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祇園と亀岡の事件に思う。

今月12日、京都の祇園で軽自動車の無謀な暴走により8人が亡くなり12人が負傷するという凄惨な事件があり、世界的に有名な観光エリアでの白昼の悲劇は日本中を凍りつかせましたが、その恐怖が冷めやらない23日、同じく京都府の亀岡市で、またも集団登校中の小学生の列に制限速度を超過した車が突っ込み、引率していた妊娠7ヶ月の女性と児童1人が亡くなり、負傷者が8人という痛ましい事件が発生しました。
あらためて、お亡くなりになられた方々とそのご遺族に対し、謹んで哀悼の意を表しますとともに、ケガをされた方々の1日も早いご快復をお祈りするところです。

祇園の事件(あえて事故ではなく事件と言います)については、現在も検証中であり、その原因究明の推移を見守る必要がありますが、今のところ事故原因として、運転手に「てんかん」の持病があったことが取り沙汰されています。
実際にてんかんによる発作があったのかどうかは、運転手自身も死亡しているいため立証するのは難しいように思いますが、てんかんと聞いて思い出すのは、1年ほど前に栃木県でてんかん発作の男性が運転するクレーン車が歩道に突っ込み、小学生6人を死なせるという痛ましい事件が記憶に新しいところです。
あの事件以降、てんかん持病者の運転について厳しい規制を求める声も上がっていましたが、一方で「病人差別だ!」という反対意見も多く、そうこうしているうちに今回のような大惨事がまた起きてしまいました。
たった1年の間に同じような事件が2度も起きていることを思えば、ここまで大惨事には至らなくとも、その危険性をはらんだ事例は多数あるんじゃないかと想像します。
警察庁の発表よると、運転者の発作・急病による交通事故は2011年に254件発生。
そのうち、てんかんによる事故は73件で、うち5件が死亡事故だといいます。
この数字からみるに、幸いにして事故になっていないものの、その危険性をはらんだ持病者の運転手の数は、きっと数えきれないんじゃないかと・・・。
わたしの周りにてんかん持病者はいませんし(知らされてないだけかもしれませんが)、私はてんかんという病気にも詳しくはありませんが、何の罪もない人が突然襲ってきた車にひかれて理不尽に殺されて、運転手が病気だったんだから仕方がない、と納得できるはずがないということはわかります。
病人を差別するつもりはありませんが、二度とこのような悲劇が起こらないように規制するのは当然のことで、それを「病人差別」というのなら、私はすすんで差別に賛同します。

亀岡の事件(これは間違いなく事故ではなく事件です)については、18歳の運転手は無免許で、しかも徹夜で遊んだ上の居眠り運転が原因だと証言していますから、未成年であるということ以外にこの運転手を擁護できる部分はひとつも見当たりません。
願わくば、未成年ということを度外視した厳罰をもって臨んでほしいものですが、報道などによると、自動車運転過失致死傷罪の疑いとあり、危険運転致死傷罪には至らないようです。
無免許運転で危険運転致死傷罪を適用するには、スピードの出し過ぎと、運転技能の欠如を立証しなければならないのだとか。
平たくいえば、無免許でも運転が上手ければ厳罰に処することは難しく、運転が下手だと認められて初めて厳しい危険運転致死傷罪に問えるのだそうです。
何なんでしょう、このわけのわからない法律は・・・。
言ってる意味がさっぱりわかりません。
私は、この事件は厳罰とされる危険運転致死傷罪を科してもまだ軽いと思います。
自動車運転過失致死傷罪にせよ危険運転致死傷罪にせよ、本来、運転免許という国家資格を有していることを前提として、運転手の安全運転義務違反について裁く刑だと思います。
無免許運転で人を死に追いやった場合、道路交通法の枠で裁くこと自体おかしな話で、この場合、殺人罪として裁くべきなんじゃないでしょうか。
医師免許を持たない人が病人を手術して死に追いやったら、これは業務上過失致死ではなく殺人でしょう。
それと同じなんじゃないでしょうか・・・。

過失致死とは、殺すつもりはなかったけれど、結果的に死に追いやってしまった罪のこと。
たしかに、人を殺そうと思って運転していたわけではないのでしょうが、車は人を殺せる凶器となり得ることは誰しもがわかることだと思います。
無免許運転というのは、包丁を振り回して人ごみを走り抜けるのと同じようなもので、それを過失致死というのは、秋葉原無差別殺傷事件の犯人が「殺すつもりはなかった」と言うようなものです。
なぜ無免許運転が飲酒運転より罪が軽いのか、なぜ無免許運転が過失となるのか、頭の悪いわたしには理解困難です。
わたしは法律の専門家ではないですし、この法律の矛盾を説明できるほどの知識をもっていませんが、何の罪もない人が突然襲ってきた車にひかれて理不尽に殺されて、しかもそれが無免許運転だったと知って、許せるはずがないということはわかります。
被害者遺族の気持ちを考えれば、加害者を可能な限り厳罰に処するべきだと思いますし、二度とこのような悲劇が起こらないように、一刻も早い法整備を望みます。

祇園の事件にしても亀岡の事件にしても、何の罪もない人が多数犠牲になっています。
法律とは、罪を犯した加害者に罰を与えるためのものではなく、善良な一般市民を守るための抑止力でなければなりません。
そのためには、ときには差別も必要でしょうし、未成年に厳罰を科すことも必要でしょう。
病気であろうと未成年であろうと、人を殺してやむを得ないなんてことはあり得ないのですから・・・。

どちらの事件も、単なる死亡事故としてかたずけてはいけない事件だと思います。


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by sakanoueno-kumo | 2012-04-26 16:37 | 時事問題 | Comments(2)  

平清盛 第16話「さらば父上」

 仁平3年(1153年)1月15日、平清盛の父・平忠盛がこの世を去った。享年58歳。当時の日記などによると、忠盛は死の2年前に就任していた刑部卿に職を、死の2日前の1月13日に辞任したという記録があるそうで、そのことから考えれば、忠盛の死は急死ではなく、おそらく病没だったのだろう。位は正四位上という四位の最上位に達していた。その上は三位、すなわち公卿である。国政に携わる一歩手前まできていただけに、まことに惜しい死であった。

 若き日の忠盛は白河法皇(第72代天皇)に重用され、検非違使などの官職、越前守などの受領を歴任し、山陽道、南海道の海賊討伐で活躍、治安維持に務め実績をあげた。白河院の没後は鳥羽法皇(第74代天皇)に忠節を尽くし、院庁の判官代別当(長官)などの要職を歴任した。後半生の忠盛はさらに、中務大輔尾張守播磨守内蔵頭などの要職を歴任する一方、鳥羽院の御厩の別当、美福門院得子年預(執事別当)なども兼ねた。そして長承元年(1132年)には清涼殿南廂の殿上の間への昇殿を許された。武家出身者が昇殿人となるのは異例のことで、これは、千体の観音像をおさめた得長寿院の造営の功により許されたものだといわれている。その後も忠盛は、保延元年(1135年)にも海賊討伐で実績をあげ、さらに保延5年(1139年)には興福寺宗徒が起こした強訴を洛外で阻止した。このように忠盛は、人並み外れた手腕、軍事力を有する時代を代表する武将だった。

 もっとも忠盛は武力財力だけで出世したわけではなかった。宮廷貴族として認められるには、それに相応しい教養を身に着けていなければならない。忠盛は武家の棟梁としてのみならず、和歌音楽にも造詣が深い人物として知られていた。特に和歌は『金葉和歌集』(白河院の命により編纂された勅撰和歌集)に載るほどの名手だったようだ。『平家物語』にも、備前から帰ってきた忠盛が鳥羽院に「明石浦はどうであった」と聞かれて、即座に「有明の月も明石のうら風に浪ばかりこそよるとみえしか」(残月の明るい明石浦に、風が吹かれて波ばかり寄ると見えた)と詠んだエピソードが残されている。「明石」「明かし」「寄る」「夜」をかけた歌で、その出来栄えに鳥羽院も大いに感心したという。

 管弦ではをよくしたという。「小枝(さえだ)」という笛を鳥羽院から賜り、それを三男の平経盛に譲り、それがさらに孫の平敦盛に伝わったことが、『平家物語』「敦盛最期」に見える。その他、舞は元永2年(1119年)の賀茂臨時祭で舞人を務め、見物の公卿に「舞人の道に光華を施し、万事耳目を驚かす」と称えられたほどであった。ドラマでの忠盛は無骨な武家の棟梁としての一面だけしか見られなかったが、実際の忠盛は和歌、管弦、舞などの芸術面にも優れた文化人でもあったようである。いや、武力一辺倒の武士のイメージを払拭するため、また、朝廷での平家の地位を高めるため、血のにじむような努力を重ねた上のものだったのかもしれない。

 ちなみに、平家一門には平忠度(清盛の末弟)の和歌や平経正(経盛の長男)の琵琶など、和歌や管弦など芸術面に優れた人物が多いが、これも忠盛の血を引く遺伝的素質だったのだろう。そう考えれば、清盛が芸術面でこれといった才能を見せなかったのが興味深い。ひょっとしたら、ドラマのとおり清盛と忠盛には血の繋がりがなかったのだろうか・・・。

 忠盛の死にあたって、祇園闘乱事件では忠盛・清盛父子の刑を主張した悪左府・藤原頼長でさえ、自身の日記『台記』に次のように記している。
 「数国の吏を経て、富は巨万を重ね、奴僕は国に満ち、武威は人にすぐる。然るに人となり恭倹にして、未だかつて奢侈の行あらず。時の人、これを惜しむ」
 巨万の富と多くの家来を持ち、人にまさる武威を持ちながら、あくまで慎み深く、贅沢な振る舞いはなかった・・・と、あの憎たらしい頼長からは想像できないほどの賛辞を書き残している。この一文からも、忠盛の人となりが窺えるというものである。若き日の清盛が飛ぶ鳥を落とす勢いで異例の出世を遂げたのも、父・忠盛の配慮によってのもので、この時期はまだ忠盛あっての清盛だった。

 公卿を目前にして叶わなかった忠盛だったが、その最終の位である正四位上というのは、通例ではあまり与えられる者のない位階で、公卿になる人はこれを飛び越えて三位になる場合がほとんどだった。忠盛が異例の正四位上についたのは、なんとしても武家を公卿にしてはならないという政治力がはたらいた結果と考えられなくもない。いかに富を蓄え、武力を持ち、宮廷人としての素養を身につけても、武士が公卿に上る道は依然として険しかったのである。その道は、こののち清盛に引き継がれていく。


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by sakanoueno-kumo | 2012-04-24 16:37 | 平清盛 | Comments(0)  

平清盛 第15話「嵐の中の一門」

 平清盛の異母弟・平家盛の死から2ヶ月後の久安5年(1149年)5月、高野山の根本大塔が落雷による火災で焼失し、その再建を父・平忠盛鳥羽法皇(第74代天皇)より命ぜられる。このとき清盛は父の代官として高野山に登り建立奉行を務めた。清盛はこの再建事業にあたり、金堂に掲げる大きな両部曼荼羅を寄進した。その制作過程において 、胎蔵曼荼羅の中尊に、清盛自らの頭の血を絵具に混ぜて描かせたという逸話が『平家物語』のなかにある。もっとも、ドラマのように忠盛に殴られて血を流したわけではなく、自ら額を割って血を抜いた、というのが、オリジナルのエピソードである。この造営事業は7年後の保元元年(1156年)まで続けられ、その竣工を待たずして忠盛は没している。

 改元したばかりの仁平元年(1152年)2月、清盛は安芸守に任命された。後年、清盛が安芸の厳島神社を熱心に信仰したことはよく知られているが、平家と厳島の関係は、清盛の安芸守就任と、このときの高野山大塔の造営事業が大きく関係していたという。

 鎌倉初期に生まれた『古事談』によると、高野山大塔の造営事業の最中、清盛自ら材木を担いで運ぶなどの作業をしていたが、ある日、香染めの衣をまとった僧侶が現れ、「わが国の大日如来は伊勢大神宮と安芸の厳島である。大神宮はあまりにも尊い。汝はたまたま安芸の国司となった。早く厳島に奉仕しなさい。」といって忽然と姿を消した。その後、厳島に参詣し社殿の修築を行ったところ、巫女の口をとおして「あなたは従一位太政大臣になるであろう」と告げられたという。

 『平家物語』にも同じような話がある。高野山の大塔修理を終えた清盛が弘法大師(空海)の廟である奥院に参ったとき、眉毛の太い二股の杖をついた僧侶が現れて、「厳島を修理すれば肩を並べる者がないほどに出世するだろう」と予言した。弘法大師の化身だと思った清盛は忠告どおりに厳島の造営に着手。やがて工事が終わって清盛が厳島に参詣すると、うたたねの夢のなかに神の使者が現れて銀柄の小長刀を清盛に与え、「この剣をもって一天四海を鎮め、朝廷の守りとなれ」と告げた。その後、厳島大明神のお告げがあり、「高野の聖がいったことを忘れるな。ただし悪行があれば、子孫まではかなうまいぞ」と述べたという。

 どちらの話も何とも神秘的な話で、とても実話とは考えづらいエピソードだが、長寛2年(1164年)に平家一門が厳島神社に奉納した清盛自筆の「願文」にも、夢に一沙門(僧侶)が現れて厳島を信仰するように勧められ、そのお告げどおりにひたすら信心した結果、一門に栄華がもたらされた、と、これらの逸話をなぞるような体験が記されている。具体的に太政大臣になると予言していることや、のちの平家滅亡の結果を知っているかのような戒めのお告げなどは荒唐無稽な話だとしても、何らかの神秘的な宗教体験がこの時期の清盛にあり、そのことが厳島信仰のきっかけになったことは事実だったのかもしれない。


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by sakanoueno-kumo | 2012-04-16 19:48 | 平清盛 | Comments(0)  

神戸は山の手にある桜の名所、「桜のトンネル」の下で思う。

e0158128_1765088.jpg先日に引き続き桜シリーズです。
神戸市灘区にある摩耶山と麓を結ぶ摩耶ケーブルの乗口近くに、知る人ぞ知る桜の名所があります。
神戸では六甲山脈と並行して一番南に阪神電車、、中央にJR、そして一番北側に阪急電車と、3種類の鉄道が東西に走っていますが、その阪急電車沿線よりさらに北側を「山の手」と呼び、大きな邸宅が建ち並ぶ閑静な住宅街として知られています。
そんな住宅街の一角に、「桜のトンネル」と名付けられた通りがあります。
同じ灘区内で仕事をしている私は、昼休みにカメラを持ってちょっと会社を抜けだし、桜鑑賞に訪れました。
会社の近くでありながら、ここを訪れるのは約20年ぶりです。


ここ、神戸市灘区高尾通の「桜のトンネル」は、大正時代に摩耶ケーブルが開通したときに植栽されたものだそうで、南北約400mの急な坂道の両側に約70本の桜の木の枝が、道路上にアーチを描いて覆っています。

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桜の名所といっても、ここは一般の公道なので、レジャーシートを広げて宴会が出来る場所ではありませんし(やったらたぶん、警察がとんでくると思います・・・笑)、両側は普通に生活されている民家なので、夜のライトアップもありません。
桜のアーケードを通り抜けるだけのスポットですが、そのアーケードがとにかく見事で、通り抜けるだけでも贅沢な気分になります。

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おそらく普段は地域に住む方々しか通らないであろう南行き一歩通行の道路ですが、この日は私と同じくカメラを持った人がたくさん歩いていて、通り抜けする車はみんな、徐行して景色を眺めながら走行していました。
歩行者も運転手もみんな上を見上げていて、ちょっと危ない気がしないでもないですね。
歩行者はともかく、車の運転手はちゃんと前を見て運転してほしいものです。

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写真ではわかりづらいかもしれませんが、かなり急な坂道です。
桜のアーケードがなければ、絶対歩いて上ろうなんて気にはならないでしょう(笑)。

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気がついたら、福山雅治さんの『桜坂』を口ずさんでいた私です。
歌うくらい私の勝手でしょう(笑)。

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空を見あげれば、桜花の間から光が射しています。
木洩れ日ならぬ、花洩れ日でしょうか。

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道路の両脇は散った花びらの絨毯です。

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久しぶりにここを訪れた私でしたが、以前きたときは、このような看板などはなかったように記憶していますし、本当に知る人ぞ知るスポットで、この日のように平日の昼間から桜見物の人がたくさん歩いているようなことはなかったと思います。
看板の説明文によれば、平成9年に市民の応募によって「新・こうべ花の名所50選」に選定されたそうです。
平成9年といえば、阪神・淡路大震災の2年後で、神戸が復興に向けて歩みだしてから間もない時期です。
ここの桜には、傷ついた神戸に1日も早く春が訪れるように・・・といった、市民の思いが込められていたのでしょうね。

おそらく近年のことだと思いますが、桜坂を下ったところの交差点の名称にもなっていました。
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この写真を撮影したのは昨日(4月12日)の昼過ぎですが、私がここで桜見物をしていたちょうど同じ頃、京都の祇園では大変な事故(事件)が起きていたようですね。
満開の桜を楽しむ人でにぎわう白昼の祗園の繁華街にて、若い男性が運転する軽ワゴン車が次々と人をはねながら暴走を続け、運転手を含む8人が死亡、10人以上がケガをするという大惨事となりました。
写真でもわかるとおり、昨日の関西は麗らかな日射しに包まれた絶好の花見日和でしたから、おそらく京都の事故現場もたくさんの花見客で賑わっていたことでしょう。
華やかな桜花の下で、まさかまさか、そのような惨事に巻き込まれようとは、夢々思わなかったことでしょう。
お気の毒としか言いようがありません。
亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈りします。

今朝の出勤道中の桜の木には、少しずつ緑が見え始めたようです。
桜の見頃も今週いっぱいでしょうね。


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by sakanoueno-kumo | 2012-04-13 16:35 | 神戸の史跡・観光 | Comments(2)  

心癒される桜の木の下で思う、人間も自然の一部なり。

春ですね。
先週までは、暖かくなったかと思えば寒の戻りがあったりと、まさしく三寒四温の繰り返しで服装にも困る毎日でしたが、今週に入ってわがまち神戸もようやく本格的な春の訪れといった感じです。
寒さが苦手な私も、やっと今週からコートを脱いでジャケット姿になりました(苦笑)。
そんななか、街を見渡してみれば、いつの間にやらが満開。
それもそのはず、昨日は小・中学校の入学式の日ですもんね。
で、せっかくなのでカメラを持ちだして、通勤途中の道すがらの桜を撮影しました。

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神戸市灘区にある西郷川という小さな川沿いに咲く桜です。
向こうに見えるのは六甲山脈で2番目に高い摩耶山
海と山との間が狭い神戸市には、このような小さな川がたくさんあります。
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両側の桜が川を包み込んでいるようです。
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麗らかな春の日差しを浴びて、桜花の花びら一枚一枚が輝いて見えます。
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今年は昨年同様、平年に比べて遅い開花だそうですが、考えてみれば、昔はこの時期の開花が普通だったような気がします。
少なくとも、近年のように3月末に満開になるようなことは、私が子供の頃にはなかったように思います。
昨年今年と2年続けて冬らしい冬で、豪雪による被害が北国の各地で起きるほどの厳しい寒さでしたが、これも考えてみれば、本来の冬の姿に戻っただけで、近年の冬が暖かすぎただけなんじゃないかと私は思うんですけどね。
何年かずっと暖冬が続いていましたが、ここ2年でちゃんと修正されてもとの冬の寒さを取り戻したことを思えば、地球温暖化なんて本当にあるのかなあ・・・と思ってしまいます。
人間の行いで自然を壊したり、逆に自然を修正したり出来るほどの力が人間にあるのかなあ・・・と。
自然の一部であるはずの人間が、自然を操っていると思うこと自体、思い上がりも甚だしいんじゃないか・・・と。

この写真は昨日の朝に撮影したもので、今日の神戸は朝から雨です。
桜散らしの雨となるのでしょうか・・・。
儚いからこそ人は桜に魅せられるのでしょうが、もうちょっと見ていたいですよね。


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by sakanoueno-kumo | 2012-04-11 14:19 | 神戸の史跡・観光 | Comments(0)  

平清盛 第14話「家盛決起」

 祇園闘乱事件が発端となった比叡山延暦寺の強訴に一応の決着をみたものの、これまで順風満帆な人生を送ってきた平清盛にとっては初めての挫折となったようで、その後も一時不遇を強いられることとなった。そのことと関係していたかどうかはわからないが、にわかに異母弟の平家盛が朝廷における活動を活発化しはじめ、清盛の地位を脅かす存在となりつつあった。

 ここで清盛の兄弟について触れておこう。清盛の生母については第1話でも触れたとおり(参照:第1話)、正確なことはほとんど何もわかっていない。わかっているのは、清盛が2、3歳の頃に亡くなっているということだけである。この女性が清盛以外の子を産んだという記録はなく、清盛には父母を同じくする兄弟姉妹は一人もいなかったようである(ドラマでは、清盛の実父は平忠盛ではなく白河法皇(第72代天皇)の御落胤という設定になっているが、この説については賛否両論があって事実とは言い難く、ここでは清盛の実父は忠盛という仮定で進めることにする)。清盛の生母の死後、忠盛は藤原宗子(のちの池禅尼)を継室に迎え、平家盛平頼盛といった男子をもうけ、他にも三人の側室や妾との間にそれぞれ、平経盛平教盛平忠度という男子をもうけた。次弟の家盛の生年は正確には不明なのだが、これらの異母弟の長幼の順は、家盛、経盛、教盛、頼盛、忠度というものであったと考えられている。さらに、生母も長幼の順も不明だが、清盛には少なくとも3人の異母妹がいた。

 この中で、家盛と頼盛の二人は継室(正室?)の子であったため、比較的順調に出世した。この時代、長男が家督を継ぐとは限らず、正室の子か側室の子かという生母の立場も重要であり、その意味では、家盛は清盛の強力なライバルだった。

 祇園闘乱事件から5ヵ月が過ぎた久安3年(1147年)11月、家盛は常陸介に任官し、その直後には賀茂臨時祭舞人を務め、さらに翌年正月には従四位下右馬頭に任じられた。右馬頭は御所の馬や馬具を管理する右馬寮の長官であり、軍事的にも重要な部署で、武士にとっては名誉な役職だった。清盛の起こした事件から間もないこのタイミングでの家盛の出世を、事件とは無関係と考えるほうが無理があるように思える。この時期の清盛はドラマのように、朝廷からも平氏内部でも、信頼を失っていたのかもしれない。急激な弟の台頭に、清盛はきっと心穏やかならぬ日々を送っていたことだろう。

 こうして弟の猛追によって平氏の後継者という地位を脅かされていた清盛だったが、幸か不幸か、久安5年(1149年)2月の鳥羽法皇(第74代天皇)の熊野詣に供奉した家盛は、その帰路にに倒れ、3月15日、京に近い宇治川の辺りで帰らぬ人となる。訃報を聞いて駆けつけた乳父の平維綱は、悲しみのあまりその場で出家したという。父の忠盛もその翌月、自ら費用を負担して造営した延勝寺の供養を、家盛の死を理由に欠席し、一周忌には家盛愛用の剣を奈良の正倉院に寄進している。家盛の死による平氏一門の悲しみの深さが伺えるが、この死によって、結果として清盛の後継者としての地位が盤石となったことは間違いない。このとき、清盛はどんな心境だったのだろうか・・・。

 ちなみに、家盛の出世を内大臣・藤原頼長が導いたという話は他の物語などには見られず、ドラマのオリジナルだと思われる。したがって、家盛が頼長の男色相手だったという話ももちろん存在しない。しかし、頼長が男色家だったという話は有名な事実で、自らが記した『台記』という日記には、赤裸々な男色行為が綴られている。この時代の公家社会では男色は珍しいことではなく、政治や人事にも大きく影響していたとか。頼長が記した『台記』は男色日記ではなく、政治活動を後世に残すための記録だったようである。ただ、そう説明されたところで現代の私たちに共感できるものではなく、むしろおぞましい感覚さえ覚えてしまうのだが、驚いたのは、これを天下のNHKが大胆に描いたこと。おそらく賛否両論はあろうかと思うが、このドラマにかける制作サイドの意気込みは評価したい。ただ、今のところその意気込みが視聴率に繋がらず、空回りし始めているような気がしないでもないのだが・・・。



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by sakanoueno-kumo | 2012-04-09 17:30 | 平清盛 | Comments(0)  

映画『20世紀少年』 鑑賞記

 先日、高校生の息子に勧められて、映画『20世紀少年』の3作すべてを観ました。原作の漫画は読んだことはなく、正直言ってあまり興味はなかったのですが、息子曰く、「主人公の少年時代がお父さんの世代の話やから、きっと面白いと思うで!」と・・・(実際には、私より少し上の世代の話でしたが)。最近は、めっきり漫画を読まなくなりましたが、20歳代の頃までは結構な漫画好きだった私としては、天才の呼び声が高いこの作品の作者・浦沢直樹氏には少しばかり興味があり、だったら観てみようかな、と。

e0158128_16154026.jpg で、息子と二人で3夜に渡ってDVDで鑑賞したわけですが、それほど期待していなかったわりには面白かったですね。いってみれば、『地下鉄サリン事件』『同時多発テロ』を彷彿させる謀略ストーリーに、SFと推理小説と冒険ストーリーの要素を加えた物語、とでもいいましょうか・・・。更に私たち中年世代にとっては、昭和ノスタルジー的な楽しみも加味されて、なるほど、原作の単行本の発行部数が2800万部という数字も頷ける気がしました。映画の方は、莫大な製作費をかけたほどの大ヒットとはいかなかったそうですね。まあ、長編漫画の映画化というのは難しいとは思います。それでも、原作漫画を読んでない私は、十分面白かったですけどね(原作を知っている息子曰く、映画・第1章はほぼ原作どおりでよく出来ていたけど、第2章・3章は、詰め込み過ぎ感が否めなかった・・・と)。

 物語の概要は、大阪万博が開催された1970年頃の少年たちが空想した未来が現実になるという話。地球滅亡をもくろむ悪の組織、東京を破壊し尽くす巨大ロボット、世界は混沌とし、滅亡に向かっていく。それに立ち向かい地球を救う、勧善懲悪の正義のヒーローとその仲間たち。そんな下らないストーリーを少年たちは“よげんの書”と名づける。やがて少年たちは大人になり、そんな子供の頃の記憶などすっかり薄れてしまっていた20世紀末、彼らしか知るはずのない“よげんの書”どおりの異変が世界各国で起き始める・・・というもの。

 ストーリー自体も非常によく考えられていて面白かったのですが、それよりも私が惹きこまれたのは、70年代の少年たちの空想の世界の方で、その時代の空気感とでもいいましょうか・・・。アポロ11号の月面着陸に歓喜し、大阪万博のテーマ「人類の進歩と調和」の言葉どおり高度成長も成熟期に入り、科学と経済の発展に酔いしれ、誰もが未来に夢と希望を抱いていた時代。しかし一方で、東西冷戦の真っ只中、世界各地で行われた水爆実験などに見る第三次世界大戦への不安や、『ノストラダムスの大予言』が大ベストセラーになったりと、世紀末ムードが漂いはじめた時代でもありました。私たち当時の子供たちは、21世紀には誰でも月旅行が出来る時代になってるかも・・・なんて明るい未来を空想しながら、一方で、20世紀末には人類最終戦争が起きるかも・・・といった根拠のない危機感を抱いていたものです。そんな当時の空気感が、リアルに描かれていました。

 あと、当時の街の空気にもリアリティーがありましたね。喫茶『サンフランシスコ』やスナック『ロンドン』など、たしかにそんなネーミングの店がたくさんありました(笑)。豊かになったとはいえ、まだまだ海外旅行が憧れだった時代というのがわかりますね。商売する気があるのかないのかわからない無愛想な駄菓子屋のおばちゃんや、街角に普通に貼ってあったポルノ映画の宣伝ポスター。昨今、ネット上のアダルトサイトなどの氾濫から青少年健全育成条例などが声高に叫ばれていますが、考えてみれば、私たちの子供時代には普通にヌード写真のポスターが街角に貼られていたり、エロ本の自動販売機があったりと、昔は昔で決して健全な育成環境とは言えなかったように思います。

 街には空き地があり、子供たちにとっては恰好の遊び場でした。そして、そんな空き地に必ずあった子供たちの秘密基地。今から思えば、秘密基地でもなんでもないんですけどね(笑)。その基地に集まって何をするかというと、物語のように、空想の世界の仮想敵に対する対策会議です(笑)。それは核実験で巨大化した生物であったり、宇宙から攻めてきた謎の生命体であったり・・・まさに、この物語のとおりでした。きっと物語に出てくる少年たちの姿は、浦沢氏の記憶の中にある実体験とラップしているのでしょうね。

 あと、大阪万博当時、私は大阪府高槻市という万博会場のとなり町に住んでいましたので、万博には何度も行った記憶がありますし、その後、同級生などと話をしていても、万博に行かなかったという奴はほとんどいなかったように記憶していますが、考えてみれば、それはおそらく私や私の友人が関西人だからで、当時、関西以外の遠方の地域に住んでいた方々は、皆が皆、万博に足を運んだわけじゃないですもんね。当時、東京に住む子供たちがどれくらいの割合で万博に行けたかはわかりませんが、行った奴は優越感に浸れたでしょうし、行けなかった奴は劣等感を感じたかもしれません。そんな友達間の格差を生んだのも、大阪万博だったのかなあと・・・。

 ここからは、物語の核心部分にふれますので、ネタバレ注意です。
 読むかどうかは自己責任でお願いします。

 物語の核となる“ともだち”と称する謎の人物の正体ですが、ネット上での書き込みを読んでみると、不満の声を多く目にしました。理由は、1作目の同窓会のシーンの会話に少しだけ出てきただけの人物で、拍子抜けした・・・というもの。たしかに、私も最初に名前を聞いたときは、「えっ?誰だっけ?」と考えてしまいました。通常、推理小説やミステリーものなどの場合は、犯人は身近にいる重要な人物だったりするもので、「こいつだったのか〜!」的な部分が面白いわけですよね。そういった観点でいえば、「誰?」という結末にガッカリしたという声はわからなくもないです。

 でも私は、この物語においてはこの結末でよかったんじゃないかと思います。むしろ、影の薄い人物だったからこそ、よりリアリティーがあったんじゃないかと。自分の少年時代を思い出してみても、影の薄いクラスメイトというのは必ずいて、卒業アルバムを見ても、名前を思い出せない“ともだち”が何人かいます。中には、顔と名前を照合しても、「こんなヤツいたっけ?」といった地味なクラスメイトいたりして・・・。で、私のような、決して友達に優しくなかった(笑)悪ガキは、そんな地味なクラスメイトから知らないうちに恨みを買っているということは、あってもおかしくない話で・・・(汗)。子ども社会というのは、相手を傷つけるようなことを平気で言ってしまう残酷な社会ですからね。こちらが何気なく言って忘れていることを、相手はその後ずっと根に持っている・・・ありがちな話だと思います。実際に浦沢氏がこの作品を着想したのは、自身が同窓会に出席した際、思い出せない“ともだち”がいたことがキッカケだとか。浦沢氏も友達に優しくなかったのでしょうか(笑)。 “ともだち”は、私たち悪ガキの記憶を辿れば、どこにでもいそうな気がします。

 映画の結末は原作漫画とは違うそうですね。息子の部屋の本棚に全巻揃っているようなので、時間を作って読んでみようと思っています。あと、自分の子供時代を振り返って “ともだち”のような友達がいないか、じっくり思い出してみます。えっ?・・・思い出せない奴だから “ともだち”なんだって?・・・さもありなん・・・ですね(笑)。


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by sakanoueno-kumo | 2012-04-05 16:24 | 映画・小説・漫画 | Comments(0)  

平清盛  第13話「祇園闘乱事件」

 久安2年(1146年)、平清盛は正四位下という異例の官位に昇進した。飛ぶ鳥を落とす勢いで出世を重ね、順風満帆に見えた清盛の人生だったが、「禍福はあざなえる縄の如し」の言葉どおり、翌年の久安3年(1147年)、人生初の試練を味わうことになる。

 6月15日、清盛は恒例の祇園臨時祭に際して、祇園社(現在の八坂神社)に田楽舞を奉納するため、田楽を奏する楽人と護衛の家臣を派遣した。当日、清盛の郎等は弓矢、刀剣などの武具を携えたまま境内に入ろうとしたところ、祇園社の神人は武装解除を求めて参詣を制したという。やがて郎等と神人はお互いに興奮し、ついには郎等の放った矢が神官や宝殿に命中し、けが人まで出る深刻な事態に発展してしまったのである。ドラマでは、清盛自身がわざと神輿を狙って矢を射たことになっていたが、これは吉川英治著の『新・平家物語』で描かれたフィクションで、オリジナルの『平家物語』によれば、郎等が威嚇のために放った矢が神輿に当たってしまったもので、あくまで過失だったようである。

 祇園社の神人はことの顛末を関わりが深い比叡山延暦寺衆徒(僧兵)に告げた。日頃から平氏の存在を快く思っていなかった延暦寺は、同月24日、延暦寺の所司(幹部)が鳥羽法皇(第74代天皇)の御所へ参内し、平忠盛・清盛父子の官位、官職の剥奪と配流を求めたとされる。一方、延暦寺の動きを察知した忠盛は、事件に関与した郎等7人を検非違使に引渡して事件の幕引きを図ろうとした。しかし、それでも延暦寺の怒りは収まらず、26日には祇園社、鎮守日吉社の神輿を担ぎだして強訴を引き起こした。

 衆徒が神輿などのご神体を担ぎ出すのは、宗教的権威によって強訴を正当化するためである。このときより半世紀ほど前の嘉保2年(1095年)、神輿の入洛を武力で鎮圧した関白・藤原師通が、その4年後に38歳の若さで急逝したため、延暦寺は天罰が下ったと喧伝し、貴族たちは神威に恐れをなして為す術をなくしていた。あの、専制君主だった白河法皇(第72代天皇)でさえ、自分の思いどおりにならない「天下三不如意」として、「鴨川の水、双六の賽」とともに「山法師(僧兵の強訴)」をあげているほどである。法皇や摂関家でさえもてあましていた強訴の矛先が清盛に向けられたのだ。清盛にとっては、まさしく人生初の政治的危機であった。

 鳥羽院は検非違使の源光安や、源氏の棟梁・源為義らに強訴の入洛阻止を命じた。といっても、武力で鎮圧しようというものではない。強訴といってもあくまで神威をかさに着てのデモ行為であり、基本的に衆徒らが朝廷に対して武力に訴えることはなかった。しかしこのとき、衆徒の叫び声、シュプレヒコールが洛中まで響いていたと伝えられるほどで、このときの強訴がいかに激しいものであったかが窺える。こういった状況下で、鳥羽院は延暦寺側に使者を送り、公平に裁断する旨を伝えて一旦衆徒を比叡山に引き返させ、同月30日、摂政・藤原忠通、内大臣・藤原頼長以下16人の公卿を院御所の招集して対策会議を開き、善後策を協議させた。公卿の多くは、忠盛と清盛は事件の発端には関わっていないのだから、下手人だけを罰すればいいとの意見だったという。しかし、「悪左府」の異名をとった切れ者・藤原頼長だけは違っていた。

 頼長のいうところでは、たとえその場に居あわせなくとも、下手人たちの雇い主としての責任は免れないとして、清盛たちの有罪を主張した。部下の失敗は上司の責任、秘書官の犯した罪は政治家の責任、大久保隆規氏の犯した罪は小沢一郎氏の罪である・・・と。一方で頼長は、清盛側の郎等も負傷したのだから、祇園社側の下手人も捕えて罰すべきであるとも述べている。もっともといえばもっともな意見で、さすがは曲がったことが嫌いな頼長である。しかし、正論ばかりでは世の中は立ち回らない。鳥羽院はあくまで忠盛たちを守りぬく考えであった。

 その後も容易に結論が出ず、業を煮やした衆徒は再び入洛する構えを見せたが、このときも鳥羽院は武士たちを比叡山の降り口に派遣して防御態勢をしいた。行軍に際しては鳥羽院自ら閲兵にあたり、武士たちは家伝の綺羅びやかな武具をまとって晴れやかに出陣していったと伝えられる。この出陣は半月に及んだ。

 結局、裁断が下ったのは7月27日、忠盛、清盛父子は贖銅三十斤という罰金刑を科せられた。さすがに無罪放免とはいかなかったものの、衆徒たちが求める流罪をはねのけるかたちの極めて軽い処分であった。この予想外の軽い処分は、鳥羽院の意向によるものだと考えられている。鳥羽院は、軍事的にも経済的にも強大な力を有する忠盛、清盛父子を、今後も重用したいと考えていたためだった。この裁断に対して延暦寺側は、天台座主(延暦寺の最高位の役職)をはじめ延暦寺の首脳たちは納得したが、おさまらないの衆徒たちだった。やがて衆徒の怒りの矛先は首脳陣に向けられ、延暦寺内部の抗争に発展したため、清盛たちはそれ以上追求を受けずにすみ、いつしか事態は有耶無耶のまま収束に向かった。さすがの清盛もホッと胸を撫で下ろしたことだろう。

 この出来事によって、清盛は延暦寺の脅威を痛感したはずだ。後年、清盛は奈良の興福寺や延暦寺と対立関係にある園城寺に対しては強圧的に臨んだが、延暦寺に対しては出来る限り協調を保とうとした。それは、このときの苦い経験からくるものだったのかもしれない。


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by sakanoueno-kumo | 2012-04-02 16:52 | 平清盛 | Comments(0)