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「もしドラ」読記 その2 〜マネジャーとしての資質は『真摯さ』〜

e0158128_17431195.jpg昨日の続きです。
「もしドラ」のなかで引用されているピーター・F・ドラッカーの説くところを簡単にまとめると、「マネジメント」の定義について、マネジメントとは企業の方向付けを行い、ミッションを決め、その上で目標を定めて、成果責任を持つことだとしています。
そして、ドラッカーはマネジメントの役割として大きく3つの点をあげています。
まず1つ目は、組織に独自の目的と使命を定義し、それを果たすこと。
2つ目に、生産的な仕事を通じて、働く人たちに成果を挙げさせること。
そして3つ目に、組織として社会に貢献すること。
さらに企業の目的を顧客の創造だとし、その目的を達成するための方法として、マーケティングイノベーションをあげています。
マーケティングとは顧客からスタートすること、イノベーションとは新しい満足を生み出すことである、と。

原著の『マネジメント』も読んだことがなければ、その著者であるドラッカーのこともよく知らなかった私としては、この本で引用されている彼の言葉ひとつひとつに発見があり、なかには目から鱗モノの言葉もあったのですが、それよりも学ぶべきは、主人公・川島みなみの行動でした。
たとえば、みなみは何かに迷ったら『マネジメント』の本に帰るといった信念を持つに至るのですが、そうやって事あるごとに原点に帰り、自己を省み、解決策を探ろうとする姿勢は、経営者のみならず社会人としてあるべき姿だと思わされますし、簡単なようでなかなかできないことだと思います。

また、みなみは組織とは何か、顧客とは誰かを考え抜き、結果、野球部とは「顧客を感動させる組織」と定義し、その方向性が一貫してブレずに行動していきますが、彼女のように組織の定義を突き詰めて考え、顧客を捕らえようと常に考えて行動している経営者が、はたしてどれほど現実の世に存在するでしょうか。
「顧客のために」という言葉はよく耳にしますが、多くの場合それは社内訓辞や事故を起こしたときの外部に対する弁解の台詞にしか過ぎず、企業は利益を得ることのみが目的で顧客は二の次といった、利益至上主義の場合がほとんどのように思えます。

ドラッカーは著書の中で、「マネジャーの資質は一つだけ、才能ではない、『真摯さ』である。」と説いていますが、この点で思い出すのが、日本の経営の神様・松下幸之助も、「人間には『素直さ』が大切である」と強調しておられたことです。
幸之助翁は学者ではありませんが、経営の神様が説く『素直さ』と経営哲学者の説く『真摯さ』、相通ずるところがあるような気がしますね。
みなみの野球部マネージャーという職に対する取り組み方や、ドラッカーの著書から“素直”に学ぶ姿勢はまさしく“真摯”そのもの。
彼女はまさに「マネジャーとしての資質」をはじめから持っていたというわけですね。

物語自体に関しては、これといって特筆すべき点はありません。
出来すぎなところがたくさんありますし、いってみればよくある青春ストーリーで、これを読んで泣いてしまった・・・なんて感想もネット上の書き込みで目にしましたが、私のようなオジサンにはそういった感動はありませんでした。
ただ、ドラッカーの経営哲学を高校野球に当てはめたという岩崎夏海氏の斬新なアイデアと、そのこじつけ方の上手さは実に秀逸でしたね。
そして何より、上述したように主人公のみなみの行動から学ぶことが少なくありませんでした。
300万部近く売れている大ベストセラーですから、この本のことを知らないという人はまずいないと思いますが、経営者や管理職の人で、「ドラッカーの原著を読んでいるから必要ない」とか、「どうせくだらないハウツー本だろう」といった偏見で未読の人は、とりあえずそういった先入観を捨てて一読してみる価値はあると思います。
萌え系の表紙に抵抗があるという人には、ブックカバーをおすすめします(笑)。


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by sakanoueno-kumo | 2012-05-31 17:00 | 映画・小説・漫画 | Trackback | Comments(0)  

「もしドラ」読記 その1 〜紙の辞書の持つセレンディピティ効果〜

e0158128_16363075.jpgいまさらですが、一昨年爆発的にヒットした岩崎夏海氏の著書「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」、いわゆる通称「もしドラ」を読みました。
なぜ今頃この本を手にとったかというと、一昨年から読もう読もうと思っていたものの、私の読書タイムは主に通勤電車の中のみで、他に読みたいと思っていた本がたくさんあったため、その優先順位に従っていつの間にか2年近く過ぎてしまっていたというわけです。
まあ、私は特に流行りモノに敏感な人間ではないので、本でも映画でも音楽でも、話題になっているときを過ぎてから接することは珍しくないのですが、さすがにこの本は書店で購入するとき結構はずかしかったですね(苦笑)。
だって、誰が見ても表紙ですぐわかる本ですから・・・。
おじさん、今ごろ「もしドラ」?・・・みたいな(笑)。
で、あまりにも有名になりすぎたこの作品ですから、いまさらその内容について説明することもないと思いますので、場当たり的に思いつくままを綴ってみたいと思います。

主人公・川島みなみの成功要因は、『マネジメント』に書いてあるマネジャーが野球部のマネージャーとは別のものだと気づいてからも、その理論を野球部のマネージャーに当てはめてみようと考えたことだと思いますが、それ以前にまず感心したのは、野球部のマネージャーになるにあたって、「マネージャー」という言葉の意味を調べたこと。
普通はそんなことしませんよね。
野球部のマネージャーといえば、洗濯したりボールを磨いたりといった雑用係という認識に普通は何の疑いも持たないでしょう。
しかし彼女は、まずはじめにその言葉の意味を調べるために家にあった広辞苑を開きます。
そこで、「マネージャー」という言葉には「支配人」「経営者」「管理人」「監督」という意味があることを知り、また、そのすぐ隣にあった「マネジメント」という言葉に出会うんですね。
もし彼女が広辞苑を開かなければ、「マネジメント」という言葉にも、ピーター・F・ドラッカーの著書にも出会うことはなかったかもしれません。
野村克也氏の名語録に「先入観は罪、固定観念は悪」という言葉がありますが、人は賢くなればなるほど、先入観や固定観念に縛られるものだと思います。
その意味では、彼女は「マネージャー=雑用係」といった固定観念にとらわれなかったことが、最大の成功要因といえるでしょう。

もうひとつ、この点で面白いのが、辞書の持つセレンディピティ効果です。
セレンディピティとは、思わぬものを偶然に発見する才能、あるいは偶然に発見したものをとらえて幸運に変える力、といった意味の言葉です。
目的の言葉とは違う言葉に目がいき、「この言葉にはそんな意味があったのか」と発見する。
誰でも一度や二度は経験したことだと思いますが、これこそ、紙の辞書の持つ面白さですよね。
昨今主流となりつつある電子辞書では、このような「偶然の発見」は起こりづらいでしょう。
作家の故・三島由紀夫氏は、子供の頃の愛読書は辞書だったそうで、それが彼の豊富なボキャブラリーの源だったと聞きますし、それとは比べ物にはならないにしても、なんとなく辞書を引いて、目的がないまま次から次へと目が移っていって、気がついたら結構時間を費やしていたといった経験がある人は少なくないんじゃないでしょうか。
ネットサーフィンならぬ辞書サーフィンとでもいいましょうか・・・。

辞書のなかでの「偶然の出会い」から始まった物語。
作者が意図していたかどうかはわかりませんが、電子辞書では決して始まらなかったセレンディピティが、この物語の面白さでもあるように思います。
昨今よく言われるところですが、もう一度、紙の辞書を見直してみる必要がありそうですね。

長くなっちゃったので、明日に続きます。


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by sakanoueno-kumo | 2012-05-30 16:56 | 映画・小説・漫画 | Trackback | Comments(0)  

平清盛 第21話「保元の乱」

 鳥羽法皇(第74代天皇)の崩御から1週間が過ぎた保元元年(1156年)7月10日深夜、ついに戦いの火蓋が切られようとしていた。平安京の南の鳥羽殿から賀茂川の東にある白河北殿へ移った崇徳上皇(第75代天皇)と藤原頼長のもとに集まったのは、清和源氏の源為義をはじめ、源頼賢源為朝(鎮西八郎)など為義の息子たちや、伊勢平氏では平清盛の叔父・平忠正の一族などであったが、武士としては二流どころで兵力も少なかった。対する後白河天皇(第77代天皇)方は、京で随一の兵力を誇る清盛をはじめ、清和源氏の嫡流で為義の息子である源義朝、足利氏の祖・源義康、摂津源氏の源頼政などそうそうたるメンバーで、数の上でも崇徳院方を大きく上回っていた。

 決戦を前に、それぞれの陣営で軍議が行われた。歴史書として信憑性が高いとされる『愚管抄』によると、崇徳院方では為義が夜討ちを献策したにも関わらず、頼長は大和の軍兵を待つとしてその案を一蹴したという。ドラマでは為朝が夜討ちを主張した設定になっていたが、これは軍記物語の『保元物語』にならったものだろう。なんとも厳つい顔をしたドラマの為朝だが、実はこのとき若干18歳。そんな若僧の為朝の献策だったとすれば、頼長が軽く見たのも無理からぬことだったかもしれない。また頼長は、天皇と上皇の戦いに夜討ちなど相応しくないといった考えもあったようだ。正論を好む観念主義の頼長らしい考えといえる。

 一方の後白河帝方の軍議では、合戦の計画を奏上せよとして、清盛と義朝の二人が朝餉(あさがれい)の間に召集され、ここで義朝は、敵方の父(もしくは弟)と同じく夜討ちを進言する。このとき、清盛がどのような奏上を行ったのかは不明である。後白河帝方に参陣したとはいえ崇徳院とも関わりが深かった清盛は、できれば崇徳院に対して手荒な真似はしたくないという思いもあったかもしれない。しかし義朝は違った。彼はこの戦いの戦功に自らの出世を賭けていた。義朝の進言を聞いた関白・藤原忠通は逡巡したが、実質的な参謀である信西はこの案を即座に採用。頼長と信西というそれぞれの司令官の見識の差が、勝敗を分ける決め手とる。

 「孫子曰く『利に合えば而(すなわ)ち動き、利に合わざれば而ち止まる。』我らは今、兵の数で劣っておる。それで攻めるは理に合わぬ。大和の軍勢が着くのを待つのじゃ。」と頼長。
 「また孫子曰く、『夜呼ぶものは恐るるなり。』夜に兵が呼び合うは臆病の証。されど、孫子に習うまでもなく、夜討ちは卑怯なり!」
 いかにも厳格で偏狭な頼長らしい解釈だ。
 一方の信西は同じ言葉を、「夜通しこうしてピイピイと論じ続けるのは臆病者のすること」と解釈。さらに信西はこう続ける。
 「孫子曰く『利に合えば而(すなわ)ち動き、利に合わざれば而ち止まる。』例え夜明けを待つにせよ、ぼんやりと待つことを、孫子は良しとはせなんだのじゃ。ならば動くがよし !今すぐ!」

 この頼長と信西の孫子の解釈の違いが明暗を分けたという脚本は、実に秀逸で面白かった。あくまで観念的な頼長に対して現実的な信西。孫子の解釈としてはおそらく頼長の方が正しいのだろうが、戦の司令官の見識としては必ずしも正しくなかった。一方で信西の解釈は、夜討ちありきで無理やり結びつけたこじつけ解釈。しかし、戦に勝つためには必要な屁理屈だった。もちろん、このエピソードはドラマのオリジナルだが、二人の人物像が上手く描かれたシーンだった。実際の頼長も、切れ者ではあったが狡猾さに欠けたところがあり、所詮は政治家ではなく官僚だったのだろう。一方の信西はまさしく政治家。彼はこの戦で、後白河帝の権威を保つため、そして自身の政治権力を強固にするため、邪魔になる勢力を一掃しようと画策していた。その信西の描いたシナリオにまんまと乗っかってきたのが、崇徳院と頼長だったのである。「保元の乱」は、信西が起こした信西のための戦だったといっても過言ではないだろう。

 7月11日未明、平清盛、源義朝、源義康率いる後白河帝方の兵600騎は内裏高松殿を出陣し、崇徳院方が篭る白河北殿へ押し寄せた。兵の数で劣る崇徳院方だったが、強弓を誇る源為朝の奮戦によって戦況は一進一退。一時は清盛たち後白河帝方が後退する場面もあった。しかし、義朝が内裏に使者を派遣して許可を得た上で白河殿に火を放つと、崇徳院方は浮き足立ち、合戦開始からわずか4時間、戦いは後白河方の圧倒的勝利で幕を閉じた。

 ドラマでは義朝に対抗心を抱いて奮戦していた清盛だったが、実際には清盛はこの戦いでは目立った活躍の記録がない。前話の稿(参照:第20話)でも述べたとおり、崇徳院と乳母子だった清盛は、この戦いには終始消極的な姿勢だったのかもしれない。にも関わらず、平家は戦後、手厚い恩賞を手にすることとなる。そしてそのことが、次の争いを生むことになっていくわけだが、このときの清盛はまだ知る由もなかった。


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by sakanoueno-kumo | 2012-05-28 22:39 | 平清盛 | Trackback(3) | Comments(2)  

平清盛 第20話「前夜の決断」

 保元元年(1156年)7月2日、治天の君として28年間君臨した鳥羽法皇(第74代天皇)が崩御すると、中央政界の状況は混沌としていく。鳥羽院の崩御直前、危篤の報に接した崇徳上皇(第75代天皇)は御所に見舞いへ赴いたが、鳥羽院側近の者に面会を阻まれた上、何者かによって根も葉もない謀反の噂を吹聴されていた。やがて鳥羽院崩御の報に接し、身の危険を感じた崇徳院は、同じく中央政界から失脚していた藤原頼長と密談し、清和源氏の源為義源為朝(鎮西八郎)父子や大和源氏らの武士、興福寺の衆徒(僧兵)などを、7月11日までに御所・白河殿へ招いて防御態勢を整える。

 対する後白河天皇(第77代天皇)の御所・高松殿には、側近の信西、清和源氏の源義朝らの武士がいち早く馳せ参じていた。前話の稿(参照:第19話)でも述べたとおり、清和源氏ではもともと摂関家に仕える父・為義と、鳥羽院に接近して下野守となっていた息子・義朝とは一線を画す関係にあり、父子で敵味方に分かれる状況に至ったのもやむを得ないことだった。そんな中、伊勢平氏の棟梁・平清盛は、様々な理由で去就に悩んでいた。後白河帝の側に馳せ参じた者の名を記した名簿には、当初、清盛の名がなかったといわれている。

 伊勢平氏のなかでいち早く行動したのは、清盛の叔父の平忠正だった。忠正は、若い頃は兄の平忠盛と共に鳥羽院に仕えていたが、何らかの理由で鳥羽院より勘当となり、以後は藤原忠実藤原頼長父子に仕えて立身した。ドラマでは、清盛のことは快く思っていないものの忠盛には従順な弟として描かれていたが、実際には鳥羽院の信任が厚い忠盛や清盛とは、早い段階から対立関係にあったようだ。また忠正の子・平長盛(ドラマには出てきていない)は崇徳院に仕えおり、選択の余地はなかったと考えられる。

 しかし、清盛にとっては簡単に答えを出せる問題ではなかった。清盛を棟梁とする伊勢平氏が鳥羽院の庇護のもとで大きく力を伸ばしたことは、忠盛の内昇殿(参照:第4話)や祇園闘乱事件(参照:第13話)を見てもわかる。特に祇園社の一件では、清盛の配流を主張する延暦寺の要求を鳥羽院が断固として拒んだことで、清盛の人生最大の政治的危機を乗り越えることができた。清盛にとっては、感謝してもしつくせないほどのが鳥羽院に対してあり、その鳥羽院が即位を認めた後白河帝に味方することに対して、清盛が躊躇する理由はないように思える。

 しかし、実は伊勢平氏は崇徳院とも深い関係があった。崇徳院の皇子で後白河院と帝位を争った重仁親王が11歳で元服したとき、父・忠盛と正妻の宗子(池禅尼)が重仁の乳父・乳母になっていたのである。つまり、形式的なものにせよ清盛は重仁と乳母子の関係にあったのだ。もし崇徳方が勝利し、重仁が天皇の座に即位して崇徳院政が始まることになれば、伊勢平氏のいっそうの躍進が期待できるわけで、崇徳方への参陣を望む声が一族の内部であったとしても何らおかしくはない。また、摂関家とも無関係ではなく、清盛の妻・時子の父・平時信、叔父の平信範がともに関白・藤原忠通に仕えていた。そんな様々なしがらみが清盛の周囲を覆っていたのである。

 清盛が後白河帝に味方することを決めたのは、鳥羽院の崩御から3日後の7月5日だった。検非違使である清盛の次男・平基盛が、崇徳院方に参陣しようとしていた大和源氏の源親治(宇野親治)を逮捕したのである。崇徳院方の武士を逮捕したということは、後白河帝に味方する意志を明確にしたことにほかならない。鳥羽院の恩顧に報いるか、崇徳院との縁故を優先するのか、迷いに迷った清盛の決断は、後白河帝方への参陣だった。もともと後白河帝は皇子の守仁親王(のちの第78代・二条天皇)が即位するまでの「中継ぎ」として擁立された天皇だった。ただし、ワンポイントリリーフとはいえ天皇である以上、朝廷の頂点に君臨する絶対的な権威であることにかわりはない。後白河帝の兄である崇徳院に院政を行う資格はなく、崇徳院につくことは「賊軍」となることを意味するのだ。ひょっとしたら、清盛は最初から後白河帝方につくことを決めていたのかもしれない。しかし、様々なしがらみから一族内部の意見が分かれ、しかし源氏のような一族の分裂を出来るだけ避けるため、調整をはかっていたための遅参だったのかもしれない。

 軍記物語の『保元物語』によると、当初、崇徳院との関係が警戒されて後白河帝方は清盛を呼ばなかったが、伊勢平氏の兵力を味方に付けたいと考えた鳥羽院の皇后・美福門院得子が、法皇の遺言であると称して清盛を招いたという。また、歴史書として信憑性が高いとされる『愚管抄』には、重仁親王の乳母である池禅尼が、情勢を的確に分析して崇徳院方の劣勢を見ぬいた上で、後白河帝方に味方するよう清盛に勧めたといい、また池禅尼は我が子の平頼盛(清盛の異母弟)に対して、兄の清盛と同一行動をとるように命じたと記されている。正妻の子である頼盛は、一門のなかで清盛の次に大きな勢力を持っていた人物でもあり、これが本当なら、こののち平家が一枚岩の結束を保つことが出来たのも、この聡明な継母のおかげといっても過言ではないだろう。

 京で随一の兵力を誇る平家一門が味方についたことで、後白河帝方の武力は盤石となり、崇徳院方を完全に圧倒することとなった。


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by sakanoueno-kumo | 2012-05-23 15:42 | 平清盛 | Trackback(3) | Comments(2)  

金環日食〜天俄に曇て日の光も見えず、闇の夜の如くに成りたれば

e0158128_215624100.jpg今朝の金環日食は見られたでしょうか?
我が家では専用メガネはありませんでしたが、私のレイバンの濃いグラサンを使って家族で回し見しました(ホントは専用メガネじゃないと目に良くないんでしょうけどね)。
今朝の神戸は晴れでしたが、我が家から見てちょうど日食が始まった時間帯に薄い雲が掛かり、それが功を奏してか、グラサンでもちゃんと見えましたよ。
雲のせいもあったかもしれませんが、日食中、ちょっと暗くなりましたよね。
太陽の輝きのわりにはあたりが薄暗く、なんとなく不思議な感覚でしたね。

太陽が月に隠されてリングのように輝いて見える金環日食ですが、今回のように九州南部から東北南部までの広い範囲で観測できるというのは、大変貴重なことだそうですね。
日本全体では1987年9月に沖縄で観測されて以来25年ぶりだそうですが、東京では173年ぶり、大阪では282年ぶり、名古屋ではなんと932年ぶりのことだそうで、それを聞けば、実に貴重な体験だったんだと今更ながらに感激しています。
次に日本で金環日食が見られるのは2030年の北海道だそうですが、大坂で次に見られるのは300年後の2312年だそうですから、ほとんどの人が生きている間に見られたとしても1回、一度も見ることなく死んでいく人もたくさんいるわけで・・・。
まあ、別に見れなかったからといって不都合があるわけではありませんが、見なきゃなんか損な気がして、普段、天体なんて全く興味のない私ですが、今朝だけはミーハー気分で天体ショーを楽しみました。

さて、毎週初めには大河ドラマの稿をアップしている当ブログですが、今日は金環日食という歴史的な日なので、大河の稿はまだ後日に。
そういえば、今年の大河ドラマ「平清盛」の時代を描いた「平家物語」「源平盛衰記」のなかにも、金環日食らしき記述があるのをご存知でしょうか?
「天俄(にわか)に曇て日の光も見えず、闇の夜の如くに成りたれば・・・」
寿永2年(1183年)閏10月1日、現在の岡山県倉敷市玉島付近にあったとされる水島で、平重衡が率いる都落ちした平家と木曾義仲が率いる源氏が戦った「水島の合戦」を描写した「源平盛衰記」の記述です。
「源氏の軍兵共日蝕とは不知、いとど東西を失つて舟を退て、いづち共なく風に随つて遁行」
日食を知らなかった源氏は、太陽が欠けて暗くなっていったことを恐れて混乱し、一方の平家方は日食が起きることを予測しており、戦いを有利に進めて平家が勝利したというものです。

なぜ平家が日食を知っていたかについての記述はありませんが、当時、平家は公家として暦を作る仕事をしていたため、日食を予測する知識があったのではないかと言われているそうです。
この2年前に病没した平清盛には、1日を長くするために扇で夕日を招き返した・・・なんて伝説がありますから、このときの日食も、神となった清盛が神通力で平家を救うために起こしたものだったかもしれません(笑)。
ただ、平家が快勝したのはこのときぐらいで、こののち平家は敗走を繰り返し、やがては壇ノ浦の戦いでの滅亡に至るのですけどね。

あと、金環日食だったかどうかはわかりませんが、神話の中にある天照大御神天岩戸の話も、日食を描いたものではないかと言われていますよね。
古代の中国では、日食は不吉の象徴として恐れられてきたそうですし、ギリシャ神話のなかにも日食の記述があるそうです。
日食の原理も知られていなかった太古の昔も、科学が進歩した21世紀の現代でも、日食は常にその時代の人々を驚かせ、あるいは感動させ、非日常的な事象として記録されてきたんですね。
そんな歴史に思いをはせながら、同じ光景を見ることができたことを喜びと感じています。


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by sakanoueno-kumo | 2012-05-21 22:19 | 時事問題 | Trackback | Comments(0)  

映画『プリンセス・トヨトミ 』鑑賞記 その2 ~豊臣家の不死鳥伝説~

昨日の続きです。
途絶えたと思われていた豊臣家の血筋が実は脈々と生き続けていたというのが、映画『プリンセス・トヨトミ』での設定ですが、この種の伝説というのはこの映画に限ったことではなく数多く残っています。
慶長20年(1615年)5月の大坂夏の陣の際に、豊臣秀吉の継嗣・豊臣秀頼は生母の淀殿と共に陥落する大坂城内の山里曲輪隅櫓で自刃して果てたというのはよく知られていますが、その秀頼が側室との間にもうけた嫡男・豊臣国松も、乳母と共に城を落ちるも徳川方の捜索により捕らえられ、市中引き回しのあと京の六条河原で田中六郎左衛門長宗我部盛親と共に斬首されました。
国松の年齢は不詳ですが、秀頼が文禄2年(1593年)生まれの23歳だったことから考えれば、国松は大きくとも7~8歳までだったことでしょう。
それが戦国の世のならいとはいえ、哀れな最後を遂げた幼い国松に人々の同情が集まったでしょうし、そんな酷い仕打ちをした徳川新政権が当時の庶民の反感を買ったであろうことは想像に難しくありません。

そんな背景から生まれたのか、国松の生存説が大分県日出町に残っています。
その説によれば、側近に護られた国松は薩摩国に落ち延びて島津氏に匿われたのち、豊後国日出藩に身を寄せていたとされます。
当時の日出藩主・木下延俊は、豊臣秀吉の正室・高台院の甥でした。
延俊は国松を城内で匿い、頃合いを見計らって自身の四男・木下延由(延次)として幕府に届け出たとも伝えられます。
その根拠として、延由の位牌に国松という文字が刻まれているというのですが、いかがなものでしょう。
実際の延由は、のちに5千石の旗本となっています。

他の説としては、天草四郎が国松だったという伝承もあります。
「島原の乱」は、豊臣家が起こした最後の反乱だったという面白い仮設ですが、この説についていえば、どう考えても年齢が合わないので、邪説と考えていいでしょう。
その天草四郎にもまた生存説がありますから、キリがありません(笑)。
それだけ、国松に生きていてほしいと願う当時の人々の思いから生まれた伝承だったのかもしれません。

e0158128_10592658.jpg国松の父である秀頼の生存説も数多くあります。
大坂城落城の際、秀頼たちが絶命する瞬間を目撃した者はおらず、死体も発見されなかったことから、当時から様々な生存説が囁かれてきました。
有名なものとしては、秀頼は肥後熊本藩主加藤家、もしくは大叔父の織田長益(有楽斎)の用意した舟の船倉に潜んで徳川方の追及をかわし、真田信繁(幸村)と共に薩摩国谷山に逃れたという説。
しかし、谷山では大酒を呑んでは暴れるため、領民には嫌われていたとか。
のちに秀頼が生存していることを幕府に訴え出た者がいたそうですが、「秀頼はもはや死んだも同然」ということで、不問に付されたと伝えられます。
また、秀頼が地元の女性との間に谷村与三郎という男子をもうけたとか、真田信繁(幸村)も鹿児島県頴娃町に隠れ住んだなどともいわれています。
現在、鹿児島市のJR指宿枕崎線谷山駅の近くに、秀頼のものと伝えられる墓碑があるそうです。
他の説としては、上述した国松の生存説と同様、日出藩主・木下延俊の庇護を受け、宗連と号して45歳まで生きたという異説も残っています。

e0158128_110087.jpgその秀頼の生母・淀殿にも生存説が存在します。
大阪夏の陣に徳川方として従軍していた上野総社藩主・秋元長朝が、大坂城落城の前後に豊臣方の高い身分と思われる女性から助けを求められ、これを保護したそうです。
長朝はその女性の気品と美貌から淀殿と見抜き、秘かに居城である総社城に連れ帰りました。
長朝が徳川家に無断で淀殿を連れ帰ったのは、美女とうたわれた淀殿を自らのにしようと考えたためでした。
しかし、気位が高い淀殿は長朝の邪恋を受け入れようとしません。
結局、淀殿は最後は自ら利根川へ入水自殺を遂げたとも、業を煮やした長朝に惨殺されたともいわれています。
現在、前橋市の元景寺には淀殿のものといわれる墓碑があり、淀殿が用いたという打掛駕籠の引き戸なども保存されているそうです。

とまあ、そんな具合で豊臣家にまつわる不死鳥伝説は数多く存在するのですが、いずれも根拠に乏しく伝承の域をでません。
秀頼と淀殿の生存説は、おそらくどれも事実無根と考えて無理はないでしょう。
唯一信憑性があるとすれば、国松の生存説ですね。
おそらく当時、国松の顔を見知る者などほとんどいなかったと思いますし、豊臣方の残党が替え玉の子供を徳川方に捕らえさせた・・・あるいは、国松を取り逃がした徳川方が、その事実を隠蔽するため、替え玉を処刑して事の終結をはかった・・・などなど、どれも考えられなくもない話です。
しかし、国松を匿うという行為は徳川家に背くということで、そこまでのリスクを背負ってまで国松を匿う義理が、秀頼と淀殿の落命後にあったかといえば、甚だ疑問ではありますけどね。
いずれにせよ、これだけ多くの不死鳥伝説が存在することからみるに、当時の庶民感情の中に、徳川新政権への反感と、豊臣政権の復活を望む声が、少なからず存在していたことの表れだと思います。
国松の生存説は、そんな人々の希望だったのかもしれません。
そう考えれば、映画『プリンセス・トヨトミ 』の中で400年豊臣家の血筋を守り続けてきた「大阪国」の国民たちの思いは、あながち的外れではないのかもしれませんね。
ひょっとしたら、私たちの知らないところで「大阪国」は存在するかもしれませんよ(笑)。

映画『プリンセス・トヨトミ 』鑑賞記 その1 ~荒唐無稽とはいえない「大阪国」~


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by sakanoueno-kumo | 2012-05-18 17:00 | 映画・小説・漫画 | Trackback | Comments(0)  

映画『プリンセス・トヨトミ 』鑑賞記 その1 ~荒唐無稽とはいえない「大阪国」~

映画『プリンセス・トヨトミ』を観ました。
作家・万城目学氏の長編小説が原作の物語で、豊臣家の末裔を守るため400年もの間ひそかに受け継がれてきた「大阪国」と、それを知らずに大阪へやってきた会計監査院たちの攻防のストーリーで、いわばパラレルワールド的な作品です。
e0158128_10532615.jpg会計監査院の松平、鳥居、旭ゲーンズブールの3人は、財団法人OJOという団体の予算を調査するうちに、謎の「大阪国」の存在を知ることになります。
会計検査院とは、国および国の出資する政府関係機関の決算、独立行政法人および国が補助金等の財政援助を与えている地方公共団体の会計などに関する検査を行い、法に基づいて決算検査報告を作成することを主要な任務としている組織です。
平たくいえば、一般企業に税務署が調べに来るように、公的機関の決算や会計が不正に行われていないかをチェックする組織ですね。
法律上は行政機関となるのですが、内閣に対し独立した地位を有していることが憲法で定められており、国の公的な機関でありながら、立法・行政・司法の三権いずれからも独立しているという特殊な組織でもあります。
と、偉そうに解説していますが、私も今調べて知ったことです(笑)。
つまり、縁がない人にとっては全く接することのない方々ですね。

この物語での「大阪国」なるものが建国されるに至った起源は、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣まで遡ります。
私たちが知る歴史では、この戦いによって豊臣秀吉の血をひく豊臣秀頼は生母の淀殿と共に陥落する大坂城内で自刃して果て、秀頼の嫡子・豊臣国松も徳川方に捉えられ斬首、豊臣家の血筋は絶えたとされているのですが、この物語では、その国松がからくも難を逃れ、その血筋は徳川幕府の目を盗みながら細々ながらも続いていたという設定。
豊臣家は当時の大坂の民から親しまれていたこと、またその後、大坂の民たちの徳川新政権に対する反発もあって、国松および豊臣家の血筋を守り抜くために、大坂城の地下に秘密組織が作られたのが「大阪国」の始まりであったと・・・。
その後、明治維新の際に資金不足に陥っていた当時の太政官政府が、「大阪国」を正式に国として承認する条約を「大阪国」と締結。
これにより、「大阪国」は日本国という主権国家から承認を受けているれっきとした「国」となり、条約によって大阪国の運営資金を日本の国家予算に組み込む(肩代わりする)ことになったと。
ただし、条約では「大阪国はその存在を外部に公表してはならない」とも定められており、大阪国民は普段は日本国民として暮らしている。
会計監査院の松平は、35年間で日本国政府から175億円もの補助金を受けていた財団法人OJOという団体が、公になっていない「大阪国」の隠れ蓑であることを知り、この不正を明るみにするために対決する・・・。

なんとも荒唐無稽な話ですが、俳優さんたちの真剣な演技に途中からグイグイ引き込まれ、なんとなくあってもおかしくないような気にさせられました(笑)。
とりわけ、堤真一さんと中井貴一さんは、毎度のことながら素晴らしいですね。
実にバカバカしい設定のはずなのに、この二人の真剣な演技を観ていると、なんか半ドキュメンタリー映画のように思えてくる(笑)。
でもよくよく観れば、物語の発想は壮大ですが、テーマは「親子愛」というありきたりの設定で少々がっかり。
正直言って、俳優さんたちの演技力があってこその作品・・・なんて言ったら、少々辛口でしょうか。

ただ、「大阪国」という設定はあながち的外れでもないように思います。
大阪人は日本人である前に大阪人であることに誇りを持っているところはたしかにあって、ある意味、大阪は日本のなかでも独立国的な存在であるとは思いますね。
この物語の設定も、同じ大都市でも名古屋や福岡や札幌ではなく、大阪だから成り立つ設定のような気がします。
大阪人は東京にいっても決して関西弁を捨てようとしませんし、何かにつけ東京に対してライバル心をむき出しにするのも、自分たちこそが日本の中心であるという自負からくるものだといえます(でも実際には東京が日本の中心であることは動かし難い事実で、大阪人が東京を嫌うのはコンプレックス以外の何ものでもないような気がしますけどね)。
そんな大阪人気質はいつ頃から始まったのでしょうか。
物語の設定にもあったように、徳川家と豊臣家の確執がそのまま江戸対大坂の敵対心を生み、それが400年後の現在にも残っているといった分析もありますし、実際、当時の大坂の人たちにしてみれば、豊臣家の滅亡によって関西の経済は一気に冷え込んだでしょうから、新政権の徳川幕府をスンナリ受け入れられない空気はあったでしょう。
今でも、大阪人は徳川家康が嫌いで、秀吉びいきの人が多いといいますもんね。

「大坂夏の陣」後の大坂は、一時松平忠明の領地となりましたが、豊臣残党による再決起を警戒した将軍・徳川秀忠は、まもなく大坂を直轄地としました。
直轄地にはお殿様(藩主)がいませんから、おのずとお上に対する忠誠心は薄くなります。
そんな背景もあって、大坂の民はいつまでも太閤秀吉を懐かしく思っていたかもしれません。
加えて大坂には武士が少なく、一説には、江戸時代中期の大坂の人口は、町人14万人に対して侍は900人ほどしかいなかったといいますから、街を侍が歩いている光景など殆どなかったに等しいでしょう。
一方で江戸は、参勤交代で常に地方から来た侍たちでごった返していました。
つまり、江戸は侍(エリート)のまちだったのに対して、大坂は庶民のまちだったわけです。
そうした大坂の歴史的成立過程をみても、250年以上続いた徳川政権下において大坂は明らかに異質なまちだったはずで、ある意味「大阪国」だったかもしれません。

先にも述べましたが、実際に大阪人は徳川嫌い豊臣びいきの人が多く、そんな人たちが生み出したのか、秀頼や国松、さらには淀殿の生存説が数多く存在します。
そんな話をしようと思いましたが、すでに随分と長文になってしまったので、続きはまた後日ということで・・・。

映画『プリンセス・トヨトミ 』鑑賞記 その2 ~豊臣家の不死鳥伝説~


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by sakanoueno-kumo | 2012-05-17 17:04 | 映画・小説・漫画 | Trackback | Comments(2)  

平清盛 第19話「鳥羽院の遺言」

 久寿2年(1155年)の近衛天皇(第76代天皇)の崩御後、誰も予想していなかった後白河天皇(第77代天皇)が誕生すると、藤原忠通が関白に任ぜられ、後白河帝の乳父である信西が重用され、事実上この二人が国政を掌握する。一方で、崇徳上皇(第75代天皇)の皇子・重仁親王の即位を望んでいた藤原頼長は、後白河帝の即位によって内覧を解任され、朝廷内での存在感を失いつつあった。当然のごとく、頼長は後白河帝や信西に対して強い不満を抱くようになる。

 もともと摂関家の藤原氏では、官位官職などの就任をめぐり、深刻で拭いがたい対立があった。兄・忠通と弟・頼長との主導権争いである。「日本第一の大学生」といわれた頼長は、摂関となって自ら政治を執り行うことを願っていた。そんな頼長を父である藤原忠実も偏愛し、摂関の地位を弟に譲るよう忠通にたびたび圧力をかけたが、実子の藤原基実に継がせたいと考えていた忠通はこれを拒み続けた。怒った忠実は、忠通の東三条殿の邸に家人の源為義を派遣し、摂関家累代の宝物を接収して忠通を義絶、頼長を氏長者にしてしまう。そして翌年、鳥羽法皇(第74代天皇)に懇請して頼長を「内覧」に就かせた。内覧とは天皇の決定を補佐する役で、通常は摂政関白がこの任にあたる。関白の忠通と内覧の頼長という二人の執政が並び立つ異常事態が生まれたのだった。

 しかし、そんな頼長の権力の時代は長くは続かなかった。厳しい処罰を伴う頼長の厳格な政治姿勢は多くの貴族の反感を買い、鳥羽院の寵臣・藤原家成邸の襲撃したことで鳥羽院の信任まで失うこととなる。さらには、近衛帝が眼病で早世したのは、「何者かが愛宕山の天公像(天狗像)の目に釘を打ち込み呪詛したせいだ」という風聞が飛び交い、その呪詛を行ったのが頼長だという噂を立てられる。おそらくは兄・忠通による策謀だと思われるが、この噂によってさらに頼長は鳥羽院の恨みを買い、そして後白河帝の即位に伴い、兄の忠通は関白に任じられ、頼長は内覧を解任させられた。

 「お前は、やりすぎたのだ!」
 ドラマ中、父・忠実が頼長に言った台詞だが、まさしく頼長はやりすぎた。やりすぎたことにより多くの敵を作り、そして遂には完全に失脚したのである。この失脚を操っていたのが、後白河帝の乳父・信西だった。

 信西入道こと藤原通憲は、頼長に勝るとも劣らないほど学才豊かな人物だったが、家柄が低かったため官職は少納言止まりだった。朝廷での官位官職の出世をあきらめた通憲は、出家して信西と名を改め、その学才を生かして鳥羽法皇の政治顧問となり徐々に頭角をあらわす。さらに信西は、妻が後白河帝の乳母を勤めていたことから、後白河帝を即位させ、天皇の乳父としての立場で政治の実権を握ろうと目論んだ。そしてその計画を実現した信西は、政敵となった頼長を徹底的に排除しようと画策するのである。

 同じ頃、清和源氏では源義朝の弟・源為朝(鎮西八郎)が鎮西(九州)で乱暴狼藉を繰り返し、そのせいで父の源為義は官位を剥奪されてしまう。また同じ頃、義朝の長男でわずか15歳の源義平が、同じく義朝の弟で義平からみれば叔父にあたる源義賢を攻め滅ぼし、一族を制圧してしまった。その恐るべき所業から、義平は「悪源太」と呼ばれるようになる。このとき、義賢の子でまだ2歳の幼児だった駒王丸はかろうじて逃げ延び、信濃の豪族に養育された。この駒王丸がのちに木曽義仲と名乗り、信濃の武士団を率いて立ち上がることになるのだが、それはずっと後年の話。この頃、これまた義朝の弟で源氏の総領を継ぐ存在となっていた源頼賢が、義賢討死の報復のため東国に下る途中、鳥羽院の荘園といざこざを起こしてしまい、この報を受けた鳥羽院は頼賢追討を兄の義朝に命じた。義朝がこれを受けなかったため、兄弟での争いはとりあえずは回避できたものの、もともと摂関家に仕える父・為義と、鳥羽院に接近して下野守となっていた義朝とは、一線を画す関係にあった。一族の分裂は時間の問題だったのである。

 そんな中、保元元年(1156年)7月2日、治天の君として28年間君臨した鳥羽院が崩御した。これを機に、天皇家では兄・崇徳上皇と弟・後白河天皇、藤原摂関家では兄・忠通と弟・頼長、そして源氏では父・為義と嫡男・義朝と、まさに「骨肉相食む」戦いが始まろうとしていた。


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by sakanoueno-kumo | 2012-05-15 22:43 | 平清盛 | Trackback(3) | Comments(2)  

猫ひろしさんの五輪出場消滅に思う、オリンピック精神への冒涜。

カンボジア代表としてロンドン五輪男子マラソンの出場が決まっていたタレントの猫ひろしさんでしたが、国際陸連からのダメ出しによって結局出場できなくなったそうですね。
国籍を変えてまでつかんだロンドン五輪への切符でしたが、思わぬかたちでついえることとなりました。
国際陸連のダメ出しの理由は、国籍取得後1年が経過していない場合の条件として、
 (1)連続した1年の居住実績
 (2)国際陸連理事会による特例承認

のいずれかが必要で、国籍の変更から7ヶ月ほどしか経っておらず、日本に住んでタレント活動をしている猫さんには、(1)も(2)も当てはまらず、参加資格を満たしていないという判断になったようです。
当然といえば当然の結果ですね。

彼の五輪出場が内定したとき、元メダリストの有森裕子さんが、「これが本当にいいことなのか」と苦言を呈しておられましたが、私も全くもって同じように思っていました。
五輪の出場権を得るために国籍を変える・・・そんな方法がまかり通っていいのか、と。
いってみれば、高校野球の甲子園大会出場校で、北国の代表校のレギュラーメンバーのほとんどが関西出身の選手だった・・・という、あれと同じようなもので・・・。
それでも高校野球のそれは、選手たちはその学校に在学中はその地方で暮らしているわけですが、猫さんの場合は国籍変更後も日本で暮らし、カンボジアとは縁もゆかりもないわけで・・・。
高い能力があっても、住んでいる地域(国)のレベルが高すぎるため、そこで選ばれし者となるのは困難。
ならばレベルの低い地域(国)に移住して、そこで選ばれし者となり、能力を発揮したい。
その思いはわからなくもないですが、それを許せば、アラブ諸国のような金持ち国が五輪代表選手を金で買うような事態にも発展しかねませんし(高校野球の特待生なども、いってみれば金で選手を買っているようなもの)、そんなことが当たり前になってしまえば、五輪自体の存在価値が危うくなってしまうでしょう(外国ではすでに当たり前になっているとも聞きますが)。

それに、レベルの低い地域(国)に対しても失礼なんじゃないですかね。
もし、日本のレベルが低い競技(たとえばバスケットボールとか)に、レベルの高い国(たとえばアメリカ)から大勢国籍変更してきて、日の丸背負って戦って好成績を残したとしても、日本人として素直に応援する気になるでしょうか。
この度の猫さんのカンボジア代表としての五輪出場は、カンボジア政府は後推ししていたようですが、カンボジア国民はどう思っていたのでしょうね。
私は、猫さんの行為はカンボジア国民に対する愚弄と言ってもいいように思えます。

そもそも猫さんの自己ベスト記録は、2月に別府大分毎日マラソンで記録した2時間30分26秒で、五輪参加標準B記録である2時間18分に達していなかったのですが、カンボジアにも標準記録に達した選手がいなかったため、代表に選ばれたわけです。
だから仮にロンドン五輪に出場しても、その結果は推して知るべしだったと思いますが、それでも、国籍を変えてまで参加することに意義があったのでしょうか・・・。
オリンピック規則では、その国で標準記録を超える選手がいない場合、特別に2名まで出場を認めています。
これは、出場体制の整わない途上国などの国状を考えて、できるだけ多くの国に参加してほしいという趣旨によって作られた規則です。
その趣旨から考えれば、本来カンボジアで生活する選手のための出場枠であるべきで、その規則を逆手に取り、いわば悪用して代表選手になろうとした猫さんの行為は、少々キツイ言い方をすれば、オリンピック精神への冒涜といっても過言ではないように思えます。

少しだけ彼を擁護すれば、私はアスリートとしての猫ひろしさんは批判するところではありません。
2時間30分26秒という記録が単なるタレントランナーの域を超えたレベルであることは認めますし、それが、30歳を過ぎてマラソンを始め、たかだか3年ほどで達した記録であることにも感嘆しています。
何より、練習に対するストイックさは、実業団に所属する他の日本人マラソン選手たちも敬服するところだそうで、彼の活躍は、近年低迷続きの日本男子マラソン界に一石を投じたといえるでしょう。
でも、それと今回のことは別の話。
本当に優秀な選手なら日本代表に選ばれるはずで、それが無理ならば、五輪出場なんてそもそも叶わぬ夢だったのです。
「夢」なんて言えば聞こえがいいですが、反則技を使ってまで手にしようとした「野望」といったほうがいいかもしれませんね。
で、その野望はおそらく猫さんだけの発案ではなく、それを喰い物にしようとした企画者がいたはずです(彼自身が思いついたとはとても思えません)。
さらには、その尻馬に乗っかって猫さんを煽っていたマスコミ同罪でしょう。
これまで散々彼を応援するような報道をしておきながら、手のひらを返したように猫さんの行動を批判し始める、節操のないマスコミの姿が思い浮かびます。
その意味では、動機は不純だったとはいえストイックに五輪を目指していた猫さんには、多少は同情の余地があるかもしれませんが、だからといって、これを機に日本国籍を取戻そうという安易な心づもりであるならば、決して許さざることです。
まあ、そんなことは言われなくともわかっているでしょうけどね。

とにもかくにも、この度の国際陸連の常識ある判断を評価します。


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http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120509-00000030-dal-spo

by sakanoueno-kumo | 2012-05-09 17:38 | 他スポーツ | Trackback | Comments(0)  

平清盛 第18話「誕生、後白河帝」

 久寿2年(1155年)7月23日、近衛天皇(第76代天皇)が17歳の若さで崩御した。近衛帝は鳥羽法皇(第74代天皇)の第9皇子で、生母は皇后の美福門院得子。これまで何度も紹介してきたとおり、近衛帝の兄である崇徳上皇(第75代天皇)は、鳥羽院と中宮・待賢門院璋子との間に長男として生まれながら、鳥羽院は祖父の白河法皇(第72代天皇)と璋子が密通して出来たのが崇徳院だと信じて疑わず、鳥羽院は終生、崇徳院のことを「叔父子」と呼んで忌み嫌ったと伝えられる。そのことが理由だったかどうかはわからないが、鳥羽院政下で崇徳院は23歳の若さで天皇位を無理やり退位させられ、わずか3歳の近衛帝が誕生した。崇徳院にしてみれば、天皇が弟では将来の院政は不可能であり、崇徳院にとってこの譲位は大きな遺恨となった。

 その近衛帝が崩御した。近衛帝は病気がちで、藤原頼長の日記『台記』によれば、15歳の時には一時失明の危機に陥り、退位の意思を関白・藤原忠道に告げたという。17歳での早世で、しかも病気がちだったため皇子はおらず、近衛帝の崩御は、天皇家の内紛の序章となるには想像に難しくなかった。

 当然ながら、崇徳院はわが子の重仁親王を即位させ、自身が治天の君となって院政を行うことを期待した。嫡流という点でいえば、重仁親王の即位が最も相応しいといえた。一方で、鳥羽院亡き後も権勢を保ちたいと考えていた美福門院得子は、関白・藤原忠通と組んで、鳥羽院の第4皇子・雅仁親王の第1皇子・守仁親王(のちの第78代・二条天皇)を皇位につけようと画策し、鳥羽院もそれを支持していた。しかし、それには問題があった。存命中の父が天皇を経験していないにもかかわらず、その息子が皇位についた前例がなかったのである。そこで、にわかに浮上してきたのが雅仁親王だった。

 この頃の雅仁親王は政治的な問題には一切感心を示さず、当時流行していた歌謡・今様に耽溺する日々を送っていたという。兄である崇徳院は雅仁親王のことを「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と酷評しており、また、雅仁親王の乳父だった信西(藤原通憲)でさえ、「和漢の間 比類少なき暗主なり」と、こき下ろしている。当時の朝廷内では、誰もが雅仁親王のことを「帝の器にあらず」と考えていた。そんな雅仁親王に白羽の矢が立ったのは、何としても重仁親王の即位を回避したい者たちの政治的な思惑から、いったん雅仁親王に即位させ、そのうえで守仁親王に譲位させるという、いわば中継ぎ投手的な役割での即位だった。こうして、本人さえなるはずがないと思っていた天皇、第77代・後白河天皇が誕生したのである。この皇位継承により、崇徳院が院政を行う望みは完全に絶たれたに等しかった。

 この重要な時期に、内大臣・藤原頼長が妻の服喪のため朝廷に出仕していなかったのはドラマのとおりで、皇位継承を決める王者議定にも参加していなかった。常に正論をもって臨んだ頼長は重仁親王を推していた。守仁親王を推していた兄・忠道とは対立関係にあり、一説には、近衛帝の死は頼長が呪詛したためだという噂を立てられ、職務を停止されて事実上の失脚状態となっていたともいわれる。厳しい処罰を伴う頼長の厳格な政治姿勢は、多くの敵を作り、反頼長組織を生んでいた。政治とは、正論ばかりでは行えないというのは、今も昔も変わらないようだ。

 政権から締め出された崇徳院と頼長が接近するのは時間の問題だった。


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by sakanoueno-kumo | 2012-05-07 01:46 | 平清盛 | Trackback(4) | Comments(2)