらく後世に作られた伝説だろう。義清の決意の強さを表したものだと言われているそうだが、現代に生きる私たちからすれば狂ったとしか思えず、決意の強さとしては伝わりづらい。視聴者からクレームがありそうな幼児虐待エピソードをあえて採用した製作者のこのドラマに賭ける決意の強さは伝わってくるが・・・。おそらく、この逸話を知らなかった視聴者は、義清の突然の奇行にドン引きしたのでは・・・?

 世を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人をぞ捨つるとはいふ
 (出家した人は悟りや救いを求めており本当に世を捨てたとは言えない。出家しない人こそ自分を捨てているのだ)

 この歌は『詞歌和歌集』に詠み人知らずとして収録された歌だが、出家時の心境を詠った義清こと西行の歌だといわれている。理由は定かではないが、出家する前のほうが世捨て人の心境だったといいたいようだ。しかし考えようによっては、このように詠われた妻と娘は浮かばれない話だ。老年になってから出家するならともかく、妻子がありながら自分のことだけを考えて出家した義清は、少々身勝手すぎる気がしないでもない。ましてや、それが邪恋に破れたためだったとしたらひどい話である。佐藤義清こと西行法師。金持ちのボンボンでルックスもよく、スポーツ万能で教養があって芸術的センスにも長けていたものの、その性格は良く言えば繊細、悪く言えば心の弱い男だったのかもしれない。


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by sakanoueno-kumo | 2012-03-13 15:26 | 平清盛 | Trackback(4) | Comments(0)  

東日本大震災から1年、いま思うこと。

1000年に一度の大災害といわれ、2万人近くの死者・行方不明者を出した東日本大震災から間もなく1年を迎えようとしています。
改めて、震災により亡くなられた方々のご冥福を深くお祈り申し上げますとともに、被災された皆様、そのご家族の方々に、心よりお見舞い申し上げます。

震災1周年ウイークの今週は、各テレビ局とも連日のように震災を振り返る特集番組を放送しているようです。
おそらく、3月11日の明日は朝から晩までその話題になるのでしょうね。
まあ、ひとつの節目として振り返るのは悪いことではないと思いますが、まだまだ震災は現在進行形といってもよく、もっと普段から報道すべきなんじゃないかとも思ったりします(特に、連日のようにくだらない女性タレントの占い師洗脳ネタをトップニュースに持ってくる情報番組には、正直いって辟易しています)。
17年前の阪神・淡路大震災のときも、地震発生から2ヵ月余りが過ぎたとき、東京であのオウム真理教による「地下鉄サリン事件」が起こったため、世間の関心は一斉にそちらに移り、マスコミからも震災の話題がフェードアウトしていきました。
「地下鉄サリン事件」の場合は重大な事件でしたから、報道の目がそちらに向くのはやむを得なかったにしても、それによって被災地以外に暮らす人の「阪神」への感心が薄れていったのも事実です。
「人の噂も七十五日」とは、よく言ったものだと思いました。
昨年の東日本大震災の場合は、原発問題もあって被災地以外の人にとっても他人ごとではなく、阪神のときほど極端にフェードアウトすることはなかったものの、それでもやはり、報道が減れば関心は少しずつ薄れていくでしょう。
1周年ウイークが過ぎても、報道は変わらず続けて欲しいですね。

それにしても、久しぶりに津波の映像をじっくり見ましたが、改めてその恐ろしさを実感しました。
2004年に起きたスマトラ沖大地震のときの津波映像も衝撃的でしたが、東日本大震災で撮影された津波映像は学術的にも貴重な映像が多かったそうで、今後の津波研究の資料として大いに役に立つと期待されていると聞きます。
たしかに、あのCG映画のような非現実的な光景はそう簡単に撮影できるものではなく、この資料をもとに今後の防災計画津波予測に大いに役立てて欲しいとは思いますが、しかし、私は昨年の地震発生当初から、この映像を見て複雑な思いがありました。
というのも、あの映像の大半は被災者が撮影したものですよね。
つまり、あれだけたくさんの映像が残っていることから察するに、撮影していて逃げ遅れてしまった人も大勢いたのではないかと・・・。
残されている映像のなかには、かなり際どい映像も多々見受けられますからね。
たしかにあの映像のおかげで、私たちは被災地で何が起こっていたかを知ることができたのですが、撮影していて逃げ遅れたら何の意味もありません。
生命あってのことですからね。

という私も、実は17年前の阪神・淡路大震災の発生時、まず持ちだしたのはカメラでした(当時私はカメラが趣味だったことと、子どもが生まれたばかりで普段からカメラを持ち歩く習慣があったので)。
しかし結局、被災地を撮影したのは地震発生から1ヵ月が過ぎてからでした。
今から思えば、大変貴重な光景の中に毎日身を置いていたのですが、とりあえずは家族も住まいも無事だった私が、被災地に向けてファインダーを覗くのは何だか不謹慎に思えたからです。
当時は携帯電話を持っている人も珍しかったですし、持っていてもカメラなど付いていませんでしたから、プロのカメラマンでもない限りなかなかカメラを持ち歩いている人は珍しかったですからね。
今は、誰でもカメラ付の携帯電話を持ち歩いていますし、ムービーカメラもコンパクトになって各家庭に当たり前のようにある時代。
1億総カメラマンといっても過言ではないでしょう。
それゆえに、逃げ遅れて失われた生命がたくさんあったような気がしてなりません。
テレビは、被災者が撮影した映像を当たり前のように放送していますが、その前に、災害発生時はカメラを捨てて、まず逃げることを優先して欲しいと呼びかけるべきなんじゃないでしょうか。

さて、明日で地震発生から1年を迎える被災地ですが、1年というと、「阪神」のときの例でいえば、被災者の中にも格差が生じ始めた時期でもあります。
震災発生直後は、右を向いても左を向いても皆、大なり小なり不幸を背負ってましたから、被災者全員が仲間で、励まし合っていました。
しかし、1年も経つと、自力で再建を目指す力のある人、再建の目処は立たずとも前向きに境遇と向きあう人、被災地を離れる人、どうしても復興の波に乗れない人と、否応無しにも格差が生じ始めました。
そんな中、数カ月前までは仲間意識で励まし合っていた被災者の方々の中も、少しずつ温度差が見え始めます。
残酷ですが、同じ被災者同士でも、「いつまで震災のせいにしてるんだ」という空気が漂い始めたのが1年ほど過ぎた頃でした。
「東北」の場合は、「阪神」と比べて復興は遅々として進んでいないようで、今なお30万人以上の方が避難生活を余儀なくされていると聞きますから、そういった温度差はまだ目立ってはいないかもしれませんが、遠からずのような気がします。
よく、“心のケア”という言葉を耳にしますが、これからはそういった格差によって生じるメンタル面に気を配っていく必要があるでしょう。

いろんな意味で、まだまだ現在進行形の東日本大震災。
明日の14時46分には黙祷し、そして1年の節目が過ぎても、まだまだ被災地から目を逸らさずにいたいと思います。
そして1日も早く、過去形で語れる日が訪れることを願ってやみません。


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特集/3.11東日本大震災から1年…いま思うこと

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120310-00000082-mai-soci
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by sakanoueno-kumo | 2012-03-10 23:13 | 時事問題 | Trackback | Comments(2)  

平清盛 第9話「ふたりのはみだし者」

 このドラマの中で頻繁に登場する双六遊びのシーン。現代の私たちは双六というと、家族ぐるみで楽しむ和やかな盤上遊戯というイメージだが、平安時代における双六は、を用いる博打で、射幸心を著しくくすぐる危険な遊戯だった。このため、ときの為政者は再三再四、双六禁止令を出したようだが、なかなか徹底されることはなかったという。今の世の中でも、どれだけ不況の中でもパチンコ屋の売上は落ちることはないと聞くが、博打の麻薬性というのは、いつの時代も変わらないらしい。『平家物語』によると、白河法皇(第72代天皇)は、自分の思いどおりにならないものとして「鴨川の水、双六の賽、山法師」の3つをあげて嘆いており(天下三不如意)、どうやら白河院も双六に熱中していたようである。そしてドラマ中、双六に負けて身ぐるみを剥がれていたのが、その白河院の曾孫であり、平清盛の後半生に深く関わってくることになる、雅仁親王ことのちの後白河法皇(第77代天皇)である。

 後白河法皇は鳥羽法皇(第74代天皇)の第四皇子として大治2年(1127年)にこの世に生を受けた。元永元年(1118年)生まれの清盛よりも9歳年下ということになる。生母はあの天然悪女系キャラの中宮・璋子(待賢門院)。鳥羽院の第一皇子である顕仁親王は言うまでもなくのちの崇徳上皇(第75代天皇)だが、崇徳院は鳥羽院の祖父である白河院が璋子と密通して生まれた子だといわれ、その醜聞を信じて疑わなかった鳥羽院は崇徳院を「叔父子」と呼んで忌み嫌っていたと伝えられる(参照:第5話)。その後、鳥羽院と璋子の間には、次々に皇子が生まれるが、第二皇子通仁親王は生後まもなく失明したそうで、しかも病弱だったらしく6歳で夭折したという。また、第三皇子君仁親王は足が不自由な身体障害児として生まれ、耳も聞こえなかったらしい。さらに、崇徳院になかなか子供が出来なかったため、この時点では顕仁親王にも帝位に就く可能性は少なからずあった。しかし、保延5年(1139年)、鳥羽院と皇后の得子(美福門院)との間に体仁親王(のちの第76代・近衛天皇)が生まれたことにより、その可能性はほぼなくなったと誰もが思った。そのことは、当時12歳だった顕仁親王こと後白河院自身が一番そう思っていたことだろう。

 事実、親王時代の後白河院は政治的な問題には一切感心を示さず、当時流行していた歌謡・今様に耽溺する日々を送っていたという。今でいえば、名家の御曹司に生まれながらロックミュージシャンを目指して音楽にうつつをぬかすドラ息子、といったところだろうか。後白河院の今様好きは度を越していたようで、後年、今様などの当時の歌謡を集めた全二十巻の『梁塵秘抄』という歌謡集を編纂した。このドラマのテーマ曲ともなっている「遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん」という歌も、『梁塵秘抄』に収録された歌のひとつである。仮に顕仁親王が後白河天皇に即位していなければ、この『梁塵秘抄』を編纂した皇子として、芸能国文学の分野のみに名を残していたに違いない。

 しかし、誰もが天皇に即位することはないと思っていた顕仁親王は、様々な政治的思惑によって再び表舞台へ浮上することとなり、なるはずのなかった天皇の座に就くこととなる。兄である崇徳院は後白河院のことを「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と酷評しており、また、後白河院の天皇即位を後押しした乳父の信西(藤原通憲)でさえ、「和漢の間 比類少なき暗主なり」と、こき下ろしている。たしかに、遊び人だったといわれる一面においてはそうだったかもしれないが、こののち天皇、上皇、法皇として三十数年もの長きに渡って君臨し続けたのも事実で、後世にその評価は分かれるところである。本ドラマでの後白河院はどう描かれるか・・・。今後の展開を楽しみにしたい。


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by sakanoueno-kumo | 2012-03-05 17:04 | 平清盛 | Trackback(4) | Comments(0)  

朝ドラ『カーネーション』に見る、“叱って伸ばす”子育て法。

恥ずかしながら、NHKの連続テレビ小説『カーネーション』にハマっています。
私が朝ドラにハマったのは、あのマナカナちゃんの『ふたりっ子』以来、十数年ぶりのことです。
『カーネーション』の舞台は大阪府岸和田市で、この辺りで使われている泉州弁(岸和田弁)は関西弁の中でも特に乱暴で柄の悪い言葉とされていることから、「朝ドラ史上最もきたない言葉づかいの作品」と言われているようですね。
考えてみれば、『ふたりっ子』の舞台も大阪は西成区という、柄の悪さでは今作品に勝るとも劣らない作品で、どうやら神戸人の私にとっては、この言葉のきたなさがどうにも心地よく、視聴意欲をそそる理由のようです(神戸は関西の中でも上品でオシャレな町というイメージがあるかもしれませんが、もともと播州弁の流れをくむ神戸弁は、岸和田弁河内弁と並んで関西弁の中でも“きたない言葉”と言われています)。
e0158128_9365021.jpg「ほんまけ?」
「わりゃ、なめとんか!」
「ウチが承知せえへんど!」

いや〜、とにかく朝から威勢がよくて気持ちがいい(笑)。
それに、関西人が聞いても違和感がまったくないんですよね。
関西出身の役者さんを多く起用しているにしても、岸和田弁をこれほど見事に使いこなすのは、さぞや難儀なことだったでしょう(その昔、映画『極道の妻たち』の中での女優さんのとって付けたような関西弁は、関西人にとっては聞くに耐えないものがありましたからねぇ・・笑)。
役者さんの技量はもとより、方言指導をされている方の手腕が感じられます。

さて、ドラマは世界的デザイナーとして活躍するヒロコジュンコミチコ“コシノ三姉妹”を育てた故・小篠綾子さんをモデルとした物語ですが、物語はそろそろ終盤を迎えています。
今朝の話では、母・糸子が三女の聡子に看板を譲ろうと決心したものの、聡子は自分なりに将来を考えてロンドン行きを決意していた・・・という話でした。
もともと長女・優子に継がせるつもりだったのに当てが外れ、次女・直子はもとより自分の道を歩んでいるため眼中になく、最も頼りないと思っていた三女・聡子までもが“親離れ”しようとする姿に驚きを隠せない母・糸子。
まさしく、子は親の思うようには生きてくれないものです。
おそらく実際のコシノ三姉妹も、母・綾子さんから見れば理解に苦しむ娘たちだったのでしょうね。
親からみて文句のつけようのない子供というのは、所詮は親の理解の範疇にあるということで、親を超えることは絶対ないでしょう。
親の手に負えない子供というのは、裏を返せば、親には考え及ばない可能性を秘めているということかもしれず、むしろ親としては喜ぶべきことなのかもしれません。
親は、子供は理解出来ないものだということを理解しなければなりませんね。

あと、昨今の子育ては“褒めて伸ばす”というのが主流で、教育評論家と言われる方々は挙ってその論を主張しますが、私は予てから懐疑的でした。
たしかに、人間褒められると気分のいいもので、もっと褒めてもらおうと努力するかもしれませんが、おだてられないと木に登らない豚では社会の荒波を乗り越えていけるとは思えませんし、人間、慢心ほど成長の妨げとなるものはありません。
で、このドラマでの糸子と三人の娘たちの親子関係や、若き日の糸子と父・善作とのエピソードなどを見ていると、あらためて“褒めて伸ばす”論を否定したくなりますね。
厳しく叱っても親の思うようにならないのが子供ですが、それでも親は子供を叱るべきで、そんなわからず屋の親に反抗しながら子供は成長していくものだと思います。
少なくとも、父か母のどちらかひとりは、子供から見て煙たい存在でなければならないと私は思ってわが子とも接しています。
ものわかりの良い親なんて、ろくなもんじゃないですよ。
昔はこの善作さんのような厳格な父親がたくさんいて、母親は家事に忙しくていちいち子供の生活を干渉する暇もなく、教育評論家の方々も、そういった戦前生まれの親に育てられて立派な大人になっておられるのに、なぜ自分たちの生い立ちを否定するような論を唱えるのでしょうね。
要は真心をこめて叱っているかどうか・・・ではないでしょうか。

とはいっても、叱られてばかりでは心が萎えてしまうのもたしかで、多少の逃げ道は必要でしょう。
ドラマでは、麻生祐未さん演じるお祖母ちゃんがその役目を担っていますね。
実際の小篠家もそうだったようで、三姉妹とも口を揃えて「お祖母ちゃんに救われた」と語っておられました。
誰かがになれば、誰かがになる。
昔はそうやって、各家庭の中で上手く子育てシステムが機能していたのでしょう。
昨今、社会に出たばかりの使えない若者を「ゆとり世代」などと蔑んで呼ぶ声を耳にしますが、「今どきの若者は・・・」という年寄りの定番文句は使いたくありませんが、もし今どきの若者が世間で言われているような軟弱者が増えているとするならば、それは「ゆとり教育」の所為というよりも、「褒める教育」に原因があるんじゃないでしょうかね。
とすれば、その責任は私たち親にあるといっていいでしょう。
今一度、小篠家に倣って“叱って伸ばす”子育て法を見直してみる必要があるんじゃないでしょうか。

後年、世界的なデザイナーに育った三人の娘たちに感化された綾子さんは、75才にして「コシノアヤコ」ブランドを立ち上げたそうですが、その商品の中には娘のヒロコさんやジュンコさんのデザインに酷似したものがしばしばあったそうで、それを娘たちに指摘されると、「あんたらを産んだのはウチや!自分の産んだ娘のデザインを盗って何が悪いねん!親の特権や!」と、悪びれることもなく言い切って娘たちを閉口させたとか。
ドラマを見るかぎり、想像できすぎて笑っちゃいます。
さすが、昭和の母は強し・・・ですね(笑)。


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by sakanoueno-kumo | 2012-03-01 02:31 | その他ドラマ | Trackback(1) | Comments(2)